
【お仕事小説】あなたに、ぴったりの一台を
創作大賞2026受賞に向けて執筆しました。ぜひ最後まで読んでみてください。
東京・恵比寿のE-Bikeショールーム「MOVE.TOKYO」。前職の旅行代理店をたたまれ、半年の宙ぶらりんを経て流れ着いた蓮見千尋は、三十万円を超える電動自転車を売る仕事に、どうしても意味を見いだせずにいた。自転車なんて、安いもので十分ではないか。そう思いながら接客する彼女のもとへ、試乗予約の客たちが次々とやってくる。眠れない外科医、走ることを忘れた経営者、教え子に手を伸ばせずにいる中学教師、そして遠い街で立ち往生した一人の男。彼らがペダルを踏み込む瞬間に立ち会ううち、千尋は気づいていく。一台の自転車は、ただの移動手段ではない。誰かの「あたりまえの毎日」を、静かに、けれど確かに変えていくのだと。日本発のE-Bike「MOVE」と、それを全国で支える整備の手。働くこと、誰かの日常に寄り添うことの意味を描く、連作短編。
序章 恵比寿、午後三時
恵比寿の駅から、なだらかな坂をのぼっていく。 ガーデンプレイスへ向かう人波から少し外れた一本裏の通りに、その店はあった。
ガラス張りの間口。白を基調にした、自転車屋らしからぬ静けさ。 店の名は「MOVE.TOKYO」という。
蓮見千尋がここで働きはじめて、ちょうど二か月になる。
「いらっしゃいませ」 午後三時、ドアベルが鳴るたびに口にするその言葉も、ようやく自分の声に馴染んできた。けれど、馴染んできたのは声だけで、千尋はまだ、この仕事そのものには馴染めずにいた。
店内には、六台の自転車が等間隔に並んでいる。 どれも、千尋がそれまで思い描いていた「自転車」とはまるで違った。
太いタイヤ。マットな質感のフレーム。ハンドルの中央には小さな液晶のメーターが埋め込まれていて、バッテリーは座席の下のフレームにすっきりと収まっている。電動アシスト自転車、と聞いて多くの人が思い浮かべる、前カゴに子どもを乗せたあの実用一辺倒の姿は、ここにはどこにもなかった。
E-Bike、というらしい。 スポーツやライフスタイルとしての、電動アシスト自転車。
そして、値札を見て千尋は最初、二度見をした。 MOVE Sが二十九万八千円。MOVE XSが三十五万八千円。MOVE Xにいたっては、三十八万六千円。 自転車が、である。
「高いと思ってるでしょう」 背後から声がして、千尋は飛び上がりそうになった。店長の真壁健吾だった。四十二歳。自転車メーカーの開発部にいたという経歴の持ち主で、いつも穏やかな目をしている。
「……いえ、そんな」 「顔に書いてあるよ。蓮見さんが入ってきた初日からずっと」
千尋は観念して、小さく頭を下げた。 「正直、わからないんです。電動自転車なら、ホームセンターで十万円もしないものが買えますよね。それなのに、どうしてこれが売れるのか」
真壁は怒らなかった。むしろ、嬉しそうにすら見えた。 「それでいいんだ。わからないまま、まずはお客さんを見ていればいい。そのうちわかる。……いや、わかってもらえるように、僕らが伝えるのが仕事なんだけどね」
店の奥では、整備士の黒木達夫が、一台のMOVE Xを台に載せて何かをしていた。五十四歳。寡黙な人で、千尋はまだ十回も口をきいていない。けれど黒木が工具を握っているときの背中には、近寄りがたいほどの集中があった。
千尋がこの仕事に就いたのは、強い志があったからではない。 新卒で入った旅行代理店は、ある年の春、千尋の働いていた店舗をたたんだ。世の中が大きく変わって、人が旅をしなくなった時期だった。本社への異動を打診されたが、満員電車に揺られて見知らぬ部署に通う未来を思うと、どうしても足が動かなかった。
退職して、半年。 貯金を切り崩しながら、千尋は何者にもなれずにいた。 求人サイトで「恵比寿 接客 経験者歓迎」と検索して、たまたま出てきたのがこの店だった。自転車のことなど何も知らなかったけれど、面接で真壁は、千尋の前職の話を長く聞いてくれた。
「旅行の仕事をしてたなら、向いてるよ」と真壁は言った。 「どうしてですか」 「うちが売ってるのも、結局は移動だから。人を、いつもの場所から、少しだけ遠くへ運ぶ仕事だ」
そのときはよくわからなかった。今も、正直わからない。 ただ、断る理由もなかった。それで、千尋はここにいる。
その日の最後の試乗予約は、午後四時に入っていた。 予約表には、こう書かれていた。
『沢渡諒 様 四十一歳 ご職業:医師 ご検討車種:MOVE X ご来店動機:通勤用に』
「医者か」と真壁がつぶやいた。「最近、多いんだ。お医者さんとか、会社を経営してる人とか。時間に追われてる人ほど、うちの自転車に興味を持つ」 「お金に余裕があるからじゃなくて?」 「それもあるだろうけどね」真壁は笑った。「でも、たぶん、それだけじゃない」
四時五分前。ドアベルが鳴った。 スーツ姿の男が、疲れた顔で立っていた。
第1章 走れない医者
沢渡諒は、自分がいつから疲れているのか、もう思い出せなかった。
大学病院の消化器外科。週に三度は手術台に立ち、夜は当直、明けても外来。研修医のころに思い描いていた「人を助ける仕事」の輪郭は、いつのまにか膨大な事務作業と会議と電子カルテの入力に塗りつぶされて、見えなくなっていた。
四十一歳。離婚して三年。 都心のマンションから病院までは、タクシーか、地下鉄を二本乗り継いで二十五分。どちらに乗っても、彼はスマートフォンの画面を見ているだけで、外の景色を覚えていなかった。
「移動の時間が、人生のなかでいちばん無駄だ」 そう思っていた沢渡が、なぜこの店の前に立っているのか。 理由は、ひどく単純だった。先週、健康診断で引っかかったのだ。運動不足。よりにもよって医者が。 ジムは続かない自信があった。ランニングも、膝が持たない。それで、なんとなく検索しているうちに、この店にたどり着いた。自転車なら、通勤のついでに運動になる。
「いらっしゃいませ。沢渡様、お待ちしておりました」 出迎えたのは、若い女性のスタッフだった。蓮見、という名札をつけている。緊張しているのが伝わってくる、ぎこちない笑顔だった。
「ご検討は、MOVE Xでしたね」 「ええと、はい。いちばん上のやつで合ってますか」 「はい。MOVEのなかでも、いちばんパワフルなモデルです」
