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私はかつて、T・SⅡ世と呼ばれていた

    序章 私はかつて、T・SⅡ世と呼ばれていた

    私はかつて、職場で「T・SⅡ世」と呼ばれていた。

    最初にその言葉を聞いたとき、嬉しいというより、少し戸惑った。自分では、誰かの真似をしているつもりなどなかったからだ。

    ただ目の前の仕事に向き合い、お客様に向き合い、部下に向き合い、その時々で必要だと思うことをしてきただけだった。

    それなのに、いつの頃からか、周囲の人たちは私をそう呼ぶようになった。

    「T・SⅡ世だな」

    冗談のように言われることもあった。少しからかうような響きが混じることもあった。そのたびに私は、曖昧に笑っていた。

    けれど、心のどこかでは引っかかっていた。

    T・Sさん。

    その名前を聞くと、今でも胸の奥にひとつの空気が戻ってくる。若かった頃の職場の匂い。朝礼前のざわめき。そして、少し離れた場所にいた、近寄りがたい上司の姿。

    ある日、部下に少し厳しいことを伝えたあとで、私はふと黙った。

    相手の表情を見ながら、胸の中に小さな違和感が残った。後悔とは少し違った。もっと静かな驚きに近かった。

    ああ、自分も同じようなことを言っている。

    そう思った。

    その瞬間、T・Sさんの顔が浮かんだ。厳しい目をしているのに、どこか人を見捨てない顔だった。

    私は、真似をしたつもりはなかった。教えられた言葉を、そのまま使ったわけでもない。

    けれど、人と向き合う場面で、ふと自分の中にT・Sさんの気配を感じることがある。

    その人に初めて会った朝のことを、私は今でも覚えている。


    第一章 怖そうなのに、目が離せない人

    新しい上司が赴任する朝、職場のフロアにはいつもと違う硬さがあった。

    誰も大きな声では話していない。それでも、誰もが少しだけ入口の方を気にしていた。

    机の上には、いつも通り書類が並んでいた。電話も鳴っていた。人は動いていた。けれど、その日の空気だけは少し違っていた。

    やがて、その人がフロアに入ってきた。

    T・Sさんだった。

    背丈は、それほど高くなかった。けれど、体はがっしりしていた。ただ歩いているだけなのに、場の空気が少し変わるような人だった。

    声を張り上げたわけではない。誰かを睨みつけたわけでもない。

    それなのに、自然と目が向いた。

    怖そうだな。

    第一印象は、正直に言えばそれだった。

    近寄りがたい。厳しそう。簡単には笑わなそう。

    そう見えた。

    けれど、不思議だった。

    怖そうなのに、なぜか目が離せなかった。

    近づきたいわけではない。話しかけたいわけでもない。

    それなのに、その人が少し動くだけで、つい見てしまう。

    朝礼が始まった。

    T・Sさんは前に立ち、低くよく通る声で話した。

    何を話したのか、細かな言葉まではもう覚えていない。けれど、話し方の感じだけは残っている。

    飾らない。遠回しにしない。それでいて、聞いている人間をどこか引きつける。

    この人は、ただ怖いだけの人ではない。

    そう思った。

    それでも、私はまだその人に近づけなかった。ただ少し離れた場所から見ていた。

    T・Sさんの背中は、実際の体の大きさよりも、ずっと大きく見えた。

    その背中を、何年も追いかけることになるとは、そのときの私はまだ知らなかった。


    第二章 応接室から聞こえた、豪快な笑い声

    ある朝、応接室の方から、職場には似つかわしくない大きな笑い声が響いてきた。

    「ガハハハ!」

    それは間違いなく、T・Sさんの声だった。

    私は思わず顔を上げた。

    その場所が応接室だったことにも驚いた。

    応接室には、お客様が来ていた。商談のためだったのだと思う。

    ところが、応接室から聞こえてくるのは、緊張した声ではなかった。

    「ガハハハ!」

    また、T・Sさんの笑い声が響いた。

    驚いたのは、相手のお客様も笑っていたことだった。

    私は用事があるふりをして、応接室の近くを通った。中を見るわけにはいかない。ただ、ドアの向こうから漏れてくる空気だけで、そこが固い商談の場ではないことは分かった。

    楽しそうだった。

    不思議だった。

