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あおい、あおい 第5部「よそ者」 第2話「朝7時」


    翌週の月曜、笠原不動産。

    「山田さんと相談しました。580万円でお受けする、と」

    笠原が契約書のドラフトをテーブルに置いた。

    亮太郎は麻里と目を合わせた。

    「ありがとうございます。お願いします」

    引き渡しは契約から1ヶ月後。改修業者は笠原の紹介で、市内の小さな工務店「大野工務店」の親方を紹介してもらった。改修見積もりは約380万円。

    「総額——580万円、諸費用50万円、改修380万円。合計1,010万円」

    亮太郎が手帳に書き込みながら確認した。

    「夫婦の貯金は1,200万円。残り190万円が運転資金と当面の生活費」

    「うん」

    ——— ◇ ———

    6月、引き渡し完了。

    亮太郎は勤め先のフレンチビストロに8月末で退職する意向を伝えた。オーナーシェフは少し驚いたが、頷いた。

    「お前さんなら、どこでもやっていける。辞めるまで、しっかり頼むぞ」

    「はい」

    それから毎週月曜の朝、亮太郎と麻里はコンパクトカーで霧野へ。改修現場で大野親方と打ち合わせ、夜は横地宅で晩ご飯。亮太郎が東京の料理を振る舞う。

    「大野さん、カウンターの木材は何がおすすめですか」

    「ナラかタモですね。地元の山の木で手配できますよ」

    「お願いします」

    ——— ◇ ———

    7月の月曜の夜、駅前商店会の集会室。

    商店街振興組合が所有する2階建ての小さな建物。1階が会議スペース、2階が物置。長年、年に数回しか使われていなかったが、今夜は青年会の発足会のために横地が予約した。

    集まったのは8人。

    横地が口を開いた。

    「青年会は名簿上、5人いるんですが、ここ数年活動が止まっていました。今夜から再起動という形で。柳田さんご夫妻の移住がいい契機になりました。初めて顔を合わせる方も多いので、ひとことずつ自己紹介を」

    横地:「あらためまして、横地健太、31歳。文房具店の2代目です。商店街の青年会の発起人を引き受けます」

    川村:「川村詩織、29歳。地域おこし協力隊3三年目です。東京都出身で霧野に移住してきました」

    大野:「大野翔太、28歳。大野工務店の3代目候補です。柳田さんの店の改修工事を私たちが担当しています」

    山口:「山口由美、30歳。駅前の美容室『ゆみ』の店主です」

    佐々木:「佐々木拓海、32歳。駅前の地方銀行に勤めています」

    亮太郎:「柳田亮太郎、36歳。東京から移住します。フレンチビストロの料理人を10年やってきました」

    麻里:「妻の麻里、35歳。雑貨メーカーでバイヤーをしてきました」

    遠山:「遠山大樹、28歳。私は市役所職員ですが、今日は霧野市の1人の住民として、ここに来ています。地元出身の人間として、この街の未来を皆さんと一緒に考えたいです」

    席の空気が少し緩んだ。

    最初の議題は、商店街振興組合の「昔のルール」の改定提案。

    横地がA4の資料を配った。

    「現状の組合ルールで若手と移住者の参加を阻害しているもの、5つです」

    一、役員は60歳以上が原則
    二、月1回の早朝清掃(日曜朝7時から1時間)の全員参加義務
    三、年末の餅つき行事の全戸参加義務
    四、会費は間口の広さ基準(昭和の店舗構造基準のまま)
    五、商店街イベントは長年、前年踏襲が原則。新提案は事実上、上がってこない

    麻里:「私から見れば、どれも変です。年齢制限の合理的な理由はありません。早朝清掃も餅つきも、参加したい人が参加する形でいいはず。会費は売上規模か定額が公平。イベントは提案制と投票制が民主的です」

    大野:「うちの父も組合に40年いますが、息子の俺が口を挟むと『お前はまだ若い』と。だからずっと黙ってきました」

    山口:「うちの美容室は駅から一番遠い場所にあるのに、駅前のお店と同じ会費基準なのは、正直、納得しにくいです」

    佐々木:「銀行員の立場から言えば、会費の不透明さは組合の持続可能性を損ねています」

    横地:「だが、嶋崎会長は半世紀近くこれを支えてきた人です。私たちが突然否定すれば、プライドを傷つけることになる」

    遠山:「だから、丁寧な対話が必要です。市役所の立場としても、商店街振興組合は自治会と並んで地域コミュニティの基盤。組合が壊れて移住者だけが残る形は、望ましくありません」

