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あおい、あおい 第3部「不動産屋」 第2話「家系図」


    笠原正吾が支援法人指定を受けて、3ヶ月が過ぎた。

    毎週、市役所の遠山主事と一度、電話か面談で、新規案件の情報共有。霧野市内で「空き家になりそうな家」の予兆を、市と業者が共同で把握する仕組み。

    机の引き出しから、おやじ・庄一の「家系図ノート」を取り出す回数も増えた。

    ノートには、霧野市内の地番と家族関係が、40年分書き込まれている。おやじの字、自分の字。「相続発生」「居住者なし」「空き家化」と赤鉛筆で印がつけられていた。

    その印がここ10年で急に増えた。

    「おやじ、これが、あなたが見たかった霧野の今ですか」

    正吾は呟いた。

    ——— ◇ ———

    9月のある朝、商店街の喫茶店「やまだ」が、シャッターを閉じたままだった。

    40年、毎朝7時にシャッターを上げてきた、山田治郎・美代子夫妻の店。駅前の朝の通勤客に、コーヒーとモーニングセットを出してきた、商店街の朝の起点だった。

    正吾は、隣の薬局の主人に訊いた。

    「治郎さん、先週、倒れて千葉の病院に入院されたよ。脳梗塞らしい」

    「美代子さんは——?」

    「介護のために、千葉のホテルに泊まり込み」

    正吾はノートを開いた。

    「山田治郎家、霧野字駅前23番地。昭和58年建築、店舗併用住宅。長男、平成10年に東京就職、戻る予定なし」

    40年、夫婦で続けた喫茶店がついに店じまい。それから、空き家になるまで、そう長くはない。

    ——— ◇ ———

    その週末、葉月が帰省した。

    笠原葉月。35歳、東京の総合病院で看護師。独身、月に1度ほど、霧野に戻ってくる。

    「お父さん、ちゃんと休めてる?」

    葉月は玄関を入るなり、訊いた。

    「ああ。大丈夫だよ」

    「お母さんが心配してるよ」

    「そうか」

    夕食の席。美津子の手料理は房総の魚の煮付けと、地元野菜の煮物。3人で食卓を囲むのは、2ヶ月ぶりだった。

    「葉月、どうだ、東京の病院は」

    「忙しいよ。うちの病棟でも、在宅医療を希望される患者さんがずいぶん増えてきてる」

    「在宅医療か」

    「家で最期を迎えたい、という患者さん。家族が看れるか、看れないか。いつも、ぎりぎりの選択になる」

    正吾は頷いた。

    「霧野でも、同じだよ。最近、空き家になる家の半分は、最後まで住んでいた人が亡くなって、子供が東京で戻れない、というケースだ」

    「お父さんは、それを支援法人として繋いでるの?」

    「ああ。3ヶ月前から」

    葉月はしばらく箸を止めた。

    「お父さん、引退を考えたことは?」

    正吾はしばらく、答えなかった。

    「考えてる」

    「うん」

    「だが、もう少しだけ」

    「どうして」

    「俺は32年、不動産屋をやってきた。おやじが40年。合わせて72年」

    「うん」

    「霧野市が戦後復興から、人口増加期を経て、今——人口減少の入り口にある。おやじのノートも、その記録だ」

    正吾はテーブルにおやじの家系図ノートを置いた。

    「72年、土地と人を見続けてきた。最後の数年は、支援法人として一軒一軒の店の終い方、家の終い方の、丁寧な下支えに回りたい」

    葉月はしばらく、ノートを見つめた。

    「お父さん——」

    「うん?」

    「それ、看護師の仕事と……ちょっと、似てる、かな」

    正吾は頷いた。

    「うん」

    「私、お父さんの不動産屋は継がないよ」

    「分かってる」

    葉月は目をわずかに潤ませた。

    「……無理は、しないでね」

    正吾はしばらく頷きながら——窓の外の、暮れかけた商店街を見ていた。

    「葉月——」

    「うん?」

    「俺は、本当は街全体をなんとかしたい、と思ったこともある」

    「うん」