    どうして商談で、こんなに笑えるのだろう。どうしてお客様まで、あんなに自然に笑っているのだろう。

    若かった私は、そのことが分からなかった。

    しばらくして、応接室のドアが開いた。

    お客様が出てこられた。その表情を見て、私はまた驚いた。

    穏やかな顔をしていた。無理に笑っているのではない。何か大きな荷物をひとつ下ろしたような、柔らかい表情だった。

    T・Sさんは、その方と何気ない言葉を交わしながら見送っていた。さっきまであれほど大きく笑っていた人が、今度は少し落ち着いた顔で、お客様の歩く速度に合わせていた。

    怖そうな人。厳しそうな人。近寄りがたい人。

    最初に抱いた印象の中に、別の色が混じり始めていた。

    その日の夕方だった。

    仕事が一段落したころ、T・Sさんが静かに言った。

    「商売はね」

    朝の笑い声とは違う声だった。大きくはない。けれど、言葉がまっすぐ届く感じがした。

    「三方よしでなければ続かない」

    三方よし。

    売り手がよい。買い手がよい。世間もよい。

    その三つが揃って、初めて商売は続いていくのだと、T・Sさんは話した。

    当時の私は、その言葉の重さをすべて理解できたわけではない。

    ただ、朝の応接室を思い出していた。

    あの笑い声。お客様の表情。帰り際の穏やかな顔。

    あれは、ただ場を盛り上げていたのではなかったのだと思う。

    お客様を言い負かした笑いではない。こちらだけが得をした笑いでもない。何かが互いに納得できたときの笑いだった。

    その日から、私は商談のあとに残る表情を見るようになった。

    怖そうに見えたT・Sさんの背中が、その日から少し違って見えるようになった。


    第三章 あの日のタクシー

    「この後、空いてるか。飲みに行くぞ」

    仕事が終わると、T・Sさんはいつもの調子でそう言った。

    少しぶっきらぼうで、断る余地をあまり残さない言い方だった。けれど、そこには不思議と嫌な圧はなかった。

    その日の私は、朝から体調が良くなかった。

    少し熱っぽかった。頭も重かった。体の奥に鈍い疲れがたまっているような感じがあった。

    それでも、仕事中は平気な顔をしていた。

    若かった私は、具合が悪いと素直に言うことができなかった。迷惑をかけてはいけない。弱いと思われたくない。そんな気持ちが、いつもどこかにあった。

    まして、相手はT・Sさんだった。

    「今日は少し体調が悪いので帰ります」

    そう言えばよかったのだと思う。今なら、そう思う。

    けれど、そのときの私には言えなかった。

    「大丈夫です」

    私はそう答えた。

    自分の声が少し乾いていたことを覚えている。大丈夫ではないと、自分でも分かっていた。それでも、大丈夫だと言った。

    会社を出ると、外の空気が肌に重く感じた。

    飲み屋に向かうはずだった。私は、T・Sさんの後ろについて歩いた。

    数分歩いたところで、T・Sさんが急に足を止めた。

    そして、私の顔をじっと見た。

    その目が、今でも忘れられない。

    怒っているわけではなかった。責めているわけでもなかった。ただ、こちらの表面ではなく、その奥を見ているような目だった。

    「お前、大丈夫か?」

    短い一言だった。

    その一言で、隠していたものが崩れた気がした。

    私は何か答えようとした。けれど、うまく言葉が出てこなかった。

    T・Sさんは、それ以上問い詰めなかった。

    ただ、通りへ目を向け、片手を上げた。

    タクシーが止まった。

    T・Sさんは私を先に乗せ、自分も続いて乗り込んだ。そして、運転手さんに行き先を告げた。

    飲み屋の名前ではなかった。

    病院だった。

    タクシーのドアが閉まる音がした。

    車がゆっくり動き出す。

    私は窓の外を見ていた。街の灯りが、少しにじんで見えた。

    車内では、ほとんど会話がなかった。

    T・Sさんも黙っていた。いつものように大きな声で笑うこともない。仕事の話をすることもない。

    ただ隣に座っていた。

    その沈黙が、不思議と怖くなかった。

    何も言わなくていい沈黙だった。

    しばらくして、T・Sさんがぽつりと言った。

    「我慢させて、悪かった」

    私は、すぐには返事ができなかった。

    体調が悪いのに黙っていたのは私だった。無理をして「大丈夫です」と言ったのも私だった。それなのに、T・Sさんは自分のほうが悪かったように言った。

