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あおい、あおい 第2部「投資家」 第1話「内見」


    土曜日の朝、東京、世田谷区奥沢の3LDK賃貸マンション。

    「お父さん、また千葉に行くの?」

    五歳の葵がリビングのテーブルで朝ごはんを食べながら訊いた。

    「うん。今日はね、あの家をちゃんと中まで見てくるよ」

    田所健一はトーストをかじりながら答えた。

    妻の由香が台所から振り返った。

    「先週は外から見ただけ、って言ってたよね」

    「うん。今日は不動産屋さんの案内で、内見してくる」

    「無理しないでね。家族の貯金には手をつけないでね。あなたの自分のお小遣いの範囲で」

    由香の声には特に強い感情はなかった。だが田所はその「無理しないで」が、家族の未来を案じる声であることを知っていた。

    「うん。約束する。三百万円の範囲で収めるから」

    「あ、そうだ。葵を午後、小児科に連れて行くから。車使うよ」

    「うん。俺は特急さざなみで行くよ」

    ——— ◇ ———

    田所健一、38歳。都内IT企業のシステムエンジニア。年収700万円。

    ふた月前、会社で副業解禁の通達が出た。書店のビジネス書コーナーで「空き家投資」という言葉に出会ったのは偶然だった。

    全国の空き家は約900万戸。空き家率13.6パーセント。地方の物件なら200万円台で買える。DIYで改修して月3〜5万円で貸せば、表面利回り20パーセント以上。同時に地方創生にも貢献できる。


    【解説:空き家バンクと空き家投資の現状】

    • 全国の空き家:約900万戸(総務省「住宅・土地統計調査」R5)

    • 空き家率:13.6%

    • 国土交通省「全国版空き家・空き地バンク」:約750自治体参加、登録物件30万件超

    • 民間運営:株式会社LIFULL/アットホーム株式会社(国交省委託)

    • 副業解禁の流れと、改正空家法による行政側の活用促進が、投資家側にとっての追い風になっている

    ただし、初心者は「築古・接道・耐震」の3大リスクで、ほぼ確実に苦戦する。自己資金の範囲で収める「分相応の投資」が、家族の信頼を守る最低条件。

    (出典:総務省・国土交通省)

    田所家の貯金は8百万円。そのうち、田所が個人で動かせるのは約3百万円だけだった。

    「3百万円。これが俺の上限だ」

    ——— ◇ ———

    ネットで「千葉県」「空き家」「2百万円台」で検索した。ヒットした物件は十数件。

    その中の1件、霧野市の築53年、木造二階建て。査定220万円。敷地120坪。前面道路3.8m。

    「再建築不可スレスレ」と業者のコメントがついていた。

    田所はその文字を見つめた。

    「3.8m、4mに20cm足りないか」

    田所は2週間前、先週末に妻の代わりに葵を朝から夕方まで連れて公園と図書館に行った見返りとして、「来週、千葉、半日もらってもいい?」と由香に頼み、コンパクトカーで霧野市まで下見に行ってきた。集落の細い道。緑の壁のような雑草。閉ざされた玄関。郵便受けから溢れる、長年のチラシと行政通知。

    リストの記載と現地の状態が一致している。

    ついでに、田所は、車で集落の周辺を回った。霧野第三小学校まで徒歩5分。霧野中学校とスーパーまで徒歩10分。市役所まで車で6分。隣家との距離は適度に離れていて、騒音も気にならなさそう。賃貸アパートはあるが、戸建ての貸家は、やはり、見当たらない。

    次は内見だ。

    田所は笠原不動産にメールを送った。

    「内見、お願いできますでしょうか」

    返信は十分後に届いた。

    「来週土曜の午前10時、いかがですか。 笠原」

    ——— ◇ ———

    土曜日の朝10時、霧野市駅前。

    特急さざなみで君津まで、そこから路線バスで30分。妻が娘の小児科通院で車を使うため、田所はこの日は鉄道で来ていた。

    笠原不動産は、駅前商店街の一番奥にあった。シャッターを上げ、半分ほど開いた木製のガラス戸の中で、白髪の男性が電話を切ったところだった。

    「田所さん? 笠原です」

    62歳、とメールの署名にあった。背は高くないが、肩幅が広く、顔の彫りが深い。地元で50年以上、不動産屋を続けている空気が纏っていた。

    「遠路お疲れ様です。早速、現地行きましょうか」

    笠原の軽乗用車の助手席で、田所は地図を見せられた。

    「ここですね。高村家。前の所有者は令和三年に他界。ご長男が東京からようやく動き出された。2週間前、市役所と面談されています」

    「先週——」

    「ええ。ご長男ももう56歳。長女のほうは岡山で、もう霧野まではなかなか来られない、と」

    田所は頷いた。同じ感覚を自分の親世代にも感じていた。自分の両親もすでに70代。実家のことをいつか自分が引き継ぐ。

    ——— ◇ ———

    集落の入り口で軽乗用車は停まった。

    2週間前、田所がコンパクトカーで通り過ぎた、あの家。

    笠原は玄関の鍵を開けた。鍵穴は油を差したばかりらしく、するりと回った。

    「先週、長男さんが初めて開けられました。それで油を差しておきました」

    家の中は、田所の予想より意外としっかりしていた。

    廊下の床板は、踏むとわずかに軋んだ。だが、抜けるほどではない。仏壇は空。位牌も遺影も無くなっていた。

    田所は家の中をゆっくりと回った。

    二階建て、四部屋、台所、風呂、トイレ、押し入れ、縁側。木造、瓦屋根。築53年。電気と水道は通っているが、今は止まっているが、再開すれば使える。ガスは家の裏に、LPガスのボンベが2本。プロパン契約を再開すれば使える。

