
二本線の二週間
はじめに
これは、誰に伝えるでもない覚え書きだった。
私が勝手に喜んで、勝手に落ち込んだ2週間を、忘れたくないがために書いた文章だった。
妊活、妊娠検査薬、化学的流産という言葉が出てくる。
読む人によっては、落ち込んだり、気分が悪くなったりするかもしれない。だから、無理はしないでほしい。こういう文章を読むとき、自己防衛は大事だ。
それでも私は、書いておきたかった。
たった2週間のことだった。けれど私にとっては確かに、何かが始まって、終わった2週間だった。
二本線を見た日
妊娠検査薬で陽性になったのは、2019年11月26日の深夜3時を過ぎた頃だった。
不意に目が覚めた。二度寝しようにも、眠気をどこかに落としてしまったみたいに頭がすっきりしていた。
仕方なく、真っ暗な部屋の中で基礎体温を測った。
ピピッと音が鳴る。
スマートフォンの明かりで確認すると、36.82℃と表示されていた。
妊活を始めて5周期目。生理予定日のことだった。
まさか、と思った。
まさか、まさか。そう思いながら、妊娠検査薬を持ってトイレにこもった。
結果は、ぱっと見て分かるほどの陽性だった。
二本線。
何度も見た。トイレの明かりの下で見て、部屋に戻ってからも見て、角度を変えてまた見た。
何度見ても、線は2本あった。
胸の奥がそわそわして、体の置き場所が分からなくなった。
嬉しいというにはまだ早くて、でも嬉しくないわけがなかった。
声に出したら全部が消えてしまいそうで、しばらくひとりで検査薬を握っていた。
30分くらい経って、ついに寝ている夫の背中を叩いた。
「妊娠検査薬、陽性だったよ」
夫は寝起きの声で、あっさり言った。
「そっか。まだ分からないけどね」
拍子抜けするほど静かな反応だった。
でも、確かにそうだった。
まだ分からない。
これから1週間後にまた検査薬を試して、その後に病院へ行って、胎嚢や心拍を確認してもらって、話はそれからだ。
私はその日、どきどきしながらも結局もう一度眠った。
朝になってから病院に電話をして、12月9日の予約を取った。
生理予定日から2週間後。順調にいけば、心拍が確認できるかもしれない時期だった。
子どもが欲しかった理由
ずっと、自分の子どもが欲しいと思っていた。
その気持ちが一番強かったのは、高校生の頃だったように思う。
無条件に愛せる対象が欲しい。そう書くと、危うく聞こえるかもしれない。
子どもは親の空白を埋めるために生まれてくるわけではない。そんなことは分かっている。
それでも、あの頃の私は確かにそう思っていた。
ただただ愛したかった。小さな手を引いて歩いたり、反抗期にうんざりしたり、誰かが大人になっていく時間に一番近くで寄り添ったりしたかった。人の成長に触れて、そのまぶしさを体いっぱいに感じてみたかった。
だけど、結婚したのは24歳で、実際に妊活を始めたのは30歳の誕生日を過ぎた頃だった。
結婚してからしばらく、私は自分のことをまだ子どもだと思っていた。子どもが子どもを育てるなんて無理に違いない。そう思うと、どうしても一歩踏み切れなかった。
今になって思えば、もっと早くから子どもについて前向きに考えればよかったのかもしれない。けれど、あの頃はそういう気持ちになれなかった。
30歳になって妊活を始めた理由は、周囲の出産ラッシュと年齢への焦りだった。
高齢の両親に孫の顔を見せたい。
年を取ったときに子どもがいないのは寂しいかもしれない。
やっぱり私は人が好きで、子どもが好きで、その成長を近くで見たい。
理由らしい理由はいくつもあった。
けれど、率直に言えば、それは焦りだった。
焦りはストレスだ。ストレスは妊活の敵だ。
そんな言葉はよく見る。けれど、妊活をしている夫婦で、ストレスを抱えていない夫婦なんてどれだけいるのだろう。
不妊治療に3年かけた友人がいた。
妊活を始めると宣言したその月に妊娠した友人もいた。
どちらの話を聞いても、どんな夫婦にもそれぞれ思うところがあるのだと思った。
だから私は、子どもが欲しい、ただそれだけを思うことにした。
私たちの妊活は、排卵検査薬を使ってのタイミング法だった。
妊活を始めてすぐ産婦人科で相談したとき、排卵検査薬ではっきり陽性が出るなら、それがいいと思うと言われていた。だから、その方法を続けていた。
夫とは、不妊治療や検査の話もよくした。
どこまでするのか。検査だけするのか。人工授精は考えるのか。体外受精まで考えるのか。ローンや実家の借金もある中で、どこまでならお金をかけられるのか。私たちは、どこまで子どもが欲しいのか。
