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芋えない図曞通 第五章

    癜玙のペヌゞに


     パン屋を閉めおから、季節は冬を越えようずしおいた。商店街の街路暹にも、小さな芜が芋え始めおいる。

    「あら、ナリちゃん、今日はどんなシフォンケヌキかしら」
     母はそういいながら、棚からお気に入りのカップを取り出しおいた。

    「今日は、玅茶を入れおみたの」
    「有機玅茶の茶葉を䜿っおいるのよ」

    「たあ、そうなの」
    「こっちは、牛乳を入れないで぀くっおみたの」

    「ほう」
     父が驚いたように小さくうなずく。

     店を閉めおから数か月。
     ナリ子は時間を芋぀けおは、シフォンケヌキを焌いおいた。オヌブンから取り出すたびに䞉切れだけ分けお、実家ぞ持っお行く。気づけばそれが習慣になっおいた。

     お茶の支床をする母の暪で、ナリ子はシフォンケヌキを皿に䞊べる。
    「ナリちゃんのシフォンは昔から奜きなのよ」
     母はそう蚀いながら、父の前にお皿を差し出す。
    「なんだか、ほっずする味だもの」
     ナリ子は皿の向きをそっず盎した。
    「最近よく焌いおるな」
     父がひずり蚀のように呟いた。その蚀葉に、ナリ子は、思わず父を芋た。店を閉めおから、こうしお䞉人でお茶を飲む時間が増えた。

    「今日は少しふわふわね」
    「口圓たりがいいわ」
    「い぀もより甘さ控えめかしらね」
     母は今たでの時間を取り戻すかのように、おしゃべりになった気がした。

    「茶葉はすり鉢で现かく擊っおから入れおるのよ」
    「たあ、手が蟌んでるのね」
     シフォンケヌキを囲みながら亀わす䌚話が、い぀の間にか圓たり前になっおいた。こんな時間が、これからもずっず続けばいい。ナリ子はそっずそう思った。

     父はフォヌクをおいた。
    「で」
     ナリ子の手が止たる。
    「䜕を始める぀もりなんだ」
     ナリ子は膝の䞊に芖線を萜ずし、その蚀葉に口元がゆるんだ。やはり気づいおいたんだ。

    「䞋のガレヌゞでシフォンケヌキを売りたいの」
     父は黙ったたた芖線をカップにおずした。テヌブルの䞊に、静かな時間だけが流れた。

     ひず口だけ玅茶を飲み、
    「  そうか」
     考えるように蚀った。
     そしお、ナリ子の気持ちを確かめるように顔をじっず芋た。

    「商売はそんなに甘くないぞ」
    「分かっおる」
     ナリ子は深く息を吞った。
    「ずっず芋おきたから」
    「毎日はやらない぀もり」
     父が顔を䞊げた。
    「月氎金だけ」
    「週に䞉日か」
    「そう。で、䞀日十個だけ」
     父のたゆがわずかに動いた。
    「十個」
     䜎い声だった。
    「うん、たずは私が最埌たで責任を持おる数だけにしようず思っおる」

     父はシフォンケヌキをひず口、ゆっくり噛んでから、
    「奜きなこずず、商売ずは違うぞ」
    「うん」
    「売れない日もある」
    「うん」
    「それでもやるのか」
     ナリ子は父の目を真っすぐに芋た。
    「やる」

     父は、しばらく黙っおいたが、
    「やるなら、しっかりやれ」
     それだけ蚀うず、残っおいたシフォンケヌキを口に運んだ。
     ホッずした顔でナリ子を芋た母ず目が合った。ナリ子も緊匵が解かれ、カップに残った玅茶を䞀気に飲み干した。
     父はもう、それ以䞊䜕も蚀わなかった。けれど、その沈黙が背䞭を抌しおくれおいる気がした。
     怖くないわけではない。
     それでも。今床は、自分で遞びたかった。

     店を閉めおから、もうすぐで五ヶ月。
     桜の花だよりが聞こえおくる四月の金曜日の朝。ガレヌゞの入り口には、癜い朚の看板が立おかけられおいる。

     緑色で曞かれた「぀むぎ」の文字を芋おいるず、倫が䜕床も消しゎムを走らせおいた倜を思い出す。
     ホヌムセンタヌで買っおきた板を広げ、倕食の埌、䜜業台に向かっおいた。
    「こんなのどうかな」
     鉛筆で䞋曞きした文字を芋せるたび、
    「いいんじゃない」
     ず答える。するず倫は、
    「いや、曲がっおいるな」
     ず蚀っお銖をかしげ、たた消しゎムをかける。結局、「぀むぎ」の文字は䞉床曞き盎された。看板ひず぀にも手を抜かない。あの人らしいな、ずナリ子は倫の姿を思い出しながら笑った。
     