    「——あれ?」

    田所が台所で立ち止まった。

    「水廻り、意外と新しいですね」

    笠原は頷いた。

    「先代がご存命の頃に、一通り、リフォームされていたようです。築53年の家にしては珍しい」

    「平成、いつ頃ですか」

    「ご長男から伺ったところでは、平成27年。先代の奥様が膝を悪くされて、『妻に楽させてやりたい』と、ユニットバス、システムキッチン、温水洗浄便座と、一通り。約11年前です」

    田所は浴室の扉を開けた。ユニットバスは確かに、昭和の在来工法の浴室ではなかった。シールやコーキングの劣化はあるが、本体は十分使える。トイレも、温水洗浄便座は古いタイプだが現役だ。キッチンはシンプルなシステムキッチン、コンロはガスコンロが残っている。

    「これは大きい」

    田所の頭の中で、改修費の見積もりが一気に下がった。

    「DIY中心で、清掃と部分補修だけなら、50万円か、40万円か」

    田所は計算を始めた。


    【解説:水廻りリフォーム済中古住宅の評価】

    築古中古住宅の改修費の中で、水廻り(ユニットバス・キッチン・トイレ・給湯器)が最大の費用項目。

    項目:単独工事費の目安
    ユニットバス交換:60〜100万円
    システムキッチン交換:50〜80万円
    トイレ交換:15〜25万円
    給湯器交換:15〜25万円
    合計:140〜230万円

    水廻りが10年以内にリフォーム済なら、次の所有者は、改修費を100〜200万円節約できる。
    これは売主側にとって、価格交渉時の重要な資産価値要素となる。

    (出典:一般的なリフォーム費用相場)

    田所は縁側に立った。

    枯れかけた、しかしまだ根の生きている柿の木が見えた。庭は雑草に埋もれているが、120坪。整えれば、菜園と犬の運動場になる。

    購入320万円+諸費用50万円+改修DIY中心50万円=合計420万円。

    いや。値下げ交渉の余地がある。既存不適格、接道3.8m、霧野市の市場流動性の低さを根拠に購入価格を下げられれば、自己資金300万円の範囲に収まるかもしれない。

    空家等活用促進区域の指定が来年度議会に提案される。指定されれば再建築のセットバック軽減・免除。出口戦略の余地が開く。

    そして、自分の手で壊れた家をもう一度、人の住める家に戻す。

    300万円の範囲で収める。これは由香との約束だ。

    「これは条件次第だけどアリだ。」

    田所は笠原に向き直った。

    「笠原さん。買付申込書を書かせてください。ただし、もう少し詳しく家の状態を見させてください」

    笠原はしばらく田所の目を見た。それから軽く頷いた。

    「分かりました。ただ、田所さん」

    笠原は靴を履き直しながら言った。

    「ひとつだけ、お話ししておきたいことがあります」

    「何でしょう?」

    「この家、北側の床下にシロアリの兆候があるかもしれません」

    田所の心臓が一瞬、止まった。

    「シロアリ——?」

    「現状、視認できる範囲ですが、軸組の木材に白い筋状の食害痕が見えます。被害がどこまで進行しているかは専門家に床下を覗いてもらわないと判断できません」

    「それは、売主さんはご存知なんですか」

    「いえ。ご長男も、先週初めて家を開けたところで、気づかれていない可能性が高いです」

    笠原の声は、低く、誠実だった。だが、その誠実さが田所の胸に重く刺さった。

    「私の立場としては告知義務があります。重要事項説明の段階で、必ず、書面でお伝えします」

    ——— ◇ ———

    帰りの軽乗用車。

    笠原は駅前まで送ってくれる、という。助手席で、田所は外の景色を見ていた。

    霧野市の細い道。傾きかけた家。閉ざされた商店のシャッター。

    「笠原さん」

    「はい」

    「シロアリ、撤退すべきでしょうか」

    笠原はハンドルを握ったまま、少し考えた。

    「決めるのは田所さんです。ただ、私の経験ではシロアリは『出ているかどうか』ではなく『どこまで進行しているか』が勝負です。柱や土台の主要部が無事なら、防蟻工事と部分交換で対応できるはずです」

    「費用はどのくらいでしょうか」

    「50万円から、100万円。被害の範囲次第ですね」

    田所は頭の中で計算をやり直した。

    購入320万円+諸費用50万円+改修50万円+防蟻最大100万円=合計520万円。
    自己資金300万円。不足は220万円。

    「これは交渉ですね」

    笠原は前を向いたまま頷いた。

    「田所さん次第です。シロアリが告知された物件は、売主側も価格を下げざるを得ない面があります」

    ——— ◇ ———

    特急さざなみの車中。

    田所はスマホを開いた。

    2週間前、ネットで見つけた一人の建築士の名前。

    「里見 拓郎」

    中古住宅の劣化診断・既存不適格・耐震問題に強いと紹介されていた。シロアリ単独の専門家ではないが、建物全般の診断の一環として被害の進行度合いを見極めてくれるはずだ。

    田所は紹介を依頼するメールを書き始めた。

    「初めまして、田所健一と申します。ご相談したい物件がございます。千葉県霧野市の築53年、木造2階建て。シロアリ被害の可能性ありとのこと。買付申込前にセカンドオピニオンをいただけますでしょうか」

    送信ボタンを押した。

    2人はまだ出会わない。

    だが田所健一は、もう後戻りしたくないところまで来ていた。シロアリの兆候は撤退の理由ではなく、交渉の理由になり得る。

    由香との約束、自己資金3百万円。その範囲に収めるための戦いが、これから始まる。

    (第2部 第二話に続く——里見建築士、シロアリ調査、深掘り値下げ交渉、DIYでの改修着手)

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