
正義とは、主張しないこと。なのだろうけど。
序章 正義の味方
僕にとっての最初の正義の味方は『超新星フラッシュマン』だった。ミニカー命だった僕は、ウルトラマンにも仮面ライダーにも興味がなかった。そんな中で興味を持ってテレビを観ていた、数少ない戦隊モノである。
ある日、テレビの世界にいたその5人組が近くのショッピングモールに来るらしい、と親に連れて行かれた。しかし、来たのは戦隊5人ではなく3人くらいだった気がする。恥ずかしくて気乗りしない僕を、親が無理やりフラッシュマンの元へ連れて行き、妹とともに記念撮影したのを覚えている。きっと実家をひっくり返せば、当時の写真が出てくることだろう。

あれから40年ほど経った。幼稚園児だった僕はサラリーマンとして働いている。氷河期世代の端くれとしては恵まれた環境で、妻子を養うことができる今は幸せと言っていい。
そんな今年、ついに戦隊モノシリーズが終焉を迎えたという。バリエーションのネタが尽きたのか、勧善懲悪という価値観が薄れた結果なのか、僕は知らない。
第1章 正義とは何なのか
今、僕はメーカー設計部署で社内規程の附則となる部内手順書を作る仕事をしている。これがなかなか厄介な代物だ。設計部署はメーカーにおける花形の印象を持つ方も多いことだろう。ところが、実態は社内外のステークホルダーの相反する無理難題を物理法則とCADと交渉力で設計図に変える、泥臭い役割なのだ。
日本でコンプライアンスが問われるようになって、どれくらい経つだろう。隠蔽、偽装、粉飾、認証不正。最近は品質不正を超える詐欺行為まで。様々な問題が明るみになるたびに「襟を正そう」と世の中の意識が変わってきたのを肌で感じてきた。社内規程や手順書作成、そしてそれらの運用はまさに企業にとってのコンプライアンスに直結する活動であり、僕はその真っ只中で仕事をしている。その前には、20年近くに渡り製品設計業務を担ってきた。たくさんの成功体験もしたが、失敗体験も数知れずしてきた。その間にいろんな人とのやり取りを重ねる中で、同じゴールを目指しているはずなのに激しく衝突することもあった。ゴールが同じなら正義も同じはず。なのに、仇を取るかのように身内で激しく対立するのはなぜなのだろう?

正義を真剣に考えるようになったのはつい最近、コロナ禍に入ってからだ。上司が変わり、任務が同じなのに仕事のしかたがまるで変わった。
同じ社内規程に基づいて仕事をしているはずなのに、まるで別のルールであるかのように解釈が変わってしまった。目的も目標もよくわからない中で、「自分で考えろ」「俺はそうしてきた」と。会社は品質を大事にしろというが、「納期最優先で動け、品質は落とすな」である。最後に説明責任を取るのは上司のはずなのに、大事な関係部署への説明会も平気で欠席される。ただでさえ厄介な設計案件を抱えていたのに、「何が正しいのか」さえわからないまま戸惑い、悩み続けた。
正義とは、何なのか。
答えは出るどころか暗中模索が続き、こころは蝕んでいった。ついに限界を迎えた僕は、医師の診断のもと長い療養生活を経験することになる。
ほぼ時を同じくして、ある国が『軍事作戦』と称し戦争を始めた。日本を含む世界中の国々がその国の行動を非難し、制裁を科した。結果的に、政治とは距離を置くはずのスポーツの祭典、オリンピックでその国の選手が自国の国旗を背負えない事態に発展する。
関係ないようで、どこか繋がる2つの話。
一旦、ここで日本語としての「正義」の意味を確認してみよう。
1 人の道にかなっていて正しいこと。「正義を貫く」「正義の味方」
2 正しい意義。また、正しい解釈。「四書正義」
3 人間の社会行動の評価基準で、その違反に対し厳格な制裁を伴う規範。
人の道にかなっていて正しいことが正義なら、本来、正義は人間の数だけあるはずだ。いわゆる極悪非道の犯罪者を引いたとて、それは億を遥かに超える数になる。それをひとつの方向に向けたのが宗教であり、国であり、条約であり、法律であり、定理であり、法則であると言える。つまり、先人の作った解釈の分かれにくい言葉という記号が正義の塊を形づくっている。
第2章 それでも食い違う正義
ところが、どれだけ先人が知力と論争に知恵を絞って編み出した大きな正義を前にしても、自分の信念という『内なる正義』によって偏向し、見え方が変わってくる。政治家がいい例だ。誰がいい、悪いではない。見え方が違うから、主張も違う。そして、時の流れに一番合った主張に人々は寄っていく。これが民主主義だ。
さて、仕事の話に戻る。
会社では、中期計画やKPIというゴールに向かってそれぞれ細分化された役割を持って仕事を進めることになる。しかし、頂上は同じでも登山ルートが変わってしまうのだ。
例えば、うちのようなメーカーでいくつかイメージしてみよう。
営業であれば、外から目標契約数を取り、それを履行して利益を得ること。
製品設計であれば、目標品質コスト納期を守る設計図を作ること。
生産技術であれば、図面通りのものを目標タクトタイムで作る工程を仕上げること。
工場であれば、目標時間内に、決められた数の合格品を作ること。
購買であれば、仕入先から目標価格で図面品質を守れる部品を仕入れること。

