
父は、ずっとそこにいた
一、旅立ち
2025年9月、父が逝った。享年88歳。
「これほど憂いを残さず逝く人がいるだろうか」と、私は思った。しかし私はずっと、父に愛されていないと思っていた。母から聞いた言葉がある。
「残りの人生は、貴子を探して生きていこう」
私が失踪したとき、父はそう言っていたのだそうだ。本気だったと、母は言った。
父としても、経営者としても、見事な生き様だった。根っからの親分肌で情に深く厚く、激しく厳しい。しかしその晩年は、苦言を呈することなく、若い世代にも静かに寄り添い、励まし続ける愛の人だった。
その穏やかな最期を見届けながら、私はある言葉を思い出していた。
「天に愛されている」
父が幼い私に、何度も口にしていた言葉だ。
二、父という人
父は、愛は一方通行だと言っていた。見返りを求めるものではないのだと。
そして、陰徳を積むことが大事だと言っていた。良き行いは人目につく必要はないのだと。
晩年に母から聞いて知ったことがある。父は、あしながおじさんのように、人知れず複数の人を支援していたのだそうだ。お金を貸して返してもらえないことも、本当に多かった。しかし、責める姿は見せなかった。逆に、自分が苦境にある時に救ってくださった方への恩は、生涯忘れない人だった。
それでいて、身内と思う関係の者には、自分と同じ思いを共有してほしいという願いが強かった。格好をつけずに、しかし相手の理解力に配慮するでもなく、自分の思いを何度も何度も伝え続ける人だった。
幼い頃、父はよく言っていた。「ライオンは、子供を崖から落として、這い上がる力を養う」と。可愛い子には旅をさせろ。苦労は買ってでもしろ。それは父自身が、15歳から働いて母親と妹たちを養ってきた経験から来る、本物の言葉だった。一方、潜在的に同じ苦しみを味合わせたくないという裏腹な思いが必要以上に先回りさせ、守ろうと奔走する父でもあった。
私には、心には、その言葉が届かなかった。
目に映る父は、愛を語りながら激しく振る舞う存在だった。最も愛されたいと望む相手だからこそ、認められたくて、失望させたくなくて、自分を押し殺した。湧き上がる感情を飲み込み続けた。父を目の前にすると頭は真っ白になり、言葉にならない。本当は、そんなことを求められているわけではなかったのに。押し込められた感情は、いつしか心の暗闇をつくっていた。
成長するにつれ反発は大きくなった。しかし20歳を超えてなお、その反発を飲み込むことしかできなかった。言葉の意味より、圧に対する恐れが勝っていたのだ。大学時代に2度の失踪をした。父への反発が直接の原因ではない。恐れて離れたいと望んだ父から離れても、離れた場所で似た存在に知らぬうちに引き寄せられ、同じようにフリーズする関係を繰り返していた。愛がそこにあると信じることができるまで、きっと、それは繰り返される——そのことを、当時の私はまだ知らなかった。
後から母に聞いた。私が失踪したとき、父は母にこう言っていたのだそうだ。
「残りの人生は、貴子を探して生きていこう」
本気だったと、母は言った。
その言葉を聞いたとき、私はようやく知った。あの頃、愛されていないと思い込んでいた私のそばに、ずっとそういう父がいたのだということを。
三、全てを失う覚悟
30歳で、父からいくつかの会社を引き継いだ。
やがて経営は行き詰まった。債権会社が来て、担保に入っている自宅をはじめとする資産を売り払うよう言った。そんな経験が初めての私は、あふれる感情で体が震えた。
しかし父は違った。
穏やかに、抵抗するそぶりを一切見せずに対応した。そして、母と一緒に全てを失う覚悟を先に決めてから、相手が何を求めているかを冷静に判断しながら交渉した。娘が代表者ではあるが、この借金を作ったのは自分だからその責任は全て自分にある——そう言って矢面に立ち、返せるかわからない額にも動じることはなかった。奇跡的に一つ、年数がたってまた一つと売却にこぎつけた担保物件の代金であったが、自分の手元に一切残さず、誠実に返済し続ける父に、債権会社の担当者が信頼を強くしていくのがわかった。要求しようと思えばできたであろう自宅の売却を免れて和解が成立したのだ。その配慮に心底感謝する父だった。
私は、不思議な感覚を覚えていた。
これが父なのだ、と。言葉ではなく、その生き様を初めて目の当たりにした。「全てを失う覚悟を決めてから動く」——それは、「天に愛されている」と信じなければ、できないことだった。
四、夜な夜な書いた言葉