    亮太郎:「私から嶋崎会長にお話をお願いしてもいいですか? 笠原さんに同席してもらえるなら」

    横地:「ぜひ」

    ——— ◇ ———

    8月、笠原不動産の応接室。

    嶋崎義雄(71歳・商店街振興組合会長)、田島政義(68歳・生花店)、加賀谷富夫(74歳・町内会長)の三人が揃って来た。

    向かいに、笠原、亮太郎、麻里、横地、遠山。

    横地が青年会の提案書を嶋崎に手渡した。嶋崎はゆっくり目を通した。

    田島:「俺たちの時代は、月1回の日曜清掃に全員参加するのが当たり前だった。それで商店街は半世紀続いてきた」

    加賀谷:「町内会としても、餅つきは伝統行事です。参加自由にしてしまうと、形が崩れる」

    嶋崎はまだ黙っていた。

    亮太郎:「お気持ち、分かります。半世紀、商店街を支えてきたのは嶋崎さん方の世代です。私たちはその上にこれから何かを積み上げさせていただく立場です。だけど、」

    亮太郎は息を整えた。

    「日曜朝7時の清掃に毎月必ず参加できる人は、もう半数もいません。私たちのような移住者は別の生活パターンで生きています。役員に年齢制限を設ければ、若手の声は永遠に届きません。半世紀の続きを別の形でご一緒できるように、ご相談に来ました」

    嶋崎はしばらく亮太郎の顔を見た。

    「東京から来た人は、半世紀の重さを知らないだろうな」

    笠原が間に入った。

    「嶋崎さん。私は霧野で半世紀近く、不動産屋をやってきました。父の代から合わせて72年。商店街の変化は毎日見ています。役員60歳以上原則は、昭和50年代に嶋崎さん方が決められたルールです。あの頃の商店街と今の商店街は同じではありません」

    田島:「だが——」

    笠原:「田島さん、花屋として40年。あなたは商店街を愛しています。だからこそ、次の半世紀を別の世代が別の形で続けられるように、譲り渡す時期に来ているのではないでしょうか」

    加賀谷もしばらく黙った。

    嶋崎はコーヒーカップを置いた。

    「考えさせてもらいたい」

    それだけ言って、嶋崎は立ち上がった。田島と加賀谷も続いた。

    ——— ◇ ———

    翌週の日曜、早朝清掃の日。

    午前7時。商店街のアーケード入口に集まったのは、3人だった。

    嶋崎。田島。加賀谷。

    ほかは、来なかった。

    3人は黙ってほうきを持った。落ち葉を掃いた。缶を拾った。排水溝の蓋を洗った。

    40年、毎月第3日曜にやってきたことを、今日も、3人だけでやった。

    喫茶店「やまだ」のシャッターの前を掃くとき、嶋崎は少しだけ、立ち止まった。

    治郎さんが倒れてから、あのシャッターは閉じたままだ。

    シャッターのスチールは、錆が浮きかけている。横の換気口に枯葉が詰まっていた。嶋崎はそれを、素手でそっとかき出した。

    田島も加賀谷も、何も言わなかった。

    3人で1時間、黙って、続けた。

    帰り際、嶋崎はアーケードの入口から振り返った。

    8時を過ぎても、人通りはまだ、少ない。

    「……20年前は、もっと来てたな」

    田島が、誰にともなく言った。

    嶋崎は返事をしなかった。

    ——— ◇ ———

    2週間後、商店街振興組合の臨時総会。

    嶋崎会長の発議で、5つのルール改定が議題に上がった。

    採決:

    一、役員資格の見直し → 「60歳以上」の年齢制限は撤廃。ただし「霧野市内に在住5年以上」を新たな条件として加える、という妥協案で、賛成多数で可決
    二、早朝清掃の参加自由化(強制義務の撤廃) → 賛成多数で可決
    三、餅つき行事の参加自由化 → 賛成多数で可決
    四、会費基準の見直し(全店舗一律化+景気の良い店は任意で追加寄付) → 賛成多数で可決
    五、イベント企画の提案制+投票制への移行 → 嶋崎ら年長派から「組合の運営根幹に関わるため、もう少し時間をかけて議論したい」との発議があり、継続審議となった