    胸の奥が、静かに熱くなった。

    タクシーは病院に着いた。

    T・Sさんは、当然のように私と一緒に降りた。受付へ向かい、手続きをし、診察まで付き添ってくれた。

    けれど、T・Sさんは余計なことを言わなかった。

    「だから無理するなと言っただろう」

    そんな言葉もなかった。

    「体調管理も仕事のうちだ」

    そんな説教もなかった。

    ただ、必要なことをしてくれた。

    受付の前に立つ背中。診察を待つ間、少し離れて座っている横顔。看護師さんに何かを確認している声。

    その一つひとつを、私はぼんやりと見ていた。

    診察が終わり、外へ出ると、夜の空気が少しだけ軽く感じた。

    帰り道、同じ方向へ帰る社員がいたため、私はその人と一緒に帰ることになった。

    T・Sさんはそれを確認すると、静かにうなずいた。

    そして、何事もなかったように帰っていった。

    その背中を見送りながら、私はしばらく動けなかった。

    人を見るというのは、こういうことなのか。

    その時の私は、そんな言葉を持っていなかった。ただ、あの人は本当に見ているのだと思った。

    「大丈夫です」という言葉の奥にあるもの。

    T・Sさんは、それを見逃さなかった。

    「我慢させて、悪かった」

    その言葉は、叱られるよりも深く、私の中に残った。


    第四章 強さの裏にあったもの

    T・Sさんの強さの奥に何があったのか、若い頃の私は知らなかった。

    知ったのは、ずっと後になって、奥様から昔の話を聞いたときだった。

    「あの人もね、若い頃は大変だったのよ」

    奥様は、懐かしむように話してくださった。

    若い頃のT・Sさんは、通勤の電車に乗ると息が苦しくなり、何度も途中で降りていたという。

    その話を聞いたとき、私はすぐには言葉が出なかった。

    あのT・Sさんが。

    豪快に笑い、堂々と歩き、誰よりも強く見えたあの人が、通勤の途中で電車を降りていた。

    私が知っていたT・Sさんは、いつも前に立っている人だった。職場に入ってくるだけで空気が変わった。応接室では大きな声で笑った。部下には厳しいことも言った。

    弱さとは、遠いところにいる人だと思っていた。

    けれど、そうではなかった。

    あの人にも、息が苦しくなる朝があった。途中で電車を降りなければならない日があった。それでもまた、職場へ向かっていた。

    その話を聞いたとき、あの日のタクシーが戻ってきた。

    「お前、大丈夫か?」

    病院へ向かう車の中の沈黙。

    「我慢させて、悪かった」

    あの一言。

    T・Sさんは、人の無理を見逃さなかった。その目の奥には、あの人自身が越えてきた朝があったのかもしれない。

    強い人だと思っていた。

    けれど、その強さは、最初からそこにあったものではなかったのかもしれない。

    あの日のタクシーも、「我慢させて、悪かった」という言葉も、私の中で少し違う色を帯びて見えるようになった。


    第五章 競馬場で見た、少年のような顔

    私が少し疲れた顔をしていた日のことだった。

    T・Sさんは何も聞かず、ただ言った。

    「チラシを配りに行こう」

    唐突だった。

    私は一瞬、言葉の意味が分からなかった。

    T・Sさんは、特に説明しなかった。いつものように、もう決まっていることのように動き始めた。

    実際に、私たちは外へ出て、人通りのある場所でチラシを配った。

    街の中で、通り過ぎる人に一枚ずつ差し出す。受け取ってくれる人もいれば、目も合わせずに通り過ぎる人もいる。

    T・Sさんは、そういうことを気にする様子もなく、淡々と配っていた。

    私はその横で、少しずつ体の中のこわばりがほどけていくのを感じていた。

    支社の中にいると、どうしても表情を作ってしまう。平気な顔をしようとする。疲れていないふりをする。

    けれど、外に出て、ただチラシを配っていると、少し呼吸が戻ってくるようだった。

    しばらくして、配り終えると、T・Sさんが軽く言った。

    「ちょっと寄っていくか」

    どこへ行くのかと思ってついていくと、そこは競馬場だった。

    入口を抜けた瞬間、空気が変わった。

    人の声。場内に流れるアナウンス。紙を握りしめた人たちの熱気。遠くから響いてくる馬の足音。

    仕事場とはまるで違う世界だった。

