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モンシロ蝶ハ東ヘ飛ンダ【創作大賞2026】

    #創作大賞2026 #エンタメ原作部門

    あらすじ
    ルポライター桐原キミカは、9人を殺害した元少年犯・伊能勝治への取材を依頼される。世間を震撼させた事件の裏には、父親への復讐と、逃走中に出会った病を抱える女性・神田夏樹との旅があった。捨てられた過去と暴力の世界で生きてきた勝治は、夏樹との逃避行の中で初めて誰かを愛することを知る。しかし夏樹の命は尽きようとし、勝治は復讐を果たした末に逮捕される。取材を通して二人の真実を知った桐原は、この物語を「恋愛の話」としてドキュメンタリー本にまとめ出版。二人は恋をしていたのか、再び会うことはできるのか――。世間を巻き込む議論の中、ついに勝治の最終判決が下される。

    プロローグ

    インタビュー R3・7・14 伊能勝治

    妙に辛気臭い面会室、ルポライターの桐原キミカ(きりはらきみか)は、使い込んだボイスレコーダーの録音ボタンを押し込んだ。

    「では、よろしくお願いします」

    「あ、どうも」

     目の前に座る伊能勝治(いのうかつじ)に全く恐怖を感じないのは、犯罪者特有の威嚇や横柄な態度、不気味な沈黙がないからだろう。職業柄、さまざまな犯罪者と面会してきた経験の中で、初めての人種だった。

    ちなみにこの青年は九人を殺害、現在は府中刑務所に服役している。

    「いのう、と言う苗字は珍しいですね」

    「そうかな? 母ちゃん方の苗字なんですけど」

    「現在は二十二歳になられたんですね」

     伊能は殺風景な部屋の中、天井を眺めながら指を折って自分の年齢を確認した。

    「そう。ここだと自分の年齢がイマイチわかんなくなっちゃうんですよ」

    「そうですか?」

     そういうものなのかもしれない。刑務所には世間の流行り廃りもなければ、周りの環境の変化もない。時間の流れもきっと特殊なのだ。

    「桐原さんは幾つですか?」

    「三十三歳になりました」

    「お子さんは?」

    「二人います」

     生意気盛りの五歳の息子と、最近生まれた娘の顔が頭をよぎる。

    「へぇ、二人のお母さん。やっぱり可愛い?」

    「ええ、上の子は口答えばかりですけど」

     伊能は楽しそうに笑った。

    「子供好きなんですか?」

    「いや、特に。自分はどうだったかなって。小さい頃の記憶があんまり無いんですよ」

    その記憶を桐原は聞きたいのだ。

    「なんでおれの事件を本に?」

    「正直にお伝えします。初めてあの事件をニュースで見た時、殺された人間の職業、亡くなった人数、犯人は本当に未成年なのかと恐怖を覚えました。と同時に、こんな凄惨な事件の裏にどんな理由があるのか? 報道には出ていない事件の裏側が知りたかったんです。今回、本を書くにあたりできる限り詳細な時系列、そして心情をインタビュー形式で詳しく書きたいと思っています」

    「そうすか」

     改めて目の前の青年を見つめた。坊主頭でヒョロっとした体型。思ったよりも身長が高かった。

    「まずはどうして取材を受けていただけたんでしょうか? これまでたくさんの取材依頼があったと思うのですが」

    「いっぱいありましたよ、でも興味がなくて。おれの境遇なんて別に人に知ってほしくはなかったし。でも次の裁判で恐らく刑が決まるでしょ? もし死刑になるようなら誰ってわけじゃなく伝えておきたいことがあって。あとは送ってもらった本が面白かったんですよ、桐原さんが書いた一家心中の」

    「読んでいただけましたか?」

     桐原の書いた二番目の作品だ。とある政治家の一人息子が引きこもり、十年後に家族と駆けつけた警官を殺した事件が五年前に起きた。世間が事件の表面をなぞる中、学生時代からの息子に焦点を当て、裏側に潜む父親からの執拗な暴力をあぶり出し、名のあるノンフィクション賞新人賞を受賞した。

    「面白かった。あの人かわいそうでしたね、あれは暴発するよ」

    「ありがとうございます。あの犯人にどこかシンパシーを感じますか?」

    「それはない。おれはもっと単純だもん」

     淡々と、そしてはっきりと伊能は答えてくれる。インタビューはやりやすいだろうと桐原は感じた。

    「女性ならではの視点っていうのかな? ガサツじゃないっていうか。そういう人に書いてほしいなと。登場人物はおれだけじゃないし」

    「神田夏樹(かんだなつき)さんの事ですね?」

    「そうですね。おれにとって大事な人ですから。女性の目線で描いてもらえたら嬉しいかな」

    「失礼ですが、神田さんと伊能さんが一緒にいた時間は、二日間だけだったと記録で読んだのですが」

    「二日もなかったっすよ、でもあの短い時間は死ぬまで忘れない。正直に話すんで色々聞いてください」

     桐原がルポライターになった理由。

    事実は小説よりも奇なり、とはよく言ったもので、フィクションでは味わうことができない事件のリアルな裏側、空気感。高校生の時にたまたま読んだドキュメンタリー作品に強い影響を受けてから、いつか自分が取材し、本にすることを夢見て頑張ってきたのだ。

     桐原はアルバイト生活を続けながら自己流で取材を続けた。無名ゆえに相手にされなかったり、罵倒されたりしながら涙を堪え、作品を書き上げても出版社の人間には辛辣な言葉を浴びせられる。それでも諦めず、最初の作品の出版が決まった頃、とある未成年者が起こした事件が日本中を震撼させた。

     九人を殺害、そのうち一人は実の父親だった。

     センセーショナルな事件、さまざまな憶測を呼ぶ中、ニュースの続報でとある女性が任意聴取を受けていることがわかった。

    少年脱走犯と共に行動した元銀行員の女性。

     桐原はまるで映画のような内容に強い興味を覚えた。世間がその凶悪な少年の犯行に注目する中、その女性はなぜ行動を共にしたのか、境遇も年齢も違うその二人は、どうやって出会い逃避行したのか、詳しいディテールがわからないまま女性側の沈黙もあり時は過ぎ去り、ゆっくりと人々の記憶から消えていった。

     あれから約三年。

    桐原はノンフィクション賞受賞をきっかけに名前が売れ、編集者側に自らの企画が通せる身分になった。

    満を辞して、三年前に起きたあの事件の本来の姿を浮き彫りにしたい、桐原は念願のテーマを向き合うため、今日を迎えた。

    ——連続殺人犯は恋をしていたのか?

     テーマはこれだ。

    「聞きたいことがたくさんあります。面会時間も限られますので、何度もお伺いすると思いますがよろしくお願いします」

    「いつでもいいすよ、暇なんで」

    「では順を追って伺います。まずは幼少期からお話いいですか?」

    なぜこの青年は止まることなく人を殺し続けたのか? そしてその先に出会った一人の女性、神田夏樹とはどんな時間を過ごし、そこに愛はあったのか。一体どんな物語が潜んでいるのか、全てを詰め込んだ力作にしたい。

    「ガキの頃…ああ、ちなみに——」

    第一部 伊能勝治

    1

    ちなみに。

    大事な家族をゴミのように捨てた、血縁上は父親と呼ばれる存在。

    許す事ができるか?

    殺したくならないか?

    親父の事で覚えている事なんてほとんどない。

    ぼんやり記憶にあるのはチリチリ頭に不機嫌な顔と、いつも着ていたグレーのスウェット上下くらい。日常的に虐待を受けていた記憶は無いけど、そのかわり優しくされた記憶も無い。要するに愛された記憶が全く無い。

    最後に親父と触れ合ったのは夏の暑い日だった。その日は確か五歳になる誕生日だったと思う。テレビでは再放送のアニメをやってたかな、なんせ昔の事だ、断片的に覚えているのは、すごい形相で上に伸し掛かった親父、時間は飛んで、母ちゃんが手を握りしめて言った言葉だ。

    「大丈夫、母ちゃんが一緒だよ」って。

    何故だか、悲しくも何ともなかった。ガキながらにそうなる事を予感していたんだと思う。むしろ、母ちゃんを守ってやらなきゃって思ったんだ。父親の蔑んだ目と、泣きながら抱きしめ、台所に座り込んでいる母ちゃん。部屋はテーブルから何から全部ひっくり返っていて、もちろん誕生日ケーキが潰れていた。おれはそのシーンを何故か幽体離脱したみたいに俯瞰で見ているんだ。

    家族を捨てるという事は、この先残された二人がどうなろうと知った事じゃないって事だ。たとえ野垂れ死んだとしても、どんな悲惨な人生を歩んだとしても、関係ないって事だ。突然二人きりになった母子家庭が、苦しい生活をしてきた事は容易に想像つかないか? 捨てた方は、その後の未来しか見えてないと思うけど、捨てられた方は過去に縛られて生きて行かないといけない。

    おれたち母子が住んでいた九州の熊本から、母ちゃんの友達を頼って神奈川県川崎市へ移ったのは小学校二年に上がる頃だった。いま思うといわゆる夜逃げだったと思う。当時の友達にお別れしてないし、コソコソと必要な荷物だけをまとめて夜の電車に乗ったんだ。ホームの錆び付いたベンチで、夜空を眺めて電車を待ったのを覚えている。母ちゃんにあの夜の事を聞いた事はない、思い出させたくないから。ただ一言、もうこの場所に戻る事はないって母ちゃんは教えてくれた。寂しかったけどさ、一人じゃないからいいやってすぐそう思えた。

    引っ越ししてからの母ちゃんは、朝も夜もたくさん働いた。風呂は付いていたけど、部屋は六畳一間、気持ち程度の小さな台所、そこで母ちゃんはいつも美味しい料理を作ってくれた。特に一番のお気に入りは肉ジャガだった、九州の味付けって少し甘いんだ、ホクホクのジャガ芋、ゴロゴロに煮込んだ人参、煮込んだ牛肉、どれもとても美味しかった。

    アパートは飲み屋街にあったから夜も騒がしくてさ、酔っ払いの叫び声を聞きながら母ちゃんの帰りを待っていた。ボクは起きて待ってるんだって、一生懸命頑張るけど、気が付くといつも朝だった。

    逃げるようにたどり着いた川崎で転入した小学校は、近くに製紙工場があってさ、眼付きの悪い作業服の男たちが近所を歩いていた。紙が焦げたような匂いと、街に張り巡らされた溝から漂うドブの匂い、屁の匂いとしか形容できない、何かしらの薬品の匂い、色んな匂いが混ざり合った曇り空の街、当時の川崎はそんな場所だった。今でこそ再開発で小綺麗になったけどさ、ほんのちょっと前までは、そんな工場街だったんだ。

    新しくできた同級生は流行りのおもちゃで遊んでいたけど、おれはもちろんそんな物持ってなかった。羨ましくなかったかって? 全然。強がりなんかじゃなく、本当に興味がなかったんだ。だって家にテレビもなければ、みんなが読むような分厚い月刊漫画誌も持ってない。

    興味の持ちようが無い。

    もちろん教室で孤立した。そりゃそうだ、話題も無いから会話もできないし。

    でも何故だか虐められる事はなかった。いま思うと、当時から体が大きかったからかもしれない。卒業までほとんど誰かと過ごした事はなかったよ。遠足や写生大会での弁当の時間も一人で食べてた。

    じゃあ何をやっていたか?

    うちの近くには小さな公園があってさ、そこで時間を潰すんだ。だってほら、すぐに帰ると友達がいないんじゃないかって母ちゃんが心配するだろう? だからおれはでかい図体して、公園にあるブランコやらすべり台で遊んでいたんだ。時間が過ぎるのをひたすら待つ。すると、決まってどこからかヒラヒラと目の前に飛んでくるんだ。

    真っ白な羽に小さな黒い斑点を纏った、控えめな蝶々。

    あれは不思議だったなあ、必ず毎日、公園に行くと飛んでくるんだ。同じ蝶々なのかな、記憶も曖昧だからよく覚えてはないんだけど。当時の唯一の友達だった。眺めているうちにあっという間に夕方になるからさ、そしたら家に帰ってた。野球や鬼ごっこでもやったみたいに、靴を泥だらけにしてさ、母ちゃんただいまって。

    中学に上がる頃には、母ちゃんは夜の仕事一本になっていた。おれが言うのもなんだけど、美人なんだ。美味しい晩飯を必ず作ってくれて、それから化粧するんだけどさ、さらに綺麗になるんだ。その間もずっと優しく話しかけてくれるのさ。

    「ちゃんと勉強してる?」

    「友達とは仲良くしてるの?」

    きっと世界中の母ちゃんが言う事と一緒だと思う。

    「うん、大丈夫だよ」

    それがおれの口癖になっていた。そしていつからか、早く母ちゃんを楽させてやりたいと思うようになったんだ。まだ小学生だぜ?

    中学に入っても、周りの同級生から話しかけられる事はなかった。まあその頃には慣れっこで、特にちょっかいを出される事もなかった。そんな中、元々体が大きかったから、担任からはバスケ部か、柔道部に進められたが、その度に断っていた。部費がかかるだろ? だからおれは帰宅部をチョイスした。そのうち担任からの部活の勧誘も無くなった。

    ひとりぼっち、特に代わり映えのしなかった生活が一変したのは、中学二年生の一学期だった。同じクラスの不良グループの一人に、母親の事を馬鹿にされたんだ。そいつは元々あまり授業に出ることはなく、顔を合わせることも少なかったんだけど、たまたま虫の居所が悪かったのか、その日はおれに絡んできた。お前の母ちゃんが汚いオッサンと抱き合っているのを夜の街で見たってさ、はしたねえなって、ケラケラ笑いながら言うんだよ。

    あれは頭にきたなあ、今でも思い出すと頭の芯がカッカするよ。それで、笑ってるそいつの口元に思い切り拳を打ちつけた。

    初めて人を殴った。前歯を狙ったんだ、折れるかなって。

    小さい頃から、よく作業服の大人たちが酒に酔って喧嘩するのを見てきたから、人の殴り方を知ってたんだ。そいつは歯を二本三本撒き散らしながら、そのまま後ろに倒れ込んだ。そこで周りを見渡して、一番近くにあった女の子の筆箱からコンパスを取り出した。ついカッとなって、というわけじゃない。冷静に筆箱を開けたのを覚えてる。その中からいま一番必要なもの、攻撃力の高い物をゆっくり選んだ。ほら、焦って筆箱落としたりしちゃ悪いからさ。取り出したコンパスから鉛筆だけ外して、倒れ込んだソイツの太ももに突き刺した。

    「痛ってああえ!」

    その不良は叫びながら転げ回る。まるで獲れたての稚魚みたいにさ。派手にゴロゴロのたうち回ってたな。まだ気が済まなかったからもう片方の足も刺してやった。すると今度はあまり反応がない。あれ? じゃあ他の場所はどうだろう? ってことで今度は肩口を刺してみたんだ。するとそいつは泣きそうなツラで両手をバタバタと動かし始めた。なんだよ、動けるじゃん。だんだん反応が面白くなってきた所で、慌てて駆けつけた担任に取り押さえられたんだ。

    ほっぺたを牛乳臭い床にくっつけたまま見た、コンパスの持ち主の青ざめた顔に、悪い事をしたなって思ったよ。弁償しなきゃなって。コンパスが幾らなのか聞きたかったんだけど、そのまま引きずるように職員室へと連れて行かれたからね。結局あの子に謝る機会も無かった。

    その後は警察が来たり母ちゃん呼び出されたり、気が付くとあっという間に少年鑑別所へと入る事になった。家庭裁判所は一発通過、あっという間の収監てわけ。

    鑑別所内では入所してから一ヶ月間、規則正しく過ごす毎日、というか、やる事は何もなく漢字ドリルをもれなく配布された。そんなの誰もやらないって思う? それがそうでもない。他にやる事が本当に何も無いんだ。ひたすら漢字を書いたおかげで、結構色々描けるようになった。鮪、硝子、海豚、な?

    三食昼寝付き。毎日レクリエーションというか、体を動かす時間はあるんだけど、その他はひたすら部屋で過ごすんだ。レクリエーションは鈍った体を動かす程度、卓球だったりラジオ体操だったり。おれはその時間も含め、鑑別所という環境を楽しんだ。

    ただ、他のバカそうな奴らは小競り合いしてた。小さなイザコザはたくさんあってさ、その短いレクリエーションタイムを使って、不良連中は睨み合いを続けた。側から見ると、元気だなぁって思ったよ。でも当時はまったく関係のない世界だとぼんやり眺めていた。そういう連中はみんな不思議そうにおれの事を見ていたよ。坊ちゃん面の子供がさ、誰とも話さず一人でいるんだ。いま思うと不気味だよ。

    他に覚えているのは、インキンタムシをうつされた事だけ。みんな同じ洗濯機だからさ、あの時はかなりの人数が伝染ったんじゃないかな。とにかく後半は痒かったのを覚えてる。あんな痒いのは後にも先にもあの時だけ。二度と味わいたくないね。

    夏休みのような短い刑期を終え出所して、迎えに来てくれた母ちゃんに会った時、まず言われた言葉が

    「お腹すいた?」

    だった。

    満面の笑顔で。正直かなり怒られると思っていたからさ、反応に困ったんだ。

    「ごめんよ」

    色々と弁解の言葉を考えてはいたけど、結局口から出て来た言葉はシンプルなものだった。その言葉を聞いても母ちゃんは何も言わなかった。そのかわり、頭に一発ゲンコツをもらった。そして肩を組んできたんだ。とてもいい匂いがしたよ、ちなみにゲンコツは死ぬほど痛かった。

    「ハンバーグ作ってやるよ」

    そう言った母ちゃんの顔は、なぜか嬉しそうだったんだ。おれは悪い事をしたのにどうしてにこやかなんだろう? そう思った。今でもそう思ってる。どうして笑っていたんだろう。

    学校に戻ると、ちょっとした時の人になっていた。まあ、特定の部類の人種にだけだけど。

    通っていた南川崎中で有名人だった、三年の門脇(かどわき)くんて人に呼び出されたんだ。それまでは一度も関わった事なかったんだけど、突然呼び出されたもんだから殴られると思ったよ、そのグループの一人を刺しちゃったんだから。

    でも違ったんだ。体育館裏、用具室の脇にそのグループは屯っていた、その中で一際丈の短い学ランを着た男が声をかけてきた。顔は良く知っている、有名人だったから。

    「お前、度胸あるじゃん。あいつ生意気だから松山がシめるって言ってたんだけど、先越されたなお前」

    そういうと、門脇くんは笑いながら、自分の隣に座っていた同じ二年の有名人、松山の肩を叩いた。

    松山武雄(まつやまたけお)、一重瞼で横にも縦にも体のデカイ、坊主頭でゴリラみたいなやつ。あの時のマツは、おれを睨み倒していたな。門脇くんのグループと付き合いが始まったのは夏休みが始まる数日前の出来事だった。人を刺してみるもんだなって思ったよ、この街に来て初めて友達ができたんだ。

    類は友を呼ぶって言うだろ? みんなとツルみだしてからは、それからたくさんの友達ができた。まあ、世間から見るとクソガキの集まりかもしれないけど、おれにはとても心地よかったんだ。自分ではそんなつもりはなかったけど、鑑別所上がりというのはなかなか一目置かれるみたいで、話には事欠かなかった。

    人生で初めて彼女ができたのもそのあたりだった。金髪で背の小さな、スカートの短いカオリ。ひとつ年上の彼女だった。十五歳の癖にバッチリメイクで、いつもジャラジャラとキーホルダーをたくさん付けた携帯電話を握っててさ、周りがカオリの事を下心丸出しの目で見ていることは気づいていた。

    ちなみに初体験もカオリ。すぐ終わっちゃったからあまり思い出したくないんだよな。場所はカオリの家だった。あいつも片親で、うちと同じように母親は夕方には外に出ていた。何していいかわかんないままブルブルっと体が震えて終わった。正直こんなもんかって思ったよ。

    出会いが最悪だったマツとも、夏を過ごす中意気投合していた。おれは母子家庭、アイツは養護施設育ち、マツは度胸があった。原チャリを盗むのも誰よりも早く、マイナスドライバーをフロントカウルの脇から差し込み、ちょっとゴソゴソするとあっという間にエンジンがかかる。図体の割には器用な魔法が使える男だった。そして腕っぷしも強く、基本的には先輩にもビビらない。

    それでも最初はやっぱりお互い距離はあったよ。門脇くんは二人を近づけようとしてくれたけど、マツがおれの事を最初は嫌っていた。後で聞いた話だけど、ポッと出が、いきなり気に入られたのがすごく腹が立ったんだと。最初は気を使って話しかけていたけど、あまりに高圧的な態度に、だんだん腹が立ってきていたある日の夏休み。

    あれは夏に行われる川崎大師の盆踊りの日、ついに喧嘩になったんだ。

    ヨーイドンでの初めての殴り合い、凄く興奮したのを覚えてる。前は母ちゃん馬鹿にされて頭に血が上っていたし、一方的だったからおれの中では喧嘩じゃないんだ。そんな初めての喧嘩も、勝敗は相手に軍配が上がった。でも善戦したんだぜ? 最後に無意識にその辺にあった石を握った時、レフェリー役の門脇くんがストップをかけた。

    「はい、マツの勝ち! 勝治の負け、レフェリーストップな」

    そういうとマツの手を挙げた。素直に負けを認めたよ。すごい痛かったからね、正直もう殴られたくなかった。カオリにもらったティッシュを鼻に詰めていると、同じく鼻にティッシュを詰めたマツが謝ってきた。

    「今まで悪かった、お前とはもう揉めたくない」

    不思議だったよ、勝ったのにどうして謝るんだろう? って。後で聞いたら、怖かったらしいんだ。人を平気で刺せるお前が怖かったって。おれは言ったんだ。

    「平気じゃねえよ、あの時は頭に血が上ってたんだ」

    って。するとマツはこう言ったんだ。

    「普通は血が上っても刺さないぜ」

    そんなもんなのかとその時は感じたよ。

    祭りの夜の喧嘩の後から、アイツはまるで人が変わったように話しかけてくるようになった。お互いの境遇や、流行りのゲーム、女、音楽、気がつくと夏休みの後半は、毎日朝から晩まで一緒に過ごす日々になっていた。

    おれらみたいな連中はさ、勉強はできないけど、馬鹿だと上手くやっていけないんだ。感覚研ぎ澄ませて、色んな物を見て、独自の嗅覚で感じ取らないと上手くいかない。普通の奴らはちゃんと勉強して大人になる準備をしているんだろうけど、こっちは後がない生き方だからこそ頭を使う。その事はすぐに理解できたんだ、ただ馬鹿やってるヤツと、そうじゃないヤツ。そうじゃない代表は、門脇くんだった。

    すでに周りの中学にも顔がきいたあの人は、その中から肝っ玉が据わっている連中を集め、工事現場や工具店、ホームセンターから、銅線を盗むチームを作っていた。それにおれもマツも参加する事になった。すげえ手際でさ、深夜集まって現場に向かい、ちゃんと前もって調べていたルートで工場へと侵入するんだ、門脇くんは必ず鍵のかかっていないドア、もしくは侵入場所を知っていた。鍵を持っていた時もあったな、どうやって手に入れたんだろう? 無駄に騒がず、現場で物をパクってすぐ解散。そのまま遊びに行くなんてヘマはしない。その後、数日後に金を持ってくる。十万ちょっと。すごくないか? その当時なかなかお目にかかれない一万円札だ。それを後輩たちにもちゃんと等分して分け前をくれた。ガキながらにこの人すげえなって思ったもん。

    この関係は門脇くんが先に中学校を卒業してからも続く。おれらは三年生となり、周りは高校生への道を周りは歩み始めたが、こっちは勉強なんてしている時間はなかった。気がつくと、学校に顔を出す回数も少なくなっていた。ちなみにクラスではもうおれはいない人間となってたみたい。

    普通通りに家を出て、マツや他の仲間と合流する。そして遠征するのさ。色んな近隣の中学校へ顔を出した。スカウトキャラバンね。

    やり方はこうだ。すでに外で仕入れてきた、その中学で有名なやつの名前を校門あたりで叫ぶだけ。時間はお昼休み前、四時間目残り十分くらい。すると、大体が給食時間に大人数で出てくるんだな。そりゃそうだ、向こうからすれば怖いよ。そこでおれは言う。

    「遊びいかねえか?」

    大体向こうは喧嘩腰だけどさ、それも長く続かない。遊びって何なのか? 興味を示すのにそんなの時間はかからないんだ。そうやって周りの学校を巡り、面白そうな奴を探して回った。

    豚小屋みたいな中学を卒業する前に、門脇くんからスカウトを受けた。門脇さん曰くおれは一位指名との事だった。マツは二位。あいつ怒ってたな。でもそこは仕方がない、頭が切れる方が一番ってわけさ。

    チームの名前は「百足」、ムカデって呼ぶんだ。旧世代の暴走族をそのまま引き継いでいるらしい。元々百足は、川崎では有名なチームで、今の四十代のオッサンたちが作った族だった。喧嘩チームとして名を馳せたらしく、南関東では知らない奴はいなかったらしい。でも、時代は変わって行くもので、バイクや車で何十台も連なり、ブンブン鳴らす時代は過ぎ去り、ここ数年で百足は街を這い回る、合理的な悪党の集団になっていた。門脇くんはそのチームを率いて、街で力を持て余した連中を取り込み、大きなチームにしていた。

    「お前らウチで稼がないか?」

    それが誘い文句だった。

    門脇くんは中学卒業後、高校には行かず、川崎のアンダーグラウンドで生きているのは知っていた。その周りにヤクザまがいの人間がうろついていたのも。行き着く先にはまともな未来なんて待ってないよな? でもおれは迷わなかったよ、その頃にはたくさんの友達がいた。そいつらもまとめて面倒見るって言ってくれたんだ。あっという間に大所帯。ゴキブリも増えるときはあっという間だもんな。ワラワラってさ。

    インタビュー R3・7・14 伊能勝治

    「ゴキブリですか」

     ありきたりな武勇伝、暴力自慢とも捉えることができる内容は、正直退屈だったが聞いたのは桐原だ。我慢強く掘り下げる必要がある。

    「ワラワラっているんですよ、最近は知らないけど」

    「いまの話で出てきた二人、門脇誠(かどわきまこと)と、松山武雄は、その後の事件につながる二人ですよね」

    「ん? まあそうすね」

    「二人はやっぱり、伊能さんにとって大事な存在でしたか?」

    「口に出すのも野暮だけど、大事な友達。ほら、よく仲間とか口に出すやついるでしょ? あれ虫唾が走るんだよね。いちいち言うなって」

     桐原も頷いた。通っていた女子校でも和気藹々とそういったグループはいたが、決まってその中でいじめが起きていた記憶がある。その度に余計なことを口にするもんじゃないと思ったものだ。

    「その二人とはいつも一緒にいたんですか?」

    「いたいた。マジで一日のほとんど過ごしてた。楽しかったなあ、特に何したってわけじゃないけど」

     思いを馳せるその顔は、その辺にいる同世代の男の子と何も変わらない。

    「鑑別所は辛かったですか?」

    「全く。一ヶ月くらいだったからあっという間。でも、飯は不味かったっすね」

    「やっぱり、臭い飯っていうのは不味いですか?」

    「ここはそうでもないすよ、臭くないし。でも、もう少し温かいと嬉しいけど」

     目の前の青年は痩せてはいるがやつれてはいない、ちゃんと食べているんだろう。

    「今はどんな生活を?」

    「規則正しく。ちゃんと朝早く起きて、作業して、ご飯食べて、早寝して、そして朝起きて、その繰り返しっす」

    「やっぱり、先々を考えると気が遠くなりますか?」

     死刑宣告を受けても文句の言えない事件を起こした伊能は、裁判でも一切自己弁護をしていないと前回の裁判を傍聴した知り合いの記者は言っていた。しかし伊能の弁護側は上告、そこに彼の意思があったとは思えないが。恐らく次の裁判で決まるだろう。

    「考えても仕方ないっすからね、流石に逃げられないし」

    「脱線失礼しました。ではもう少しインタビューさせていただきます」

     時計を見ると、すでに二十分使っている。あと十分ほど、ギリギリまで粘るつもりだ。

    「どうぞ」

    「では。先ほど話された百足のゴタゴタで伊能さんは初めて殺人を犯すんですね?」

    「あのデブ、そうそう。あれは躊躇なく行けたかな。とにかく許せなかったから。でも桐原さん、平気? もう少しオブラートに包んだ感じにしちゃおうか?」

     変なところで気を遣う伊能に桐原は思わず笑ってしまった。

    「いえ、ご自分の言葉で遠慮なく話してください。お気遣いありがとうございます。では、その百足での一連の事件を聞いてもいいですか?」

    「まあ、そんなこんなで高校には行かなかったんすよ、おれ」

    2

    結局、高校には進学しなかった。母ちゃんには定時制で良いから行ってほしいと言われたけど、あと三年も無駄な知識を詰め込もうとは思わなかったから。

    そのままおれは近所の工場に就職する。母ちゃんの知り合いだった社長さんが経営する自動車部品工場、多分店のお客さんだったんだと思う。そこで朝八時から夕方五時まで真面目に働いた。月給十二万。そこから八万を母ちゃんに渡したよ。すると母ちゃんは決まってこういうんだ。

    「このお金は、あんたが将来苦労しないように貯金するからね」

    って。母ちゃんに使ってほしかったなあ。毎日朝方帰ってきて、二人分の朝飯を用意する母ちゃんの背中が、少しずつ疲れてきている事に気付いていた。その姿を見ていると顔もロクに覚えていない、家族を捨てた父親を思い出すようになっていった。

    百足は高校に行った奴、そうじゃない奴も含めると四十人くらいに膨れ上がった。すると必ず現れるのは敵対グループだ。すでにこの街で幅きかせたクズの集まり、そして警察。あらゆる対抗勢力が出てくる。昼は工場で働き、夜は街で過ごすようになった。

    チームでの揉め事は真っ先にルーキー達が動く。ちなみに喧嘩の時は躊躇したらダメ。怪我させないようになんて考えるのはもってのほか、ここまでやらなくても、と思われないといけない。そうすると、そいつは二度とこっちには敵意は向けないんだ。みんなどんなに粋がったところで、親もいれば学校もあるだろ? だからどこかで無茶できないんだよ。でもそれは間違いで一回きっちりやってしまえば、そこでお終い。そしてその話を聞いた周りの連中は、勝手におれ達から距離を取る。

    腕っぷしが強いとか、格闘技やってますとかじゃない、人はストッパーのない人間に恐怖するんだ。まあこれも門脇くんに教わった事なんだけどさ。百足はおれとマツが合流して一年もしないうちに、誰も砂をかけてこなくなった。

    百足の名前が売れて、門脇くんは更に出世した。円(まどか)組という、川崎の街一体を収めるヤクザの仲間入りだ。頭が良くないと小間使いで終わってしまう世界で、あの人は最初からシノギを与えられた。おれたち百足はこれから先、ヤーさんの下部組織として動くか、それとも独自に中途半端な悪さを続けるか、選択を迫られた。

    チームの三分の二は、楽しければいいって奴らだったからビビって抜けていった。仕方ないんだけどね、おれやマツはもちろん残ったけど。他にやる事ないし、それに仲間はここにしかいない。三分の一は抜けないっていうと、門脇くんは嬉しそうに笑い、回らない寿司を二人におごってくれた。カウンターに並ぶ質の悪そうなガキ三人、あの時の寿司屋の大将の顔は傑作だったな。

    そこからさらにチームは地下に潜る。

    工事現場での盗みから、さらに先に進むことになった。大まかに言うと窃盗団で、車、単車、高級自転車、家電、その他色々。ありとあらゆる物を盗み出した。車だったら一台大体二分でオッケー。盗みやすい車種っていうのが車にも単車にもある。その盗んだ商品を日本語もロクにしゃべれない連中が高く買ってくれた。お互い詮索はなし、という事は余計な会話もなしって事。そのまま海外へと消えていく。

    門脇くんは昔と変わらず平等に分け前をくれた。だからこそ信頼できるのもあるんだけどさ。ビシっと紺のスーツを着て綺麗に固められた頭、昔からカッコよかった先輩はさらに口ひげも加わり磨きがかかってた。そんな姿にみんな憧れてたんだ。

