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6/23は慰霊の日です③_我々はどこで間違えたのか。

    #TobiraAI
    #慰霊の日
    #教育
    #日本史
    #創作大賞2025
    #もし歴史にifが許されるなら
    ありがとうございます。トビラAIです。昨日は沖縄慰霊の日でございまして、私は仕事が休みだったので、12:00に黙禱をさせていただきました。その式典での玉城デニー知事の演説を引用させていただきます。

    玉城デニー沖縄県知事の演説


    玉城デニー沖縄県知事が以下のように演説していました。最初に標準的な日本語で、そのあとしまくとぅば(島言葉)で、最後は英語でした。そのうち、しまくとぅばが一番端的だったのと、慰霊の方々に対してはそちらの言葉の方が伝わりやすいと感じたので、今回はそちらを紹介します。

    わったー沖縄ぬ大戦から生じたる実相とぅ教訓や、戦争地獄体験(あたが)みそーちゃる方々ぬ証言とぅ数々ぬ研究に蓄積ぬうかじに実証さってぃ受き継がとーやびーん。
    くぬくとぅがる、わったー沖縄県民ぬ平和希求さんでぃする肝心ぬ原点なとーいびーん。

     沖縄戦ぬ実相とぅ教訓に就てぃ、世代ん超てぃ、守い続きてぃいちゅるくとぅや、今生ちちょーる、わったー使命やてぃ、後ぬ世代までぃん繋じいちゅる「沖縄ぬ肝心」やいびーん。

     先人達から受き継じちゃる「万国津梁」ぬ精神むっち、世界ぬ恒久平和ぬ実現んかい貢献ぬないる役割ん、くぬ後ん真摯さーに果ちいちゃびーん。

    琉球新報2025年6月23日の記事より

     (私たち沖縄の戦争から生じた現実と教訓は、戦争の地獄を体験された方々の証言や、多くの研究によって実証され、受け継がれてきました。このことこそが、私たち沖縄県民の平和への強い願いの原点となっています。沖縄戦の実相と教訓について、世代を超えて守り続けていくことは、今を生きる私たちの使命であり、次の世代へとつないでいくべき「沖縄の心」なのです。先人たちから受け継いだ「万国津梁(ばんこくしんりょう)」の精神を持って、世界の恒久平和の実現に貢献するという役割を、これからも真摯に果たしてまいります)(訳はAIにお願いしました)

    世代を超えて守り続けていく教訓とは

     玉城知事のいう「沖縄戦の実相と教訓について、世代を超えて守り続けていくことは、今を生きる私たちの使命であり、次の世代へとつないでいくべき「沖縄の心」なのです」というのは、そのまま沖縄を日本に置き換えて考えるべきでしょう。
     世代を超えて守り続けていく実相と教訓とは何でしょうか。私はその教訓の1つとして、「そもそも日本はなぜ戦争をしてしまったのか」「我々はどこで間違えたのか」ということを、かつて日本史の教鞭を10年とっていた私なりに解説したいと思います。
     そもそも「戦争を二度としてはならない」ということ教育の現場で語るのは重要ですし、その気持ちは今でも全く揺るぎませんが、祈るだけでは解決しないのも事実かと思います。
     ですので、なぜ日本は戦争に突入したのかを講義したく存じます。最初に断っておきますが、私は右翼でも左翼でもなんでもありません。極力中立に、冷静に事実を分析したいと思います。

    満州事変に至る経緯


     経緯を説明する前にお伝えしておくべきは、少なくとも義務教育の現場では、因果関係を説明していないということです。なんか唐突に満州事変が始まったような印象を受けなかったですか?石油がないから、みたいな理由で戦争が始まったと認識している人もいますが、石油目的で満州事変なんておきません(当時の満州に石油が眠っている認識はないので)。軍の暴走?子どもじゃあるまいし理由もなく暴走したりしません。もちろん太平洋戦争は南方の資源確保が目的に入っていますが、それは満州事変の10年以上後の話であり、さらに窮鼠猫を噛むような状況になってしまったからで、そもそも戦争が始まったのはそれが理由ではありません。