それぞれの立場における切り口で同じ社内規程を見ても、解釈のしかたが変わる。
例えば、「出図」と言えば設計からすれば図面を後工程に送る行為を言うし、工場からすれば図面を受け取る日だ。どちらも正しいのだが、「相手が悪い」と罵り合う事態に発展しかねない。
そうならないために、手順書を書く僕はまさに一言一句慎重に言葉を選ぶ。あえて解釈を制限したり、逆に拡げたり。どこにも不都合のない落としどころを考えて言葉を紡ぐ。
しかし、最終的な決定権を持つのはどの世界も「長」だ。その考え方ひとつで部下の働き方も変わる。今の長は、歴代の長と考え方において大きく異なる。端的に言うと「責任感が強い」とも言えるし、「部下を信用していない」とも言える。それまでの長は直下の部下の仕事ぶりのみを確認し、任せていた。それが100人を超える部員の仕事を全て見る、というのだ。
おかげで手順書の前提が変わり、全面改訂が続出している。以前からベテラン管理職が牛歩のスピードで進めていたものを、羊くらいにはペースを上げて対応しているのが僕だ。結局、先輩方はこの新しい長の正義から逃げていたのだ。
結果的に、板挟みに苦しんでいる。

元職場の先輩に、ある工程のおおよその検討時間を聞いたことがある。しかし、数字は返って来ずになぜか言い訳に終始された。そして怒り混じり、「自分達は頑張った」と職場の正義を主張された。
僕は手順書上で適正な検討時間の見積もりをしたくて聞いただけで、何の批評もしていない。すごく悲しい気持ちになった。
他にもある。
ある業務が、ずっと昔に特例を除いて禁止されていた。とある事情で、運用を守らないと他部署に迷惑をかける手順だったからだ。うちの部署は他部署と合意の上で「ローカル特例」と称してその業務運用を残していた。逆もまた然りで、運用さえ守ればリスクの低い納期管理ができたからだ。
ところが、それに異を唱えたのが今の長である。その運用を封じると、リスクの高い納期管理になってしまうのだが、「今の処理システムなら問題ないだろう」と強硬に改訂を主張する。何とか今まで通りの「風穴」を空けておきたかったが、他部署に聞くと「禁止しても問題ない」ところもある。
とはいえ、うちが主流でない事業であることもあり、他部署のやり方でうまくできる保証はない。僕は一方で長の正義、一方で現場の正義、一方で他部署の正義を聞きながら、とても見つかりそうにない妥協点という「大多数の正義」を探している。それが、一度メンタルダウンを起こした身には辛いところである。
第3章 民主主義は正義なのか
正義を主張することが、多くの人間が働く社会にとってあるべき姿なのか。事実、アメリカをはじめとする「西側諸国」と呼ばれる多くの国は、民主主義という形で主張した正義が政党という一大勢力となり、国会で法律となり、予算化されて国が動いている。正しいかどうかは数十年経たないとわからないし、経ってもよくわからないことも多い。
だが、その民主主義で選ばれた政権による政策で、失われた30年が現在進行形で今の日本の国力を低下させるきっかけになったようだ。僕が就職活動をしていた20年前は電機メーカーは有力な就職先で、実際に受けた会社もある。ところが20年後の現在、電機メーカー界隈は見る影もなく今度は自動車についても「100年に1度」とやらがやってきている。トップメーカーとその取り巻き以外は青色吐息に見える。