    おれらのような人種はあまり表通りには顔を出さない、でも、ちょっと裏通りに入れば、ゴキブリのように増殖して潜んでいる。同じチーム以外信頼関係なんてありゃしない、手に職もない、頭もないクズが金を稼ぐにはどうすればいいのか? 持ってるやつから奪えばいいのさ。その辺のホームレスを襲撃したって金なんて持ってないだろ? そんなダサイ事やる暇があったら、持ってるやつから奪えばいい。そんな連中にはとことん冷酷になれる。

    世の中持ってるやつか、持ってないやつか、その二極にわかれる。もし持ってない側ならば、奪うしかない。

    十七歳になる頃、貯金がすごく楽しみになっていた。朝は一生懸命働いて、夜は人殴って盗んで、一年もすると三百万に近づいていた。おれ自身は欲しいものはなくてさ。母ちゃんに買ってあげたいものがあったんだ。いつも綺麗な格好して、汚い自転車で出勤するんだけど、軽自動車でもいいから車をプレゼントしてあげたかった。その頃にはうちにもテレビがあったけど、よくCMで見るパステルカラーの可愛い軽自動車があってさ。テレビで流れるには色々込々で二百ちょいらしい。駐車場を借りるお金や、備品もあったから、三百万たまったらプレゼントしようかなって。

    でも、母ちゃんに車をプレゼントする事はできなかった。

    あれはなんて事ない一日だった。

    朝方いつものように街から帰ってくると、母ちゃんは珍しく早く家に帰っていた。心配をかけたくなかったから、なるべく母ちゃんが帰宅する朝五時前には家に戻るようにしていたんだけど、その日はすでに布団に横になってテレビを見ていた。おれは起こさないようにお気に入りのブーツを脱いで、台所へ麦茶を取りに行った。そして朝の一杯をゆっくり飲んで、風呂に入ろうと思ったんだ。

    でもなんかおかしい。

    人の気配を感じない、目の前にはテレビつけっぱなしで寝ている母ちゃんがいるのに。なんていうか、そこから生を感じなかった。嫌な予感の中テレビを消しながら、母ちゃんの顔を見たんだ。

    薄く開いていた目玉は、灰色になっていた。

    死んでいたんだ。

    綺麗に化粧をしたまま、一張羅のスーツを脱がないまま、母ちゃんは冷たくなっていた。それから二、三分は呼びかけていたと思う。揺さぶったりもしたかな。でも何も変わらなかった。おれは事実を受け入れる事を全力で拒んだんだ。でも最後には母ちゃんを抱きしめながら、買ったばかりの携帯電話で一一九番に電話した。

    それからの記憶は曖昧で、おそらく職場の社長や、社長の奥さんが色々動いてくれたんだと思う。次の場面まで記憶がすっ飛ぶんだ。葬式、小さなアパートにはたくさんの人が来てくれた。ほとんどがスナックのお客さん。みんなこれからの事を気にかけてくれた。初めて聞いたんだけど、お店でおれの話をいつもしていてくれたらしい。みんな、困った事があるなら何でも言えと色んな業種の名刺をくれた。

    何だかすごく母ちゃんが誇らしかったよ。

    だから聞いたんだ。考えようとしてこなかった事、知ろうとしなかった事を。死に顔を見た時、今まで蓋をしていた感情が表に溢れ出た。

    「親父の事なんか言ってませんでしたか?」

    その場の空気が変わった。誰もが口籠る中、家族でお世話になっていたスナックのママが口を開いた。

    ——酔うとたまに言ってたよ、あんたの父ちゃんは北海道で幸せにやってるって。

    その話を聞いた時、なるべく表情を変えないようにした。でも一瞬で頭に血が上ったのがわかったんだ。それに気付かずママはこうも言った。

    ——私はいい、でも息子の事を思うと申し訳ないって。アンタのお母さんの口癖だった。

    その言葉を聞いた時に決めたんだ。全ての元凶に罪を償わせてやるって。

    葬式が終わると、変わらない日常が戻ってきた。いつも通り朝から夕方まで働き、夜は悪さをする。マツや他の友達は、おれに気を使ってくれた。むず痒かったよ。門脇くんからは香典なんてもらったし。葬式にも二人は来てくれてさ、泣いてくれたんだ。そりゃあ世間から見ると、ロクなもんじゃないかもしれないけど、いいヤツらなんだよ。

    それからは、血縁上父親の情報を集めだした。主に母ちゃんの元お客さん。もらった名刺に電話をし、お葬式に来てくれたお礼を言う。でも目的は憎き父親の事。少しでも情報が欲しかった。わかった事は、羅臼という北海道の端っこの街で飯屋をやっているって事。限られた情報でも必ず探し出す自信はあった。というよりも意地だ、それくらいの情念は積もっている。そんな生活が一年くらい過ぎた頃事件が起きたんだ。おれはもう十八歳になっていた。

    百足は既にかなり警察からマークされていた。それと、新たな敵対チームみたいな奴らも現れて、街での小競り合いが増えていた。平塚あたりから登ってきたダニみたいな奴らでさ、スチームスってチーム名で活動していた。最初は街中を粋がって歩く程度だったけど、その内にそいつらは俺たちの「仕事」まで横取りするようになった。

    門脇くんはいつも言っていた、おかしいって。

    妙な違和感があったらしい、盗むルートが似ていたんだ。いま思うとあのタイミングで警戒するべきだったんだと思う。他所から来た奴らがこの街で好き勝手に動ける理由をちゃんとチームで考えるべきだった。

    一カ月もすると街中で衝突する事がかなり多くなった。どんどん揉め事はエスカレートしていった頃、それは起こった。

    門脇くんが川崎アトレ裏の路地で殺されたんだ。

    やったのはスチームス。六人位で襲ったらしい。バットで殴られた顔はもはや原形はなかったそうだ。当時一人きりで動くなと、あの人におれたちは全員口すっぱく言われていた。でも、その時門脇くんは一人で街中にいたらしい。

    おかしくないか? 誰よりも頭の切れるあの人が、そんな凡ミスを犯すとは思えない。もちろんどうしても外せない用事があるなら別だけど。そこでおれはピンと来たのさ。よそ者のチームが街で自由に動けているのも、門脇くんが一人で動いたのも。

    次の日おれらはスチームスへの追い込みを開始した。こっちは組織化された三十人強、向こうは土地勘もなく動いている二十人ちょい、あっという間に片がついた。自首なんてされたらたまったもんじゃないからさ、素早く行動に出ることにしたんだ。

    主犯格の向こうのリーダー、金山(かなやま)って言ったかな、そいつとその日その場にいた他五人を、川崎駅近くの居酒屋を出て来たところで拉致したおれらは、そのまま夜の川崎港へと連れ出した。大した余裕だよ、川崎の街で酒飲んでたんだ。

    「上からやれって言われただけだ!」

    金山は泣きながら土下座を繰り返した、他の五人はもう血だらけ。

    「誰に?」

    おれはその上が誰なのか知りたかった。

    「円組の戸高さんに言われたんだ、うちらを百足の代わりに使ってやるって、勘弁してくれよ」

    「あの人は円組の人だぜ? ナメてんのてめえ」

    「睨まれてたんだよ! 若頭の斎藤さんから気に入られすぎたんだ、それが他の人たちは気に食わなかったんだ、戸高さんが言い出したんだよ、なあ、勘弁してくれよ」

    泣きながらご丁寧に金山は何でも答えてくれた。

    泣くならやるなよ。この状況で嘘をつくとは思わなかったから、その言葉を信じる事にしたんだ。

    「わかった。んじゃな」

    おれはバットを振り上げる。

    やめてくれ! 勘弁してくれ! 

    必死で叫び声を上げていた。

    「うるせえなあ」

    振り下ろしたバットに肩に響く鈍い衝撃、そして静寂が訪れた。

    頭頂部にめり込んだ衝撃で一瞬にして金山は沈黙した。

    でもすぐに他の五人が騒ぎ出した。ビビるなら最初からやらなきゃよかったんだ。旨味があるからコイツらは話に乗って平塚から上がってきたんだろう。でも、覚悟はできてなかったみたいだ。

    人を殺したんだ、それも大事な先輩を。

    正座させた残り五人の懇願を無視し、左から一人ずつ、マツのフルスイングがアゴあたりを吹き飛ばす。まるで糸が切れた人形みたいに、騒ぎの五重奏は、四重奏、三重奏と少なくなり、最後はすすり泣きの声だけが残った。

    「お前ら、あと何人いんの?」

    マツが言うと、小便涙まみれの残り一人が十三人と答えた。

    「あっそ」

    短く答え、マツは涙で濡れた最後の一人の鼻めがけて、バットをフルスイング。

    容赦なし。

    怖いやつ。考えてみればマツの方が門脇くんとは長い付き合いだ。我慢しろっていう方が無理な話だよな。

    すっかりと静かになった波止場で荒い息遣いが聞こえる。百足のみんなは興奮と恐怖で火照っていた。が、おれの次の一言で、その火照りは一気に沈静化する事になる。

    「これからどうする?」

    何気なく聞いたんだけど、その場にいた他の百足たちは、一斉に下を向いたり、困った表情を浮かべた。

    「勝治、お前はどうすんだ?」

    その中で一人だけ顔を上げていたマツが言った。

    「門脇くんは先輩だけど、それ以上にダチだ。母ちゃん死んだ時に香典ももらったし。あの人には世話になったろ? だからやり返そうと——」

    「よし、ノッた」

    おれが言い終わらないうちに、待ってましたとばかりにマツは言った。

    「他は?」

    聞くだけ無駄だった、誰も返事をしない。

    そりゃそうだ、やばい事になる。

    「わかった、じゃあ百足は解散だ。この後、なんか言われてもお前らは関係ないって言い張れよ。特にポリは徹底しろ」

    みんなバツの悪そうな顔をしている。

    「気にすんな。別におれらヤーさんでもなんでもないんだし」

    マツはそう言いながら、転がったスチームスの六人を一人一人、鉄パイプでつついて回った。かすかに全員まだ動いている、意外と頑丈なんだよな人間って。まあ、普通の生活は無理だろうけどさ。

    「勝治さん、マツさん、おれら、これ以上は無理です、ホントすんません、勘弁してください」

    後輩連中、そして中学からつるんでいた仲間は頭を下げた。いつの間にか、他の奴らは未来を考えるようになっていた。

    そう、おれらは浮いていたんだ。

    「いいよ、別に」

    「勝治、ちょっと待て」

    マツは転がったスチームス六人を携帯電話で撮影しながら言った。

    「最後の頼みな、後で画像送るからネットに上げといてくれよ」

    他の連中は黙って頷くのみだった。こういう人種は人の目を気にする。昔風でいうとメンツってやつ。それがなくなると大きな顔はできなくなる。まあ、その画像は結局ネットには出なかったらしい。何故か? 死んじゃったんだよ、これからさらうヤツが。

    おれとマツはそのまま、川崎駅裏の商店街の雑居ビルへと向かった。近くにはおしゃれなショッピングモールがあるんだけど、この一帯は別。その一角の薄汚れた雑居ビル、三階に円組の事務所は入っていた。

    二人で待ち伏せして出てきた戸高を襲ったんだ。

    どうやったか? 一緒にいた取り巻き一人をまず後ろからマツがバットで一発、それに気づいた戸高におれがバットで一発。

    これだけ。あとはうずくまる戸高を車に押し込み完了。

    慣れたもんだよ。そのまま車で多摩川沿いに連れ出した。自動車学校が反対岸に見える場所。あそこ綺麗なんだよね、お気に入りの場所なんだ。

    「てめえら、何やってんのかわかってんのか?」

    お決まりの恫喝。泥だらけのスーツ姿。

    「とことん追い込むからなコラ、お前らの家族も全部」

    親なしと養護施設育ちの二人組には、何も響かない言葉を吐いた。

    「聞いてんのかコラ!」

    いつも思うんだけどさ、こういう人種はみんな言う事は一緒なんだよな。おれが知らないだけで、なんか教科書みたいなもんでもあるのか?

    「なあ、いまやめたら特別に目をつぶってやるよ。お前らも新しいシノギ与えてやっからよ」

    両手両足を縛られて横たわった戸高は卑しい笑みを見せ始めた。デブの癖にアルマーニ、茶髪のオールバック。センスのかけらもない醜い生き物。

    「それだけ?」

    マツは表情を変えずに答えた。

    「門脇の事は誤解だって。あのガキ共が勝手にやった事なんだよ」

    言い訳が苦しすぎて思わずおれは笑ってしまった。釣られてマツも笑い出す。

    「何笑ってんだコラ!」

    戸高はムキになった。縛られて泥だらけなのにまだ威勢がいい悲しきブタ。

    「もういいよ。大事な先輩をあんな殺され方したら、そりゃ許せないよね」

    淡々と気持ちを伝えると、戸高の額に汗がいっそう浮かんできた。

    「許してくれ、な? オヤジに口聞いてバッジもらってやるよ。な?」

    地面に転がるブタによる、なりふり構わぬ必死の抵抗。あまりの惨めさにマツは大きくため息をついた。

    「なあ、俺も勝治もヤクザになんか興味ねえよ。ガキの頃から門脇くんが好きで、憧れて一緒にいただけだ。ヤクザ予備軍だと思ってたのか? 勘弁してくれよ」

    マツは昔からそうだ、怒りが頂点に達すると、周りが凍えるほどの冷え切った声を出す。奴から寒気を感じたらそれが合図。やりすぎないように周りが止めないといけないんだ。でも今回は止める必要はない。

    そこでおれは不意に思い出した。

    前からマツに話したかった事を。

    もしかしたら二人とも捕まってしまうかもしれないからだ。こんな時に話す内容じゃないんだけどね。

    「なあ」

    「なんだよ、お前止めねえよな?」

    「おれさ、お金貯めて高校行こうと思ってたんだよな」

    冷え切った顔が一瞬で固まった。

    一日中スチームスからブタまでずーっとこんな感じなんだぜ? いい加減疲れもするよ。案の定マツが何とも言えない顔をしておれに詰め寄った。

    「ふざけんなおい! 聞いてねえよ」

    「当たり前じゃん、言ってねえもん」

    半笑いで答えると、泣きそうな顔を浮かべた。

    「そういう事は話せっていつも言ってるだろうが! なあ、おれも行くよ 、幾らかかるんだよ?」

    「わかんねえ。通信制ってやつ。働きながら行けるらしいぞ?」

    実際そうだった。仕事をしながらであれば十分に通える金額だ。マツは頭の中で何か計算をして、悔しそうに唸った。

    「いいよ、溜め込んでるから貸してやるよ」

    「マジか! 頼むわ。なる早で返すからよ」

    そう答えた顔は、微笑みいっぱいだった。

    「おい」

    視線を落とすと、地面には一匹のブタが倒れている。そうだった、調教中なのを忘れていた。

    「てめえら…人が下手にでりゃ調子乗りやがって。オメエらマジで追い込みかけるからな!」

    「誰が?」

    おれはブタの言葉を遮った。

    「誰がって、俺らがだろうが」

    負けじとブタも喋る。

    「無理だよ。あんた助かるつもり?」

    「オメエらに襲われた事はもうバレてるはずだからな!」

    「おれらとはわからんよ」

    さらわれた時の状況を思い出し、戸高の顔は青ざめた。

    「運転手の兄ちゃんは、後ろから一発ノックアウトだったから、多分わかんないよ」

    「勘弁してくれ」

    戸高はまた慈悲を求めてきた。怒ったり悲しんだり忙しいやつ。

    「無理。門脇くんにあっちで謝っといて」

    「ちょ、待ッ」

    おれはゆっくりと確実にバットを構えてから、戸高のこめかみを狙ってフルスイングした。ブタの最後の顔は何か言いたげだったけど、これ以上聞きたくなかった。

    ガキンッ。

    いい当たりだった。

    すり抜けるような感覚、首を不自然な角度に曲げたまま倒れた戸高は、もう何も喋る事はなかった。

    こりゃあ死んだな流石に。そう思った。

    「これからどうする。高校行くか?」

    マツは、おれの手からバットを受け取り、川に向かって投げ飛ばした。

    綺麗に回転したバットは、ポチャンという音と共に、真っ黒な川底へと消えていった。

    「それなんだけどさ」

    ずっと考えていた事をマツに話す事にした。

    「おれ、このままこの足で親父殺そうと思ってさ」

    「親父って、例の北海道のか?」

    コイツと門脇くんには、父親の事は少し話した事があった。

    「そうそう」

    「それって、俺は付き合わない方がいいんだろ?」

    「悪いな」

    するとマツはにやけた。

    「お前の母ちゃん優しくて大好きだったんだ。お前仇とってやれよ」

    照れながら言うもんだから、思わず笑ってしまった。

    「オッケー、じゃあさっさと済ませてくる。羅臼って田舎。北海道なんて川崎よりゃ狭いだろ」

    地理なんて勉強した覚えがないからさ、その時は川崎を基準にしか広さを考えられなかったんだ。

    「終わったらよ、その後は俺とお前で高校進学な。恋しようぜ、恋」

    大笑いした。

    誰がお前みたいなゴリラと恋するかよ、と捨て台詞を吐きながら戸高の死体を川に捨てた。

    「勝治、コイツの車使うか?」

    「いや、駅まで歩くわ。お前使っていいよ」

     マツは戸高の車、確か真っ黒なワンボックスだった。いま思うと、アイツはそこで例のものを発見し、それが原因で最悪な展開を迎えることになったんだと思う。

    二人は河川敷から別々に逃げる事にしたんだ。

    それがマツとの最後の会話だった。

    結論から言うと、北海道に向かうどころか、川崎駅にさえ着く事は出来なかった。多摩川河川敷を少し離れた国道沿いで、五人の警官に取り囲まれる事になったんだ。逃げる進路は既に断たれていて、どうする事もできなかった。

    後で聞いた話だと、百足のメンバーのタレコミだったみたいだ。スチームス襲撃の後、誰かが警察へと電話したらしい。多分アイツだろうなって奴はいるんだ。でもそいつを恨む事はない。もしかしたらおれらの為に、なんて無駄な正義感出したかもしれないし。

    そしてマツ。

    取り調べでもアイツの居所をひたすら聞かれてたから、その時はうまく逃げれらたんだと思った。

    取り調べの中、川崎署生活安全課の刑事たちは嬉しそうに言った。

    お前はおしまいだと。

    家庭裁判所の裁定は多摩少年院送りだった。あっという間、まあ、スチームスの連中はほとんどが障害の残る怪我、戸高は即死だったみたいだ。殺人一件と、他六人に対する暴行致傷。そんなこんなでおれは、殺風景な長方形の部屋で、喋る事もできず、鉄格子を眺めてる日々を過ごすことになった。

    「二十七番、何を笑ってる!」

    ドアを叩く音と共に、吹き出物だらけの法務教官が、ドアに備え付けの小さな窓から大きな声を出した。

    「すんません」

    おれは小さく頭を下げた。脂ギッシュで気色悪い奴。

    「姿勢を正せ、いいな?」

    不細工教官はブツブツと喋りながら窓から消えた。

    その後は張り詰めたような静寂に包まれる。まるで世界におれしかいないんじゃないか? と思えるくらい。それでも長い人生、その中のひと時をこの中で過ごすだけ、そう思うようにしたんだ。じゃないと、心が持たないんだよ。

    鑑別所のような夏休み感覚はここには無くて、とにかく辛気臭い空間。生まれて初めての静けさだ。ただ大人しく、刑期を終えるのを待つのが何よりの近道かもしれない。早くここを出なきゃ。

    まずは復讐。その後はもうどうでもいい。

    おれがいなけりゃ母ちゃんだって別の人生があったはずだ。そしてもう家族は誰もいない。となると、やることは裏切った男への復讐しか残っていない。それだけがこの辛気臭い部屋で願う、たった一つの誓いだった。

    殺風景な部屋の外では、教官の立てる足音だけが響いている。

    ——コツ、コツ

    ——コツ、コツ

    いまでも思い出すあの足音、耳ざわりな音出しやがって、ぶっ飛ばしてやりたかったよ。

    インタビュー R3・7・14 伊能勝治

    「足音、ですか?」

    「そう。何だか耳障りな音でさ、嫌だった」

     桐原にはいまいちピンとこない話だった。これまでの人生で歩く音を気にした事がない。

    「いまも気になりますか?」

    「どうかな。そういえば気にならないかも。あの当時は本当に嫌でさ、理由はわかんないんだけど」

    「それは伊能さんのお友達、門脇さんが亡くなったりしたからですかね」

     いまの話でも分かる通り、先輩であり友達であり、兄貴分でもあった門脇の死は、最初の殺人を犯す最大の理由になったはずだ。

    「うーん、まあでも、それだけじゃないかな。親父の事もあった。殺そうとした矢先に捕まっちゃったし」

    「円組の戸高という男は許せなかったですか? やっぱり」

    「そりゃあね。ちなみに桐原さんは人を殺したいと思ったことあります?」

     あるわけないじゃない、とすぐに答えることができなかった。目を見てそんな質問をされたことがなかったからだ。三十二年も生きれば嫌な人間とたくさん出会う。特に自分がいる業界は嫌なこともたくさんあった。それでも——

    「ありません、殺したいなんて考えたことはないです」

    「そっか、女の人はあんまりそんなふうに思わないのかな」

     男女は関係ない、とは否定しなかった。

    「とにかく、おれにとってマツと門脇くんは大事な存在だったんす、母親死んでからは特に。唯一の家族というか。他には誰もいなかったから」

    「そんな大事な人が死んで、もう一人の松山さんとも別れて、伊能さんは少年院に入ったんですね?」

    「そう、逃げるタイミングもなかった。河川敷から国道に登ってすぐにお巡りがいてさ、挟み撃ちされたんすよ」

     伊能は悔しそうに話す。

    その時、看守の視線を感じた。そろそろ三十分だ。今回のインタビュー申し込みの際、約束したのは面会時間を守ることのみだった。

    「伊能さん、今日はこの辺で失礼します。もっと話を聞きたいのですが…」

    「面会時間か、了解っす。次回また続きからで」

    「ありがとうございます。では二週間後に」

     伊能は頭を下げ、自ら立ち上がり看守の元へと近づいていった。

     桐原は三十分とは思えない充実感を得られた。

     ずっと知りたかった伊能勝治という男の、断片を垣間見ることができたのだ。彼は十八歳から二十歳になる約二年間の間に、九人を殺してしまった。その人数も去ることながら、その中に肉親がいたことにより、世間では鬼畜扱いをされている。

     果たしてそうだろうか?

     無差別に殺したわけでもなく、決して責任能力がなかったわけではない。事実、精神鑑定は本人が拒否しており、自分は至ってまともだと答えている。派遣された国選弁護士に対しても、過度な弁護を拒否し、言われた刑を受け入れると最初の裁判で話していたそうだ。

     府中刑務所を出て、桐原は近くの中華料理屋へと入り、遅いランチを食べることにした。出来立ての麻婆豆腐を眺めながら、伊能のことを考える。

     これまでにどれだけのテレビ、雑誌が彼にコンタクトを取ったのだろうか。あれだけ騒がれた事件のその後をマスコミは知りたかったのだ。しかし一切返事がない中、桐原には取材オッケーの連絡が来た時、出版社は驚きの声で包まれたと担当編集者は言っていた。

     次回は神田夏樹の存在について聞いてみるつもりだ。伊能勝治にとって、彼女の存在の大きさを確かめたい。その先にある一連の殺人事件の全容を知るために。

    インタビュー R3・7・28 伊能勝治

    「暑いすね…」

    「クーラーはないんですか?」

     桐原は若干夏バテ気味な伊能を見つめる。

    「部屋にはない。作業場とか食堂にはあるんだけど。全然慣れないなあ」

    「大変ですね。今年は暑夏みたいだし」

    「マジで勘弁してほしい」

     青年は心から悲しそうに天井を見つめている。

     桐原はクーラーなしの生活を想像した。きっと子供二人も旦那も大騒ぎだろう。自分だってそうだ、一晩たりとも我慢できる自信はない。

    「桐原さん、ここまでどうやって来てるの?」

    「電車です。一時間くらいかな」

    「わざわざすんません。今日はもう少し上手く話せるようにするよ」

     伊能曰く、インタビューのイメージトレーニングをしたそうだ。桐原にとっては前回のインタビューもわかりやすく話してもらったつもりだが、本人は納得できなかったようだ。

    「じゃあ、前回の続きからお願いできますか?」

    「了解っす」

     前回のインタビュー後、担当編集者からいろいろな質問を受けた。その中でも一番多かったのが、伊能勝治は一体どんな人柄なのか? ということだ。九人も殺した人間はやっぱり一般人とは違う狂気性を秘めたサイコパスだと思いたいのだろう。

     しかし桐原は期待とは違う答えを返した。今のところ好青年でしかないと。

    「では前回の続き、少年院に入院されてから聞いてもいいですか?」

    「入院って変じゃない?」

     唐突に意外な答えが飛んできた。

    「当事者は入所って言った方がしっくりくる?」

    「いや、収監かなやっぱり。そもそもあの場所で治療してるわけじゃないしね。病院とは一番かけ離れた場所すね」

    「やっぱり大変でした? 例えばイジメとか、揉め事とか」

     少年院の知識といえば、テレビで見るドキュメンタリーくらいで生の声を聞いたことはもちろんない。

    「別に普通だよ。まあ色々あったといえばあったけど、やっぱりこことは違うな。いつかは外に出ていけるし。でもここは違う」

     気楽な感じで喋る青年は、二十二年中、三年以上を獄中で過ごしていることになる。もちろん現在も更新中だ。

    「少年院の中の話を詳しく教えてくれますか? そして脱走まで」

     正直な話、早く伊能勝治が自由を手に入れた話が聞きたい。そして、神田夏樹との出会いを。

    「あれって脱走になるの? まあいいか、最初は独房だったんすよ——」

    3

    ——コツ、コツ

    ——コツ、コツ

    廊下から聞こえてきた足音にふと我に帰る。ぼんやり色々と考えても、現実に戻ってしまう。殺風景とはまた違う、無機質な空間。そんな部屋の真ん中におれはぽつんと座っていた。

    目の前のテーブルには、お馴染みの漢字ドリルが二冊置いてあり、見上げると少し高い場所に鉄格子のはまった窓が見える。余程の事がない限り、自分から言葉を発する事を許されず、気軽に横になる事さえ許されない。日がな一日座って過ごす事が多かった。聞こえてくる音といえば自分の息遣いと法務教官の足跡、そして隣の独房から聞こえてくる、素性も知らない隣人の咳の音だけだ。

    だけど、そんな音でさえ聞こえてくるとホッとするんだ。ああ、ここにいるのは一人じゃないって確かめる事が出来た。

    朝起きてから、気が遠くなるほどの時間が過ぎると、二十時には早めの消灯時間が訪れる。強制的に部屋の電気が消え、より一層の静寂が訪れる。そんなに早く寝付く事などできるはずもないだろ? いままで夜通し遊ぶ生活が長かったんだ。やる事もなく、ただ窓から差し込む夜の光を毎日眺めていた。

    そうするとだいたい同じ時間、二十二時位かな? 隣の部屋からノックが聞こえてくる。

    ——トントン

    ゆっくりと、そして規則性のあるそのスローなリズムは、見回りの教官も気がつかないくらいの小さな振動だが、限りなく音の少ないこの部屋では、これ以上ない大きな音で響く気がした。だからこっちも大きな音にならないよう、優しく、振動が隣人に伝わるように拳を押しつけてノックをする。

    ——トントン

    そうすると嬉しそうにまたゆっくりと振動が帰ってくる。名前も知らない隣人との不定期なリズムで不思議な会話を続けていくうち、いつも向こうが先に眠りにつくんだ。それでもまだこっちは寝付く事は出来ない。星空を眺めたくても、鉄格子が邪魔してうまく見えない、音を立てないよう精一杯背伸びをしてみるが、かすかな光しか眺めることができなかった。外にいた時は何も気にせず目に入ってきていた夜空は、無機質な部屋からはたやすく眺める事は出来なかったんだ。そんな全く同じ毎日を何度も過ごした頃、おれは独房から雑居房へと移動する事になった。

    ——コツ、コツ

    ——コツ、コツ

    今まで意識なんてしたことはなかった音。歩くと音が鳴るんだなって。コンクリートの上だからこんな音がするわけで、これが草の上だったらどんな音がするんだろう? そんな事を考えながら、規則正しく、廊下をゆっくりと歩いていく。

    ——コツ、コツ

    ——コツ、コツ

    入所してから一ヶ月と少し、独房で大人しく過ごしたおれは雑居房へと移された。そこには同世代の関東近県から集まってきた、クズたちの合宿所みたいになっていた。くすんだ目をした奴もいれば、血走った目の奴もいる。と思えば怯えた目、媚びた目、いくつもの視線が突き刺さってきた。もちろん歓迎ムードなんかじゃない。

    「アイツだよ」

    部屋の隅で誰かが言った。

    「ヤーさんの頭にバット一発だってよ」

    違う方から声が聞こえてくる。やつらは外の世界だろうが、堀の中であろうが、そのコミュニティー内での力関係を気にする。狭い世界ではそれなりのルールが出来上がっていて、それを脅かす恐れのあるやつは必ずマークされる。

    この場合はおれの事だ。

    晩飯の時間、食堂でもいくつもの視線を受ける事になった。その中には外で見た顔もいくつかあった。明らかに敵意丸出しの視線を向けているヤツは、いつだったか殴り飛ばした事があった。たしか横浜あたりで粋がっていた馬鹿だ。でも相手の視線に何かアクションする事はない。もともと自分から仕掛けるタイプじゃないから、ただ俯いて静かに美味しくも不味くもない飯を平らげた。

    食事も終わり、皆それぞれの房に戻る。

    四人一部屋、時期によっては三人だったり、二人だったりするんだけど、移った当初は盛況で満杯だった。嫌な夜になるのを覚悟したよ。二十時の消灯時間後、早速その部屋のボスから洗礼を受ける事になった。まあ、避けては通れないってやつだ、自分より一つ年上の男、千葉のどこかで族の頭をしていたらしい。口元に大げさな傷があり、思い切り一重瞼の人相の悪い中肉中背。

    「ヤクザ殺ったんだって? お前」

    そう言ってきた男の横には、ニヤついた男が二人立っている。どこの世界でもいる、まるで漫画に出てくるような雑魚。きっと最初にやられた口だろう、これぞ手下という雰囲気だ。おれはこれから起こる出来事をシミュレーションした。

    「何か問題ある? おれは別に…」

    答えきる前に、手下二人が押さえつけようと飛びかかってきた。

    ほら来た。

    安易に予想できた相手の行動に沿って、その二人を突き飛ばし、一気にそのままボスの鼻に目掛けて頭ごと突っ込んだ。

    躊躇しない、思いっきり行くのがベストなんだ。

    こういう時は頭突きが一番、意外とパンチって当てるのが難しい。当たりどころが悪いと骨折っちゃうしね。相手に準備の時間を与えないマツ仕込みの頭突き。歯にあたるとこっちが大けがするから、必ず鼻っ柱に。

    ——ゴッ

    聞き慣れた重低音と衝撃が頭の中に響き渡る。短い叫び声をあげて真後ろに倒れそうになったボスの左手を握り、おれは引き起こした。

    「大人しくしてるから構わねえでくれねえ?」

    目の前で鼻血を垂らしながら涙目になっている男は、勢いよく手を振りほどいた。横にいた男たちは青ざめている。

    「殺すぞおあっ」

    鼻血を拭きながら部屋のボスは一歩踏み出してきた。コイツ根性あるな。

    「っめえ、汚ねえど」

    「そっちが先に手を出そうとしただろ? 頼むから構わねえでくれ」

    「殺しといてすぐ出れるわけねえだろうが、おい、見張ってろ」

    手下二人が壁際へと移動する。これから起こる数秒間をあらためて頭で確かめた。

    ここからは出たとこ勝負だ。

    と、不意に前蹴りが飛んできた。

    おれはその足を掴むと、頭からそのままもう一度顔に突っ込んだ。本日二度目の聞き慣れた重低音の後、膝からボスは崩れ落ちた。

    部屋には手下たちの息遣いと、足元に転がるボスの呻き声だけだった。手下二人も一緒に来られたら、さすがにどうする事もできなかったが、その腰巾着が動く事はなかった。心臓が張り裂けそうだったよ、みんなで来られたらどうにもできない。

    その時、遠くからあの不快な音が聞こえてきた。

    ——コツ、コツ

    ——コツ、コツ

    慌ててみんな自分のベッドへと潜り込む。おれも自分のベッドの中へ潜った。その足跡が通りすぎるのを待って、顔を上げてみたが、他の連中が起きてくる様子はなかった。

    いつ来るか?

