メインコンテンツへスキップ

あおい、あおい 第2部「投資家」 第2話「柿の木」


    里見拓郎からの返信は、田所が特急さざなみを降りて東京駅の改札を出る頃に届いた。

    「了解いたしました。再来週の土曜、11時に現地集合でいかがでしょうか。床下と天井裏、両方を私の責任で確認します。 里見」

    東京駅の地下街の柱に背中を預けて、田所は返信を打った。

    「ありがとうございます。よろしくお願いします」

    再来週なら、由香にも葵にも付き合える。来週は葵を動物園に連れていこう、と田所は思った。

    ——— ◇ ———

    2週間後、土曜日の11時、霧野市・高村家。

    里見拓郎は49歳と業界誌の記事にあった。中肉中背、白髪混じりの短髪、銀縁の眼鏡。作業着に安全靴。

    「初めまして、里見です」

    「田所健一です」

    笠原が玄関の鍵を開けた。

    「笠原です。本日はよろしくお願いします」

    里見は家の中を一通り目で見回した。

    「水廻り、新しいですね」

    「平成27年頃に、先代がリフォームされたそうです」

    「これは改修費が大幅に抑えられますね」

    里見は短く頷いてから、家の周りをゆっくり一周した。基礎、外壁、屋根、軒、雨樋、配管。15分。

    それから床下点検口を開け、ヘッドランプを点けて潜った。20分。

    続いて、2階の天井裏点検口を開け、もう一度ヘッドランプを点けて入った。15分。

    里見が天井裏点検口から降りてきた。作業着の膝も背中も、土埃で白くなっていた。

    「田所さん、笠原さん。結論から申し上げます」

    里見は図面と懐中電灯のメモを並べた。

    「シロアリの被害は床下、北側の土台、概ね1.5mの範囲に限定されています。基礎コンクリートの亀裂から湿気が回って、ヤマトシロアリが3、4年前から入っていた、と推測します。天井裏は、食害痕、雨漏り痕、いずれもありませんでした」

    「主要構造柱は——?」

    「無事です。被害は床下の土台と一部の根太のみ。柱・梁・桁には食害痕、ありません」

    田所は息を吐いた。

    「防蟻工事——」

    「薬剤散布が約15万円。土台の部分交換が約40万円から50万円。合計55〜65万円。プラス、私の調査・診断書料が8万円」

    「合計、約70万円ですね」

    「はい。それと、既存住宅売買瑕疵担保責任保険というものがあります。保険料は5年で5〜10万円程度」

    里見はパンフレットを取り出した。

    「シロアリ告知と私の診断書、瑕疵保険の見積、これらは売主側への価格交渉の根拠として合理的に積み上げられます。シロアリ告知が事前にあった以上、買主は撤退する権利があります。それを思い止まらせるための価格調整は、売主側にとっても悪い話ではありません」

    「交渉——」

    「決めるのは田所さんです。診断書は一週間ほどで、書面でお渡しします」


    【解説:シロアリ調査と既存住宅瑕疵保険】

    • 床下侵入調査:5〜10万円(建築士・専門業者)

    • 薬剤散布:1坪あたり1万円前後(30坪なら約30万円)

    • 土台部分交換:1メートルあたり10〜15万円(被害範囲次第)

    • 防蟻保証:5年が一般的

    既存住宅売買瑕疵担保責任保険:中古住宅売買で、シロアリ・雨漏り・構造耐力上の瑕疵について、買主が最大5年間カバーされる任意加入の保険。保険料は5〜10万円程度。検査機関の事前確認+必要修繕で加入可能。

    中古住宅の場合、シロアリ被害は「ある前提」で計画するのが実務的。被害があっても、主要構造柱(柱・梁・桁)が無事なら、再生は十分可能。

    (出典:日本しろあり対策協会/住宅瑕疵担保責任保険法人)

    ——— ◇ ———

    1週間後、平日の夜、笠原不動産の事務所。

    里見の診断書が書面で届いた。田所は会社帰りに東京駅から特急さざなみに乗り、君津から路線バスで霧野へ。笠原の事務所に到着したのは、夜7時前だった。

    田所は里見の診断書をテーブルに置いた。

    「笠原さん。値下げ交渉をお願いできますか」

    笠原は診断書を手に取り、ゆっくりと目を通した。

    「先日、里見先生からも伺いました。シロアリ告知が事前にあった以上、買主は撤退する権利がある。それを思い止まらせるための価格調整は、売主にとっても悪い話ではない、という考え方ですね」