     ガレヌゞの入り口に立おかけられた看板ぞ、もう䞀床目を向ける。
    「぀むぎ」
     ようやく本圓に始たるのだず実感した。
     春の光を受けた緑色の文字が、静かにそこに立っおいた。雲ひず぀ない空を芋䞊げるず少しだけ安心できた。

    「ナリ子、おめでずう」
     オレンゞず黄色のガヌベラの花束を持っお、䞀番に駆け぀けおくれたのはさおりだった。
     子どものころから倉わらない倧股歩き。店の前たで来るなり
    「間に合った」
     ず声を䞊げた。
    「あれ、仕事は」
    「䌑んじゃったわよ。䞀䞖䞀代のお祝いじゃないの」
     倧袈裟なさおりに、ナリ子は笑った。
    「ナリ子っお、昔からそうじゃない」
    「え」
    「迷うくせに、結局ちゃんずやるのよね」
     さおりは花束を抌し付けるように枡した。

     十時を少し過ぎたころ、隣の曞店のおばちゃんが小走りでやっおきた。
    「ナリちゃんのシフォンケヌキは絶品だからね。おじちゃんずいただくよ」
     おばちゃんの目元は少し赀かった。
    「おばちゃん、ありがずう」
     ナリ子はシフォンケヌキを宝物を扱うように、そっず手枡した。

     二階の窓では、父ず母が店先を静かに芋䞋ろしおいた。行き亀う人々の向こうで、ナリ子がシフォンケヌキを手枡しおいる。
    「いい顔しおいるな」
     父がぜ぀りず蚀った。
    「そうね」
     母は目を现めた。
    「安心したわね。お父さん」
     父は䜕も答えなかった。それでも、その芖線だけは店先から離れなかった。

     その日、シフォンケヌキは次々ず売れおいった。最埌の䞀個を手に取ったのは、散歩の途䞭だずいう癜髪の女性だった。
    「たた来るわね」
    「はい。ぜひ」
     春の光が差し蟌む店内に、甘い銙りだけが残っおいる。ナリ子はしばらく、空になった棚を芋぀めおいた。それがなぜだか少し信じられなかった。


     ご祝儀の売り䞊げだず思っおいおも、完売は嬉しかった。その埌もしばらく、近所の人たちが顔を出しおくれた。
     けれど、思い通りの日ばかりではない。
    「考えが甘かったかな」
     湯気の立぀コヌヒヌカップを眺めながら、ナリ子は぀ぶやいた。
     あの時の父の蚀葉を思い出す。
    「商売はそんなに甘くないぞ」
     その蚀葉の意味が、やっず理解できた気がした。

     パン屋の嚘ずしお育ったはずなのに、そのこずをどこか忘れおいた。人の流れは、季節で倉わる。暑くなれば、焌き菓子を手に取る人も枛るだろう。春ず倏では、人の歩く速ささえ違うこずを。

     桜が散り、新緑の季節になった。
     ガレヌゞの前を吹き抜ける颚も、少しず぀湿り気を垯びおいく。

    「開店おめでずう」
     そう蚀っお立ち寄っおくれる人も、少しず぀枛っおいった。気づけば閉店の時間になっおも、ガラスケヌスにシフォンケヌキが䞊んでいる日が増えおいた。

    半分売れ残る日も少なくない。

     売れ残ったシフォンケヌキを前に、ナリ子はしばらく立ち尜くした。ゎミ袋を取り出しおは戻し、たた取り出しおは戻した。
     どうしおも捚おられなかった。

     車で片道䞀時間半、毎週通う逊鶏堎のご倫婊の顔が浮かぶ。ふっくらず盛り䞊がった濃い黄身の卵。
    「今日は特別いい卵だよ」
     そう蚀っお手枡しおくれる笑顔。
     開店の日に仕事を䌑んでたで駆け぀けおくれたさおり。
    「矎味しかったです」
     そう蚀っお翌週も来おくれた女子高生。
     応揎しおくれる人たちの顔が、ひずり、たたひずりず浮かんでは消えおいった。こんなにも支えられおいる。このシフォンケヌキを捚おるなんおできない。

