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キューナナ【創作大賞2026】


    #創作大賞2026 #ミステリー小説部門

    あらすじ
    有名実業家として成功した元村陸のもとに、ある日警察が訪れる。きっかけは、27年前に箱根の山中で起きた未解決事件だった。1997年、渋谷のカラーギャングを率いる陸は、芸人への襲撃をきっかけに思わぬ事故に巻き込まれる。死体の隠蔽、母親を探す少女・丸山寧々との出会い、そして拉致された人気小説家・富田甚一。嘘と暴力が連鎖する一夜の中で、それぞれの思惑が交錯し、多くの命が失われていく。やがて生き残った者たちは過去を葬り、それぞれ別の人生を歩み始めた。しかし27年後、箱根の山中から白骨死体が発見されたことで、忘れ去られたはずの夜が再び動き出す。成功者となった陸、人気芸人となった健太、母となった寧々。彼らが隠し続けてきた真実と罪が、現代の世間を巻き込みながら暴かれていくクライムサスペンス。

    プロローグ
    「本当に運が良かったと思います。タイミングをうまく掴めたというか、人よりも早くインターネットに触れる機会があったおかげで、ECサイトの立ち上げもスムーズに進みました。それに、現地のスタッフにも恵まれましたね、これが一番大きかったかもしれません」

    「今回は、新しい物流拠点の視察も兼ねての帰国と伺っています。今、多くの企業がコスト削減のために、東南アジアに拠点を移す中、なぜ毎回国内を選ばれるのでしょうか? やはり日本の就職難や景気の問題が背景にあるのでしょうか?」

    「ええ、おっしゃる通りです。特に私たちの世代はいわゆる氷河期世代と言われていて、多くの人が就職難に直面してきました。そんな中で、少しでも雇用を創出したいという思いがありました。もちろんコスト面だけ見れば国外の方が有利ですが、今回は関東、関西に加えて、九州と東北にも新たに拠点を設けることで、少しでも皆さんの力になれればと思っています」

     今日は白金台にあるレストランで、経済人を紹介するテレビ番組の撮影が行われている。

    インタビューが始まってもうすぐ一時間、そろそろ切り上げる時間だろうと、時計に目をやった。すぐに秘書が「社長、そろそろ」と合図を送ってくる。

    数年ぶりの日本、会わなければいけない人間、顔を出すべき場所がたくさんある。その合間に孫の顔も両親に見せなければならない。

    裏では某政党からの出馬打診もあるが、こんな終わりかけの国と心中するつもりなんてない。国内に物流拠点を設けるのだって、各拠点の土地から誘致依頼があったからだ。

    大きな企業の工場や倉庫が土地にできると、雇用だけではなく、それに付随する不動産屋や飲食業界、ショッピングモールなど人が集まる場所ができ、一つの商業都市が完成する。国内に拠点を設けることで恩恵を受けるのは現地の人間だ。と同時に労力をかけずとも大きな信頼を方々に築くことができる。

    「最後に、事業展開のアドバイスも含め、今の若手起業家たちに何かメッセージはありますか?」

     インタビュアーを務める同世代の女優が笑顔で言った。デビュー当時は確かグラビアアイドルだったはずだ。

    「そうですね、今の日本は賃金もそうですが、福利厚生含め非常に雇用形態が悪い。経営者も雇用者も心が貧しくなっていきます。ですが、逆に考えることもできるのです。例えば飲食業界がそうです、コロナ以降——」

     どのインタビューでも話す、定型文が口からこぼれていく。メッセージなんてないし、各自勝手に頑張ればいい。生き残れるかどうかはセンスだし、アドバイスをしたところで環境が違えば役に立たない。何より、手の内を見せてたまるか。

     撮影は一時間、若干長めだったがこういった番組に顔を出すことによって、海外在住でも心は日本人だとアピールすることができる。

    「本日はありがとうございました」

     女優がさっきまでの堅苦しい雰囲気を崩し、近寄ってきた。

    「こちらこそ、ありがとうございました」

     一時間ほど座っていると流石に腰が重くなる。いつの間にか、いや、あっという間に四十七年の月日が体に刻まれていた。若い頃のように無理は聞かなくなってきたが、それでもまだまだエネルギッシュに動けるよう、体のメンテナンスは欠かしていない。やりたい事は山ほどあるのだ。

    「最後にSNS用のお写真を撮らせていただいてもよろしいですか?」

    「わかりました」

     慣れた事だ、他所行き用の社交辞令を口にした。

    「前からファンなんです」

    横でわかりやすく色気を振り撒いてくるが、正直少しも好みではない。

    「光栄です、ありがとうございます」

     今はコンプライアンスという鎖で世界は縛られている。よっぽど用心しなければ、簡単に会社の株価は急落してしまう。頭の緩そうな女とイチャイチャなんてしていられないのだ。

    「あの、良かったら——」

     女優が何かを言いかけた時だった。

    レストランの静かな空間に、突然、外から騒々しい音が飛び込んできた。

    「何かあったのか?」

     秘書に声をかけると、確認しに入り口へと向かう。

     が、すぐに踵を返しこちらに戻って来た。と同時に、数人の男たちも一緒に歩いてくる。

     どういう人種か目つきですぐにわかった。

    この空気感はよく知っている、ずいぶん昔に何度もこうやって目の前に現れた。

    「お忙しいところすみません、少しお時間よろしいでしょうか?」

     真っ黒なレザーケースに本人の写真が挟んである、昔はただの黒い手帳だった。

    「何か?」

    身なりのちゃんとしたメガネの中年刑事が言葉を続けた。

    「ちなみに私は、前に何度かお会いしたことがあるんです。覚えてらっしゃらない?」

     全く見覚えがない、というよりも、こんな顔はたくさん存在する。はっきり言っていちいち覚えていられない。

    「申し訳ありませんが、どちらでお会いしましたか?」

    「あの当時はよく渋谷であなたたちと顔を合わせました。なんだかやけによどんだ時代でしたよね、覚えていますか? 暗いというか、あの頃を思い出そうとすると、灰色なんですね、景色が。今思うと、本格的に日本が貧しくなり出した頃でしょうね」

    「…おっしゃっている意味がよくわかりませんが」

     嘘をついた。この男の言う灰色の記憶が思い出される。陰湿で息苦しく、訳のわからない苛立ちを抱えて生きていたあの時代。

     そして忘れてしまいたいあの夜、あの光景。

    「本当に立派になられましたね、あなたよりも私は八つほど歳を取っているんですがね、当時は死に物狂いでしたよ、とにかくあなた方は凶暴だった」

     横に佇む女優の表情が硬くなった。

    「刑事さん、お話があるのならあちらで伺いますよ」

    「いえ、こちらではちょっと。申し訳ありませんが署までご同行願いますか?」

    「どういうことですか?」

    「すっとぼけんな、逃げやがって」

     中年刑事の言葉遣いが変わったと同時に、後ろの若い刑事たちの顔つきも変わった。

    「ご同行願います」

     動揺していない素振りを保とうとしたが、背中を伝う氷のように冷たい汗は止められなかった。心の中で逃げ出したいという衝動が暴れ出している。

     一九九七年、渋谷でのあの夜が蘇る。

    記憶の奥深くに埋めてしまった、あいつらの声が聞こえた気がした。

    1997 3月18日

    1 元村陸 20:05
    「寒ぃ」

    渋谷センター街の信号待ち。カーステレオから流れるフージーズのメロディに合わせて、体を揺らす。目の前の交差点には、どこからともなく人が湧いている。

    エアコンが苦手な俺は、冷えた車内で右耳に昨日開けたばかりのピアスを撫でた。

    やっぱり、こんなの自分でやるもんじゃない。ケチらずにボディーピアス屋に行くべきだった。ジンジンする痛みが、やたらと気になる。

    信号が青に変わり、俺は車を進めた。

    道玄坂を少し入ったところで、マツモトキヨシの向かいに停車する。ツーカーの携帯とタバコ、それに使い古したジッポーをポケットに突っ込んで、ハイラックスから降りた。

    瞬間——

    強烈な寒気が全身を襲った。

    「マジで寒ぃ」

    呟いたって変わらないことはわかっていても、ついつい口から弱音が出るほどの寒さだ。慌てて体を温めるために、待ち合わせ場所の109へ急ぎ足で向かう。

    今日も渋谷はわかりやすくたくさんの欲望、とりわけ肉欲で溢れていた。

    今年の女たちの流行りはコンサバらしい。

    顔面はガキのくせにシャネルだのグッチだのと妙に大人ぶった服装で、化け物のような化粧、ある意味奇妙な出来栄えとなっている。これだけギャルと言われる人種が溢れているのに、ほとんどが似合っていない。

    男はというと、すっかりと日本にも定着したヒップホップの影響か、ダボっとした洋服が最近流行り出している。

    視線のちょっと先に、アメリカのギャングスタの真似した体の細い三人組が、生意気に同じ黄色のパーカーで練り歩いていた。

    見覚えがない、この辺の連中じゃない。

    「邪魔だよ、田舎もん」

     弱そうなギャングなんて絵にもならない。せめて腕立て伏せくらいやればいいのに。俺はわざとそいつらにぶつかりながら追い抜いた。

    「痛えよおま——」

     ドレッドヘアのガキが何か言おうとした瞬間、迷わずそいつの横っ面をひっぱたいた

    「お前らどっから来たんだよ? ここ渋谷だよ」

    「何だテメエ!」

     息巻いたドレッド小僧を、ガリガリの男が慌てて静止する。

    「すんません、ただ買い物に来ただけっすから」

    「広がって歩くなよ。目がチカチカすんだよ」

    「…てめえ」

    「何だよ、髪の毛むしってやろうか」

     黄色のユニフォーム、池袋か新宿か。どっちにしても舐めた格好で歩かれても困る。

    「いや、マジすんません。帰りますんで」

     間にもう一人のニヤけた坊主頭が割り込んできた。

    「まあいいや、次見かけたらぶっ殺すぞ」

    「はあ、すんません、帰ります」

     へりくだる坊主頭の後ろで、ドレッドヘアとガリガリが唇をかみしめている。

    「おう、帰れ帰れ」

     こんなところで揉めている場合じゃない、今日はやる事がある。

     ガキの相手をして少し体が温まってきたところで、再び109に向かう。

     この街でずっと遊んできた。それこそ小学生の時なんて、おっかない連中が街中を練り歩いていたし、いろんな流行もたくさん見てきた。

    最近だと女子高生たちは、ムラサキスポーツやアルバローザの袋をわざとらしくぶら下げている。あとはサンリオのうさぎキャラが流行っているはずだ、名前は忘れたが。

    高校を卒業してもうすぐ一年、親父は会社を継げと言ってくるけど、そんなこと今考える気にはなれない。ただ、今日をどうやって楽しむか、それだけで頭がいっぱいだ。

    そういえば母親は最近やっと俺に見切りをつけた。今は中学生の弟の教育に熱心で、すっかり喋らなくなった。まあこっちとしてはその方が助かるわけだ。

    小さい頃から叶えたい夢なんて無いし、そもそも先々のことなんて考える暇もない。テレビによると、俺ら世代は就職できない氷河期世代らしい。まあ、そんな心配は無いし、他の連中のことなんてどうだっていい。

    最近はもっぱら夜通し遊んで夕方に起きる、そしてまた渋谷の繰り返しだが、それが今は一番楽しいのだ。好き勝手暴れられるのは成人するまでだとガキだがわかっている。

    なんとなく生きていればいい。どうせ、この平和な国じゃ飢え死にすることなんてないのだから、気にするだけ時間の無駄だ。

    パチンコ屋前でぼんやり寒さに震えながら信号を待っていると、109前の階段に遠目からでもわかる騒がしい連中が溜まっているのが見えた。

     金髪に染めたばかりの坊主頭を無造作に撫でながら、寺島守(テラシママモル)がこっちに気づき、大きく手を振ってきた。その他にも後輩の鈴木孝良(スズキタカヨシ)、そして見たことのない女が三人いた。オーソドックスなコギャルスタイルだ。邪魔だ、今日はヘラヘラ女と遊ぶ暇なんてないし、何よりブスだ。

     信号が青に変わる。みんなの元へ近寄ると、マモルがこっちに手を振った。

    「ういー、リクちゃんピアス開けたん?」

    「いいっしょ」

     ハイタッチを交わしながら、女に目を向ける。

    「で、その子ら誰?」

    「うわ! 私たちタカヨシくんと同じガッコです、元村陸(モトムラリク)くんですよね、チョーかっこいい! ファイン見ました!」

     履いているルーズソックスが臭そうな女三人組だった。顔だけ見ると厚化粧のおばさんみたいで、制服姿がまるでコスプレのようだ。

    「陸さんのファンなんスよ、学校で勝手にカバーズの妹分だって名乗ってて、雑誌のコピー配って困ってるんスよ」

     そう言いつつも困っているようには見えないタカヨシと、ニヤけた三人組の女子校生が上目遣いで見つめている。

    そういえば先月、センター街で雑誌の取材を受けたのを思い出した。

    「どうもねー。でもちょっとこれから用事あるからさ、また今度」

    「いいじゃん、みんなでどっか行こうぜ。円山町に新しいクラブできたっしょ、あそこ行こうぜ」

     マモルは同じ歳で女にダラシがない。それさえなければ度胸も腕っぷしもある頼もしい奴なんだが。

    「また今度行こうぜ、な?」

    「あー…なんかあんのね、わかった」

     空気を察したマモルは、すぐにペインターパンツの尻ポケットからPHSを取り出し女たちと連絡先を交換し始めた。

    「ほら、もういいだろ、また今度な」

     タカヨシも状況を察し、三人組に帰るように促し始める。ブーブー文句を言いながらその場を離れる女たちを見ながら俺は二人に説明した。

    「キムくんから頼まれたんだけどさ、一人五万、どう?」

    「いいじゃん、何すんの?」

    「ワールドレコーズって芸人わかる? ワーレコ。踊るやつらいるじゃん、全然面白くねえ奴。その片割れをボコる。楽勝っしょ?」

     チームのOB、木村からメールが届いていたのは今日の昼ごろだった。

    依頼は一人の男を目立つ場所でいじめるという簡単な内容で、要は人前で恥をかかせればいい。そのターゲットは最近有名な若手芸人で、パルコ近くの劇場に今日は出演しているそうだ。面白そうな話だ、小遣い稼ぎにもなるし。起きてすぐにメールを返信して、この仕事を受けることにした。

