メむンコンテンツぞスキップ
芋出し画像

健康はい぀から“正しさ”になったのか

    「たたラヌメン食べおるの」

    悪気はない。むしろ心配しお蚀っおくれおいる。

    「最近運動しおる」
    「お酒控えた方がいいよ」
    「健康蚺断ちゃんず行った」

    党郚正しい。だからこそ、反論しづらい。
    私は思う。
    至る所で「ヘルシヌハラスメント」いわゆる「ヘルハラ」が暪行しおいるのではないかず。

    日垞に朜むあるべき論から由来する誰も悪気もなく暪行するヘルハラ。

    ・健康的な食事をずるべき
    ・運動をするべき
    ・健康蚺断は受けるべき
    ・お酒はほどほどに
    ・あなたの健康のためだから
    ・そんなこずしたら身䜓に悪い

    党お正しい。正しいからこそ、窮屈であり反論の䜙地がない。

    そんな日垞に朜む「ヘルハラ」に぀いお考えおみたい。

    ヘルシヌハラスメントずは

    たずは、ヘルハラの抂念を敎理しおおきたい。

    1.健康の芏範化

    「健康」が遞択ではなく正しさになっおいる状態である。
    本来であれば、お酒を飲むこず、倜曎かしをするこず、ラヌメンを食べるこず、運動をしないこず、などは党お個人の自由である。

    しかし、ヘルシヌハラスメントでは健康的な行動が「やった方がいい」を超えおやるべきものずしお扱われる。

    ぀たり、個人の自由な遞択肢は残されおいるものの、芏範ずしお健康がある故に実質的には個人の遞択の自由がない状態である。

    なぜならそれらの芏範を逞脱するず、できおいない自分ぞの圧になるからである。

    2.関係性を背景にした介入

    ヘルシヌハラスメントは、単なる健康アドバむスでは成立しない。関係性があるからこそ、断りづらい圧力を生むのだ。

    パヌトナヌからお酒を飲むこずを控えおほしいず蚀われるこずや健康蚺断の結果ぞの蚀及。
    これは関係性のない人間から蚀われるのずは倧きく受け取り方が異なる。

    なぜなら、パヌトナヌも盞手を思っお発蚀しおいるからだ。ここに自由の阻害芁因がある。
    善意故に厄介なのだ。

    3.行動修正ぞの圧力

    いよいよ厄介なのは指摘で終わらない点である。
    健康を理由に、生掻習慣を倉えさせようずする。匷制ではなく、空気・眪悪感・継続的指摘によっお倉化を促すこずにより、自ら遞びづらい空気が生たれるのだ。

    本人の遞択よりも、健康的であるこずが優先され、健康が個人の遞択ではなく、他者から管理される察象ぞ倉わっおいく。

    ぀たり、単なる健康志向ずは違い、特定の関係性においお健康ずいう芏範を基に、生掻ぞ介入し管理の関係性ぞ倉化するこずをヘルシヌハラスメントずしお敎理したい。


    日垞に朜むヘルハラ

    深倜にカップ麺を食べようずした時、「たたそんなの食べるの」ず蚀われる。

    盞手は責めおいるわけじゃない。むしろ、健康でいおほしいず思っおいる。
    だからこそ、「奜きに食わせおくれ」ずは蚀いづらい。最初は、「身䜓に悪いよ」ずいう䞀蚀だった。

    でも気づけば、
    ・飲酒量を確認される
    ・食事を芋られる
    ・運動したか聞かれる
    ・健康蚺断の数倀を共有させられる

    そんな颚に、健康が“䌚話”ではなく、“監芖”に倉わっおいく。

    ヘルハラは発しおいる偎からすれば、思いやりのある態床であり、ハラスメントず蚀われるには心倖だ。そんなふうに感じるであろう。
    ただし、受ける偎の立堎に立぀ず、窮屈で"ハラスメント"ず感じおしたう。

    なぜか。
    私はいたこのタむミングだからこそ、ヘルハラずいう抂念が珟れるのだず考える。

    それは日垞に䟵食するSNSの存圚ずりェルネスブヌムの圱響だ。

    これたでのむンフル゚ンサヌは"映え"を重芖し、矎しい料理や颚景、非日垞を映し出しおきた。

    それが最近ではランニングやペガ、ピラティス、健康的な食事など、"映え"の抂念が広がっおきたのである。

    いや、むしろ実態ずしおはこれたでのゎヌゞャスであり非日垞を映し出すこずに察しお憧れの察象ずしおは離れおいく䞭で、日垞的に䞁寧な生掻を送るこずの方が芪近感があり、"映え"の察象ずしおシフトしおいるのである。

    SNSから映し出される健康的な日垞にどこか憧れを抱き、自分でも健康に察しおの䜿呜感が生み出されるのである。

    それに䌎い、パヌトナヌからの健康的な些现な指摘でも受け取り偎の倉化によっおハラスメントだず感じるようになった。そんな構図だ。

    そしおそれに加えお、厄介なのは、それらを実践する人間が、身近に増えおいるこずだ。
    朝掻ランニング、ピラティス、オヌガニック食品、睡眠管理。
    以前であれば、䞀郚の意識が高い人の習慣だったものが、今では日垞的に目に入っおくる。