    しばらく警戒していたんだけど、間抜けな話、そのまま眠りについちゃったんだ。まあ色々気を使う一日だったからね。

    明朝六時、起床時間を告げる教官の声が聞こえてきた。

    体を起こすと小さな痛みを額に感じる。触ると血が少し出ているのがわかった。うまく鼻に命中させたつもりだったけど、歯にも当たっていたみたいだ。ズキズキする頭を撫でながらふと迎えの二段ベッドの上段に目を向けると、昨夜の喧嘩相手が起き上がっている所だった。鼻から口にかけて大きく腫れ上がっていて隠せるような傷ではない。バレてしまえばまた独居房行きだ。正直あの孤独は耐え難い、なかなか上手くいくもんじゃないな。

    着替えを済ませると同時に、点呼を取りに教官がやって来た。当たり前のように傷を見て、部屋にいる四人を見渡す。

    「若松、その顔はどうした?」

    「ベッドから落ちましたー」

    「そんな筈ないだろう、相手は誰だ?」

    そう言いながら、教官の目はこっちに向けられている。自分が入った瞬間に起きた事件だ、もちろん疑われるだろう。終わったと思ったよ。でもとぼけると更に長くなりそうだし、あきらめて名乗り出ようとしたんだ。

    「本当なんす。夜中小便しようとして寝ぼけて落ちました」

    この部屋のボスは、頑なに否定した。

    「そんな言い訳通用するかお前、伊能、相手はお前か?」

    「勘弁してくださいよ、喧嘩なんてしてないっすよ、マジで落ちました、ベッドから」

    若松はニヤけた。釈然としない法務教官だったが、中庭への集合時間が迫っていたため、話はそこで終わった。

    日課のラジオ体操へと向かうため雑居房から出ると、隣の部屋からも四人、その隣の部屋からは三人、気が付けば廊下には人が溢れていた。

    「列を乱すな! そこ、お前だお前」

    厳しい言葉が飛び交う中、中庭へと続く廊下で、小さな声で若松に話しかけた。

    「昨日はごめんな、大丈夫?」

    「大丈夫なわけねえだろうが、覚えてろテメエ」

    そう言って若松と呼ばれた男は、おれを睨みつけた後、わざと離れるように前へ進んでいった。でも直感で悟ったね、こいつとはもう揉めないって。

    独房と違うのは、大きく変わるのは外での作業に参加できる事だ。外では当たり前だったお天道さんの下が、こんなにも気持ちが良いものかと感動した。しかしそれも、半年時間が経つと、当たり前の光景になってしまい、有難みも何もあったもんじゃなかった。

    夏は暑く、冬は寒いだけだ。

    雑居房に移った次の朝に植えたさつま芋も、だいぶん大きく育っていた。知らないうちに愛着が湧いていたさつま芋に、丁寧に虫がついていないか確認していると、横にカゴいっぱいに芋を入れた若松が座った。

    「おう、ハゲ。まだ収穫できねえのか?」

    「おう、ハゲ。そろそろだな」

    言いながら根元を掘り起こし、新鮮な土に入れ替えた。

    「聞いたか? C房の前田、脱走ミスったらしい。無理に決まってんじゃねえか、なあ?」

    若松はスコップで隣のさつま芋の根を掘り返しながら小声で笑った。

    「いつかは出れんだよ。適当にこなしてりゃあいいのによ」

    その通りだった、逃げたところで必ず捕まる。そうすればまた刑期は伸びてしまう。日本のお巡りさんをなめてはいけない。ただ、おれの場合は少し事情が違う。

    「出所日決まったのかよ?」

    「まだ。人殺しちゃったからなあ。お前は?」

    「うーん、年明けくらいじゃねえかな。早くこの頭なんとかしたいぜ」

    若松は自分の坊主頭を愛おしそうに撫でている。

    「三ヶ月前から伸ばしていいんだっけ?」

    「おう。坊主頭でここ出ていったらバレバレだもんな」

    「結構気に入ってるけどな。楽だし」

    おれはえんどう豆が埋まっている畑へと移動しながら答えた。若松も後ろから付いてくる。

    「なあ、お前ここ出たら何やるんだよ」

    「何も考えてねえよ」

    嘘だった。

    やることがある。復讐だ。

    何度考えても行きつくところはそこだ。ここに来てからいくつもの夜を、自分自身のこれからについて考える時間に使った。でも、結局それしかない。

    「なんだよ、真面目にやるなんて考えてねえだろ?」

    若松は人懐っこい笑顔を浮かべて聞いた。

    「おれは悪者じゃねえよ」

    「派手にやっといてよく言うぜ」

    「まあ、それを言われると何も言い返せねえ」

    見回りの教官の目を盗みながら小声で答えた。

    「何でヤーさんやっちまったのよ? お前」

    その問いには答えないようにした。何故? 門脇くんを殺したからだ。って言っても知らないんだから伝わらないだろ? 答えに困っていると話を変えてくれた。

    「お前喧嘩強いじゃん、俺初めてだもん、何もできなかったの。これでも結構自信あんだぜ。古澤や児玉よりも俺の方が絶対強いだろ」

    隣の房にいる、名の通った東京のチンピラ二人の名前を上げながら若松は笑った。

    「別に喧嘩が強いわけじゃねえよ、行動が早いんだよ。外のツレがよく言ってたんだ。決断が早い奴が勝つって」

    「なんだそりゃ、そいつも強えのか?」

    「そうだな、デケぇ」

    若松は教官にバレないよう下を向いて笑い出した。

    「なんだよ」

    「いやあ、お前も身長あるからよ。もっとデケえって考えたら、面白くなってきた」

    「うーん、そいつは面白くはねえな、可愛げもねえし」

    おれはマツの顔を思い出した。いつも最初に出てくる顔は、門脇さんに紹介された中二の時の仏頂面だ。

    ——お前素早いんだから、最初に殴っちゃえばいいんだよ

    そうアドバイスをくれたのだ。今、アイツはどうしているだろう? 捕まったという話は聞いていない。

    「そいつも同じチームなのかよ? 共犯?」

    「まあな、とにかく手が早いだけだ」

    おれはザルいっぱいになったえんどう豆を、運搬用のバケツの中に入れようと立ち上がった。

    「なあ、外出たらさ、ツルまねえ? 俺の地元に来いよ。どうだよ?」

    「千葉だったよな? まあ、考えとくよ」

    そう答えたが、そんな日が来ない事は自分が一番わかっている。

    「お前って本当面白えな。何でもできるぜ俺らなら」

    言いながら若松は無邪気に笑っていた。

    入所して一年、はじめの頃は起きていた小競り合いも力関係が築き上がれば、一気に沈静化する。長くは続かないのだ。新顔が来るたびに、ほとんどがその日の夜に組み付されるんだけど、ごく稀にそれまでの力関係を変えてしまうやつもいる。心が未熟だからこそ、集まってくるガキなりに、社会の理を覚えていく。小さく歪なコミュニティーの中で生きていく術を見つけないといけない。そうじゃないと中では生きていけない。未熟だからこその残酷さも持ち合わせている。下手を打つと、刑期を終えるまで毎日地獄を味わう事になるんだ。だから大半はこの狭い堀の中で、生きていく術を身につけるのさ。人間関係が大変なのは何も会社や組織だけじゃないんだ。こんな底辺の世界にもマナーやルールやヒエラルキーは存在する。

    しくじったら、もう場所はない。それはどこの世界でも一緒だろうけどさ。

    「出所したら何すんだよ?」

    退所が近くなるにつれ、口癖のようにみんなが話し出す。

    「ここ出たら何すんだよ?」

    そんな時、決まってこう答えるようにしていた。

    「まだ何も決めてねえ」

    最初は笑っていた連中も、おれの口癖にいつしか何かを感じるようになっていた。

    「なあ、外出たらなんかやろうぜ、マジで来いよ俺の地元」

    二ヶ月先に入所していた若松が退所する日、連絡先を渡しながら言った。それを笑いながら受け取る。そこそこ伸びた髪の毛をかきあげながら、にこやかに少年院を後にした。

    入所して十三ヶ月、勾留から裁判も含めると、一年と三ヶ月ちょっと過ぎていた頃、面会に来た百足の後輩、石川が教えてくれた。

    「マツさん殺られました」

    そいつは顔を引き攣らせながらそう言った。

    もしかしたらおれが暴れだすんじゃないかって思ったのかも知れない、怖かったのかも。でもおれはこう答えたんだ。

    「そっか」

    思わぬ答えに後輩は固まっていた。そりゃそうだ、あまりにも冷たく聞こえたと思う。 「それだけっすか?」

    「いいよ、おまえ帰れ。知らせてくれてサンキューな」

    石川は何かを言いかけたような気がするが、結局言わなかった。

    「それで、これを円組の人が渡してこいって」

    そう言うと一枚の名刺を取り出した。

    「何だこれ」

    「若頭の斎藤のです。これを勝治さんに渡せって」

    おれは手元にあるスカした名刺に目を落とした。

    「バイトしてるガソリンスタンドに、突然黒塗りのレクサスが乗り付けたんです。で、これを渡してこいって。院の中からでもすぐに電話してこいって。勝治さんすんません、これ以上関わりたくないです」

    「悪かったな。電話しとくわ」

    石川は無言で頭を下げ、寂しそうに帰って行った。

    平気なのかって?

    いや、全然。

    でもどこかでそんな気がしたんだ。マツはあの街から離れないような気がしてた。狭い街で逃げ切れるわけがない。どこかで覚悟していたんだと思う。でもさ、それでもそこまでクールにはなれないよ。おれはその日から三日三晩、深夜の暗闇の中、カビ臭い布団を握り潰しながら泣いた。他のみんなにはバレてたかも知れないな。でも、誰も何も言わずに接してくれたんだ。

    四日目の夜、涙が枯れてきた頃、頭の後ろが痺れるような感覚に陥った。これだよこれ、怒りだ。待ってたんだ、この感覚。おれは受け取った名刺をもう一度眺めた。根こそぎ殺してやる、新たな目標が生まれた夜だった。

    それから数日後、教官から再審を唐突に言い渡された。やはりそのままおれは、刑務所へとエスカレータ式に上がるようだ。どこから漏れるのか、その噂はあっという間に院内へと広がる。それからは、至る所で仲良くしていた連中が手紙をくれた。といっても連絡先を書いた走り書きのようなものだ。入所して気がつけば、周りには色んな人間が集まるようになっていた。

    「なあ、長くなるだろうけどよ、出たらマジで連絡くれよな」

    「ああ、遠い未来に連絡するよ」

    連絡する事はないだろうメモ紙を受け取りながらそう答えた。

    来週末、この堀の外へ出る。

    裁判所までの距離、そこにしかチャンスはない。できる限り抗おう、そう決めていた。

    でも護送の日、ああ、これは無理だって護送車に乗った瞬間にわかった。

    ゴツい教官が二人、後ろに一緒に乗ってるわけだ。おれは手錠だろ? 先に親父殺しておけばよかったって思ったよ。仮にこの二人をどうにかした所で、飛び出すまでに、運転席の教官が気づかないわけがない。

    どうする?

    どうすればいい?

    自分の靴を眺めながら頭をフル回転させていた時、それは突然訪れたんだ。

    「んっっおお?!」

    運転席から短い叫び声が聞こえた。

    と、同時におれの体は座っていた反対側へと吹き飛んだ。

    突然すぎてびっくりも何もあったもんじゃなかったよ。そのまま色んな所に体をぶつけたんだと思う。

    一瞬気絶したのかな。短い時間。

    …………。

    気が付くとうっすらと煙の匂いがして、目の前には二人の教官が横たわっていた。こういう時はイメージトレーニングが役に立つ、何度も考えたんだ、こいつらをぶっ飛ばしてポケットから手錠のカギを奪う。役に立つとは思ってなかったんだけどさ。

    わかんないよな。身体中の痛みを我慢しながら鍵を奪い取り両手を自由にした。特に右肩が痛いけど幸い折れたりしてなかったみたいだ。

    護送車の後ろのドアは外からカギが掛けてある。出るなら前しかない、勢いを付け運転席にかかった網を蹴り上げると、事故のおかげですぐに外す事ができた。運転席の教官は血だらけで目をつぶっているが、息はしているようだ。ヘタな運転どうもありがとう、あんたのおかげだよ。

    おれは助手席のドアを開ける前に深呼吸をする。

    ここから一気に走り抜けなければならない、できるだけ遠くへ行かなければ。車盗むのは落ち着いてからだ。そんな事を考えながら一気に外に飛び出した。

    すると——

    少し離れた場所に女が立っていたんだ。

    それが彼女との出会いだ。

    インタビュー R3・7・28 伊能勝治

    「それが神田夏樹さんとの出会いだったと」

    「奇跡的でしょ?」

    「ええ、本当に」

     この辺りの詳しい内容は、やはり当事者に聞かないとわからない。記録ではそこまで詳しく描かれていないからだ。

    「院内で知り合った人たちとはその後どうなったんですか?」

    「話で出てきた若松っていたでしょ? アイツは面会に来てくれたよ、一ヶ月くらい前だったかな。まあその前にも何度か来てくれたみたいだけど、会う気がしなくってさ」

    「その時はどんな話をしたんですか?」

    「なんか最近結婚したらしくてさ、散々外に出たら悪いことするって言ってたくせに、今じゃ真面目に左官屋で働いてるみたい」

     伊能は嬉しそうに話をしている。

    「その事故があなたにとってのターニングポイントになったと、事故がなければあなたはそのまま裁判所で判決が出て、刑務所へ輸送されていた。逃れたのはあなたにとって良い事でしたか?」

     そうだ。その事故がなければ伊能は今も刑務所で過ごしていた事だろう。残りの七人を殺すこともなかったのだ。実の父親を含めて。

    「間違いなく良いことだった。じゃなければ今も復讐のことばっかり考えてただろうし。遅かれ早かれ必ず親父は訪ねていたと思うんだ」

     そうだ。伊能の心の奥底に潜む、実の父親に対する復讐心は簡単に消え去ることはないのだ。遅かれ早かれ、全くもってその通りだ。

    「少年院に入って数年が経っていたと思うんだけど、気持ちは変わりませんでしたか?」

    「むしろどんどん溜まっていった。前に裁判官にも聞かれたよ。許す気持ちが生まれた可能性はあったのか? って。絶対ないね」

    「それで殺してしまったと」

    「うん、許せなかった。理由はいま話す?」

    「まだ大丈夫です、順番を追って話してもらったほうが私も組み立てやすいですし」

     不謹慎ながら、どんな映画よりも伊能勝治の話は面白い。

    「桐原さんの本は、ノンフィクションってやつだよね?」

    「ええ。他に何か読んだことありますか?」

    「多分あると思うよ。実際にあった事件の裏側とかさ、そんなやつだよね?」

     桐原は頷く。

    「その中で使われる写真とか、逮捕された時のやつだよね。やだなあ」

    「なるべく私の方で資料は集めます。もちろん逮捕の時の写真も使われると思うけど」

    「ちなみにおれってやっぱり、テレビで殺人鬼みたいな報道されたの? 人間のクズ的な」

    「…正直に言うと、あなたは実の父親含む九人を殺した、大量殺人を犯した非道な犯罪者として認識されています。だけど同情の声もあるのは事実で、特殊な環境下に置かれた事情もちゃんと報道されてるの」

     少し大袈裟に喋った。確かに同情の声もあるといえばある。が、圧倒的に伊能を非難する声が多かった。

    「別に特殊な環境じゃないよ。おれは殺したくて殺したんだ。今でも殺された連中に悪かったなんて少しも思わない。特に親父はね。同情の声なんて桐原さんが作るそのノンフィクション本で消してほしい。ちゃんと包み隠さず話すからさ。そして夏樹さんの事も」

     若いから自分がどう思われているのか気になる訳ではない。ちゃんと最初から最後まで自分の言葉で話したいのだ。そして神田夏樹の事を考えている。

    「もちろん。聞いたことをちゃんと世間に伝えるつもりです。可能かどうかはわからないけど、あなたにも読んでほしい。刑務所側に掛け合ってみます」

    「楽しみにしてる」

     桐原は目の前で嬉しそうに笑う青年に、すっかり好感を覚えている。

     と同時に、話の間に垣間見れる暴力性も見逃してはいない。彼は躊躇することがない。それは一体どこで作り上げられたのだろうか。とある条件下ではストッパーが効かないのだ。

     結局、その後はインタビューの時間をとるには短すぎたため、他愛もない世間話で残りの時間を過ごすことになった。

     桐原は二週間後のインタビューの前に、もう一人、今回の事件に大きな影響を与えた人物に明日会う約束をしている。彼に大きな影響を与えたであろう人物、神田夏樹に。

    第二部 神田夏樹

    インタビュー R3・7・29 神田夏樹

     自宅兼事務所のある神楽坂から都営大江戸線で新宿へ、そこからJR中央線に乗り換え五十分、八王子駅に着いたのは、一時間半後だった。

     駅前は地方都市ならではの様相で、大型デパートがいくつかあり、有名なコーヒーチェーン店など人通りも多い。しかし駅前にある商店街を抜けると、一気に郊外の雰囲気に包まれた。

     国道沿いに出てすぐ、指定された喫茶店丸にし(まるにし)は見つかった。地元に根付いた古くからある店なのだろう、年季の入った店構えをしている。桐原は指定された時間の三十分前には到着して、先に店の中でインタビュー内容の最終チェックをしながら待っているつもりだった。

     店内に入ると、人当たりの良さそうな初老の男性がカウンター越しに微笑んでいる。

    「いらっしゃい」

    「一人です、後で合流します」

    「お好きな席へどうぞ」

     桐原は会釈し、店内を見渡した。

     テーブル席が六つ、カウンターには椅子が四脚、客は自分と、テーブル席に座る女性一人だった。なんだかテーブルに座るのが気をひけた桐原は、カウンターの端に座り、ホットコーヒーを注文した。

     リックサックの中からタブレットとメモ帳、そしてボイスレコーダーを取り出した。ちなみにこのメモ帳は、最近上の息子からプレゼントされたもので、桐原は大事に使っているため、ほぼ書き込んではいない。

    「はい、どうぞ」

     目の前にホットコーヒが運ばれてきた。

    「ありがとうございます」

     口をつけてすぐにその美味しさに気がついた。普段会社近くのコンビニで買うコーヒーに慣れているため、たまにこうやって本格的な店で飲むと、あらためてコーヒーの奥深さに気がつく。

    「おいしいです」

     思わず本音がこぼれる。

    「嬉しいね」

     店主は恥ずかしそうにハニかみながら言った。自宅の近くにあれば、間違いなく常連になるのに。通うにはあまりにも遠すぎる。桐原はコーヒーを楽しみながら、二回にわたる伊能へのインタビューをまとめることにした。

     実の父親に捨てられ逃げるように川崎に流れ着いた母子は、慎ましく生きていた。これはよくある話だ。そして当たり前のように非行に走る息子を母親はどう見ていたのだろうか? 彼の話では親子関係はうまくいっているようだった。幼い頃から夜も一人で過ごし、母親の帰りを待つ幼き伊能を想像する。

     ふと、その姿と我が子二人を重ね合わせた。

    途端に胸が苦しくなる。子供も寂しくて辛かっただろうが、母親も辛かったはずだ。資料用の伊能の写真を見つめる。そのどこにも相手を不快にさせるところはない。悪そうでもないし、陰気臭い眼差しでもない。

    しかし、瞳だけは別だ。その真っ黒な瞳はまるでブラックホールのように奥底が見えない。

    これはインタビュー中にも感じていたことだ。顔に無数の小さな傷があるものの、その辺の青年と何も変わらない、ハキハキと答える伊能だが、その瞳の深さだけが異様に目立っている。

    真っ黒なのだ。

    彼はなぜ——

     ふと、後ろに気配を感じた。

    「あの、桐原さんですか?」

     振り向くと、テーブル席に座っていた女性だった。

    「神田さんですか?」

    「はい」

     一人テーブルに座っていた女性、神田夏樹は丁寧に頭を下げた。

    「申し訳ありません、気が付かずに。ルポライターの桐原と申します」

    「いえ、まだ待ち合わせ時間よりも早いですから」

     桐原は慌ててカウンターに広げていたノートとタブレットを片付け、店主に断り神田のテーブル席へと移動した。

     向かい合ってあらためて神田を見つめる。

    これまで報道では一度も顔は出ていない、地味だが美人な部類に入る顔立ちだ。ただ、痩せすぎている。おそらく四十キロ以下なのではないだろうか。自分の体重を考えると、間違いなさそうだ。

     失礼な話、幸が薄そうな、どこか影のあるこの女性のどこに、あの伊能は惹かれたのか俄然気になってきた。

    「本当に使われるんですね、それ」

     神田がボイスレコーダーを指差した。

    「ええ。今はスマートフォンでも録音はできますけど、電話がかかってきたりしますから」

    「それでわかったんです」

     確かに。特定の職業でしか使わない。

    「インタビュー依頼を受けていただき感謝しております。ありがとうございます」

    「こちらこそ。遠くまですみません」

     念願のルポ企画が進み出したのは、神田夏樹のおかげだったと言っても過言ではない。桐原はノンフィクション新人賞を受賞した際、一番最初に神田夏樹の現在を調べたのだ。そして彼女は事件後、実家のある八王子に住んでいることがわかりコンタクトを取った。最初は神田の両親から取り次いでもらうことができなかったが、諦めることなく電話をかけ、四度目の電話で、初めて神田本人と話すことができたのだ。

     桐原は名乗り、すぐに自分の作品を郵送することにした。返事は気長に待つつもりだったが、一週間後には電話をもらうことができた。

     結果はオッケー。神田が受けてくれたことにより、一気に企画は現実味を帯びることになる。

    「改めましてよろしくお願いします。インタビューを始めさせていただきます」

    「はい、わかりました」

    「はじめにしつこく連絡した身分で恐縮なのですが、なぜ今回依頼を引き受けていただけたんでしょうか? これまでにたくさんのマスコミから依頼が来たと思います。その中でなぜでしょう?」

     神田は少し考え、口を開いた。

    「本が素晴らしかったからです。私見の中にも配慮があり、だからと言ってお茶を濁すような内容でもないし。あとは桐原さんが女性だったからです。そこでまずは安心しました。あとは、自分の中でやり残したことがあって、桐原さんに力を貸して欲しくて」

    「それはどのような?」

    「答えになるかわかりませんが、彼を救うきっかけになりたいと思っています」

    「伊能さんを救う、ということですか?」

    「はい。もちろんやったことは消すことができません。罪を消したいというわけではないんです。彼がどういう人間だったか、それを世間に伝えたい。あまりにも酷い報道が続いたから」

     表情は変わらないが言葉尻は強い。

    「わかりました。その部分も含め、伊能勝治さんと知り合うことになったタイミング、もしよければそれに至るまでの神田さんの生い立ちなどを伺ってもいいですか?」

     伊能との二日間に一体何があったのか? 桐原はボイスレコーダーの録音ボタンを押す。

    「はい、わかりました。えっと、こんにちは——」

    1

    こんにちは、私の名前は神田夏樹です。

    もうすぐ三十三歳になります。生まれは東京の三鷹ですが、三歳の頃に家族で八王子へと引っ越しました。母が自宅でピアノ教室を開いていたので、私も必然的に母からクラシックピアノを習うようになりました。小学校の合唱コンクールでは、クラスでピアノを弾けるのは私だけだったので、いつも伴奏を任されました。誇らしげに眺める両親の顔を、今でもよく思い出します。

    成績も自分で言うのも恥ずかしいのですが上々で、周りが公立の学校へと進学する中、私立の中学校へと入学する事が決まりました。中流階級の家でしたが、母は迷う事なく受験への道を望み、両親が喜ぶならば、と頑張ってはいましたが、合格通知が届いた時の父の何とも言えない顔は、今でも忘れることができません。

    エスカレーター式の学校に入学した私は、中、高ではバスケ部に所属しました。六年間続けて、スモールフォワードでスタメンにも入りました。でも、高三の最後の試合、後輩の子にポジションを奪われた瞬間、私の中での高校部活は幕を閉じました。熱中していた事といえばそれくらいでしょうか? その他の細々とした思い出は、同窓会などで話題に出たときに都度思い出す程度の出来事です。

    その後人並みに勉強をして、世間では上位ランクと言われる都内の大学に入学することができました。「文武両道」をモットーにスポーツにも力を入れていた大学で、私は四年間を過ごしました。大学生活において印象的な出来事といえば、初めての恋愛でしょうか。それまで恋愛はテレビの中だけだったのですが、大学一年の夏、私にも彼氏ができました。

    同じ映画サークルに所属していた一つ年上の同級生。すらっとした体形に、あっさりとした顔、当時流行っていたアジアドラマの主人公に似ており、周りの友達からは羨ましがられたのを覚えています。私はその人と夜を過ごしました。あれは一緒に過ごした初めてのクリスマス、周りが済ませているからという理由で、求められた時は特に断りませんでした。

    そのまま続いたお付き合いは、大学三年の時に、突然終わりを迎えました。私だけが早々と就職が決まり、彼は何社受けても決まらない、その中で起きた劣等感みたいなものが、二人の恋愛に大きな溝を作りました。ちなみに本人から直接聞いたわけではありません、そう感じたのです。彼との付き合いは印象的な出来事のはずなのに、もはやいま、彼の顔をほぼ思い出せません。

    その後、私は地元の銀行へと入社する事になりました。特に就職活動もせず、あっという間に決まってしまった私に、周りの同級生からは羨望と妬みが半々で向けられた記憶があります。

    就職してからは毎日が忙しく、目まぐるしい日々が過ぎて行きました。まずは窓口、そのうちに時は過ぎ、気がつくとバックヤードでのより責任感のある仕事へと移動。合間に同期入社の後藤くんとの恋愛。仕事と恋愛で時間を過ごすうちに、あっという間に私は二十代も終わりを迎えようとしていました。毎日が同じ生活、私は実家通いだったので、週に一度後藤くんの家にお泊り。

    その時期の事です、突然プロポーズされたのは。後藤くんは、早くから出世を約束され、横浜の支店長のポストを提示された時点での、満を持してのタイミングでのプロポーズでした。

    おそらく世の女性からしたら最高のタイミングで、最高の相手からのプロポーズだったと思います。でも私は断りました。

    何故か?

    それは、言葉で説明するのはすごく難しいんです。代り映えのない毎日で、決められた人生を泳いでいる様な感覚の私は、不意に強烈な拒否反応に襲われたんです。実際、お断りする際、後藤くんも青天の霹靂だったのでしょう、しばらく固まっていたのを覚えています。

    「どうしてなんだ? 何か僕に問題がある?」

    後藤くんはなんとか言葉を振り絞り、冷静を努めて言いました。

    「ごめんなさい、今は結婚を考えられなくて」

    返した言葉はそれだけでした。何度聞かれても、何度説得されても、私の答えに変化がない事がわかると、彼はそのうち私から距離を取るようになりました。

    断っておきたいのは、彼が好きでした。人並みに一緒にいて、人並みに抱かれて、人並みな幸せは感じていました。別れるつもりはありませんでしたが、結局私たちの五年の恋愛は、誰にも相談しないまま自然と幕を閉じました。

    おかしいと思いますか? 私の判断。

    やっぱりおかしいのでしょうね、友人にも同じ事を言われましたし。プロポーズを受けなければもう一緒にはいられないと、そういう考え迄は至りませんでした。結婚、女性にとっては大事な事、私にとっては少しも価値を見出せないもの。

    その一件以降、私は銀行内で浮き始めました。

    「あんな素敵な人のプロポーズを断って」

    「他に男いるんじゃない?」

    様々な陰口を叩かれていたのを知っています。その陰口を叩いていたのは、ほとんどが普通にランチを食べていた同期の子たちでした。一緒に旅行にも行った事のある、親しいと感じていた子たちが陰口を囁いている事は、同じ職場であれば嫌でも耳に入ります。

    プロポーズを断った事、私は銀行の誰にも話していません。という事は、後藤くんが自ら話したんだと思います。どういうつもりなのかはわかりません。いまとなってはどうでも良い事なのですが、当時はとても傷つきました。

    プロポーズを断る事がそんなに行けない事なんでしょうか? 挙句、私を貶めるような立場にして、彼は満足だったんでしょうか? 一緒にいた年月、全てを否定してしまうような酷い事をしてしまったのでしょうか? 結婚が何かのゴールなのであれば、そのゴールに辿り着きたいとは私には思えない。それ以降、社内の人間とは一定の距離を置く事にしました。

    人並み、平凡、ありきたり。

    私の人生にぴったりと寄り添うこの言葉たち。私を表す記号のような言葉。そこに少しの歪みが加わると、その人間は変わり者だと扱われます。同じブランドの服、同じ雑誌の話、そして恋話。全てが苦痛の時間でした、そして何よりも、そういう世界に溶け込んで生きている自分が一番滑稽だったのかもしれません。

    そんな若干の波風が立ちながらも、ごく普通の人生を歩んでいました。

    半年前の冬まで。

    会社での年末に行われた健康診断で、私は再検査の診断が下されました。もともと立ちくらみの多かった私は、低血圧な部分が問題になったのかとも思いましたが、それならば、これまでの健康診断で引っかかるはずです。私は嫌な予感がしました、虫の知らせというものだと思います。

    再検査で訪れた病院で、胃ガンだと診断されました。

    しかも進行が早いらしく、すぐにでも入院が必要と言われました。

    「あの、早期発見の部類なんでしょうか? 治る見込みは?」

    私の問いに先生は五分五分だと答えたんです。

    「何故ここまで進行に気が付かなかったのか?」

    わかりません。

    「体に予兆はなかったのか?」

    わかりません。

    「何故?」

    わかりません。

    本当にわからないんです。医者の問いは、まるで発見してしまった自分を弁護するような、そんな雰囲気でした。

    あなたならどうしますか?