    「わかる? でかい方、三葉ってやつ」

    「あー、わかります! 顎髭のやつでしょ? アイツ嫌いなんスよね。やっちゃいましょうよ」

     タカヨシに同感だった。ワールドレコーズというコンビ名も嫌いなら、リズムに合わせて踊るだけの芸も全てが癪に障る芸人だ。小柄な野田雄介(ノダユウスケ)と大柄な三葉歩(ミツバアユム)の二人組で、その片割れ、三葉がターゲットだ。コンビ二人共ってわけではないらしい。

    「有名人じゃん、キムくん誰から話もらったのかな?」

     マモルもこの話が気に入ったようだった。

    「知らない、遊ばれた女とかじゃねえ? どうだっていいよ、さっさとやっちまおうぜ」

    「チームの奴らも呼ぶ?」

    「いや、楽勝でしょ、三人で」

     こんな簡単な仕事で分前が減るのは勿体無い。カツアゲで手に入れたGショックを覗くと、もう二十時を回っていた。話によると出番は二十一時からで、終わり次第すぐに別の場所に移動するらしい。寝るのも惜しむ売れっ子って事だ。

    「オッケー、早めに終わりそうじゃね」

    「だね。先にちと松屋行ってくる。お前らは?」

    「俺ら食ったばっかだから、劇場の方行っとく」

     マモルとタカヨシに手をあげて、センター街へと歩き出した。

     しかし今日はいつもよりも寒すぎる、昨日は雪が降っていた。なんだか今年は積もる事が多い。正月明けに確かめちゃくちゃ積もったことがあり、確かその日は成人式だった。着物がビチャビチャになりながらも女を車に乗せて遊びに行ったことを思い出した。

     さくらやを曲がり、センター街へと入ると、どこからか安室奈美恵の新曲が流れてきた。愛だ結婚だと歌っている妙にしっとりとしたバラードで、聞いているだけで全身が痒くなってくる。最初はダンサブルな曲を歌っていたのに、売れたらすぐに媚びたバラードを歌うのが最近の流行りらしい。

     松屋までの短い距離で、知り合いの洋服屋の店員やキャバクラの呼び込みが手を振っている。こっちも義務的に手を振りながら歩いていた。もはやどうやって知り合ったのか、先輩だったか、それとも一緒に遊んだことがあったか、全く覚えていない。顔だけはわかる、そんな人間がこの街にはたくさんいる。

    お目当ての松屋に着くと、店の前で真っ黒に焼けたガキが、数人楽しそうに歌いながら踊っていた。アムラーと呼ばれている恥ずかしいこの女たちは、恐らく埼玉あたりから遊びにきた田舎者だろう。底の厚いブーツもバーバリーのチェック柄スカートも、どれもこれも似合っていない。そして一緒にいる男どもも、ホストみたいなふざけた髪型でフライトジャケットと一丁前なコーディネイトで全身を包んでいる。

    「どけ馬鹿」

     コーヒー缶を蹴り飛ばした瞬間、男がびくっと肩を震わせた。

    目が合ったが、すぐにそらす。俺は無言でそいつの前を通り過ぎ、冷たい視線を送り続けた。こういう奴らは、何もできないのは知っている。

    「邪魔だよ。さっさと山に帰れ。な?」

     静かになったグループを尻目に松屋へと入った。

     すぐに温かい空気が全身を包んだ。カウンター席に腰を下ろし、牛丼のチケットを店員に渡す。センター街の喧騒が遠く感じた。最近はめっきりと揉め事も減った気がする。

    この一帯での俺ははっきり言って有名人だ。恐怖と憧れ、自分よりも十以上年上の連中でさえ避けているのがわかる。この街で有名なチーム、カバーズに入ったのは二年前だった。元々知り合いだった先輩に誘われチームに入ってからは好き勝手遊んできた。途中逮捕され鑑別所に入ったりもしたが、そんな事は大したことではない。どんな犯罪を犯そうと、特別少年院に入るような殺人などを犯さなければ、二十歳までは大きな問題にはならない。

    当時通っていた高校の担任はよく言っていた。

    お前の親が悪い。と。

    生まれて一度も小遣いに困った事はないし、欲しいものは何でも買ってもらってきた。中にはそういう境遇を恥ずかしいと思う奴もいるようだが、俺はそう思わない。なんなら全部利用するつもりだし、タイミングみて父親の会社で働くつもりだ。アメリカあたりから古い家具や雑貨を輸入しているはずだが、詳しい仕事内容はよく知らない。そんなものは働き出してから覚えればいい。その担任に笑いながらよく言い返したのを覚えている。

    苦労しねえよって。

     俺らのチーム、カバーズは渋谷の顔だ。

    自分達の上の世代は大変だったようだ。有名な暴走族との抗争や、よその地区のヤンキーと揉めることが多かったようだが、今ではそういった事はあまりなく、言うなれば地盤が出来上がっている。うまい具合にコントロールして、地元のヤクザと揉めない程度に好き勝手やる。

    そしてそんな生活を二十歳越えてまでやるつもりもない、捕まっても刑務所に行かないですむ歳まで、適当に楽しくやってやる。

    気がつくと、目の前に出来立ての牛丼が運ばれていた。生卵を解き、ゆっくりと丼に落とし込みながら携帯電話を確認すると、メールが一件届いていた。

    ——ひさしぶり、今日ヒマ?

    淡白なタイトル、寧々からのメールだった。

    一年前くらいに知り合って、一回セックスをしたことがある。タカヨシと同じ学校で、その辺のギャル連中の中ではズバ抜けて色気のある女だった。渋谷では目立っていて、四、五人でよく109前に屯っている。この辺の高校の目立つ連中でギャルサークルを立ち上げていて、その中の一人の男問題が拗れた時、仲裁に入ったのが出会いだった。

    ——悪ぃ、今は忙しい、どうした?

     牛丼を頬張りながら返事すると、すぐにメールが戻ってきた。

    ——お願いがあるんだけど。ちゃんとお礼もする、今日会えない?

    珍しいメールだった。

    ベタベタしてくるタイプじゃないし、そもそもあれ以来頻繁に会うわけではなかった。こっちがカバーズだからとか、そんな理由で寄ってくる女ではない。

    ——いいよ、用事済ませてからでいい? 二十二時くらい。

    ——うん、ありがと。それくらいにマルキュー前にいるね。

    寧々の形のいい尻を思い出す。切れ長の目に薄茶色なロングヘア。あの女ならコンサバだって我慢できる、いや、大人っぽい格好の方が似合うだろう。アイツがその気なら付き合ってやってもいい、今の女とはすぐにでも別れる。

    牛丼を食い終わり、外に出るとさっきの田舎者グループは跡形もなく消えていた。俺は爪楊枝を咥えながら車に向かう事にした。

    味噌汁で温まった体がたちまち冷えていった。よく見ると昨日降った雪が少しだけ側道に積もっている。こりゃ寒いはずだ、さっさと用事を済ませて寧々とホテルでゆっくりと温まりたかった。

    ハイラックスに乗って、寒さでまた痛み出したピアスをいじりながらマモルにメールをすると、劇場前はファンでごった返していると現在の状況を教えてくれた。そんな事は問題じゃない、いつも通り気に入らない奴を見せしめでボコればいいだけの話だ。それがたまたまちょっと有名な奴なだけ。さっさとこの仕事を終わらせて寧々と会いたい。

    ところでお願いってなんだ? まあ、大した事じゃあないだろう。

    頭の中はもう仕事後の妄想でいっぱいだ。エンジンをかけて一瞬エアコンをつけるか考えたが、やっぱりやめることにした。今日の仕事で手に入れた金でハンドルとマットを買い替えよう。心地よい振動をたっぷりと味わって、クラクションを鳴らしながらパルコに向けてアクセルを踏んだ。

    強引にUターンしてスクランブル交差点へ。

    信号待ちをしながら交差点を眺めると、至る所で中年男性が若い女性と歩いているのが目に入る。明らかに売春目的と分かるカップルたちを、交番の警官がどう見ているのか、いつも気になる。そりゃあいきなり逮捕するわけにはいかないだろうが、ホテル前で待っていれば簡単に捕まえられるはずなのに。

    一度気になると面白いもので、援交カップルがワラワラと目に入る。あいつらを狩って脅せば金になる。次回のパトロール企画では、チーム全員でやってみるのも悪くない。いい稼ぎになるはずだ。

    最近ではパンツまで売れるらしく、知り合いの女が二日も三日も履いた汚物を高額で売っているらしい。気持ち悪いし、どうやって保管するのか理解できない。オヤジたちの性欲は止まることを知らない。

    ふと、援交カップルの中にさっき絡んだガキどもを見かけた。帰らないところを見ると、何だか面倒くさい事になりそうだ。

    チームの後輩に電話をして、渋谷で黄色いパーカーの群れを見かけたら好きにしていいと伝えた。それで解決しないなら、明日改めてまた対処すればいい。

    公園通り劇場に近づくと、出待ちの女たちが入り口に群がっていた。車に気がついたタカヨシが近づいてくる。

    「多分、そこの通用口から出てきますね。拉致ります?」

    「車使いたくねえなあ、汚れるだろ」

    「了解っス、タクシー乗るんじゃないっスかね、後ろからつけますよ。電車ならラッキーだし。センター街じゃないとダメなんスかね? ボコるの」

    「人が多いところならいいんじゃね?」

     とにかくこの車に乗せるのだけは勘弁だ。

     時計を見ると二十一時半を過ぎている。お笑い芸人ごときに女性が群がるのかつくづく理解できない。ミュージシャンや俳優なら分かるが。

    その時、劇場前が一斉に騒がしくなった。奴らが出てきたようだ。

    「タカヨシ、そいつらの後ろ着いてって。タクシー乗りそうだったらもうやっちゃっていいから。顔隠してやれよな」

    「オッケーっス」

     首に巻いたバンダナをヒラヒラと見せつけ、タカヨシは車を離れた。

     遠目でマモルがファンの間を割って入っていく。エンジンをかけ、どういう状況でも動けるように準備する。

     しばらくして、人波をかき分けながら、にこやかな二人組が現れた。小柄な方と大柄な方、ワールドレコーズだ。大柄な方が三葉という名前らしく、こんな連中のどこが良いのか全く理解できない。二人は差し出されたノートにサインをしながら、公園通りをゆっくりと降りていく。まだ早い、もう少し人だかりがある場所が理想だ。

    ダッシュボードに置いた携帯が震えている、マモルからだ。

    「見てるよ」

    「どうする? 女が邪魔なんだよな、もうやっちまう?」

    「いや、ギリギリまで待って。タクシー乗りそうならすぐやっちゃって」

    「オッケー」

     奴らはファンを引き連れて車の横を通り過ぎた。その後ろを二人がニヤけて着いていく。よく見ると、タカヨシがバンダナで口元を隠していた。いつもこうだ、焦って行動に移すのはいつもコイツだ。

    案の定、ファン対応していたチビの方が後ろに気がついた。車の中からでもビビった表情が分かるほどだ。限界だ、ここでやるしかない。

    チビが三葉に何かを呟いていた。

    二人は警戒の表情を浮かべながら歩き出す。これからタクシーを探すのか、それとも駅に行くのか。どっちにしろ、やることは変わらない。恥かく場所が変わるだけだ。逃さなければオッケー、そして目立つ場所で引きずり回してさっさと逃げればいい。

    しかし次の瞬間——

    二人が急に走り出した。

    「おい、マジかよ!」

     まさかの行動に思わず声が出た。ファンを置いて逃げるか普通。二人は公園通りを下り、転げるようにペンギン通りへと入っていく。俺は再びエンジンをかけ、車を出した。あの方向なら、スペイン坂を降りても、そのまま直進しても井の頭通りに出るはずだ。

    「マモル!」

    窓を開け叫ぶのと同時に、マモルたちもバタバタと路地へ入っていく。

    「待てオラ!」

    遠くでタカヨシが叫んだ。いちいち目立つバカだ。

    公園通りを上がり、オルガン坂へ。東急ハンズ脇に車を停め、後部座席に乗せていた金属バットを握りしめて車を飛び出した。

    井の頭通りに走ると、すでに人だかりができていた。思ったよりも面倒臭い状況になっている。

    「警察呼んでください!」

    チビが人混みに向かって助けを求めている。その先で三葉がマモルたちに囲まれていた。しかしこんな事になるとは、まさかファンを置いて見苦しく逃げるなんてこっちは思いもしない。

    「おい、どけ」

    バンダナを口に撒きながら、人混みをかき分けマモルたちに近づこうとした。

    「やめてやれお前ら。何やってんだ」

    その時、ガタイのいいサラリーマンが三葉の前に立ちはだかった。

    「何よお前、誰」

    「嫌がってるだろう、やめてやれよ」

    最悪だ。正義感丸出しのアホが割り込んできた。

    「関係ねえだろうが、殺すぞ」

    マモルがサラリーマンを突き飛ばした。

    「痛っ、手を出したな? 警察で話そうか、すみませーん、誰か警察呼んでくださーい」

    「助けてください、警察呼んでください!」

     チビの方も大袈裟に騒いでいる。

     その見苦しさに一瞬で頭に血が昇った。

     俺はその腹立たしいチビの頬を、死角から思い切り金属バットの柄で殴り飛ばした。

    「うるせえんだよ」

     驚きと痛みで倒れ込んだチビは目を見開いてこっちを見ている。その後ろでファンらしい女が叫び出した。

    「ほら、謝れ! 本当に警察呼ぶぞお前ら」

     こっちに気がつかないガタイのいいサラリーマンが、マモルに詰め寄っていた。よく見ると、タカヨシがポケットに手を入れている。馬鹿が、ここで刃物を出したら全員アウトだ。