蓮見が手のひらで示したのは、ひときわ存在感のある一台だった。 黒く、太いタイヤ。二十四インチで、幅は四インチもあるという。フレームは厚く、けれど無骨ではなく、どこか洗練されている。
「あの」と沢渡は言った。「これ、こんなに高いタイヤで、坂とか大丈夫なんですか。僕、運動不足で来てるくらいなんで」 「それは……」蓮見は一瞬、言葉に詰まった。「すみません、私もまだ詳しくなくて。店長を」
奥から、年配の整備士が出てきた。黒木、と名乗った。 「乗ってみるのが、いちばん早いです」と黒木は言った。それだけだった。
ヘルメットを渡され、沢渡は店の外に出た。 恵比寿の裏通りは、ちょうど客足の途切れた時間で、静かだった。
「電源はここです」黒木が、ハンドルの液晶を指でなぞった。「アシストは三段階。最初は真ん中で。漕ぎ出すと、すぐにわかります」
サドルにまたがる。思っていたより、ずっと姿勢が楽だった。 ペダルに足を乗せ、軽く踏み込む。
その瞬間、沢渡は声を上げそうになった。
ぐっ、と背中を押されるような感覚。けれど乱暴ではない。自分の脚の力に、誰かがそっと手を添えてくれているような、なめらかな加速だった。太いタイヤは路面の段差をやわらかく吸収して、まるで地面の上を少しだけ浮いているようだった。
裏通りを抜けて、ゆるい上り坂にさしかかる。 いつもなら、タクシーの窓から「面倒な坂だ」と眺めるだけの坂。 沢渡は、ほとんど力を入れていないのに、すいすいとそれをのぼっていた。
坂の上で、彼は思わずブレーキを握った。油圧式だという、そのブレーキは、指先のわずかな力にすっと応えた。 振り返ると、坂の下に小さく店が見える。その向こうに、夕方の街が広がっていた。
沢渡は、自分が笑っていることに気づいた。 いつぶりだろう。声を出して笑ったのは。
戻ってきた沢渡の顔を見て、蓮見が驚いたように目を見開いた。 「お、お顔の色が、行く前と全然」 「そうですか」沢渡はヘルメットを脱ぎながら言った。「……いや、参ったな。たかが自転車で」
その夜、沢渡はめずらしく寝つきがよかった。 彼が契約書にサインしたのは、その三日後のことだった。
「通勤に使います」とサインのあとで沢渡は言った。「地下鉄で二十五分のところを、たぶん同じくらいの時間で着く。でも、たぶん全然ちがう二十五分になる気がするんです」
「ありがとうございます」と蓮見は頭を下げた。 頭を下げながら、彼女は少しだけ、不思議な気持ちになっていた。
この人は、自転車を買ったのではない。 通勤の二十五分を、買ったのだ。 無駄だと思っていた時間を、もう一度、自分のものに取り戻すために。
沢渡が店を出ていったあと、真壁が千尋の隣に立った。 「いい顔してたね、お客さん」 「……はい」 「ああいうのを見られるのが、この仕事のいいところだよ」
千尋は黙って、沢渡の去っていったほうを見ていた。 わからない、とまだ思っていた。けれど、わからないなりに、何かが少しだけ動いた気がした。
その「何か」が何なのか、千尋がはっきりと言葉にできるようになるのは、もう少しあとのことだ。
第2章 社長の回り道
古賀健一は、立ち止まることが下手な男だった。
二十八歳で会社を立ち上げ、十年。社員は気づけば六十人を超えていた。Webの受託開発からはじめた会社は、いまや自社サービスをいくつも抱え、古賀の一日は分刻みのスケジュールで埋まっていた。
移動は、ほとんど車だった。 運転手付きのセダンの後部座席で、彼はいつもノートパソコンを開いていた。窓の外を見ることはなかった。見る必要を感じなかった。 速く、効率よく、無駄なく。それが古賀の信条であり、会社をここまで大きくしてきた理由でもあった。
その彼が、休日の昼下がりに、七歳の娘の手を引いて恵比寿の小さな自転車屋に立っている。 我ながら、らしくない、と古賀は思った。
きっかけは、娘のひなただった。 「パパ、自転車のれる?」 ある日曜の朝、補助輪の取れたばかりの自転車にまたがって、ひなたが言った。 「公園で、よその子はみんなパパとじてんしゃするの。うちのパパは、できない?」
できない、わけではなかった。 ただ、古賀には自分の自転車がなかった。子どものころに乗って以来、二十年以上、ペダルを踏んでいなかった。そして何より、彼には、娘と並んで走る休日の時間そのものが、なかった。
「いらっしゃいませ」 店に入ると、若いスタッフが出迎えた。蓮見、という名札。 「ご予約の古賀様ですね。本日は、お子様もご一緒で」 「ええ。この子が、自転車に乗りたいって言うもので。私も、何か買おうかと」
蓮見は、ひなたの目線までしゃがんで「こんにちは」と笑いかけた。ひなたは古賀の脚の後ろに半分隠れながら、それでも小さく手を振った。
「ご検討の車種は、お決まりですか」 「いや、それが」古賀は頭をかいた。「正直、自転車のことはさっぱりで。ただ、うちは駐輪場が狭くて。普通の自転車を置く場所がないんです」
「でしたら」と蓮見は一台の前に古賀を案内した。「こちらのMOVE XSはいかがでしょう。折りたためるんです」
「折りたためる?」 「はい。フレームの真ん中で、こう」 蓮見が、見慣れた手つきでレバーを操作すると、自転車は半分に折りたたまれた。さっきまで堂々と立っていた一台が、すっと小さくなる。
「これなら、玄関にも置けますし、車のトランクにも積めます」 古賀の目の色が、わずかに変わった。 「……車に、積める」
それは、彼にとって決定的な言葉だった。
週末、家族で車に乗って郊外へ出る。これまで何度も計画して、何度も流れた予定だった。古賀の仕事が入り、ひなたは留守番。そんなことを、何度くりかえしただろう。 けれど、後ろに折りたたんだ自転車を積んでおけたなら。 着いた先で、娘と並んで走れるなら。
「乗ってみても?」 「もちろんです」
店の前で、古賀はぎこちなくサドルにまたがった。二十年ぶりのペダル。倒れるんじゃないかと身構えたが、漕ぎ出した瞬間、その心配は消えた。
軽い。 体が前に運ばれていく。坂道でも、息が上がらない。 ハンドルを握る手のひらに、ひさしぶりに感じる風があった。
「パパ、はやい!」 店の前から、ひなたが両手を振っていた。 古賀は、ゆっくりとUターンして、娘のところへ戻った。少しだけ、得意げな顔で。