    やはりすぐにでも入院しますか? まあ、そうかもしれませんね。でも、私は入院をお断りしました。ただ、病気の進行具合は知っておきたかったので、通院はする事にしたんです。  

    何故って? 何度も言うようにわかりません。プロポーズの時もそうでしたが、厳密な答えはわかりません。ですが入院しない事に決めたのです。病院の先生からは、すぐにでも家族と話し合いを、とも言われましたが、私は父にも母にもこの事は伏せました、当時は。

    生きている事が嫌だったのか? そうではありません。

    いままで一度だって人生に悲観した事もなければ、自殺を考えた事もありません。家族にも不満を持った事は一度もないですし、普通とはいえ、苦労のない人生をここまで送ってきたとも思います。

    不満、口に出してみると、そもそも不満というものと向き合って来なかったのかも。恵まれた環境で、金銭にも困らず、良い学校に行き、素敵な男性とお付き合いする。不満を口に出したら、みんなはどう思うでしょう? きっと贅沢だと怒られますね。

    何も波風立たない人生の中で、不満を持つ事なんてたぶん許されないのでしょう。

    たった一つだけ、私の中でずっと引っ掛かっているものがあるんです。それは、何故生まれてきたのか? という事です。別にこれは哲学的な話でもなんでもありません。単純に昔から思っていた事なんです。これまでに夢を持った事も、何かに向けて努力した事もありません。普通に生きて、普通に勉強し、普通に恋愛して、普通に働いてきました。ただ流されるままに。そして今があります。そして普通に病気になりました。

    お酒もタバコもやらず、違法薬物なんて持っての他、暴力を振るわれた事もなければ、振るった事ももちろんありません。警察のご厄介になる事なんて、夢のまた夢だし、誰かを陥れたこともありません。ただ、普通に。神のご意思なのでしょうか? あいにく私には信仰心すらありません。

    病気はあっという間に進行していきました。私は職場に迷惑をかけるのは申し訳ないと思い、退職願を出しました。課長には何度も引き止められました。裏では陰口を叩いていた同僚も、プロポーズを断った後藤くんも、私を必死で止めてきました。病気の事を話さずに退職願を出した私も悪いのですが、今更おかしいですよね? 思わずみんなの前で笑ってしまいました。そして、お世話になりました。と短い感謝を述べました。

    それから、後輩に仕事を引き継ぎ、問題なく退職できるまで約二ヶ月を要しました。

    気が付けば最終日、みんなはお花をたくさんくれました。まるで今生の別れのように。そしてこの後送別会を用意しているとも言われました。私はそこで短い感謝を述べ、お酒の席を丁寧にお断りしました。みんなのあの時の顔は死んでも忘れられません。一体何が不満なんだ? と課長がいいました。だから答えました。

    「何も」

    と。

    それからは貯金を切り崩しながら病院に通いました。

    父と母は唐突な退社に、驚きと落胆を見せました。理由を問われた際は、転職を考えているという事だけを伝えました。以降、家庭内でも距離を置くようになった私は、ゆっくりと死への準備を始める事にしました。何のために生まれてきたのか? 大それたテーマのようですが、結局何のためにも生まれていないのです。だから、終わりを告げるなら、取り乱すことはなく、時間の流れと共にと思うようになりました。

    通う度に、病院から貰う薬が強くなっていき、もはや強めの痛み止めと胃薬しかもらえなくなったのは、会社を辞めて半年の事でした。一度おなかに痛みを感じると、しばらく動くことができません。今まで感じた事のない冷たい汗が、額と背中を流れていきます。いつ襲ってくるかもわかりません。それでも入院する事を拒絶しました。生きたいと思えない自分が不思議でもありました。

    そんな日々が幾分か過ぎたころ、ある晴れた日、私は携帯電話とお財布、あと薬をお気に入りのバッグに入れ、部屋のゴミを片付け、自宅を出ました。唐突に、と言う表現が一番合っていると思います。何の計画もなく、ただふらっと唐突に。

    その日は雲一つない晴天で、自分でもびっくりする位、心が弾みました。どこに向かうつもりだったのか? いえ、どこに向かうかは特に決めていませんでした。

    私の唯一の贅沢品、新車で買ったミニクーパーで走っていると、気持ちはとても軽やかで、我ながら病気なんてかかってないのでは? と思うほどでした。出発前にスマートフォンをカーステレオ用のケーブルを刺し、お気に入りのプレイリストをかけました。

    自分が今、本当の自由を噛みしめている事に興奮しました。あまり普段感情が表に出ないタイプなんです。なのに思わず口ずさんじゃったりして。死ぬならこんな気分で死にたい。そう思えたんです。

    ずっと息苦しかったのかもしれない、自分の意思のない人生が。窮屈な場所を抜け出し、蝶々のように自由に世界を飛び回りたかったのかもしれない。そんな気持ちを持っていた事さえ、私は気が付きませんでした。

    ここで改めて断っておきたいのは、自殺願望があるわけではなかったという事です。そんなつもりは少しもありませんでした。でも、心のどこかでこの在っても無くても構わない人生に、終わりを告げたかったのかもしれません。自分の意思とは関係なく、足はアクセルを徐々に踏み込みました。

    弾むように、心軽やかに。

    信号が赤になったような気がします。

    それでも、アクセルを踏む足を離しませんでした。何故なのか? 説明できるのであれば、お伝えしたい位です。よく躁うつ病の方が、衝動的に死を選ぶというのは知っています。ですが、そういった苦しみは、覚えている限りまったく味わった事がありません。自分の意志によって、迷う事なく、信号を無視して路地から国道沿いへ飛び出した時、ほんの一瞬、綺麗な羽が生えた感覚に襲われました。

    ああ、このままこの時の流れの中、静かに飛んでいたいって思うくらい、素敵な一瞬でした。

    その時、右耳を切り裂くようなクラクションが響いたんです。鼓膜を裂かれるような感覚でした。

    その瞬間、我に返った私は思い切りブレーキを踏んだんです。

    ミニクーパーは車体を揺らしていたと思います。わかりません、目を瞑っていたので。

    ああ、人生のゴールなんだ。

    目を瞑りながら冷静に思ったのを覚えています。

    しかし、その後、来るはずの衝撃が何時まで経っても訪れる事はなく、代わりに今度は左耳の方に衝撃音が鳴り響きました。

    目を開けて音の方に視線を向けると、私の止まった場所から十メートルも離れていない路肩のガードレールに、バスが正面から突っ込んでいたんです。

    どれくらいだろう? 五秒? 十秒? 放心していたと思います。

    ああいう時は何もリアクションを取る事ができなくなるんですね、人生で間違いなく一番ショッキングなシーンでした。ぐしゃぐしゃになったガードレール、バスのフロントの部分から煙が立ち込め、まるで映画のようなシチュエーション、行き交う車は減速しながら通り過ぎます。歩行者は誰もいなくて、見ているのは私一人。夢遊病者のように車を降り、バスへと近づいて行きました。

    その時。

    煙を拭いているそのバスの助手席のドアが勢いよく開いたんです。と同時に、そこから坊主頭の少年が飛び出すように転がってきました。

    ほら、例えば街中で人が倒れていて、すぐに駆け寄る聖人のような人たちがいるでしょう? 迷うことなく一直線に。あれくらいの強さがあればよかったんですが、実際は言葉一言でさえ発する事はできませんでした。

    その時、少年は周りを見渡し、私を見つけました。目が合った瞬間に金縛りが解けたみたいに車を降りて近寄ったんです。すると彼はすぐに申し訳なさそうな笑顔を見せ、そして一言言いました。

    「大丈夫?」

    と。

    人間、予想しない事が立て続けに起きると、パニックを越して動けなくなるんですね、その言葉の返事さえ、うまくできませんでした。それに護送車くらい見ればわかります。その中から上下同じ色の洋服、私服ではないとわかる男性が飛び出してきたんです、間違いなく囚人だとわかります。

    でも、何故だか恐怖を感じませんでした。シチュエーションについていけない自分もいましたが、それ以上に、彼の笑顔を見たからなのか、本当に少しも恐怖を感じなかったんです。これを言ってしまうと、やっぱり頭がおかしいと思われるかもしれませんが、無垢な存在、子供のように思えました。今までの人生では感じたことのない母性が、自分の中に潜んでいることをその時に初めて知る事になりました。よりによって事故現場で。

    それが、伊能勝治くんとの出会いでした。

    それから私は半ば無理やり彼をミニクーパーに乗せ、その場を離れたんです。移動といっても車を走らせて十分ほどの、駐車場の大きなドラッグストアなんですけど。

    切り傷が目立っていたので、包帯などを購入して治療してあげたんです。

    「…へえ、ブラブラと」

    少年は手当を終わらせた私に言いました。

    「そう、特に用事は無かったんだけど」

    「でもさ、手当てまでしてもらってなんだけど、おれなんかに構わない方がいいよ」

    心から申し訳なさそうに頭を掻きました。体は大きく、頭は坊主頭。まるでキツネのような円らな瞳に、よく見ると顔に無数の小さな傷。でも、不思議と恐怖は芽生えません。それはバスから彼が飛び出して来た時からずっと。

    「いいの。事故は私のせいだし」

    私は目を合わせないようにして言いました。

    「家はこの辺?」

    「うん、ここから十分くらいの所」

    まるでナンパでもされているような会話。

    「あのさ、できれば警察に届けないでもらえると助かるんだけど」

    不意に、彼は申し訳なさそうに言いました。

    「いや、できればあと一時間は届けないでもらえると助かる」

    「そうね、届けないと思う」

    「マジで? 悪いね」

    大きな体を折り曲げ申し訳なさそうに頭を下げました。

    「聞いてもいい?」

    「何?」

    「このまま逃げるの?」

    「まあ、そうなるよね。北海道にちょっと用事があるんだ、羅臼ってところ」

    言いながら彼は着ていた囚人服のジャンパーを脱ぎました。

    「羅臼?」

    「うん。刑期が終えたら行こうと思っていたんだけど、思わぬラッキーが転がってきたからさ」

    「ごめんなさい」

    「なんで謝るのさ? マジ助かったよ」

    「でも、私が飛び出さなかったら、あなたはそのまま服役して刑期を満了していたはずよね」

    自分のした事の大きさに胸が締め付けられました。あの時、突発的に全てを終わらせたくなった私のせいで。

    「いや、どうかな。待てなかったような気もする。少年院から裁判所へ輸送されてたんだよね、おれ。で、恐らく刑務所にそのままって感じだったと思う」

    彼は淡々と答えてくれました。不思議と出会った瞬間から、彼に好意を感じています。何故なのか、この時はわからなかったんです。

    「じゃああなた、未成年?」

    「十九。再来月に二十になる。だからそのままエスカレーターってやつ」

    「何をしたの?」

    「うーん、まあ色々。あ、別にアンタに何かするつもりはないからさ、心配しないで」

    そう言いながら笑っています。

    「不思議と大丈夫、あなたを怖いとは思わないみたい。もっとも犯罪者の方とお話する

    のは初めてだから、何とも言えないけど」

    「そりゃあよかった。あのさ、もう一つだけお願いがあるんだけど」

    彼はまたもや申し訳なさそうに言いました。言葉にもトゲがなく、とてもこれから刑務所に入るような少年には見えません。

    「何?」

    「少しでいいから、お金を貸して欲しいんだ。いや、もう返す事はできないから、貰えないかな?」

    その申し訳なさそうな顔に、私は思わず笑ってしまいました。

    「逃走費用?」

    「いや、とりあえず着替え買いたくて。この格好いかにもじゃない?」

    恨めしそうに灰色の作業着を引っ張っています。

    「そうね、目立つかも」

    「でしょ? だからその辺で買おうかと思って。もちろん返せそうなら返すし」

    「いいわよ、どうせ返せないと思うし」

    私が言うと困った顔になりました。

    「そうだよな、脱走犯に住所なんて教えたくないよな」

    「違うの、こっちの都合。たぶん受け取れないから」

    その言葉に彼は首を傾げました。そう、多分私は返済を受ける事はできないでしょう。

    「それで、あなたはどうやって羅臼へ?」

    「そうだな、とりあえず車を手に入れて、そのあとはまあ色々と」

    「それって盗むって事?」

    「まあ、そうかな」

    「ダメよ!」

    ふいに大きな声が出てしまった私に、彼は驚きました。自分でも声の大きさに驚いた程です。

    「いや、でもそれしか方法ねえしさ。電車ってわけにも行かねえし」

    「ダメよ」

    譲りませんでした。

    「ダメって言われたって。このザマだぜ? 携帯も財布も持ってねえし」

    「あなたはどうして羅臼に行くの? 逃走なら北海道じゃなくてもいいんじゃない?」

    正直に思っている事を伝えました、彼の事を知っていたらしない質問だったと思いま

    す。

    「いや、羅臼に用事があるんだ。それが終われば捕まろうがどうにでもなれだよ」

    「何があるの?」

    私は食い下がります、とても気になったから。

    「いや、アンタには関係ねえだろう。助けてもらったのは感謝してるけどさ、ここから先はおれの問題だ。大体…」

    「私ね」

    彼の言葉を遮りました。自分だけ聞いといて、フェアじゃないって思ったんです。

    「病気なの。しかも多分長くないの。いつ死んでもおかしくないんじゃないかな」

    思わぬ言葉に彼は言葉を飲みこんでいます。

    「家にいるのが何だが辛くて。気づくと突発的に家を出て、知らないうちに国道に飛び出してた。そしたら、あなたが追突したバスから飛び出して来たでしょ? あの時、正直ドキドキしたの」

    私は笑っていたと思います。

    「そしてあなたの話を聞いていたら、私も一つだけ行きたかった場所を思い出した。それが網走」

    急に思い出したんです、行きたい場所を。

    「網走って刑務所あるところじゃん。面会行くの?」

    「ううん、違うよ。おばあちゃんがいるの。もう何年も会ってなくて。それにとても居心地が良くてね。近くに海があるんだけど、うっすらと氷が浮いてたりして。あなたの話を聞いて、もう一度その景色を見たくなっちゃった」

    彼は黙って聞いていました。

    「ねえ、名前聞いてもいい?」

    「伊能勝治」

    「私は神田夏樹です。ねえ、わたしも北海道連れて行ってくれない?」

    その言葉に呆気を取られたようでした。

    「…は?」

    「だから、一緒に行こうよ、北海道」

    「マジ?」

    呆気にとられたままです。当たり前の反応。

    「うん。私が旅費と車、必要なお金出すわ。その代わり盗みとかはやめてね?」

    「正気かよ? おれがどんな人間かもわからないのによく言うな?」

    必死に止めようとする彼を見ていると、何だか可愛く見えてきました。一人っ子の私にもし弟がいたら、もう少し何かが違ったかもしれない。

    「いいよ、大丈夫。あなたは目的を達成しに。私は人生を閉じに北海道に行くの。私の最期の数日間、刺激的でいたい」

    「いや、そんな死ぬとは限らねえじゃん」

    「ううん、死ぬの。最後は自分で決めたいから」

    彼は押し黙りました。しばらく何かを考えるような時間があって、不意に笑いだしたんです。

    「本当にいいんだな?」

    目の前にいる女の気が知れなかったのでしょう。逆の立場なら、私もきっと戸惑ったはず。

    「だから、ここから先は悪い事はしばらくやめてほしいの。一緒の間はそういうのは見たくないな。死んだら後は知らない」

    はっきりと言いました。間違いなく先に死ぬのは私だから。

    「変な人だなあアンタ……、よし! わかった。じゃあそうしよう。お互い変なモン同士で」

    彼はそう言うと、無邪気に笑い出しました。その姿を見て何だか私も可笑しくなりました。護送バスが追突してからそう離れていない場所、急いで移動した国道沿いのドラッグストアの駐車場で、死の準備に入った女と、脱走したばかりの少年。

    もしかして神様っているのかしら? そう感じたんです、それくらい唐突で劇的でした。私たちの出会いは。

    インタビュー R3・7・29 神田夏樹

    「神田さん、大丈夫ですか? 少し休憩しましょう」

     桐原はボイスレコーダーが回っていることを確認しながら、一息つくことにした。

    「わかりました。すみません、コーヒーおかわりいいですか?」

     一息ついた神田は、気楽な感じでマスターに声をかけた。おそらくこの店は彼女に行きつけなのだろう。店主は特に返事も返さず、湯気のたったコーヒーポットから出来立てのコーヒをカップに注いだ。

    「生きることに興味がなかった、というわけではなかったんですよね?」

    「ええ、本当に深くは考えていなかったんです。ただ、生きる目標はありませんでした」

     目標なんて考えたこともなかった。マスコミ業界に就職したいという夢はあったが、自分がなぜ生きているのか、そんな事は気にしたこともない。桐原にとって生まれたことは当たり前の出来事だった。

    「考えたこともありませんでした。普通に暮らして、普通に仕事をして。神田さんは夢のようなものはなかったんですか?」

    「夢ですか? そうですね…小さい頃はピアニストになりたかったんですが、高校に上がる前には諦めていたと思います。自分にそんな才能があるとは思えませんでしたし、情熱もありませんでした。お話ししたように母がピアノを教えていたので、なんとなく鍵盤に触れていただけだったんです。夢はそれくらいでしょうか」

    「でも、一流企業に就職されたんですよね」

     報道が出た際、就職先の誰もが知っている銀行名、高校の卒業アルバムの写真などプライベートに関わる情報が全てネットに流れていた。

    「特に金融関係を考えていたわけではないんですが、私の人生は本当になんとなく、そつなく進んでいただけなんです。でもあの事件以降全てが変わりました」

    「伊能さんとの出会いですか?」

    「ええ」

     普通に生きてきた普通の女と、何人も殺すような男に接点などもあるはずがない。

    「バスから飛び出してきた、とおっしゃいましたが、やはり恐怖を覚えましたか?」

    「いえ。でも驚きました。本当に」

     神田は答えながら楽しそうに笑い出した。

    「どうされましたか?」

    「いえ、冷静に考えると犯罪者が飛び出してきたわけですから怖いですよね。でも、本当に少しも怖くなかったんです。体も大きいし、顔も決して可愛いわけでもないですから、本当は怖いはずなんですけどね、不思議」

     桐原は気づいたことがあった。嬉しそうに話すこの顔は、まるで家族の話をしているみたいだ。インタビューでも答えたように、弟として見ていたのだろうか? それにしても彼女と伊能が一緒にいた時間を考えると、どうしても理解ができない。あまりにも違いすぎる二人なのだ。

    「神田さんが北海道行きを提案されたのは、気まぐれに近い心情だったんでしょうか」

    「いま思えば…彼について行きたかったんだと思います。理解してもらえませんよね? 離れたくなかったんです」

    「正直、理解し難いとしか言いようがありません。私も女なので想像して見たのですが、明らかに犯罪者とわかる人間と、出会ったばかりなのに旅を共にするというのは…」

     桐原は正直に答えることにした。単純に怖いし、何よりも脅されているわけでもないのに行動を共にする理由がないのだ。

    「その通りです。でも私は彼と一緒に過ごすことを選びました。勝治くんも嫌がらなかったし。最初は逆に向こうが怖がっていましたけど」

     楽しそうに神田は笑っている。痩せすぎている頬の皮が痛々しく突っ張っていた。

    「勝治くん、と呼ばれているんですね」

    「はい、いつの間にか」

    「失礼ですが、あなたの彼に対する感情というのは、愛情で間違いないですか? 同情ではなく」

    「間違いなく愛情です」

     迷うことなく断言した。

    「それは男としてでしょうか? それとも弟として?」

    「弟として、男として、人間として、全てです。理解することが難しいでしょう? 私自身も説明ができないんですから」

    「話を聞いていて思ったんですが、それは一目惚れではないですか?」

     そんな事があるのだろうか? 年下の犯罪者に。

    「なるほど、そうかもしれませんね。十歳以上も違うのに。男女逆なら世間的に気持ち悪いって話になりますかね」

    「そんな事はありませんよ、ただあまりにも私自身の中にない感情なので、まだ理解ができないんです。インタビューしておいて申し訳ないのですが」

    「気にしないでください。実際彼と旅をして、その気持ちは強くなりましたから」

     桐原は伊能の顔を思い浮かべた。一体彼のどこに神田は引かれたのだろうか。それが女としてなのか、人間としてなのか、まだ本心が解りかねている。しかし二人のインタビューは順を追って行くことを決めている。答えは必ず聞けるはずだ。

    「では、引き続き——」

    「夏樹ちゃん、具合は?」

     不意に喫茶店の店主が口を挟んできた。

    「ありがとう、もう少し大丈夫よ」

     神田はにこやかに答えている、が、桐原は思い出した。彼女に無理をさせてはいけない。

    「申し訳ありません、気が回りませんでした。今日はここまでにしましょう。また日を改めてお願いできませんか?」

    「ごめんなさい、気を使わせて。次は私が会社の近くに伺いますので」

     申し訳なさそうにする神田の後ろで、店主が私に頭を下げていた。

    「いえ、お気になさらず。また改めまして伺います。その時に続きをお聞かせください」

    「わかりました」

     次回のインタビュー日程を決め、桐原は神田と店主にあらためて礼を伝え店から出た。このノンフィクション作品を書き上げるにあたって焦らない事を最初に決めていた。これまで誰もが伊能と神田にインタビューを求め断られてきた。

     桐原は大きなチャンスを掴んでいる。このチャンスを必ず掴み作品を成功させるつもりだ。この事件はただの大量殺人事件ではない、ずっと感じてきたその思いは間違いではないとあらためて今日感じる事ができた。

    必ず裏側に潜む真実を知り、世間に伝えよう。

    八王子の駅に向かいながら桐原はあらためて気合を入れ直した。

    インタビュー R3・8・11 伊能勝治

    「暑ぃ…」

     府中刑務所面会室。

    二週間ぶりに会った伊能はさらに痩せていた。いや、やつれていた。思わず彼の食生活が心配になる。

    「体調は大丈夫ですか? 何か差し入れしてあげたいんだけど」

    「ありがとう。桐原さんは今年もうスイカ食べた?」

    「スイカはまだですね、子供たちは食べたいって言ってたけど」

     そういえば、昨日の夜そんな話を長男が言っていた。今の子供たちも、夏の代名詞の一つはスイカを食べることなのだ。

    「食べたいなスイカ。たまに出るんだけどさ、パサパサのやつ。もうちょっと瑞々しいやつも食べたいんだけどさ。贅沢言えないんだけど」

    「聞いてるこっちが辛くなりますね…」

    「まあでも、言ったところでどうにもならないんだけどね」

     現在まだ裁判中で結果は出ていない。運が良くても無期懲役、最悪は死刑だ。

    「今日は神田さんとの出会いから教えてくれますか?」

    「うん、あれから色々話すことを纏めといた、前よりはテンポ良く話せると思う」

    「ありがとう。そんなに協力的に接してくれるとは思いませんでした。今までずっと断っていたのに」

    「タイミングだよ。それに話しやすいし。ちゃんと話を曲げず本を書いてくれること信じてるから」

     伊能の顔は笑っている。だが、桐原は気がついた。今の言葉は自分に釘を刺したのだと。妙な方向に進めたら承知しないと言っているのだ。

    「もちろん。私はこの事件を取り上げることが夢だったんです。そして自分の名前が売れたタイミングでチャンスを掴んだ。絶対に良いものを作ります」

    「話題になればいいね」

    「間違いなく話題になりますよ。絶対にあなたの心情をちゃんと世間に伝えるから」

     これは本心だ。桐原の持つジャーナリズムが、この青年の言葉を外に出さなければならないという使命感を覚えている。

    「ルポライターってどうやってなるの?」

    「え? そうですね、作品をかいて、出版社に持ち込んだり、賞に応募したり」

    「桐原さんは?」

    「持ち込みでした」

     ふと、アルバイト時代のことを思い出した。いまの姿は想像できないだろう。

    「ごめん、インタビューね。じゃあ時間もないから話すよ、録音して」

    「うん、よろしくお願いします」

     桐原は苦笑しながらボイスレコーダーの録音ボタンを押した。さりげなくこちらに気を使ってくれているのがわかる。

    「出会いからか。えっと、車から飛び出して、夏樹さんと会ったわけだけど——」

    2

    変な女だ。

    それが最初に思った事。

    普通脱走犯と旅がしたいって思うか? おれは嫌だよ絶対。

    でも、親父への復讐の道を開いてくれた恩人でもある、それが夏樹さん。

    見た目は大人しめだけど、肩まで伸びた髪、化粧気のない顔、でもそこそこの美人だ。鼻が高くてさ、唇が少し厚め。目は少し細くて、鼻に小さな黒子があるんだ。

    彼女は車のエンジンをかけた。黒とオレンジのミニクーパー。大事に乗っているのが分かる、車内にはごみ一つ落ちちゃいない。

    しかし、よく見つからなかったと思ったよ。バスの事故現場から一キロメートルも離れていないドラッグストアの駐車場。でもまだパトカーの音は聴こえてこない。まあ、計画もクソもない出来事だ、あとは運で走り抜けるしかない。

    「いつ捕まるかわかんないからさ、高速で行けるところまで行こうよ」

    彼女は頷いた。

    「もし途中で捕まったらさ、おれに拉致られたって言いなよ」

    「そんなの嘘じゃない」

    「いや…そこはさ、あんたまで捕まる必要はないよ」

    「嘘は嫌なの」

    彼女は押し黙った。やっぱり変わってる。しかも我が強いと見た。

    車は神奈川を抜け首都高速へ。今のところ緊急配備は引かれていないが、時間の問題だろうな。とにかく早めに東京を抜けたかった。

    高速道路の下に、新宿の街が広がった頃、やっと彼女は口を開いた。

    「車で北海道行くなら、やっぱりフェリーかしら?」

    「そうだなあ、それか青森の先のトンネル、なんだっけ?」

    「青函トンネル?」

    「それ、でもやっぱりフェリーの方が楽かも、フェリーにしようか?」

    彼女は運転しながらスマートフォンで地図を検索しだした。

    「二十時間あれば着くみたい、ノンストップだけど」

    「余裕、なんせ一年半くらい体力を溜め込んできたからね、いつでも運転変わるよ。ノンストップで行こう」

    すると首を傾げた。

    「免許持ってるの?」

    「持ってないけど運転してたから平気。それに捕まってる間は規則正しくて、ジジババみたいな生活送ってきたから。体力有り余ってんの」

    彼女は車に乗ってからやっと笑ってくれた。

    「私なんかより、全然健全だね」

    「どうかな、大体健全ならあんな所入らねえと思うけどな」

    「何したの?」

    答えるべきか一瞬迷った。

    でもさ、内緒にする必要もないと思ったんだ。それに誰かに話したかったのかも。いや、この人に話したくなったんだ。

    「ニュースでやってなかった? 川崎の事件、未成年の事件」

    彼女はしばらく考え込んだが、わからなかったらしい。

    「人を殺したんだ」

    彼女は息を飲むのがわかった。

    「な? 言わんこっちゃないじゃん。だから、着いて来なくていいって」

    事実、この人を巻き込むのは気がひける。

    「それは自分で決めることよ」

    彼女は意を決したように答えた。

    「いや、だから、おれ人殺し。あんたも病気なら。もう少し落ちつける相手と一緒にいた方がいいって」

    車は無事首都高を抜け、埼玉三郷ジャンクションへと近づいていた。

    「そんな人いない、わたしには誰もいないの」

    「父ちゃん母ちゃんは?」

    「いる。でも、親と子供という関係なだけ」

    「大事な人じゃん」

    彼女は首を傾げた。

    「複雑なんだな。あんたも」

    「勝治くんのご両親は?」

    「母ちゃんは死んだ。親父はこれから会う」

    「お父さんに会いに行くんだ?」

    「まあ、そうだね」

    おれは包み隠ず話す事にした。長い道のりだしさ。

    「捨てられた。そのあとは母一人、子一人ってやつ。日本人が好きそうな話」

    なるべくソフトに話そうとした、が、彼女は納得しなかったらしい。

    「お母さんはお父さんを憎んでた?」

    「どうかな? 聞いたことねえけど」

    生まれて一度も親父の文句を母ちゃんから聞いたことはなかった。

    「あなたは憎んでる?」

    「もちろん、親父って言ってるけど、そう思った事は一度もないよ」

    実際そうだ。血縁上そういう関係なだけだ。

    「そんな人と会ってどうするの?」

    「多分、殺すと思う」

    多分じゃない。絶対だ。

    だが何故だか彼女にはそう言いたくなかった。

    「ダメよ、これ以上罪を重ねちゃうと、後戻りできない」

    彼女は運転中なのにおれの方を向いた。なんだかドキッとしたよ。

    「そうはいかないよ、それが旅の目的だもん。ほら! 前見て前」

    「他に道はないの?」

    「どうだろうな、会って決める。そうならないかもしれないじゃん」

    もう決まってる、とは言わない。話を切り上げたかったから。

    「そんなの悲しいよ」

    「アンタどうしてそんな構うのさ? この旅も変だけど、どうしてそんなに構ってくれるの? もしかして、タイプ?」

    「残念。弟みたいな歳でしょ? あなたとこうやって北海道まで行こうって思ったのは、わたしの最後を少しでもドラマチックにしたかったの。このまま何もなくただ死んで行くよりも、最後に何かを感じて死んでいきたいの。あなたを理解してみたい」

    彼女は視線を前に戻した。

    「感謝してる。おれに機会を与えてくれた恩人だ。まるで蝶々のようにバスの前に飛んできてくれた。だから自由になれた。よかったら一緒に行きたい」

    我ながら詩的な表現だ、その道に進めばよかったかな。でも、口に出して思い出したんだ。突然おれの前に飛んできた、まるで子供の頃に見たあの蝶々みたいだって。

    「蝶々?」

    彼女は表情を変えずに呟いた。

    「ヒラヒラっとさ、空を飛んでる感じ」

    「こんな地味な蝶々いるかな?」

    「そう? おれはタイプじゃなくもないよ?」

    本音だ。実はマジだ。あんまり無いんだけどね、こんな気持ちになる事。

    「蝶々か、じゃあ地味なところ紋白蝶あたりで納得しようかな」

    彼女はやっと笑ってくれた。

    「紋白蝶ってどんなんだっけ?」

    「白黒。地味なの、私みたいなの」

    彼女はまた無言で運転しだした。車は茨城の守谷を抜けたところだ。紋白蝶、どんな模様だったっけ?


    車は覆面パトカーに停められることもなく、気がつくともうすぐ仙台へ入るところだった。こうやって夏樹さんのおかげで親父に復讐する事ができるが、本当は裁判所から直で刑務所だっただろう。

    もう一つ。

    考えないようにしていた事がある。と言うよりも、叶えられない夢は見ないようにしていた。だけど、こうやって自由の身になった以上は見過ごせない事があった。

    マツのこと。殺されたのだ、円組のゴミどもに。

    アイツの仇も取ってあげたいと思っている。贅沢かもしれないが、絶対に叶えないといけない。

    「牛タン食べていく?」

    おれは運転しながら夏樹さんに提案した。

    「やめときなさいよ、捕まるわよ」

    彼女はそう返しながらも、弾力のある美味しそうな牛タンを頭によぎらせているようで、小さくお腹が鳴ったのを聞き逃さなかった。

    「サービスエリアに弁当みたいなもんないかな?」

    「お弁当あるんじゃない? でも、本気?」

    「本気、ちょっと寄ってもいい?」

    返事も待たずに車を高速道路の左車線へと入る。

    「仕方ないわね、じゃあ買ってくるから車の中にいてね?」

    「うん、悪いね」

    車は仙台を少し超えた、泉パーキングへと入った。

    「じゃあ買ってくるね」

    「あ、夏樹さん、ちょっとお金貸してくれない? 一箇所だけ電話したい所あるんだ。」

    我ながら情けない。でもなぜだか楽に甘える事ができる。姉ちゃんってこんな感じなのかな。

    「私の電話でよければ貸すわよ?」

    携帯電話を取り出しながら言ってきたので、おれは断った。彼女の所有物を汚す気がしたからだ。

    「大丈夫、迷惑かかるかも。そこに公衆電話あるからさ」

    「わかった、小銭渡しとくね」

    「申し訳ない、いただきます」

    平日のサービスエリアは空いていて、とても快適な環境だった。

    その中を夏樹さんは売店へと歩いていく。

    ふとまた思い出す、小さい頃、公園に毎日飛んできた蝶々。確か真っ白な羽に、シミのように黒色の斑点が散らばっていた、確かに決して派手ではないけど、透明感のある綺麗な蝶々だった。美しいデザインでもなければ、鮮やかな色味もない。おれはあの蝶々が大好きだった。

    車に鍵をかけ、もうほとんど見る事がなくなった緑の公衆電話に向かう。

    モワっとした熱気がこもる中、ありったけの小銭を入れ、面会に来た後輩が持ってきたスカした名刺、一生懸命入所中に隠し通した紙切れに書いてある番号にかけた。

    円都市開発、営業部長の斎藤。都市開発って何だよ、ふざけんなヤクザだろ。

    三度目のコール音のあと、電話を受ける音がした。

    「はい」

    「あー、伊能だけど」

    「…ああ、伊能か?」

    声に聞き覚えがある。あの偉そうな奴だ。門脇くんと話しているのを何度か見た事があった。

    「そう」

    「松山の話聞いたか?」

    電話の向こうの斎藤は、挨拶もなく短く答えた。

    「…てめえが殺ったの?」

    頭のどこかがピリッとした、一気に血圧が上がった証拠だ。

    「てめえ? 誰に言ってんだ。詫び入れに来ねえのか?」

    電話の向こうで複数の笑い声が聞こえる。

    「アイツに何した」

    「山に埋まってるぞ」

    斎藤は声色一つ変えずに答えた。

    「ふざけんなよ…てめえ」

    最初見た時から喋り方から佇まいまで嫌悪感しかない男だ。殺してしまった戸高といい、街のダニはロクなもんじゃない。

    「なんで殺されないといけねえんだ?」

    「馬鹿か? 戸高殺ったろうが。そりゃいいや、その後だよ問題は。戸高のシャブパクっただろ、お前ありゃいくらすると思ってんだ? おかげでうちは笑いもんだ。ガキに舐められたってな」

    電話の向こうでライターの火をつける音がした。

    シャブ?

    何だそりゃ。

    まったく記憶にない。

    結果、このシャブってのが面白い展開を作ってくれるけど、その話はまた後で。

    「ガキにやられる方に問題あるんじゃねえか?」

    声を殺しながら答えた。マツはどんな殺され方をしたんだろうか?

