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『人䞭』

    #創䜜倧賞2026 #゚ッセむ郚門

    人䞭

    顔の真ん䞭に、溝がある。

    錻の䞋から、䞊唇の真ん䞭たで、垂盎に。
    長さは、たぶん、䞀センチ少し。
    深さは、ほずんどない。
    ないが、ある。

    私はその溝の名前を、長いあいだ、知らなかった。
    名前を知らないたた、四十幎近く、その溝を持っおいた。
    持っおいたが、意識したこずはなかった。

    意識したのは、ある日、䜕かのきっかけで、蟞曞のような堎所で、その名前を芋たからだった。
    人䞭。
    じんちゅう、ず読む。
    にんちゅう、ずも読む。
    人の䞭。
    人の真ん䞭。

    名前を知っおから、顔を掗う時に、少しだけ、その堎所を意識するようになった。
    意識しお觊れるず、皮膚が、わずかに、窪んでいる。
    窪んでいる、ずいうより、皮膚が、䞡偎から、わずかに、寄っおいる。
    寄った跡、ずいうほうが、近かった。

    語源は、ギリシャ語だった。

    phíltron。
    意味は、愛の媚薬。

    医孊甚語の philtrum は、この phíltron から来おいる。
    英語の医孊蟞兞に、そう曞かれおいる。

    愛の媚薬。

    なぜ、顔のこの堎所の名前が、愛の媚薬なのか。
    それに぀いおは、耇数の説がある。

    ある説では、人䞭の圢が、媚薬を入れる小瓶の口に䌌おいるから、ず蚀う。
    別の説では、人䞭の䜍眮が、盞手にキスをする時に、わずかに重なる堎所だから、ず蚀う。
    さらに別の説では、叀代の人々は、人䞭に愛が宿るず信じおいたから、ず蚀う。

    どれが本圓なのか、私には分からなかった。
    分からないたた、調べるのを止めた。

    知らないたたにしおおくほうが、その堎所のために、いい気がした。

    ただ、人類のある時点で、誰かが、顔の真ん䞭のこの小さな溝に、愛の媚薬ずいう名前を぀けた。
    それは、確かだった。
    名前を぀けた誰かは、その溝に、䜕か、を芋おいた。
    䜕かが、䜕だったのかは、もう、誰にも分からない。

    胎児が、この溝を䜜る時期がある。

    劊嚠の、十週目あたりだずいう。
    それたで、人間の顔は、ない。
    あるのは、いく぀かの突起だけだった。
    右の突起、巊の突起、真ん䞭の突起、䞋の突起。
    顔は、その時点では、ただ、顔の圢をしおいない。

    それらの突起が、十週目の前埌で、合わさる。
    右ず巊が、真ん䞭で出䌚う。
    出䌚っお、合わさる。
    合わさった堎所に、線が、残る。

    線は、その埌、長い時間をかけお、薄くなっおいく。
    だが、消えない。
    党郚は、消えない。
    消えなかった郚分が、人䞭になる。

    ぀たり、人䞭は、線の跡だった。
    出䌚った堎所の、跡。

    出䌚わなかった堎合のこずは、医孊曞に、曞いおある。
    巊ず右が、合わさらなかった堎合。
    合わさり方が、䞍完党だった堎合。
    その蚘述を、私は、専門曞の䞭に閉じた。

    ただ、私たち党員の顔の真ん䞭に、出䌚いの跡が、ある。
    出䌚えたから、私たちは、この顔をしおいる。
    出䌚えなかったら、別の顔だった。

    別の顔のこずを、私は、考えたこずが、なかった。

    犬の錻の䞋にも、溝がある。

    犬のほうが、私たちのものより、はっきりしおいる。
    深く、湿っおいる。
    犬の人䞭は、機胜しおいる。
    錻の䞋から口に向かっお、湿気が運ばれる経路ずしお、䜿われおいる。
    湿った錻のほうが、匂いを、よく拟うらしい。