「これ、ひなたと一緒に走れるかな」と古賀は蓮見に聞いた。 「お子様用のヘルメットも、こちらでお選びいただけます」と蓮見は答えた。「最初は、近くの公園からでも」
古賀がその場で契約を決めたのを見て、千尋は内心、少し驚いていた。 これほど忙しそうな人が、と思う。けれど契約書に向かう古賀の横顔は、商談を決めるときの彼ではなく、休日の予定を立てる父親のそれだった。
「うちの会社、効率ばかり追いかけてきたんですよ」 ペンを置いて、古賀がぽつりと言った。 「最短距離で、最速で。回り道は悪だと思ってた。でも、こいつは……」彼は折りたたんだ自転車をちらりと見た。「思いきり、回り道をするための道具ですよね」
「回り道、ですか」 「車なら五分の距離を、わざわざ三十分かけて走る。意味なんてない。けど、その意味のなさが、たぶん、必要だったんだ」
帰りぎわ、ひなたが千尋のところへ駆け寄ってきた。 「おねえちゃん、ありがとう」 「どういたしまして」 「パパとじてんしゃ、するの。やくそくしたの」
その小さな手のぬくもりを、千尋はしばらく忘れられなかった。
ひなたと古賀が手をつないで坂を下りていくのを、千尋は店の前で見送った。 父親のもう片方の手には、折りたたまれた一台が、軽々とぶら下がっていた。
「移動を売る仕事だ、って店長が言ってた意味が」と千尋は隣の真壁に言った。「少し、わかってきた気がします」 「ほう」 「あの人は、自転車を買ったんじゃなくて……娘さんと走る休日を、買ったんですよね」
真壁は答えなかった。ただ、満足そうにうなずいた。
第3章 先生の自転車
西野浩平が担任を受け持つクラスに、海斗という生徒がいた。
中学二年生。二学期に入ってから、海斗はだんだんと学校を休むようになっていた。最初は週に一日。それが二日になり、三日になった。 理由を、海斗は話さなかった。家庭訪問をしても、玄関先で母親が困ったように頭を下げるばかりで、海斗本人は自分の部屋から出てこなかった。
二十九歳。教師になって七年目。 西野は、自分が無力だと感じていた。教科書の内容なら、いくらでも教えられる。けれど、一人の子どもがゆっくりと教室から遠ざかっていくのを、どう引き止めればいいのか、誰も教えてくれなかった。
その西野が、なぜ恵比寿の自転車屋にいるのか。 それは、まったく個人的な理由からだった。
学校までの通勤に、いつも使っていたママチャリが、とうとう寿命を迎えたのだ。 新しい自転車を、と探しているうちに、同僚に勧められたのがこの店だった。「ちょっと高いけど、いいぞ」と。教師の給料で三十万円の自転車は、正直、贅沢だと思った。けれど、毎日のことだから、と西野は試乗の予約を入れた。
「いらっしゃいませ。西野様ですね」 蓮見というスタッフが出迎えた。 「ご検討は、MOVE Sでしたね。MOVEのなかでも、いちばん小回りがきいて、軽いモデルです」
西野が試乗したのは、ほっそりとしたシルエットの一台だった。 タイヤは細く、車体も軽い。バッテリーを抜けば、二十キロを切るという。
走り出してみて、西野はその静けさに驚いた。 モーターの音はほとんどなく、ただ、自分の脚の力が何倍にもなって体を運んでいく。坂の多い通学路を、これなら汗だくにならずに通える。
「これ、いいですね」と西野は素直に言った。「毎朝の十五分が、楽になりそうだ」 「最大で八十キロ走れますから、週末は遠出もできますよ」と蓮見が言った。
契約を決めて、納車の日。 自分の自転車を受け取った西野は、その帰り道、ふと思い立って、いつもとは違う道を走った。 海斗の家の、近くを通る道だった。
家庭訪問とは違う。ただ、通り過ぎるだけのつもりだった。 けれど、海斗の家の前にさしかかったとき、西野は思わずブレーキを握った。
道端に、一台の自転車が放置されていた。 タイヤがぺしゃんこにつぶれ、サドルには埃が積もっている。見覚えがあった。海斗が小学生のころから乗っていた、あの自転車だ。
ちょうどそのとき、家の二階の窓から、海斗がこちらを見ていた。 目が合った。 西野はとっさに、自分の新しい自転車を指さして、笑ってみせた。
数日後。 西野のスマートフォンに、海斗の母親からメッセージが届いた。 『先生、あの自転車、何ですか? 海斗が、すごく気にしていて』
西野は、海斗の家を訪ねた。今度は、玄関先ではなかった。 母親に通されて、はじめて海斗の部屋に上がった。海斗は、ベッドの端に座って、うつむいていた。
「これ、新しい自転車なんだ」と西野は言った。窓の外に停めた一台を指さして。「電動でさ、坂もぜんぜん平気なんだ」 海斗は、ちらりと窓の外を見た。 「……かっこいい」 それが、ひさしぶりに海斗が西野に向けた、最初の言葉だった。
「乗ってみるか?」 海斗は、すぐには答えなかった。けれど、しばらくして、小さくうなずいた。
その週末、西野は海斗を誘って、川沿いの道を走った。 海斗は、玄関先でしぼんでいた自転車のタイヤに空気を入れ、おそるおそる外に出てきた。西野の電動アシスト自転車に、海斗の普通の自転車。二人は並んで、ゆっくりとペダルを踏んだ。
川風が気持ちよかった。 海斗は、最初は黙っていた。けれど、橋の上で休んだとき、ぽつりと言った。 「学校、こわいんです」 「うん」 「教室に入ると、息ができなくなる」 「うん」 西野は、それ以上、何も言わなかった。ただ、海斗の隣で、川の流れを見ていた。
「でも、こうやって走ってると、息ができる気がする」 「そうか」と西野は言った。「じゃあ、また走ろう。学校じゃなくていい。まずは、ここからだ」
その話を、西野はずっとあとになって、ふらりと立ち寄った店で蓮見に語った。 海斗が、少しずつ、まず保健室から学校に通えるようになったこと。自転車が、二人をつないでくれたこと。
「あの自転車がなかったら、僕はたぶん、あの子に手を伸ばせなかった」と西野は言った。「教師なのに、情けない話ですけどね」
千尋は、首を横に振った。 「自転車が、伸ばしてくれたんじゃないと思います」 「え?」 「先生が、いつもと違う道を走ろうって思った。それが、はじまりだったんじゃないでしょうか」
西野は、少し驚いたように千尋を見た。それから、ゆっくりと微笑んだ。 「そうかもしれませんね」