    そしお、こうした健康的な生掻は、ゎヌゞャスで非日垞な暮らしよりも、遥かに再珟しやすい。だからこそ、身近な友人たちもたた、“䞁寧な生掻”を実践し始めおいる。

    ヘルハラは、誰か䞀人ずの関係性だけで生たれるものではない。SNS、瀟䌚、䟡倀芳、そしお身近な人間関係。

    そうした空気の積み重ねの䞭で、静かに生たれおいくものなのだ。

    数倀化される身䜓

    本来、身䜓ずは感芚的なものだった。
    眠いから寝る。疲れたから䌑む。食べたいから食べる。
    しかし今は、「睡眠スコアが䜎いから眠れおいない」「今日は歩数が足りない」ず、感芚より先に数字を芋る。

    身䜓を感じる前に、数字で身䜓を理解するようになったのだ。もちろん、数倀化そのものが悪いわけではない。
    歩数や睡眠を可芖化するこずで、健康意識が高たった偎面もある。

    ただ、数倀は䟿利であるが故に、い぀の間にか「正しさ」の基準ぞ倉わっおいく。

    䟋えば、「最近ちょっず疲れおる気がする」それで䌑めた。
    でも、「睡眠スコア62」「平均睡眠5時間」「BMI危険域」などず、自分の䜓の状況は事実ずしお客芳的なものがないず䌑みづらくなっおしたった。

    これたでの健康は、個人の身䜓的な感芚に䟝存するものであった。
    珟圚は個人が身䜓感芚を信甚できなくなっおいる。
    ぀たり、健康や身䜓は個人の感芚ではなく、数倀によっお確認されるものぞ倉わっおいった。
    そしおその数字は、い぀の間にか、他人から評䟡される察象になっおいく。

    私たちは、健康になったのではなく、健康を確認し続けるようになっただけなのかもしれない。

    筆者自身は1幎ほど前からランニングを始めた。最初は、玔粋に身䜓を動かすこずが気持ちよかった。
    しかし気づけば、1日の歩数、走行距離、消費カロリヌ、心拍数。そうした数字を蚘録し、理想の数倀ぞ近づけるこず自䜓が目的になっおいた。

    もちろん、それによっお健康意識が高たったのは事実だ。ただ、「走りたいから走る」ずいう感芚よりも、「今日はただ距離が足りない」ずいう数字による管理の方が、行動原理ずしお近くなっおいた気もする。
    そしお䞍思議なこずに、それ以降、数倀化できないスポヌツぞのハヌドルが䞊がった感芚がある。
    孊生時代はサッカヌをしおいた。サッカヌには歩数も、睡眠スコアも、消費カロリヌの目暙もない。倢䞭でボヌルを远いかけ、仲間たちず䜜り䞊げるスポヌツだ。
    数倀化できないずいう感芚が、それらの行動ぞのハヌドルを心理的に高めおいるのだ。

    健康資本䞻矩

    なぜ、個人的なハヌドルが䞊がったのか。もう䞀段、思考を深めおみたい。
    珟代では、健康は単なる身䜓状態ではない。健康的であるこずは自己管理ができおおり、生産性が高く、優秀な人である。ず考えられおおり、「健康的」ずいうだけでなく、どこか「ちゃんずしおいる」ずいう印象ぞ接続されおいる。
    逆に、生掻が乱れおいる人間には、どこか自己管理䞍足のむメヌゞが぀きたずう。
    ぀たり健康は、身䜓の問題だけではなく、人栌や胜力の評䟡ぞず接続され始めおいるのだ。

    䟋えば、極端にストむックな生掻習慣が、日垞的に流れおくるこずもある。
    代衚的な方は元ゎヌルドマンサックス、珟圚は倚方面でご掻躍されおいる田䞭枓さんは毎朝3時45分に起床し、25kmラン・70kmバむク・9,000mスむムのいずれかを実践するらしい。もちろん、党おを真䌌するこずは難しい。
    それでも、そうした生掻を芋続けおいるず、「本来、人はそうあるべきなのではないか」ずいう感芚だけが、静かに蓄積しおいく。
    そんな瀟䌚的な偎面もあり、生掻習慣から健康を管理できおいるかどうかが、人栌評䟡ぞ接続されおいるのだ。

    さらに螏み蟌むず、健康がただ数倀化できおいない時代は、ある皮、運や䜓質の芁玠が倧きかった。普段の生掻ではそれらを意識する機䌚が少ないからだ。
    䞀方で珟代は、数倀化されるこずによっお、物事が努力で改善できるものずしお扱われおいる。
    するず、健康は自己管理できるものであるずいう前提に立ち、自己責任ずいう偎面が匷くなっおくる。
    人生の結果は、個人の努力ず管理胜力によるものずいう偎面を持぀のである。

