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あおい、あおい 第6部「利用者」 第3話「街のかたち」/最終話・エピローグ


    一.半年後・令和9年10月/高村 正治

    東京、世田谷区奥沢の高村家。土曜の朝。

    郵便受けから、千葉県霧野市役所からの茶封筒。「固定資産税 納税義務者変更のお知らせ」。

    4年と7ヶ月、放置していた家。春に田所健一さんに売却。書類の上では、売買決済のその日のうちに名義が移っていた。だが、こうして市役所から「税の担当が変わりました」という知らせが届くまで、正治にはどこかまだ実感がなかった。

    正治はリビングのテーブルに書類を置いた。妻の百合がコーヒーを淹れた。

    「終わったね」

    「ああ」

    「父さん、どこかで見てるかな」

    正治は壁の遺影を見上げた。父・忠雄、笑っている。

    田所さんから先週、手紙が届いていた。「桜山12番地に、木村さんというシングルマザー世帯の方が、令和9年4月から入居されました。4歳の男の子が、毎朝、柿の木の新芽を見て、『あおい、あおい』と指を差すそうです」

    正治は縁側の写真を思い出した。

    「父さん。次の人に、ちゃんと渡せたよ」

    正治は呟いた。

    ——— ◇ ———

    二.1年後・令和10年4月/田所 健一

    霧野市、桜山12番地。

    田所健一が、半年に1度の物件点検と挨拶で訪れた。家賃は口座振替で毎月入金されているから集金の必要はない。だが外壁・屋根・庭の状態を年に2回、自分の目で確かめておきたかった。

    「お変わりないですか?」

    「ええ。柿の木が今年も青い実をつけました」

    木村真奈美が玄関で迎えた。子供たち3人も、1年前より少し背が伸びている。

    庭の柿の木は、55年前に高村忠雄さんが植えたまま、青々と立っている。

    田所は帰路、コンパクトカーの中で家計簿を頭の中で回した。

    購入150万円+諸費用45万円+シロアリ防蟻65万円+瑕疵保険10万円+建築士料8万円+改修費22万円=総額300万円。
    家賃月4.5万円×12ヶ月=年54万円。表面利回り18%(年家賃54万÷総額300万)。固定資産税・修繕積立等の経費を引いて、年34万円の純収入=実質利回り11.3%。
    回収期間:約9年。

    空き家・古家投資の業界標準(全国古家再生推進協議会2022年実績)では、平均物件購入額318万円+平均工事額279万円=総投資約600万円、平均確定利回り約14%。会員の90%以上が利回り10%以上を確保している。

    田所のケースは、協議会平均と比べて総投資額が約半分(300万円)、表面利回り18%・実質利回り11.3%で、標準的な良い水準に乗っている。150万円という超低価格購入と、22万円のDIY改修、そして、平成27年に高村忠雄さんが施した水廻りリフォームの「遺産」、これらが、平均より小さな総投資額で、平均より高い利回りを実現した。

    田所家には月約3万円の副収入が加わった。妻・由香にも、ようやく認められた。

    田所は次の物件を、すでに探し始めている。

    「子供の声で家が生き返る」、あの感覚を、もう一度味わいたい。

    ——— ◇ ———

    三.1年後・令和10年4月/笠原 正吾

    笠原不動産。

    笠原正吾、63歳。

    父・庄一の家系図ノートを開く回数は、以前より増えた。

    赤鉛筆の印「相続発生」「居住者なし」「空き家化」は増え続けている。

    だが、

    青鉛筆の印「活用成立」「移住成約」も、少しずつ増えてきた。

    高村家を田所健一さんに売却。さらに木村真奈美さんに賃貸。
    山田家(旧喫茶店「やまだ」)を柳田夫妻が引き継ぎ、複合空間「柳家」として再生。
    そのほか、笠原が空家等管理活用支援法人として手がけた案件は、今年だけで5件。

    娘・葉月が東京から、月に2度、帰ってくるようになった。看護師の仕事のかたわら「お父さん、引退の計画、そろそろ立てて」と、ノートを覗き込んでくれる。

    「もう少し、もう少しだけ」

    笠原は呟きながらペンを取った。


    【解説:地方の空き家対策の中長期効果(参考)】

    国土交通省「住宅・土地統計調査」によれば、空き家率は5年ごとに更新される。空家等活用促進区域や、支援法人制度の効果は複数年の継続的な取り組みを経て、初めて数字に現れる。

    霧野市(仮想)における、施行後1年の参考データ:

    • 区域内の業態変更件数:8件

    • 移住者数:14世帯(うちシングル世帯3、子育て世帯6、よそ者2、Uターン3)

    • 空き家率:12.8%(前年比 -0.8ポイント)

    • 人口:35,098人(前年比 -119人)

    人口減少は制度の力だけでは止められない。だが、空き家率の改善ペースは、確かに変わり始める。

    (参考出典:国土交通省「住宅・土地統計調査」、各自治体の空き家対策計画 効果検証)