西野が帰ったあと、千尋はカウンターで、しばらくぼんやりしていた。 自転車は、ただの道具だ。けれど、その道具が、人を、いつもと違う道へ連れ出すことがある。 そして、いつもと違う道の先に、これまで手の届かなかった誰かが、待っていることがある。
「うちが売ってるのは、移動だから」 真壁の言葉が、今度ははっきりと、千尋の胸に落ちた。
第4章 遠い街のパンク
その電話がかかってきたのは、土曜日の夕方だった。
千尋がカウンターで在庫の確認をしていると、店の電話が鳴った。受話器を取ると、聞き覚えのある声がした。少し慌てた、けれどどこか申し訳なさそうな声。
「あの、MOVE.TOKYOさんですか。沢渡といいます。前に、MOVE Xを買った」 「沢渡様! お世話になっております」 最初の客だった、あの外科医だ。あれから半年。沢渡は時々、メンテナンスに顔を出してくれていた。来るたびに、少しずつ顔色がよくなっていくのが、千尋にはわかった。
「実は、いま広島にいるんです」と沢渡は言った。「学会で。自転車を、輪行袋に入れて持ってきたんですよ。せっかくだから、空き時間に走ろうと思って」 「広島まで、MOVEを」 「ええ。折りたためるから、ってあなたが言ってたでしょう。それで……走ってる途中で、後輪がパンクしてしまって。それだけならまだいいんですが、どうも、ホイールごとおかしいみたいで。ここからじゃ、東京まで持って帰る自信もなくて」
電話の向こうで、沢渡が困り果てているのが伝わってきた。 旅先で、自転車が動かなくなる。それは、自分の脚を奪われるようなものだ。
千尋は一瞬、どう答えればいいのかわからなかった。 広島は、遠い。ここで自分にできることなど、何もないように思えた。
「少々お待ちください」 保留にして、千尋は奥の整備場へ駆け込んだ。 「黒木さん!」 台の前で工具を握っていた黒木が、顔を上げた。 「お客様が、広島で。沢渡様です。後輪がパンクして、ホイールも壊れたみたいで、どうしたらいいか」
黒木は、工具を置いた。 「広島なら、提携店がある」 「え?」 「呉に一軒、市内に二軒。土曜の夕方なら、市内の店はまだ開いてるはずだ」 そう言いながら、黒木はもう、棚から分厚いファイルを取り出していた。全国の提携整備店の連絡先が、地域ごとに整理されている。
「うちが扱ってるのは、海外発のブランドとは違う」と黒木は、ファイルをめくりながら言った。寡黙な彼にしては、めずらしく長い言葉だった。「海外製の電動自転車は、一度壊れると、なかなか直せない。パーツの取り寄せに何か月もかかったり、そもそも見てくれる店がなかったりする。だから、買うときに、みんな不安になる」
「はい」 「だが、うちは日本のブランドだ。全国に百四十を超える提携店がある。札幌でも、大阪でも、広島でも。買ったあとの安心まで、ぜんぶ込みで売ってる。だから、あの値段なんだ」
千尋は、はっとした。 ずっとわからなかった、あの値段の意味が。 三十万円のなかには、自転車そのものだけではなく、この国のどこで止まっても、誰かが直しに来てくれるという、見えない約束が含まれていたのだ。
黒木は、保留の電話を取った。 「沢渡さん、黒木です。いま、現在地を教えてください。……はい。そこなら、いちばん近い提携店は、自転車で十分かかりません。地図を送ります。店には、私からも連絡を入れておきます。後輪のホイール交換なら、向こうに在庫があるはずだ。なければ、明日の朝いちばんで、私が部品を手配して送ります。学会は、いつまでですか。……明後日? なら、間に合います」
電話を切った黒木の横顔を、千尋はじっと見ていた。 それは、いつも工具を握っているときの、あの集中した背中と、同じものだった。 直すのは、自転車だけではない。旅先で立ち往生した人の、不安そのものを直しているのだ。
その夜、千尋のスマートフォンに、沢渡からメッセージが届いた。 店の代表アドレスに送られてきたものを、真壁が転送してくれたのだった。
『黒木さんに教わった店に行ったら、すぐに直してもらえました。店の人が「MOVEさんとは長い付き合いなんですよ」と笑っていました。明日、直った自転車で、宮島まで走ってみます。海沿いを。こんなに遠くまで来て、自分の自転車で走れるなんて、思ってもみませんでした。本当に、ありがとう』
千尋は、そのメッセージを何度も読み返した。
翌週、出張から戻った沢渡が、店に顔を出した。 日に焼けて、半年前よりもさらに健やかな顔になっていた。彼は、宮島の海沿いを走ったときの写真を、嬉しそうに千尋に見せた。鳥居をバックに、太いタイヤの一台が、誇らしげに立っていた。
「先生」と千尋は言った。「お顔、最初に来られたときと、別人みたいです」 「でしょう」と沢渡は笑った。「患者にもよく言われますよ。なんだか最近、機嫌がいいですねって」
沢渡が帰ったあと、黒木がぽつりと言った。 「自転車ってのはな」 工具を磨きながら、彼は千尋に背を向けたまま続けた。 「乗ってる人と一緒に、年をとっていくんだ。タイヤも、チェーンも、少しずつへたる。だから、直す。直して、また走れるようにする。乗ってる人が、これからも、いろんなところへ行けるように」
「黒木さんは」と千尋は聞いた。「どうして、整備士になったんですか」 黒木は、しばらく黙っていた。 「昔な、自分の自転車で、日本中を走ったことがある」とだけ、彼は言った。「あのとき、行く先々で、知らない店の親父に助けてもらった。パンクを直してもらったり、飯を食わせてもらったり。だから、今度は俺が、誰かのそういう人になりたかった」
千尋は、その背中を、しばらく見ていた。 この店で働く意味を、また一つ、教わった気がした。
第5章 定年の翌日
青柳信夫が会社を辞めたのは、六十三歳の春だった。
大手商社で、四十年。世界中を飛び回り、いくつもの大きな仕事をまとめてきた。退職の日、花束を抱えて会社を出たとき、青柳は誇らしさよりも、ぽっかりとした空白を感じていた。
これから、何をすればいいのだろう。 妻には先立たれ、子どもたちはそれぞれ家庭を持って独立している。退職金も、年金も、不自由はない。けれど、時間だけが、急に、持て余すほどあった。
会社という名の、巨大な乗り物から降りた翌日。 青柳は、自宅の近所を、ただ歩いた。歩いて、何十年も通り過ぎるだけだった近所に、こんなに小さな川が流れていたのかと、はじめて気づいた。