    「はい」

    「いくらの値下げを提示しますか」

    田所は手元のメモを開いた。

    「整理させてください。三つの要素で考えています」

    「ええ」

    「1つ目は、買主が確実に背負う実費です。防蟻工事65万円、瑕疵保険10万円、調査診断料8万円、合計約83万円。これは、私が必ず追加で支払うリアルな出費です」

    「はい」

    「ご提示価格の320万円から、この83万円を引くと、シロアリ瑕疵を考慮した妥当な価格は237万円になります。これが出発点です」

    笠原は頷いた。

    「2つ目は、買主が購入後に引き受ける将来リスクのプレミアムです。既存不適格、接道3.8mの再建築制約、霧野市の市場流動性の低さ、15年保有しても出口戦略が難しい可能性、これらを約87万円として織り込んでいただきたい」

    「237万円から87万円を引いて、150万円ですね」

    「はい」

    笠原は黙ってメモを取っていた。

    「3つ目が、一番売主側のメリットになると思います」

    田所は背筋を伸ばした。

    「この価格なら、私は今週中に買付申込書を提出します。来月の決済、再来月の引き渡しと進めます。売主のご長男にとっては、経過措置期限までまだ9ヶ月ありますが、その間、別の買い手を探したり、特定空家認定リスクを抱えたり、固定資産税を払い続けたり、そういうコストをここで清算できます」

    笠原はゆっくりとペンを置いた。

    「即決オファー、ということですね」

    「はい。シロアリの実費83万円+リスクプレミアム87万円、合計170万円の値下げ。320万円から170万円引いて、150万円。これを売主にご提示いただきたい」

    「150万円——」

    「妻と約束しています。家族の貯金には手をつけない。自己資金300万円の範囲で収める。銀行借入はしない。150万円で買えれば諸費用と改修費を入れても、なんとか300万円に収まります」

    笠原は、しばらく田所の顔を見ていた。それから、ゆっくりと頷いた。

    「分かりました。売主のご長男に、150万円でご相談してみます。即決のメリットと、シロアリ等の追加リスクを丁寧にお伝えして」

    ——— ◇ ———

    笠原から高村正治に電話が入ったのは、その日の夜だった。

    「シロアリの告知、田所さん側の建築士による正式な調査結果、それと、150万円という価格交渉の打診。ただし、田所さんからは即決オファーです。この価格なら今週中に買付申込書、来月決済、再来月引き渡し。売主側は、経過措置期限まで待つコスト、別の買い手を探すコスト、特定空家認定のリスク、これらをここで清算できます」

    「150万円——」

    電話の向こうで高村正治はしばらく黙った。

    「即決——ですか」

    「はい。その代わり、価格はご納得いただきにくい水準まで下がります」

    「分かりました。ただ、姉に相談させてください」

    電話を切ってから、正治はしばらく、窓の外を見ていた。

    150万円。父が半年かけて建てた家が150万円。

    正直、安い。だが、もし断ったらどうなる?

    経過措置期限まで、あと9ヶ月。別の買い手を探す手間と時間。特定空家認定が進行するリスク。固定資産税8万円の継続支払い。隣家の老夫婦へのさらなる申し訳なさ。そして、田所さんという、自分の家を「DIYでコツコツ改修して、子育て世代に貸す」と言ってくれた人を逃すこと。

    正治はテーブルに笠原から事前に共有された田所のメモを広げた。38歳、IT企業の副業投資家、妻は看護師、5歳の娘がいる。ペット可・庭付きの戸建てを希望する子育て世代に貸したい。父が母のためにリフォームした水廻りを大事に使ってくれる、と書いてあった。

    お金の問題だけじゃない。

    正治はスマホを手に取り、岡山の春子に電話をかけた。

    ——— ◇ ———

    「正治——あんたがいいと思うならそれでいいよ。あの家のこと、私にはもう判断できんもの」

    「姉ちゃん。150万円で即決、と」

    「150万円——」

    正治はテーブルの田所のメモを見つめながら続けた。

    「正直、お金は安いと思う。だけど、お金の問題だけじゃないと思って」

    「うん」

    「あの家を放っておく時間と手間。経過措置期限と隣家への申し訳なさ。それから、誰に渡すか、という気持ちの問題」

    「——うん」

    「田所さんという方は、奥様と5歳のお子さんがいて、副業でDIY中心に改修して、貸すらしい。次に住む方は、犬を飼って家庭菜園もするような、子育て世代になると聞いた」

