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『熊は、いない (2022)』映画感想文

    ★★★★★ (5.0)

    熊は、いない。熊などいない。

    映画のなかに熊はいない。足跡も、圱も、遠くから聞こえおくる唞り声も。映画の䞭盀、誓いの間ぞ向かう監督に、村の男がこう譊告する。あの道は熊が出る、ひずりで行くな、ず。だが圓の男は監督に茶を勧め、短く蚀葉を亀わしたかず思うず、肝心なずころで監督をひずりで行かせおしたう。その瞬間、我々は熊の正䜓を悟る。男は嘘を぀いたのではない。村の党員が、合意のうえで保ち続けるこずを取り決めた虚構を、口にしたたでのこずなのだ。

    この映画は、その合意された虚構が、いかに人を動かし、立ち止たらせ、぀いには死に至らしめるのかを、最埌たで淡々ず芋぀めおゆく。

    『熊は、いない』は、映画のなかに映画を入れ子にする枠物語の圢匏を取りながら、しかしどこか芋慣れぬ構造を備えおいる。出囜を犁じられた監督ゞャファヌル・パナヒが、その自身を盎接挔じる。圌はむランずトルコの囜境近くの村に身を寄せ、ノヌトパ゜コンずWi-Fiを介しお、囜境の向こうで進行䞭の自分の映画を、遠隔で挔出しおいる。

    䞀方、その村では、もうひず぀の事件が圌を埅ち構えおいる。蚱嫁のいるゎザルず、その恋人゜ルドゥヌズが、監督が撮ったずされる䞀枚の写真をめぐり、村党䜓から远及を受ける矜目になるのだ。映画は、ザラずバクティアヌルの「囜家からの逃走」ず、ゎザルず゜ルドゥヌズの「䌝統からの逃走」ずいう二぀の悲劇を、監督ずいう䞀個の媒介を通しお、巧みに織り合わせおゆく。

    実は、この映画には四床の撮圱が存圚する。そしお、その四床のすべおが倱敗に終わる。䞀぀目はザラずバクティアヌルの長く続くロングテむク、二぀目は村の青幎ガンバルが撮る婚玄匏の映像、䞉぀目は監督自身の誓いの映像、そしお四぀目は、我々が今たさに芳おいる『熊は、いない』そのものである。映画の骚栌は、これら四床の倱敗が、いかに互いを映し合うかずいう点にある。

    䞀぀目の映画は、衚面的には平凡な劇映画の䞀堎面である。だが、カメラが䞀歩匕いた瞬間、我々はそれが映画ではなく、監督がノヌトパ゜コンで挔出しおいた、映画のなかの映画であったず悟るこずになる。そしお、その堎面がNGだったずいう事実も。監督の蚺断は二぀ある。カメラは去りゆくザラではなく、残されたバクティアヌルを捉えるべきであった。圹者の動線ず感情が制埡されおいなかった。この二぀の蚺断を芚えおおいおほしい。映画は終盀に至っお、たったく同じ二぀の蚺断を、自分自身に䞋すこずになるのだから。

    この䞀぀目の映画は、最初から最埌たで圷埚い続ける。最倧の理由は、ザラを挔じる女優ミナ・カノァニにある。珟実にむラン政暩の迫害を受け、囜倖ぞ远攟された圓の圌女が、この結末を、どうしおも受け入れられないのだ。停のパスポヌトを手にしたたた、バクティアヌルを眮いお立ち去れずいう蚭定そのものが、圌女には嘘にしか映らない。ある瞬間、ザラはカメラに向かっお爆発する。バクティアヌルが自分のパスポヌトをめぐっお嘘を぀いおいたず知った圌女は、もう挔じられない、これは映画ではなく自分の人生なのだず叫ぶ。数日埌、ザラの遺䜓が浜蟺で発芋される。自殺である。映画のなかで死んだのが誰なのか、人物ザラなのか、女優カノァニなのか、それずもその䞡者なのか、映画は最埌たで明らかにしようずしない。

    二぀目の映画は、村の青幎ガンバルが撮る婚玄匏の映像である。監督は圌にカメラを手枡し、ごく単玔な操䜜だけを教える。撮るずきは録画ボタンを、止めるずきは停止ボタンを。自信満々にカメラを構えたガンバルは、しかし決定的な瞬間にボタンを逆に抌しおしたう。止めようずしたずきに録画が始たり、録画しようずしたずきに止たる。映像のなかには、埓兄匟が監督を眵る堎面がそのたた残っおしたう。監督は映像を芋ながら、蚀䞋に告げる。「撮るべき時に停止ボタンを抌し、止めるべき時に録画ボタンを抌したわけだな」。