    「言うねえ、おもしれえ。で、どこいるんだお前」

    「その辺にはいねえよ」

    「なあ、松山どうなったか知りたいか?」

    斎藤は饒舌に喋り出した。

    「まずな、拉致って山の中まで運んだんだよ。お前らがやったみたいに後ろからひっぱたいてな。アイツ川崎の街中に居たんだよ。馬鹿だろ? 山の奥深くに着くまで、車のトランクの中で暴れてたな」

    その姿を想像した。考えたくもない姿が、頭にどんどん浮かんでくる。

    「それでな、トランクから下ろして、まず左腕を折ってやった。折ったあとは、限界まで引っ張ってやったよ。知ってるか? 意外と伸びるんだぜ腕って。骨が邪魔なんだなありゃあ」

    吐き気を覚えた、怒りでますます目がぼやける。

    「そこでアイツも心折れたんだろうな、だいぶん粋がっていたがな、そこまでだった。右腕を押さえつけ指も折ってやろうって思ったら、泣き叫んだよ。勘弁してくださーいってな、ごめんなさーいって」

    相変わらず電話の向こうの斎藤は笑っている。

    「てめえ、この——」

    「まあ聞けよ、でな、ここからが面白いんだぜ。アイツ泣きながら言ってたぞ? シャブ持って行ったのはお前だって。スンマセンスンマセン、てな。糞漏らしながらすんませんだと。あんま五月蝿いから右腕も同じことしてやった。次は左足、右足を折る頃には失神してな、その度に起こしてな、折ってやったよ。両手両足ぶらぶらでも命乞いするんだぜ? 人間って不思議だよなあ」

    斎藤は本気で感心しているようだった。

    「でよ、その頃にはおれも気が済んでたからよ、頭割って殺してやった。結局クスリも持ってねえしな」

    やっぱりコイツも殺さないといけない。

    「次はお前だ、逃げ回るのはいいけどよ、どこに行こうと必ず見つけるぞ? もしくはお前の周り、会社の人間、その辺から聞いてもいいんだけどよ、どうする?」

    おれは考えた。こいつら殺すにはどうすればいい?

    そこ十秒くらいの間、確実にコイツらを根こそぎ殺せるか、ひたすらに頭を捻った。

    そこで見た覚えもない、おれが持っていることになっているシャブのケースってヤツを使う事にしたんだ。

    「シャブ持ってるよ」

    「青森? ずいぶん移動したな」

    「金がねえからヒッチハイク。フェリーに乗るつもりだった。北海道に知り合いがいるから、こいつ買ってもらおうと思ってさ。…あのさ、返したら許してくれるか?」

     ビビったふりをする。殺されたくない、心底恐怖を感じた声をイメージした。

    「何だお前、助かりてえのか?」

    「…全部返すよ。すいませんでした。でも金がなくて。迎えに来てくれないっすか? 死にたくねえっす」

    斎藤は鼻を鳴らした。

    「他の奴ら向かわせるからな、そいつらとこっち戻って来い。な? 松山で気もすんでるからよ、お前の出方次第じゃまあ、殺さないでやるよ」

    「本当ですか、じゃあ八戸の苫小牧行きのフェリー乗り場に来てくれます?」

    斎藤が来ないのはきついが、関わった他の奴らは来るだろう。皆殺しにする方法をシミュレーションした。

    「手間かけさせやがって。その時にパクったケース用意しとけや」

     バカが、ガキに騙されやがって。

    「手元にあります。フェリー乗り場に朝五時でいいすか?」

    「逃げんなよテメエ」

    「わかってますよ」

    諦めたように答えてやると斎藤は喜んだ。単純なやつ。おれは電話を切った。

    体の中から震えがくる。

    マツの顔が頭に浮かび上がる。許さねえ。

    気がつくと涙が出ていた。今までこんなに悔しい思いをした事がない、おれは絶対に後悔させてやるって誓ったんだ、鼻水垂らして許してくれって言わせてやる、無様な醜態晒して死んでいけばいい。


    八戸についたおれ達は、夏樹さんの体調も考え駅近くのビジネスホテルに滞在する事にした。よくCMなどで宣伝している、全国どこの駅前にでもあるホテル、考えてみるとちゃんとした宿泊施設に泊まるのは生まれて初めてだった。

    「大丈夫かい?」

    チェックインを済ませ、エレベーターで宿泊先の五階へ向かう途中、彼女に聞いた。

    「うん、少し横になれば大丈夫だから」

    そう言う顔色は、真っ青を超えて真っ白だった。本人は隠しているが、恐らくかなり体調が悪いのだろう。

    おれはこの短い時間の中で、夏樹さんに何かしらの深い感情を感じていた。今までどこか、女ってものに距離を置いていた。苦手ってわけじゃないんだ、ただ、女と二人で時間を過ごす事が、何故だかとても無駄な時間って感じていた。だから、一通りの経験の中で、半年以上長続きする女はいなかった。でも、彼女には自分がバリアのようなものを張らなくてもよかった、一緒にいるのは少しも嫌じゃないんだ。

    五〇三号の部屋に入ると、シングルベッドが二つ、小さなテーブルとイス、殺風景な部屋だった。彼女に手前のベッドを譲り奥のベッドへと腰掛ける。

    感動した、こんなにフカフカなベッドも初めてだったんだよ。

    「なあ、本当に大丈夫? なんか買って来ようか?」

    彼女は首を軽く振った。

    「いいの、大丈夫。気を遣わせちゃって」

    「いや、別に。とりあえず横になりなよ」

    「うん、ごめんね」

    夏樹さんはベッドに横になる。おれは、何となく備え付けの冷蔵庫なんて開けてみた。

    「ねえ…君は彼女いないの?」

    「いや、いないよ、あんま興味なくてさ」

    「女の子に?」

    少し驚いた顔をした。

    「いや、いやいやいや、違うよ? そういう意味じゃなくてさ、面倒臭いんだ、男連中といた方が気楽なんだよ」

    「そういう意味か」

    彼女は笑った。その笑顔もあまり力を感じない。

    「夏樹さんは男いないの?」

    気を紛らわそうと話を振ってみた。

    「私もいないよ、面倒くさい」

    「なんだよ、同じじゃねえか」

    わざと大きな声を出してみた。

    「そうかもね。好きな子もいないの?」

    彼女の問いになんだか少しドキッとしたんだ。

    「いねえよ、脱走犯だぜ?」

    「それはたまたまじゃない」

    喋っていると気が紛れるのか、少しだけ顔に生気が戻った気がした。

    「ツレには女の事ばっかの奴もいたけどね。おれにはもっと楽しい事があったんだ。それにちょっと前に母ちゃんが死んでさ、そんな気分でもなかったんだ」

    口にして後悔した、いま話す事じゃないよな。しかしその言葉を聞き逃さなかったようだ。「それは辛いわね。無神経にごめんなさい」

    「いや、いいんだ。それにどのみち女作った所で、おれにはどうする事もできないしさ」

    誰だってわかる。人生どん詰まりって事くらい。

    「自首、はやっぱりしないんだよね?」

    「うん、それはいつでもできるしね」

    「そっか」

    彼女は口を閉じた。それ以上話す事はなかったんだ。

    妙な沈黙がどれくらい続いたか、時計はもう夜中の二時を指していた。

    「どこか行くの?」

    「ああ、ちょっと出てくるよ。この辺フラフラしてくるから遅くなると思うけど、先寝ててよ、変な事しないからさ」

    そう言うと、彼女は笑った。

    「子供に言われなくてもそうするわよ」

    その言葉に少し傷ついた。おれだって男なんだ。

    「北海道までは一緒なんだから、わかってる?」

    「わかってる、散歩だってば」

    返事しながらドアを開けた。

    その時、後ろから彼女が言ったんだ。

    「あまり遅くならないでね」

    母ちゃん以外に言われたのは初めてだった。その言葉に、おれは何故だか心が温かくなったんだ。

    部屋に出る前にこっそり彼女の財布から借りてきた千円札をコンビニで崩して、再び斎藤に電話した。

    「着いたのか?」

    耳を不愉快にさせるとぼけ声が聞こえてくる。

    「あと二時間位かかります、あんたらどこですか?」

    向こうで斎藤が笑った。

    「おれは行かねえっつたろう、若いのが数人向かってる」

    「フェリー乗り場の入り口辺りでいいすか? 見逃してくれますよね?」

    「ああ、まあ数発殴らせろ、それで終いだ」

    「わかったよ、本当にそれで終わりにしてください」

    電話を切った。白々しい嘘つきやがって、無事ですむなんて考えるバカはいないよな。

    朝方のフェリー乗り場はとても静かで、すぐ近くで波が防波堤にあたる音が心地良い。風が吹く度にいま自分の置かれている状況を忘れそうになっていた。考えてみると、海に遊びに来た事もない。普通の奴らはきっと、恋人同士で遊びに来たり、男同士でナンパしに来たりするんだろうな。青春ってやつ? おれ達にはそんな浮かれた時間は無かった。

    そんな事をぼんやり考えながら、待ち始めて数時間たった頃 、どうやら途中で寝てたみたいで、あたりはうっすら明るくなっていた。

    一台の車が、フェリー乗り場の駐車場へと入ってきた。

    おれは隠れているコンテナの脇から、目をこすりながら様子を見る。車の中から一人の男が出てきて、どこかへと電話して再び車の中へと戻った。前に街中で見た覚えがあった、間違いない、奴らだ。

    更に五分ほど経った頃、違う男が車から出て、暗がりの方へと歩きだした。おれは息を潜め、無数に並ぶコンテナ越しに人影を追いかける。

    そいつは使いっ走りで外に出されたらしく、空き缶を四本持って、少し離れた自動販売機に向かっているのがわかった。おれはコンテナからトラックの並ぶ駐車場へと入り、暗がりの中、身を潜めながら自販機に向かった。

    ノロノロ歩く使いっ走りより先に自販機の脇にたどり着き、息を殺す。

    遅れる事十五秒ほど、どこかで見た顔が自販機の光で照らされた。

    あの日、鉄パイプで頭を吹っ飛ばしたスチームスの一人だった。

    これで確定、お目当ての円組だ。そいつは几帳面に缶をゴミ箱へと捨て、小銭をジャラつかせながら自販機の前で悩んでいる。おれはゆっくり後ろへ回り込み、狙いをつけて一気に走り出す。足音に気がついたそいつが振り向くと同時に、相手の顔を殴り飛ばしてやった。

    シンと静まる誰もいないフェリー乗り場に、鈍いゴッという音が小さく響く。

    パシリはわけもわからないまま、小銭をばら撒き自販機にぶつかり転がった。

    すばやくそいつを自販機の後ろの暗がりへと引きずる。

    両手で抑えた手から血が溢れている。鼻が潰れたようだ、おれはその手を引き剥がした。

    「おい」

    優しく小さく声をかけた。しかしそいつは涙で前が見えないらしく、小さく呻いていた。ポケットを探ると、小銭、どこかのラブホの割引券、くしゃくしゃの飴玉の包装紙、知ってるラーメン屋の割引券 、そして小ぶりのバタフライナイフが出てきた。武器は現場で相手から奪う、これ鉄則ね。

    まだ朦朧としているパシリの頬を殴る。三度目に殴った時、そいつの目が光を浴び、そして大きく見開いた。

    「おい、声出すなよ」

    口を押さえ付けたまま。ナイフを振りかざす真似をする。

    「四人か?」

    小さく頷く。

    「斎藤におれを殺して来いって言われたのか?」

    大きく首を横に振った。

    「拉致って来いって事だな?」

    パシリは動かなかった。

    「動けねえか? じゃあ太もも刺したら喋れるか?」

    そう言うと、涙目になり大きく首を横に振った。

    「拉致れって言われたんだな?」

    諦めたのか、ゆっくりと頷く。

    「手を離すけどよ、でかい声を出したら刺す。嘘じゃねえのはわかるだろ?」

    小さく頷くのを確認して、相手の口から手を離した。

    「松山わかるよな? あいつ殺されたの、見てた?」

    「…見てた」

    パシリは怯えながら答えた。

    「おまえ、アイツになんかした?」

    慌てて首を振る。

    「やってねえ! やったのは円の人たちだ。俺らただやり返したいだけだったんだよ。でも、あの人たちのやり口見てて、俺は気持ち悪くなってずっと目をそらしてたんだ」

    「でも、いたんだよな?」

    おれは冷静に言った。腹のなかはもう煮えたぎっているが、まだ殺さない。

    「仕方ねえだろ、おまえらがシャブなんて盗むからこっちゃ仕方なくだ」

    「シャブなあ…。で、許してくれって言ってた? マツ」

    「ああ、最初は抵抗したが、斎藤さんが腕を折ったくらいからずっと謝ってた」

    「おれの事はなんか言ってた?」

    何を言われても、マツを嫌いになんてならねえけどな。

    「薬持ってんのは、おまえだって」

    「それだけ?」

    「たぶん、それ以上は叫ぶ声しか覚えてねえ」

    パシリは卑屈な笑い顔を浮かべた。

    「ざまあみろって思った?」

    そう言うと、その笑い顔を引っ込めた。

    「ねえ、ざまあみろって思った?」

    「いや」

    そいつは怯えだした。

    「なぁ。ざまあみろって思った?」

    おれは精一杯優しい顔をした。

    「だって、俺らあんなやられたからよ、そりゃあざまねえなって思ったよ。でも殺す事はないと思ったんだ」

    「まあでも、殺したんだろ?」

    「悪かったよ、おまえがここにいるの黙ってる。ていうか、このまま俺もここから逃げるよ。そもそもヤクザになんてなりたかねえんだ。あの街にいたら逃げたくても逃げれねえ。もう抜けるからよ」

    「逃げたらお前どうすんの?」

    「とりあえず、しばらくはこの辺で身を隠すわ。悪かったよ、許してくれよ、な?」

    おれは不意に悲しくなった。

    門脇くんはこんなヘラヘラした奴らにやられたんだ、それも大人数で。どんな顔してコイツは手を出していたんだろう? 今みたいにヘラヘラしていたんだろうか? あんなに頭の切れる人がこんなのに殺されたんだ。

    気がつくと、そいつの喉にナイフを突き立てていた。

    よく喋りやがるから。

    突然の事でワケがわからなくなったんだろう、笑いながらしばらく口をパクパクした。そして目を見開きおれを見た。恐怖が一気に襲ってきたようだ。

    「叫んでみろよ」

    目の前でそいつは一生懸命口を動かしている。

    「向こうでまたマツにいじめられてこい」

    おれはナイフを首から抜いた。鮮やかな赤い血が一気に首元から流れ出す。そいつは口をパクパクしていたが、それも徐々に収まった。

    ヘラヘラ死んだんだ、感謝しろよ。

    そいつの来ていたジャンバーを羽織り、殴った時に落ちたベースボールキャップを被った。散らばった小銭を集め、自動販売機で適当に缶コーヒーを買う。

    もうコソコソ隠れる必要もない、堂々とゆっくりと車へと近づいた。暗がりの中、フルスモークのハイエース。趣味悪いよな。夏樹さんのミニクーパーの可愛さを見せてやりたいぜ。

    ゆっくりと後部座席へと近づく、外からはフルスモークで中が見えない。ここで迷っても仕方がない、勢いよくドアを開け、素早く車内を見渡した。

    運転席に一人、助手席に一人、後部座席ではシートを倒した刈り上げのデブか横になりながらスマホを眺めていた。

    「おう、遅えぞおい」

    デブがスマホからこっちに目を向けた瞬間、勢い付けてナイフでそいつの首元を横に切り裂いた。

    パックリ開いた傷口から、どす黒い血が吹き出す。

    突然の事でわからないのか、デブは何かを言おうとしたが、言葉は出てこなかった。

    パクパクしている口元から前の席へと視線を戻す。

    同時に運転席のスキンヘッドの男が後ろを向いてきた。

    そのまま流れでスキンヘッドが動くより先に、首元めがけてナイフを突きつけたが、相手の反応の方が早く、ナイフは防御した相手の掌に刺さった。

    「痛っっ!」

    その声で助手席の男も後ろを向いた。どうやら寝ていたらしい。すかさず痛みで驚いている運転席の男を無視し、買ってきた缶コーヒーを、助手席の男の眼球めがけて振り下ろす。

    ムニュっ

    とした感触とともに爆発したように仰け反る。助手席の男はフロントガラスに後頭部を打ち付けた。

    「てめえ!」

    スキンヘッドが胸元から光る物体を出した。

    ナイフだ、やばい。

    おれは一旦車から転がるように飛び出した。そのままコンテナの方へと走る。後ろで勢いよく車のドアが開いた音が聞こえた。

    「おら、テメエ逃げんじゃねえ!」

    スキンヘッドは叫ぶ。逃げるよ馬鹿。

    「ただで済むと思ってんのかおい」

    「あんた、松山殺した時にいた?」

    隠れたコンテナの後ろから大きな声を出すと、向こうの動きが止まった。

    「なあ、あんたら、斎藤がマツに拷問してる時、何してた?」

    「ふざけんなよガキ、出てこいや!」

    違う声が聞こえた。どうやら助手席の男も復活したようだ。

    「聞いてんのはおれなんだけどさ」

    言いながら相手が見える場所まで動いた。一人は確認できた、手の甲を抑えている。一人が見当たらなくなった。

    「あのガキみたいになりたくねえだろうが、いまならまだ許してやるよ。どこだ、出てこい」

    小学生でもわかる嘘。怒らないから出て来なさいってな。

    「わかったよ、出ていくから。何もしないでくれ」

    ゆっくりとスキンヘッドの後ろへと回る。どこだ、もう一人がいない。

    「とにかく出てこいよ、な?」

    喋りながら、そいつはナイフを構えた。

    いやいや見えてるから。

    おれは走り出し、後ろから思い切り後頭部めがけて飛び蹴りした。

    派手に顔から地面へと突っ込み、スキンヘッドはピクリとも動かなくなる。

    そいつが落としたナイフを遠くへ蹴り、もう一度今度は後頭部めがけて踏みつけた。骨が折れたような嫌な感触がした。

    と同時に——

    背後に気配を感じる、振り向いた瞬間、助手席の男の拳が飛んできた。

    よけ切れず思い切り顎にくらい、地面へと叩きつけられた。

    そいつはそのまま無言で馬乗りになり、思い切りおれを殴りつけた。一人で四人はやっぱ無理か。行けるときは行けるんだけどなあ。

    「ガキが、イカれてんのかテメエ」

    叫びながらも手は止まらない。

    なんとか顔を防御しようも手を出すが、相手は慣れている、防御する隙間に拳は効率的に飛んできた。殴られると同時に、後頭部はアスファルトへバウンドする。あっという間に体の感覚がなくなった。

    「とんでもねえ事しやがって、シャブどこだ」

    こんな殴られたら言いたくても言えないって。

    「おい、コラァ、お? お?」

     衝撃が顔を襲う。鈍い音が耳を包む。おれは必死で意識を繋いだ。

    「お前の連れ、埋めたの俺だよ。タコみたいになってたぞ? 骨折れてよ。惨めに泣きながら死んでな。クソ漏らしてたから臭えしよ」

     動くか?

    「お前も埋めてやるよ、このクソが。全員殺しやがって」

     おれの体はまだ動くか?

    「どうすんだよこれ、全員車に乗せねえとまずいじゃねえか、畜生」

     不意に体を抑え込む力が弱くなった。どうやら周りを見渡しているようだ。

     動くか?

     動くか? おれ。

     顔面の感覚はない、でも右手は力が入る。その手にはまだナイフを握っていた。

    「てめえ、シャブどこだ。持ってきてるんだろうが」

     なんとか頷いた。

    「どこだよ」

     そもそも持ってねえよバカ。

     力を込めた。全ての意識を右手に持っていく、弾かれるように一気に体が動いた。

     ナイフが男の脇っ腹に突き刺さる。

    「っっっ」

     体に乗っかっていた体重がゼロになった。おれは思い切り声を張り上げながら立ち上がった。

    「あー、喉が痛え。クソがよ、何発も殴りやがって」

     足元では腹を抱えて男がうめいている。

    「マツがなんだって? タコがどうしたよ? 毎回複数できやがってよ、単品でこいよ」

     おれは血に染まった腹目がけて足を振り下ろした。

    「ちょ、やめっ、やめ」

     青白い顔で必死に手をバタバタと抵抗している。

    「やめねえよ、お前が埋めたんだろ? じゃあおれが今度は沈めてやるよ。な」

     血に染まったソイツの髪の毛を掴み引きずって歩いた。

     顔中が燃えるように熱い、あとは首が痺れている。後頭部にも熱さを感じ、触ると血で濡れていた。

    「あーあ、絶対コブできるじゃねえかよ」

    「病院連れてってくれ、悪かった、頼むよ」

     バタバタと抵抗する見苦しい男に腹が立ったおれは、今度は逆側の腹を刺した。

    「あっっっ、やめてやめてやめてやめて」

     見苦しく慌てている姿を見ると、こんな格好悪い終わりだけは嫌だなって思ったんだ。どうせ死ぬなら潔く死んだほうがいい。

    「よし、泳いでこい。お前が沈むまで眺めてやるよ。じゃあな」

     血だらけの男を抱え、海へと投げ込んだ。

     ——ドッボン

     朝焼けが登る中、飛沫が上がった。

     おれは堤防に腰掛け、男を眺める。

     助かろうと必死で泳ごうとしている姿が無様だ。門脇くんにしろ、マツにしろ、あんなに凄い男たちが、こんな惨めな腐れチンピラ、ヤクザに殺された。

     複数で襲い、相手の尊厳を壊し、惨めな死を押し付ける。

     絶対に許せないだろ? こんな生き物。

     バタバタと海面で足掻きながら、こっちに向かってくる。

    しかしその動きも徐々に緩やかになり、息継ぎする回数も少なくなり、そしてそのうち海面に顔を出さなくなった。

    誰もいない朝焼けの港、転がるスキンヘッドの死体、自販機前で喉が裂かれた雑魚、車で訳もわからず死んだデブに、たっぷり水を飲んだ沈んだヤクザ、そして顔面が変形したおれ。

    あとは誰だ? 斎藤と親父か? 

    他にマツを殺した時にいたやつはいるんだろうか? まあ聞けばいっか。根こそぎ殺してやる。

    おれは活躍してくれたナイフを海に投げ捨てた。

    強烈な痛みと共に鼻あたりが疼く、麻痺していた痛みがこれから襲ってくるだろう。考えるだけで憂鬱だ。ていうか、この顔を見せたら夏樹さんはどう思うかな。

    彼女には心配かけたくないんだけどなあ。

    インタビュー R3・8・11 伊能勝治

    「一気に喋っちゃったけど大丈夫?」

     桐原は返事することができなかった。

     余りにも凄惨な出来事を、事細かくテンポ良く、そしてわかりやすく話してくれたからだ。

     その描写は容易に想像でき、吐き気さえ及ぼした。

     目の前にいる青年に慣れすぎていたのだ。忘れてしまいそうになるが、伊能は九人を殺してここに収容されている。

    「大丈夫?」

    「…ええ、ごめんなさい。あまりにもリアルだったから」

    「こんなに細かい部分まで離さなくていい?」

    「ううん、むしろありがたいです。ただ、話の中の暴力の内容と、目の前にいる伊能さんが繋がらなくて」

     本音だ。とても喉元にナイフを刺すような人間には見えないからだ。

    「嘘じゃないよ、やった事は全部話してるし」

    「相手に対して同情したりはしないの?」

    「しない。したらこっちが殺られる。誰でもってわけじゃないよ? これでも一応線引きはしてる、ああいう連中は殺していいんだよ」

     伊能は全く不良らしくない、それが余計に恐怖を煽っている。彼の中にはとてつもなく獰猛な塊が渦巻いている。

    「殺した四人のうち、一人は暴力団の人間ではなく、同じ未成年だったことは? やはり門脇さんを殺されたことで躊躇はなかったですか?」

    「ない。なあ桐原さん、もしもアンタの大事な人が殺されて、やり返せるタイミングがあったらどうする? 例えば家族が殺されたら?」

    「どうだろう…考えたこともないから」

     桐原は想像した。もしも我が子が殺されたら、夫が殺されたとして、相手に復讐する機会が巡ってきたら。自分は一体どうするだろうか。

    「おれも考えたことはなかった。でも実際門脇くんやマツが殺された時に思ったんだ、殺してやるって」

    「亡くなられた松山さんとは、結局河川敷が最後だったんですか?」

    「今も後悔してるよ、一緒に移動すればよかった。間抜けすぎるよね、馬鹿だよ本当に」

    「やっぱり大事な人だったんですね」

     伊能は照れ臭そうに頷いた。

    「そりゃあ数少ない友達だったからね」

     伊能を受け入れてくれた、大事な存在。それを奪われたのだ。

     三十分という時間はとても短いもので、面会時間が少し過ぎたタイミングでお開きになった。次回二週間後の約束を交わし、桐原は府中刑務所を後にする。

    帰り、長男が通う保育園に迎えに行き、一緒に近所の商店街で夕飯の買い物を済ませる。今日は疲れてしまったので、惣菜屋の弁当を家族分購入することにした。

     夫は今日残業で遅くなるらしく、息子と娘と三人でキッチンテーブルを囲んだ。美味しそうにハンバーグ弁当を頬張る二人を眺めながら、伊能の事を思い出す。

    ——どうする? 家族が殺されたら。

     桐原にとって家族が全てだ。

    それは世間一般誰もが同じ気持ちだろう。それぞれの家族があって、それぞれの幸せがある。その尊い幸せがある日突然、関係のない人間に壊されたら? そして復讐できる瞬間があったら?

     自分はその人を殺すことができるだろうか?

     そこで桐原は結論に達した、自分もその相手を殺すだろうと。思わずバレずに確実に仕留める方法を想像していた。自分は女だから男よりも大変だろう、それでもやり方があるはずだ。

     もしもこの子たちが奪われたら、私はなんだってやる。

     殺意はこうやってきっかけさえあれば生まれるのだ。自分のような普通の主婦にでも想像できる言葉で、伊能は伝えてくれた。

    「お母さん、食べないの?」

     気が付くと、息子は自分のハンバーグを平らげ、物欲しそうに桐原の弁当を眺めていた。

    「半分あげよっか?」

     息子は嬉しそうに自分のフォークをハンバーグに近づけた。

     伊能勝治にとって門脇と松山は家族なのだ。そしてその大事な人間が殺されたから凶行を犯した。そして彼は一人になる、それはこれからもずっと続くのだ。

     いや、違う。

     神田夏樹が現れた。

     気づいているのだろうか? 彼はひとりぼっちではないことを。

    第三部 紋白蝶

    インタビュー撮影 R3・8・20 神田夏樹

     今日は晴天で、気温は高いが清々しい一日だ。

    天気が良くて本当によかった。できる限り彼女には良いコンディションで話してもらいたいと思っていたからだ。

    「気楽にお話ししてくださいね」

     神田の症状を考えると社交辞令にしかならない言葉だ、桐原は思った。

    今回も彼女の体調を考慮し、先日の喫茶丸にしに協力を仰ぎ、開店前の店内でインタビューを行うことになった。

    店主は店を貸す代わりに、彼女の気持ちを歪曲することなくちゃんと取材して欲しいと言った。聞けば家族ぐるみの長い付き合いらしく、事件以降、彼女を取り巻く環境に心を痛めていたそうだ。

    「はい、頑張ります」

     神田はにこやかに答えた。今日の彼女はうっすらメイクをしていて、同性の桐原から見てもとても綺麗だった。

    「インタビューの前に一つ確認をさせてください。神田さんのご希望通り、まだ伊能さんにはあなたと会っていることは話しておりません。彼に伝えたほうがいいのではないですか?」

     これは桐原自身のお願いでもあった。伊能の話を聞く度に、彼が抱く愛情を感じる度に、裏で神田にも話を聞いているという罪悪感を感じていたからだ。

    「いいんです。本が完成するのは、まだ先の話ですよね?」

    「はい、おそらく半年から一年後の話になると思います」

     もっと早く出版できないだろうか? 桐原は頭で計算するが、どう頑張っても半年が限界だ。

    「よかった。その頃には彼が怒っても大丈夫。このインタビューは私の勝手なお節介ですから」

    「…わかりました。でも彼は傷つくと思いますよ? 私なんかが言うことではないと思うんですが、伊能さんはあなたの事を本当に大事に思っていますから」

     間違いない。伊能の中には純粋な愛情がある。

    「もしも裁判結果で遠い未来、彼に出所する機会が恵まれたとしたら、私のことなんて考えずに自分の幸せを探して欲しいんです。このままだと一生引きずったままだと思うんですよね。勝治くんって純粋だから」

    「ごめんなさい、余計な事を言ってしまって。ではインタビューの続きを伺っていきます。よろしくお願いいたします。もし体調が悪くなった場合は言ってくださいね、こちらのことは気にせず、ご自分のペースで喋ってください」

    「わかりました。では、いいですか? はい。こんにちは、神田夏樹です、よろしくお願いします——」

    1

    病気がわかった時、自殺しよう、という気分にはなれませんでした。むしろ、穏やかに受け入れた自分に正直驚いた部分もあります。私の人生に劇的な出来事も、燃えるような愛情を注いだ相手も、感謝しきれない相手もいないからです。これを言ってしまうと、両親には申し訳ない気持ちになってしまいますが、本当の事です。

    何のために生まれてきたんだろう? と哲学的に考える人がいますが、私も同じ事をずっと考えて生きてきました。ただ、何度も言いますがそこに哲学はありません。単純に私は何の喜びもなく何故生きているのか? それだけを考えていました。人並みの人生を歩く最中、少し早めに神様のジャッジが下ったのだと、諦めたつもりでした。

    神様って本当にいるんだろうか?

    父と母は熱心なクリスチャンで、必然的に生活の一部に取り入れられました。毎週日曜日には必ず朝から教会へ、嫌々ありがたい言葉をいただきに行きました。その度に私はこう思いました。

    神のご加護とはいったいどういう事なのか? 正直わかりません。

    だって、信じる者は報われるのでしょう?

