あおい、あおい 第6部「利用者」 第2話「新しい朝」
土曜日の朝、午前9時。霧野市営住宅・3号棟・4階・408号室。
「美咲、起きて。蓮も。健、おはよう」
子供3人を起こす。今日は学校が休み。みんなで出かける日。
「今日、どこ行くの?」
美咲が訊いた。
「広い家を、見に行く」
「広い家?」
「不動産屋さんが紹介してくれた、戸建て。家賃補助が出るから、私たちでも住めるかもしれない」
美咲は一瞬、母の顔を見た。
「行ってみる」
蓮はサッカーボールを抱えた。
「庭、ある? 蹴っていい?」
「うん。あるって」
健は何も知らずに、ただ楽しそうに運動靴を履いた。
——— ◇ ———
午前10時、桜山12番地。
集落の入り口に車が2台停まっていた。1台は笠原の軽乗用車。もう1台は、東京から来た田所健一のコンパクトカー。
「木村さん、お待ちしておりました」
笠原が出迎えた。
その隣に30代後半の男性。
「田所健一と申します。半年かけて、この家を改修しました」
スーツ姿、清潔な印象。だが手のひらはDIY作業で節くれだっていた。
「木村真奈美です。よろしくお願いします」
子供たちが田所の後ろに見える家を、目を丸くして見ていた。
平屋のような佇まいの2階建て。庭は刈り込まれたばかりの芝生。柿の木が青々と葉を茂らせている。
「広い……」
美咲がぽつりと漏らした。
——— ◇ ———
玄関を上がると、廊下、LDK、和室一間、風呂、トイレ、縁側。階段を上ると、2階に和室が二間。3LDKの間取り。
田所が説明した。
「築五十三年の木造2階建て、3LDKです。前の所有者の高村さんが、平成27年頃、もう12年前になりますが、ご奥様のために、水廻りを一通りリフォームされていました。ユニットバス、システムキッチン、温水洗浄便座のトイレ。それを私が引き継いだとき、まだ10年ちょっとの状態で。改修費を大幅に抑えることができました」
「予定は2ヶ月のつもりでしたが、実際には半年かかりました。私と妻が、毎週末東京から通って、壁紙の張り替え、床のワックス、建具の補修、庭の整備まで、ほぼ自分たちでやりました。本業を続けながらの作業ですので、平日の家計は本業の収入で。改修期間中、家賃収入は入りませんが、もともと織り込み済みの計画でした」
「ペットも、犬と猫、2匹までなら可です。庭は120坪、家庭菜園もできます」
真奈美はゆっくりと家の中を歩いた。
廊下の床はワックスがけで艶やかに光っている。壁紙は明るい白に張り替えられていた。畳は新しいものに替えられている。築53年とは思えないほど、丁寧に手入れされていた。
——— ◇ ———
子供たちは、家の中を駆け回った。
美咲が2階の奥の部屋の引き戸を開けた。6畳の和室。窓から柿の木が見える。
「ここが、私の部屋?」
真奈美は頷いた。
「うん。美咲が選んでいいよ」
美咲はしばらくその部屋に立っていた。母には背を向けて。だが、肩がわずかに震えていた。
蓮は庭でサッカーボールを蹴っていた。「広い、広い」と叫びながら。
健は縁側に座って柿の木の根元の新芽を指差した。
「お母さん、見て。あおい、あおい」
——— ◇ ———
真奈美は田所の隣に立った。
「田所さん。この家、私たち、住んでいいんですか?」
田所は頷いた。
「ぜひ。子供の声で家が生き返るのを見たかった」
真奈美は深く頭を下げた。
笠原が書類を取り出した。
「家賃補助の申請は、明日以降、市役所の遠山さんと一緒に進めましょう。受給開始までは、申請から1ヶ月ほどかかります。その間はご自分で家賃をお支払いいただく形になりますが、補助が出始めましたら、ご負担いただくのは月1万5千円ほどになります」
「ありがとうございます」