話し合った末、体外受精まではしないでおこうというところに落ち着いていた。
結婚したばかりの頃は、子どもが欲しいと思ったら、何もしなくてもそれなりに早い段階でできるのではないかと思っていた。
だって、周りの人は「子どもはまだ?」と、それはそれは軽く、世間話のように聞いてくる。
あれはきっと、挨拶程度の言葉だったのだと思う。聞いた本人に悪気はなかったのだと思う。
そのたびに私は「まだ仕事を頑張りたいので」なんて答えていた。
けれど、妊活をしていなかった当時でさえ、あまり気持ちのいい質問ではなかった。
これが不妊治療中だったら、どうするんだろう。
そう思っていた。
「子どもはまだ?」という質問が、本当に残酷なのだと実感したのは、妊活を始めてからだった。
各方面から怒られても仕方ないことを言う。
私も夫も、妊活生活に疲れ始めていた。たった5周期で、だ。
夫は高校の同級生で、付き合ってから13年、結婚してから6年が経っていた。恋人や夫婦というより、もう家族だった。
夫にとっては、義務的な夫婦生活。
私にとっては、いつまで経っても痛みに慣れない夫婦生活。
それは、私たちの心を折るには十分すぎる威力を持っていた。
そんなので本当に子どもが欲しいのかと言われれば、それでもやっぱり欲しかった。そこは譲れなかった。
けれど、タイミングを取った後、私は誰に謝るでもなく、心の中で謝っていた。ごめんなさい。
予約日までの二週間
検査薬で陽性が出たのは、今回もだめだったら検査をしに行くか、人工授精を考えようかと話し始めていた頃だった。
ようやくできた。
たった5周期で何を、という考え方はいったん置いておくことにした。
念願の子どもが、このお腹にやってきた。そう思うと、嬉しくて、信じられなくて、なんだか複雑だった。
年末年始の帰省の話が進んでいたので、早々に両親に報告した。父は夫と同じように「まだ分からない」と言いながらもそわそわしていて、母は「よかったね」と喜んでくれた。
妊活の相談をしていた友人と、近々飲みに行く約束をしていた友人にも報告した。
2人とも素直に喜んでくれて、いい友人を持ったなあと思った。
それからは、流産の可能性に怯えながら浮かれるという、どっちつかずの状態だった。
診察までが遠かった。
それでも、私は「初めてのたまごクラブ」の発売日をチェックした。
順調にいったら、という前提つきで、マタニティ用品を友人から譲り受ける話もした。
子どもが産まれたら何が必要になるのか、毎日のように考えた。
楽しかった。
つわりらしきものもあった。
毎日のように吐いた。気持ち悪さや、生理痛のような腰痛、頭痛はつらかったけれど、これがつわりなら、赤ちゃんがお腹にいる証拠だと思えて嬉しかった。
11月26日に妊娠検査薬で陽性が出てから1週間後の12月3日。
今度は別の妊娠検査薬を持ってトイレにこもった。
やっぱり陽性だった。
線は、はっきりと濃く出ていた。
期待してもいいかもしれない。大丈夫かもしれない。
希望を持った。
けれど、気になることが出てきたのは、それからすぐのことだった。
12月5日、それまで36.80℃以上を保っていた基礎体温が、少し下がった。
下がったといっても36.69℃だったから、そんなに気にするほどでもないかもしれない。
翌日、12月6日は36.71℃。少し戻った。
けれど、この頃から気持ちは落ち着かなくなっていた。
12月7日。
基礎体温は36.49℃になった。
危ないかもしれない、と思った。
それから私は検索魔になった。
「基礎体温 下がった 妊娠継続」
「陽性後 流産 兆候」
「妊娠初期 出血 鮮血」
1日中、スマートフォンで検索した。安心できる言葉を探しているはずなのに、怖い言葉ばかりが目に入った。
12月8日。病院の予約を取っていた日の前日、日曜日。
朝7時に目が覚めた。
あ、と思った。
トイレに行くと、下着にべったりと鮮血がついていた。
妊娠初期の出血はよくあることだと、検索で知っていた。
同時に、鮮血が続くと危ないという知識も持っていた。
トイレに行くたび、鮮血を見る。
胎嚢が見えない夜
午前8時15分頃、病院に電話をかけた。
休みでつながらなければ総合病院にかけようと思っていたけれど、3コールで優しそうな女性の声が聞こえた。
「いかがなさいましたか」
妊娠検査薬で陽性が出たこと。
初診は明日の予定になっていること。
起きてから鮮血が止まらないこと。
