
あなたが殺してくれたから 13話
13話 再開
四十九日が過ぎても私はまだあの家にいた。
父がいない。母もいない。広くなった部屋は静かすぎて、夜になると自分の息の音ばかり大きく聞こえた。じっとしていると体が浮きそうになる。だから歩いた。行くあてはなくてそれでも足はいつも同じほうへ向かった。商店街の奥。シャッターの下りはじめた通りで一軒だけ白く灯っている店。
花屋の前で足が止まる。
前を通るたびに速度が落ちるのは前からの癖だった。けれどその日はちゃんと立ち止まってはじめてその店先を正面から見た。
色があった。
赤。黄色。濃い紫。白。淡い桃色。バケツに挿さった花がそれぞれの色のまま夕暮れの中で発光しているみたいだった。花に色があるのは当たり前のことだ。それなのに私はその当たり前を生まれてはじめて目にしたもののように見ていた。
私のいた世界はずっと灰色だった。
雨の灰色。空の灰色。台所の蛍光灯の白。父の怒鳴り声と母の黙りこむ顔のあいだに流れていたのも色の抜けた時間だった。私は見ないように生きてきた。見なければ殴られる順番も回ってこない気がしたし見なければきれいなものに焦がれずにすんだ。色を消しておけば心は平らなままでいられた。
その平らな灰色に花屋の色だけが染みのように浮かんで見える。
見ていると胸の奥がかすかに騒いだ。きれいだと思った。そう感じることがこんなに久しぶりだとは自分でも思わなかった。
奥で誰かが動いた。
しおれた花を抜いて水を替えている。背を丸めた小さな動き。その手つきの静かさに見覚えがあった。どこで——と考えるより先に肩がこわばる。頭より体のほうが早く思い出していた。
濡れた黒い髪。落ちついた低い声。あの夜の人だ。
父と母が動かなくなった部屋に立っていた人。「もう、うるさくないよ」と言ったあの人がいま色とりどりの花に囲まれて静かに手を動かしている。
逃げよう。
そう思っただけで足は一歩も動かなかった。家のことならいくらでも忘れたふりができたのにあの夜のことだけはどうしても通り過ぎられなかった。私はその色の中にいる人から目を離せなかった。
相手が顔を上げた。
目が合う。あの夜とおなじ目だった。驚きもしない。隠れもしない。ただ静かにこちらを見てそれから私が誰なのかに気づいたようだった。それでも表情はほとんど動かない。
「いらっしゃい」
低くてやわらかい声が明るい灯りの下でなんでもない言葉を私に向けた。あの夜私の体の芯まで届いた声だ。
私は一歩踏み出していた。
意思より先に足の裏が動いた。灰色の歩道から色と白い光のある一角へ。その境を越えるとき花のにおいが鼻の奥を突いた。濃くて青くてあの家のどんなにおいとも違う。においの中で私はもう一度その人を見た。今度はもう目をそらさなかった。