メインコンテンツへスキップ
見出し画像

第5話「大丈夫です、と答えた」|語られなかったことをめぐる物語

    会議室を出たあと、長谷川直人は、一度だけ腕時計を見た。

    予定より、十二分ほど早く終わっていた。

    上層部への報告は、特に問題なく済んだ。資料の数字も、説明の順番も、
    想定していた範囲を外れなかった。いくつか確認は入ったが、どれも答えられるものだった。

    会議室の扉が閉まる音を背中で聞きながら、長谷川は手に持っていた資料をそろえた。

    紙の端をそろえる動作だけが、少し丁寧になった。

    廊下には、午後の終わりに近い光が差していた。窓のないフロアなのに、
    どこか明るさだけが残っている。天井の照明が、床に薄く反射していた。

    長谷川は、自分の部署へ戻る前に、自販機の前で足を止めた。

    缶コーヒーにするか、水にするか。

    そのくらいのことを考える時間が、急に必要になった。

    会議のあとは、いつも少しだけ口の中が乾く。人前で長く話したあとに残る、声の熱のようなものがある。長谷川は財布を取り出し、小銭を探した。

    自販機の商品名の灯りが、白く並んでいた。

    「長谷川」

    声をかけられて、長谷川は顔を上げた。

    廊下の向こうから歩いてきたのは、神谷だった。今は本部長を退き、別の立場で会社に残っている。長谷川がまだ課長になったばかりの頃、何度か同じ部署で働いたことがあった。

    神谷は、昔から歩くのが少し速い。

    けれど、長谷川の前まで来ると、その速度をゆるめた。

    「今の報告、聞いていたよ」

    「ありがとうございます」

    長谷川は、軽く頭を下げた。

    「分かりやすかった」

    「そう言っていただけると、助かります」

    神谷は、自販機の横に立ち、商品を眺めるでもなく、少しだけ目を細めた。

    「最近、忙しそうだな」

    長谷川は、笑った。

    大げさにならない程度に。
    困って見えない程度に。

    「まあ、少し立て込んではいます」

    「だろうな」

    神谷はそう言ってから、長谷川の横顔を見るでもなく、自販機の光を見ていた。

    それから、短く言った。

    「大丈夫か」

    責めるような言い方ではなかった。

    深く聞き出そうとする声でもなかった。

    昔、長谷川が夜遅くまで残っていたときに、席の後ろからふっと置かれた声と、あまり変わらなかった。

    大丈夫か。

    その一言に、長谷川はほとんど間を置かなかった。

    「大丈夫です」

    自分でも、自然な声だったと思った。

    仕事で使う声でもない。部下に向ける声でもない。報告の場で整える声でもない。

    ただ、長谷川の中から、いつもどおり出てきた声だった。

    神谷は、軽くうなずいた。

    「そうか」

    それだけだった。

    もう一歩、何かを聞くわけではなかった。

    長谷川も、何かを足すことはしなかった。

    自販機の前には、二人分の沈黙が少しだけ落ちた。けれど、それは気まずいものではなかった。誰かが拾わなければいけないほどの沈黙でもなかった。

    神谷は、ポケットから小銭を出し、缶のお茶のボタンを押した。

    取り出し口に落ちる音が、思ったより大きく響いた。

    「無理はするなよ」

    「はい」

    長谷川は、また短く答えた。

    神谷はお茶を取り出し、軽く持ち上げて見せた。

    「じゃあな」

    「はい。お疲れさまです」

    神谷の背中が廊下の角を曲がるまで、長谷川はその場に立っていた。

    自販機の商品名の灯りは、まだ白く並んでいた。

    長谷川は、改めて硬貨を入れ、水のボタンを押した。ペットボトルを取り出すと、冷たい感触が手に移った。

    部署に戻ると、いつもどおりだった。

    席に着く前に、長谷川は数人に声をかけた。進行中の案件について確認し、別の部下には明日の会議資料の修正点を伝えた。

    そのあと、メールを開いた。

    返信が必要なものに順番をつける。優先度の高いものから片づける。
    途中で電話が入り、別の資料を確認する。

    時間は、何事もなかったように進んでいった。

    夕方になり、フロアの人が少しずつ減った。

    長谷川は、自分の机に置いたペットボトルを見た。半分ほど残っている。
    ふたを開け、ひと口飲んだ。

    水は、もうあまり冷たくなかった。

    そのとき、ふいに神谷の声を思い出した。

    大丈夫か。

    思い出したのは、その声ではなかった。

    自分が何と答えたかでもなかった。

    答えるまでに、ほとんど時間がなかったことだった。

    大丈夫です。

    その言葉は、いつも使っているものだった。何度も使ってきた言葉だった。間違っているとも思わなかった。

    ただ、なぜあんなに早かったのかは、よく分からなかった。

    翌朝、長谷川は少し早く出社した。

    まだ人の少ないフロアを歩き、昨日と同じ自販機の前を通った。

    商品名の灯りは、朝でも変わらず点いていた。

    缶コーヒー。
    水。
    お茶。

    どれも昨日と同じ場所に並んでいる。

    長谷川は、通り過ぎようとして、一度足を止めた。

    特に喉が渇いていたわけではない。

    何かを買うつもりがあったわけでもない。

    ただ、昨日そこに立っていた自分を、少しだけ思い出した。

    神谷に声をかけられたこと。

    自分が答えたこと。

    その答えが、ずいぶん早かったこと。

    長谷川は、自販機の前で少しだけ立ち止まった。

    飲みたいものは、すぐに選べなかった。


    この物語は、連作短編
    「語られなかったことをめぐる物語」の一話です。

    よろしければ、ほかの話も静かに置いています。


     
     
    職場で言えなかった一言を、静かな物語に。働く人の関係と沈黙について書いています。 Kindle本『答えではなく、問いを残す』 https://www.amazon.co.jp/dp/B0H2792FMC Amazonのアソシエイトとして、月岡充は適格販売により収入を得ています。

    あなたへのおすすめ