    「おい!」

     気色ばんだサラリーマンがこっちを向くと同時に、膝めがけて金属バットをフルスイングした。

    「——っッ——」

     声にならない叫びを上げながら、膝を崩してサラリーマンが倒れ込んだ瞬間、三葉がセンター街に向かって走り出した。

    「おい、また逃げたぞ!」

    タカヨシが追いかける。

    「待て!」

    転がっていたサラリーマンが起き上がりかけたところを、マモルが後ろから後頭部を蹴り飛ばした。

    「リクちゃん、悪い」

    「いいから行け、車出すから。捕まえたらすぐ電話してくれ。センター街の方に移動する」

    マモルは頷いて、センター街の方へと走り出した。

     震えるチビの周りを、ファンの女子が数人囲んでいる。

    「おい、アイツお前置いて逃げたぞ」

     返事がない、女たちも目を合わさない。後ろを向くと、サラリーマンは失神していた。

    考えられる限り最悪な状況だ、うまくいけば今頃全てが終わっていたはずなのに。

     時計を見ると後十五分で二十二時、今日は最低だ、何もうまくいかない。遠くでサイレンの音が聞こえてきた。俺は車を止めたハンズの方へと走り出した。

    2 陸 21:52

     マモルから連絡が入ったのは、ハイラックスに乗り込み、センター街に移動している時だった。

    「リクちゃん、捕まえた。でも騒いでんだよね、やっちゃっていい?」

    「いいよ、今どこ?」

    「センター街抜けてビッグカメラの前」

    「マルキュー横?」

    「そうそう」

     電話の後ろで三葉の叫び声が聞こえた。

    「オッケー、路地連れ込んどいて、すぐ行くから」

     公園通りから道玄坂に入る。頭の中には寧々のことがいっぱいだ。さっさと終わらせてしまおう。

    時計を見ると、あと五分で二十二時。寧々に電話をかける。

    「もしもし?」

    「あー寧々、今どこ?」

    「電車降りてハチ公出たとこ」

    「悪いんだけどさ、ちょっと待っててくんねえ? 十分くらいかな」

    「うん、いいよ、どこ?」

     マツモトキヨシの向かいを指定した。

    「わかった」

     寧々の気だるそうな声が妙にそそる。アイツはギャル雑誌の読者モデルとして人気があり、この街の若い男たちの憧れの的だ。しかしガードが固く、無理矢理行っても相手されない、時間をかけてこっちを振り向くよう付かず離れずやってきた。

     今夜ホテルで一発決めてやる、そして明日から俺の女だ。

    マツキヨ前に車を停め、鍵を抜いてドアに鍵をかけずに外に出る。マルキュー前の信号まで引きずって、そこでボコって退散する予定だ。時間にして三分くらいか。

    急ぎ足でパチンコ屋とコーヒー屋の間の路地に入ると、すぐに揉めている声が聞こえた。さらに左にある狭い路地にいるようだ。

    「勘弁してよ、知ってるでしょ、僕」

    「知ってるよ、つまんねえじゃんお前」

     もはやバンダナで顔を隠していないタカヨシが、素っ裸で正座している三葉の前で、ギャグの真似をしていた。

    「本当問題なるよ! 会社も訴えるは——」

    「知るかバーカ」

     マモルが三葉の腹に蹴りを入れながらこっちを見た。

    「お疲れ、あっちはどう?」

    「多分パトカー来てる。さっさとやろうぜ。マルキュー前移動ね」

     その瞬間、三葉が急に暴れ始めた。

    「嫌だ! もうやめてくれ! なんでもあげるよ、ほら、財布も時計も! 全部やるよ、だから逃してよ!」

     時計はロレックスのデイトジャスト、スニーカーはジョーダン、もちろんもらっていくが、それとこれは別だ。

    「お前よ、なんでこんな目にあってるかわかる?」

    「わからないよ! どうして?」

    「いやあわかんねえ、頼まれただけだから。女じゃねえの?」

     三葉は一瞬考え込んだ。何か思い当たる節でもあるんだろう。

    「だめだよ、チンコだらしないと」

     考えてみると可哀想なやつだ、せっかく有名になったのにこれからマルキュー前で晒し者になるのだから。

    「本当にやめて、ごめん! お金あげるよ、頼まれたんでしょ?」

    「いくら?」

    「…十万?」

     話にならない。

     マモルとタカヨシが笑い出す。情けなすぎる。

    「わかったよ、もう殴らねえよ、とりあえずあっち行こうぜ、フリチンでギャグやれよ、な?」

    「嫌だぁぁぁああ」

     再び、全裸で暴れ出した。

    「暴れんなテメエ、恥晒せば一瞬で終わるからよ」

     タカヨシが髪を引っ張り起こそうとした瞬間だった。

    三葉は勢いよく立ち上がり、体当たりをかまして大通りに向かって走り出した。

    「助けて! 助けてください!」

     恥も外聞もなく叫ぶ後ろ姿を追いかけ出したマモルとタカヨシ、全てが信じられなかった。フルチンでどうするつもりなんだ。

    最低な日だ、何もかもが全くうまくいかない。

    「ああああ助けて!」

     三葉が女のように泣き叫びながら路地を飛び出した。

    右は109、たくさんの人がいる。左の駅側に逃げるか? 

    その瞬間だった。

    ——ドンッ

     鈍い音と共に、三葉の体が勢いよく視界から消えた。

     いや、横に吹っ飛ばされたのだ。

    「え…」

     続けて飛び出すマモルとタカヨシが足を止めた。

    走りながら最悪なことを考えた。どうする、逃げるか? それとも三葉を車に乗せてこの場所から移動するか? やべえ、寧々のことを思い出した。だめだ、やっぱり車に乗せるわけには——

     その考えは、路地を飛び出た瞬間すぐに変わった。

     白い軽トラックの前に股間丸出しの三葉が倒れ込み、頭から大量に血が流れていた。そこに運転手らしいジジイが駆け寄っている。荷台にはたくさんのおしぼりが積まれていた。

    「やべえよ、リクちゃん」

     マモルが青ざめている。

    「逃げましょう」

     タカヨシが今にも泣きそうな顔ですがってきた。

     三葉は薄めに目を開けている。鼻と耳から血が出ていて、頭の下には大きな真っ赤なシミが広がっていた。

    医者じゃなくてもわかる、死んじまった。

    周囲を見渡すと、おしぼり屋の親父しかいない。しかし、すぐそこにはマルキューがあり、人通りが激しい。今なら俺たちと血だらけの三葉を繋げる物は何もないはずだ。

     一瞬で考えを固めた。

    ここで逃げた場合、このオヤジが捕まるだろう。しかし、路地から出てきた俺たちを見ている。渋谷中を追いかけ回したのはたくさんの人間が見ているし、顔を隠したところですぐにわかるはずだ。答えはすぐに出た。

    「おいオッサン、黙っててやるよ。だから何も言うんじゃねえぞ? 会社名もわかってっからな」

     軽トラックのロゴを指差しながらいった。

    「でも君…」

    「刑務所だぜ、いいのか?」

     運転手は少し考え、頷いた。

    「オッケー、車持ってくる。二人ともこいつを路地に隠して」

     マモルとタカヨシは青い顔で頷いた。冗談じゃない、こんな場所で捕まるわけにはいかない。

     再び大通りに出て、車の前に行くと、寧々が立っていた。

    「悪い、寧々、ちょっと待っててくれ」

    「うん、いいけど。大丈夫?」

    「おう、すぐ戻る」

     車に乗り目の前の路地を曲がった。軽トラックはまだ止まったままだ。

    「おいオッサン、さっさとここから離れろよ。お互い何も言わない、それでいいよな?」

     頷いた運転手が車を出すのを確認してから、荷台にかけてあったカバーを外し、路地で待機している二人に声をかける。

     タカヨシは真っ青だが、マモルは腹を決めたのか、テキパキと荷台に三葉の死体を乗せている。やはり頼れるのはこういう男だ。付き合いも長いのでお互いのことも理解している。

    「オッケー、じゃあバラけるぞ。一旦渋谷離れようぜ」

    「わかった、じゃあ携帯で」

    「うん、タカヨシもいいな?」

    「はい…」

     車に乗り込み、二人は別々の方向へと歩き出した。

     再びマツキヨ前まで車を走らせる。これからどうするべきか。まず、俺たちが追いかけ回したのは色んな人間に見られている。てことは捕まる可能性がある。その時、もし三葉の死体が見つかっていなければ、とぼけて逃げられるのではないか。後はあの運転手と、マモル、タカヨシだ。マモルは大丈夫、運転手は罪悪感が勝つか、それとも自分の身を守るか。わからない。タカヨシに限ってはビビりながらも刑務所になんて入る度胸はない。

     結論が出た。この死体が出なければなんとかなる。親に頼んで弁護士でも雇えばいいし、とりあえず海外に留学してもいい。

    そういえば、前に父親に海外で数年勉強してこいと言われたことがある。その時は勉強なんて冗談じゃないと思ったが、今なら願ったりかなったりだ。つまり、この生活ももうお別れかもしれない。気楽でチヤホヤされる渋谷を捨てるしかない。

    それでも、捕まるよりはマシだ。

     マツキヨ前に着くと、寧々がいなかった。どこにいる? 周りを見渡すがどこにもいない。

    「どしたの?」

     ビクッと体が震えた、気がつくと助手席の窓から寧々が手を振っていた。

    「悪いな、乗って」

    「うん、なんかあったの?」

     何かを察したのか、優しいトーンで寧々は言った。

    「ああ…いや」

    横で凛としているこの女は、とても年下には思えない。欲望を刺激する匂いがした。

    「とりあえずここから移動するわ」

    「うん」

     エンジンをかけ、ゆっくりと車を出す。路地を通り過ぎる瞬間、目をやると数人の警官が駆けつけていた。

    通報されたか? それとも運転手がもうチクったのか? とにかく危ないところだった。

    「なんか警察いるね? あ、吸っていい?」

     細い指にたばこが挟まっている。

    「いいよ」

     背中に汗が流れる。身の振り方を急いで決めなければ。

     あまりにも簡単に死んでしまった間抜けのせいで、人生を棒に振るわけにはいかない。

    「大丈夫?」

    「あ? ああ…」

     焦っているのを見透かされているようだった。

    「なんか大変そうだね、降りよっか?」

    「いや、気にすんなよ。一緒にいてくれ」

    「そう? いいけど。とりあえず一服すれば?」

     寧々は吸いかけのタバコを俺の口元に持ってくる。こう言った仕草が毎回妙に色っぽいのだ。急激に心が落ち着いてきた。

    「いや悪かった、ちとよ、先輩に頼まれてマモルとタカヨシと用事を済ませてたんだけど、なんつうか、車に轢かれやがってよ」

    「轢かれた?…ああ。…それでその人、死んだの?」

    「…多分」

     いや、絶対だ。

    目を見開いて、泡を吹いていた。そしてあの血溜まり、毛穴中の毛穴から血が噴き出したようだった。

    「それってさ、陸くんが車に押し出したの?」

    「いや、自分で飛び出した」

    「じゃあ大丈夫じゃない? たまたま近くにいたって言えばいいじゃん」

     この女の表情は一向に変わらない。なんとかなるような気もしてくるから不思議だ。

    「でもよ、追いかけ回してるのも見られてるし、最後は路地だったけど殴った後もあるしよ、それに…」

     隠しても仕方ない、正直に言うしかない。

    「後ろに乗ってんだよ、ソイツ」

    「死体が?」

    「そう」

     寧々はタバコを俺の口から取り戻し、深く吸い込んでから、濃い煙を吐き出した。

    「ほっとけばよかったのに」

    「死体を? いやあ、かなりの人数に見られたからな。追いかけてるの」

    「そんなんじゃ繋がらないよ、事故ったんでしょ? 車に乗せちゃってるならもう言い逃れできなくない?」

    「仕方なかったんだって、責めんなよ」

     こんな時まで冷静な寧々に、少し腹が立ってきた。

    「関わりたくないんだけど」

    「わかってるよ、大丈夫だって」

    「とりあえずさ、もう積んじゃったのは仕方ないんだから、どっかバレない場所に捨てるしかなくない?」

    「捨てるってどこに?」

    「うーん、山?」

     淡々と喋っている。怖いとは一言も口には出さない。

    「山って、それで隠せるのかよ」

     寧々は返事をせず、首を傾げた。

     車は道玄坂を登り、渋谷方面に戻るために246へと入った。車内の沈黙に耐えられず、話を変えることにした。

    「で、寧々、なんか頼みたいことがあるんじゃなかったか?」

    「ああ、うん。でもそれどころじゃなくない?」

     確かにそれどころではないが、しかし何かやってないと落ち着かなかった。

    「平気。他の連中と合流するかも知れねえけどそれでもいい?」

    「いいよ」

    「お礼はホテル行かねえ、どう?」

    「うん、わかった」

     話が早い。こんな状況にも関わらず、急に楽しくなってきた。それに山ならば見つかりにくいんじゃないだろうか。捨てる場所っていったらそれくらいしか思いつかないのだが。

    「で、頼みって何?」

    「人探し。オッサンと、あとお母さん。帰ってこないんだよねもう十日。きっとそのオヤジが事情知ってると思う」

    「おっさんって、お前の親父さん?」

    「違う。他人」

     運転しながらバックミラーで寧々の顔を見る。珍しく表情が歪んでいた。母親は出版社のエリートだったはずだ。前にお互い親がちゃんとしてると息苦しいねって話したことがあった。

    「なんかワケアリ?」

    「大したワケでもないけどね」

    「いいよ、手伝うよ。どこにいるかわかんの?」

    「お母さんはわかんない。オッサンが住んでるのはNHKの近く」

     代々木公園の方だ。

    「俺らに手伝えってことは、そういうこと?」

    「うん、本当は殺してもいいくらい。まあでも適当に痛めつけてくれればいいよ、キショいから」

     なんだかこっちはこっちで手のかかりそうな案件だ。しかし、この女を好きにできるならなんでもできる。それにしばらくは日本にいられないかもしれない、最後に思い切り楽しむのもありだ。

