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Photo byyuno_okamoto

美しくないときも“いい”と思える力から自信は生まれる

    「もっと自信があったらな…」
    何度思っただろう。

    自信があったら、
    好きな人にアプローチできるのに
    自信があったら、
    私の話をもっと聞いてもらえるのに
    自信があったら、
    言いたいことをハッキリ言えるのに
    「自信があったら…」
    ドンドン声は小さくなる。

    そんな私でも少しずつ“自信”が見えてきた。


    そもそも“自信”ってなんだ?

    私はずっと自信のある人になりたくて、
    学級委員をやったり、
    あらゆる資格を取ったり、
    話し方を学んだり、
    人見知り克服目指して
    意識的に大勢の人と
    コミュニケーション取りに行ったりしてみた。

    それでも私の元に“自信”はやってこない。

    それでも足りないのかと
    “自信ができるセミナー”たるものも受講した。

    まだまだ“自信”は見えません。

    とにかく“足りない”から注ぎ続けた。
    そもそもその認識だから自信がないのだ。
    自信は目に見えるものでも、
    形という条件付きのものでもなかったから。


    自信に“条件”は必要ない

    私は“なにか”を手に入れて
    自信をつけようとしていました。

    子どもの頃に感じた学級委員のイメージは
    頭が良くて先生からの評価も高い
    優秀な人がやっているというもの。
    これに選ばれれば“すごい人”になれると思った。
    なるにはなれたけど…
    残念だけど、先生の評価は
    「えばっている(偉そうにしている)」で
    子どもながらに自信がつくどころか
    心がえぐられる体験だった。

    資格も国家資格から民間の資格まで
    勉強して色々持っている。
    勉強する=努力ができる自分
    に、自信が持てると思った。
    これ自体は間違えてではないのだけど
    今度はそれを活用できない自分に
    ヤキモキして自信がなくなる。
    「せっかく取っても使えない自分はダメだ」
    そんな想いが自分を少しずつ締めあげていく。

    そう!
    自信とは“条件付き”で
    身につけられるものではなかった。
    条件つきの条件は、

    • 条件の定義が変わったとき

    • 自分より条件が“上”の人をみたとき

    • 比較対象がいないとき

    に、揺らいで変化してして“なくなって”しまうから。


    自信とはどんな時でも“感じていい”ものだった

    自信と聞くと、
    いわゆる“ドヤッ”と誇れるものだと思ってしまう。
    それを目指したために、
    小学校の先生の「えばっている」評価だった。

    学級委員という肩書もさることながら、
    学級委員とは“こういうもの”という条件が
    自信の在り方そのものだったけど、
    そうじゃない学級委員がいてもいいのだ。
    (時代的に難しいところはあったけど)

    いわゆる背中で見せる
    引っ張るリーダーに囚われていると
    自信は壊滅的。
    だけど、
    私は寄り添ったり、耳を傾ける力は強いし、
    そういう人で“在りたい”
    そういう自分でいていい。
    引っ張れるリーダーでいれなくてもいい。

    資格も学ぶことが好き、
    知識が増えることが楽しい。
    役に立つこともあるし、
    使い道がないこともある。

    “条件”=美しさ なのかもしれない。
    お気に入りの服を着て
    ヘアメイクしてもらって
    “ビジュ”がいい日も
    1日パジャマでスッピンな
    何も気力が湧かない…
    美しいと感じられない時も
    『自分だと認められること』
    これが自分を信じる力が生まれる瞬間。



     
     
    “自分責め”のプロだった私がかわいく🩷賢く✨ヒロイン体質で生きていく。 ✢今日がちょっとホッとする ✢明日がちょっと優しくなる ほろ苦い毎日をスイートなご褒美時間に変える言葉をお届けします。

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