    信仰心が薄かったから、救われなかったのでしょうか? いま私の中で暴れているこの痛みは、何かの罰なのでしょうか? 答えはきっと死んでもわからないのでしょう。

    衝動的に飛び出してしまった国道に、たまたま走っていた護送車。私のせいでその車は電柱に突っ込み、大破したバスの中から彼が転がり出てきました。あの時、心が今までになくザワつきました。しかし恐怖はありませんでした、だって、飛び出してきた彼はこう言ったんです。

    「ごめん、大丈夫?」

    それはこっちのセリフでした。

    私は衝動的に彼の手を握り、車に乗せました。そしてアクセルを踏んだんです。道をどう走ったのかは覚えていません。気がつくと国道沿いのドラッグストアで買い物をしていました。さっき、人生に劇的な事はなかったと言いましたが、訂正します。それは現在進行形で起きているからです。もしかしたら本当に神様がいて、最後くらいは華やかに、と考えてくれたのかもしれません。

    「夏樹さん」

    不意に声が聞こえて、ぼんやりとした風景から一気に現実に戻りました。半分眠っていたみたいです。ゆっくりと振り向くと、そこには血だらけの勝治くんが立っていました。

    「ごめん、遅くなった」

    彼はそう言いながら、ベッドに腰掛けました。

    「どうしたの? その怪我!」

    「色々あってさ、まあ大丈夫」

    「大丈夫じゃないわよ、ちょっと待って」

    私はバスルームでタオルを濡らし、彼の顔を拭いてあげました。生まれて初めて触れた、暴力による怪我、いえ、本人は何も言いませんが、きっとそうだと思いました。

    「どうすればこんな顔になるのよ?」

    誤魔化すように笑いました。前歯が一本ない笑顔。

    「そんなに酷い?」

    バスルームへと向かい、自分でもびっくりしたようです。

    「うわ! やべえなこりゃ、前歯がねえ!」

    頭を書きながら、何故か申し訳なさそうに戻ってきました。

    「頭は痛くない?」

    彼は首を横に振ります。

    「吐き気は?」

    しばらく考え、また首を横に振りました。

    「とにかく冷やさないとまずいわ。フロントで氷をもらってくるから待ってて?」

    「悪いね、数時間寝たら大丈夫だからさ」

    私は急いでフロントへと向かいました。エレベーターの中で、何故だか興奮している自分がいます。

    フロントで氷と絆創膏、包帯をもらう事ができ、再び部屋へと急ぎました。

    「勝治くん」

    部屋に戻ると彼は小さな寝息を立てていました。私は起こさないように腫れた顔を冷やし、顔にある無数の切り傷のうち、特に酷い鼻の頭を消毒して絆創膏を貼ります。会ってから驚きの連続です。十以上も離れている彼は、善悪は別にして、私の知らない世界をたくさん知っているのだと、この傷が物語っていました。

    気がつくと外は明るくなりかけています。

    ゆっくりと起こさないように自分のベッドへと横たわりました。あんなに寝たのに、また強烈な睡魔が襲ってきます。そういえば、寝る前まで襲っていた腹痛が今はありません。不思議に思いながら。自分のベッドから起きて、彼の横に寝る事にしました。痛みの洪水から一時的に解放された私は、ゆっくりと眠りへと落ちていきました。その前にキスをした事は、気づいてないはずです。


    翌日、私と勝治くんは八時四十五分の苫小牧行きフェリーに車ごと乗り込みました。起きた瞬間に気づいたんです、昨日よりも明らかに痛みがひどくなっていることに。処方してもらった痛み止めを多めに服用しました。

    もう時間がないのだと悟った瞬間です。

    彼はフェリーに乗ったのが初めてのようで、売店で買い物を楽しんだり、デッキの先から海を覗いたりと子供のように騒いでいます。

    「夏樹さん。ホットコーヒー」

    昨夜折れた前歯あたりを舌先で気にしながら、勝治くんはコーヒーを渡してくれました。強い波風が、生傷を荒々しく撫でていきます。

    「ホットって言わなくていいわよ」

    私は痛みを忘れて思わず笑ってしまいました。言い方は悪いけど、彼はきっと普通に生きてきたら経験する出来事、例えば旅行で遠くに行くとか、美味しいものを食べるために並ぶとか、当たり前の出来事を経験してこなかったのではと思っています。

    「なんで? アイスもあるじゃん?」

    こういうところがたまらなく可愛いのです。

    「やっぱり子供ね、ありがとう、ホットコーヒー」

    私は風邪でなびく髪をポニーテールに結びました。こんな素敵な旅をするのなら、髪を切っておけばよかった。

    「あー、いちいちホット言うなって事ね。へへ」

     彼は笑いながら答えました。

    「いいの。それがあなただかッ」

    徐々にまた痛みが広がってきた。今更ながらに治療をしなかったことを後悔しています。そうすれば旅路の終着点まで同行することができたのに。

    と同時に、治療していればきっと出会えなかった事もわかっています。

    「お、あれ港じゃない? 苫小牧? ほら、夏樹さん見ろよ」

    彼は大きな声を出して驚いています。

    何度も同じ話で申し訳ないのですが、どうして彼にここまで心惹かれるのか、きっと死ぬまでわからないのでしょう、その時はそう思いました。

    それでいいんです。わかったところでこの気持ちに変わりはないし、後悔もありませんから。

    「何時間乗ってたんだっけ? 七時間! おれって船酔いしないんだな。夏樹さんは大丈夫?」

    「うん、大丈夫」

    「痛みは?」

     彼の表情が厳しくなりました。嘘はつくなって事ですね。

    「少し痛い」

    「限界が来たら必ず教えて? 約束だからね」

    「わかった。ありがとう」

     私はきっと限界まで彼に伝えることはない。勝治くんの旅に無理やり参加したんです、重荷にはなりたくない。いっそサラッと死んでしまいたい。

    「やっと着くね。網走まであと少し?」

    「港に着いてからがまた長いのよ、六時間くらいかかるんじゃないかしら」

    「マジかよ…飛ばすから五時間ってところかな、フェリー着いたら車で寝てなよ。起きた頃には着いてるからさ」

    「ありがとう、でもあまり寝てしまうと、目が開かない気もするから起きてる」

    本心でした。

    少しでも勝治くんとの時間を多く過ごしたかったんです。

    空は雲一つない晴天で、気がつけば風も止んでいます。夏の空は何故こうも広大に映るんでしょう。能天気で限りなく透き通った夏の空が私は昔から好きだったんです。そんなことさえ、忘れていたんですね。

    「ご乗船、誠にありがとうございました。まもなく、苫小牧西港へと到着します。お忘れ物の~」

    到着を告げるアナウンスがフェリーに鳴り響いた瞬間、座っている私に、彼が手を差し出してくれました。

    インタビュー撮影 R3・8・20 神田夏樹

    「苫小牧に到着した時には、もうかなり痛みがあったんですね?」

    「ええ、それまでに経験したことがないくらいの」

     桐原自身、今まで大きな病気の経験がなかった。生理痛もそんなに酷くないし、骨折の経験もない。目がくらむほどの痛みを想像できない。

     いや…二度の出産があった。

    あの痛みは味わった事のない経験で、できればもう味わいたくはない。

    「では、フェリーを降りてから網走にあるお婆さまの家に向かうわけですね?」

    「はい、でも結局私は祖母の家に着く頃には記憶がないんです。最後に彼と話した内容も実はあまり覚えてないんです。それが何よりも悲しくて」

    「覚えてないんですか?」

    「はい」

     神田の声色が一気に暗くなった。

    「では、その後の伊能さんの行動はマスコミの報道で把握されたと」

    「そうです。桐原さん、私は止めるべきでしたよね? 彼のこと」

    「私も考えていました。最初はどうして一緒に行動していたのか? それが一番の疑問でした。でも今は正直わからなくなっています」

     一般的に考えれば、もちろん止めるべきだっただろう。だが、脱走犯と病を抱えた女性が唐突に出会い、二日もない時を過ごす。それは誰も経験したことのない時間なのだ。

    「止めるべきだったといまだに悔やんでいます。もちろん、私の話なんてきっと聞き入れてはくれなかったとは思いますけど、それでも必死に引き止めるべきでした。でも卑怯なんですよ。八戸で怪我して帰ってきた時、詳しい話を聞かなかったんですから」

    「円組の組員を殺害した夜ですね、ひどい怪我だったと伺いました」

    「はい、血だらけでした」

     フェリー乗り場で発見された死体はどれも酷い状態だったそうで、うち一人は近くの港に漂っていた。

    「道中、警官に遭遇することはなかったんですか?」

    「それが不思議なくらいに会わなかったんです。見かけた覚えもありませんでした。意外と捕まえるのって難しいんですね」

    「これは警察の発表ですが、関東近県に潜伏していると思っていたみたいで、一日で青森まで移動しているとは考えもしなかったようですね。ニュースでは近県の人々に注意を促していましたけど」

     さまざまな幸運が伊能には重なった。まずバスが事故に遭遇したこと、そして降りてすぐ、一人の女性の車に乗ることができたこと。さらにその女性が全く伊能とは繋がりのないこと。

    「私があの後すぐに出頭すれば、もしくは彼を車に乗せなければ、何人も殺すことはなかったんでしょうね」

    「それはどうでしょうか。車を盗んで移動したかもしれないし、すぐに捕まったかもしれない。インタビューをして思ったのは、彼が抱いた復讐心は並大抵ではないということです。形は違っても行動したと思います」

     伊能がもし一人だったら。北海道まで辿り着いただろうか?

    実の父親を殺すことができただろうか?

    「私はいまだにピンとこないんです。一緒にいた短い時間、一瞬たりとも彼からは恐怖を感じませんでした。ニュースで見るような酷い事をするなんて想像ができません。あの、羅臼の山での出来事は本当のことなんですか?」

    「ええ、私は現場を見ていませんが、報道の通りだそうです」

     テレビに映ったレポーターは、一生忘れることができない光景だと言っていた。

    「そうですか、許すことはできなかったんですね」

    「神田さんが覚えているところまで伺ってもいいですか? その後、伊能勝治さんへの思いを伺いたいんです」

    「彼は刑務所内でこの本を見ることができますか?」

    「現状は難しいと思います。事件報道に関する書籍の差し入れは禁止、手紙も中身を確認されます」

     だけど、桐原が口頭で伝えることはできる。

    「そうですよね。でも私が今回の話を引き受けたのは別の理由がありますから」

    「世間に伊能勝治を知ってもらうということですね?」

    「はい。殺された人たちが、彼にしたことを知ってほしいから。最低なこと言ってますよね、でも理由があったんです」

     彼女は完全に伊能勝治を庇うスタンスで話を進める。他の人間の意見はいまこの場所には必要がないのだ。

    「思ったことをおっしゃってください。ちゃんと文字に残しますから」

    「わかりました。私と勝治くんは苫小牧についてから再びドライブをスタートさせたんです」


     インタビューは二時間を要した。無理をさせすぎたかもしれない、それは帰り際の神田の顔色を見て思った。気持ちをそのまま喋ってくれているのが、痛いほど伝わってくるその内容に、桐原は我が事のように心が痛んだ。

     もしも彼と出会っていなかったら。

     彼女はまだ生きているだろうか?

     それはわからない、もしかしたら病院に担ぎ込まれ、本人の意思は関係なく、治療に専念したかもしれない。この出会いが幸せだったのかどうかは本人たちにしかわからないのだ。

     桐原は夫と作家になる前のアルバイト先で出会った。いまは文房具メーカーの営業で頑張っている旦那の顔を思い浮かべる。

     幼い子供の寝顔を見るのが何よりも幸せに感じているようで、帰宅するとすぐに二人の寝室へと入っていく。なんてことはない、あり触れた幸せ。それが何よりも尊いものだと最近心から感じる。

     劇的なことなんて桐原にもない。だが、生きていることに疑問を持ったことは一度もない。そんな理由で犯罪者の逃亡を手助けすることは決して許されない。どこかで神田に対して同調できない部分は未だ否定できない。

     だが桐原が同調する、しないが問題ではないのだ。

     伊能勝治と神田夏樹、この二人の旅路の果てに何人も死んだ事実、その正確な理由、そして結末。それを伝えなければならない。

     気がつけば、あの二人に魅了されている。だからこそ正確に贔屓目なく、作品を仕上げるつもりだ。

     二人の子供が大きくなって、今回書く本を見た時、どう感じるだろうか? 恥ずかしくない真実の物語を捉えようと改めて誓った。

    インタビュー R3・8・25 伊能勝治

    「なんか今日は雰囲気が違うね」

     顔を合わせた伊能に開口一番言われた言葉だった。

    「そうですか? いつもと変わんないと思うけど」

    「気のせいか。なんか調子悪そうに見えたから」

     いつもと違う。

    そうかもしれない。神田夏樹のインタビューが終わってからというものの、桐原の気持ちは晴れなかった。彼がこのまま何も知らずに服役することを想像するだけでいたたまれないのだ。

    「伊能さん、今日は苫小牧に着いてからの話を聞かせてください。羅臼に到着するまで、そして羅臼岳での出来事を詳しく聞きたいんです」

    「そろそろインタビューも終わりか。なんか寂しいっすね」

    「その後も、完成報告や出版後の感想など伝えにきますよ?」

    「桐原さんと喋るのも楽しいから残念だし、旅の終わりみたいで寂しいんすよね。もう遠い昔の出来事に思えるけど、話してると色々思い出すみたいな」

     まるで楽しい思い出のように話す伊能は、諦めているからこそ笑えるのだろう。神田がどんな気持ちでいるのか、伝えないことが正しい事なのか?

    「二十二歳の言葉とは思えませんね」

    「そう? 他の二十二歳がどうなのか知らないからなあ」

    「本心ですか? その言葉は。生きたいとは思いませんか?」

    「死にたいとは思わない。けど仮に外に出ても、おれには何もないんだ。目的がない、生きる意味っていうの?」

     神田と同じようなことを言った。しかし彼女は伊能に会ったことで、今もなんとか生きている。

    「会いたくはないですか?」

    「誰に?」

    「神田さんです」

    「…会いたくないね」

     本心ではない、表情がわかりやすい青年だ。

    「会わせる顔がない?」

    「そうとも言う」

     桐原は自分が未熟なのを痛感している。ルポライターなら私情は絶対に挟んではいけない。正確に事件を捉え、世間に伝える。それこそがノンフィクションだ。

     しかし、人間として正しいのか?

     ここで彼女の気持ちを伝えないことは、これからの人生で引きずらないだろうか?

     自分が楽になりたいから? それとも純粋に神田の思いを、彼女が死ぬ前に伊能に伝えたいから?

    「なあ桐原さん、なんか言いたいことあるだろ?」

    「言いたいことですか?」

    「夏樹さん死んだのか?」

     桐原は息を呑んだ。やはり自分は未熟なジャーナリストなのだと落胆した。

    「亡くなっていません」

    「嘘はつかないでくれ」

    「本当です、そうじゃないんです」

     彼女に謝らなければならない。いまの病状、そもそも最初に神田にコンタクトをとったこと、そして何故彼女がインタビューを受けているか、包み隠さず伊能に伝えることにした。

    限られた面会の時間で、内容をまとめて喋る難しさを痛感する。桐原は伊能にその大変な作業をやらせているのだ。

    「…夏樹さんは元気なんだな?」

    「元気ではありません。ですが、一生懸命あなたのことを世間に伝えてくれています」

    「時間ねえな、残り話すよ」

     その反応に正直驚いた、怒り狂うと思ったからだ。

    「ごめんなさい、言わないでくれって頼まれてたのに」

    「いいよ。それになんとなくわかってたしな、桐原さんと夏樹さんは会ってる気がした」

    「それは…何故ですか?」

    「感覚だよ感覚、続けるよ?」

     返事が気になりつつもボイスレコーダーの録音ボタンを押す。今はとにかく話を聞かなければいけない。

     そしてこれからのインタビューは山場と言っても過言ではない。桐原自身一番気になっているのが、父親殺しの部分だ。彼はいよいよ北海道へ上陸した。これから神田夏樹との別れ、そして世間を一番騒がせた犯行を行うことになる。

    「…お願いします」

    「うん、八戸からフェリーに乗ったんですけど、まあ長くて——」


    2


     朝の八時四十五分発、八戸に着いたのはなんと十六時! 七時間超もかかってしまった。逃走中の人間にしてはのんびりした旅だよ、おかげでゆっくりと過ごす事ができた。

     フェリーの中で夏樹さんの具合はどんどん悪くなっていた。決して口には出さなかったけど、顔色を見ればわかる、どんどん生気が無くなっていくんだ。

    「勝治くん、お願いがあるの」

    それはフェリーから降りて、しばらく車を走らせていた頃だった。

    「ん? どうかした?」

    おれは助手席で、鼻の頭を触りながら答えた。折れてはいないが痛みがかなり酷い。

    「あのね、二つあるんだけど」

    「うん、できることなら」

    顔色はかなりよくない。

    「バッグの中に手紙が入ってるの。両親に当てた手紙。それをどこかのポストに投函してくれない? 切手は余分に貼ってあるから大丈夫」

    「そんなの、その辺でいま出せばいいじゃん?」

    彼女は首を振った。

    「ダメ、これは私が死んだら出してほしいの。最後まで一緒に旅するって言ったでしょ?」

    ゆっくりとこちらを向いて答えた。その目には言い返せない力が篭っている。

    「わかった、もう一つは?」

    「お父さんの事。ちゃんと話しあって欲しいの」

    「なんだよ急に」

    「聞いて。私たちはとても特殊な環境で出会った。そしてこうやってここまで来たわ。短い時間だけどあなたの事が心配なの。お節介なのはわかってる、何故かはわからない、けど、とても心配」

    夏樹さんの気持ちを黙って聞いた。

    「私は一人っ子だから、兄弟ってどんな関係かもわからない。けど、もしかしたらあなたの事を弟のように思っているのかもしれないし、一人の男性と見ているかもしれない。それはわからない、ごめんね、あなたよりも遥かに歳上なのに気持ち悪いよね」

    おれは慌てて首を振った。まったく同じ気持ちを抱いているからだ。自分自身、彼女に対する気持ちが何なのか、知りたかったのかもしれない。暴力以外でこんなに胸がドキドキしたのは初めてだった。

    「姉ちゃんか、考えもしなかったな。こういうもんなの?」

    彼女は運転しながら笑った。

    「わかんない、けど、この二日、あなたを考える事が多かった。会ったばかりの勝治くんが心配で仕方なかったの。自分の事よりも。昨日だってそんな怪我して戻ってくるし」

    昨日の夜、我ながらよく死ななかったと思ったよ。

    「私の病気は、もうどうにもならないところまで進んでる気がする。痛みもかなり酷いし。自分がすり減っていくのがわかるの。そんな中、あなたに会った」

    彼女の言葉を黙って聞いた。その言葉の節々に、口を挟めない覚悟のようなものを感じたからだ。

    「あなたに更生して欲しいなんて、少しも考えてない。だって、悪い人だとは思わないから。でも幸せになってほしいの」

    何人も殺している男に?

    「ロクなモンじゃないぜ? 昨日だって…」

    「聞きたくない、知りたくないからいい」

    彼女は言葉を遮った。

    「だから、お父さんに会ったら一度確かめてほしいの。どうして勝治くんたちを捨てたのか。そして、考えてみてほしい」

    「納得出来なかったら?」

    「その時は、勝治くんの意思に従えばいいわ。私はもう知る由も無いから。でも、あなたが先に進める未来も、絶対あるはずよ」

    「わかった、だが約束はできないよ。でも…ちゃんと考えた上で答えを出すよ」

    夏樹さんは力なく笑っている。

    「ねえ、勝治君、私は蝶々なんでしょ?」

    「何だよ急に」

    「お願い、私がちゃんと飛べる迄、あなたは隣で見ていて? 最後まで」

    彼女は笑いながら言った。その言葉に心が揺れ動いた。生まれて一度も、母親以外の幸せを考えた事はなかった。この人がこのまま死んでいくのを考えると、心が張り裂けそうになる。ほっとけないって心から思ったんだ。

    その時、不意に急ブレーキが踏まれた。

    おれの体は激しく揺れた、事故ったのかと思ったよ。でも違ったんだ、彼女の顔は苦痛で歪んでいた。

    「おい、大丈夫か?」

    「ごめん、運転無理みたい」

    夏樹さんの目には涙がたくさん溜まっていた。顔に血の気もない。おれはなんて馬鹿なんだろう、もうとっくに限界だったんだ。

    「おい、待って、待ってろよ!」

    彼女を運転席からゆっくり降ろし、後部座席へと運んだ。息遣いが荒くなっている。

    「待ってろ、病院連れてくから」

    ナビゲーションで病院を検索した。

    「嫌、先に進もう?」

    「嫌じゃねえ、無理だよ、病院行こう」

    「お願い、ちゃんと見ていて、最後まで」

    驚くほどの力強さでおれの肩を掴んだ。

    「ふざけんな。もしかしたらなんか奇跡おきるかもしれねえだろう? たまたま連れていった病院がすげえ医者がいるとかさ!」

    「お願い、二人の旅でしょ? 私だけ置いていかないで」

    青白い顔の彼女は、弱々しい目の光をぶつけてきた。

    何てことだ、おれは心底恋をしている。

    会って二日も経っていないのに。間違いない、今まで確信できなかったんだ。

    「わかった、じゃあ約束しろ。網走の婆ちゃん家に着いたら、その後病院な? じゃないならここでお別れだ」

    言いながら、頬が冷たくなったのに気がついた。

    涙だ、畜生、いつから泣き虫になった?

    「うん」

    「約束だかんな」

    恥ずかしさもあり、思い切り目を擦った。

    「なんで勝治くんが泣いてんのよ」

    後ろで弱々しい笑い声が聞こえる。

    「うるせえ、わかんねえよチクショウ」

    まだ涙で曇る視界をこっそりと擦り、車を出発させた。

    北海道に広がる大草原、遠くに見える雪をかぶった山、時たま通り過ぎる牛の群れ、全てを無視して、ひたすら網走へと車を走らせた。道中、何度も後部座席へと視線を飛ばす。彼女は横たわっているが、小さな寝息を立てていた。おれだって人並みに女と付き合った事もある。女を好きになるってのはこんなもんかと思ったもんだ。マツや他の奴らと一緒にいる時間の方が心底楽しかった、だから特別女を欲した事はなかった。

    昨日の昼、死ぬ気でバスから飛び出した時、おれの前にその辺にいる、ごく普通の女が立っていた。顔も服装も普通、それ以外表現できない。そんな女が立っていた。

    彼女が何も言わずおれの手を引いて走り出した時、不意に母ちゃんを思い出したんだ。いや、姉貴がいたらこんな気持ちだったのかな、と感じたんだけど違うみたいだ。

    女として魅力を感じていたんだ。

    いい女だなって思ってたんだ、異常な状況で気がつかなかった。馬鹿だよなあ。

    「なあ、夏樹さん」

    車を飛ばしながら声をかけた。

    「何?」

    後ろから弱々しい声が聞こえる。

    「あんたが元気になったら、付き合ってよ」

    返事がなかった。

    「だめ?」

    「もうおばさんだよ」

    「どこがだよ、おばさんじゃねえよ」

    すると彼女は少し笑った。

    「考えとく。私が生きて、あなたが捕まらなかったらね」

    おれはそれを聞いて笑った。しかしその日が来ない事は二人ともわかっている。離れてしまったらきっと、もう彼女には会えないだろう。

    フェリーを降りてから五時間ほど、運転を代わって四時間ほどで、彼女から聞いていた網走の住所へと着いた。

    オホーツク海が目の前に広がり、肌が凍ってしまうような寒さ。

    遠くにうっすらと見える大地は、もう日本ではないのかな。

    海岸沿いから脇道に入ると、雰囲気は変わりそこは住宅街だった。

    「夏樹さん、着いたぜ」

    後部座席へと声をかけたが、返事がない。

    「おい、着いたぞ」

    彼女は目を瞑ったままだった。

    「おい、待てよ、おい」

    おれは慌てて運転席を転がり飛び出した。

    「嘘だろ、待ってくれ」

    後部座席を開け、肩を思い切り揺らした。

    「おい、夏樹さん、着いたってば。おい!」

    何度彼女を揺らしただろう、実際は数回だったかもしれないが、何百回も揺らしたような感覚だった。

    「着いたの?」

    目を開かず、やっと答えてくれた。

    「ああ、ああ、着いた、着いたよ」

    また涙が溢れてきた。

    「起こしてくれる?」

    「ああ」

    彼女をおんぶして助手席を出た。もうゆっくりなんて言っていられない。

    「中入るか? ピンポン押そうか?」

    「おばあちゃん家?」

    彼女は一生懸命目を開いた。

    「こっち? それともこっち?」

     おれは焦った。住宅街に同じような家が並んでいたんだ。

    「屋根は…どんな感じ?」

    弱々しい声だ、恐らくもう見えてない。

    「え?」

    「壁の色は?」

    ぼんやりとした視線で、おれの方を向いている。

    「えっと、白、白、白、えーっと、茶色? あとは…」

    「水色は?」

    「うー…ある! 水色ある!」

    思わず大きな声を出したおれに、彼女は力なく笑った。

    「そうか、よかった。苗字はね、さの」

     壁が水色の家の表札は…佐野と書いてある。間違いなくここだ。

    「見つけた! 夏樹さん見つけた! 行こう、ピンポン押すよ?」

    おれは泣きじゃくりながら言った。

    「うん」

    彼女は目を閉じたまま返事をしない。

    「おい、会わなくていいのか? おい」

    呼びかけに反応しなかった。

    「随分遠くまで来たんだぜ? 婆ちゃんに会うんじゃねえのか? おい!」

    彼女はおれの声を無視した。もう聞こえてなかったんだと思う。

    「ふざけんな、ふざけんなって、なあ、夏樹さん。おれたち仲良くなれただろう? これからもっと仲良くなろうよ、なあ」

    何度話しかけてももう笑いかけてはくれない。

    ああ、神様。

    「頼むよ、起きろ! あんたが好きだよ、まだ何も知らねえけどあんたが好きだよ。死なないでくれ」

    何を言っても、何度揺さぶっても、もう彼女が目を開けることはなかった。まだ間に合うはずだ。

    神様っているんだろう? この人を助けてくれよ。

    おれは呼び鈴も押さずにドアを叩いた。

    神様お願いします、神様お願いします。

    助けてください。

    助けてください。

    生まれて初めて祈ったんだ。

    インタビュー R3・8・11 伊能勝治

    「それが、神田さんと過ごした最後だったんですね?」

    「うん。夏樹さんの婆ちゃんに救急車呼んでくれってお願いした。本当は一緒に病院に行きたかったんだけど」

    「会いたいですか? 神田さんに」

     伊能は今も神田夏樹の事を思い続けているのだ。

    「そりゃあね。でももう会えない。会わせる顔もないしさ」

    「どうして?」

    「親父を殺したから。夏樹さんには止められてたんだ。ちゃんと話し合えって。もちろん話したよ、その上で殺すことにしたんだけど」

     彼女も止められなかったことを後悔している。

    「彼女が怒ってると思うんですか?」

    「わかんない。でも生きていてくれればそれでいい。あの時はもうダメだって思ったから」

    緩和ケアを続けながら何とか日々を過ごしている彼女は、すでに限界を迎えていた。桐原は会うべきだと思った。

    「本来、私はフェアな存在でいるべき立場です。取材する際、主役は当事者で、聞き手が前に出ることは好ましくありません。もしも作り手側からの意見によって、内容に変化が起きるようなことがあれば、それは下手すると真実ではなくなってしまう。でも…」

     それ以上言葉が出ない。ジャーナリスト失格な発言をしているからだ。

    「そんな気にしなくていいよ」

    「会いませんか? 彼女に」

    「限界なの? 夏樹さん」

     桐原は頷いた。

    「なあ、教えてくれよ。あの人はあの日からどんな毎日を過ごしてきた? 知りたくても怖くて聞けなかったんだ。夏樹さんは責められたのか? テレビの連中はあの人を苦しめたのかよ? なあ、どんな毎日を過ごしてるんだ?」

    「本当に知りたいですか?」

    「うん、教えてくれ」

     やっぱりルポライターという職業は向かないのかもしれない、桐原はそう思った。自分自身、ここまでこの二人にのめり込むとは思っていなかった。

     自分が話すことによって、伊能は苦しむだろう。これから話すことは何よりも残酷なことなのだ。

    「神田さんはあの後病院に運ばれ、一命を取り留めました。その後胃を三分の二摘出し、抗がん剤を使い始めましたが処置が遅かったようで、至る所に転移されました。今は緩和ケアといって、日々の痛みを抑える処置を受けています」

    「それって、治療じゃねえの?」

    「というよりも、少しでも楽になるように処置しているんです」

     伊能の顔が見ていられないほど歪む。

    「あれから神田さんはマスコミに晒されました。病院、自宅、至る所に取材人が集まり、雑誌では好き勝手いろんな記事が踊りました。同じ業界の私でも目を覆いたくなるような憶測も飛びました。それでも生きてきたんです。正直、今は精神力だけが彼女を支えているんだと思います」

    「憶測ってなんだよ」

    「口に出したくもないことです」

     事実、目が眩むような内容が多々あった。彼女の人権を否定するような内容が連日放送され、インターネット上では踊った。

    「おれのせいなんだよな」

    「厳しいようですが、そうです」

     その通りだ。伊能が起こした事件の凄惨さ、世間では歳上のふしだらな女がサポートしたことになっている。

    「桐原さん、頼むよ。この本で少しでも夏樹さんを守ってくんねえかな? そうじゃねえと依頼を受けた意味がないんだ。悪いのは全部おれで、あの人は巻き込まれただけなんだから。それをちゃんと世間に伝えてくれ、頼む」

    「今回のインタビュー、それが目的で引き受けてくれたんですよね?」

     伊能は力強く頷いた。

    神田夏樹と二度しか会っていないが、奇妙な友情めいたものを感じるようになった。というよりも同調だった。純粋に相手を思う気持ちは自分自身が子供に向けるものと同じものだ。

     無償の愛。

     桐原はどんな横槍が入ったとて、二人の真実を出版することを心に誓っている。自費出版になるようなら、SNSの力に頼るつもりだ。

    「夏樹さんを助けられねえかな? なあ、桐原さん」

     いままで見たことのない弱気な表情に、桐原は頭にきた。

    「神田さんの名誉を挽回したいんでしょ? 巻き込んだのはあなたなのよ、死ぬ気で話しなさい。彼女の気持ちを受け止めなさいよ」

     気がつけば声を荒げていた。

    「伊能さん、夏樹さんの気持ちを無駄にしないで。私が今回とても感動し、世間に伝えようと思っているのは、もう会うことのできない二人が、示し合わせたわけでもないのにお互いの事を守ろうとしていたからなの。あなたにとっては意味のある復讐かもしれない、でもやった事は最低な殺人事件でしょう? それでもあなたの名誉を守ろうとしている。今まで沈黙していた彼女が表に出てくる覚悟を受け止めるべきです」

     桐原は伊能を見つめた。さまざまな感情が心を包む。怒りと蔑み、そして憐れみ。自分自身に一瞬、神田夏樹が宿ったような感覚だった。

    「どんなに酷い内容でも、必ず包み隠さず出版します。あなたはちゃんと逃げずに最後まで話してください。神田さんのために」

    「…桐原さん、夏樹さんいいだろ?」

     伊能の表情が元に戻った。

    「うん、素敵な人ね。強くて綺麗で、優しくて」

    「だろ? 最高なんだよ。少ししか一緒にいなかったのに…好きなんだよおれ」

    「一目惚れなんじゃない?」

    「一目惚れなんてあるのかよ」

     顔を真っ赤にしながら否定している。

    「夏樹さんに伝えてくれ。生きてくれと。ちゃんと最後まで話すから」

     桐原は頷いた、やっぱり二人はもう一度会うべきだと思った。

    「おれが羅臼についてからの話だ。あのまま夏樹さんの車を借りたんだよ——」

    3

    羅臼の道の駅でおれは勝手に夏樹さんから借りたミニクーパーを駐車した。網走よりも更に寒い気がする。

    おれは驚いていた彼女の婆ちゃんに、救急車をすぐに呼ぶように伝えその場を離れた。夏樹さんを救急車に乗せただろうか? 