しかし、すぐに父を理解できたわけではない。
いざとなったら人のせいにして逃げてきた私だった。自分の心と向き合わず、人の言葉にも耳を貸さない。そんな独りよがりの私が自分の無力さを思い知らされる機会を与えられたのは、必然であったのかもしれない。
父になだめられて踏み止まりながらも、逃げたい、死にたいという思いに囚われていた。横になってもぐるぐると思考がとめどなく巡ってやまない。解決の糸口すら見えない不安を私の心は手放すことができないまま、掴むものが何もない大海原に首だけ出して浮かぶ姿や、暗い部屋に閉じ込められた自分の姿が脳裏に浮かぶのだ。そんな眠れぬ夜が続いた。
ある夜、浅い眠りの中で、夢を見た。塀に囲まれた建物の外で、兵隊に内臓を引き出されていた。高鳴る鼓動とともに目が覚め、枕元のノートを手に取った。ユングを好んで読んでいた私は、連想を綴った。——世界からはじき出され、内臓を引き出されるような恐怖を、私は抱えているのだと。
また別の夜、二つの傷だらけの裸体が運ばれてくる夢を見た。よく見ると、それは父と母だった。再び目が覚め、心に耳を澄ました。
ああ、憎んでいた。いなくなればいいと思っていた親。
だが、違う。
本当は——傷ついてほしくないのだ。
そう強く湧き上がってきた瞬間、私はペンを持ったまま、心が溶解するように温かい涙を流していた。そしてたどり着いた言葉が、これだった。
「誰も傷つけたくない。皆に幸せになってほしい」
それが、私の本音だと思えた。
暴発しそうな感情こそが自分の本音だと思い込んでいた。だから、自分の本音を自由に解き放つと、負の感情があふれ出し他者に襲い掛かる恐ろしいものだと。しかし、違った。負の感情の底に、本当の心があった。
見守ってくれた家族の他に答えを求めて読み漁った書物にも救われていた。絶望の日々に希望を与えてくれた一つは、フランクル著『夜と霧』だった。強制収容所という心身の限界にありながら、いやむしろ極限にあったからこそ、愛や見えない力を信じて委ねることの意味を知り、敵の正義にも理解を示そうとする心が育まれた人がいた。その事実が、私を支えた。
受験戦争に勝ち、主人とバックパックを担いでヨーロッパからインドまでを旅した。人生観が変わるような経験だった。それでも、愛を受け取るには至らなかった。自分がやれる、自分がやらなければ——そんな我が、邪魔をしていたのだと、今はわかる。
無力な自分を晒し、すがるものが何もなくなったと思った時、「天に愛されている」という言葉だけが残っていた。信じる価値がないのが現実だと感じても、それでも信じて生きることを選ぶ自由だけは手放すまい。何が起きても、命まではとられない——そう言い聞かせながら、繰り返し、繰り返し、日々を重ねた。それが、生きる意味となった。
五、歩み始めた
心と向き合う、心に耳を澄ます、何を恐れ何を憂いているかをただ知る。何もしなくていい、導きに委ねよう。そう意識して過ごしていると、日常に目がいくようになってきた。
本を閉じて聞こえる鳥のさえずり。野草から大木に至るまで、ただそこにある命の力。
成果の見えない仕事を続けながら、私は走り始めた。最初は1kmほど。続かなくてもいい、行きたい時だけ行けばいいくらいの気持ちで。仕事では手応えが見えにくい日々でも、体は正直だった。昨日より少し遠くまで走れた、それだけのことが、心を励ました。小さな積み重ねが意欲になることを、体が教えてくれた。それがいつしか、熊本城マラソンでのフルマラソン挑戦へとつながっていた。
この頃、ホスピスのボランティアも始めた。仕事でがんの相談を受けることが増え、ホスピスという言葉を知った。治療の手立てが尽き、痛みをやわらげながら最期を待つ場所——そんな暗いイメージを持っていた。
しかし、そこで出会ったのは、穏やかな人々だった。死を受け入れた患者さんたちが、心から感謝し、訪れる者に力を与えていた。元気なはずの私たちの方が、力をもらって帰っていた。
死を前にしてもなお、人は人に力を与えられる。死と向き合うからこそ、平安と感謝の中で生きられる。その事実は、私の中にあった「死にたい」という言葉の意味を、静かに塗り替えていった。
心と向き合うようになって、もう一つ変わったことがある。かつて敵対していた相手のことを、少しずつ理解しようとする余裕が生まれてきた。立場が違う、環境が違う、育まれた価値観が違う。それでも、守りたいものがある、幸福を求めている——そこには共通の目的があった。穴があったら入りたいほど恥ずかしい過去の言動も、当時の自分の価値観の中で生まれたものだと、冷静に受け止められるようになった。苦い経験が、少しずつ意味のあるものとして見えてきた。
