あおい、あおい 第5部「よそ者」 第1話「変なものは変」
日曜日の夜、奥沢の2DKマンション。
亮太郎の勤め先のフレンチビストロは、月曜定休。明日がいよいよ、霧野の喫茶店「やまだ」の内見の日。
麻里がテーブルに夕食を出した。鴨のコンフィは亮太郎が家で時々作る自慢の一品。
「明日、いよいよだね」
「ああ。霧野の喫茶店『やまだ』」
麻里は白ワインを2つのグラスに注いだ。夫婦で乾杯。明日への期待を肴に。
「夫婦で勝負だね」
「うん」
結婚六年目。子どもはいない。
東京で亮太郎がフレンチビストロの料理人を10年。麻里が大手雑貨メーカーでバイヤー兼MD(マーチャンダイザー:商品企画から仕入れ、店頭での販売戦略まで一貫して担う職種)を10年。
「いつか、自分たちの店を」と、夫婦で温めてきた夢。
だが、東京では家賃が高すぎる。中目黒の小さな店舗でも、月の家賃25万円。独立は現実的じゃなかった。
去年の秋、夫婦2人で千葉県房総半島南部に旅行に来た。霧野駅前の、シャッターとまだ営業している店が半々の商店街を歩いて、「ここなら、できるかもしれない」と2人で思った。
「亮くん」
「うん?」
「明日、上手くいくといいね」
「ああ。いよいよ明日、答えが出るな」
「うん」
麻里はもう1杯、ワインを注いだ。
——— ◇ ———
翌日、月曜日の朝10時、千葉県霧野市駅前。
夫婦はコンパクトカーでアクアラインを抜け、館山自動車道経由で2時間。
笠原不動産で、笠原正吾と合流。
「初めまして。柳田さんですね。電話でお話しさせていただいた笠原です。お待ちしておりました。では現地、行きましょうか」
笠原の軽乗用車の助手席に亮太郎。後部座席に麻里が乗り込んだ。
「あ、市役所の遠山さんからお話を伺いました。空家等活用促進区域、指定されたばかりだと」
「はい。お2人の案件が、指定後の最初の事例になるかもしれません」
亮太郎は頷いた。
——— ◇ ———
商店街の中ほど、喫茶店「やまだ」。
シャッターは半分上がっていた。
山田美代子が店の中で片付けの手を止めて待っていた。76歳、白髪だが、姿勢はまっすぐ。
「初めまして、柳田と申します。妻の麻里です」
「美代子です。よろしくお願いします」
美代子はゆっくりと頭を下げた。
亮太郎と麻里は店内を見回した。
カウンター席が6つ、テーブル席が4つ。奥に厨房。2階が住居。築43年、店舗併用住宅。床は長年の客の足で艶やかになっていた。
「2階の水廻りは、いつリフォームされたんですか?」
笠原が訊いた。
「平成27年頃です。私と治郎が70前後になったときに、ユニットバス、システムキッチン、温水洗浄便座のトイレをまとめて新しくしました。あれから11年」
「築43年で、2階の水廻りが10年ちょっと前のリフォーム済み。これは引き継ぐ方には大きいですね」
笠原は頷いた。
「1階の店舗の厨房は?」
「店の厨房は、43年前、創業のときのままです。プロ用のガスコンロ、業務用冷蔵庫、業務用シンク。治郎が毎朝油を差して丁寧に使ってきました」
亮太郎は厨房に立った。年季は入っているが、清掃が行き届いている。
「これは使えますね。むしろこちらの方が、安いプロ用設備の新品より馴染んでいる」
美代子は嬉しそうに頷いた。
「治郎が43年、毎朝7時に火を入れてきたコンロです。あなたが引き継いでくださるなら嬉しい」
——— ◇ ———
亮太郎は麻里の方を見た。
麻里は店内をすでに、自分の頭の中で業態転換させていた。
「朝7時からコーヒーとモーニング。地元の通勤客向けと商店街のみなさんも。11時からはランチ。亮くんのフレンチビストロ風で、地元の食材を使うつもりです」
麻里は手帳に書き込みながら続けた。
「14時から19時は、カフェと、私がセレクトした雑貨販売を並行で。テーブルの一部は電源・WiFi完備のコワーキング席として、ドリンクオーダーで利用してもらう。19時からは夜のバーは亮くんの時間だよね」