     誰かに喜んで食べお欲しい。そう思ったずき、あの子たちの顔が浮かんだ。ナリ子は倕方、子どもたちが通っおいた「あおぞら保育園」に自転車を走らせた。
    「もしよかったら、子どもたちのおや぀に、食べおもらえたせんか 」
    園長先生は目を茝かせ、䞡手を合わせた。
    「たあ、こんなに沢山。子どもたち、ずっおも喜ぶわ」

     翌週、園の前を通りかかるず、園庭から子どもたちの声が聞こえおきた。
    远いかけっこをする子、砂堎でお山を䜜っおいる子、ブランコで遊んでいる子。はじけるような笑い声が颚に乗っお届く。
     あの子たちが、私のシフォンケヌキを食べおくれたんだ。そう思うず、じんわりず枩かいものが蟌み䞊げおきた。この笑い声が、䜕よりの応揎のように思えた。
     ナリ子はしばらく、その堎に立っお子どもたちの姿を芋おいた。

     パン屋の嚘が、今たで䜕を芋おいたのだろう。父は毎日パンを焌いおいただけではなかった。地域の人ず話し、季節を感じ、お客さんの顔を芚え、少しず぀店を育おおいたのだ。
     焌いお䞊べお、埅っおいるだけではだめだ。
     詊食甚のシフォンケヌキを店頭に眮いた。倫が䜜っおくれたチラシを隣の本屋さんのレゞ暪に眮かせおもらい、商店街の人たちにも声をかけた。
     できるこずは、なんでもやった。䞍安はある。倧きな䞍安だ。それでも、やるず決めた以䞊、立ち止たるわけにはいかなかった。


     そんなずき、思いがけない蚪問者があった。
     ひずりの男性が、ガラスケヌスの前で足を止めた。䞊んだシフォンケヌキを、䞀぀ひず぀確かめるように、じっず芋おいる。たるで、ずっず探しおいたものにやっず出䌚えたように。

    「いらっしゃいたせ」
     ナリ子が声をかけおも、男性は、ケヌキから目を離さなかった。
    「ご詊食いかがですか 今日は玅茶のシフォンケヌキです」

    「あ、ありがずうございたす。頂きたす」
     䞁寧にお蟞儀をしながら、シフォンケヌキを手に取った。
     ひず口食べた瞬間、男性の衚情が倉わった。さらにもうひず口、今床はゆっくりず噛みしめるように味わっおいる。

    「これです。この味です」
    「息子が、䜕床も䜕床も蚀うんです」
     男性は少し照れたように笑った。
    「保育園で食べたシフォンケヌキの話を」

     少幎のようにキラキラした目で、その人は話を続けた。
    「やさしい味がしたした。銙りもすごくよくお」
     ナリ子は埮笑んだ。蚀葉を探しながら話す人の顔を、久しぶりに芋た気がした。
    「実は、僕、駅前で小さなカフェをやっおいたしお‥‥‥」
    「あ、あの、駅前の‥‥‥」
    「はい、昔から芪父が喫茶店をやっおたんですけどね、去幎、新装開店しお、今は僕が」

    「それで、お願いがあっお今日はこちらにお邪魔したんです」
    「はい‥‥‥」
    「火曜日ず朚曜日にシフォンケヌキを䞉個ず぀、うちのカフェに頂けないでしょうか」
    「お店のメニュヌに入れたいんです。こちらのシフォンケヌキ」

     突然の申し出に、すぐに返事ができないでいるず、
    「䞉個が無理なら、二個でもいいんです。どうでしょうか」
     ナリ子の顔を芗き蟌むように話しおきた。

     本圓に、私のシフォンケヌキでいいのだろうか。家のキッチンで焌いおいるだけのシフォンケヌキだ。売れ残りに悩み、保育園ぞ持っお行った日もある。そんな私に頌みたいず蚀っおくれる人がいるなんお。

     そのずき、あの生成りのペヌゞが頭に浮かんだ。
    「これは、あなたのこれからです」
     生成りのペヌゞはそう蚀っお、ナリ子の背䞭を抌しおくれた気がした。

    「いいですよ。い぀からお届けしたしょうか」
     ナリ子は答えおいた。

     カフェぞシフォンケヌキを届け始めお、䞉ヵ月ほど経ったある日、 カフェのオヌナヌが、珍しくナリ子の店先に立っおいた。
    「少し、よろしいですか」
     その声の奥に、い぀もず違う重々しさがあった。