    「オッケー、とりあえずバラけた二人に連絡入れるわ」

     逃げている途中なら着信入れても仕方ない、二人に同じ文面を送った。

    短く一言、「どんな感じ?」

     返事はすぐに二人から帰ってきた。マモルとタカヨシは合流してハンズの先、マンハッタンレコードあたりにいるそうだ。すぐに拾いに行くと返信し、車を再び運転する。

    「なあ、寧々」

    「何?」

    「付き合わねえ?」

    「何突然、…うーん、考えとく」

     寧々は感情なく答えた。

    「何、他に男いんの?」

    「いないよ、そういうのめんどくさいんだよね」

    「付き合ったりすんのが?」

    「うーん…」

     寧々は少し考え、再び言葉を続ける。

    「誕生日とかさ、何々記念とか? ああいうのダルいし、毎日一緒とかもマジで無理。陸くんも同じじゃない?」

    「まあそうだよな」

     嘘をついた。こいつとなら毎日毎晩一緒にいたい。

    「でしょ? たまにあってエッチしてご飯食べて、それくらいが楽」

    「寂しくねえの? お前」

    「別に」

     寧々は口を閉ざした。質問がまずかったか。

     それからは二人無言で渋谷を走った。車はセンター街を避け、公園通りからオルガン坂へ。途中数人の警官を見た。もう俺たちの名前は出ているかもしれない。

    「ねえ」

     突然寧々が口を開いた。

    「寂しいってなんだと思う?」

    「何それ」

    「さっき言ったじゃん? 寂しくないのかって」

    「ああ、まあなんとなくそう思っただけ」

    「質問に答えてよ、寂しいって何?」

     寂しいってなんだ? 孤独? ひとりぼっち? 意味は一緒か。何って言われるとよくわからない。

    「やっぱり一人でいると暇じゃん?」

    「そう? 私は嫌いじゃないけど」

    「うーん、わかんねえよ」

     ちょっとイラついた。そんな答え出しても仕方ないことにこだわってどうする。

    「そんなもんだよ、寂しさなんてヒマの延長上みたいなもんでしょ。私は毎日誰かと生活するなんて無理だもん」

    「そんなもんか? 親も?」

     何気なく口にしたこの一言が、寧々の何か大事な部分に触れたようだった。

    「親なんていてもいなくても一緒。ていうか、いなくていいよ。自分のことだけしか考えないし」

    「ふーん」

     面倒臭い。

    正直さっさとこんな話は切り上げてしまいたい。ふと、今は死体を乗せて走っていることを忘れてしまっていた。

     マモルとタカヨシがハンズ向かいのライブハウス前に立っている。クラクションを鳴らすより前に駆け足で近づいてきた。

    「おー…あれ、寧々ちゃんじゃん」

    「なんか大変みたいね」

     マモルと寧々が会話をしている後ろで、タカヨシの表情が硬くなったのがわかった。

    「陸さん、なんで丸山がいるんスか?」

    「何、いちゃダメ?」

    「別に」

     二人は同じ歳で高校も一緒だ。タカヨシ曰く、学校内の男子は寧々が苦手な連中が多いらしい。馬鹿にされているように感じるみたいで腹が立つそうだ。決して下の名前で呼ばないところに壁を感じる。

    「とりあえず乗れよ、ちょっと二人も付き合ってくんねえ?」

    「何すんの?」

    「何すんだっけ?」

     マモルの質問をそのまま寧々に回した。

    「オッサン探し」

     合流したばかりの二人が固まった。そんなことをしている場合じゃないのはわかってる、でも焦っても仕方ない、それに死体はこっちにある、あとは隠せばいいだけだ。

    3 丸山寧々 22:02

     母親がいなくなって今日で十日が過ぎた。

     私にとって、親は住む場所を提供してくれる存在でしかなく、愛情というものを感じたこともないし、ある種義務によって成人するまで面倒を見てくれている存在でしかなかった。だからこうやって突然帰ってこなくなると、単純に生活費やマンションの家賃が心配になってくる。

     別に最初からそうだったわけじゃない。小学五年生まではごく普通の家庭、というより二人とも有名な出版社に勤めていたので裕福だったし、そんな環境が壊れた原因もわかっている。ありきたりな話だけど、両親の離婚から全てが始まった。

     女ができた父は、家族を選ぶことなくあっという間に消えてしまった。

    当時はとても驚いた気がする、なぜなら前日、父親と一緒に動物園に出かけたから。いつも通り遊んで、いつも通り食事して、いつも通りお風呂に入って、いつも通り朝起きたら、もう父親はいなくなっていた。

     それっきり。

     その日から母親は明らかに変わってしまった。

     子供でもわかるくらい、生活がだらしなくなった。帰りが遅くなったし、お酒臭い日が続いた。いつしか一人で寝ることが多くなり、寂しいという気持ちがなくなっていった。

     そんなある日、中学生になってすぐの朝だった。着慣れない制服を着て自分の部屋からリビングに移動すると、知らない男が上半身裸で朝食を食べていた。

    「あら、学校?」

     特に悪びれるわけでもなく、会社へ行く準備をしながら母親は言った。

    「うん」

     私の返事に合わせるように、上半身裸の男はこちらに振り向いた。

     その時のつま先から胸にかけて舐め回すように見たあの目を、一生忘れることはないと思う。同じ人間とは思えない気色悪さを感じたから。

     吐き気を覚えながら学校へ行く途中、気がついた。あの気持ち悪い生物を家に招き入れたのは、自分を産んだ母親で、自分はその娘なのだと。

     もしかして父は、母親の気持ち悪い人間性を見抜いていたのかもしれない。

     次の日から、さらに意識的に母親を避けるようになった。きっと向こうもせいせいしたのだろう、家族は驚くくらいのスピードで他人になっていった。向こうが男を連れ込む回数が多くなるにつれ、こっちは家に帰る時間が遅くなった。きっともう娘の誕生日なんて覚えてないと思う。

     でも、外面だけは一級品で、学校での成績を気にして、高校を選ぶときは口うるさく言われた。結局反抗が実り、母親の喜ぶ高校とは程遠い共学に入学することができた。

     それ以降、私の精神は限界を迎えた。成績は留年しない程度に、友達は渋谷でできた母親の言う劣等生たちと遊んで無断外泊をするようになると、あっという間に興味がなくなったようで、さらに家に寄り付かなくなっていった。

     それでもたまに帰ってきて、朝方顔を合わせる時がある。会う度に母親は痩せて、目が窪んでいっているのがわかった。明らかに何か妙なことがこの女に起きているんだろうけど、もう思いやる気持ちは一ミリもない。

    とにかくもうこれ以上、このだらしない女に指図されるのも嫌だし、連れてくる気持ちの悪い男たちに好奇の目を向けられるのも限界だった。あと半年で学校を卒業できる、そうすれば就職して外に出ることができるのだ。

    現在までに覚えているだけでも五人は男が代わっている。最後の男は、私でも知っている有名な作家で、よくテレビでも見かける富田甚一(トミタジンイチ)という油ぎったチビデブ男だった。

    富田は顔を合わせるごとに必ず話しかけてきた。

    「可愛いねえ」

    「学校は楽しい?」

    「彼氏はいるの?」

     どれもこれも気持ちの悪い声色で聞いてきた。その中でも一番吐き気をもよおした一言は今も忘れられない。

    「お小遣いあげるから、どう?」

     恋人の娘に手を出すのも厭わない堂々とした言い方に、吐き気と虫唾が走った私は、久しぶりに母親と会話を交わした。と言うより怒りをぶつけた。お前の男は娘と寝たがっていると。

     しかし母親は一言、

    「あっそ」

     それだけだった。

     何もかもが破綻しているのだと改めて気がついた言葉だった。本当の意味で諦めがついた私は、ただひたすら卒業までの日々を待つことになった。

     しかし一つだけ変わったことがある。富田が家に寄り付かなくなったのだ。別れたのか? と一瞬思ったがそうではなく、どうやら向こうの家に通っているようだった。

     こっちは生活費さえ払ってもらえれば問題はなく、むしろ不快な気持ちにならなくていいと思うと心が晴れた。

     一日、二日と帰ってこない日が多くなって、たまに四日も家に寄り付かないこともあった。輪をかけて品のない顔で独り言をぶつぶつと喋るようになった頃、ついに全く帰らなくなった。

     そして今回、今日の時点で最長の十日が経っている。

     今までと状況が違うのは、帰らなくなって二日目、夜に帰宅すると家の留守電に残っていた出版社からのメッセージで、あの女は会社に出勤していないことがわかった。

     翌朝になっても帰宅しない母親にイライラが募りながらも、同時に今まで考えたことのない不安に襲われた。

     今更面倒見てくれなんて思わないし、むしろ気楽で良いのだが、生活費ももらっていないし、もしもこのまま帰ってこなかったら、電気もガスも水道もいずれは止められてしまう。

     それってつまり…育児放棄?

     簡単に言うと、捨てられた?

     親に捨てられる子供、そんなのはドラマの中だけの安っぽい設定でしか聞いたことがない。ゴミのように捨てられるほど嫌われていることになる。勝手に産んで、勝手に離婚して、勝手に捨てるのだ。

     なんで私がそんな見窄らしい生活を送らないといけないわけ?

    考えれば考えるほどイライラは募り、同時に今起きていることが異常なことだと気づき始める。出ていった父親の連絡先も知らず、頼れる大人なんて誰もいない。

    そこでふと気がついた。

    富田だ。

    きっと母親はあの男の家にいる、娘を捨ててあの男を選んだのだ。

    気色悪く、未成年の体を求める男。タバコで真っ黄色の歯を剥き出しで、名刺を渡されたのを思い出した。もうほとんど座ることのなくなった勉強机の引き出しの中から名刺を取り出し確認する。

    富田甚一事務所。

    自分の名前を冠に掲げた事務所兼自宅は、渋谷区松濤にあるらしい。そこで閃いた。

    自宅に乗り込んで、母親とこの男を脅して生活費プラス小遣いを貰えばいい。

    名案が浮かんだと同時に、頭にはすぐに元村陸の顔が浮かんだ。カバーズという渋谷で有名な不良チームにいて、今の渋谷ではちょっとした有名な男だ。私が主催するギャルサークルの子が、千葉のチーマーの男に乱暴された時、カバーズにお願いして復讐してもらった事があった。その時、お礼で一度だけセックスしたことがある。でもすぐに相手が調子に乗るのがわかったので距離を置くことにしていた。

    あの男をうまく使えば、中年を脅すことなんて簡単なはずだ。多少痛めつけてもらっても構わない。警察になんて相談できないだろう、私を買おうとしたんだから。

    陸にメールをすると、五分後には返信が来た。

    二十二時から時間が空くらしい、今日中に片付きそうで安心した。とりあえず一回ヤラせて、またしばらく距離をおけばいい。ああいったカッコつけの無茶好きな男と付き合っても碌な事はない。

    シャワーを浴びて化粧を済ませ、自宅を出てゆったりと渋谷へと向かった。

    世田谷の三件茶屋駅から電車に乗って十分、ハチ公口に出ると、ギラギラした水商売のキャッチが大量に溢れている。

    その男たちに声をかけられる田舎から来た垢抜けないギャルを眺めていると、電話が鳴った。

    陸だ。

    「もしもし、今どこ?」

    「電車降りてハチ公出たとこ」

     もう近くにいるようだった。マツキヨ前で少し待てと指定された私は、電話を切ってセンター街の信号をマルキュー方面に渡る。

     行き交う制服カップルたちは楽しそうに会話している。その中で、下を向いて駅へと向かう大人もたくさんいた。そのどれもこれもが恨みでもあるようにカップルを睨みつけ、中には一人ぶつぶつと喋りながら歩いていた。

     ニュースでよく聞く言葉、就職氷河期。

     読者モデルなんかで目立っていた先輩たちも、社会に出れば仕事がなく、結局キャバクラで働いていたりする。一流企業に就職なんて考えた事はないが、それでも風俗や水商売だけはごめんだ。

    別に援助交際に抵抗はない。

    ウリだって当たり前のようにみんなが経験している。ヨソのことは知らないが、渋谷で遊んでいる八割の子は経験があるはず、私だってもちろんある。カラオケに行くだけで数万円なんて当たり前、カラオケに入り手でヌイてあげるだけでもかなりの額が稼げた。時給わずかなまともなアルバイトなんてやってられない。

    女子高生はブランドなのだ。

    今しか価値のないものを利用して何が悪いのか、性病にかかるのも、妊娠するリスクだってある。そこは自分自身で気をつけるしかないし、誰も守ってはくれない。セックスはよっぽどじゃなければやらないが、それでも十万なんて提示されれば、ハゲだろうがデブだろうが数分間我慢すれば良いだけだ。

    そうやって欲しいものを買う。

    シャネルだってヴィトンだって買える。きっとショップの店員は私たちがまだ子供だって気づいているはずだ。それでもお金さえあれば売ってくれる。だからこの街にはたくさんのブランド品が溢れている。

     でもわかってる。

    私には学歴も特技もない。今はチヤホヤされてるが、それも卒業するまでの話だ。制服を脱いだ瞬間、価値はなくなる。

     その後はどうなるのだろう。こうやって楽しそうに歩くカップルも、そこに座っているギャル連中も、いつかはこの街から離れることになる。こうやって現実を感じることが多くなった。楽しい時間はもうすぐ終わり、あとは面白くもない世界で生きていくのだ。

     その後は?

     結婚するのか?