    「——そう」

    「父さんが母さんのために、平成27年に新しくしてくれたお風呂とキッチン、トイレを大事に使ってくれる、と」

    電話の向こうで春子は、しばらく黙っていた。それから、小さな声で、「うん」と言った。

    「正治。お金は、二の次やな。気持ちよく使ってくれる人に渡そう。早く決めよう」

    「うん」

    「お父さんが建てた家に、また子どもの声が満ちるなら。150万円なんて、安いもんよ」

    正治の喉の奥が、わずかに動いた。

    「ありがとう、姉ちゃん」

    ——— ◇ ———

    霧野からの帰り道、特急さざなみの車中。

    田所は手帳を開いた。

    購入150万円+諸費用45万円+シロアリ防蟻65万円+既存住宅瑕疵保険10万円+建築士料8万円、以上で278万円。改修費にかけられる費用はDIY中心として22万円まで。これで合計300万円。

    自己資金300万円。ぴったり。借入は不要。

    田所はしばらく数字を見つめた。それから、深く息を吐いた。

    「なんとか、収まった」


    【解説:田所のケース 最終投資収支】

    項目:金額
    購入価格(150万円交渉):150万円
    取得時諸費用:45万円(仲介33万円・登記等12万円)
    シロアリ防蟻工事:65万円
    既存住宅瑕疵保険(5年):10万円
    建築士調査・診断書料:8万円
    改修費:22万円(DIY中心:清掃・クロス補修・庭整備等)
    【総投資額】300万円
    自己資金:300万円
    借入:0円

    収支指標:値
    想定家賃:月4万5千円(年54万円)
    運営経費(固定資産税・保険・修繕積立等):年20万円
    手取りキャッシュフロー:年34万円(月約2.8万円)
    表面利回り(購入価格ベース):36%
    総投資ベース利回り:18%
    実質利回り:11.3%
    15年トータル年率ROI:約6.8%

    高村忠雄が平成27年頃に妻のために実施した水廻りリフォーム済が、修費を100万円以上節約。
    DIY中心の作業で、田所家の家計に無理を強いない投資が成立した。

    月家賃4万5千円なら、年54万円。経費20万円を引いて、年34万円が手元に残る。
    自己資金3百万円が、約9年で回収できる。
    回収後は、純粋な家賃収入になる。
    銀行借入をしていないからローン返済もない。突発修繕にも耐えられる。

    田所はスマホをポケットに入れた。

    そして、奥沢の家の由香に電話をかけた。

    「もしもし、由香」

    「うん? どうしたの?」

    「今、特急さざなみの中。笠原さんからOKの連絡が入った。あの家、150万円で話が進みそうだ」

    「150万円——?」

    「総投資額、ぴったり399万円。ローンは要らなくなった」

    電話の向こうで、由香はしばらく黙った。

    「——ほんと?」

    「ほんと。約束は守れた」

    由香はしばらく何も言わなかった。それから、小さな声で「ありがとう」と言った。

    田所はしばらくスマホを耳に当てたまま、窓の外の闇を見ていた。

    ——— ◇ ———

    2週間後、笠原不動産の事務所。

    重要事項説明書、売買契約書、分厚い書類の束がテーブルに並んだ。


    【解説:宅建業法における重要事項説明と告知義務】

    宅地建物取引業法 第35条:宅建業者は、契約前に宅地建物取引士から書面で物件の重要事項を買主に説明しなければならない。

    主な項目:

    • 物件の権利関係(所有者、抵当権等)

    • 法令上の制限(接道、用途地域、既存不適格等)

    • インフラ(水道、電気、ガス、下水)

    • 物件の瑕疵(雨漏り、シロアリ、傾き、過去の浸水等)

    • 取引条件(価格、支払い、引き渡し時期)

    不告知・虚偽告知は、民事上の損害賠償責任に加え、業者の免許停止・取消しにもなり得る。

    (出典:宅地建物取引業法)

    田所健一は初めて、売主の高村正治と対面した。

    「高村正治と申します。本日はよろしくお願いします」

    「田所健一です。大事に改修して、次の方に住んでいただけるようにします」

    高村はしばらく田所の顔を見た。

    「父が、昭和48年、若い頃に上司から土地を紹介され、地元の大工に頼んで半年かけて建てた家です。築53年、何もかもが古いですが、平成27年頃に母のために水廻りだけは父が新しくしたんです」

    「拝見しました。大事に使わせてもらいます」

    田所は深く頭を下げた。

    「庭の柿の木はまだ根が生きていました。庭は犬を飼ったり、家庭菜園をしたり。次の家族の暮らしの場にできると思いました」

    高村は何度か小さく頷いた。言葉にはならなかった。

    「よろしくお願いします」

    二人は深く一礼を交わした。

    ——— ◇ ———

    引き渡しの日の夕方、隣家の玄関。

    田所は東京駅で買ってきた虎屋の羊羹を2箱、持って立っていた。

    「初めまして、田所健一と申します。本日、この家を譲り受けまして、これから改修工事に入ります。実は、私自身はここには住みません。改修後は賃貸としてお貸しする予定です」