たどたどしく伝えた。
「当直の先生に確認しますね」
聞いたことはあるけれど曲名は知らないクラシックの待機音が流れた。
私はその間、ずっと手のひらに爪を立てていた。気がついて手を開くと、くっきりと爪跡が残っていた。
「今日のところは安静にして、今よりも出血の量が増えたり、腹痛がひどくなったりしたら、また連絡をいただけますか」
あったかくしてね。
そう添えられた声が、とても優しく響いた。
夫に出血したことを伝えてから、私はずっとこたつに入って横になっていた。
その間も、出血の感覚は止まらなかった。
10時頃、状況確認のためにもう一度病院へ電話をした。
言われることは変わらなかった。とにかく安静にするしかなかった。
ご飯を食べるときとトイレに行くとき以外は、ずっと横になっていた。
そして、いつの間にか眠っていたらしい。
15時半頃、痛みで目が覚めた。
きゅっと、突然内臓を強く掴まれたような痛みがあった。
出血の感覚も、明らかに増えていた。
トイレでナプキンを見ると、夜用のそれが真っ赤に染まっていた。
16時5分。
3度目の電話をした。
出血量が増えているのが心配だから、今から来てくださいと言われた。
夫は「ついていこうか」と言った。
けれど、ついてきたところで内診をするくらいだろうと思って断った。
玄関先で、もしだめだったら今晩は天ぷらかお寿司を食べに行こうと言われた。
外に出ると、日が暮れかけていた。たぶん寒い夜だった。
けれど、徒歩20分の距離を10分少しで歩いた私は汗をかいていた。
下腹部の痛みと出血の感覚だけが、いつまでも現実だった。
普通の生理が来たみたいだな、と思った。
病院に着いてからは長かった。
真っ暗な外来を抜けて、2階の看護室に向かった。
状況を改めて説明して、問診票を書いて、トイレに行って、やっぱり出続けている鮮血を見た。
体だけが、手順に従って動いていた。
非常勤の当直の先生を待っている間、今朝生まれたばかりだという赤ちゃんを見に来た家族を見かけた。
「うちの子が一番可愛い」
そう言ったおばあちゃんに、私は「おめでとうございます」と言うしかなかった。
たった5分が、10分にも30分にも感じた。
先生が来て、私は今日何度目だろうと思いながら状況を説明した。
診察が始まった。何が起こっているのか分からなかったけれど、たぶん経膣エコーをしていたのだと思う。……たぶん。
「胎嚢が見えないなあ」
先生が小さく、でも確実にそう呟いたのが聞こえた。
診察台を降りると、先生は3つの可能性を提示してくれた。
1つ目は、排卵日がずれていて、妊娠している可能性。
2つ目は、一度は妊娠したけれど、流産した可能性。
3つ目は、異所性妊娠の可能性。
ただ、異所性妊娠の場合は立っていられないほどの痛みがあることが多いから、こんなに元気ではないよ、と言われた。
「妊娠していても、流産していても、出血は僕らにはどうにもできないので、とにかく待ってくださいとしか言いようがないです。明日の予約を取っているなら、明日改めて来てもらって、そこで検査をしましょう。そうしたら、もう少し詳しいことが分かるから、今後が見えてくるよ」
先生は、まっすぐ目を見て話してくれた。
言い聞かせるような言葉は少し冷たく聞こえたけれど、この時点では本当に何とも言えなかったのだろうと、今なら思える。
帰り道、ようやく寒さを実感した。
冷える手をさすりながら、夫に電話をして、今日の晩ごはんは家にある魚を焼こうと話した。
家に帰って、魚を焼いて。
その日の夜は、布団を被って、ひとり隠れて泣いた。
陰性と言われた日
12月9日。
病院の予約は10時で、病院に着いたのは9時50分だった。
受付で、昨日に時間外診療を受けたことと、妊娠検査薬で陽性が出たことを話すと、採尿の説明を受けた。
トイレに行くと、相変わらず鮮血は止まっていなかった。
予約番号は310番。
診察室前のモニターには、今304番の人が診察中だと表示されていた。
このときに住んでいた地域は子どもが多い地域で、この病院は不妊治療を積極的に行っている病院ではなかった。
待合室には、第2子、第3子を妊娠したお母さんに連れられた子どもがたくさんいた。
預かり保育のスペースからは、子どもが体操をする元気な声が聞こえていた。
当たり前だけれど、産婦人科は子どもを産むための場所だと感じた。
305番の妊婦さんは女の子を連れていて、一緒に来ていたお母さんらしき人と「木曜日の出産予定日を前にして、子どもが大きく育ちすぎた」なんて話をしていた。