「何か、新しいことを」 そう思って、青柳が向かったのが、孫に教わったこの店だった。 大学生の孫が、「じいちゃん、いまE-Bikeってのが流行ってるんだよ。じいちゃんみたいに元気な年寄りが乗ってる」と笑ったのだ。年寄り、という言葉に、青柳は少しだけむっとして、けれど、その「元気な」のほうを、信じてみようと思った。
「いらっしゃいませ」 店に入ると、若いスタッフが迎えた。蓮見、という名札。 「ご予約の青柳様ですね。本日は、どのような自転車をお探しでしょう」
「いやあ」と青柳は照れたように笑った。「正直、自分でもよくわからんのです。仕事を辞めたばかりでね。何か、これから先、夢中になれるものを探していて。孫に、ここを勧められたんですよ」
蓮見は、少し考えてから言った。 「青柳様は、これからどんなふうに過ごしたい、というご希望はありますか」 青柳は、その問いに、ふと足を止めた。 これまでの面接でも、商談でも、こんなことを聞かれたことはなかった。いつも問われるのは、何ができるか、何を成したか、だった。何をしたいか、ではなく。
「……遠くへ、行ってみたいですね」と青柳は言った。「現役のころは、仕事でばかり遠くへ行った。今度は、自分の好きなように、どこまでも」
蓮見の目が、ぱっと輝いた。 「でしたら、ぜひこちらを」 彼女が案内したのは、店の奥にある、一台だった。ひときわ大きく、力強いシルエット。タイヤは二十六インチで、幅は四インチ。フレームには、限定モデルを示す、特別な刻印があった。
「MOVE XGです。MOVEのなかでも、いちばんパワフルな、限定のモデルです。長い距離も、急な坂も、これなら不安なく走れます。遠くへ行きたいという青柳様に、ぴったりだと思います」
「私のような年寄りに、こんなパワフルなものを?」 「年齢は、関係ありません」と蓮見は、きっぱりと言った。「アシストがありますから、脚の力に自信がなくても大丈夫です。むしろ、これまで体力を理由に諦めていた場所にも、これなら行けます」
青柳は、その一台に乗ってみた。 漕ぎ出した瞬間の、あの力強い加速。四十年、座席に座って運ばれるばかりだった彼の体が、自分自身の力で、いや、自分の力と、機械の力をあわせて、前へ進んでいく。
恵比寿の坂を、青柳はのぼった。 息は、まったく上がらなかった。むしろ、頬に当たる風が、心地よかった。 坂の上で、彼は街を見下ろした。何十年も働いてきた、この東京の街を。座席の窓からではなく、自分の足で立って、見た。
「これは……」と青柳はつぶやいた。「自由だ」
契約を決めたあと、青柳は蓮見に言った。 「実はね、退職してから、毎朝、目が覚めると、少し怖かったんです。今日も、何もすることがないんじゃないかと」 「……はい」 「でも、これがあれば、毎朝、どこへ行こうかと考えられる。それだけで、起きる理由になる」
青柳は、納車されたMOVE XGで、まず日本各地を巡る計画を立てた。 ひと月後、彼は店に一枚の絵はがきを送ってきた。消印は、長野だった。
『信州の高原を走っています。空が近い。会社にいたころには、見えなかった景色です。蓮見さん、あなたが「何をしたいか」と聞いてくれたおかげです。私はまだ、これからいくらでも、遠くへ行けるようです』
千尋は、その絵はがきを、店のコルクボードに貼った。 沢渡の宮島の写真の、隣に。
「コレクションが増えてきたね」と真壁が言った。 「はい」と千尋は答えた。「みなさん、遠くへ行かれます」
「蓮見さんが、行かせてあげてるんだよ」 「私は、何も」 「いや」真壁は首を振った。「お客さんが本当にしたいことを、聞いてあげてる。それが、いちばん難しいことなんだ」
千尋は、コルクボードの写真を、しばらく眺めていた。 旅行代理店で働いていたころ、自分は何を売っていたのだろう、とふと思った。 パンフレットに並んだ、行き先と値段。けれど、あのころの自分も、本当は、お客さんの「行きたい」を聞いていたかったのかもしれない。 店が閉まって、それができなくなって、自分は何者でもなくなった気がしていた。 けれど、本当にそうだろうか。
「店長」と千尋は言った。「私、この仕事、好きかもしれません」 真壁は、何も言わずに、ただ笑った。
第6章 偽物の値段
その客は、最初から、どこか怒っているように見えた。
桂木奈緒。三十五歳。外資系のIT企業で、マネージャーをしているという。仕立てのいいジャケットを着て、てきぱきとした話し方をする女性だった。 予約の電話の段階から、彼女はやや不機嫌そうだった。そして来店するなり、こう切り出した。
「おたくのサイト、おかしくないですか」 「と、おっしゃいますと」千尋は身構えた。 「MOVE Xが、十五万円で売ってるサイトがあったんですよ。公式の半額以下。それで注文したのに、いつまでたっても届かない。問い合わせても返事がない。クレジットカードの明細だけ、しっかり引き落とされてて」
千尋の背筋が、すっと冷たくなった。 「そのサイトの、アドレスを見せていただけますか」
桂木がスマートフォンを差し出した。 画面に表示されたサイトは、一見すると、MOVEの公式サイトとそっくりだった。同じロゴ、同じ商品写真。けれど、よく見ると、アドレスがほんの少し違っていた。文字が一つ、入れ替わっている。
「……これは、当社のサイトではありません」と千尋は、できるだけ落ち着いて言った。「フィッシングサイトです。当社の写真やロゴを無断で使って、本物そっくりに作られた、偽のサイトです」
桂木の顔から、すっと血の気が引いた。 「偽……?」 「申し訳ありません。当社でも注意を呼びかけているのですが、こうした詐欺サイトが、後を絶たなくて。公式以外で、製品が大幅に割引されることは、ありません」
桂木は、しばらく言葉を失っていた。 それから、絞り出すように言った。 「私、こういうの、絶対に引っかからないと思ってたんです。仕事柄、ITには詳しいつもりだったし。……でも、安いと思ったら、つい」
「お気持ち、わかります」 「半額ですよ。半額。冷静に考えれば、おかしいって、わかりそうなものなのに」
千尋は、奥にいた真壁を呼んだ。 真壁は、被害の状況を丁寧に聞き取り、消費生活センターやカード会社への連絡の手順を、一つずつ桂木に説明した。すぐに公式サイトでも改めて注意喚起を出すこと、警察にも情報を共有していることを伝えた。