    その人は、いつもの厳しい上司の顔ではなかった。

    どこか楽しそうだった。

    いや、楽しそうというより、少し少年のようだった。

    レースが始まると、T・Sさんの声が一気に大きくなった。

    「行け!行け!」

    その声は、応接室で聞いた「ガハハハ!」とはまた違っていた。

    ただ、自分のひいきの馬を本気で応援している声だった。

    私は思わず笑ってしまった。

    普段は厳しく、少し近寄りがたく、支社全体を見ているような人が、目の前で子どものように声を上げている。

    その姿が、おかしかった。そして、なぜか嬉しかった。

    気づけば、私も一緒に声を出していた。

    「行け!」

    さっきまでの重たい気分が、いつの間にか少し軽くなっていた。笑うつもりなどなかったのに、笑っていた。

    T・Sさんは、たぶん最初から気づいていたのだと思う。

    私が支社の中で、つまらない顔をしていたことに。何かに疲れていたことに。

    言葉で励ますのではなく、「大丈夫か」と聞くのでもなく、ただ外へ連れ出した。

    帰りのタクシーの中で、T・Sさんがぽつりと言った。

    「支社のみんなの前で、つまらない顔をするなよ」

    私は何も言えなかった。

    叱られたのだと思う。でも、ただ叱られたのではなかった。

    その一言で、私は自分の顔が、自分だけのものではなかったことを知った。

    ちなみにその日、T・Sさんは「夢で見た馬が来る」と言っていた。

    けれど、実際に買ったのは、夢で見た馬ではなく、いつものひいきの馬だった。そして、見事に外した。

    厳しい人だった。怖そうな人でもあった。

    けれど競馬場では、ひいきの馬を外して本気で悔しがる人だった。


    第六章 当たり前を、やめなかった

    ある日、ひとりのお客様の帰り際の表情が気になった。

    物は売れた。数字も悪くなかった。特にクレームがあったわけでもない。

    それでも、帰り際のほんの一瞬、目が泳いだように見えた。

    気のせいかもしれない。

    そう思えば、それで終わることだった。

    仕事としては、何も問題はなかった。売上は立っている。手続きも済んでいる。そのまま次のお客様へ向かえばよかった。

    けれど、どうしてもその表情が残った。

    一瞬だけ曇ったように見えた目。言いかけて、飲み込んだような間。こちらに何かを伝えようとして、やめたような気配。

    たぶん、若い頃の私なら見過ごしていたと思う。

    売れたのだから、それでいい。お客様の方から何か言ってきたわけでもない。

    そう考えて、自分を納得させていたかもしれない。

    けれど、その時の私は終われなかった。

    翌日、受話器を取った。

    理由を聞かれたら、うまく答えられなかったと思う。上司に言われたわけでもない。決まりがあったわけでもない。

    ただ、気になった。

    「その後、いかがでしょうか」

    そう言うと、電話の向こうで少し間があった。

    その沈黙を、私は今でも覚えている。

    そして、お客様が小さく言った。

    「実は……」

    その一言で、あの帰り際の表情が、気のせいではなかったことを知った。

    大きな問題ではなかった。すぐに直せることだった。

    けれど、もし電話をしていなければ、そのまま静かに終わっていた。

    売れたことよりも、私はその電話の方を覚えている。

    その日から私は、売れた後の表情を見るようになった。

    契約が終わった瞬間ではなく、お客様が席を立つとき。店を出るとき。少し離れてから振り返るとき。

    そこに、その人の本当の気持ちが出ることがある。

    一か月後に、もう一度電話をすることもあった。時には、手紙を書いたこともあった。

    特別なことをしているつもりはなかった。

    むしろ、そうしない方が落ち着かなかった。

    閉店後に新幹線に乗った夜もあった。

    「今から届けてほしい」

    そう言われた商品を持って、私は駅へ向かった。

    シャッターが閉まる音を背中で聞きながら、急ぎ足で改札へ向かう。新幹線の窓に映った自分の顔は、少し疲れて見えた。

    馬鹿だな。

    そう思わなかったわけではない。

    けれど、そうしない方が落ち着かなかった。

    気づかない方が楽なことがある。見なかったことにした方が、自分を守れることもある。

    けれど私は、それがうまくできなかった。