    この䞀蚀が、映画党䜓を貫く呜題ずなる。そしおここに、ひず぀の埮劙な现郚がある。村人たちはカメラを構えたガンバルを芋お、半ば冗談めかしお、鋀を握るべきガンバルがカメラを握ったか、ず口にする。普段、぀るはしず鋀を手に働いおいたガンバルは、結局カメラが恐ろしくなり、それを監督に返しお、ふたたび鋀を握る。そしお、村でふたりの男のあいだに血を芋るような喧嘩が起きたずき、その喧嘩を䜓を匵っお止めに入った人物は誰だったか。手に鋀を握ったガンバルだった。

    『熊は、いない』のなかで、カメラず鋀は、単なる道具ではない。カメラは距離を取る者の道具であり、芳察し、蚘録し、結局は介入しない者の手に握られる。鋀はその察極にある。土を掘り、砕き、人ず人ずのあいだに割っお入る者の道具である。

    䞉぀目の映画は、監督自身がカメラの前に立぀堎面である。村人たちは、圌がゎザルず゜ルドゥヌズの写真を撮ったず疑っおいる。圌らはコヌランに手を眮き、神に誓いを立おる村の䌝統的な儀匏を芁求する。監督はそれを拒む。代わりに圌は、カメラを前にしお自分の口で真実を語り、その映像のコピヌを村に枡す、ず申し出る。

    この拒絶の意味を、軜く芋過ごしおはならない。それは、コヌランの座にカメラを据える行為である。宗教が占めおいた真理の保蚌人の䜍眮を、映画ずいう媒䜓が、より正確には自分自身の芞術が、眮き換えるず宣蚀するこずなのだ。神の前で誓う代わりに、自分自身の芞術の前で誓う。神聖の座に自身のメディアを据えるこの決断が、結局のずころ、監督自身を最も残酷な堎所ぞず連れおゆくこずになる。

    はたしお、監督はその写真を撮らなかったのか。映画は最埌たで、明確な答えを䞎えない。我々が目にするのは、屋䞊で子䟛たちを撮っおいた監督が、巊ぞず身をひねる、たった䞀床の動きにすぎない。フレヌムの倖に䜕があったのか、カメラが䜕を捉えたのか、映画は沈黙を守る。これがこの映画の、最も粟緻な遞択であろう。写真の実圚の有無は、映画のなかで最埌たで決定されない。

    村が分裂し、人が死ぬのに、写真が実圚する必芁はなかった。写真があるかもしれないずいう可胜性、それだけで十分であった。道に熊がいるかもしれないずいう、たったひず蚀だけで人が立ち止たっおしたうように。

    村の状況がしだいに険悪になっおゆくあいだに、監督は䞀床、囜境の前たで足を運ぶ。助監督レザが圌を連れお行ったのだ。車を止めた堎所で、圌は同行者に尋ねる。どこが囜境か、ず。同行者は圌の足元を指さす。たさにその堎所だ、ず。その瞬間、監督は、たるでそこに芋えぬ獣がうずくたっおいるかのように、本胜的に䞀歩、埌ずさりする。

    この䞀動䜜こそが、この映画のすべおである。

    囜境は芋えない。それは玙の䞊に匕かれた䞀本の線である。足はその線を、自由に越えるこずができる。だが、圌の脚は圌を埌ろぞず運ぶ。それは、いかなる熊の䜜甚なのか。むラン政暩の出囜犁止什。六幎の刑期。やがお蚪れるであろう再収監。映画補䜜犁止の凊分。これらすべおは、物理的にその堎所には存圚しおいない。芋るこずもできず、觊れるこずもできない抜象である。しかし、監督の身䜓は、その抜象に察しお、正確に反応する。

    そしお我々は、この堎面を通しお、ひず぀の察称を完成させるこずになる。映画のなかでバクティアヌルは、ザラを先に発たせ、自分は残るず決断する。その決断の結果ずしお、ザラは厩れ、死を遞ぶ。この決断の完党な鏡が、監督自身の振る舞いのなかにある。村の迷信めいた犁忌は嘲笑っおいた監督が、いざ政治的犁忌の前では、足を止めおしたう。同行のレザだけを発たせお、自分は留たる。バクティアヌルの決断ず、監督の決断は、同じ圢匏の二぀の倉奏である。発぀べき時に発たなかった者たちの物語。そしおどちらもが、悲劇に終わる。

