『きみの名前の呼び方』 第10話 伊吹葉さん
十月の最初の火曜日、「いぶきはさん」と呼ばれた。
私は「はい」と言った。 本を袋に入れて、渡した。 お客さんが出ていった。
訂正しなかった、ということに、一拍遅れて、気づいた。
二十六年間、一度も、訂正しないことはなかった。 今日、初めて、しなかった。
閉店三十分前。
彼は、来た。
文庫の棚の前に立った。 一冊、手に取った。 裏表紙を読んだ。 棚に戻した。
私はレジに立っていた。
閉店のアナウンスが流れた。
彼はレジに来た。 本を持っていなかった。
「葉さん」
「はい」
「読みましたか」
「読みました」
カウンターの上には、何もなかった。
彼が、少し、笑った。 いつもと同じ笑い方だった。 少し違った気もした。
「伊吹葉さん」
と、彼が言った。
四文字、同じ重さで。
私は、何も言わなかった。
彼は、出口に向かった。
自動ドアが、一度、開いた。 閉まった。
店長が事務所から出てきた。
「閉めようか」
「はい」
レジを締めた。 最後の売上を確認した。 今日の彼の分は、なかった。
鍵をかけた。
外に出ると、十月の夜は、冷たかった。
コートのボタンを、留めた。 一つ目も、二つ目も、三つ目も、四つ目も。
留め直さなかった。
伊吹葉さん、と呼ぶ人が、一人、いる。