    お客様の表情が気になる。言葉の端に残る沈黙が気になる。店の前に落ちた吸い殻が気になる。

    一度気づいてしまうと、背を向けられない。背を向けられないから、動く。動けば、誰かの役に立つこともある。

    けれどその分、自分のことはいつも後回しになっていった。

    それが正しかったのか、今でも分からない。

    ただ、そうせずにはいられなかった。

    なぜ、そこまで気になったのか。

    当時の私は、深く考えたことがなかった。

    けれど今になって思う。

    あの日、T・Sさんは私の「大丈夫です」の奥を見た。言葉に出ていないものを見て、黙ってタクシーを止めた。

    もしかすると、私はその背中を、知らないうちに覚えていたのかもしれない。

    お客様の一瞬の表情。電話の向こうの沈黙。言葉になる前の、小さな気配。

    それらを放っておけなくなっていた。

    T・Sさんのようになりたいと思っていたわけではない。

    けれど、後になって振り返ると、その「放っておけなさ」の奥に、T・Sさんの背中があったように思う。

    受け取ったものは、温かさだけではなかった。

    少し重く、少し厄介で、それでも私の中から消えてくれないものだった。


    第七章 小さな馬鹿なことが、人を動かす

    冷たい十二月の朝だった。

    吐く息が白くほどけるころ、私は横断歩道の片隅にしゃがんでいた。

    手にはトングと小さな袋。足元には、吸い殻がいくつも落ちていた。

    店の前にある横断歩道だった。

    そこを渡って、お客様が店に入ってくる。毎朝、たくさんの人が通る。

    けれど、朝早い時間には、吸い殻や紙くずが目につくことがあった。

    最初は、ただ気になっただけだった。

    せっかく店に来てくださるのなら、少しでも気持ちよく渡ってほしい。店の入口に向かう道が汚れているのは、どうにも落ち着かなかった。

    だから、拾った。

    誰かに頼まれたわけではない。上司に言われたわけでもない。評価に入るわけでもない。

    それでも、朝になると私は横断歩道に出た。

    トングで吸い殻をつかみ、袋に入れる。白い息が手元に落ちる。車が通るたびに、冷たい風が足元を抜けていく。

    馬鹿だな。

    何度もそう思った。

    こんなことをして、何になるのだろう。誰が見ているわけでもない。誰に褒められるわけでもない。明日になれば、また吸い殻は落ちているかもしれない。

    それでも、やめなかった。

    ある朝のことだった。

    いつものようにしゃがんでいると、横に人の気配がした。

    顔を上げると、向かいのビルの守衛さんが立っていた。手には、ほうきがあった。

    「少しだけ、いいかな」

    それだけ言って、守衛さんは私の隣を掃き始めた。

    私は驚いた。何かをお願いしたことなどなかった。一緒にやりましょうと声をかけたこともなかった。

    ただ、一人で拾っていただけだった。

    守衛さんは、多くを話さなかった。私も、何を言えばいいのか分からなかった。

    二人で黙って、横断歩道の周りを掃いた。

    次の朝、今度は隣の会社の若い人が、小さな袋を持ってきた。

    「ここ、よく落ちていますよね」

    そう言って、少し照れたように笑った。

    その次には、開店前のカフェの店長が、店先を掃くついでのように横断歩道の端まで来てくれた。

    誰かが決めたわけではなかった。

    掃除当番ができたわけでもない。時間を合わせたわけでもない。名前をつけた活動でもない。

    約束はなかった。号令もなかった。

    それでも朝になると、誰かがそこにいるようになった。


    第八章 背中は、別の場所でも生きていた

    一人は、パン屋になった。

    もう一人は、バイスプレジデントになった。

    まるで違う道だった。それでも再会するたび、私は二人の中に、どこか同じ温度を感じた。

    パン屋になった男は、もともと前へ前へ出るタイプではなかった。

    一歩引いて周りを見る。任されたことを黙ってやる。派手さはないけれど、手を抜かない。

    そんな印象の男だった。

    その彼が、のちに奥様のご実家のパン屋を継いだ。

    久しぶりに店を訪ねたとき、私は少し驚いた。

    小さな店だった。けれど、店の前には車が止まり、お昼どきには人が並んでいた。

    店内に入ると、焼きたてのパンの匂いがした。棚にはサンドイッチがきちんと並んでいた。