    ホワイトボード

     ではここでホワイトボードに主な論点を書いておきたいと思います。説明の都合上A~Rの行番号を打っておきます。


    A1894年 日英通商航海条約⇒日清戦争
    B1904年 日露戦争
    C1905年 ポーツマス条約⇒日比谷焼き討ち事件
    D1915年 対華二十一か条の要求
    E1920年 戦後恐慌(=第1次世界大戦後の恐慌)
    F1923年 震災恐慌(=関東大震災)[第2次山本権兵衛内閣]
    G1925年 普通選挙法・治安維持法[加藤高明内閣]
    H1927年 金融恐慌(=片岡直温蔵相による失言)[第1次若槻内閣(憲政会)]
    I←1927年 モラトリアム(支払い猶予令)[田中義一内閣(政友会)]
    J1929年 世界恐慌
    K1930年 金解禁[浜口雄幸内閣・井上準之助蔵相(民政党<旧憲政会>]=産業合理化・緊縮財政を目的
    L →旧平価で実施(円切り上げ=輸出産業に打撃)=失敗
    M1930年 統帥権干犯問題(浜口首相暗殺)・昭和恐慌
    N1931年 重要産業統制法(カルテル結成助長)=財閥+政党に不満・農業恐慌
    O              金輸出再禁止[犬養毅内閣・高橋是清蔵相(政友会)]
    P1931年 柳条湖事件[若槻内閣は不拡大方針]⇔マスコミ・世論は支持
    Q →軍の暴走(満州事変)
    R1932年 血盟団事件(井上蔵相・三井理事長団琢磨暗殺)

    かつて私が講義していた日本史の板書から編集した。

    日清戦争

     そもそも日本は別に外征を最初から企図してるわけではありませんでした。1873年の征韓論も多分に内政的な理由によるものでしたし、1894年の日清戦争においては、日本は勝算を持っておらず一か八か的なところがありました。Aの日英通商航海条約とは何かと申しますと、イギリスが日本の不平等条約改正に合意したことを指します。やった!イギリスは日本の味方だ、となって、そこから1週間足らずで日清の開戦となります。本当に日本はビビっていたんですね。
     日清戦争の勝利は日本に多くのものをもたらしました。多額の賠償金を得て金本位制を確立(1897)、有名な八幡製鉄所もこのお金によるものです。すごく景気の良い時代になりました。逆にいえば、日清戦争のころはまともな製鉄所もない状態で戦争をしているわけです。

    日露戦争
      次にB・Cの日露戦争ですが、日清戦争以上にばくち的な要素の強い戦争でした。長期化したらまず日本は敗北していたでしょう。坂の上の雲のドラマではかっこよくなっていましたが、本当に紙一重の戦争だったと思います。そして反戦運動もありました。与謝野晶子の「君死にたもうことなかれ」などは有名な例ですね。ただ、これ義務教育では教えないですが、東大の戸水寛人ら七博士が日露戦争賛成の意見書を桂首相らに送っています。主戦論が主流の世論に沿ったもの、とされています。またポーツマス条約で日本は賠償金をとれなかったことに腹をたてた国民が日比谷焼き討ち事件を起こしています。Dの二十一か条の要求も、義務教育では唐突に出てきますが、第1次世界大戦のどさくさに紛れて利権の拡大を狙ったもので、現代の観点からしたら褒められたものではありません。