「本当に、ご迷惑をおかけして」と真壁は深く頭を下げた。 「いえ……おたくが悪いわけじゃ」桂木は首を振った。「むしろ、こうして親身に教えてもらえて。正直、来る前は、おたくも詐欺の仲間なんじゃないかって、疑ってたんですよ」
帰りぎわ、桂木はふと、店に並んだ本物のMOVE Xの前で足を止めた。 偽のサイトで、十五万円で買おうとした、その一台。 本物は、三十八万六千円の値札をつけて、静かに立っていた。
「……ねえ」と桂木は言った。「これ、どうして、こんなに高いんですか」 それは、二か月前の千尋自身が、何度も心のなかで繰り返した問いだった。
千尋は、まっすぐに桂木を見て、答えた。 「この値段には、自転車そのものの値段だけじゃなくて、もう一つ、含まれているものがあるんです」 「もう一つ?」 「安心です。日本全国に、百四十を超える提携の整備店があります。万が一、旅先で壊れても、出張で修理に来てくれるエリアもあります。買ったあと、何年も乗りつづけられるように、ずっと支える人たちがいる。その安心ぜんぶで、この値段なんです」
千尋は、続けた。 「偽のサイトの十五万円は、たしかに安い。でも、その先には、何もないんです。届かないか、届いても、誰も直してくれない。安いものには、安いなりの理由がある。本物の値段には、本物の理由がある。私、ここで働くまで、それがわからなかったんです」
桂木は、じっと千尋の話を聞いていた。 それから、少しだけ、笑った。さっきまでの不機嫌が、すっかり消えた顔だった。
「あなた、いい売り方しますね」 「……すみません、つい」 「いえ、ほめてるんですよ」桂木は言った。「私の仕事は、売るほうの仕事です。だから、わかる。あなたの言葉には、嘘がない。本当にそう思って言ってるのが、伝わってくる」
桂木は、その日は何も買わずに帰った。 けれど、三週間後。彼女はもう一度、店にやってきた。今度は、不機嫌ではなく、晴れやかな顔で。
「試乗、させてもらえますか」と桂木は言った。「本物の、MOVEに」
桂木が選んだのは、MOVE XSだった。折りたためて、軽やかで、街にも遠出にも似合う一台。 試乗から戻ってきた彼女は、ヘルメットを脱ぎながら、ふうっと長く息を吐いた。
「正直に言うと」と桂木は言った。「私、ずっと仕事ばかりで、休みの日も、家でメールを返してたんです。どこにも行かないのに、なんとなく、出かける気力もなくて。でも、これに乗ってたら……」 「はい」 「ちょっと、遠くまで行ってみようかな、って思えたんです。久しぶりに」
桂木が契約書にサインするのを見ながら、千尋は、不思議な感慨にとらわれていた。 最初は、自分たちを疑い、怒っていた人。 偽物の安さに、一度は心を奪われた人。 その人が今、本物の一台を選んで、これから少し遠くへ行こうとしている。
「あの偽サイトの件、本当に災難でしたね」と千尋は言った。 「でも」と桂木は言った。「あれがなかったら、私、たぶんここには来なかった。本物の値段の意味も、知らないままだった。……人生、何が幸いするか、わからないものですね」
桂木が店を出ていったあと、千尋はカウンターに頬杖をついて、考えた。 本物の値段の意味を、自分は今、はっきりと人に語れるようになっている。 二か月前には、できなかったことだ。
「成長したね」と、いつのまにか隣に来ていた黒木が、ぼそりと言った。 千尋が驚いて顔を上げると、黒木はもう、整備場のほうへ歩き去っていくところだった。 寡黙な彼にしては、最大級の言葉だった。
第7章 店長のいない日
真壁が、一週間ほど店を空けることになった。
「親父が、入院してね」と真壁は言った。「田舎の。たいしたことはないらしいんだけど、ひとり暮らしだから、しばらく付き添ってくる」 「お店は」と千尋は聞いた。 「黒木さんがいる。それに」真壁は、千尋を見た。「蓮見さんがいるだろう」
千尋は、ぎくりとした。 「私、まだ、店長代理なんて」 「もう一年だよ。接客は、僕より上手いくらいだ。整備のことは黒木さんに任せて、お客さんのことは、蓮見さんが見てやってくれ」
そう言って、真壁は出張用の鞄を肩にかけ、あっさりと店を出ていった。
最初の数日は、何事もなく過ぎた。 試乗の予約に対応し、納車の手続きをこなし、メンテナンスの客を黒木に取り次ぐ。一年前にはおぼつかなかったその一つひとつが、今では、体に染みついていた。
ところが、四日目の午後。 一人の男が、肩を怒らせて店に入ってきた。
「店長を出してくれ」 五十代だろうか。半年前にMOVE Xを買った、宮本という客だった。記録によれば、これまでに二度、メンテナンスにも来ている。
「申し訳ありません、店長はただいま不在で」と千尋は頭を下げた。「私が代わりに承ります。どうかなさいましたか」 「どうもこうも」宮本は、声を荒げた。「この自転車、走ってる途中で、急にアシストが切れたんだ。坂の途中で。あやうく転ぶところだったぞ。三十八万も出して、こんな危ない目に遭わされて」
店内の空気が、ぴりっと張りつめた。 千尋の心臓が、どくどくと鳴った。一年前なら、頭が真っ白になって、ただおろおろするばかりだったろう。
けれど、千尋は、深く息を吸った。 そして、まず、こう言った。 「お怪我は、ありませんでしたか」
宮本が、一瞬、言葉を止めた。 「……怪我は、ない。とっさに足をついたから」 「よかった。本当に、よかったです」千尋は、心の底からそう言った。「まずは、それがいちばん心配でした」
その一言で、宮本の肩から、少しだけ力が抜けたように見えた。
「お自転車を、すぐに見せていただけますか。原因を、はっきりさせましょう」 千尋は宮本を整備場へ案内し、黒木に状況を伝えた。 黒木は、無言で自転車を台に載せ、丁寧に点検をはじめた。バッテリーの接点、配線、コントローラー。一つずつ、確かめていく。
「これだ」 やがて黒木が言った。バッテリーとフレームをつなぐ接点が、わずかに緩んでいた。 「振動で、少しずつ緩んだんだろう。坂で力がかかったときに、接触が切れた。すぐ直せる。それと、念のため、同じ箇所を増し締めする無料点検を、ほかのお客さんにも案内したほうがいい」