    大きく見せようとしていない。派手に飾ろうとしていない。けれど、一つひとつが丁寧だった。

    彼は忙しそうに店の中を動いていた。

    それでも私に気づくと、必ず顔を上げてくれた。

    「元気な顔を拝見できて、嬉しいです」

    そう言って笑う。

    そして、どれほど忙しくても、店の外まで出てくる。車のところまで見送りに来る。

    「いいよ。忙しいだろう」

    そう言っても、彼はやめなかった。

    「仕事を教えていただいたのはあなたですから」

    そんなふうに言われると、私は少し困った。

    嬉しいというより、照れくさかった。自分が何か立派なことを教えたという感覚はなかったからだ。

    車のそばで頭を下げる彼の姿に、私はT・Sさんの背中を重ねていた。

    忙しい手を止めて、相手の顔を見る。少しだけ外へ出る。最後まで見送る。

    そういう小さな動作の中に、その人が何を大事にしてきたかが出る。

    もう一人は、まったく違う道を歩んだ。

    会社を離れ、新しい場所でバイスプレジデントという立場にまで上り詰めた男だった。

    久しぶりに会ったとき、その姿は以前よりもずっと堂々としていた。

    けれど、話していると、どこか懐かしかった。

    相手の話を聞くときの目。場の空気を読み、言うべきことを短く言うところ。

    その中に、私はT・Sさんの面影を見た。

    T・Sさんは、もうそこにはいなかった。

    それでも、その人が見せてくれた背中は、別の場所で確かに生きていた。


    終章 あの人の背中は、今も私の中にある

    豪快に笑う人だった。

    応接室に響いたあの「ガハハハ!」という声を、私は今でも覚えている。

    けれど最後に見たT・Sさんの笑顔は、とても穏やかだった。

    そのとき、私たちは言葉を交わさなかった。

    少し離れたところに、T・Sさんはいた。昔のように大きな声で笑うこともなく、誰かを呼び止めることもなく、ただ静かにそこにいた。

    私に気づくと、T・Sさんは微笑んだ。

    それは、応接室で響いていた豪快な笑いとはまったく違うものだった。

    ただ、静かに、少しだけ目元をやわらかくして微笑んでいた。

    私は、その笑顔を見た。

    何か言えばよかったのかもしれない。

    けれど、その時の私は何も言えなかった。

    長い間、そのことを少し悔やんだ。でも今は、あれでよかったのかもしれないとも思う。

    T・Sさんは、多くを語る人ではなかった。大事なことほど、短く言う人だった。

    あの日のタクシーも、病院の受付で見た背中も、そうだった。

    亡くなられたと聞いたとき、私はしばらく何も考えられなかった。

    悲しい、という言葉だけでは足りなかった。寂しい、という言葉でも違った。

    もっと静かなものだった。

    胸の奥の、ずっと昔からそこにあった場所に、そっと手を置かれたような感じだった。

    そして、ふと思った。

    T・Sさん。あなたは、私の中で生きていますよ。

    それは、大げさな感傷ではなかった。

    本当にそう思った。

    あれから長い年月が経った。

    誰かの表情が気になった時。誰も見ていない場所で、やらなくても済むことをやる時。

    そのたびに、私はT・Sさんを思い出す。

    応接室の笑い声。病院へ向かったタクシー。競馬場で聞いた「行け!行け!」という声。

    そして最後に見た、あの穏やかな笑顔。

    T・Sさんから何を教わったのか。

    今でも、ひと言では答えられない。

    ただ、あの背中だけは覚えている。

    怖そうで、厳しくて、豪快で、少し無茶で。競馬場では、ひいきの馬を外して本気で悔しがる人だった。

    そして最後は、何も言わずに穏やかに微笑んでいた。

    もし今、目の前にいらっしゃったら、私はきっとこう言う。

    「T・Sさん、さあ。これから飲みに行きましょう。」

    そしてあの人はまた、豪快に笑うのだと思う。

    #創作大賞2026

    #エッセイ部門

     
     
    人との出会い、仕事の中で学んだこと、 心に残る言葉を綴っています。 人生を変えた上司との出会いをきっかけに、 人が人を育てることの意味、 そしてご縁の大切さを発信しています。 連載『人生を変えた上司』公開中|人は出会いでできている アメブロでも発信中。

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