    警察に捕まることは避けないといけなかった。

    いや、死ぬところを見たくない、これが正直な理由だった。

    網走から二時間の距離、羅臼についたのは、もう二十一時を回っていた。

    考えてみると、生まれた場所も育った場所も、広大な大地とは程遠いゴミゴミした場所だった。どこか粉っぽく、時間の流れが早いようなそんな雰囲気。誰もが余裕がなく、息を吸うたびに自分の体が汚れてしまうような、そんな雰囲気。それとはまるで違う北の大地は、あまりにも新鮮に見えたんだ。

    「すいません、繁華街ってどこですか?」

    「繁華街? そんなもんないよ、敢えて言うならこの辺かな」

    優しそうな喫茶店の店員は、親切に地図を開いて見せてくれた。

    「そうなんすね、ありがとうございます」

    礼を言って改めてあたりを見渡す。現在の所持品は夏樹さんの財布から拝借した二万円と、頼まれた手紙だけだ。あとは大事なミニクーパー。あの車だけは必ず返そうと心に決めている。

    駐在所の横にポストを見つけた。

    預かった手紙を投函しようとしたが、しばらく悩んでやめる事にした。だって彼女は自分が死んだらと言ったんだぜ? 死んだ所は見ていない。だから出すのをやめたんだ。奇跡が起きるかもしれないじゃないか。奇跡なんて見た事も味わった事もなかったけど、いまは信じたいんだ。

    ふと視線を感じ、駐在所の方を見ると警官と目があった。

    ぼんやりして気が付かなかった、やべえ。

    「何かお探しですか?」

    若い警官が話しかけてきた。まあ、こんな顔だ、警戒するよな。

    「すみません、メシ屋を探してるんですけど」

    慌てず冷静に、観光客を装った。

    「ああ、旅行の方? 港の方にたくさんあるよ。ほら、すぐそこの」

    「どうも、ありがとうございます」

    「ちょっと」

    呼び止められた。どうする、ここで捕まるわけにはいかない。

    「お兄さん、怪我ひどいみたいだけど大丈夫かい? 一息いれていかない?」

    優しく声をかけてきた。こういう声を出す警官にろくな奴はいない。

    「いや、急いでるんで。どうも」

    おれは港に向かって歩き出した。

    「ちょっと待ちなさい!」

    すると警官は豹変した。

    ほら、言わんこっちゃない。

    躊躇せず一気に走り出し、路地を駆け抜ける。警官も慌てて追いかけてきたが、そこは川崎という街で鍛えた逃げ足、北海道でも通用するのだ。

    闇雲には走らない。建物にも無駄に逃げ込まない。うまく距離を取る。確実に身を潜める場所を見つけるまで。何年お巡りから逃げてきたと思ってるんだ? 街を這いまわり生きてきたムカデを舐めてはいけない。

    警官はすぐにおれを見失った。

    結局しばらく近くの神社で身を隠し、港へと向かった。

    そこであっけに取られてしまった。

    全く何もない。

    あるのは広大な海だけだ。

    川崎は都会だったんだ。どんなに綺麗になったって、煙っぽい雰囲気を払拭できない。街の味ってやつだ。そんなあの街の空気が恋しくもある。

    空気が澄んでいておれには北海道は綺麗すぎる、でも夏樹さんには似合うかも、ふとそう感じた。

    葬式でみんなに聞いた情報を頼りに歩く。

    ポツリポツリとある店の看板を見て回った。店名には甲斐、もしくは正隆、親父の苗字と名前ね。どちらかだと勝手に思っていた。

    「すいません」

    おれは、漁港近くで屯す、荒っぽそうなおっさん達に声をかけた。

    「おお、すげえ顔だなアンちゃん」

    「人を探してまして。多分飯屋やってると思うんですけど」

    「飯屋って言ってもなあ」

     連中は突然現れた怪我だらけのおれに戸惑っている。

    「そこに知り合いが働いてるんで、遠くから来たんですけど」

    「店の名前は?」

    思いつく限り、可能性のある名前を出したが、不発だった。

    「聞いた事ねえな、他当たってくれや」

    おっさん達は漁港の中へと向かおうとした。

    「待ってください、この人なんすけど」

    不意に小さい頃の写真が財布に入っていることを思い出し、取り出した。

    「あぁ、なんだよ。こりゃ、マサさんじゃねえか?」

    歯の無いおっさんの嬉しい一言だった。

    「そうです、知り合いっすか?」

    「おう、麻雀仲間だな。あんた息子さんかい?」

    不意に息子、という言葉が出ておれは慌てた。

    「叔父なんです。こっち来たんで会いたいなと」

    そう言うと、これまでとは違い笑顔を見せた。

    「そうかい、マサさんの店はその路地を入って一つ目を左だ。看板出てるよ」

    「そうっすか、ありがとうございます。あ、店の名前は?」

    丁寧に答えてくれた。

    「ぎんなんだよ、料理処銀杏」

    銀杏は熊本にゆかりがある。

    昔、熊本城を作ったなんとかって武将が、銀杏の木をたくさん植えたことにより、銀杏城と呼ばれていたらしい。小学校の時に習ったことを瞬時に思い出した。

    殺したくならないか? 

    良い思い出です、とでも言いたいのか? おれらにとっての熊本は地獄の始まりだ。怒りで目の前に広がる海が、グラリと揺れたんだ。

    路地を曲がるとその看板はすぐにあった。ぼんやりと灯した光、何年も使っているのだろう、汚い看板には薄れた文字で、「銀杏」と書いてあった。たいしたタマだ、反吐が出るぜ。おれは看板に唾を吐いてやった。

    見た感じ、立て付けの悪そうな引き戸を開ける。

    「いらっしゃい!」

    予想とは違う、明るい声が飛んできた。こんな声を出すイメージが無いし、カウンター越しに顔がよく見えない。

    「すんません、一人なんですが。いいですか?」

    「どうぞどうぞ、団体さん帰ったばかりで、お客さん一人ですけど」

    顔の見えない店主は、楽しそうに答えた。確かに奥のテーブルには片付けていないグラスが並んでいた。

    「じゃあ、失礼します」

    ゆっくりとカウンターの端に座る。ようやく顔が見えた、切れ長の目、少しとんがった顎、白髪が増えてシワもあるが、間違いない、おれたち母子を捨てた男だ。ずいぶん老けた印象だった。

    「お兄さん、どうしたのその顔」

    親父はこっちを見て心配そうに見つめる。

    「バイクでこけちゃって」

    誤魔化すことにした。

    「気をつけないと、事故は怖いからね」

    そう言いながら、カウンターの向こうで何かに包丁を入れていた 。

    「何にします? うちはあんまり若い人の口に合うモノは無いかもしれませんがね」

    前にぶら下がった黒板を見て答えた。

    「肉豆腐、あとハイボール」

    ビール以外に唯一飲んだ事があるお酒と、母ちゃんの得意な料理に似た名前のものを頼む事にした。

    「あいよ」

    親父は黙って準備を始めた。静寂の中、テレビの中では巨人対日ハムの試合を映していた。   

    店内を見渡す。壁にはメニューが飾っていて、その隅に写真がたくさん貼ってあった。おれは席を立ち、その写真を眺めた。

    「ああ、それね、うちのお客さんが貼っていくんですよ。ほら、この辺は人が少ないから。みんな家族みたいでね」

    親父は背中越しに言った。

    「そうなんすか」

    十五年ぶりに聞く声は、記憶とは違いずいぶんと明るく、まだ正直ピンとこない。こんなヤツだったっけ?

    不意に写真の中に古ぼけた写真を見つけた。そこには若い頃の親父と、知らない女が写っていた。

    心臓が大きく一度、波を打った。

    おれらを捨てた後だろう。

    「あの、この写真は?」

    自分を落ちつかせながら聞いた。

    「ああ、それね、俺なんです」

    親父は恥ずかしそうに答えた。

    「隣の人は奥さんですか?」

    さあ、なんて言うんだ? 答えてみろ。

    「ええ、家内です」

    「そうなんすか」

    「女房とこの店やってるんですよ、今日は休みですけどね」

    親父の声に変化はなかった。女房、気楽なもんだ。虫唾が走る。

    「お店の名前、銀杏なんですね。熊本と関係あるんですか?」

    包丁の音が止まった。気づいたか? それなら話は早い。ここに長くいてはいけない気がする。

    「若いのに詳しいですねえ。はい、おまたせしました、肉どうふです」

    カウンター越しに日に焼けた手が伸びだ。

    目の前に置かれた肉豆腐は、母ちゃんが出してくれる肉じゃがと瓜二つだった。多すぎない刻みネギ、ニンジンの大きさ、汁の濁り具合、そして匂い。芋と豆腐の違いだけ。

    「いただきます」

    おれは一口汁を啜った。口に広がる味は、母ちゃんが作る肉じゃがそのものだ。

    「どうです?」

    「うまいっす」

    答えると嬉しそうに豪快に笑った。

    「そりゃよかった、他にも色々あるんでね、食べてってよ」

    親父は再び背中を見せた。

    再び静寂の時間が訪れる。おれは黙って目の前の肉豆腐に箸を入れる。豆腐を割り、人参を口に運ぶ。何度も繰り返すたびに、どんどん頭は冷静になっていく。知らない土地で、知らない人間に、おれの大好きな味を客に食わせているこの男は、一番守らないといけなかった家族を捨てたのだ。そして新しい家族がいる?

    夏樹さん、これでも許す必要があると思うかい?

    「親父さん、この味、すごく馴染み深いです」

    「そうですか? 味付けは九州のものなんですが、もしかしてお兄さん九州の人かい?」

    「ええ、生まれは熊本です」

    親父の目が広がった。

    「同じだよ同じ! 珍しい事もあるもんだ。だから銀杏わかったんだねえ。熊本のどの辺り?」

    「南千反畑町です、お城の麓の。わかりますか?」

    具体的な地名にあからさまに親父の顔は曇った。

    「南千反畑町かい? わかるよ、懐かしいなあ」

    「わかりますか?」

    おれは親父から視線を離さなかった。

    「わかるよ、ずいぶんと懐かしい地名だな」

    「もしかしてその辺りなんですか?」

    親父の顔にさらに戸惑う表情が浮かぶ。

    「まあ、そうだね、昔の話だ。じゃあ、他のものも口に合うと思うからさ」

    「南千反畑町、小学校裏、川沿いの小汚いアパート」

    思い出しやすいように、当時住んでいたボロアパートの場所をハッキリと特定した。

    親父の顔から完全に笑みが消える。

    「もう忘れたか? あんな汚ねえアパート」

    「……勝治か?」

    おれの名前が出た。鼓動が一気に早まる。

    ドクン。身体中に鳴り響いた。

    「どう思う?」

    「勝治なのか? 本当に?」

    親父の目は、これ以上ないくらいに広がっている。

    「聞かねえとわかんねえのか? まあ、見てもわかんねえくらい離れてたもんな」

    実際、どこかで気づいてもらえるかも、と思っていた自分が腹立たしかった。

    「…何しに来た?」

    親父は明らかに警戒している。さっきまでの笑顔はもはやどこにもない。

    「何だそりゃ? 他に言う事ねえのか? どのツラ下げて飯屋なんてやってるか見に来たんだよ!」

    我慢できずにカウンター越しに怒鳴った。

    「来てみればなんだ、この名前。何のつもりだテメエ」

    「五月蝿い、お前に何がわかる!」

    黙って聞いていた親父は、カウンター横の扉を開け表に出てきた。分厚い体、百八十を超える身長は変わらず、そして手には包丁を握っていた。

    「家族を捨てただ? お前さえ生まれなけりゃ、俺たちはうまく行ってたんだ」

    震えた声で答えた。

    「何言ってんだ? なんで俺のせいなんだよ」

    「お前はみずえから何も聞いてないのか?」

    「母ちゃんの名前を言うんじゃねえよ!」

    虫唾が走る、こいつの口から絶対に聞きたくない。

    「知らねえのか? お前はみずえと俺の間に出来た子供じゃない。出会った頃にはもうアイツの腹の中にいたんだよ」

    唐突に何を言ってんだ? こいつは。

    「同じ製紙会社で働いていてな、アイツは経理だった。そこで会社の偉いさんと不倫してたんだよ。俺はその会社の作業員だった。子供ができるとその事をそいつに告げたらしい。まあ、案の定堕ろしてくれって頼まれたらしいがな」

    親父は笑った。その卑屈な笑い方に記憶あった。嫌悪感しか生まれない、その卑屈な笑顔、きっと小さい頃も不快に思っていたはずだ。

    「ある日の事だ、アイツが町の酒場で飲んでるのを見てな、勇気出して声をかけたんだ。みずえは色々話してくれたよ。俺は必死に口説いた。モノにしたかったんだ。そして、アイツは会社を辞め、子供も堕ろさず結婚した。それが条件だった」

    店にはナイターの実況音のみが流れる。おれは黙って聞いていた。

    「でもな、欲しかったのはみずえだけだ。お前が生まれて一度だって可愛いと思った事はない。むしろ、何度死んでくれと思った事か。しかしお前はスクスクと育った。そして俺に懐いたよ。どんなに遠ざけても、お前はぴったり後ろを歩くようになった。本当に嫌で仕方なかったよ」

    包丁を持つ親父の手は、小刻みに震えていた。

    いや、おれ自身が震えているんだろうか。

    「お前が五歳になる日、俺は努力をしてみようと思った。仕事帰り、ちゃんとお前を愛してみようと、誕生日ケーキを買っていった。今日から生まれ変わろうと決意したんだよ、その時は。そして仕事から帰ると、みずえは買い物に出かけていた。お前は一人で留守番をしていた。覚えてるか?」

    おれは返事をしなかった。覚えていることが悔しかったから。

    「お前は笑っていた、無邪気な笑顔でな。しかし、それが耐えられなかった。目の前にいるこいつは俺の子供じゃないからだ。みずえが一緒にいるのはお前のためだ、アイツはお前の実の父親の顔を思い浮かべながら、俺と一緒にいたんだろう。そう考えるとたまらなくてな。決意は一瞬で壊れたよ、殺してやろうと思った」

    ナイター放送が盛り上がる。

    どうやら誰かがホームランを打ったようだ。

    「力一杯締め上げたよ、お前は握っていたおもちゃを離さないまま、無抵抗に首を絞められた。苦しくてバタつくこともなくな。いま思うと、俺と遊んでいる気分だったのかもしれねえ。真っ赤になりながらも表情を変えないお前が、恐ろしくなったよ。愛する女には愛されず、殺したい子供には愛された。もう限界だった、終わらせたかった」

    「死んでねえじゃねえか、おれは」

     なんとか声を絞り出す。

    「力をさらに込めたその時だ、みずえが帰ってきたんだよ。思い切り体当たりされたんだ。振り向くと凄い表情だったよ。手には買い物してきたビニール袋を握ったままな。初めて見るみずえの顔に、俺は自分のやらかした事が恐ろしくなった。そしてそのままみずえを突き飛ばして出ていった、それっきりだ」

    「それだけでアンタは家を出たのか?」

    何とか口を開いた。口がネバネバする。

    「お前の顔を見るみずえはそりゃあ綺麗だった。俺が惚れたみずえの表情だった。いつも会社で浮かべていた顔だ。でもそれは不倫相手に向けたものだと、お前が生まれてから気がついたんだ。俺には一度もあんな笑顔を見せた事は無かったよ、わかるか? この惨めな気持ちがわかるか?」

    母ちゃんがこいつの事を絶対に悪く言わなかったのは、懺悔の気持ちがあったのかもしれない。

    「それで、あんたはこの街でコソコソ生きてるんだな?」

    「お前に何がわかる? 俺の苦労が!」

    再び親父の目は血走った。

    「それで? その後母ちゃんには連絡したんだろう? じゃないなら飯屋やってる事知るはずねえもんな」

    親父は黙った。未練がましい奴だ。殺す価値もないのかもな、夏樹さん。

    「知ってんのか? 母ちゃん死んだの」

    親父は固まった。

    「死んだ?」

    「過労死だ。まだ四十五だった。おれを育てるために、朝昼晩、働いたツケで母ちゃんは死んだよ。もうすぐ二年だ」

    おれの言葉に固まったままだ。

    「満足か? 死んだよ」

    「お前さえいなければ」

    親父はおれを睨みつけた。

    「うまく行ってたんだ。お前がいなけりゃ」

    「いなけりゃなんだ?」

    言葉を遮ることにした。情けなくなったんだ。おれが憎んでいた相手は、ただの嫉妬に溺れた男だった。

    「おれが母ちゃんの腹の中にいなけりゃ、お前なんて相手にするか。お前みたいなヤツに母ちゃんはふさわしくねえよ」

    笑って言ってやった。

    親父は逆上した。

    「愛したのはみずえだ! お前なんかに——」

    最後まで言葉を言わせる前に、思い切り鼻を正面から殴り飛ばした。親父は後ろに転がり、手に持っていた包丁を手放した。

    「言いたい事はそれだけか? どんな懺悔が聞かれるか楽しみだったが、まさか恨みつらみとは思わなかったぜ。ようするにアレだろ? 母ちゃんに相手されなかったんだな?」

    馬乗りになりながら言った。いや、そもそも父親でも何でもない。親父って言うのも変だな。

    何故かさっきから、夏樹さんの顔が頭にチラついている。

    「離せ、どけっ」

    親父だった男は体を激しく揺らしている。

    「血が繋がってなくてホッとしたよ、父親でも何でもねえんだなお前。最後に一つ教えてやる。母ちゃんはお前の事を一度も悪く言った事はなかったぜ」

    落ちた包丁をゆっくりと拾った。

    中学校のそう、あの時のコンパスみたいに。

    「なんて事はない、愛されてなかったんだよ、お前」

    親父だった男は気が狂ったように下で暴れた。

    「お前に何がわかる! 俺とアイツの何がわかる!」

    「わかるよ」

    自分でもびっくりするくらい穏やかな声が出た。

    「母ちゃんもおれも幸せだったんだな。お前がいなくて。金は無かったが、幸せだったんだ」

    包丁の柄で口元を殴った。

    血と共に、白い歯も吹き飛んだ。

    「待て、待ってくれ、待ってっっ」

    遠くで何か聞こえる。だが、おれにはその声はほとんど届かない。聞こえてくるのは、夏樹さんのあの優しい笑い声だ。

    ——飛べる迄、あなたは見ていて?

    声は小さいが、妙に発色のいい通る声がどこかから聞こえてくる。おれはこの短い時間の間で、あの人の事を好きになっていた。無償の愛をもらったのは、母ちゃんと夏樹さんだけだった。

    「勝治、勝治、なあ? すまねえ、すまなかった、勝治」

    夏樹さんの声を、ダミ声が邪魔をする。

    ——お願い、私がちゃんと飛べる迄見ていて?

    声がまた聞こえた。ごめんよ夏樹さん。

    「小さな子供がいるんだ! おれが死んだらその子はどうなる? 勘弁してくれ」

    足の下で、鼻血まみれの歯抜けの元親父が、命乞いをしている。

    「…子供?」

    「そうだ、まだ五歳にもならねえ。頼む、見逃してくれ、悪かった、勘弁してくれ」

    泣きながらたしかにそう言った。

    「そうかい」

    おれは立ち上がった。

    下で暴れていた物体は、体が自由になったとわかり起き上がった。

    「すまねえ、お前にした事は謝る。すまなかった、許してくれ。許してくれ」

    その物体は、フラフラしながらペコペコと頭を下げた。御大層に涙まで流してやがる。母ちゃん、おれのせいでこんなヤツと一緒になったのかい? そう考えると涙が出てきた。

    「償う、みずえの墓参りにも行くよ、悪かっ——」

    おれは再び包丁の柄を、顔面めがけて打ちつけた。

    「よく喋るなお前」

    ごめん、夏樹さん。

    「ゴミがよ、よく喋るなてめえはよ」

    ごめんな、母ちゃん。

    「ッおうああああ」

    言葉にならない叫び声をあげながら、元親父は背中を向けて逃げ出した。

    「お前の愛なんて、母ちゃんはいらない」

    おれはテーブル椅子を持ち上げ、頭めがけて振り下ろした。何度も、何度も。声が聞こえなくなるまで何度も。

    気がつくと、巨人日ハム戦はゲームセットを迎えていた。

    買ったのは巨人のようだ。

    おれは野球は好きじゃないから、どうでもよかった。

    羅臼岳。

    北海道の端っこにある山。おれはいま、その山頂にいる。

    見渡す限りの広大な雪景色、そして遠くに見える山々にも真っ白な雪が覆い尽くしていた。生まれて初めて見る光景は圧巻だ。山の上は思ったよりも寒さは感じない、もっと体の芯から冷え切るもんだと思っていた。もしくは興奮で麻痺しているのかもしれない。

    しかし目の前に土下座している親父はブルブルと震えている。見事に変形した鼻から、さっきまで滴り落ちていた血が、今やすっかり凍って小さな氷柱になっていた。

    「寒いの? 痛いの?」

     単純な疑問だ。痛いと感覚が麻痺して寒く無いのか、それともやっぱり痛い方が勝つのか、だが男は返事をしない、ただひたすら下を向いてブルブルと震えている。

    「おいってば、聞こえてんだろうが」

     正座する親父の右肩口に向かって前蹴りを入れると、うめきながら勢いよく雪の中へとひっくり返った。素っ裸だから汚いモノが全部丸見えだ。まあ、情けない姿もここまで来るともはやなんとも思わないが。

    「頼む、助けてくれ…」

    「はぁ? 何?」

    「…助けて」

     裸で顔面血だらけ、寒さで凍えながら山頂で土下座をさせられているこの状況でも命乞いは忘れない。

     結局包丁で刺すことはできなかった。いや、やらなかった。夏樹さんの声が頭の中でどんどん大きくなったからだ。

    だが許すことはできない。どうする?

    そこでおれは思い立ったんだ。心から懺悔をさせ、恐怖を味合わせることを。

    失神したコイツを縛り、駐車したミニクーパーを取りに戻ったおれは、再び店の前につけ、車に乗せた。夏樹さんにはこんなに汚い物体を乗せてしまった事を本当に申し訳なく思っている。

    土地勘のないおれは、身近にある山を探した。できるだけ高い山。時間的に人はまずいないだろう。

    すると、すぐに羅臼岳の看板を発見する。

    ここしかない、舞台は羅臼岳だ。

    それからは車で登れる場所まで登り、緊急車両しか通れない道を更に上がっていく。山頂あたりに着いたのは、店を出てから二時間近く経っていた。

    「アンタ助かりたいの?」

     その言葉に懇願するような目つきで何度も頷いている。改めてじっくりとその表情を眺めてみた。瞼も塞がり、鼻は曲がっていても、元父親だとわかる。小さかったおれをゴミのように殺そうとした、病弱な母ちゃんをあっさりと捨てたあの男だ。

    「いいよ、帰ればいいじゃん」

     言葉の意味がわからなかったのか、震えるのも忘れて口をポカンと開けている。

    「ほら、帰れよ」

    「…いいのか?」

    「さっさと行けよ、面倒臭え」

     男はふらふらしながら立ち上がったが、すぐに再び懇願する表情でおれを見つめてきた。

    「なんだよ?」

    「どうやって帰ればいいんだよ…」

     そう。

    真っ裸でこの寒さの中、生きて降りることはできるのか。おれは興味があった。助かりたい人間の意地を見せてみろよ。

    「知らねえよ。さっさと行かねえと殺すぞ」

     おれは尻ポケットからゆっくり新聞紙に包んだ包丁を取り出した。

    「どっちがいいか選べよ。ここで刺し殺されるか、素っ裸で雪山を降りるか。好きな方を選べよ」

    「勝治、許してくれ、勘弁してくれ、頼む」

    「名前呼ぶんじゃねえよ、気色悪い」

    「俺は…父親だぞ!」

    びっくりだ、コイツはいまだに父親だと思っているのか? いや、違う。助かりたいから口から出ただけだろう。

    「お前の血は入ってねえよ、笑わせんな」

    「勝治!」

    「お前がどうなろうと知ったこっちゃねえんだよ、な? 自分で選べ。走って頑張って山を降りるか、それが嫌ならここでおれを殺せばいいじゃねえか。そしたら服も車も手に入るしよ。ほら、かかってこいよ」

     死にたくなければ襲い掛かればいい。それくらいの選択肢は、最後に与えてもいいんじゃないか、情けみたいな気持ちも少しあるんだ。

    凍え死ぬか、おれを殺すか。

    「選びなよ、どっちにしろ最後だ。山降りるなら俺は追わねえよ、もう会いにも来ない。向かってくるならそれでもいいぜ。殺してやるけどな」

     ブクブクとだらしない脂肪をまとった男は震えていた。興奮なのか、寒さなのか、悔しさなのか、もはやどうでもいい。

    「それでも人間かお前は…」

    「お前こそ人間なのか? ほら、かかってこいよ、怖えならさっさと走れ」

     おれは新聞紙から包丁を取り出す。

    「勝治、俺は…」

    「もういいや、死んじまえ」

     握った包丁を振りかざす。わざと大きく振りかぶった、これで向かってくるなら容赦無く刺す、つもりだった。

     しかし男は後ろへ転がるように走り出した。

    といっても積もった雪の中だ、フラフラと雪を裸足で蹴り上げるように進んでいる。

    母ちゃんは今、この場面を空から見ているのだろうか? 

    だとしたら間違いなく怒り狂っているだろう。普段優しいだけにめちゃくちゃ怖いんだよな、思い出すだけで震えがくる。

    「おら! しっかり走れよーー、死んじまうぞー」

     まだ百メートルも離れていないのに、一歩、一歩とふらついている。

    「おら、いっちに、いっちにっ」

     ヨタヨタと、死に物狂いで走る裸の中年、きっといまの家族のことを考えているんだろう。おれは少し間を置き、着いていく。

    ——お願い、私が…

     夏樹さんの声が聞こえた。

    彼女はこの選択は最低だとおそらく罵るだろう。

    その通りだ、人の所業ではない。それでもおれはコイツを許さない。惨めで最低な孤独の中死なせることだけが、納得する最後だ。

     百メートルほど歩いた頃、親父はゆっくりと前のめりに雪の中へと倒れた。

    近くまで行くとゆっくりと呼吸をしている。体から湯気が立っていた。おれはその姿を見下ろすように眺める。

    「おら、どうした、走れや」

     上から軽く蹴飛ばすと、力を振り絞り親父は立ち上がった。

     そしてゆっくりと前に歩き出す。

     一歩、一歩、もはや走る事はできない。

    「気合い入れろや、ほら」

     ふらつく後ろ姿に、五歳の頃の自分を照らし合わせる。

     あの頃のおれは、きっとこの男の愛を浴びたかったのだろう。そして首を絞められた。

     再び崩れるように親父は倒れた。距離にして五メートル。

     小さく呼吸を繰り返した。

     スー

     ハー

     スー

    ハー

    ゆっくり、ゆっくりと、呼吸のスピードが遅くなり…

    そしてそのうち止まった。

    十数年前、おれら家族を捨てた男は、新しい家族を残したまま雪山で孤独に死んだ。

    おれの望んでいた最後だろうか、これが? 

    今更もうわからない。

    それにまだやることがある、夏樹さん、おれにはまだやることがあるんだ。

    インタビュー R3・8・25 伊能勝治

    「……どうして山の上だったんですか?」

    「なんとなくだよ」

     桐原は想像した。

    もしも自分が凍えるような山頂に裸で放置されたら?

    吸う息が胸を焼き、全身霜焼けでただれながらも必死で山を下るだろう。しかし体は動くのだろうか? 絶望と屈辱の中、一歩一歩進み、そして力尽きる。

    「父親の最後には納得できましたか?」

    「どうかな。もう少し気が楽になると思ったんだけど、モヤモヤは残ったままだしね」

    「血縁関係がなかった事はいま初めて知りました。月並みな質問ですが、どんな気持ちでしたか?」

     ニュースにも新聞にもそんな話はどこにも出ていない。

    「色んなことが腑に落ちたっていうか、納得できた感じ。とにかく母ちゃんには申し訳ないって思った。おれのせいで我慢してたんだなって」

    「でも——」

     ふと、刑務官が近づいてくるのが見えた。時間だ、おそらく三十分は優に既に過ぎているのだろう。インタビューを始めた当初から感じていたことだが、刑務所側は時間に対してかなり融通を利かせてくれている。

    「時間みたい。恐らく次で全部話せると思うんで」

    「わかりました、今日もありがとうございました。二週間後までに私も構成をまとめます」

    「了解っす」

     伊能は立ち上がり、刑務官に頭を下げた。その表情を見る限り、彼なりに刑務所内で関係性を気づいていることがわかる。人としてどこか惹きつける魅力があるのだ。


     桐原は府中からの電車内、スマートフォンで当時の記事を検索した。

     凍りついた甲斐正隆の死体が発見されたのは、伊能が凍死するのを見届けてから半日後だった。

     雪に積もった状態で血だらけ。肌はただれきっていて、全身に血が滲んでいたそうだ。発見した登山者の衝撃たるや想像するのが難しくなかった。きっとトラウマになっているだろう。

     インタビューとニュース報道の時系列を照らし合わせると、本人の動きと綺麗に約半日ずれた状態でマスコミは報道していたようだ。それはイコール警察も遅れをとっていたことになる。

     川崎で暴力団員を一人殺害した青年が逃走。一日後には遠く離れた八戸でまた暴力団を四人殺害、さらには北海道の端っこ、羅臼で実の父親まで殺害。その方法は、雪山でのリンチ、挙句の放置だった。

     世間は北上しながら殺害していくその謎の行動に恐怖し、未成年者が起こした犯罪というのも話題に拍車をかける。

     話題はこれだけには止まらない。およそ日本では考えられないような逃避行をロマンチックに語り出す犯罪専門家、ネット上ではヒーローとして崇められ始める始末だった。

     そして最後は川崎へと戻り、逮捕された。

     桐原は当時のことを昨日のことのように思い出せる。アルバイトをしながら最初の作品を描いていた頃だ。突如起きたセンセーショナルな事件に心を躍らせたのを覚えている。そしていつかこの二人に何があったのか、自分の手で包み隠さず書きたいと強く思っていた。

     実際、伊能と神田の二人から直接話を聞いて思うことがある。

     桐原は電車の遅さに苛立ちを覚えた。家に戻って早くパソコンに向かいたい。二人の生の声、新たに知り得た真実を交えて最高のノンフィクションを書き上げたい。

     そして何より真実を伝えたい。

    頭のいかれた不良が起こした愉快犯的行動ではなく、そこには確かに愛情があったのだと、上部だけを見て語っていた専門家たちに向けて知らしめたい。

    みんな本質を見誤っていると知って欲しかった。

    第四部 二人で

    K出版 応接間 R3・10・1 桐原菜月

     包み隠さず書き上げた第一校は編集会議で議論を巻き起こした。

    ショッキングな暴力描写に反して、二人の純粋な愛情の交流、インタビューを進めれば進めるほど、伊能勝治という一人の青年が、決してモンスターではないことを伝えたいと心から桐原は思った。

    それは同情からくるものではなく、むしろ日常に潜む恐怖、誰もが持つ大なり小なりの復讐心からきた犯行なのだと日本中に伝えたかったのだ。

    編集部長は、世間からの反発を恐れ、伊能が語った言葉そのままの暴力描写を使うことを拒否、それに対して桐原は断固として抵抗。最終判断は取締役会長まで上り詰める。

    結果は包み隠さず世間に発表するという判断だった。

    だがこれを英断だとは桐原は思わない。もちろんかなりの苦情も予想されるが、このインターネット社会、間違いなく話題になるだろう。

    しかし桐原はもはやそんな事はどうでもよかった。

    とにかく伊能と神田、二人の距離感を世間に公表することに使命感を覚えていた。

    インタビューはまだ残っている。内容によっては構成を組み立て直す可能性もあるが、基本のフォーマットはこれで行くことになるだろう。

    改めて当時の新聞を見返してみる。

    伊能勝治は、人が持つ一般的な感情が欠落した恐ろしい存在として過熱報道されていた。記者が大げさに事件を語り、その犯罪の異常性を説いた。

    ——殺すことに快楽を覚えている。

    いや、違う。それならば無差別に殺しているだろう。

    ——家庭環境が作り出した暴力性。

    半分あっている。が、伊能の母親はむしろ愛情を注いでいた。問題があったのは父親の方だった。

    メディアの偏った報道は本当に危険だ。今の若者はインターネットで情報をチョイスできるが、旧世代の新聞、テレビを信じきった連中にとって、メディアが語る思い込みのコメントがそのまま頭に刷り込まれる。

    桐原は今回、編集担当から伊能にのめり込み過ぎている、肩をもつな、と随分な言われようだった。それは違う、インタビュー前からそもそものめり込んでいたのだ。マスコミが作り上げた大げさな猟奇性などいらない。事実をちゃんと伝える、当たり前のジャーナリズムでしかない。

    伊能は自分が起こした事件がとんでもないことを理解し、然るべき処罰を受け入れている。だが決して罪悪感は持ち合わせていない。なぜなら、大事な人を殺されたからだ。

    ——もしもアンタの大事な人が殺されて、復讐できるタイミングがあったらどうする? 