女の子は、お祖母ちゃん、お祖母ちゃんと声をかけながら、にこにこしていた。
「310番の方」
処置室から出てきた看護師さんが、診察前の確認に来た。
他の妊婦さんたちから少し離れたところに誘導されて、出血の状態や腹痛の有無を確認された。
昨日と違って、待ち時間はあっという間だった。
賑やかな方が、余計なことを考えないで済むのかもしれない。
10時45分。
診察室に呼ばれた。
ドアを開けた途端、若い女医さんと、看護師さんを包む空気が変わったことが分かった。
荷物を置き、私が椅子に座ったことを確認してから、先生が話し始めた。
「さっき出してもらった尿で見たらね、陰性でした」
陰性。
言葉の響きと意味が、すぐにはつながらなかった。
「検査薬で陽性が出たということで、一度は妊娠の形に持っていけたんだと思う。排卵予定日から考えると、今が6週目ってことになるのね。それで、陽性が出たときがどういう状態だったかっていうと、着床して、ホルモン値が一気に上がって、そのまま継続できれば高いままを維持できるの。けど継続できなかった場合は、ホルモン値が下がってしまうの。あなたが見たのは、そのホルモン値が上がった状態で、今日見たのは下がった状態。つまり、化学的流産ということになると思います」
昨日の先生と同じで、しっかり目を見て話してくれる先生だった。
一言一言、言い聞かせるように。
私はその言葉を、一つも聞き逃さないように、じっと先生を見つめ返していた。
「前に相談に来てくれたとき、排卵検査薬を使ってるって言ってたよね。やり方としては合ってたんだと思う。今回みたいなことがよくあるかっていえば、まあ、あるのね。でも、何度も続くってことはあまりない。だから、今回だめだったからすぐに何かの検査をするというのもお金がかかるし、それよりも、またタイミングを取ってみて、次の赤ちゃんを待った方がいいよ」
話の途中で、先生は何度も大丈夫かと聞いた。
私は大丈夫だと答えた。
今日は泣かない。
昨日、家でいっぱい泣いたから、今日の人がいる前では泣かない。
そう思っていたのに、先生が差し出してくれたティッシュの箱で、自分が泣いていたことに気がついた。
時間にすると、診察室には10分もいなかったと思う。
尿検査で陰性が出た以上、他の検査をしても昨日と同じような所見しか見られないと思うと言われて、私は「そうですか」と答えた。
そして、何事もなかったかのような顔で、ありがとうございました、と診察室を出た。
途端に、子どもの泣き声や、笑い声や、妊婦さんと看護師さんの話し声が、一気に押し寄せてくる。
……ああ、だめだったんだな。
また泣きそうになって、奥歯を噛み締めた。
会計は、昨日の時間外診療分と合わせて4000円ちょっとだった。
妊娠したら初診で1万円くらいかかるという話を聞いていたから拍子抜けした。
けれど、そもそも妊娠していなかったなら、そんなものなのだろうと思い直した。
暖かい病院の受付ベンチに座って、夫と両親と、陽性を伝えていた友人たちに結果を報告した。
父は体調を心配してくれた。
母は励ましてくれた。
1人の友人は気遣ってくれた。
もう1人の友人は、年末に有休を取るから飲みに行こうと誘ってくれた。
夫からは、ただひと言だけ返ってきた。
「残念」
そのまま家に帰る気にはなれなかった。
電車に乗って、隣の駅の大型スーパーに寄った。チョコレートケーキと、ウイスキーと、お刺身を買った。
妊娠していたら控えようと思っていたものばかりだった。
買い物をしている間、頭に浮かんでいたのは、化学的流産は医学的には流産として数えられないこともあるらしい、という言葉だった。
先生は「妊娠の形に持っていけた」と言ってくれた。
けれど、あれはたぶん、妊娠の形に持っていくための準備ができたということで、妊娠そのものが確定したわけではないのだろう。
私は2週間、陽性という結果に踊らされて、お母さんになれた気分でいただけだったのかもしれない。
つわりだと思っていたものも、もしかしたら気持ちの問題だったのかもしれない。
病院を出て、電車に乗って、スーパーに寄って、また電車に乗って家に帰った。
その間にすれ違った誰も、私が化学的流産をしたことを知らない。
それは、とても不思議な気分だった。
私の妊娠生活(仮)は、2週間で終わった。
この文章を書き始めたのは、12月10日。化学的流産が確定した翌日だった。
まだ、気持ちを切り替えられたかと言われると自信はない。今は実感が湧いていないだけかもしれない。