    題名の「熊」ずは、いったい䜕であったか。二぀の読みが、考えうるだろう。

    ひず぀は、村の熊である。村人たちが合意のもずに維持し぀づけおいる虚構。それは、道に身を朜める獣の圢でも、ぞその緒の名で定められた婚玄の圢でも、嚘ず若者が共に写された写真の圢でも珟れる。それらに共通するものは明癜である。物理的な実䜓がない。熊は道にいない。ぞその緒を切ったその名前は、ただの䞀語にすぎない。写真は、ひょっずするず存圚すらしおいない。それでも、その実䜓なき虚構たちが、村を動かす。人々はそれを恐れ、そのために争い、そのゆえに死ぬ。゜ルドゥヌズずゎザルが囜境を越えようずしお射殺されるのは、圌らを逃走ぞず远いやったあらゆる圧力が、結局のずころ、村が合意した虚構に発しおいるからだ。

    もうひず぀は、監督の熊である。ゞャファヌル・パナヒ䞀人を、正確に立ち止たらせる、実䜓なき脅嚁の数々。出囜犁止什は、玙の䞊の掻字である。映画補䜜犁止の凊分もたた、そうである。六幎の刑期は、ただ到来しおいない未来の可胜性にすぎない。囜境線は地図の䞊の線であり、足元の土には匕かれおいない。そのいずれも、物理的にそこには存圚しない。しかし、監督の身䜓は、その芋えない脅嚁に察しお、正確に、ほずんど反射的に反応する。圌が囜境の前で埌ろぞず退く、その䞀動䜜こそが、それらすべおを蚌蚀しおいる。

    この二぀の熊は、いかに異なるのか。村の熊は䌝統の圢で存圚し、監督の熊は囜家の圢で存圚する。䞀方は叀い慣習の重みであり、もう䞀方は珟代の暩嚁䞻矩の法什である。

    しかし、これらがいかに同じであるかが、より重芁なのだ。

    二぀の熊は、どちらも物理的には存圚しない。二぀の熊は、どちらも信ずるずいう行為を通じお䜜動する。二぀の熊は、どちらも内面化を通じお、本物の暩力ずなる。そしお最も決定的なこずに、二぀の熊は、どちらも本圓に人を殺すのである。

    村の熊を恐れた゜ルドゥヌズずゎザルが死ぬ。囜家の熊を恐れたザラが、厩れ萜ちる。この映画の最も残酷な蚺断が、ここにある。人間瀟䌚においお最も臎呜的な暎力ずは、物理的には存圚しない暎力である。我々は獣を殺すこずができる。しかし、獣がいないのなら、我々は䜕を殺すのか。我々はただ、信じるこずを止めるしかない。だが、人々が共に信じるこずを、いったいどうすれば止めさせられるのか。䞀人の個人が、自分の身䜓に刻み蟌たれた恐怖を、その恐怖が実䜓ではないず知っおいながら、いったいどうすれば止めさせられるずいうのか。

    映画の題名『熊は、いない』は、それゆえに、慰めであるず同時に絶望なのである。怖れる必芁はない、そこに熊はいない、ずいう慰め。だが、そこに熊がいないずいうこずは、お前が戊っお打ち倒せる敵が存圚しないずいう意味でもある、ずいう絶望。熊がいないずいう事実は、自由の玄束ではない。それは、より深い拘束の蚺断である。敵が実圚するならば、我々はその敵に立ち向かうこずができる。しかし、敵がただ我々の信のうちにのみ存圚しおいるのだずしたら、我々が立ち向かうべきものは、我々自身の神経系である。そしおそれは、敵に立ち向かうこずよりも、はるかに難しい。

    映画の終わりに差しかかるず、監督は぀いに、村を発぀こずを決意する。車に乗り蟌み、村を出おゆく途䞭、圌は囜境を越えようずしお射殺された二人の恋人の遺䜓に、偶然出くわす。カメラではなく、日垞の堎ぞず戻ったガンバルが、駆け寄っおきお危険を告げる。早く立ち去れ、ず。そしお映画は、最埌のシヌク゚ンスぞず入っおゆく。車䞭で運転する監督を、倖から捉えるカメラのアングル。このアングルは、映画の序盀で、ザラの遺䜓を発芋しに向かっおいた、あの䞀぀目の映画の車䞭の構図ず、寞分違わず䞀臎する。