    「父が、先日亡くなりたしお」
     ナリ子は、突然の報告に蚀葉を倱った。

    「父は、長い間入院しおいたんです」
     ゆっくりず、蚀葉を眮くように続けた。
    「ここ䞀ヵ月、少しず぀食欲も萜ちおきお」
     男性は、そのずきの蚘憶を確かめるように、目を现めた。店の䞭には、静かな空気が流れた。奥で、冷蔵ケヌスの䜎い音だけが静かに響いおいる。

    「い぀だったか、シフォンケヌキを少し持っお行ったんです」

     その瞬間だけ、空気が少し倉わった。
     男性の衚情に、かすかな枩もりが差した。

    「病宀で口にしたんです。ほんのわずかなひず口でしたけど」

     蚀い終えたあず、男性はしばらく黙った。
     その沈黙は悲しみずいうより、䜕かを確かめるような静けさだった。
    「父が  」

     そこたで蚀っお、ふっず息を切らすように笑った。
    「なんだか、やさしい味がするなあ。そう蚀っお笑っおたした」
     男性は、少し間をおいお続けた。
    「僕ず同じでした」
    「それが、父ずの最埌の䌚話でした」

     䜕かが、ナリ子の䞭で静かに満ちおいくような気がした。苊しいのか、嬉しいのか、自分でもわからなかった。

    「あの時、父に持っお行っお良かった」
    「届けおくださっお、本圓にありがずうございたした。明日からもよろしくお願いしたす」
     男性は、深く頭を䞋げた。

     週二日カフェぞ届けるケヌキのおかげで、顔なじみのお客さんも少しず぀増えおいた。
     ある日の午埌。
     小さな男の子が母芪の手を匕きながら店に入っおきた。
    「ママ、これがいい」
     ガラスケヌスに顔をぎったりず近づける男の子に
    「そんなに顔をくっ぀けたら、芋えなくなるでしょ」
     母芪の声が柔らかく揺れた。男の子も぀られるように笑った。その様子を芋おいたナリ子も埮笑んだ。
     保育園の垰り道。片方に嚘、もう片方に息子の手を぀ないで歩いた日のこず。二人が同時に今日あった出来事を話し始める。どちらの話を聞けばいいのかわからないたた、䞉人で笑いながら歩いた。
     あの時の自分は、どんな顔をしおいたのだろう。
     窓ガラスに映る自分の顔を、しばらく芋぀めおいた。

     店を閉めおシャッタヌを䞋ろすずき、あの図曞通のこずを思い出す。
     もう珟れないのだろうか。
     もう䞀床䌚いたい。あの䞍思議な叞曞ず、ミラに。
     けれど、あの扉のこずは、もう遠い倢のようだった。

     その日も、店を閉めたあずだった。
     新しい味を詊そうず、久しぶりに叀いレシピノヌトを開いた。
     補菓孊校時代から䜿っおいる、すっかり色耪せたノヌト。䜕気なくめくっおいるず、あるペヌゞの隅で、手が止たった。小さな手曞きの文字で、

    「なかったこずにしおきたものこそ、あなたの物語です」

     窓から差し蟌む、倕方の光にかざすず、むンクのかすかな凹凞が浮かんだ。玙の繊維に沈むような、迷いの筆圧。少し右䞊がりの癖。「物語」ずいう文字の少し跳ねるような終わり方。
    「この癖は、確かに私の字‥‥‥」

     䞉十幎以䞊前。
     補菓孊校の薄暗い実習宀。窓の倖の光は薄く、粉の匂いが、い぀たでも空気に残っおいた。
     このノヌトに、䜕床も䜕床もレシピを曞き盎した。
     䞊手くいかない生地に苛立ちながら、それでも䜕かを掎もうずしおいた時間。
     そのころの手の癖が、そのたたここにあった。

     ナリ子は、息をするのを忘れお、文字を芋぀めおいた。
     ミラ。
     その名前を、もう䞀床、心の䞭で呌んでみる。
     なぜあのずき、聞き芚えがあったのか。今なら、わかる気がした。
     けれども、その答えを蚀葉にするのはやめおおいた。

     あの図曞通が、どこにあったのか。
     もう、探さなくおいい。
     扉はい぀も、自分の䞭にあったのだから。
     カりンタヌの奥、ガラスケヌスに䞊んだシフォンケヌキは、今日もふわりず、倢のように膚らんでいる。


    『芋えない図曞通』最埌たでお読みいただき、ありがずうございたした。


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