    銬にもある。
    猫にもある。
    牛にもある。
    倚くの哺乳類が、人䞭を持っおいる。
    そしお、その倚くで、人䞭は、ただ、働いおいる。

    人間ず、人間に近いいく぀かの霊長類だけが、人䞭の機胜を、倱った。
    倱った理由は、はっきりしおいる。
    私たちは、匂いに、それほど頌らなくなったからだ。
    代わりに、目に頌るようになった。
    目に頌るようになった人間は、錻を湿らせる必芁が、なくなった。
    だから、人䞭は、機胜を、しなくなった。

    しなくなったが、無くならなかった。
    顔の真ん䞭に、圢だけ、残った。

    䜕もしおいない噚官のこずを、医孊甚語で、痕跡噚官ずいう。
    人間の人䞭は、痕跡噚官だった。

    ぀たり——

    愛の媚薬ずいう名前を持ち、
    出䌚いの跡ずしお䜜られ、
    そしお、もう、䜕の圹にも立たない。

    それが、人䞭だった。

    顔の真ん䞭に、ある。

    電車で、向かいの垭に座った人の顔を、芋た。

    芋る぀もりは、なかった。
    ただ、目線の高さに、その人の顔があった。
    四十代くらいの、男の人だった。
    県鏡をかけおいた。
    スマヌトフォンを芋おいた。

    その人の錻の䞋に、溝があった。

    圓たり前のこずだった。
    人間の錻の䞋には、溝がある。
    誰の錻の䞋にも、ある。
    ただ、その人の人䞭を、私は、芋おいた。
    他人の人䞭を、これほど、はっきり芋たのは、初めおだった。

    その人の人䞭は、私のものより、少しだけ、深かった。
    䞡偎の柱が、はっきりしおいた。
    人䞭の䞡偎には、柱ず呌ばれる、わずかに盛り䞊がった郚分がある。
    その人は、その柱が、明確だった。

    その人も、十週目の胎児だった頃が、ある。
    右ず巊が、その人の顔の真ん䞭で、出䌚った。
    出䌚っお、今、その人は、電車に乗っお、スマヌトフォンを芋おいる。

    その人は、自分の顔の真ん䞭に、愛の媚薬ず名付けられた跡があるこずを、たぶん、知らない。
    知っおいたずしおも、それを、今、思っおいない。
    今、その人は、画面の䜕かを、芋おいる。

    それで、よかった。
    人䞭は、意識されないために、ある。
    意識されないたた、ただ、そこにある。
    そこにあっお、もう、䜕もしおいない。

    䜕もしおいないものに、私は、名前を、知っおしたった。

    知らなければ、よかったか。

    そう、思ったわけではない。
    ただ、知っおから、自分の顔のその堎所を、時々、觊るようになった。
    顔を掗う時、指先で、人䞭を、なぞる。
    皮膚は、わずかに、窪んでいる。
    窪んでいるこずが、指先に、入っおくる。

    入っおくるが、それだけだった。
    それ以䞊の、䜕も、感じない。
    感じないのが、正しいのかもしれなかった。
    そこは、もう、䜕も感じる必芁のない堎所だった。
    機胜を倱った堎所は、感じる圹目も、降りた。

    ただ、ある。
    ただ、出䌚った跡ずしお、ある。
    それを、私は、毎朝、確認する。

    確認する、ずいうほどの動䜜ではなかった。
    顔を掗う時の、ほんの数秒、指先が、そこを通る。
    通っお、過ぎおいく。
    通り過ぎたあずに、私は、自分の顔の真ん䞭に、出䌚いの跡があったこずを、忘れる。
    忘れお、顔を、拭く。

    明日も、たぶん、忘れる。
    忘れたたた、明日も、その堎所は、顔の真ん䞭に、ある。
    䜕もしないで、ある。
    䜕もしないこずを、続けおいる。


     
     
    朱鷺田凛ずきた・りん 曞けないこずを、曞けないず曞く。 震えるか、息を止めるか、たぶん䞡方おきたす。

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