    ——— ◇ ———

    四.一年後・令和10年5月/遠山 大樹

    霧野市役所、企画政策課。

    遠山大樹、29歳。

    机の上に—「霧野市・空家等活用促進区域・施行後1年・成果レポート」。

    数字はまだ厳しい。人口は減り続けている。だが、空き家率の下げ幅はこれまでで最大だった。

    渡辺課長が肩を叩いた。

    「遠山くん、よくやってる。来春、主任に推薦したいと考えてるよ」

    「ありがとうございます」

    遠山は聞き書きノートを開いた。新しいページに書き始めた。

    「木村真奈美(37歳・看護助手):娘の美咲が、はじめて、私と目を合わせて笑ってくれた朝がありました」

    ノートには入庁以来6年で、70名以上の同世代の声が書き溜められている。

    遠山は少しだけ笑った。

    縁側で父・健作が、相変わらず田圃を眺めている。

    「お父さんは田圃を守る。お前は街を見続けてくれ」あの言葉を思い出した。

    ——— ◇ ———

    五.3年半後・令和12年10月/柳田 亮太郎・麻里

    柳家、開店から4年。

    亮太郎、39歳。麻里、38歳。

    朝7時、いつものようにコンロに火を入れる。47年前、山田治郎さんが始めた仕事を、今は亮太郎が引き継いでいる。

    ———

    午前11時ごろ、店の前にスマートフォンを構えた女子高生が3人立っていた。

    1人は木村美咲、桜山の子だと、麻里はすぐに分かった。

    「すみません。柳家さんの動画を撮らせてもらえますか。霧野の商店街の動画チャンネルをやっていて」

    亮太郎は少し考えてから「どうぞ」と頷いた。

    「チャンネル名、なんていうの?」

    「霧野KOMACHIです。霧野の古い建物やお店を、残しておきたくて」

    3人は看板、カウンター、入口のガラスに映る光の角度まで熱心に撮影していった。麻里は帰り際にコーヒーを3杯テイクアウトカップで渡した。

    「取材、ご苦労様」

    美咲が深く頭を下げた。

    ———

    夜、店に青年会のメンバーが次々と集まってきた。

    「亮ちゃん、麻里さん、開店4年おめでとう!」

    一昨年、商店街振興組合の新会長に就任した横地健太が妻の友佳里と一緒に花束を差し出した。霧野の野花を集めた季節の花束だった。

    「私からは、これ。霧野の山で採れたはちみつです」

    大野翔太が自宅の養蜂で採ったというはちみつの瓶をカウンターに置いた。

    川村詩織が一通の手紙を差し出した。

    「山田美代子さんから、預かってきました」

    亮太郎は手紙を開いた。

    治郎は今も療養中ですが、いつも「あの厨房は、今、どうなってる?」と聞いてくれます。あなたがコンロに火を入れ続けてくれていること、治郎の人生の大きな励みです。4年、本当におめでとう。 山田 美代子

    亮太郎の目がわずかに潤んだ。

    「治郎さん、ちゃんと、続けます」

    麻里も頷いた。

    嶋崎前会長は3年前から商店街振興組合の名誉会長に。田島と加賀谷も「次の世代に任せた」と徐々に引いていった。

    柳家の壁、入口近くの一角。山田治郎・美代子夫妻が43年掲げてきた旧看板「やまだ」が——ガラスケースの中で変わらず見守っている。

    夜10時、カウンターで亮太郎は麻里と乾杯した。棚の奥から出してきたのは、開店のときに仕入れておいた1本、南仏産、2021年のカベルネ。4年が経って、ちょうど飲み頃になった。今夜は車に乗らない夜だから。

    「これ、開店のときに買ったやつ」

    亮太郎が言った。

    麻里はグラスを持ち上げながら、少し笑った。

    「4年も待ってたの」

    「ちょうどよく熟れてきた気がして」

    「4年、よく続いたね」

    「うん」

    「昼間の子たち、また来るといいな」

    麻里は頷いた。

    ——— ◇ ———

    六.4年後・令和12年10月/木村 真奈美

    桜山12番地。

    美咲、16歳、高校1年生。蓮、13歳、中学1年生。健、7歳、小学1年生。

    木村真奈美、39歳。看護助手から、准看護師の試験勉強を始めている。

    午前6時半、台所。朝食を作りながら、真奈美は縁側を見た。柿の木の枝に、今年も青い実が実っている。

    美咲がスマホを置いた。声が少し低かった。

    「お母さん、お父さんからメールが来た」

    真奈美は手を止めた。

    「お父さんから?」

    「うん。『あなたたちが元気で暮らしているなら、それでいい』って」

    台所に、しばらく沈黙が落ちた。

    「美咲、会いたい?」

    美咲はすぐには答えなかった。フライパンの音だけが続いた。

    「……会いたい気持ちは、ある。でも、お母さんがしんどかったのって、お父さんのことがあったからじゃない。そう思うと、素直に会いたいって言えなくて」

    真奈美は何も言わなかった。美咲の横顔を、ただ見ていた。

    「だから、今は会わない。私にはここで、やることがあるから」

    美咲は小さく笑った。真奈美も、それに応えるように笑った。

    ———

    美咲がスマホを置いて、台所に来た。

    「お母さん。クラウドファンディング、始めてもいい?」

    「何に使うの?」

    「商店街に空き店舗が1軒あるじゃない。あそこを地域の人が使えるスペースに改装して、クラウドファンディングで資金を集めたくて。それ、クラスの侃太郎のアイデアなんだ」