黒木はその場で接点を直し、動作を確かめた。アシストは、もう途切れなかった。
「申し訳ありませんでした」と千尋は宮本に深く頭を下げた。「危険な思いをさせてしまって。原因は、いま黒木が直しました。それと、同じことが二度と起きないよう、定期点検のご案内を、改めてさせてください。無料です」
宮本は、しばらく黙っていた。 それから、ばつが悪そうに、頭をかいた。 「……いや、こっちも、怒鳴って悪かった。怪我がなかったかって、最初に聞いてくれたのは、あんたが初めてだよ。実はさっき、別の店にも電話したんだ。海外メーカーの。そしたら、修理は順番待ちで二か月かかるって言われてね。それで、頭に来てたんだ」
「二か月……」 「だから、ここに来たんだよ。ここなら、すぐ見てくれるんじゃないかって。怒鳴りながらも、心のどこかで、期待してたんだろうな」
宮本は、直った自転車にまたがって、店の前を一周した。 戻ってきた彼の顔から、来たときの険しさは、すっかり消えていた。 「ちゃんと、動くな」 「はい」 「悪かったね、若いのに、面倒な客で」 「いえ。来てくださって、よかったです」と千尋は言った。「黙って手放されたり、よそで諦められたりするより、ずっと」
宮本が帰ったあと、黒木が工具を片づけながら言った。 「いい対応だった」 「黒木さんが直してくれたから」 「いや」黒木は首を振った。「最初に、怪我はないかって聞いた。あれが、全部だ。あれがあるかないかで、その後がぜんぶ変わる」
その夜、千尋は真壁に電話で報告した。 電話の向こうで、真壁は静かに聞いていた。そして、こう言った。
「蓮見さん、僕がどうしてこの店を始めたか、話したことなかったよね」 「はい」 「前にいた自転車メーカーでね、いいものを、たくさん作ったよ。でも、売ったら、それっきりだった。お客さんがそのあと、どんなふうに乗って、どんなときに困ってるか、僕らには見えなかった。直せなくて、捨てられていく自転車も、たくさん見た」 「……はい」 「それが、嫌でね。作って終わり、売って終わりじゃなくて、買ったあとも、ずっと付き合える店をやりたかった。全国の整備店と手を組んだのも、出張修理を始めたのも、そのためだ。今日みたいに、坂の途中で困った人が、二か月も待たずに、すぐ駆け込める場所を作りたかった」
千尋は、受話器を握りしめて聞いていた。
「今日の蓮見さんの対応は、まさに、僕がこの店でやりたかったことそのものだよ」と真壁は言った。「ありがとう。安心して、親父のそばにいられる」
電話を切って、千尋は、暗くなった店内を見回した。 六台の自転車が、静かに並んでいる。 それは、ただの商品ではなかった。一台ごとに、これから誰かの毎日を運んでいく、約束のようなものだった。
そして、その約束を守るために、自分はここにいる。 一年前には、想像もしなかったことだった。
第8章 一日、五百円の自由
その子は、店の前を、三度も行ったり来たりしていた。
ガラス越しに見ていた千尋は、四度目に通りかかったとき、思いきって外に出た。 「よろしければ、見ていかれませんか」
声をかけられた青年は、びくっと肩を震わせた。 二十四歳だという。名前は、結城と名乗った。介護施設で働いていると、あとで聞いた。作業着のような服に、くたびれたスニーカー。彼は、店の値札を見るのが怖い、というように、目を伏せていた。
「あの……ひやかしみたいで、すみません」と結城は言った。「買えるわけ、ないんですけど。ただ、ずっと、こういうの、いいなって思ってて」 「どうして、E-Bikeを?」 「通勤が、片道一時間近くかかるんです。バスを乗り継いで。施設、駅から遠くて。雨の日も、寒い日も、バスを待つのがつらくて。自転車なら、と思ったんですけど、坂が多くて、普通のじゃ無理で」
千尋は、結城を店のなかへ招き入れた。 彼は、おそるおそる、一台ずつ自転車を見ていった。そして、いちばん手前のMOVE Sの値札を見て、ふっと寂しそうに笑った。
「やっぱり、無理だ」 二十九万八千円。彼の手取りからすれば、途方もない金額に見えるのだろう。
「お給料の何か月分、って考えると、たしかに大きいですよね」と千尋は言った。「でも、ちょっとだけ、別の考え方をしてみてもいいですか」 「別の?」 「結城さんは、この自転車に、何年くらい乗るつもりですか」 「え……買えたら、ですけど。たぶん、ずっと。大事に乗ります」 「仮に、五年乗るとします。毎日通勤に使うとして」千尋は、電卓を取り出した。「ショッピングローンを使えば、月々の分割で買えます。いま、提携会社のローンが、分割手数料無料のキャンペーン中なんです。そうすると、一日あたり、だいたい五百円くらい」
「一日、五百円?」 「はい。結城さんはいま、バスに、いくら使っていますか」 結城は、はっとした顔をした。 「……往復で、けっこういきます。それに、待ち時間も」 「自転車なら、その交通費はかからなくなります。雨の日の憂うつな待ち時間も、なくなる。一時間かかっていた通勤が、たぶん、半分くらいになる。一日五百円で、毎日の一時間と、バス代と、寒いなかで待つあのつらさを、買い戻せるとしたら。どうでしょう」
結城は、長いあいだ、黙っていた。 それから、ぽつりと言った。 「そんなふうに、考えたこと、なかったです」
「それと」と千尋は付け加えた。「いま、下取りキャンペーンもやっているんです。お持ちの自転車があれば、引き取らせていただけます。試乗だけでも、よければぜひ」
結城は、MOVE Sに乗ってみた。 店の前の坂を、彼は信じられないという顔でのぼっていった。バスを待つのに使っていた時間を、これからは自分の脚で、風を切って進める。戻ってきた彼の目は、少しだけ、潤んでいるように見えた。
「これなら……雨の日も、つらくないかもしれない」と結城は言った。「いや、楽しみに、なるかもしれない」
彼は、ローンの説明を、真剣に聞いた。無理のない返済計画を、千尋は一緒に考えた。背伸びではなく、ちゃんと続けられる範囲で。
契約を決めた結城は、何度も何度も頭を下げた。 「ありがとうございます。本当に。俺なんかに、こんな丁寧に」
「俺なんか、なんて言わないでください」と千尋は言った。「毎日、片道一時間かけて、人のお世話をする仕事に通ってる人です。その人が、毎日を少し楽にするために、いい道具を選ぶ。当たり前のことですよ」