    嶋崎は可決された4議題には反対票を投じなかった。だが5つ目の議題では、議論を次回の総会まで持ち越すよう、自ら提案した。

    横地は頷いた。

    「分かりました。次の総会で、もう一度提案します」

    嶋崎にも、半世紀守ってきた最後の砦があった。

    総会の後、嶋崎が亮太郎の隣に近づいてきた。

    「柳田さん」

    「はい」

    「東京の人は、こういうのに慣れているんだろうな」

    「いえ、東京の若い人も、変なものは変と言える人ばかりじゃないです」

    嶋崎はしばらく笑った。

    「儂、半世紀、商店街を自分の家のように思ってきた。だが、次の半世紀は儂が見るわけじゃない」

    「……」

    「次の半世紀を見る人たちが自分たちで決めればいい。儂は、もう少し横で見届けるだけにする」

    嶋崎は少し間を置いてから、続けた。

    「イベントの企画については、もう少し時間をください。組合の運営根幹に関わる話だけは、儂の代でもう一度考え直したい部分もある」

    「分かりました。お待ちしています。」

    亮太郎は頷いて、深く頭を下げた。

    声の大きい年長者の中で、嶋崎は最も早く多くを受け入れた。田島と加賀谷もゆっくりと後を追っていく。それでも組合の中には、まだ「気に食わない」と裏で漏らす者がいる。だがその声は次第に少数になっていく。

    ——— ◇ ———

    総会の翌日、亮太郎と麻里は改修中の店舗の前に立った。

    「5年、か」

    麻里が呟いた。役員資格の「在住5年以上」条件。柳田夫妻が役員になれるのは5年後。

    「変なものは変と言える街なら、5年あれば、ここの住民として認められる」

    亮太郎は頷いた。

    「街を知る時間に、しよう」

    4つの前進と、うち1つの妥協、そして1つの保留。よそ者の最初の1年が、こうして形になっていく。


    【解説:商店街振興組合と青年部のルール改定】

    商店街振興組合は、中小企業庁所管の「商店街振興組合法」に基づく組織。

    • 全国に約2,000組合(中小企業庁・令和五年)

    • 経営者の高齢化、後継者不足が深刻

    • 組合内に「青年部」を設置する組合が多いが、活動の形骸化が課題

    「ルール改定」のプロセス:

    • 組合定款・運営細則は、総会の議決で変更可能

    • 多数決の原則だが、長老支配の組合では事実上「会長一任」が慣例化していることも

    • 移住者や若手の参入が、慣例の合理化を促す触媒になることがある

    霧野市の場合、青年会の再起動と、よそ者の率直な提案が、組合の自己改革を後押しした。

    (出典:商店街振興組合法/中小企業庁「商店街実態調査」)

    ——— ◇ ———

    8月末、亮太郎が東京のフレンチビストロを退職。9月1日、霧野市に夫婦で完全移住。

    9月7日、複合空間オープン日。新しい屋号は「柳家(やなぎや)」。柳田の柳から取って、夫婦で決めた。

    ただし店内の壁、入口近くの一角には、山田治郎・美代子夫妻が43年掲げてきた旧看板「やまだ」をガラスケースに入れて敬意を込めて残してある。

    朝7時、柳家の最初のお客様は、商店街の年長者3人だった。嶋崎、田島、加賀谷。

    「コーヒーを3つ」

    亮太郎は43年使い込まれたコンロで湯を沸かし、豆を挽いた。

    嶋崎がカウンターに座ってコーヒーを口に含んだ。

    「悪くないな」

    笠原も後から来た。

    「いらっしゃい、笠原さん」

    「コーヒーを1つ」

    笠原は遠山と同じテーブルに座った。

    その日の午後、コワーキング席には地元の若手とUターン者がぱらぱらと座って、パソコンを開いた。

    夕方、麻里がセレクトした雑貨を通りすがりの主婦が覗いていく。

    夜7時、亮太郎がバーカウンターに立った。最初の客は遠山と横地夫妻と川村。

    「乾杯」

    柳家の1日目が、静かに、しかし確実に流れていった。

    ——— ◇ ———

    オープンから1週間後、金曜日の夕方。

    カフェタイムが終わりかけた店内。麻里が雑貨棚を整理していると、店の前に女性が1人立った。

    30代半ば——疲れた表情。4歳くらいの男の子の手を引いている。

    「いらっしゃいませ」

    麻里が出迎えた。

    女性は少し躊躇いながら、店内に入ってきた。

    「あの、コーヒーをいただいてもいいですか? 子どもにはジュースで」

    「もちろんです。お子様の椅子、お持ちしますね」

    亮太郎が奥から子供用の補助椅子をひとつ出してきた。

    女性はカウンター席にゆっくりと座った。

    「初めまして。木村と申します。木村 真奈美です」

    「柳田麻里です」

    「私、市営住宅から引っ越し先を探していて。市役所の遠山さんという方から、こちらのお店のことを聞いて」

    亮太郎と麻里は目を合わせた。

    「いらっしゃい。ゆっくりしていってください」

    木村真奈美は男の子を補助椅子に座らせて、コーヒーをゆっくりと口に運んだ。

    その目に少しだけ安堵の色が滲んだ。

    (第六部「利用者・木村真奈美」へ続く——シングルマザー世帯の住まい探し、子育てと家計、戸建て賃貸との出会い)

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