     考えられない。もし子供なんて生まれてしまったら? 人の親になんて絶対になりたくない。

    想像するだけで鳥肌が立ってくる。自分自身がまともな愛情を注げるなんて思えないからだ。別に子供が嫌いなわけではないけれど、責任は持ちたくなかった。

    改めて周りを見渡すと、下を向いて駅へと向かう人間の方が多いことに気がついた。どれもこれも帰宅後、楽しいことなんてなにもないのだ。誰も待っていないのか、それとも仲の悪い家族でも待っているのか。

    見ているこっちが憂鬱になる。

    楽しいのは若い今だけだ、そう言われている気がした。

    自分もああやってトボトボ歩く日が来ると考えただけで嫌になってくる。やりたいこともない、夢もない、ただ楽しく毎日を過ごしたい。甘い考えなのはわかっている。

    マツキヨ前に陸の車が止まっていた。トヨタハイラックス。四人乗りでさらに大きな荷台が目立っている。あの手の男が好んで乗っていて、何がいいのか私にはわからない。

    落ち込んだ気分を紛らわそうと車に寄りかかって、タバコに火をつけようとした時だった。

    陸が血相変えて走ってきた。

    「寧々、ちょっと待ってて」

    「いいけど。大丈夫?」

     陸は頷きながら車に乗り込み、すごいスピードで路地へと入っていった。

     また揉め事だろうか?

    再びタバコに火をつけて、吸い終わる頃にスクランブル交差点側からハイラックスが走ってきた。車を止めてぼんやりと前を向いている。やっぱりおかしい。

    「どしたの?」

     助手席の窓を叩くと、陸の体がビクっと反応した。

    「悪いな、乗って」

    「うん、なんかあったの?」

    面倒ごとは勘弁してほしい、私は落ち着かせようと話しかけた。

    「ああ…いや…とりあえず移動するわ」

     ハイラックスはゆっくりと出発する。路地を通り過ぎる際、警官が立っているのが見えた。やっぱり何かあるのだ。

    「警察いるね、あ、吸ってもいい?」

    「いいよ」

     ぼんやりと無感情で反応する陸。今まで揉め事を起こしているのを遠巻きに見た事はあるが、いつも自信満々のこの男がここまで青ざめているのを見たことがなかった。

     チーム行動で、少しでも気に入らない相手がいると集団でリンチする。徹底的に相手を貶めることで有名で、誰もがカバーズに恐怖を抱いていた。

     同じ学校内でもメンバーが数人いるし、勝手に名乗ってる奴らがいるのも知っている。サークルの友達はそんな男たちの彼氏になるのがステータスで、私には理解ができなかった。

    「いや悪かった、ちとよ、先輩に頼まれて——」

    相変わらず陸の顔色は戻らない。その理由がやっとわかった。

    「その人、死んだの?」

    「…多分」

     失敗したかも。

    面倒臭いことに巻き込まれたのではないか?

    しかしすぐに答えは出た。別に途中で合流したと言えばいいだけだ。こいつらが捕まろうと知ったことではない。こっちの用事が終わればそれでいいのだから。

    「陸くんが車に押し出したの?」

    「いや、自分で飛び出した」

    「じゃあ大丈夫じゃない? たまたま近くにいたって言えばいいじゃん」

     通用しないだろう、そんな言い訳。

     その後もあーだこーだと泣き言を吐き出している。

    そんなに怖いなら最初から追いかけたりしなければいいのに。大丈夫だと慰めて欲しいのだろうが、言ったところで現実は変わらない。

    「後ろに乗ってんだよ、ソイツ」

     突然、陸が訳のわからないことを言った。

    「…死体が?」

    「そう」

     冷静を装いタバコを深く吸った。この男はやはりバカだ、しかもとんでもない大バカだ。このままだと余計な事件に巻き込まれてしまう。

    「…ほっとけばよかったのに」

    「死体を? いやあ…」

     私は陸の行動を全否定した。正直ムカついてたまらない。そしてこんなクズに頼ろうとした自分が情けなくなってきた。

     でも、コイツらにしかオッサンを拉致するなんて頼めない。

    「仕方なかったんだって、責めんなよ」

     陸までイライラしているのがわかった。

    「関わりたくないんだけど」

    「わかってるよ、大丈夫だって」

     おそらく陸はもう終わりだ。間違いなく捕まるし、そんな中、運悪く車に乗ってしまった。とにかく知らなかったと言い張るしかないし、この男がいないとあの気持ち悪いオッサンに恐怖を与えられない。とにかくギリギリまで利用する。捕まったら知らなかったと言い張る。

    「もう積んじゃったのは仕方ないんだから、どっかバレない場所に捨てるしかなくない?」

    「どこに?」

    「うーん、山?」

     死体なんて山にしか捨てる場所ないだろう。

    「それで隠せるのかよ」

     ダメだ、この男はやっぱり自分で考えることもできないクズだ。

     返事をしなかった。

     車は246へと入る。陸が焦っているのがわかった。

    「…で、寧々、なんか頼みたいことがあるんじゃなかったか?」

    「ああ、うん。でもそれどころじゃなくない?」

     陸は慌てるように否定する。

    「お礼はホテル行かねえ、どう?」

    「うん、わかった」

     結局それ目的なのだ。さっきまで青かった顔色は戻り、わかりやすくニヤけ出した。どう言う感覚で生きているのか、後ろに死体が乗っているのに。

    「で、頼みって何?」

     私は簡潔に説明する。母親との関係性まで話すつもりはなかった。

    「オッサンって、お前の親父さん?」

    「違う。他人」

     陸は何かを言いかけてやめた。そう言えば前に家庭環境の事を話した気がする。お互いあまり楽しい家庭ではなかったはずだ。

    「いいよ、手伝うよ。どこにいるかわかんの?」

    「わかんない。住んでるのはNHKの近く」

     メモしてきた住所を陸に渡した。松濤は高級住宅街だ。

     あの気持ち悪い男が、自分よりもずっと若い男の暴力で泣き叫ぶ姿を想像すると、少し興奮した。一生引きずるくらいの恐怖を与えてほしい。

    「オッケー、とりあえずバラけた二人に連絡入れるわ」

     陸は車を止めてメールを打っている。いつものメンツだろう。あっという間に返信があったようで、車はすぐに出発した。

    「俺ら付き合わねえ?」

     話の流れで急に陸が言い出した。

    無理、絶対に無理。

    「うーん、考えとく」

     断ってしまうと、この後が気まずい。今は誤魔化すしかない。驚くのが捕まるとは思っていないところだ。

     しかし陸は答えを求めてくる。一回セックスしたのが行けなかったのかもしれない、もう半分は自分のものだとでも言いたそうな顔をしている。うまく断る方法を考えながら答えた。

    「——とか、毎日一緒とかもマジで無理。陸くんも同じじゃない?」

    「まあそうだよな。面倒臭い」

     そうは言いつつも、明らかに納得していない。本当に面倒臭い男だ。

    「寂しくねえの? お前」

     寂しい?

     じゃあ仮に寂しい場合、誰かと一緒にいれば寂しくないのか? この男は自信があるのだ、もしこっちが寂しがっていたら、それを癒せると。

    「ねえ」

     どんどん腹が立ってくる。いつも群れている人間に何がわかる。

    「寂しいってなんだと思う?」

    「何それ」

     陸は気まずそうにしている。

    「質問に答えてよ、寂しいって何?」

     毎日集団で人をいじめているような男が知っているはずはないのはわかっている。それでも言わずにいられない。

    「やっぱり一人でいると暇じゃん?」

    イライラしているのが伝わる。その顔を見て急激にバカらしくなってきた。こんな奴が知るはずがないのだ。

    「——でしょ。毎日誰かと生活するなんて無理だもん」

    「うーん、そんなもんか? 親も?」

     思い出した。

    陸は裕福な家庭で育っている。前の親が会社をやっていると話してくれた事があった、どんなに悪い事をやっても、きっとこの男はいつか親の脛をかじり、親の会社に入り、困る事なく暮らしていくのだ。

     家の話なんてしたくない。私の拒否する空気を陸は察してくれたようだった。

     車は東急ハンズ前に着いた。マモルとタカヨシ、いつも見るメンバーだ。

    「おー…あれ、寧々ちゃんじゃん」

     マモルは意外と紳士だ。カバーズの中では暴れん坊で体格も良いが、一番女子に気を使える男だと思う。それに引き換えタカヨシは卑屈の塊で、自分より強い人間には極端になびく。そして女子からバカにされていることを薄々気がついているようだった。

    「陸さん、なんで丸山がいるんスか?」

     露骨に不機嫌な表情を浮かべているこの男は、陸に可愛がられている事を鼻にかけ、学校でも偉そうに踏ん反り返っていた。

     二人を乗せて車は再び出発する。

    陸が私の用事を済ませると話すと、車内の空気が変わった。そんなことやってる場合ではない、そう言いたそうな顔をしていた。

     正直、私もそう思う。

    後ろに死体が乗っているのだ、この車に乗っていると面倒に巻き込まれるのは確実だろう。さっさと用事を済ませた方がよさそうだった。

    4 寧々 22:45

    「なあリクちゃん、やっぱりマズくねえ?」

     口を閉じていたマモルが急に喋り出した。

    「マズイって何が? 相手はオッサンだぜ?」

    「いや、さっきの今じゃん? とりあえずこの辺から逃げた方が良くねえか?」

    「逃げるってどこに」

     後ろの二人は私の用事なんてどうでもいいはずだ、さっきから強烈なプレッシャーを感じる。

    「別に一人でも平気だよ? なんか忙しそうだし」

    「大丈夫だって! さっさと用事済ませちまうぜ」

     陸はバックミラー越しに後ろの二人に睨みを聞かせている。

    「詳しくは聞いてないけど、後ろに死体乗ってるんでしょ?」

    「え? 何が?」

     タカヨシが裏返った声を出した、やっぱり小心者で馬鹿だ。

    「いいってとぼけなくて。トラックに轢かれたんでしょ? ていうか、轢いたのが三人じゃないなら問題なくない?」

     三人は一気に静まり返った。

    「最悪警察に捕まって事情聞かれても、知らないって言えば? 三人が殺したわけじゃないじゃん」

    「でもさあ——」

     マモルが唾を飲み込み、言葉を続ける。

    「実際、裸にしたのは俺らだし、渋谷中を追いかけ回してるのも見られてるぜ?」

    「そんなの良くあるじゃん。ほら、先輩たちの時も流行ってたでしょ? 芸人狩り」

     実際、一世代上で流行っていた遊びだ。テレビで有名な芸人を街中で追いかけ回したり、家を訪れたり、事件にまで発展したこともあるらしい。

    「大体、気にしたってどうにもならないよ、どうせこれから山に埋めるんでしょ、バレなくない?」

     普段は無茶苦茶するくせに、いざ問題が起こったら顔色変えて慌てるなんて、滑稽でしかなかった。

    「寧々の言う通り、死体を埋めちまえば俺らかどうかなんてわかんねえって。もし捕まっても知らないですっとぼけりゃいいよ」

     陸が強がって言った。

    正直この連中が捕まろうがどうだろうが、関係ないし興味もなかった。

    「とりあえずその男からお金取って、四人で分けようよ。逃げるにしてもさ、お金いるでしょ?」

    「縁起でもねえこと言うなって」

     タカヨシの顔は不安のあまり青を通り越して紫になっている。

     さっきから車はずっと渋谷近辺をぐるぐると回っていた。このまま無駄に時間を過ごすわけにはいかない。男たちが無理なら、一人だってアイツを尋ねるつもりだ。

    「でもアイツ有名人じゃん、騒ぎになってるって」

    「誰?」

     マモルが私からライターを借りながら言った。

    「ワールドレコーズって二人組いんじゃん? その三葉ってやつ」

     顔が思い浮かんだ。変な踊りで全然面白くない芸人だ。

    「知ってる。そいつが後ろの死体?」

     誰も返事をしなかった。芸能人が死んだらめちゃくちゃ話題になるに決まってる、やっぱりこいつらは終わりだ。

    「寧々、松濤の方でいいんだよな?」

    「うん、神泉駅の近く」

    どうするべきか、車を降りるべきか。

    しかし富田を脅すには、一人ではどうにもならない。

    やっぱり利用するべきだ。金を手に入れたらタイミング見計らって離れればいい。これから死体を埋めるなら、ホテルは今日じゃないだろうし。

    「寧々ちゃん、そのオッサンって何者?」

     マモルが平静を装って聞いてくる。隠していても仕方ないので、全て正直に答えることにした。

    「母親の男」

     一瞬、車の中が静まり返る。

    「やめてよ、この空気。聞きたいことがあるんだよね」

    「オッサンに?」

    「うん」

     聞きたいことは母親の居場所だけだ。

    「でもさぁ、俺たちに声かけたってことは、ヤバい奴なの?」

     小心者のタカヨシが警戒している。

    「ううん、小説家。コメンテーターでテレビでも見かけるよ」

    「有名人?」

    「じゃない? よく知らないけど」

     嘘じゃない、全く本を読まない私でも聞いたことがある作品を書いている。といってもタイトルを知っているだけだが。

    「わかった。で、どこで会うの?」

     陸の声色に下心が見える。もうホテルに行くことしか考えていない。見た目は悪くないし、生理的に無理なタイプではないが、頭が悪すぎる。

    「そいつの家。ちょっと怖い思いさせたいんだよね」

    「家の中でかよ、それはまずいな。捕まったら下手すると強盗になっちまう。さっきの今だからなあ」

    「外に引き摺り出せばいいじゃん」

     後ろの二人は黙っていた。

    「まあ状況にもよるな。他に家族は?」

    「いない、独身」

     陸は何かを考えている。車は神泉駅前についた。

    「あ、そこの坂登って。お金持ちの家がたくさんあるでしょ? その一角だと思う」

     本当にあの女はいるのか? いてもいなくてもこの際かまわない、どっちにしても目的は一つだけ、お金だ。

    「あ、ちょっとゆっくり走ってくれる?」

     立ち並ぶ高級住宅の表札を一軒ずつ確認する。独身なのに一人でこんな場所に住んでいるなんて見栄張りたいだけとしか思えない。

     母親がもし一緒にいたら、まとめて怖い思いをしてもらおうか? 今更親らしくなんて思わないが、必要最低限の義務さえ放棄するような人間なのだ。

     大きな駐車場のある豪邸の隣、アルファベットで富田と書いてある表札を見つけた。その一帯では比較的こじんまりとした作りの家で、改めて見栄を張るために無理をしているのだと感じた。