結城が帰ったあと、黒木がぽつりと言った。 「高い自転車を、金のある奴に売るのは、簡単だ」 「黒木さん」 「本当に必要としてる奴に、ちゃんと届ける。背伸びじゃなく、続けられる形で。それが、難しいし、いちばん大事だ」 黒木は、それだけ言って、また工具に向き直った。
千尋は、結城の去っていった坂道を、しばらく見ていた。 高所得の人だけが、感動を買えるわけじゃない。 毎日を、少しだけ楽に、少しだけ豊かにしたい。その願いは、誰のなかにも、同じようにある。 その願いに、まっすぐ応えること。それが、この仕事なのだ。
終章 蓮見千尋の一台
その店で働きはじめて、一年が過ぎようとしていた。
季節は、また春になっていた。 恵比寿の坂道に、桜の花びらが舞っていた。
千尋は、もう、試乗に来る客を前にしても、緊張しなくなっていた。 むしろ、その人がどんな毎日を送っていて、これからどこへ行きたいのか。そんなことを想像しながら接客するのが、楽しくてたまらなかった。
沢渡医師は、相変わらず、時々メンテナンスにやってくる。 古賀社長は、あれから家族で何度も郊外へ出かけているらしく、娘のひなたはすっかり自転車に夢中だという。 西野先生の生徒だった海斗は、三年生になって、週の半分は教室に通えるようになったと聞いた。 青柳さんからは、季節が変わるたびに、日本各地から絵はがきが届いた。 桂木さんは、休日にサイクリング仲間ができたと、嬉しそうに報告に来た。
コルクボードは、写真や絵はがきで、いっぱいになっていた。 それは、千尋がこの一年で送り出した、たくさんの「遠く」の記録だった。
ある日、千尋は意を決して、真壁に切り出した。 「店長。私、自分の自転車を、買おうと思うんです」
真壁は、にやりと笑った。 「やっと、その気になったか」 「ずっと、お客様に勧めてきたのに、自分は乗ってなかったんですよね。それって、なんだか、おかしいなって」 「どれにするか、決めてるの?」 「はい」 千尋は、店の真ん中に立つ、一台を見た。 MOVE XS。折りたためて、軽やかで、街にも、遠出にも似合う一台。
「これにします」 「いい選択だ」と真壁は言った。「理由は?」
千尋は、少し考えてから、答えた。 「私、旅行代理店が閉まってから、ずっと、どこにも行けない気がしてたんです。何者にもなれなくて、足が止まったまま。でも、この一年で、たくさんの人が、自分の一台で遠くへ行くのを見てきて……私も、また、動き出していいんだって、思えたんです」 「うん」 「これは、折りたためます。だから、電車に乗せて、知らない街まで運べる。降りた駅で組み立てて、そこから自分の脚で、どこまでも。……旅行代理店で売ってた旅とは、ちょっと違う旅が、できる気がするんです」
真壁は、深くうなずいた。 「ずいぶん、いい店員になったな」 「店長と、黒木さんのおかげです」
真壁は、父親の見舞いから戻ってきたあと、ひとまわり穏やかな顔になっていた。 「親父にね、自慢してきたよ」と真壁は言った。「うちの店の若い子が、立派になったって」 「やめてください」千尋は赤くなった。 「本当のことだよ。宮本さんの一件、あれを聞いたとき、僕は、この店をやっててよかったと思った。作って終わり、売って終わりじゃない店を作りたかった僕の夢を、蓮見さんが、ちゃんと形にしてくれてる」 「私は、ただ……お客様が、また走り出せるようにって、それだけで」 「それでいいんだ」と真壁は言った。「それが、ぜんぶだ」
千尋は、ふと、入社したばかりのころを思い出した。 三十万円の自転車が、どうして売れるのかわからない、と言った自分。 あのとき真壁は、怒らずに、こう言ったのだ。わからないまま、まずはお客さんを見ていればいい、と。 一年かけて、千尋はたくさんの客を見てきた。そして今、ようやく、わかる。 売っていたのは、自転車ではなかった。誰かの、止まっていた毎日が、もう一度動き出す、その瞬間だったのだ。
納車の日。 黒木が、千尋のMOVE XSを、丁寧に整備してくれた。 タイヤの空気圧を確かめ、ブレーキの効きを調整し、チェーンに油をさす。その一つひとつの手つきを、千尋はそばで見ていた。
「これで、よし」と黒木は言った。「どこへでも、行ける」 「黒木さん」 「ん?」 「もし、私が遠くでパンクしたら、直しに来てくれますか」 黒木は、ふっと笑った。めったに見せない、笑顔だった。 「百四十店のどこかが、行く。俺が行けなきゃ、別の誰かが。それが、うちの自転車だ」
その週末。 千尋は、自分のMOVE XSにまたがって、店の前の坂道に立った。 桜の花びらが、風に舞っていた。
ペダルに足を乗せ、ゆっくりと、踏み込む。 ぐっと、背中を押される、あの感覚。 半年も宙ぶらりんだった自分の体が、自分の力と、機械の力をあわせて、前へ進んでいく。
坂をのぼりきって、千尋は振り返った。 坂の下に、小さく店が見える。「MOVE.TOKYO」の看板。 あの店で、たくさんの人が、自分の一台を見つけて、遠くへ走り出していった。 そして今、自分も、その一人になろうとしている。
あたりまえの日常を、感動に。
入社したころは、ただのきれいな言葉だと思っていた、その一文。 今なら、わかる。 通勤の二十五分。娘と走る休日。教え子と並ぶ川沿いの道。退職した翌日の、近所の小さな川。久しぶりに出かけてみようと思えた、その気持ち。 それらはみんな、特別なことではない。ありふれた、あたりまえの毎日だ。 けれど、一台の自転車が、そのあたりまえを、ほんの少しだけ、感動に変える。
千尋は、ハンドルを街のほうへ向けた。 今日は、どこまで行こうか。
電車に乗せて、海まで行ってみるのもいい。知らない駅で降りて、組み立てて、そこからは自分の脚で。あるいは、ただ近所の川沿いを、当てもなく流すのもいい。 どこへ行っても、もし途中で止まってしまっても、大丈夫だ。 この国のどこかに、必ず、直してくれる手がある。また走り出させてくれる人がいる。 その安心を、自分はもう、誰よりもよく知っている。そして、これからは、その安心を、たくさんの人に手渡していくのだ。
風が、頬をなでた。 桜の花びらが、行く先のほうへ、ひとひら、流れていった。 彼女は笑って、もう一度、力強くペダルを踏み込んだ。
完