30年で日本のニ大産業が衰退の一途を辿っているのは、政治にも、それを選んだ僕らにも責任の一端はあるだろう。とはいえ、国民は公約やマニフェストという守られるかどうかわからない約束のどれに乗るかという大ギャンブルを強いられた結果ではある。
そう考えると、正義を掲げて多数派形成する民主主義は、果たして理想の国家主義なのだろうかという疑問が大きくなる。世の中には民主主義ばかりでなく、共産主義や王政、宗教者の先導する国もある。日本もかつては幕府が開かれて征夷大将軍が政を行っていたし、群雄割拠の時代もあった(一応歴代天皇のもとの君主制ではあるが)。それでこの世の春を謳歌した藤原道長のような人もいれば、やむにやまれず一揆を起こす百姓もいた。
さて、今の民主主義の世の中は幸せだろうか。

民主主義は多数決が前提で、最悪半数近くの人々の意見を置き去りにする制度だ。決まらないから、決める。そのための手段のひとつでしかない。その旗振り役のトップが最近他国に奇襲をかけて、収拾がつかなくなっても選んだ責任が旗振り役の国民にある、というブーメランが起こってしまう。かと言って、某国のように自治会から多数決を取ってボトムアップしていき、国の方針まで決めるやり方もいかがなものか。
民主主義は、「正義の味方」がいない為に生まれた、必要悪なのだろうと思う。かといって、何が「正義」なのかはわからない。
第4章 じゃあ逆に、悪とは何か
「正義の味方」と言えば、対極に「悪」がいるのが常だ。つまり、総統と怪人と戦闘員の皆さんが所属する、秘密結社という正義がある。もっと言うと、総統にも怪人にも戦闘員の皆さんにも守るべき生活や家族のために正義を振りかざしているだけなのかもしれない。
あれれ。
もし怪人がやられたら、怪人の家族は「パパの仇」と末代まで悪として正義の味方を憎むだろうに。

正義の味方が正義で 悪の秘密結社が悪で。
正義の味方が悪で 悪の秘密結社が正義で?
何が何だかわからなくなりそうだが、一方的な正義も、悪も存在しない。おのれの立場が全てを決めるのだ。
だから、命を落としたとて、メンタルダウンさせられたとて、必ずしもその相手を悪と断じることができない。
世の中の不条理と言えるだろうが、現実として受け容れるしかない。少なくとも、メンタル回復には間違いなく必要な思考だと実感している。
終章 結局のところ、沈黙が正義なのかもしれない
誰しも、人それぞれの正義を持ち合わせている。それが明るみになると、近い正義の仲間ができる一方で、光と影のように対立軸が生まれる。
それでも、前に出る勇気のある者はどんどん出て行けばいいし、言われなくてもどんどん進むだろう。しかし、それがうねりとなりコントロールできなくなるほど大きくなっていくと、不毛な陣地取りで大切な命や生活が奪われていく。
一方でその勇気のない大半の人間は、静かにしている。何も言わず、勇気のある者の決めた自分に近い正義に巻かれて生きることで、安心と平穏を得られるだろう。だが、いつまでその生き方に満足できるのだろうか。長いものに巻かれて生きている中で、その疑問が日に日に大きくなっていくのを感じる。
まるで、どこかの国のように。
(了)
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