亮太郎は頷いて、補足した。
「閉店は23時を一応の目安にします。でも、お客様がいらしてくださっている限り、遅くとも深夜2時までは対応するつもりです」
「一日の中で業態のレイヤーを変える、複合空間」
笠原は頷いた。
「可能ですか?」
「用途変更の手続きが必要です。だが空家等活用促進区域に指定されたばかりですから、簡素化されると遠山主事から聞いています」
「分かりました」
笠原は、メモを開いた。
「価格のご相談ですが、山田さんからは店舗併用住宅一括で六百万円、というお話を預かっています。改修費はお二人のこだわりと内容次第ですが、3百万円から5百万円程度と、私は見込んでいます」
亮太郎は深く息を吸った。総額、約950万円から1,150万円。夫婦の貯金1,200万円の射程内。
「美代子さん、前向きに検討させていただきます」
美代子は——目をわずかに潤ませた。
「治郎が入院先で聞いたら、きっと喜びます」
【解説:店舗併用住宅の業態変更と用途変更の確認申請】
建築基準法 第87条による「用途変更の確認申請」が必要となるのは、次の2要件の両方を満たす場合:
変更後の用途が、建築基準法別表第1(い)欄の特殊建築物に該当(飲食店・店舗・ホテル・劇場・病院等)
かつ、用途変更部分の床面積が200㎡超(令和元年改正により従来の100㎡から拡大)
→ 200㎡以下なら、用途変更の確認申請は不要。ただし、消防法(避難・防火区画)や保健所(飲食店営業許可)等の手続きは別途必要。
また、「類似の用途」間の変更(例:喫茶店→ファミリーレストラン、いずれも飲食店)は、確認申請不要。
喫茶店「やまだ」の場合:
既に「飲食店」(特殊建築物の店舗)として営業
新業態:飲食店(カフェ・ランチ・バー)+物品販売(雑貨)+コワーキング席
床面積はおよそ100㎡前後(カウンター席6+テーブル4卓+厨房)
→ 200㎡以下のため、用途変更の確認申請は不要
既存不適格:
建築当時は適法だったが、現行法に適合しなくなった建築物
大規模な改修・増築の際は、現行法への適合が必要
空家等活用促進区域に指定されていれば、接道規制等の合理化が適用される
霧野市の場合、令和8年秋(市議会にて可決)に区域指定がされたばかり。柳田夫妻の案件は、指定後の最初の業態変更事例になる可能性。
(出典:建築基準法第87条・別表第1/国土交通省「建築基準法の一部を改正する法律(令和元年改正)」/改正空家法 R5.12施行)
——— ◇ ———
午後、夫婦は商店街をゆっくり散歩した。
「あの、失礼ですが、もしかして内見にいらした方ですか?」
声をかけてきたのは30歳前後の男性。文房具店の店先でシャッターの油を差していた。
「はい、柳田と申します」
「あ、笠原さんからお聞きしました。横地と申します。隣の文房具店の2代目です。商店街の青年会は名簿上、5人いるんですが、形骸化していて、実質、私が動かしている感じです」
横地は笑った。
その時、若い女性が自転車で通りかかり、横地に気づいて停まった。
「あ、横地さん、こんにちは」
「川村さん、ちょうどよかった。こちら、東京から内見でいらした柳田さんご夫妻」
「初めまして、川村詩織と申します。地域おこし協力隊の3年目です。東京都出身で、大学卒業後、都内のシンクタンクに2年勤めてから霧野市に移住してきました」
亮太郎と麻里は挨拶を交わした。
——— ◇ ———
4人で、文房具店の店先に立って、15分ほど、立ち話。
横地:「商店街振興組合は、長年、嶋崎会長が率いてきました。私たちの世代ではまだ声が届かないんです」
川村:「移住者を受け入れる構造が、霧野市にはまだできていません。私が協力隊3年目で痛感していることです」
亮太郎と麻里は頷きながら聞いた。