「賃貸借契約は、来週中にこちらで準備します。お引っ越しは、お子様の学校の都合もあるでしょうから、来月の土曜日あたりに、いかがでしょうか?」
「お願いします」
【解説:DIY型賃貸借契約と家賃補助の手続き】
DIY型賃貸借:
賃借人が自費で改修工事を行うことを認める契約形態
国土交通省「DIY型賃貸借に関するガイドライン」(H28年)が雛形を示す
田所の物件は、貸主(田所)が改修を完了済み。借主(木村)は通常の賃貸借契約
家賃補助の申請手続き(霧野市・仮想設定):
申請書の提出(賃貸借契約書・住民票・所得証明書を添付)
市の審査(所得制限・対象世帯要件の確認):約2〜4週間
承認後、補助金の振込開始(月末に翌月分を振込、口座振替方式)
国の関連制度:
住居確保給付金(求職中の世帯対象、最大9か月):厚生労働省
子育て家庭住み替え支援(住宅金融支援機構)
霧野市の子育て家庭家賃補助は、これら国の制度に上乗せで、自治体独自に設けられたもの。
(出典:国土交通省「DIY型賃貸借に関するガイドライン」、各自治体の家賃補助制度)
——— ◇ ———
2週間後、市役所、遠山主事との手続き。課税証明書、住民票、保育園在園証明書、必要書類を提出。
「申請、受理しました。1ヶ月後、補助金が振り込まれます」
遠山は頷いた。
「ありがとうございます」
「いえ。この制度を使っていただけて、私たちも嬉しいです」
——— ◇ ———
引っ越しは4月の土曜日。
市営住宅で使ってきた家具は、ほとんどそのまま持っていくことにした。テーブル、布団、食器棚、子供たちの机、どれも長年使ってきた、古いものばかり。新調する余裕はない。新しい家には、古い家具でも、少しずつ馴染んでいけばいい。
引っ越し当日、笠原、田所、柳田夫妻、そして真奈美の叔母、四歳の健の保育園の同級生たちと、その親たちも少しずつ手伝いに来てくれた。
「木村さん、よろしく」
田所の妻、由香が挨拶に来てくれた。
「亮太郎さん、ありがとう」
亮太郎が柳家から、コーヒーポットを「引っ越し祝いに」と持ってきてくれた。
「うちの店にも、また寄ってくださいね」
麻里が笑顔で言った。
——— ◇ ———
引っ越し翌朝、桜山12番地、木村家、新しい朝の午前6時半。
真奈美は縁側にひとり立っていた。
東の空が薄く白み始めていた。柿の木の枝先で小鳥が鳴いていた。
「美咲、起きなさい。蓮も」
奥の部屋から美咲が出てきた。今までと違って、母と目を合わせて笑った。
「おはよう、お母さん」
「おはよう」
蓮はすでに庭に出て、サッカーボールを蹴っていた。
健は縁側で、昨日見つけた柿の新芽をもう一度指差した。
「お母さん、あおい、あおい」
真奈美はその小さな指の先を追って、柿の木の芽を見た。
田所さんが言っていた、「子供の声で家が生き返る」。
54年前、高村忠雄さんがこの庭に植えた、柿の木。
平成27年、ご奥様のために忠雄さんが残した、水廻りの備え。
令和3年に忠雄さんが他界し、令和8年の春に長男・高村正治さんが「次の人がちゃんと住んでくれる人だといいな」と願って、田所さんに渡したこの家。
田所さんが家族と週末ごとに通って、半年かけて改修してくれたこの家。
笠原さんと遠山さんが、私たちをここに繋いでくれた。
初めて柳家を訪れたあの夕方、柳田さん夫妻が、コーヒーで肩の力を抜かせてくれた。
たくさんの人の想いが、この家に入っている。
真奈美は目をわずかに潤ませた。それから深く息を吸って、子供たちの方を振り返った。
「朝ごはん、にしようか」
家族の、新しい朝が始まっていた。
(第6部 第三話・最終話「街のかたち」へ続く——それぞれの主人公のその後と、霧野市の未来)