    老婦人は頷いた。

    「そうなんやね」

    老いた夫が引き戸の奥からゆっくりと出てきた。

    「あんたが新しい所有者さんか」

    「はい。子育て世代で、ペット可・庭付きを探されている方を想定しています」

    老いた夫はしばらく考えてから、わずかに微笑んだ。

    「そうかい、それはええな。この集落、ここ十年は子供の声をほとんど聞いとらん。賑やかになるなら、儂も嬉しい」

    老いた夫はしばらく庭の柿の木を見ていた。

    「儂は誰が住んでも、家と庭の手入れをちゃんとしてくれたらそれでいい。柿の木にも、また実がつけば嬉しい」

    「忠雄さんが植えた、と聞きました」

    「うん。50年以上も前の話だ」

    田所は深く頭を下げた。

    ——— ◇ ———

    東京、奥沢の自宅。

    「お父さん、家、買ったの?」

    葵が訊いた。

    「うん。お父さんが休みの日に、ちょっとずつ改修して、人に貸す家だよ」

    「犬、飼えるの?」

    田所は笑った。

    「お父さんちじゃ飼えないけど、あの家を借りる人は犬を飼えるよ」

    葵は目を輝かせた。

    由香が、台所からこちらを見ていた。

    「お父さんは、休みの日がちょっと忙しくなるの。葵、お母さんとお留守番できるかな?」

    葵は少し寂しそうな顔をした。

    「あ、でもね」

    田所は葵に向き直った。

    「葵が手伝えそうな日は、お母さんも葵も一緒に千葉の家に行こうか。みんなでクロス貼って、庭の草を抜いて、お弁当も持って行こう」

    葵は目を、輝かせた。

    「行く!」

    由香は、台所で小さく笑った。

    「いいわね。たまには家族ピクニックがてら」

    田所は頷いた。

    改修工事で土曜日が消える。日曜日も半分は霧野で消える。だが、その時間を、家族で共有できるなら、それもひとつの過ごし方だ。

    ——— ◇ ———

    引き渡しから1週間後の土曜日、霧野市、高村家。いや、田所家の一作目。

    田所は朝6時にコンパクトカーで奥沢を出て、首都高からアクアライン、館山自動車道を経由して、霧野へ。今日は単独。来週は家族と来る予定。

    防蟻業者の作業を見守りながら、午前中はクロスの補修。午後は床のワックス掛け、キッチン周りの清掃、トイレの便座張替。庭の雑草は、半日かけても半分しか刈れなかった。

    土曜日の夕方、田所は縁側に座って、コンビニのおにぎりを食べた。

    「腰が痛い」

    田所は呟いた。

    枯れかけた柿の木の根元に、若い葉が3枚、空に向いて立っていた。

    「忠雄さんが植えた——か」

    田所は呟いた。

    なぜ、このことをしているのか。

    3年前、同期の中沢が新築ワンルームに1,200万円のローンを組んだ。半年後に「空室が続いてきつい」とこぼし、1年後には「売ると元本が戻らない」と詰まっていた。その話を聞いた夜、田所は由香に「借入なしで、少額の不動産投資をやってみようと思う」と言った。由香はしばらく黙ってから、「ローンは絶対に嫌」と、それだけ言った。

    それが、すべての出発点だった。

    借入なし。自己資金の範囲内。誰も手を出さない物件、だからこそ安い。安いから家族の貯金に手をつけずに済む。安いから失っても生活が揺るがない。その制約だけを頼りに、田所はここまで来た。

    制約が道を作った。

    だが、300万円の範囲で収まった。借入はない。家族の貯金にも手をつけていない。

    2ヶ月。週末を2ヶ月、家族と通えば貸し出せる状態になる。22万円のDIY、そんなに長くはかからない。早く貸し出して家賃収入を得る。

    田所はもう一口、おにぎりを食べた。

    父の家は、もう誰も住まない家ではなかった。
    だが、田所家の家、にもまだなっていなかった。
    次の家族を待っている家、だった。

    柿の木は、その季節を静かに迎えていた。

    田所健一の空き家投資の本当の闘いは、ここから始まる。

    (第3部「不動産屋・笠原正吾」へ続く)

    #創作大賞2026

    #お仕事小説部門

    あなたへのおすすめ