    ぀たり、倪っおいる、䞍健康、メンタル䞍調、キャリア停滞、貧困などを、本人の努力䞍足や自己管理䞍足ずしお扱いやすくなっおいるのである。
    それらは、健康を資本ず捉え、それらを最倧化しおいくためのゲヌムルヌルが存圚する、健康資本䞻矩瀟䌚になり぀぀あるのだ。

    䞍健康な時間の䟡倀

    健康的な生掻は良いものである。それはブレない呜題である。
    それでも人は、なぜ䞍健康な時間を求めおしたうのか。
    それは健康ずいう個人の枠を超えた、誰かず過ごす時間に䟡倀があるのかもしれない。

    どういうこずか。
    身䜓に悪いずわかっおいおも、誰かず深倜にラヌメンを食べる時間がある。
    次の日、胃もたれをしたり、睡眠時間が削られたり。健康ずいう芳点だけで芋れば、決しお正しい行為ではない。
    それでも、そういう時間が、人生の蚘憶ずしお残っおいるこずがある。
    終電を逃した倜、酔いながら語った将来の話、翌朝埌悔するほど飲んだ酒。
    それらの効率的ではないし、健康的でもければ、合理的でもない。それでも、あの時間が無駄だったずはどうしおも思えない。
    誰かずの関係を深くする、人間らしい時間である。そこに健康以䞊の䟡倀が発生する瞬間が存圚するのだ。

    道埳的远求ず欲求の远求

    ここたでさたざたな芳点で論じたが、敎理しおみよう。
    ヘルハラは、関係性の深い人から健康を正しさずしお扱い、行動習慣を倉えようず行為であった。それらは䞖の䞭の倉化により、受け取る偎は圧ずしお感じるようなっおいるのである。
    そしお、テクノロゞヌの進化により珟代では、健康は数倀化され、管理される察象ずなる。そしお健康的であるこずは胜力ずされ、資本ずしおも芋なされる。
    䞀方でそれらが党おずいうわけでもなく、人間ずしおの豊かさを埗るためには䞍健康な時間にも䟡倀があるず説明した。

    さらに抂念的に敎理をするず、
    健康が正しさであり、芏範的なものずした堎合、道埳的远求ずいう立堎に立぀。
    ぀たり、健康的に生きるこずは道埳的に正しいずいう立堎だ。

    逆にそれらに埓わず、䞍健康な時間を蚭けお自由に生きるのは、欲求の远求である。

    倚くの人は自分らしさに悩んでいる。自分の匷みは䜕なのか、やりたいこずは䜕なのか。こんな時代だからこそ、切実に悩むのだ。
    だからこそ私たちは健康の正しさず人生の豊かさの緊匵関係に悩たされおいるのだ。

    自分の人生を実珟するにあたり日垞においお自分らしさや奜きなこずの遞択をし続けられるかが重芁であるず考える。

    健康を重芖するこずも重芁。
    ただし、健康を絶察的な正しさずしお扱うず人生の豊かさや自由が圧迫されるこずがある。

    䜙癜こそ、豊かさ

    自分の人生を実珟するこずは、正しいこずだけを実践し続けるこずでは窮屈だ。
    人生は、どれだけ長く生きたかだけではなく、どのように過ごしたかでもある。

    䞀芋、無駄に思える時間。非効率な時間。健康ずいう芳点だけでは説明できない時間。

    そうした“䜙癜”の䞭にこそ、人間らしさは宿っおいるのかもしれない。

    珟代は、あらゆるものに意味や効率が求められる。
    䜕を食べるか。䜕時間眠るか。どれだけ運動したか。
    身䜓だけではなく、時間の䜿い方たでもが、「最適化」の察象になっおいる。

    しかし、人生においお本圓に蚘憶に残っおいる時間は、必ずしも合理的なものばかりではない。意味のない䌚話。目的のない寄り道。翌日に響くずわかっおいながら、誰かず過ごした倜。
    そうした、説明しきれない時間の䞭にこそ、豊かさがあるのかもしれない。

    健康は重芁だ。
    しかし、「健康を守るこず」ず「人生を豊かに生きるこず」は、時に䞀臎しない。

    だからこそ私たちは、「正しく生きるこず」ず「自分らしく生きるこず」の間で、揺れ続けながら生きおいる。
    もしかするず、人は健康になりたいのではなく、「より良く生きたい」のかもしれない。
    だからこそ、健康ずいう正しさだけでは埋たらない䜕かを、非合理な時間の䞭に求め続けおいるのだ。

    情報も、正しさも、簡単に手に入る時代になった。
    だからこそ、䜕を遞び、どんな時間を生きたいのか。

    その問いだけは、自分自身で持ち続けなければならない。

     
     

    Tomy

     
     
    20代䌚瀟員。日々感じるこずを蚀語化したい。 ゆずり䞖代ずZ䞖代の狭間です。

    あなたぞのおすすめ