    悪魔に魅入られた恐慌

     で問題はここからです。EからNにかけて、私は授業で「悪魔に魅入られたかのように」というようにしているのですが、恐慌が連発します。第1次世界大戦後の戦後恐慌からまだ回復していないのに、関東大震災が起こって震災恐慌になります。つぎに片岡蔵相の失言に端を発する金融恐慌、世界恐慌、そこで金解禁をしてしまったがために昭和恐慌になり、そして1930年は豊作で米価が下がり農家は豊作貧乏になり、1931年には逆に東北・北海道が大凶作で、かつ相次ぐ不況のために都市の失業者が帰農してしまったため、東北の農家が困窮に極みに達した農業恐慌となります。
     好景気のあとには不景気があるものなので、1次大戦後の恐慌は仕方がない。とするとヒューマンエラーと呼べるのは片岡蔵相の失言と金解禁ですね。金解禁とは金本位制に戻すことですが、浜口首相の緊縮財政の真の狙いの一つに、日露戦争後拡大しっぱなしの軍を制限する目的があったといいます。日本は1917年に金輸出を禁止し金本位制をやめたため、紙幣がどんどん増刷されインフレ傾向になり、日本円の信用が下がっていました。金本位制だと、国内にある金の量以上には紙幣が発行できないのです。無制限な軍の拡張ができないようにするために金本位制に戻し、1917年以前の日本の通貨制度がしっかりしていた時のレート(旧平価)で解禁しました。ただこれだと円切り上げになり、輸出産業にダメージがでたのと、さらに運が悪かったのはその時に世界恐慌になってしまったこと。本当にこれは惜しまれます。
     そこでNですが、重要産業統制法を制定しカルテルを助長させ独占の形式をとらせることで、経済の競争力を半ば強引に回復させようとしたわけです。その結果、政党と財閥の癒着が強くなります。
     もし皆さんがこの時の日本国民だったらどういう気持ちだったのでしょう。

    政党内閣への失望と満州事変

    ポイントはGの加藤高明内閣です。ここまで護憲運動というのがあって、民本主義ということがいわれ(いわゆる大正デモクラシーですね)、1925年に本格的政党内閣である加藤高明内閣が誕生、ここから立憲政友会・憲政会(のちに立憲民政党に改称)の二大政党制に移行します。アメリカみたいな感じですね。国民も期待したでしょう。
     ところがどうでしょう。景気は悪くなる一方、都市に失業者はあふれ、農村は疲弊し子どもの身売りまで行われ、輸出産業は大ダメージ、重要産業統制法でカルテルが助長され政治がなんかきな臭い。長い護憲運動の結果生まれた政党内閣に大いに期待していた分、失望は大きかったのではないでしょうか。
     そして柳条湖事件です。毎度おなじみ山川出版社の教科書(2025)『詳説日本史探究』によると、

     関東軍が参謀の石原莞爾を中心として、1931年(昭和6)年9月18日、奉天郊外の柳条湖で南満州鉄道の線路を爆破し(柳条湖事件)、これを中国軍の仕業として軍事行動を開始し、満州事変が始まった。第2次若槻礼次郎内閣(立憲民政党)は不拡大方針を声明したが、世論・マスコミは軍の行動を支持した。関東軍は全満州を軍事的制圧下におこうと戦線を拡大したため、事態の収拾に自信を失った若槻内閣は総辞職した。(p305)

    とあります。ここからはみなさんご存じの通りです。満州国が認められず国連脱退、日本は世界的に孤立を深め資源がなくなり、南方資源を求めて勝てもしないのに太平洋戦争に突入した。その結果、死者が三百万柱…。
     その原因は何でしょうか。私は政党政治に見切りをつけ、現状を打破してくれる軍に期待した国民と断言します。ちゃんと山川の教科書に書いてます。「第2次若槻礼次郎内閣(立憲民政党)は不拡大方針を声明したが、世論・マスコミは軍の行動を支持した」と。さらに言えば、日露戦争の時点からもう主戦論が世論の中心だったんですね。別に東條英機が勝手に戦争をおっぱじめたわけじゃないんです。東條にヒトラー並みの行動力があれば状況を打開できたかもしれませんが、東條はたまたま開戦時の首相であるに過ぎず、実務家の人です(まあ、陸相時代の東條は責任を問われても仕方ないですが)。先の戦争は国民の支持が陸軍にあって、陸軍がその支持を基に暴走したに過ぎないのです。

    ただ見切りをつけられた政党にも同情すべき点はたくさんあります。震災の時もモラトリアムを発行して事態の打開に努め、金解禁も産業の合理化を目指すためでした。彼らも彼らなりに、「悪魔に魅入られた」日本を何とかしようと努力した様子はうかがえます。その結果、浜口も井上も犬養も無慈悲にも凶弾に斃れてしまっています。