    真奈美は手を止めた。

    「侃太郎?」

    「うん。私たちが動画を作ってるのをSNSで見てて、一緒に盛り上げようって声をかけてくれたの。空き店舗の活用も、クラウドファンディングも、最初に言いだしたのは侃太郎で」

    美咲は少し間を置いてから、続けた。

    「……調べ方がすごくて。建物の所有者さんへの交渉の仕方とか、クラウドファンディングの仕組みとか。笠原さんに連絡してもいいかって私に聞いてきたのも、侃太郎で」

    真奈美は娘の横顔を見た。耳が、わずかに赤かった。

    「いい子なんだね」

    「……うん」

    美咲はそれ以上、何も言わなかった。

    霧野KOMACHI——美咲が友人のはな、なおと始めた商店街の記録チャンネル。最初は授業の自由研究のつもりだったが、投稿を重ねるうちに霧野市外からも「見てます」と連絡が来るようになった。築60年の建物の梁のアップ、看板の文字の細部、年老いた店主が手を動かしている様子など、スマホで撮ったそれらが、少しずつ再生されていた。

    ショートドラマも1本、作った。旧看板「やまだ」と「柳家」を舞台に、「47年前のコーヒーと、今日のコーヒー」というテーマで5分ほどの作品。亮太郎に許可をもらって、休業日の早朝に厨房を借りた。セリフは全員で考え、演じたのも3人自身だった。侃太郎はその動画を、公開した翌日に見ていた。

    「クラウドファンディング、目標金額はいくらにするの?」

    「30万円。賃料とか資金の使い道とか、全部まだこれから。笠原さんに相談したら一緒に考えてくれるって言ってくれたし、横地さんも協力してくれるって」

    真奈美は少し考えた。

    美咲が、自分から地域のことを動かそうとしている。決まっていないことだらけでも、とにかく動こうとしている。そして、その背中を押した誰かがいる。

    「やってみなさい。うまくいかなくても、やったこと自体が残るから」

    美咲はまた、母の顔を見て笑った。

    家賃補助は令和14年の春で受給期間が終わる。それまでに准看護師の資格を取って、家賃補助なしでも、ここで暮らせるようにしておきたい。

    ——— ◇ ———

    七.ラスト・4年後の朝・街の風景/令和12年11月

    霧野市、朝7時。

    桜山12番地、木村家。柿の木の下で健(7歳)がサッカーボールを蹴っている。蓮が「もっと強く」と笑いながら構えている。美咲は縁側でスマホを開き、昨日撮った柳家の動画の編集メモを確認している。侃太郎からのメッセージが一件、来ていた。

    駅前商店街、柳家。亮太郎がコーヒー豆を挽いている。麻里が雑貨棚を整えている。横地がコーヒーを飲みに、店に入ってきた。麻里のスマホに通知が届いている。「霧野KOMACHI」の最新動画は昨夜からの再生数が300増えていた。美咲はまだ知らない。

    笠原不動産、笠原正吾がシャッターを上げる。父・庄一のノートを机に置く。今日も、青鉛筆の印がひとつ、加わる予定。引き出しの隅に、美咲から届いた「クラウドファンディングの改装見積もりをお願いします」というメモが、折りたたまれて入っている。

    霧野市役所、2階の企画政策課。遠山大樹が新しい議案書を開く。「子育て家庭家賃補助 受給期間延長 議案」。ページの端に、美咲たちのチャンネル名を走り書きしたメモが貼ってある。先週の住民懇談会で、横地から「若い子が面白いことやってるよ」と教えてもらった。

    東京・奥沢、高村正治の家。リビングに、田所健一さんからの今年の手紙。「桜山の柿の実が、今年もたわわになりました。木村さんのお嬢さんが、商店街の動画チャンネルを始められたそうです」。

    ———

    父・庄一の家系図ノート、40年分の記録。
    遠山大樹の聞き書きノート、7年で70名以上の声。
    美咲のスマホの中の映像、まだ、3本。

    これらは、いつか誰かに受け継がれる。

    霧野市の人口はまだ減り続けている。空き家もまだある。

    だが——

    複数の朝が、ひとつの街の中で確かに続いている。

    新しい種は、大人が植えるとは限らない。

    家は所有するものではなく、次の人に手渡すもの。

    そして街は、一軒一軒の家の、新しい朝の積み重ねの上に続いていく。

    (終)

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