    「だが、自分の力だけじゃ、どうにもならない。おやじのノートの赤鉛筆の印が増えるばかりだった」

    「お父さん——」

    「もう一度、人口が増えていた頃の霧野に戻れたら、と思うこともある。あの頃の駅前は毎朝、もっと人が歩いていた」

    「うん」

    「だが、それはもう無理だ」

    葉月は黙って頷いた。

    「だから、若い人の力に託したい。市役所の遠山さんも、30手前で、空家等活用促進区域の指定を議会に提案しようとしている。彼みたいな若い力が、街の新しい形を構想し直してくれるなら、俺はその下支えに回りたい」

    「うん」

    「俺の代で、大きな街の物語は書けない。だけど、一軒一軒の店の終い方、家の終い方を丁寧に繋ぐ。そこはできる」

    葉月はしばらく、正吾の顔を見ていた。

    「お父さんの代で、終わってもいい」

    「うん」

    「そして、お父さんが終わらせ方を選んでいい。そして若い人に託す形も、お父さんが選んでいいと思う」

    正吾は深く頷いた。

    ——— ◇ ———


    【解説:地方家業の継承と「終わらせ方」】

    中小企業庁の調査によれば——

    • 地方の中小企業経営者の60歳以上が4割超、70歳以上も多数

    • 後継者不足は7割を超える

    • 廃業を選択する経営者の30%以上が「会社の業績は悪くないが、後継者がいない」

    「事業承継」は、必ずしも「次世代の家族への継承」とは限らない。

    • 円満廃業:取引先・顧客への引き継ぎ、業務の移譲、店舗の整理

    • 支援法人としての引き継ぎ:個別業者の役割を、地域の支援法人や同業他社が継承

    • 地域への業務移譲:自治体や地元組合が、必要な機能を引き取る

    笠原のケースは、「事業の終わらせ方」を、引退時ではなく、現役のうちに、地域全体で設計する選択でもある。

    (出典:中小企業庁「中小企業白書」、国土交通省「空家等対策の推進に関する特別措置法」R5.12改正)

    ——— ◇ ———

    翌朝、電話が鳴った。

    「笠原さん? 山田美代子です」

    喫茶店の妻。

    「治郎は、もう、店には戻れないと、医師に言われました」

    「そうですか」

    「店も、家も、どうしたらいいか、分からなくて」

    正吾はノートに「山田家、令和8年9月、店じまい予兆」と、書き加えた。

    「美代子さん、私がご相談に乗ります。ゆっくりでいいですよ。住まいのこと、店のこと、息子さんのこと、ひとつずつ整理しましょう」

    「ありがとうございます。笠原さんがいてくれて、本当によかった」

    電話の向こうで、美代子はしばらく声を詰まらせた。

    「40年、商店街でお世話になりました」

    電話を切ってから、正吾はもう1本、電話をかけた。

    「遠山さん。次の案件です」

    「はい」

    「商店街の喫茶店、店主が脳梗塞で入院、店舗併用住宅。昭和58年築。長男は東京、戻る予定なし。支援法人として市と一緒に、活用方法を検討させていただきたい」

    「分かりました。来週、面談を組みます」

    「お願いします」

    ——— ◇ ———

    夕方、シャッターを下ろす前。

    正吾は、駅前商店街をもう一度眺めた。

    閉まったままの本屋。閉じたままの喫茶店「やまだ」。来年廃業する不動産屋。

    そして、40年続いた家業のまだ続いている笠原不動産。

    「おやじ、まだ、もう少し続けるよ」

    正吾は呟いた。

    「街全体は、若い人に託す。俺は、一軒一軒の店と家の終い方の下支えに回るよ」

    明日、遠山主事と山田家のことで面談する。商店街の真ん中で空き家化が進めば、霧野市にとっても、もう見過ごせない問題になる。

    そして、その先には、まだ正吾の知らない、霧野市の若い職員が新しい街の形を構想している。

    (第4部「自治体担当者・遠山大樹」へ続く)

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