その時、商店街の反対側から白髪の男性がゆっくりと歩いてきた。
「あ、嶋崎会長」
横地が、姿勢を、正した。
71歳。商店街振興組合 会長、嶋崎義雄。
「ああ、東京から、内見でいらした方ですか」
声は、丁寧だが、どこかぶっきらぼう。
「柳田と申します。妻の麻里です」
「商店街振興組合の会長の嶋崎です。よろしく」
会話の流れで、組合のルールの話になった。
「組合の役員は、原則として60歳以上の方が務めてもらってます。商店街は長年やってきた経験がものをいうから」
麻里は軽く目を細めた。
「あの、役員に年齢制限を設けている理由は何ですか?」
嶋崎は、ちょっと驚いた顔をした。
「いや、長年やってきた人が」
「すみません」
麻里は、丁寧に、しかしまっすぐ言った。
「変なものは、変と感じました。年齢で区切る合理的な理由が、私には分かりません」
横地と川村は、少し目を輝かせた。
笠原が、間に入った。
「いやいや、嶋崎さん、まあ、ゆっくり、お互いを知ってから、で」
嶋崎はしばらく麻里の顔を見ていた。
「東京の人は、率直、ですな」
それだけ言って、嶋崎はゆっくりと歩き去った。
——— ◇ ———
夜、横地の自宅、2階の食卓。
横地と、妻の友佳里(28歳・小学校の英語講師)、川村、そして亮太郎と麻里。
「柳田さん、いきなり言ってくれましたね」
横地は笑いながら、グラスにノンアルコールビールを注いだ。亮太郎と麻里は今夜のうちに東京へ車で帰る予定だから、アルコールは飲めない。
「すみません、つい」
「いや、気持ちよかったです。私はずっと、同じこと思ってましたから」
川村も頷いた。
「私も。よそ者だから言える、と思ってました。だけど、なかなか言えなくて」
麻里は少し申し訳なさそうに笑った。
横地が切り出した。
「柳田さん。もし内見が契約に進むなら、改修工事の間、東京から現場確認に通われますよね?」
「ええ。東京の仕事は当面続けながら、毎週月曜日、うちの店の定休日に車で来て火曜の朝に戻る予定です」
「だったら、うちの1階に空いてる六畳と四畳半があります。改修工事の確認に来られる月曜の夜、ご夫婦で泊まっていきませんか?」
「ありがとうございます」
「宿泊代は要りません。代わりに、たまに、晩ご飯のおかずを東京の料理で振る舞ってくれたら、それで」
横地は笑った。友佳里も笑った。
「あと、月曜の夜に開催する青年会の勉強会、一緒に来てくれますか? 商店街改革と地方創生の勉強をしています」
「お安いご用です」
亮太郎は頷いた。
——— ◇ ———
夜10時、夫婦はコンパクトカーで東京へ戻っているところだ。
「やっていけそう?」
麻里が訊いた。
亮太郎はアクアラインの照明を見ながら答えた。
「ああ。変なものは変と言える街なら、生きていける」
「うん」
麻里は頷いて、スマートフォンのメモアプリに指を走らせた。
「ねえ亮くん、カウンターは、どうしたい?」
「あの厨房のコンロを見せる形にしたいな。お客様から火が見える。木のカウンターで奥行きは80cm」
「いいね。壁は?」
「漆喰で、自分で塗ろうかな。経年で味が出る」
「私、雑貨棚を古い学校の本棚みたいなのを探したい。生活感のある雑貨を無造作に並べる感じ」
「いいな。照明は?」
「ペンダントライト、5つ。色は温かい電球色で」
「夜のバーの照明はもう少し落とせるように調光器」
「うん」
2人は笑った。
「購入、決めたいね」
「うん。具体的な金額と条件は、来週、笠原さんともう一度詰めよう。山田さんからの600万円の提示も、もうひと押しできるかもしれない」
「うん」
2人の前に、東京湾アクアラインの長い直線が伸びていた。
その先に、東京ではなく、もうひとつの故郷が待っているような気がした。
(第五部 第二話に続く——買付申込・改修工事着手・青年会の発足・嶋崎会長との再対峙)