    「あ、止めて」

     車から降りて、表札をちゃんと確認した。

    御大層にフルネームでトミタジンイチと書いてある。

    「本名で良くやるよね」

     誰に話すわけでもなく口から文句が出ていた。

    「ここ?」

    「うん」

    「私が呼び出すからさ、その後はお願い。殴ってもいいけど、もしかしたら私のお母さんがいるかもだから、そしたら一緒に脅してくんない?」

    「おい…マジかよ。いくらなんでもお前の母ちゃんは無理だろ」

     陸がここにきて無駄な配慮を見せた。

    「大丈夫だって。マジで最低な親だから。生活費とか色々ともらわないといけないんだよね、全然帰ってこないからこうやってわざわざきたの。こっちのことは気にしなくていいからさ、いつも通りやっちゃってよ」

     自分でも笑えるくらい猫撫で声を出した。いつの間にか習得していた技術だ。

    「わかったよ。おい、二人ともさっさとやろうぜ」

     あからさまに不機嫌なマモルと、怯え切ったタカヨシが後部座席から降りてくる。確かにこの二人には手伝う理由がない。

    「ねえ陸くん、別に二人には手伝ってもらわなくてもいいよ? 嫌そうだし」

    「何言ってんだよ、二人とも付き合うよな?」

    力関係を誇示するかのように振る舞うその姿を見て、改めてどうしてこんな男が人気なのか疑問が湧いてくる。

    「わかったよ。これ終わったら金もらって一旦渋谷から離れるわ」

    「マモルさんどこ行くんすか? いいなあ俺学校あるしなあ」

     三人のやりとりを無視して、インターフォンを押した。

     しばらく待ってみても返事はない。懲りずに何度もボタンを押し込む。

    「誰もいないんじゃねえの?」

    「電気点いてるよ、ほら」

     二階の電気はついていて、窓も開いている。

    「なあ丸山、いないんじゃねえの? 点けっぱなしで外に出たんだよ」

    「そんなわけないじゃん、アンタ怖いんでしょ?」

    「何だよてめえ、俺は——」

     タカヨシの言葉を遮るように、玄関のドアノブを大きな音を立てて何度も回した。

    深夜に鳴り響く高級住宅街に似つかわしくない金属音が、無駄に大きく響いた。

     その瞬間——

     何かぶつかる大きな音が建物の裏から聞こえた。

    「裏だ! いるじゃねえか」

     陸が裏口に向かって走り出した。続けてマモルも後を追う。

     タカヨシが遅れて走り出そうとした時、転がるように富田が玄関のドアを開けて現れた。その姿は上半身ランニング、下半身はトランクス一枚の情けない姿だった。

    「待てよおら!」

     裏の方から陸の声が聞こえる。

     瞬間的に持っていたバックを思い切り顔面にぶつけた。

    「うぅ!」

     痛みで疼くまる富田の後ろから、マモルが飛びかかった。

    「てめえ逃げてんじゃねえよ、おいタカヨシ何やってんだよ」

    「すんません…」

     しょぼくれたタカヨシを押し退け富田に言った。

    「なんで逃げるわけ?」

    「何だお前ら、警察呼ぶぞ、離せ!」

    「わかるよね? 丸山早苗の娘。家で会ったよね?」

     その瞬間、わかりやすいくらいに富田の顔色が真っ青になった。

    「お母さんいる? この家に」

    「いない! 何だお前ら、離せ!」

     富田が想像以上に暴れ出した。

    正直有名人だからもっと気丈に振る舞うと思っていたので、あまりに取り乱しぶりにこっちが怖くなった。

    「おい、オッサン、それ以上暴れたら頭かち割るぞ?」

     脅しながら抑えるマモルの顔も引き攣っている。

    「離せ離せ、離せ!」

     それでもお構いなしに暴れる富田は、もはや哀れを通り越して狂気じみていた。

    「どけ」

     陸の蹴りが富田の腹に突き刺さる。

    声を出さずに悶絶する姿に笑いながらそのまま抱えあげ、ハイラックスの後部座席に詰め込んだ。こういうところは全く躊躇がなくて、手際の良さに感心した。

    「いくぞ、乗れ」

     私たちは慌てて車に飛び乗る。

    「離せ、やめてくれなんだお前ら、おい、やめさせろ!」

     富田が醜悪な表情で懇願してくる。

    「うるせえ、お前ちっと黙ってろよ」

     言いながらマモルが肘打ちを顔面に入れた。鼻をおさえ悶絶する富田をタカヨシが慌てて抑える。

    「やめて、降ろしてくれ、やめてくれ」

    「ねえ、聞いてる? ねえ、聞けよお前」

     私も叫ぶ。自分でもわかるくらい興奮していた。

    「出すぞ」

     陸が車を出発する。出鱈目に高級住宅街を走り出した。

    「おい、静かにしろよお前」

     後ろで暴れる富田を睨む陸、押さえつけて恫喝するマモルとタカヨシ。このままだと話にならない。

    「ねえ、あんたさあ、助けてほしいならちゃんと言うこと聞いてよ、わかる?」

    「ね、寧々ちゃん、なんでこんな酷い事をするんだ!」

     初めて名前を呼ばれた気がする、同時に気色悪すぎて再び吐き気が襲ってきた。

    「ねえあんた、お母さんいるの? 家に」

    「いない! 知らない私は!」

     聞いたこっちが驚くくらい大声で否定してきた。

    「知らないってどういうこと?」

    「知らない! 会ってない!」

     後部座席で暴れる富田が、これまでに出会った大人のどれよりも醜悪でますます怖くなってきた。こんなに人間は見苦しく命乞いするのか。

    「知らないわけないじゃん、アンタさあ、うちの母親と付き合ってたでしょ?」

    「知らん、別れた! 離せ!」

    「おい、オッサン。これ以上暴れるなら本気で殺すぞ。いいか?」

     妙に落ち着いた声で陸が言った。

    「お前がなんて言おうとこっちは目的があんだよ。家に帰りたかったら大人しくしろ」

     あんなに暴れていた富田の動きがぴたりと止まった。やっぱりグループの中では別格なのだ。

    「寧々、その辺に止めるからよ。用事済ませろよ」

    「うん、わかった」

     気がつくと車は渋谷から少し離れて代々木公園が近くに見えている。

     富田は汗だくで私を見つめていた。前に自宅で向けてきたあの卑猥な目は鳴りを潜め、今はただ怯えている。

    「ねえ、さっきも聞いたけどさ、お母さん今どこいるの?」

    「本当に知らない、勘弁してくれ」

    「知らないって、会ってないの?」

    「会ってない、ずっと会ってない」

     何かがおかしい。

    私の知っているこの男は、柄の悪い男たちに攫われたとはいえ、ここまで卑屈に謝るような男ではない。冴えない見た目のくせに無駄に自信のあるところが気持ち悪かったはずなのに。

    「いつから?」

    「…え?」

    「いつからお母さんと会ってないの?」

     富田が生唾を飲み込んだ。

    「覚えてない、家に帰りたいんだ、勘弁してくれ」

    「十日くらい前、あんたと一緒にいるって連絡もらったんだけど」

     カマをかけた。母親とはもうずっと会話していないし、外泊の際に電話なんてかけてきたこともない。

    「ああ…そうだった、それくらい前に一度あった! でもそれっきりだ」

    「…なんか変だよアンタ。どこにいるか知ってるんじゃないの? もしかして、家にいるとか?」

    「いない!」

     富田の表情は見ていられないほど苦しそうに崩れている。

     ふと、あり得ない空想が頭をよぎった。

     もしかして…

    「死んだ?」

     後部座席を振り向くことなく、呟くように私は言った。

     一瞬で車内は静かになった。

    「お母さん、死んだ?」

     返事がない、陸が見つめているのがわかる。

    「ていうか、殺した?」

    5 富田甚一 22:47

     パッとしない人生が一気に華やいだのは、僕が四十歳になって二ヶ月の頃だった。

    岐阜の片田舎で生まれ、クラスの端っこで固まっている地味なグループ内で、女にモテもせず、小中高と平凡な学生生活を送った。不良グループから目をつけられるのを恐れ、できる限り目立たないように毎日ただ時間が過ぎるのを願って過ごしていた。それでも虐められてしまう特有のオーラみたいなものを醸し出していたらしく、不良連中にからかわれては、逃げるように家に帰り篭っていたのを覚えている。

    家でできることなんて、高が知れている。本を読むか勉強するか、しかし残念ながらその割には学力が低く、それでも努力して誰も知らないような東京のはずれの大学に入学した。

    大学生になったら楽しいことがあるはずだと信じていたが、場所が変わったところで状況は変わらず、むしろ友達もできず四年間孤独に過ごした。最初こそ交流はあるのだが、一ヶ月もしないうちになぜか孤立してしまうのだ。なぜ孤立してしまうのか? 嫌われてしまうことを知らないうちにやってしまうのか? 皆目見当もつかないまま時は残酷に過ぎていく。

    そして自分の人生の流れが大体わかった気がした。パッとしない人生を孤独に死ぬまで過ごすのだと。

    ただちょっとした幸運が訪れる。

    バブル時期と重なったこともあり、就職に困ることはなく大手飲料水メーカーの営業職に就くことができた。今度こそは人生を変えたい、そう強く願った僕は、無理矢理明るく飲み会などに顔を出し、上司の接待なども積極的に行った。

    正直こんなに人付き合いとは辛いものなのかと感じた事を覚えている。ろくに喋ったこともないような連中から、飲みの席で馬鹿にされてはヘラヘラとする夜、当時バブルだった日本では、ほぼ毎日が飲み会だったため、辛い日々を過ごしてきた。

    しかし景気はすぐに下降し、営業成績をシビアに問われるようになってから、同期入社の連中はどんどん結果を出して出世していく。そんな中、自分だけはずっと平社員のまま、なんとかクビが切られない程度に仕事をする毎日だった。

    気がつくと結婚は愚か彼女もできないまま、ただ会社に行っては家にまっすぐ帰る、生きているのかいないのかわからない毎日を過ごしていた。

    そんな長く苦しい馬鹿にされた日々が精神を蝕んでいく中、地獄の日々に埋もれて十数年、ついにゴミのような人生がある日大きく変わったのだ。

    人生でたった一つの趣味である執筆活動。

    それこそ小学生の頃より続けていた作品の山を世に出してみたい、そう考えてから長年書き続けてきたミステリー小説が大きな新人賞を受賞したのだ。毎日のように同僚から陰口を叩かれていた僕に、受賞した日に編集者の人間がこういった。

    先生と。

    あの日からゴミのような人生は一変した。デビューが決まり最初の長編作品に取り掛かる際、売れるまではと編集者には止められたが、会社に小説家になると啖呵を切って辞めた。これまでの鬱憤、怨みを退職届に全て記載して課長に叩きつけた時は絶頂を迎えそうになった。

    幸い、就職して数十年お金を使う場所がなかった。少ない給料ながらもずっと貯金してきたのだ、数年は暮らしていける準備は整っていた。

    心のゆとりを持って半年ほどで描き終えたデビュー作は、その年のベストセラー作品となる。新人ミステリー作家、富田甚一は一躍有名となったのだ。

    眼鏡をかけた冴えないチビでデブと蔑まされた人生は一転、一流大学出の編集者たちから先生扱いをされ、我が社でも作品を描いてくれと様々な出版社から接待を受ける。

    若いホステスたちにチヤホヤされ、鼻高々で銀座を歩けるようになるなんて、人生というのは本当にわからないと心から思ったのだ。

    あれから五年、長編を九作品書き上げ、二時間ドラマ化されるなど、僕の名前は誰もが知る事となった。

    印税というのは恐ろしいもので、まとまった大金が一気に口座を埋め尽くし、その度に部屋を引っ越した。ちなみに渋谷の松濤に住めるまでそこまで時間はかからなかった。最近では情報番組のコメンテーターなどもやっているので、若い子たちにも顔が売れてきた。誰もが気を使い、誰もが富田甚一の作品を心待ちにしている。

    金も名誉も手に入れてからずっと心に秘めていた、いや、我慢してきた性癖をついに解放することにした。

    これまで頭の中で何度も気の強そうな女たちを犯し、痛ぶり、最後は殺していた。学生時代にゴミのように見つめてきた不良とその彼女、会社員時代に僕にだけお茶を出してくれなかったマドンナ事務員、これまでに馬鹿にしてきた女たちを、その度に頭の中で汚してきた。

    髪を掴み、尻を叩きながら、恫喝し、後ろから犯す。そして最後は首を絞めて殺す。

    有名になってからも、作品の中でもいろんな女を殺した。有名な探偵のキャラクターがいるため、毎回その男に事件を解決させるのだが、本当は犯人を描いている方が楽しい。実際、細かく描く変態プレイ描写、殺人描写は妙にリアリティがあると評判だった。

    そりゃあそうだ。これまで何度も何十年も頭の中で行ってきた行為なのだから。

    金を手に入れてからいろんな女を抱けるようになった。最初は風俗店に始まり、SMクラブに通うようになった。そこにいる自称マゾと名乗る女たちはどれもこれも商売染みており、正直全くリアリティを感じることができなかった。

    そこで世間で流行っているテレフォンクラブに目をつけた。世の中では援助交際ブームで、社会問題にもなっている。しかし相変わらず中年男性たちは、娘ほどの年齢の女子高生に高額を払い買っていた。

    高鳴る胸を押さえながらでテレクラへ行き、一人の女子高生と待ち合わせることができた。道玄坂の109近くに現れたその女は、こんがりと焼けた肌に真っ白なルーズソックス、制服の意味を成していないだらしないスカートの丈、何より生意気な表情に思わず気持ちがすくんだ。

    しかしこっちには金がある。

    その女子高生に十万握らせ、二時間好きにさせる約束を取り付けた。目をキラキラさせ金を握りしめていたその女は、三十分後には鼻水を流して泣き叫んだ。しかしこっちは容赦しない。学生時代に笑い物にした女子グループを想像しながら、まだ十六、七歳の子供を笑いながら犯したのだ。

    興奮した。

    風俗では決して得られない、圧倒的優位間。自分こそが王で、目の前で赦しを乞う女はゴミ以外の何者でもなく、ただ射精道具として存在しているのだ。

    許してください、ごめんなさい、勘弁して。

    こういった安っぽい言葉は最初しか聞けない。その先はただ慟哭し、そして虚な目で何かを諦める。全ての行為が終わり、ホテルを後にする時は大抵僕一人で、援助交際のガキたちは泣いていた。

    こうなると、人間はもっと強い刺激を求めてしまう。ああ、ガキでは物足りない、もっと成人したステータスを持つ女たちをゴミのように扱いたい。

    これは復讐なのだ。人生を洗い流すための作業なのだと信じて疑わない僕は、テレクラで探す相手を、女子高生から少しずつ年齢を上げていった。

    しかしここで問題が発生する。

    ハイクラスな女はテレクラなんて使わないのだ。程度の低い金に目が眩むような貧乏人にはもう飽きた。ではどこで会えばいいのか?