六、アサイゲルマニウムという問い
父が運命的に出会ったアサイゲルマニウムは、まず父を変えた。40代半ばで心臓を悪くしていた父の、あの激しい気性が穏やかになり、本来の優しさが前面に出てきた。「あれに出会わなければ、きっと短命だったね」と、母と私はよく話していた。
それは年数をかけて、私の体質も変えていった。半信半疑だが父が毎日飲めというから飲んでいた。数年経った頃、そういえば、風邪を引かなくなったな。冷え性が、生理痛が、徐々に症状や薬から解放されていく。気づいたのは、体の変化だけではなかった。解決法が見えないのに、何だか安心している自分がいた。いつからそうなったのかはわからない。ただ、確かに変わっていた。それは、心と向き合ってきた年月と、おそらく重なっていた。
父は浅井一彦博士が書いた著書の言葉によって運命を変えた。博士が生涯をかけて創製したこの水溶性有機ゲルマニウムは、体内で自らは変わらず、ただそこに在り、弱い結合で寄り添いながら、私たちが本来持っている力を引き出す。押し付けない。支配しない。ただ、その人の中にあるものを目覚めさせる。
その言葉を繰り返すうちに、私はあることに気づいていた。自らは変わらず、ただある。無害である。弱い結合で挨拶するように巡り、与えるのではなく、その人の中にあるものを引き出す——これは、父が「愛は一方通行」「陰徳」という言葉で生きようとしていたものと、同じではないか。
アサイゲルマニウムの体内での振る舞いは、分子レベルの話でありながら人間関係や社会の在り方への深いメッセージとして受け取れた。
「愛とは、相手を変えようとせず、その人本来の輝きを引き出すもの」
私もそんなアサイゲルマニウムのような存在でありたいと思うようになった。「アサイゲルマニウムは人生の良き伴侶」——浅井博士のその言葉が、父の人生と重なって見えた。
父にとって、それはまさにそうだった。そして父もまた、私にとっての、最も遠くて最も近い愛の存在だったのだと、今は思う。
七、生き様が引き寄せる奇跡
債権が回収会社に譲渡されてから、約20年が経った。
その間ずっと、父は誠実に返し続けた。経営の現場は全て委ね、自力でめどを立てることも、計画を立てることもできない状況の中で、それでも父は責任を果たし続けた。
息を引き取る約5カ月前のことだ。既に心身が不自由になっていた父が、突然言い出した。最後の交渉をしたいと。
これを解決しなければ安心して逝けない——その思いが伝わったかのように、完済の条件がそこで決まった。
見事としか言いようがない、と私は思った。「責任を果たす」と、言葉にするのは易しい。しかしやり遂げることは、簡単ではない。私には到底真似できないと思った。
しかし同時に、確かに知ったことがある。
天に愛されていると信じて生きた人間の、これが最後の決断だった、と。
八、憂いを残さず
父が逝く前、言葉には尽くせない多くのことを、背中で教えてもらった。
戦時体験。生きる意味。逆境と向き合うということ。苦痛の中で、死を前にして、人はどう在ることができるか。決して聖人君子ではない。「清濁併せ吞む」の言葉通り、実に俗物であり人間臭い父でもあった。「義理と人情とやせ我慢」が信条なのだから、容易にわかるはずもない。俗の部分しか理解できない私や多くの人はお陰で随分誤解してしまった。
旺盛な頃の父は、多くの人に影響を与えた。しかし私が力を受け取ったのは、財を失い、心身から英気が失われつつある晩年の父からだった。それでも失われなかったものを、私は目の前で見た。だからこそ、それは本物だと知った。
見返りを求めない愛。人知れず積む陰徳。崖から落としてなお信じて待つという信念。全てを失う覚悟を先に決めてから動くこと。20年かけて、息を引き取る5カ月前に完済の条件を決めたこと。そして、逃げた娘を残りの人生をかけて探そうとした父。
私はずっと、愛されていないと思っていた。ただ私が、受け取れていなかっただけだった。
父は、ずっとそこにいた。
「天に愛されている」
その言葉は幼い頃から与えられていた。信じられなかった時も、反発していた時も、逃げ出した時も、その言葉は消えなかった。消えなかったから、どこかで踏みとどまれた。どこかで、戻ってこられた。
父の死によって、私はやっとそれを、手のひらいっぱいに受け取った気がしている。
愛は、最初から与えられていた。