
【キャリア/働く意味】第二十七話 視点の転換で変わる働く意味
七月初旬。
梅雨明け前だというのに、朝から容赦ない日差しがアスファルトを焦がしている。
休診日の土曜日。私は朝早くから、待合室のエアコン入れ替え工事に立ち会っていた。
『新しい手配は済ませた。工事は土曜の朝にねじ込んだから、立ち会いは任せたよ』
数日前、長年稼働していた古いエアコンがついに息絶え、診療所の先生からそんな有無を言わさぬメッセージが届いたのだ。
休日の早朝からの立ち会いだが、厄介な雑用とは思わなかった。週末のこの場所は、悩める相談者たちを迎える大切な空間だ。彼らをサウナで待たせるわけにはいかない。そう思えば、むしろ迅速な手配に感謝したいくらいだった。
麻衣も事情を察し、いつもより随分早くから診療所に出てきてくれている。
「よし、これで配管はオッケーですね。試運転に入ります」
作業着姿の中年の男性が脚立から降り、リモコンのスイッチを押した。ピピッという電子音とともに真新しいルーバーが開き、やがて、ひんやりと心地よい冷風が待合室を満たし始めた。
「わあ、涼しい! 生き返るね」
麻衣がパッと顔を輝かせる。
「本当に助かりました。まだ涼しい時間帯に来ていただいて、ありがとうございました」
私が頭を下げると、作業員の男性は首に巻いたタオルで汗を拭いながら、「いやいや、これくらいお安い御用ですよ」と人の良さそうな笑顔を見せた。
「お疲れ様でした。冷たいお茶、淹れましたのでどうぞ。少し休んでいってください」
麻衣がよく冷えた麦茶をグラスに注ぎ、ローテーブルにことりと置いた。
「おっ、すみません。いただきます」
男性は遠慮がちにベンチの端に腰を下ろし、冷たい麦茶を美味しそうに半分ほど飲み干した。ひと仕事終えた後の雑談という空気になり、麻衣も私の隣にちょこんと座る。
「毎日いろんな現場を回られて、この時期は特に大変でしょう」
私がそう労うと、男性はグラスの水滴を指でなぞりながら、少し自嘲気味に笑った。
「まあ、エアコンが壊れて呼ばれる時期なんて決まってますからね。でも、毎日毎日、他人の家の壁に穴を開けて、ネジを締めるだけの人生ですよ。手順さえ覚えれば誰にでもできる、ただの作業です。つまらない仕事ですよ」
彼はそう言って、足元に置かれた使い込まれた工具箱に視線を落とした。
謙遜もあるのだろうが、自分の仕事を「ただの作業」と切り捨てるその言葉の裏に、長年の反復業務に対する静かな諦めのようなものが滲んでいる気がした。
「誰にでもできる、なんてことはないと思いますよ。少なくとも私たちには、あの魔法のような手際は絶対に真似できませんから」
私が微笑みながらそう言うと、男性は「魔法だなんて、大げさな」と照れくさそうに頭を掻いた。
「魔法、か……。ねえ麻衣、あるテーマパークの清掃スタッフの人たちの話、知ってるかい?」
私は、隣に座る娘に静かに問いかけた。
「清掃スタッフ? ああ、自分たちのことを『ただゴミを拾う仕事』じゃなくて、『ゲストが楽しむ魔法の空間を守る仕事』だって呼んでるってやつ?」
「そう。やっている作業自体は同じでも、自分の手で仕事の『意味』を少しだけ仕立て直してみるんだ。そうすると、やらされ仕事ではなく、やりがいのある仕事に変わっていく」
男性は「魔法の空間を守る仕事、ですか」と小さく反芻し、感心したようにうなずいた。
「だからね、私は…えっと中島さんの今の仕事も、同じなんじゃないかなって思うんです」
私は、部屋の隅で静かに冷たい風を送り出している真っ白なエアコンを見上げた。
「中島さんは『ただネジを締めているだけ』と仰いましたけど……麻衣、週末のこの待合室って、普段どんな場所だっけ?」
「ここは、心に重い悩みを抱えた人たちが、やっとの思いでたどり着いて、ゆっくり深呼吸をするための場所、かな」
麻衣の優しい声色に、私は深く頷いた。
「もし今日、中島さんが来てくれなかったら、その人たちはこの酷暑の中で、さらに息苦しい思いをしながら悩みを打ち明けることになっていました」
私はゆっくりと視線を戻し、彼の目を見た。
「中島さんはただネジを締めているんじゃなくて、この暑くなりそうな週末の診療所に、ホッと息をつける『安心』を取り戻してくれた。……私たちにとっては、そういう、とても価値のあるお仕事だったと思うんです」
彼は目を丸くして、少しの間、言葉を失っていた。
それから、エアコンの吹き出し口を見上げ、自分のゴツゴツとした両手をじっと見つめた。
「安心を、取り戻す……」
彼がポツリとこぼしたその言葉には、先ほどの自嘲めいた響きはもうなかった。
「いやあ……そんな風に自分の仕事を見たことは、一度もなかったです。でも、そう言ってもらえると、なんだかこのネジを締める手にも、少し誇りが持てるような気がしますね」
「うん。この涼しい風、私たちにとっては本当に魔法みたいでしたから!」
麻衣が、空になった麦茶のグラスを片付けながら満面の笑みでそう付け加えた。
「ありがとうございます。いやあ、朝から気持ちのいい話を聞かせてもらいました。これで今日の残り三件の現場も、ちょっと気分を変えて回れそうです」
男性は立ち上がり、パチン、パチンと小気味よい音を立てて工具箱の留め金を閉めた。その横顔は、ここへやって来た時よりも少しだけ胸を張り、どこか誇らしげに見えた。
「それじゃあ、失礼します。これからの季節、どうか涼しくお過ごしください」
「ええ。中島さんも、熱中症には気をつけて」
男性がドアを開けて出ていくと、一瞬だけ外の焼け焦げるような熱気が入り込み、すぐにまた心地よい涼しさに押し戻された。
自分の手で仕事の意味を仕立て直し、誰かのために誇りを持って働く。その静かな熱意は、この涼しい部屋の中で、確かな温かさとして残っているような気がした。