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今と相容れないもの

     私は毎日犬と散歩をする。近くに丁度良い公園があって、池の周りを一周すると大体40分くらいになる。鳥などの生き物も見れるし、季節の花も楽しめて毎日行っても飽きることはない。池の周りにはコンクリートで舗装された道と土の上を歩ける散策路とがある。土の方が木も生い茂っていてハイキングにでも来たかのように自然を楽しめるので、私達は専ら散策コースである。
     人でごった返す桜の時期が終わって梅雨に入るまでのこの時期は、気温も丁度良く、緑も濃くなって、色々な種類の花があれよあれよと咲き始めるので散歩の時間を有意義なものにしてくれる。
     朝、いつものコースを歩き始めると、そよ風がやさしく木々の葉っぱも私も犬も撫でていった。「きもちぃーね」と話しかけると、犬も目を細めて私の言っていることがわかってるみたいだ。最高に良い気分で歩みを進めていると、少し離れて前を歩いていたおじいさんが、並行している舗装路の方を時々見ているのに気づいた。目線の先には学生らしき5、6人が楽しそうにおしゃべりをしながら歩いていたから、声のする方へ自然と顔が向いたのだろう。私はおじいさんの背中を見ながら健康のために散歩されているんだな、いいね、いいね、と思っていた。
     と、次の瞬間、

    「ぶっ、ぶぶぶぶぶーぶっ、ババッ」

    「・・・・・・」

     おじいさんは目線は学生たちに定めたまま、今にも止まりそうなほど歩幅を小さくし、おしりを控えめに突き出していた。ほぼ反射的に私と犬は歩みを止めた。
     
     へい!へい!へい!へい!屁い!じいさん!横ばっか気にして自分のおしりが向いてる方向を一度もチェックしてくれないなんて!
     
     そんな心の叫びも空しく、おじいさんの後ろ姿は誰にも気づかれていないと確信しているようで、なんなら少し誇らしげに元の歩幅で歩き続けた。少し離れていたから私達には気づかなかったのかもしれない。自転車が通る音や、遠くの方でゴミ収集車が稼働しているような音もしてた。おじいさんの頭の中では公園がわりと賑やかだから、植木越しに歩いている学生たちさえ抑えられればいけると思ったのだろうか。残念ながらその音はこの空間にはあまりにも異質で、周囲の音にかき消されるどころか、まるでそこだけ切り取られたみたいにぷかぷか浮いて私の耳まで運ばれてきてしまった。今この瞬間とは全く相容れることのない音だった。
     私はといえば、そのことに少し感動すら覚えつつ、踵を返していつもと違うルートへ向かう。犬も抵抗せずについてきてくれた。「空気の読める良い子ね」と呟いてすぐに、読んだんじゃなくて匂ったのかもなと思った。

     梅雨の気配を感じ始めるようになった頃、用事があって出かけた帰り道、私は電車に座っていた。座席は半分以上埋まっていて、立っている人は一人くらいだった。少し疲れていた私は眼鏡をかけて本を読んだり携帯の画面を見る気にはなれず、ただボーっとしていた。
     車掌さんのアナウンスが流れて、次の停車駅やどちら側のドアが開くなどお知らせをして、こう付け足した。

     「紫陽花が見頃を迎えています。よろしければ窓の外をご覧ください」

     私は「へ~」とちょっと嬉しくなって窓の外に目を向けた。あっという間に通り過ぎてしまったが、そこにはまん丸ふわふわの紫陽花が連なっていて私の目と心を癒してくれた。
     粋な車掌さんだなとありがたく感じていると、自分の若かりし会社員の頃をふと思い出した。電車にも憂鬱にも揺られて会社へ向かっていたある朝、満開の桜並木が目の前に飛び込んできて「わぁ」と思わず心も顔も一瞬にして晴れたこと。隣に立っていたサラリーマンにも同じことが起こっていたようで、彼もまた思わず身を乗り出していた。言葉こそ交わさなかったが、同じ感じを共有したのを覚えている。
     桜の圧倒的な存在が私を今という瞬間に引き戻してくれた。毎朝通っていたはずなのに満開になるまで気づけなかった。あの時、私の意識はどこに行っていたのだろう。鬱々と頭の中で過去や未来を彷徨っていたのだろうか。いずれにせよ、それは今という瞬間とは相容れないもの、とそこまで考えて、それじゃおじいさんのおならと同等だなと思って少し笑った。
     にやけた顔をなんとなくごまかしながら、紫陽花の雰囲気も誰かと共有できるかと車内を見回してみたが、目についた人は手にした携帯に夢中で耳にはイヤホンをしていた。
     自分の駅について見慣れた街を歩き出した。夕暮れ時の空気を深く吸い込みながら、私はなるべく今に溶け込んだものでいたいなと思った。
     


     


     
     

    とも

     
     
    アメリカ人の夫と保護犬と暮らす 都内在住、昭和生まれ 自分の感性を通してみた世界を綴っていきます。

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