けれど、たった2週間でも、あんなに嬉しかったことはなかった。あんなに不安だったこともなかった。
検査薬で陽性になった日から、私は少し先の未来を見ていた。
年末年始は帰省できるだろうか。
つわりはもっとひどくなるだろうか。
病院では何が見えるだろうか。
母子手帳はいつもらえるのだろうか。
両親はどんな顔をするだろうか。
夫はいつ実感を持つのだろうか。
私は本当に母になるのだろうか。
その未来は、どれも実際には来なかった。
あれから二週間、そして一ヶ月
化学的流産が確定してから、2週間が経とうとしている。
出血して、病院に行って、陰性だったと言われて。
あれからまだ2週間も経っていないのかと思う。感覚的には、1ヶ月くらい経っている。
かかりつけ医には「今はまだ実感が湧かないかもしれない。これから一気に気持ちが沈む時が来るかもしれない」と言われた。
今のところ、大きな波は来ていない。
ただ、お酒を飲んでは泣いたり、人の何気ないひと言に傷ついたり、小さな波は毎日のように押し寄せている。
友人が連れている子どもを見て、居た堪れなくなるのはもう飽きた。
関西ローカルのテレビ番組で、その日に産まれた赤ちゃんとお母さんを見るたび、そうなれなかった自分を再確認するのももう飽きた。
毎月流れる鮮血に絶望したり、義務的で痛みを伴う夫婦生活にうんざりしたり、そんな日々が戻ってくるのだという事実に不安になるのも、もう飽きた。
それでも、あの経験があってよかったと思える瞬間もある。
これまで私は、流産した友人や知人の話に「そっかあ」と言うことしかできなかった。
今は、前より少しだけ、心から「そっかあ」と思えるようになった気がする。
電車で立っている人の中にも、つわりや流産で苦しんでいる人がいるかもしれない。
産婦人科の待合室で平然として見える人の中にも、本当は今すぐ帰りたい人がいるかもしれない。
スーパーでチョコレートケーキとお刺身を買っている人の中にも、何かを諦めたばかりの人がいるかもしれない。
想像力は、優しさだと思う。
流産の報告をしたとき、両親や友人はまず私の体を心配してくれた。
他にかける言葉がなかっただけかもしれない。それでも、「大丈夫?」というひと言で、私は少しだけ大丈夫だと思えた。
私も、そういう人になりたいと思う。
状況を想像して、かける言葉を選べる人に。
そして1ヶ月が経った。
検査薬で陽性が出たとき、すぐに病院へ行っていれば、何か違ったのだろうかと今でも考える。
そうしていれば、あれは化学的流産ではなく、流産として診断されたかもしれない。
子どもがいた証を、ほんの少しでも見られたかもしれない。
胎嚢が見えたかどうかなんて、今となっては分からない。
たぶん、行っても何も見えなかったのかもしれない。
それでも、あの二本線だけではなく、もうひとつ何かが欲しかった。
私の体の中で、何かが始まっていたこと。
それが、確かに終わったこと。
誰かに証明してほしかったのかもしれない。
自分の喪失が、勘違いではなかったのだと。
1ヶ月が経っても、今でもふいに泣きたくなる瞬間がある。
ベビー用品売り場の前を通ったとき。
テレビから赤ちゃんの泣き声が聞こえたとき。
何でもない朝に、基礎体温計の音を思い出したとき。
私はまだ、あの2週間を手放せずにいる。
けれど、手放せないなら、手放せないままでもいいのだと思うことにした。
あの二本線を見たとき、私は確かに喜んだ。
怖くなった。
浮かれた。
検索した。
祈った。
泣いた。
そして今も、ときどき思い出す。
順調にいけばよかった。
それは本当に、今でも思う。
でも、順調にいかなかったからといって、あの2週間がなかったことになるわけではない。
誰にも見えなかった。
戸籍にも残らない。
母子手帳もない。
エコー写真もない。
名前もない。
それでも、私にはあの2週間があった。
今日も月は綺麗だ。
その下を、何も知らない顔で歩いている人の中にも、きっとそれぞれの2週間がある。
私はそれを、前より少しだけ想像できる人になった。
著:和水紡
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追記
この文章を書いたあとに考えたことや、文章にするまでの迷いを、雪灯文庫【別館】に少しずつ置いています。
個人的な体験をどこまで書くか。何を残して、何をまだ自分の中にしまっておくか。
そういう、作品になる前のメモのようなものです。