    高級風俗、なんなら他県で有名なSMクラブなどにも足を運んだが全く満足できない。金に目がくらんでしまった自分を心から後悔して泣き叫ぶ女なんて、そうそう出会えるわけがないのだ。

    結局は再びテレクラへと戻り、渋谷に群がる馬鹿で派手な女子高生に金を掴ませ、思う存分犯した。しかしマンネリとは本当に恐ろしいものだ、四十歳でデビューできるまで、女なんて抱いたこともなかったのに、今この国で一番価値があると言われている渋谷の女子高生に飽きてしまっているのだ。強すぎる自分の願望をなんとか作品にぶつけていたある日、ついに運命の相手を見つけてしまった。

    丸山早苗。

    その女は新しい担当編集者だった。

    有名出版社勤めのキャリアウーマン、シングルマザーでブランド品に身を包み込んでいて、人を馬鹿にしたような高飛車な態度。売れっ子作家にも強気の早苗は、容赦なく締切り間近にはプレッシャーをかけてきた。

    四十歳手前でまだまだ現役、自信に満ち足りているこの女をめちゃくちゃに犯して、自分の好きに扱える下僕にしてしまいたい。

    欲望は日に日に肥大していった。

    まるで作品を書き上げるかのように、プロットを作り、頭の中で作戦を構築していった。下手を打つと、あの作家は男尊女卑の変態男だと業界内で一気に噂が広まってしまう。それに担当編集と言っても、いつ新しい編集者に変わるかわからない。自然に顔を合わせる口実のある今しかなかった。

    そして前作が描き終わった時、お祝いも兼ねて二人で軽く飲もうという話に持っていった。そこで彼女に関係を持ちかけたのだ。この女の人生で一度も相手にしたことのない、というよりも視界にさえ入っていなかったであろう冴えない人種の男が、彼女に思い切った金額を提示した。

    ここで意外なことが起きる。

    彼女は特に考えることもなく受け入れたのだ。

    正直拍子抜けだった僕に、彼女は嬉しい一言を言い放った。

    定期的に関係を続けたい、それにあたって毎月手当が欲しい。

    回りくどい言い方でなんとかプライドを保っているようだが、簡単に言ってしまえば愛人だ。

    金を欲しがる浅ましい姿を見て興奮した。微塵もこれまで見せたことのない、ハイクラスな女の実情。これまでずっと知りたかったパーソナルな部分をとことん聞き出す事にした。

    どういう生活をしているのか、現在の恋人の有無、経済状況。

    彼女の生活はボロボロだった。

    十年ほど前に旦那と別れてから娘とうまくいかない、付き合う男性はどれもこれも長続きせず、ストレスからブランド品を買い漁るようになったらしい。会社や外では上品に振る舞っているが、実際問題、家計は火の車で最近ではクレジットカードの支払いも滞りがちで、ギリギリの生活を送っているそうだ。

    酒を飲み交わしながら、徐々に自分の立場が上になっていくのを感じていた。あんなに高飛車な女が見せる、卑屈な表情。金が欲しくて仕方のない、はしたない人間であると自らバラしている無様な有様に興奮した。

    彼女の吐露は止まらなかった。そしてとても興味のある言葉を吐き出したのだ。

    夜な夜な、渋谷で売春をしているらしい。

    相手は誰でもよくて、テレクラに電話をして最初に繋がった人間と会ってはホテルに行き、その場限りのセックスと金で自分自身の存在意義を確かめているそうだ。

    話を聞きながら頭の中ですでに目の前の女を汚し始めていた。どうやって絶望を味わわせながら楽しんでやろうか。

    絶対にこっちの申し出を断ることはないだろう。彼女に毎月給料と同じくらいの金額を提示した。その代わり、絶対的に服従することを条件に。

    答えはイエスだった。

    しかも考える間も無くだ。

    絶対服従の意味がわかっているかも確認したが、無言で頷いた。そこで確信する、この女は真性のマゾなのだと。

    そこからは面白いように早苗は墜ちていった。

    こちらの望む行為に一々嫌悪感を示す割には、必ず言う事を聞き、醜態を晒していく。最初は自宅、そのうち彼女の家でも行為を行うようになった。敢えて売春させて、脱法ドラッグも使わせた。

    関係が続いていくうちに、気がついたことがある。おそらく早苗はすでに精神が壊れていて、かろうじて出版業界で働いているというプライドだけが自分を保てる理由だったのだ。別れた旦那は別の出版社にヘッドハンティングされ、うまい具合に出世しているそうだ。

    とあるプレイ中、彼女は譫言のようにぶつぶつと前の旦那の文句とともに、未練を口にしたことがあった。僕以外の相手を行為中に思い出したことに怒りを覚えるとともに、とても興奮した。

    元旦那といえば、彼女の自宅で何度か一人娘と顔を合わせたことがある。母親に似て傲慢が表情に張り付いているようなガキで、こっちは遠慮することなく売春を持ちかけた。あの時の蔑む顔に興奮した。この世間知らずな女子高生をとことん貶めたいとさえ思うようになった。一度、早苗に娘もプレイに混ぜろと話したことがあるが、あの時だけは血相を変えて怒り狂っていた。あの女にとって、母親という部分も残された少ないプライドなのだ。

    どんどんとエスカレートしていく関係、今まで抑制されていた欲望は留まる事を知らず、一人の人間を飼い慣らす様は、さながら奴隷商人の気持ちになった。

    留まる事を知らず。

    いや…

    留まるべきだったのだ。

    今思えば、僕はとことん調子に乗っていたのだと思う。

    全てが思い通りに動き過ぎるため、元々どういう人生を送ってきたのか忘れていたのだ。

    十日前の夜だった。

    松濤の高級住宅街から少し離れた路地、神泉駅からすぐの場所に、一軒の古びたアパートがある。

    本当にたまたまだった。駅近くで買い物をして、自宅へ歩いて帰るとある夕暮れ、管理している不動産会社と思しき男と、物件を見にきていた年老いた男がその部屋から出てくるのを見かけた。

    何気なく視線をそちらに向けると、その不動産屋の男は、鍵を部屋の前の植木鉢の下に隠した。

    一瞬で計画が出来上がる。ボロボロのアパートで早苗に売春させる。見つかったら不法侵入と売春でキャリアが終わるだろう、そんなスリルを抱えながら高飛車な女に体を売らせる、押入れの中からその行為を一部始終眺めるのだ。

    新たなプレイを想像し興奮した僕は、早速早苗に話し、その日のうちに客を取らせた。夜まで待ってアパートに侵入、空っぽの押し入れに入り、あらかじめ準備していたわずかな襖の穴から部屋の中を見渡した。

    何もない部屋に布団が敷いてある。

    他には何もないその雰囲気が、女郎部屋を想像する。潜んで三十分も経たないうちに、早苗は一人の男を連れて部屋に入ってきた。片言で話す日本語で、どこか別の国の男なのはわかったが、姿は窓から入る光でしか確認することができない。二人はシャワーも浴びず、すぐに絡み合った。まるで動物のような姿に今までにない興奮を覚えた。

    男が、片言で早苗の体を誉めながら貪っている。そして見苦しい尻を剥き出しにして絶頂する様に、声を上げて笑いそうになった。

    虚な目で天井を眺める早苗は、その行為の中何もかも諦めたような視線でぐるぐると目玉を動かしていた。行為が終わり、金を受け取った後はさっさとバイバイ、早苗を一度銭湯に行かせて体を清めさせる。

    早く次の男を連れて来い。

    その命令を彼女はぼんやりとした目で頷く。

    今思えば、あの時点で気がつくべきだった。不安定な精神状態を無視して、超えてはいけない一線を超えてしまっていたのだ。

    再びアパートで潜んでいると、作業着を着た男と共にアパートへと戻ってきた。なんだ、乗り気じゃないかと安心した矢先だった。乱暴に犯される早苗の顔が、天井を見つめながら徐々に崩れていった。

    そして突然、今までに見たことのないクシャクシャな表情を浮かべ、早苗は大声で叫び出したのだ。

    ——キャァぁあぁぁぁぁあ!

    これまでに聞いたことにない声だった。

    天井を見つめたままものすごい表情で叫ぶ早苗を見て、男は逃げるようにズボンを履いてアパートを飛び出していった。

    慌てて襖を開けて早苗を揺さぶった。

    「おい、静かにしろ、おい!」

    「ああぁぁぁぁぁああああああ!!」

     耳をつんざく金切り声に思わず尻餅をついた。

     その姿を見て、早苗がゆっくりと笑ったのだ。

    「何がおかしいんだ!」

     思わず裏返った声で、またあの女は笑い出した。

    「笑うな! おい!」

    「……けない」

     にやけながらボソボソと喋る早苗に、強烈な怒りを感じた僕は、張り手を思い切りかました。

    「ふざけるなよ? 変態女! 金欲しいんだろうが」

    「情けない」

    「…は? なんだって?」

    「情けないって言ってんのよ!」

     早苗の表情が怒りの色に染まった。

    「誰に向かって言ってるんだ? 僕は富田甚一だぞ!」

    「偽物作家。空想でしか自分を表現できないじゃない。何が富田よ、小心者の偽物作家でしょ?」

     何が起きているのかわからなかった。なんでこの女はこんな失礼な事を突然言い出したのだろうか。

    「アンタがさ、割り切った関係を持ちかけてきた時ね、こう思ったの。なんで私がこんなパッとしない眼鏡豚に抱かれないといけないのかって。でもね、実際お金がなかったし、ブ男に無理やり抱かれるのを我慢すれば興奮するかもって思ってた。でもあまりの気持ち悪さにストレスで拒食症にもなったわ、知ってた?」

     早苗は淡々と言葉を続けている。

    「でも、もう限界。毎回笑うのを堪えるのに必死。あんたがご主人様気取って言い放つ言葉が、どれもこれも陳腐。本当に作家なの?」

    「お、お前…本気か?」

    「本気よ、馬鹿じゃないの?」

     下腹部を隠す事なく、早苗は笑っている。

    「金は渡さないぞ、いいのか?」

    「渡してもらうわ、今までの稼ぎ全部出しなさいよ」

     言いながら、早苗は自分のハンドバッグから何かを取り出した。

    「これわかるわよね? インタビューなんかでよく使われるでしょ? ボイスレコーダー」

    「それが…なんだ」

     喉が張り付く。背中から強烈な寒気を感じた。

    「全部ね、録音してるの」

    「何を…」

    「何をって何よ」

     再び早苗は笑い出した。

    「あんたが今まで私にやったこと、命令したこと、プレイ内容全部録ってるの。金銭やり取りの強要、人格否定、これまでの全てを残してる、わかる?」

     視線がグニャリと歪む。何が起きてるんだ。

    「この中でどれが世の中に出ても、富田甚一はお終い。むしろ地獄の始まりね」

    「…やめろ」

    「え、なに?」

    「…やめてくれ」

     早苗はケラケラと笑っている。

    「やめて欲しいの? いつもみたいに馴れない口調で命令してみれば?」

    「…いや、だから…」

    「聞こえないわよ? はっきり話しなさいよ。どれだけ歪んだ性癖なのかみんなに教えてあげましょうよ」

     惨めさと恥ずかしさで全身が震える。

    「ほら、許してくださいって言ってごらん? 変態」

    「すみません」

    「何? 聞こえない」

    「すみません、許してください」

    「聞こえないわよ! 土下座しなさいよ」

     目の前がぼんやりと歪む、気がつくと泣きながら土下座していた。

    「申し訳ありません、許してください」

    「何が? ひどい仕打ちをした事? 馬鹿にしたこと?」

    「すみません…許してください」

    「いいわ、まあまあ楽しんだから。でもね、お金は全てもらうわよ。これからもそう、一生懸命作品描いて全部貢ぎなさいよ」

     ついさっきまで壊れかけに見えた早苗は、もはや人が変わったかのように馬鹿にした顔で詰ってくる。

     僕は震えながらこの女の言葉を聞いていた。ずっと馬鹿にしながら自分の趣味に付き合っていたのかと思うと、今までの出来事が強烈に恥ずかしくなった。自分の吐いた言葉を思い出し、涙が止まらない。

    「泣いたってダメよ。全部もらうから。アンタみたいな男に馬鹿にされるほど安くないわよ」

     畳に頭を擦り付けながら、今までの人生を思い出していた。四十年間馬鹿にされ、デビューして一変して三年、また這いつくばった人生へと落ちるのだ。どうしても僕ばかりが馬鹿にされなければいけないのか、何をしたというのか。

    学生時代もそう、会社員時代もそう、ちょっとコミュニケーションが取れないだけで、どうして馬鹿にされなければいけないのだ。

    目の前で醜悪な顔をした下半身裸の早苗が馬鹿にしている。真っ黒に茂った下腹部がとんでもなくおぞましいものに見えた。

    これから再び地面に這いつくばりながら生きていくのだ。性癖がばらされる恐怖に怯え、早苗の奴隷としてずっと。

    嫌だ。

    イヤだ。

    イヤダ…

    耳鳴りが鳴った。

    キーンという音がどんどん大きくなっていく。同時に強烈な吐き気が襲ってきた。体の震えはどんどんと酷くなっていき、涙はより流れていく。

    調子に乗ってごめんなさい、許してください。

    口の中で何度も呪文のように呟いた、そこからは不思議な感覚に襲われた。

    体が勝手に動き出したのだ。僕は叫びながら飛びかかり、暴れる早苗の首に全体重を乗せて両手で締め上げている。

    驚いた表情で見つめる早苗。

    その顔に唾を垂らしながら勃起した物をぶち込む。不思議な感覚の中、一死不乱に腰を振った。

    精魂共に朽ち果てた。

    …どれくらい時間が経っただろうか。

    ……。

    ふと、アンモニアの匂いで我に帰る。

    目の前に、ダランと舌を垂らした早苗が目を開けたまま死んでいた。下腹部からはヌラリとした液体が垂れている。

    殺してしまったという事実を受け入れるまでに、人は若干の時間が必要だと身をもって知った。冷静に考えれば、というよりも見ればわかるのだ、死んでいることくらい。それでも早苗の体を揺すったり、垂れた舌を口に押し込み人工呼吸をしたり、無駄な足掻きに時間を費やした。

    足掻くだけ足掻いて、そして受け入れるのだ。

    快楽を追い求めた挙句、僕は小説の中ではなく、実際に人を殺してしまったと。

    6 富田 22:55

    あれから十日が経ったのに、机に向かっても全く小説が書けない。頭の中では、あの汚いアパートの襖の中に残してきた早苗のことで頭がいっぱいだ。

    次の日、朝一番で不動産を訪れあのアパートの部屋を契約した。担当者は僕に気がつき、なぜあんな古いアパートを、と新築物件を進めてきたが、簡易倉庫として使いたいと突っぱねたのだ。

    死体を隠したとしても、事件になるのは時間の問題だ。早苗は行方不明、出版社からも最近連絡はなかったか問い合わせが来ている。警察は真相に辿り着くだろうか?