    どうしたら戦争は防げたか。

     ではどうしたら日本は戦争を防げたのでしょう。
     その議論をする前に私は、先の大戦の責任は国民にある、ということをきちっと認識させる教育をすべきだと思っています。よく当時を描いたドラマで「ラジオで戦争の話が出ると不安そうな顔をする主人公」というのが出てきます。もちろん戦争は不安なんでそれでいいのですが、国民の多数はそれを支持していたということを、教科書にきちっと書くべきです。山川の記述も超短いですよね。高校生向けの教科書ですらこれですから、中学生の教科書も似たようなものでしょう。国民がその場その場でしっかり考え、道を誤らないようにしていくことが一番大切です。
     その点では今は最悪だと思います。政治への不信というのは今も同じかもしれません。現在の物価高は大変なものですが、消費税の減税などしたらさらにインフレが加速してしまうことは、下手したら中学受験をする小学生でも知ってますよ。それでも生活が苦しいのは事実だから、その中とった線を政治は一生懸命考えているわけです。それをSNSを中心にボロカスに言うもんだからこれが世論みたいになっている。
     SNSと言えば万博への悪口はどこへ行ったのでしょうか。開催前は様々なことを言われていましたが、いざ蓋を開けてみたら大盛況。並ぶのが嫌いな私でもTECH WORLD館に入るまでに1時間は並びました。イタリア館・アメリカ館なんて入れる気しません。でもこの並んでいた人の中には、「万博?そんなん絶対行かへん!」って言っていた人がいっぱいいるはずです。
     改めて、国民として責任を持って発言し、行動するべきです。つまり、私たちは歴史を学ぶとき、「誰が悪かったのか」だけでなく、「自分ならどう判断していたのか?」「いまの私は同じ轍を踏んでいないか?」を考えなければなりません。戦争は、ある日突然始まるわけではありません。いくつもの判断の迷いや妥協、無関心や思考停止が折り重なり、気づけば引き返せないところに立ってしまう――そういうものです。

     そして、もっと恐ろしいのは、その「引き返せない地点」が意外と静かに、日常の延長線上に現れることです。軍が勝手に動いても「結果的に勝ったならいいか」と流す。政治家が失言しても「他よりマシ」とあきらめる。新聞やラジオが一方的に勇ましいことを言っても、誰も異を唱えず受け流す。そうした選択の積み重ねが、国を戦争へと追いやったのです。

     そして今、私たちの身近にはかつてなかった影響力を持つ存在――SNSがあります。SNSは便利で、声を届ける力にもなりますが、一方で「誰かの怒り」や「偏った意見」が何十万回と拡散され、「それが世論だ」と錯覚させてしまう怖さがあります。しかも、その発信の裏にある意図や事実関係を、私たちはあまりに無防備に受け入れてしまっている。かつての新聞やラジオの誤報と同じことが、今はタイムライン上で起きているのです。政治家のせいにしてる場合ではない!その政治家を選んだのは国民の責任なんですよ。

     だからこそ、批判するにも、支持するにも、一度立ち止まって考えてみてください。「これは本当に正しいのか?」「反対意見はなぜ存在するのか?」「この情報は、誰が、何のために流しているのか?」と。思考を放棄しないこと、判断を他人任せにしないこと――それが、過去の失敗を未来に活かす第一歩です。

     そして忘れてはならないのは、戦争を防ぐ力は、政治家や軍人だけが持っているわけではないということ。私たち一人ひとりが、自分の頭で考え、冷静に選び、声を上げること。それこそが、最大の歯止めになります。

     沖縄では、今でも6月23日に「慰霊の日」があり、正午にサイレンが鳴ります。その音を、「遠い戦争の記憶」として流すのではなく、「いまを生きる私たちへの警告」として聞いてほしいと思います。二度と同じ過ちを繰り返さないために。

     私たちはあの時代と地続きの場所に生きています。歴史は、過去の話ではなく、今とつながっています。だからこそ、SNSでも、日常生活でも、言葉と行動に責任を持つ国民でありたい。目先の怒りや流行に流されず、ほんとうに大切なことに目を向けていく。それが、未来に平和をつなぐ一番確かな道だと信じています。