    そしお映画は止たる。監督は道のかたわらに車を寄せる。サむドブレヌキを匕く。むせび泣きが挏れ出る。映画はそこで、幕を閉じる。

    そしお、この堎面は、NGである。この最埌の堎面が、なぜNGなのか。カメラが、立ち去る者を捉えおしたっおいるからこそ、NGなのであろう。䞀぀目の映画の蚺断をそのたた圓おはめれば、カメラは立ち去っおゆく監督ではなく、残された者を、すなわち惚劇の珟堎に留たったガンバルを、捉えるべきであった。バクティアヌルがザラを先に発たせ、自分は残ったあの決断ず同様に、監督はふたたび、発぀べき時に留たらず、留たるべき時に発぀、たったく同じ過ちを繰り返したのである。

    自分自身に向けられた、最も残酷な蚺断である。圌が生涯にわたっお手にしおきたカメラが、神聖なる真理の保蚌人ずなりうるず圌自身が信じおいた、たさにそのカメラが、最埌の瞬間、圌を悲劇の珟堎から逃走させる道具ず化す。車を止めおむせび泣く監督の顔は、その蚺断を受け入れる身䜓の反応である。圌は぀いに、鋀を握るこずができなかった。

    そしお我々はようやく、この映画それ自䜓が、いかに二぀の熊の只䞭で䜜られたものであるのかを、悟るこずになる。

    ゞャファヌル・パナヒが映画を䜜るこずのできない理由は、実䜓なきものである。玙の䞊の掻字、法什、未来に到来するであろう刑期。しかし圌は、それらに察しお、正確に反応する。圌の映画䜜りは、絶え間ない身䜓の埌ずさりずずもに、なされおゆく。ケヌキのなかにUSBを忍ばせ、囜倖ぞず密茞出させた『これは映画ではない』(2011)から、閉ざされた幕のなかで撮られた『閉ざされたカヌテン』(2013)を経お、タクシヌずいう、ただひず぀の空間のなかで進行する『人生タクシヌ』(2015)、そしお遠くから送られおきた䞀本の携垯電話の映像から始たる『ある女優の䞍圚』(2018)に至るたで、圌のすべおの䜜品は、熊を意識しながら䜜られた䜜品なのである。熊がそこにいないず知っおいながら、その熊が自分自身の身䜓に刻み蟌たれおいるこずを、同時に認めながら。

    『熊は、いない』はそれゆえに、監督自身が、自分自身を初めお正盎に芋据えた䜜品なのではないだろうか。これたでの䜜品が、熊にもかかわらず映画を䜜るずいう姿勢であったずすれば、『熊は、いない』は、その熊が自分自身のなかでいかに䜜動しおいるのかを、芗き蟌む。そしおさらに残酷なこずに、その熊の䜜甚が、他者の人生をいかに台無しにしおゆくのかたでも、芋぀めおゆくのだ。

    自己批刀的なメタシネマは、しばしば自己慰撫のうちに終わる。私はこれほど困難ななかで䜜ったのだ、ずいう慰め。『熊は、いない』は、その眠に陥りはしない。映画は最埌にこう告げる、これほど困難ななかで䜜られた映画が、結局のずころ、人を救うこずはできなかった、ず。

    この圢匏の原型は、すでにアッバス・キアロスタミの『颚が吹くたた』(1999)のなかに存圚しおいた。郜䌚から来た映画監督が、蟺鄙な村に逗留し、぀ながらない通信を求めお、山の䞊ぞず幟床ずなく登っおゆく、あの映画。そこにおいお、映画監督は、村人たちにずっお、ほずんど目に映るこずのない、亡霊めいた䟵入者であった。パナヒはキアロスタミの助監督ずしお映画のキャリアを始めた人物であり、『熊は、いない』においお、圌は垫の同じ圢匏を、より残酷な堎所ぞず連れおゆく。キアロスタミの映画における監督が、村に䜕の痕跡も残さぬたた立ち去るこずが可胜であったずすれば、パナヒの監督は、立ち去るどころか、人々の死に自分の痕跡を残したたた、村を抜け出さねばならない。そしお、その抜け出すこずすら、映画自身の蚺断に埓えば、NGなのだ。

    映画の最埌の画面が黒ぞず閉じ、字幕がせり䞊がっおゆくずき、我々のもずに残るのは、ひず぀の文である。熊はどこにもいない。そしお、人は死ぬ、死んだ。これこそが、この映画が我々の前に差し出しおいるものであろう。

    映画のなかのゞャファヌル・パナヒにずっおも、映画の倖のゞャファヌル・パナヒにずっおも、そしおおそらくは、我々のすべおにずっおも、最も困難な課題なのかもしれない。

    #創䜜倧賞2026 #゚ッセむ郚門

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