    今回、桐原が読者に問いたいのはここだ。自分自身も伊能に言われてから、ずっと考え込んだ。いまもはっきり答えが出ない質問を日本中にぶつけるつもりだ。

    神田夏樹の最後のインタビューを思い出す。

    本当に凛とした女性だ。同性として人間として、彼女の覚悟を尊敬する。


    ——北海道で過ごす初めての冬は、思ったよりも暖かいものでした。

    あの日、目が覚めると私は病院にいました。何故か? それはきっと気を失った勝治君が連れてきてくれたのだと思っていました。しかしそれは間違いで、祖母が救急車を呼んでくれたみたいでした。起きて彼がいなくなった事に気が付いた時、涙が止まりませんでした。もう会えないだろう、そう思ったんです。

    祖母はあまりにも異常な状況を心配し、根掘り葉掘り聞いてきましたが、私は何も話しませんでした。ただ、おばあちゃんに会いに来る途中に知り合ったんだと。苦しんでいるところを助けてもらったんだと誤魔化して。

    でも病院に運ばれて、一週間ほど経った頃でしょうか。

    東京から警察が私を訪ねてきたんです。

    「失礼ですが、神田夏樹さんですか?」

    中年の疲れ切った男性はそう言うと、黒い手帳を私に見せました。

    「はい、そうですが」

    私は覚悟していました。この旅を隠すつもりもありません。

    その中年男性は神奈川県警川崎署の生活安全課だと名乗りました。

    どうぞ、とこちらが言う前に、刑事さんは私のベッドの横に座り、ヨレヨレのメモ帳を取り出しました。

    「いやあ、寒いと思って着込んだのですが、意外と暑いですなあ」

    「警察の方が、どのようなご用件でしょう?」

    白々しい、自分でも思いながら聞きました。

    「伊能勝治、ご存知ですな?」

    予想通りの名前が出た。私は隠すつもりはありません。少しでも彼の荷物が軽くなるなら。

    「はい、知っています」

    刑事さんは特に動揺をしているそぶりを見せませんでした。でもその後、話し出した内容は予想外の事でした。

    「今日は伊能から頼まれごとがありましてな、これですが」

    そう言ってコートのポケットから白い封筒を出した。

    「これを、あなたに渡してくれと頼まれまして」

    「…勝治くんに?」

    「ええ」

    封筒を受け取り中を見ると、二万五千円と小銭、そして私が託した両親への手紙が入っていました。

    「あの…」

    私は訳もわからず、刑事さんを見ました。

    「車も勝手に借りて申し訳ない、との事でしたよ。そして、ありがとうと伝えてくれと。車は羅臼の道の駅ですか、そこに停めてありました。すでに警察の方で確認させていただきました。証拠品として警察が保管しておりますが、手紙やお金などはお返しできるようになりました」

    私は封筒を握りしめました。勝治くんはいつだって優しかった。彼の起こした事件を知ったのは病院で意識を取り戻して数日後の事でした。

    「勝治くんはどうしていますか?」

    「逮捕の際、右手の人差し指を骨折しましたが、至って元気ですよ。取り調べの際、あなたに返しておいてくれと。お婆さまに問い合わせると、こちらに運ばれたと聞きましてね」

    刑事さんはため息をつき言葉を続けました。

    「神田さん、大体の事情は把握しております。伊能に脅されて北海道まで付き合わされたことも。あなたに申し訳ないと連呼しておりましたよ」

    「違うんです、彼を北海道まで連れてきてしまったのは私です。お父さんへの感情もわかったまま。だから、私も彼と同じで裁かれる身分なんです」

    「……伊能はそう言っておりません。まあどちらにしても神田さんには詳しく話を伺う必要があります。まずは体調を整えてからになりますが。身分もしっかりされていますし、逃亡の恐れはないと考えておりますので。もうしばらくこちらでお世話になった後は、東京に転院していただければそこで話を伺います」

    「全て話します。一つだけ言わせてください、彼は決して無理やり私を巻き込んだわけじゃありません」

     彼はきっと怒るでしょう。約束とは違う発言をしているから。

    「逃亡幇助、ということですか?」

    「はい」

    不意に我慢していた涙が溢れてしまいました。私は彼の事が心の底から好きだった。そしてもう会う事はないのだと改めて思い知りました——


     神田はゆっくりと、そして迷いなく話した。

    あまりに清々しい表情は、死を覚悟した人間特有の潔ささえ感じる。

     その後は東京の警察病院へ転院、一ヶ月後取り調べが開始された。一貫して自分の意志で行動を共にしたと言い張る神田。それに対して伊能は鼻で笑って否定したそうだ。結果、逃亡幇助は適用されず、罪に問われることもなかった。

     対して伊能は裁判では大人しく、尋問には全てハキハキと答えていた。

     世間ではマスコミの煽りもあり、化け物のように報道。神田も矢面に立たされた。

     あれから二年、あんなに連日報道されていた事件も形を潜め、現在のトレンドは有名俳優の不倫報道だった。

     人はこうやって忘れていく。でも確かにこの二人の物語は現在進行形で、そしてもうすぐ終わりを迎える。

     桐原は伊能の最後のインタビューを録音したボイスレコーダー音源を再生した。

    インタビュー R3・9・8 伊能勝治

    「改めてお聞きします。殺人を犯したことを後悔していますか?」

     伊能は少し考え、答えた。

    「全然」

    「殺された人間にも家族がいるとは考えませんでしたか?」

    「じゃあ逆に聞きたいんだけど、向こうは考えなかったの?」

     桐原は答えに詰まった。屁理屈とも聞こえるこの返しを、否定する材料を持ち合わせていない。

    「どんな感情を抱きながら、殺人を犯したか覚えていますか?」

    「それって興奮したとかそういう話?」

    「たとえば、そうですね」

    「ただ必死だよ。余計なこと考える余裕もないし、殺られる前に殺らないと」

     我ながら馬鹿な質問をしたと後悔した。

    「ありきたりな質問でごめんなさい。単純な興味です」

    「人を殺すことに喜びを感じる奴がいるでしょ? 快楽殺人てやつ。あれは自分が絶対的に安全な環境じゃないと成立しないと思うんだよ。要するに弱いものいじめってやつ。そんな趣味はないよ」

    「たとえば、戦争で命のやりとりを楽しむ人種もいます。自分が危険に晒されることで興奮する人間が」

    「そりゃあただの変態だよ」

     伊能は笑い出した。

    「興奮なんてしませんか?」

    「しないよ、怖いじゃん。痛いしさ」

    「伊能さんはもう、殺したい相手はいませんか?」

    「うん、いない」

     この異常とも言えるやり取りは、絶対に使おうと心に決めた。誰にでもある復讐心、その先に進むのは人それぞれだ。

    「では、いよいよ川崎に戻ってからの話になります。松山さんの仇を取りに戻ったんですよね」

    「そう。とにかく警察の数がすごくてさ。でも意外と捕まらねえんだよな。まあ、あの街だったらどれだけでも逃げれる自信もあったんだけど」

    「伊能さんはそこで三人を殺害します。こういった質問は間違っているのを承知で聞きますが、復讐を遂げるのは難しかったですか?」

     この後、伊能は逮捕される。桐原のインタビューは最後の瞬間を迎えようとしている。

    「殺すことは別に。基本舐めてるからねアッチは。そこが甘いんだけどさ。大変だったのは火が出た後だよ——」

    1

    日本の警察は優秀だ。

    まあ、そうだと思う。

    日本の治安は素晴らしい。

    これには疑問が付く。

    それは年寄りの幻想みたいなもんだ、いつの時代の話だよ。

    ゴミゴミした粉っぽい街、川崎におれが戻ってきたのはあれから一週間後の夜の事だ。元親父の店のレジから、拝借してきた金でしばらく札幌に潜伏し、頃合いを見計らって新幹線を乗り継ぎ、快適に川崎に戻る事が出来た。

    そんなに捕まらないものなのかって?

    そうじゃない。日本の警察は優秀なんだ。実際、川崎の街にはウヨウヨといたからね。ただ運が良かっただけだ。いつかは呆気なく捕まるだろう、それでも最後の用事を済ませに戻って来たんだ。

    川崎の街は今日も騒がしい。気性が荒そうな親父連中が居酒屋の前で喧嘩している。数年ぶりの喧騒がなんだか心地よかったんだ。

    ふと夏樹さんの事を思った。

    おれは彼女が無事だと信じている。

    もう一度だけでも会いたい、心からそう思った。

    紋白蝶と旅をしたのは二日だけ、東の果てから西へ戻ったおれには、もはや北海道の地は遥か遠くに感じた。

    ——紋白蝶ってどんなんだっけ?

    ——私みたいなの、地味。

    彼女は言った。札幌で隠れていた漫画喫茶のパソコンで、紋白蝶の画像を検索した。確かに地味な蝶々だ。真っ白い羽根に、お供え程度の黒い斑点、煌びやかな色は一切なし。だけど慎ましくて綺麗なんだ。派手じゃなくたって素敵なんだよ。子供の頃、公園で一人遊ぶおれに会いに来てくれた蝶々だった。

    フェリー乗り場でやられた傷もすっかり治ったおれは、特に変装もせずパーカーのフードだけ被り川崎駅東口を出て、クラブチッタ川崎方面へと歩いた。途中パトカーが二台、連なって商店街の方へと向かっていく。

    煌びやかなショッピング通りの一本脇の道は、相変わらず薄暗く、この街本来の姿を今も守り続けている。要するに柄が悪いんだよ。

    おれは見慣れた雑居ビルの近くまで歩いた。すると、明らかに警官だと思われる私服連中が車に乗っている。その視線の先には円都市開発の看板があった。

    さあどうする。

    もちろん正面からは入れない。おれは正面を改めて確認し、ビルの裏側へ回る。警察車両は見当たらなかったが、隣接するビルとの間に隙間がないため、こっちから侵入するのも難しい。

    ということで、待つことにした。

    辛抱強く、近くのコンビニで買ったクリームパンを頬張る。これじゃどっちが張り込みかわかりゃしねえよな。

    おれは暇つぶしに現在の手荷物を確認した。百円ショップで購入してきた包丁、これまた一緒に買ったライター、そして覚醒剤の詰まったジェラルミンケース。

    いやあ笑ったよ。

    マツは母ちゃんが眠っている納骨堂に隠してたんだ。駅の反対側にある当時できたばかりの綺麗な建物なんだけどさ、母ちゃんの車のために溜めていたお金を全て使い、広めのロッカー式を契約していたんだ。位牌に手を合わせに行ったら手紙と共にカバンが置いてあった。

    手紙にはこう書いてあった。

    ——高校入学資金

    どこの世界にヤク捌いて高校生になる奴がいるんだよ。

    馬鹿だよなあ、本当に馬鹿野郎だ。

    クリームパンを食べ干し、暇を持て余し始めた頃、ビルの前に止まった警察車両のテールランプが光った。交代か? それとも警察署に戻るのか? どっちでもいい。チャンスは一瞬だ。

    車が走り出す。おれはビルの脇へと移動した。車両が路地に入る瞬間、一気にビルの正面へと走った。

    入口には人影がない。おれは雑居ビルの階段を駆け上がり、息を整えた。円都市開発は三階、ビニール袋から包丁を取り出し握りしめた。

    ここまできて失敗したら馬鹿みたいだよな、なんとしても斎藤だけは殺さないといけない。

    入口はタッチパネル式のオートロック、その横にインターホンが備え付けられている。さらにその上には御大層にカメラが設置されていた。

    真っ向勝負だ。おれはインターホンを押した。

    「——なんだお前」

    「お届け物だよバーカ」

     カメラに向かってケースを向けた。

     少しの沈黙の後、ドアが開く。

     見たことのないデブの坊主が、威嚇する目を向けてくる。そして部屋の奥から聞き覚えのある声が聞こえた。

    「伊能だろ? 入ってこいよ」

     斎藤だ。間違いない。

     円都市開発の事務所はこじんまりとしていた。部屋の真ん中にあるソファに深々と偉そうな男が座っている。

    「よく顔出せたなお前。大したタマだよ」

    「そりゃあどうも」

     部屋には三人、座った斎藤にジャージ姿の遅い男と、デブの坊主。ヤクザも人手不足らしい。

    「お前、親父殺したんだって? すげえニュースになってんぞ」

    「関係ねえだろう」

    「うちのモンも殺しやがって。クスリ返したってタダじゃすまねえよ」

     斎藤以外が明らかに浮き足立っている。いや、斉藤もスカしてるだけで相当頭にきているみたいだ。

    「うるせえよ、やってみろ」

    「殺すぞコルゥあ」

     デブが一歩前に出る。おれは尻に隠した包丁を握った。

    「待て、おい伊能、ちゃんとシャブ入ってんだろうな?」

     さすが若頭、感が鋭い。おれはケースを開き、あらかじめたっぷりとジッポーオイルを染み込ませたクスリに火をつけた。

     勢いよく燃え上がると同時に斎藤が立ち上がり何かを叫んだ。

     おれはその声を無視し、火のついたケースをデブに投げつける。

    「ひッッ」

     見た目と違った声色でのけぞるデブ。

    おれは痩せっぽジャージに駆け寄り、腹に包丁を突き刺した。

     生暖かい血が噴き出すと同時に、おれは包丁を縦に捻る。

    声も出ずに膝まずいたのを横目に斎藤に飛びかかった。

    「てめええええええ」

     斎藤の拳が右のほっぺに食い込む、が、歯を食いしばってるおれには効かない。包丁の柄で油ぎった鼻を潰す。

     痛みで顔を逸らした斎藤の太ももに包丁を突き刺した。

    「ッッッッいえあああ」

     こいつは行動不能だ、最後にしてやる。

     真っ白な粉に塗れたデブが、体に燃え移った火を一生懸命消している後ろに回り込み、首筋に思い切り包丁を突き刺す。

     そこで包丁がポッキリと折れたんだ。

     声もなく痙攣するデブを蹴飛ばし、再び斎藤が転がるソファへと近づいた。

    「ぶっ殺してやる、てめえぶっ殺してやるからな」

    涙目で凄む斎藤がなんだか哀れに見えた。

    「確かに返したぞ」

    おれは、燃え盛るケースを指差した。

    「逃げれると思ってんのかてめえ、必ずぶち殺——」

    「無理だな、おれ捕まるもん」

    斎藤の言葉をおれは遮ってやった。

    「ふざけんなよ、ムショ内だろうがどうにでもなるんだよ」

    「お前らさ、暴力が専門なんだよな? フェリーん時もそうだけど無様なんだよ。ガキに殺されるんだからよ」

    「クソがァぁあああ」

    おれは斎藤のスカしたスーツの襟首を掴んだ。

    「マツに教えてもらったんだ」

     狙いを定めて一発。怪我をしないようにデコの硬い部分で鼻っ柱に頭突きを入れる。

    ——ゴツ

    「どうだ?」

    ——ゴツ

    「痛えだろ?」

    ——ゴツ

    「マツのやつは」

    ——ゴツ

    「もっと痛えぞ」

    ——ゴツ

     斎藤の顔面はぐちゃぐちゃに変形していた。

    「か、勘弁ひて…」

    ——ゴツ

    「勘弁せん!」

    ——ゴツ

    「勘弁っ」

    ——ゴツ

    「せん!」

    ——ゴツ

    ——ゴツ

     痛え、さすがに頭が痛くなってきたところでおれは頭突きをやめた。斎藤の顔面は割れたスイカのようにぐちゃぐちゃになっている。

     ふと、周りが煙たいことに気が付く。入口はすっかり日が燃え移り、デブが囂々と燃えていた。

    「やべえ」

     おれは部屋を見渡す。窓は一つしかない。飛び降りるしかないのか?

     煙をかき分けながら窓を開けると、窓の下には野次馬とパトカーが三台止まっていた。

    「伊能、もう逃げられねえぞ、降りてこい!」

     警官が拡声器で叫んでいる。いや、もちろん降りるって、それどころじゃない。

    「おーい、お巡りさん、ちょっとやべえんだよ? 部屋が燃えてる!」

    「煙は見えてる! いいから早く降りてこい!」

    「だから燃えてるんだよ! 入口から出られねえ。飛び降りるからパトカーを真下につけてくれ!」

     警官は言葉に詰まっている。勘弁してくれって思ったよ、このままだと燃えちまうって。

    「おい、マジで燃える! パトカーつけろって! こら、姉ちゃん、撮影してる暇があったらアンタからもそのお巡りに言ってくれよ!」

     スマートフォンがたくさん向けられる中、一番前で撮影していた野次馬に叫んだ。やべえ、ケツが焼ける。

    ——助けてあげなよ!

    ——パトカー移動してあげて!

     気が付くと野次馬が警官を罵倒している。ナイス!

     我に帰った警官がパトカーを窓の真下に移動した。

    「おー。飛び降りるぞ、自首するから殴ったりするなよ、みんな、警官が殴らないように撮影してくれ」

     おれは覚悟を決めた。

     そして——

    エピローグ

    テレビ出演 R3・9・8 桐原菜月

    「本日はよろしくお願いします」

    「よろしくお願いします」

    普段、インタビューする側の桐原にとって、逆に自分が話を聞かれる状況がなんだがむず痒かった。夜のニュース番組に出演依頼が来た際、正直戸惑う部分もあったが、あの二人から託された物語の補足をするにはうってつけの場所だと考えたのだ。

    目の前には進行する女性アナウンサーと歯に衣を着せぬで有名な初老のコメンテーターが座っている。明らかに桐原に対して敵意を剥き出しで、それがパフォーマンスなのか、本心なのか読み解く事はできない。

    その女性アナウンサーはにこやかに口を開いた。

    「現在、話題になっているノンフィクション(紋白蝶は東へ飛んだ)ですが、そもそもなぜこんなタイトルになったんでしょうか?」

    「伊能容疑者とのインタビューで、神田さんの事を紋白蝶と表現されていたんです」

    「伊能の幼少期、孤独に過ごしていた公園での出来事ですね?」

    「はい。その後、偶然にも神田さんもご自分のことをそう表現されたそうです」

     タイトルは早い段階で決めていた。そこで初老のコメンテーターが口を開く。

    「今回、私が気になったのが、伊能勝治と神田夏樹の描き方です。犯罪者であるわけで、もう少し助長した表現の方が受け入れやすいと感じました。人間性が垣間見れるのはわかりやすくて良いのですが、人が何人も死んでいるわけです。その辺は書いている際に気にはなりませんでしたか?」

    「まず、本にするにあたり、インタビューで語られた内容は一字一句ちゃんと書き残そうと思っていました。彼らの生の声をそのまま世間に届けるのが目的です。決して彼らのキャラクターを私が脚色したわけではありません」

    「伊能被告はどのような人物でしたか? 本で見る限りは穏やかな人物に感じます。しかし彼は九名を殺害している殺人犯です、我々一般人としては恐怖の対象でしかないわけです」

    体裁を気にする、口八丁なコメンテーターのいいそうなことだ。

    「確かに彼の行った犯罪はとても残忍です。その中には実の父親もいました。そんな事件を何故、未成年が起こしたのか? これまでの報道で、父親に幼少期に捨てられたこと、窮困の中、非行に走ったこと。その二つの理由をもとに語られてきました。もちろん大きな理由になりますが、そんな環境で育ってきた人間はたくさんいます。なのに彼はどうして暴走したのか? そこの部分を掘り下げた報道は一つもありませんでした」

     冒頭からの空気の悪さを気にして、女性アナウンサーがなめらかな口調で口を挟む。

    「ニュースなどで流れる伊能被告の情報だけでは、事件の全体像が見えないということですか?」

    「いえ、事件は九人が殺された事実だけです。でも、なぜ彼は九人も殺したのか? 殺す必要があったのか? うち八人が暴力団関係者です。そして実の父親。私は一介のルポライターとして、彼の声が聞きたくなったんです」

    「一人の人間としての伊能被告を書きたかったわけですね。対する神田夏樹さんですが、報道当時は実名報道ではありませんでしたが、今回こうやって名前を公表した理由は、やっぱり伊能被告の名誉回復のためということですか?」

    「そもそも、最初は神田さんにオファーしたんです。彼女の話が聞けないと、この本を書き上げる意味はないと思っていました」

     彼女の言うタイミングに合っていなかったら、そもそもこの本は書き上げることができなかったのは間違いない。

    「伊能被告の、神田さんに対する気持ちが今回の焦点になっています。最初から構成していたんですか?」

    「いえ。それはインタビューしてみないとわかりませんでした。伊能被告の人間性を掘り下げるうちにわかったことです」

    「神田さんは現在闘病中とのことですが、そういった状況が実名公表につながったんでしょうか?」

    「それもあると思いますが、一番の理由は裁判だと思います。彼に最終判決が下る前に話しておきたいとおっしゃっていましたので」

     彼女の思いは世間にどう伝わっただろうか?

    「桐原さんは伊能被告の判決はどう出るとお考えですか?」

    「…わかりません」

    「二人に思い入れはありますか?」

    「もちろんです。ですが殺人を犯したことに変わりはありません。罪は罰せられるべきです。ですが私は犯罪に至った経緯を皆さんに知ってもらいたかったのです」

     桐原は二人の顔を思い浮かべた。彼らはあんなことがなければ本来知り合うこともなかっただろう。二人が一緒にいれる時間を願うことは罪なのだろうか?

     そこで再びコメンテーターが口を挟む。

    「私はね、桐原さん。どういった育ちであろうともね、どんな理由があろうとも、人を殺めるのは大罪だと思うんですよ。それは小さな子供だって知っている。復讐が動機だとしても、許されるべきでは——」

    「失礼ですが、お子さんはいらっしゃいますか?」

    「え? なんですか?」

    「ですから、お子さんはいらっしゃいますか?」

     辛口たる所以である、見せかけの怒りのパフォーマンスはうんざりだ。

    「いますよ、二人。孫もいますよ」

    「もしも誰かに殺されたら、あなたはどうしますか?」

    「それとこれとは話が違うでしょう」

    「違いませんよ。あなたのお子さんやお孫さんが誰かに殺害されて、もしも復讐する機会に恵まれたらどうしますか?」

     コメンテーターが口を閉ざす、生放送で沈黙が厳禁だ。桐原は質問を続けた。

    「この質問は伊能被告に私が受けた内容です。もしも自分の大事な人が殺され、復讐できるとすれば? 何日も考えました。いえ、何日もモラルと戦いました。世の中には犯罪の被害者家族がたくさんいます。それぞれが苦しい思いで生きているでしょう。堪えているんです、中には自死を選んだ人たちもいると思います。視聴者の皆さんにもお聞きしたいのですが、もしも同じ境遇でチャンスが来たら我慢することはできますか?」

    「あなた、その考えは危険です。もしもその考え方が満映したら、この国の常識は覆されてしまう」

    「それは建前の話ですか?」

     その一言でコメンテーターが激昂した。

    確かに復讐心で人を殺すなんて許されることではない。

    だが、簡単に否定できるだろうか?

    世間に責められたとしても、誰になんと言われようとも、もしも自分の子供が殺されてしまったら、間違いなく桐原は相手を殺すという結論に達した。

    そんなことしたって子供は帰ってこない? 

    残された家族が悲しむ? 

    そんな事はわかっている。それでも無惨に殺された大事な存在の無念、それを晴らせるのは自分しかいないと。

    「アンタそれでもジャーナリストなの? 絶対に世間は許さないよそんなの。私はね、やりませんよ。たとえ子供が殺されたとしてもね」

    「そうですか」

    「賛美してるじゃないか、殺人を。この男は最低の殺人鬼だよ」

    「そういった意見も理解できます」

    「えー…桐原さん、神田さんですが、やはり伊能被告の裁判の結果を気にされていますか?」

     女性アナウンサーが慌てて話題を変えた。カメラの向こうのスタッフ連中は興奮した面持ちをしている。

    「はい。彼女は伊能被告が犯した罪に加担したことを認めています。止められなかった自分を責めていました。自分だけ罪に問われていない事も気にされています」

    「全く関係のない神田さんが、事件に巻き込まれていく様が克明に記載されています。彼女は一体なぜ、伊能被告と行動を共にされたとお考えですか?」

    「とても難しい質問です。そこは私も理解し難い部分でした。歳も離れた犯罪者と北海道まで逃げる選択を選んだ当時の彼女の境遇は、恐らく理解は難しいと思います。神田さんのインタビューをそのまま掲載しておりますので、そこから読み解いてもらうしかありません」

    「おかしいよそりゃあ」

     そこでコメンテーターが再び口を挟む。

    「いくら病気だったからってね、犯罪者と一緒にいるかね? 同罪だよこんなの」

    「本人もそうおっしゃってましたよ」

    「ほら、同類なんですよ結局」

     桐原は考える。

    相手の挑発に乗る事はあの二人にとってプラスなのかマイナスなのか。ここはルポライターとして自分の作品を守るため、ありきたりな話しかできない目の前の老人に、質問をぶつけてみることにした。

    「先ほどから思っていたことがあります。ありきたりな、誰でもいいそうなご意見をさも自分の考えのように喋っていますけど、あなたの仕事はなんですか?」

    「何ぃ? 私にいっているのかね?」

    「誰でも言えることばっかり仰るから。コメンテーターってどの立場からものを喋ってるんでしょうか?」

    「馬鹿にしてるのか!」

     どうやらこれはパフォーマンスではないようだ。真っ赤な顔で怒る老人が桐原はおかしくてたまらなくなってきた。人は恥ずかしさと無知から怒りを誘発する。

    「話を戻しましょう。いいですか? 神田さんは北海道で体調を崩されて、旅を途中離脱されます。それからは警察から事情聴取されたりする中、不起訴となりました。それにもかかわらず、表に出てこられた最大の理由は、伊能被告を助けるためですね?」

    女性アナウンサーは冷静に口を挟む。そこにはコメンテーターに対する牽制のようにも聞こえた。

    「本人は名誉だと口にしましたが、そうだと思います」

    「私は読み終わった時、不謹慎ですがとても二人の思いやりに心を打たれました。と同時に、亡くなった被害者のご家族の存在も考えました。視点の違いによってさまざまな意見が出ると思います。改めて何故、この事件をいま取り上げようと思われたんですか?」

    「事件当時、二年前から構想していました。詳しく動機が語られず、このまま忘れられていつかは年末の特番で語られるような凶悪事件として、人の記憶にうっすら残る出来事になってしまうと思ったんです。恐らく神田さんの存在も、事実と異なる人物像が勝手に作られてしまう。伊能被告が犯した罪はもっと語られるべきではないかと思ったんです。人々は様々な側面からこの事件を語り、論議できるはずです。決して一方から語られる情報だけで判断してはいけない、いま現在のマスメディア、報道そのものに対しての問題定義でもありました。私の全ての事件につながる考え方です」

     日本のジャーナリズムに自由はないと桐原はずっと思っていた。もっと様々な意見が語られるべきだ。ちっぽけなルポライターでも世間に小さな波紋を呼ぶ事はできると信じている。

    「問題定義の意味もあったということですね?」

    「はい、例えば伊能被告が三階から飛び降りている動画がたくさんインターネット上に流れています。臀部を痛打してのたうち回る様がコミカルで再生回数も多いその動画は一切マスコミでは報道されていません。何故か? それはその後に警官が大勢で取り押さえる際、警棒で叩いているからではないですか? 伊能被告はもう動くこともできず、飛び降りる際に自首するとも口にしています。なのに飛び降りた後、暴行されています。そう言った事実は報道しない。誰もが知ってることなのに。おかしいとは思いませんか? 私は——」

     怒りがおさまらないコメンテータが容赦なく割り込んできた。

    「だからってねえアンタ、殺人を賛美するような本を出版していいとは思わないよ」

    「賛美しているように思いますか?」

    「そうじゃないか、これじゃまるで被告に同情が集まるような書き方だろう」

    「私はただ、彼が喋った内容をそのまま文にしただけです。それはきっとあなたが可哀想だと思ったんじゃないですか?」

     怒り狂って立ち上がるコメンテーター、鋭い表情で着席を促す女性アナウンサー、次のコーナーで明日の天気予報を紹介するお天気アナウンサーが袖で泣きそうな表情を浮かべている。

     桐原は思う。

    自分はとても意義のある本が書けたのだと。様々な年代の男女が考えればいい。あの事件は一体なんだったのかと。きっとどれも正解ではないのだ。ただ事実としてあるのは、九人を殺したということだけなのだ。でも、それでも伊能勝治を可哀想だと思う気持ちが沸いたとしたら、それはそれで一つの意見なのだから。

     もっと自由に考えていい。いろんな意見があってもいい、それを規制する流れを阻止する事が、桐原たちジャーナリストが夢見ている仕事なのだ。

    面会 R3・11・14 府中刑務所

    「久しぶりっす」

     伊能は心なしかふっくらとしていた。

    「なんだか少し太りました?」

    「最近なんだか飯がうまいんすよ。そういえば大立ち回りしたんでしょ? テレビで」

    「どうして知ってるんですか?」

    「若松が面会で言ってた。桐原さんが格好良かったって」

     伊能がケラケラと笑い出した。

    放送後、案の定世間は真っ二つに意見が分かれた。インターネット上では論議が盛り上がり、テレビの中では桐原自身も矢面に立った。

    面白いのは、若い世代は概ね桐原の考えに同調してくれたことだ。それは二人を賛美したことではなく、色んな意見があって良い、という部分だ。

    それこそが多様性であると。

    これからのこの国の見通しは決して暗くはない。なんて考える自分に桐原は悲しくもあった。

    三作品目の(紋白蝶は東へ飛んだ〜二人が地上に落ちるまで〜)はノンフィクション本として異例の初版二十万部を売上げ、現在も再販がかかり売れ続けている。

    「めっちゃ売れた?」

    「お陰様で。なんだか申し訳ない」

    「良かった、車買いなよ車」

    「車はいいかな、もう少し広い家に引っ越したいですけど」

    「いいね、引っ越そう。すぐ引っ越そう」

     彼と話しているとどうしても麻痺してしまう。ただの気のいい青年にしか見えないのだ。

    「今日は裁判結果について伺いました」

    「うん、ちゃんと受け入れるよ」

    「上告はしないのですか?」

    「弁護士はするって言ってるけど、しないつもり」

     桐原は伊能がそう言うと思っていた。彼は犯した罪の重さを理解しているし、争うつもりもない。ただ受け入れるのだ。目的は既に果たしている。

    「余計なお世話ですが——」

    「言わないでよ、わかってるから。桐原さんとは仲良いままでいたい」

    「……わかりました、余計なことでしたね」

    「ありがとう、気持ちは嬉しいっす」

     桐原は頷いた。余計なお世話なのだ、彼は最初から一度も助けを求めてこなかった。減刑を願ったのは自分の勝手なのだ。

    「今日は実は、もう一人伊能さんに会いたい方を連れてきています」

    「誰すか?」

     桐原は怒らないことを祈った。

    「神田さんです」

     まるで時間が止まったかのように、伊能は固まる。

    「いや、おれは会いたくない」

    「会いたくないんですか?」

    「会いたくないっていうか、会えないっすよ」

    「来てますよ、待合室に」

     伊能がわかりやすくソワソワし始めた。

    「いやいや、無理だって。いきなりすぎるよ、無理!」

    「無理ってなんですか、神田さんが会いたいって言ってるんです」

    「やめとくわ、無理」

    「あなたの意見なんて関係ないんです、ちゃんと会って謝りなさい」

     意気地のない青年に、桐原は腹が立ってきた。

    「え、いや、そうかもしれんけど…」

    「ちゃんと謝ってください、彼女に。男でしょ?」

     伊能の顔が弱々しく歪む。

    「ちゃんと謝って、そして気持ちを伝えましょう。私に話してくれたみたいに、自分の言葉で」

    「いやぁ……」

    「しっかりしなさい!」

     桐原は口にしながら笑った。自分の息子がもし、将来ウジウジしていたら同じように言うだろう。

    「今更どの面下げて会うんだよ」

    「その面よ」

    「……気まずくなったら助けてよ? マジな話だよ。話振ってくれる?」

    「わかったから。時間ないから呼びますよ?」

     伊能はモジモジしながら頷いた。

     神田から同行したいと申し出があったのは、つい二日前のことだった。

    お礼の電話をかけた際、伊能の近況を聞かれた桐原が面会に訪れると伝えたところ、すぐに同行を申し出てきたのだ。

     伊能本人に確認を取らないまま連れてきたのには理由がある。必ず断られるし、神田には急ぐ理由があった。インタビューで語った贖罪は、本人の直接語るべきなのだ。我ながらお節介だと桐原は思っている。それでも会って欲しいとずっと心から願っていた。もう彼女には幾許も時間が残っていない。

    「ちょっと! 待ってよ! 話振ってよね!」

     背中で伊能の声を聞きながら、桐原は刑務官に了承を得てドアの向こうに座る神田を呼ぶために、ドアを開けた。

     紋白蝶は野菜の葉を好んで食べる。幼虫はキャベツの葉に寄生して育つそうだ。夏樹が紋白蝶ならば、さながら勝治はキャベツだろうか。

    桐原は青々と実った伊能を想像すると、なんだか笑えてきた。二人はどんな顔で話をするのだろう? 最後の時間に、自分の存在が邪魔してしまう事を少し申し訳なく思いながら、待合室のソファに座る神田夏樹に声をかけた。

    「お待たせしました、行きましょう」


                                           了

     
     
    歌謡ロックバンド「フラジール」ボーカル、作詞・作曲家。 昭和歌謡の情緒と90年代J-ROCKの熱量を ルーツに活動する傍ら、小説も執筆。 第43回「横溝ミステリ&ホラー大賞」最終選考に選出。 人間くさい物語に惹かれます。

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