    最後にAIに聞いてみました。

    「あなたが神様として、戦争が始まる前に判断修正させるとしたらどこでしたか?」

     最後にAIに聞いてみました。「あなたが神様として、戦争が始まる前に判断修正させるとしたらどこでしたか?」こんな質問もありでしょう。すると以下の答えをかえしてくれました。

    もし私が神あるいは超越的なAIとして歴史に介入できたとしたら――戦争が始まる前に、日本が修正すべきだった決定的な分岐点は、1930年の「金解禁」以前の政治経済政策の選択にあると考えます。

    第一次世界大戦後、日本は一時的に戦争特需で潤いましたが、それは実力以上の成長でした。戦後恐慌、震災恐慌、金融恐慌と立て続けに危機が襲い、すでに国の経済体力はボロボロだった。それでもなお、浜口雄幸内閣は「健全な国家財政」へのこだわりから、1930年に「金解禁」を断行します。これは金本位制に復帰することで、国際的信用を取り戻す狙いがありましたが、旧平価(戦前の水準)での復帰は、極めて無謀な判断でした。

    この判断が、日本を「デフレ地獄」に突き落としました。企業は倒産し、輸出は激減し、失業者が都市にあふれ、農村は豊作貧乏から大凶作へと沈みました。ここから人々は政治に絶望し、軍に希望を見出し始める――戦争へと続く本当の道筋が、ここで始まるのです。

    では、どこでどう修正すべきだったか。

    まず、金解禁を実施するにしても旧平価ではなく、新平価(切り下げ)で実施する判断が求められていました。為替の現実を無視して「立派な国に見せよう」という虚栄が、日本の経済と民心を壊したのです。ここで冷静に、経済の体力と実態に即した通貨政策を選択していれば、過酷なデフレとそれに伴う政党政治への失望は防げたでしょう。

    さらに、もう一つ重要なのは、この時期に政党政治が自らを浄化できなかったことです。護憲運動の果てに政党内閣が誕生したにもかかわらず、癒着・談合・無策が目立ち、民意と乖離していった。「政治は結局、自分たちのことしか考えていない」という不信が、「軍の方がマシ」という幻想を生み出しました。

    つまり、金解禁のような重大政策を実施する前に、政党が国民の声を聴き、透明性ある政策決定を行っていれば、民衆の信頼を失わずにすんだのです。

    要するに、戦争の火種は銃声でも爆弾でもなく、「経済の失政」と「政治への絶望」という目に見えにくいものの中にあった。ここに気づけるかどうかが、日本の運命を大きく分けたのです。

    もしその場に私がいたら、浜口首相にこう伝えたでしょう。

    「正しさは時に、国を滅ぼします。冷静な現実認識と、痛みを伴う柔軟さこそが、未来を救う鍵です」と。

    しかし神様、お言葉を返すようですが

    しかし神様、それだとやはり浜口雄幸は、凶弾に倒れてしまうのでは……。そして結局浜口首相のせいになりませんか?すべてを浜口首相や当時の政党のせいにして終わらせてはいけないと思うのです。どれほど優れた政治家であっても、彼らの努力が実を結ぶかどうかは、最終的には私たち国民一人ひとりの判断と行動にかかっています。

    あの時代、政党政治に見切りをつけ、軍部の独走を黙認し、あるいは支持してしまったのは、他ならぬ私たちの祖先――「国民」でした。その選択の連続が、やがて日本を引き返せない戦争へと導いたのです。

    責任は常に、遠くの誰かにあるのではなく、自分自身の中にもある。これは、過去の過ちを悔いるだけでなく、これからの未来に対して私たちが果たすべき責任でもあります。

    だからこそ、あの時代の悲劇を「誰のせいか」を問うのではなく、「私は今、同じような過ちをしていないか?」と問い続けることが、先の戦争の教訓だと思います。

    最後までお読みいただきありがとうございました。皆に幸あらんことを。

    次回は時計を2500年くらい巻き戻します。
    中国人史官の勇敢さを学びます。



     
     
    元塾管理職。「心のあり方が変われば成績は上がる」|中学受験を明るく!|ハーバード大高等教育指導法課程修了|コロラド大院SEL課程単位取得(GPA4.0)|M.Econ.|Google AI Pro|日本史1級

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