    …。

    すぐに辿り着くに決まっている、あの女はやり手の編集者だ、無断欠勤なんてあり得ない。

    それに早苗の膣内には僕の精子が残っている。やっぱりあの死体をなんとかしなければならない。あんな人でなしのために、うまくいっているこの人生を狂わせるわけには行かない。

    数日経っても上の空、頭をクリアにする為、気分転換にシャワーを浴びる。そのまま下着姿で購入したばかりのノートパソコンの画面を見つめながら、やはり気持ちはあの薄暗いアパートから離れられずにいた。

     見下すように笑う早苗は、恐怖の象徴だった自信に満ち足りた異性そのもので、なんであんな女を制圧できると思い込んでいたのか今になってみると不思議でならない。金でなんとかなると思っていた自分が恥ずかしかった。

     持ち出した鞄には早苗のボイスレコーダー、そして数本のテープが入っていた。そのどれもが行為を盗み撮りしたもので、改めて聞くと心臓が張り裂けそうなくらい恥ずかしい口調で僕が喋り、早苗のよがり声が聞こえてきた。これは演技だったということか? 脅すために必死に笑いを我慢していたということなのだろうか。

     今更もうどうでもいい。神様、お願いします、もう調子に乗らず今の幸せを噛み締め、作家として頑張っていきます。

     助けてください。

     信仰心などまるでないのに、それでもこの数日は神に祈った。ついちょっと前まで、神頼みなんて鼻で笑っていたのに。

    ——ピンポーン

    「ひッッ」

     思わず口からこぼれた悲鳴を慌てて口で押さえる。こんな時間に一体誰だ?

    ——ピンポーン

     再びチャイムが鳴った。

     なんなんだ一体、もしかして警察か?

     震えと共に涙が溢れてきた。なんでこんな目に。

     どうしよう…。逃げるべきか、いや、逃げきれるわけない。仮に逃げることができたとして、いずれは必ず捕まってしまう。もうおしまいだ。

     その時だった。

    ——ガチャガチャ!

     玄関のノブを荒々しく回している音が聞こえてきた。

     だめだ、逃げないと…。

     今にもこじ開けられそうな大きな音に、恐怖のあまり玄関とは逆の裏庭へ飛び出そうと窓を開けた。

    ——バンッ

    勢いよく開けすぎてしまい、窓にヒビが入る。そんなことに構っている場合ではない、逃げなければ。

    「おい、何やってんだよ」

     外に一歩出た瞬間、見覚えのない長髪の男と、金髪で大柄な男が立っていた。

    「ヒぃぃイ」

     あまりにも理解できない状況に情けない声が出てしまった。その声を聞いて男たちがニヤけだす。

    警官ではないが、普通の状況ではない。僕は踵を返し、玄関へと走り出した。

     玄関に置いてある車のキーと財布を取って、まずは少し離れた駐車場まで走ろう。それから——

     ドアを開けて飛び出した瞬間、頭が真っ白になった。

     若い娘が立っていた。

     誰?

    「待てよおら!」

     後ろからの大きな声で我に帰った僕は、娘を押しのけようとした時だった。

     強烈な衝撃が顔面を襲った。

    あまりの痛みに屈んでしまった。

    痛い、鼻が痛い、一体何が起こっているのか、理解ができない。早苗を殺して、男たちが押し寄せてきて、若い女が——

    「なんで逃げるわけ?」

     思い出した、早苗の娘だ。確か寧々だったはずだ。

    「な、何だお前ら、警察呼ぶぞ、離せ!」

    「私わかるよね? 家で会ったよね?」

     …あいつの娘だ、寧々だ、なぜこいつがここにいるんだ?

    「お母さんいる? この家に」

    「いない! 何だお前ら、離せ!」

     なぜこのタイミングで現れるんだ? 考えれば考えるほどもう逃げ場はないように気がした。

     足掻くしかない。ここからまずは逃げなければ、思いきり体を動かしながら叫んだ。

    「オッサン、それ以上暴れたら頭かち割るぞ?」

    「離せ、離せ!」

     富田甚一だぞ! お前らみたいなチンピラにどうこうできる人間ではないんだ。

    「どけ」

     落ち着いた声が聞こえた。

    同時に腹部に強烈な衝撃を受けた。

    息ができない、苦しい。うまく声が出ない。

    男たちに抱えられ、車の後部座席に押し込まれる。

    僕を真ん中に挟み、男たちが乗り込んできた。助手席には寧々が、運転席には腹を蹴り上げた長髪の男が座る。

    「離せ、やめてくれなんだお前ら」

    「うるせえ、お前ちっと黙ってろよ」

     視界が真っ黒になったと思ったら、またもや強烈な痛みが鼻を襲った。

     痛い、もう嫌だ、訳がわからない。

    「やめて、おろしてくれ、やめてくれ」

    「聞けよお前!」

     寧々が叫んでいる、うるさい、助けて!

    車が出発する。どうやっても逃げることができない。

    「静かにしろよお前」

     うるさいうるさい! なんでこんな目に…。

    「ねえあんた、お母さんいるの? 家に」

    「何がだ? 知らない私は!」

    「知らないってどういうこと?」

    「知らない! 会ってない!」

     だめだ、ここから逃げなければ、嫌だ、離せ!

     両隣で押さえ込んでいる男たちを振り解くように力一杯もがいた。コイツらもろとも車の外に飛び出してやる。

    「これ以上暴れるなら本気で殺すぞ。いいか?」

     その時、頭の芯まで痺れるような低い声が車内を包み込んだ。

    「家に帰りたかったら大人しくしろ」

     運転しながら長髪が言った。

    その言葉はこれまでのどれよりもリアルで、言うことを聞かなければ殺されてしまう、そう思った。

     昔を思い出す。こういう人種に僕はずっと蔑まされてきた。

     車は代々木公園の近くまで来ている。震える体を抑え込むように縮こまっていると、寧々が涼しい顔で覗き込んできた。

    「お母さん今どこいるの?」

    「本当に知らない」

    「会ってないの?」

    「会ってない、ずっと会ってない」

     もうできることは、とぼけることだけだ。証拠は何もないんだから、コイツらからなんとか離れることだけを考えなければ。

     寧々が黙り込んでいる。

    ほら見ろ、当てずっぽうで言ってるだけだ。早苗があの暗いアパートで死んでいることは僕しか知らないは——

    「いつから?」

    「…え?」

    「いつからお母さんと会ってないの?」

     いつから?

    「十日くらい前、あんたと一緒にいるって連絡もらったんだけど」

     意外な言葉が出た。早苗が娘に連絡? するだろうか。今まで娘の事を口にしたことがないはずだ。しかし実の親子だし、連絡するかもしれない。

    「なんか変だよアンタ。お母さんどこにいるか知ってるんじゃないの? 家にいるとか?」

    「いない!」

     本当に家にはいない。いるのはあのアパートだ。

    「…死んだ?」

     不意に小さな声で寧々が言った。

     なんでそう思うんだ?

    「お母さん、死んだの?」

     なぜ早苗が死んだと知っている。

    「殺した?」

     寧々の声がどんどん遠くに離れていく。

     なんで?

    「どうしてそんなに怯えてんの? すごい汗だよ」

     車内には寧々しかいないのでは? と思うくらい静まり返っている。

    「冗談で言ったつもりなんだけど、何その反応」

    「知らない、本当に何も知らない」

    「怪しすぎるだろオッサン」

     長髪が言った。

    「ちょっと待ってよ、お母さん本当に死んだの? どうしてくれんのよ。生活できないじゃん」

    「知らない、会ってないんだ。僕に聞かれても困る」

     認めてたまるか、こんな馬鹿たちに大事なキャリアを潰されるわけにはいかない。

    「寧々、こいつ怪しいんだよな? 多分このまま話してても拉致あかねえしよ、どっかで車止めて聞き出そうか? なあ?」

     運転席の男が言うと、隣の男たちが頷いた。

     聞き出すって何を? どうやって?

    「そうしてくれる? コイツ絶対なんか知ってる」

     だから何を?

    「ちょっと待ってくれ! な、何をするつもりなんだ」

    「わかんだろそれくらい。作家なんだろ?」

    「なあ、やめてくれないか? 金なら三人に払う。言ってくれ、いくら欲しい? その代わりこの女をどうにかしてくれ!」

     長髪に懇願した。金さえ払えばこっち側に靡くんじゃないか? そう考えた自分が馬鹿だった。

    「金はもらうぜ? お前を痛ぶった後な」

     ダメだ、もうどうにもならない。何を言ってもここから逃げ出せないんだ。

     殺される。

    …殺されたくない!

     これまでの人生で一番の力を込めて、隣の金髪に噛み付いた。

    「痛っぇぇぇえええ」

    「おい、離せてめえ!」

     右隣の男が僕の髪の毛を引っ張っている。でも歯は肉に食い込んでいる。口の中に鉄の味が広がった。

    「暴れんなよ、ちょっと!」

     寧々までが後部座席の僕の体を叩いた。

    「離せてめえ!」

     金髪が後頭部を何度も殴った。意識がぼんやりとしてくる。死にたくない、ここから逃げなければ。

     車がどこかに止まった。

     するとすぐに後部座席のドアが開いて——

     どけ、という言葉とともに、強烈な痛みが背中を襲う。

     息ができなくなった僕は噛み付いた手から口を離してしまった。さらにもう一髪背中に痛みを感じ、続け様に顔面に金髪の拳がめり込んだ。

    「おい、出ろテメエ」

     車から引き摺り出された僕を、見下ろす長髪が一瞬、悪魔に見えた。すぐに躊躇なく何発も踏みつけられる。

    「ちょっと、やり過ぎないでよ」

     遠くで寧々の声が聞こえた。

    「わかってるよ」

     踏みつけてくる脚が増えた気がする。他の連中も蹴っているのかもしれないが、僕は頭を守るので精一杯だった。

     最初に感じた痛みもあっという間に感じなくなった。

     今はもうドン、ドン、という体の衝撃を受けるだけで、恐怖も無くなってきた。

    「オッサン、ちっと静かにしてろよ、場所変えるからよ。殺されたくねえだろ?」

     さっきまでの表情が嘘のように、長髪の男は優しく問いかけてくる。

     こっちはただただ頷くことしかできなかった。

    「わかってくれた? こっちが聞きたいことを教えてくれりゃあ、また家に帰れるよ。ちゃんと喋れるよな?」

     はい、ごめんなさい。僕は目の前の男の言葉に救いを感じる。ついさっきまで殺そうとしていた男なのに。

    「タカヨシ、こいつ車に乗せろ。寧々、マモルの傷見てやってくんねえ?」

     テキパキと指示を出しながら、最後に男は言った。

    「山行くか」

     行きたくない、ただ家に帰りたい、早苗を殺したこともチャラにしてただ助かりたい、それだけだった。

    7 然りとて・健太 23:29

     暗がりの中、目の前で知らないオッサンが袋叩きにあっている。

    さっきからとにかく展開についていけない、というよりも、訳がわからない。

     井の頭通り沿い、周りを見渡すがたまに車が通るだけで、人気は全くない。

     警察に知らせるべきか?

     いや、でもそうすると…三葉が死んだことがバレてしまう。そうすれば、オレが頼んだことが全て知られてしまうじゃないか。

    エンジンを切った愛車、ゼファーにまたがったまま、これからの事を考えた。

    まさか殺すなんて。人前で恥をかかせるだけでよかったのに…。

    どうしてこんなことになってしまったのか。

    気に食わないお笑いの同期がいると、地元の幼なじみに話したのは三日前だった。軽い気持ちで愚痴ったつもりだったが、思いのほか話が盛り上がり、ソイツはこう言った。

    ——やっちまえよ、渋谷の有名なやつ紹介しようか? センター街あたりでボコっちまえば一生恥晒しでしょ。

     その同級生は土建屋で成功しており、そっち界隈にも顔の効くやつだった。

     ビールを飲みながら、三葉が公衆の面前で袋叩きにあうのを想像し、興奮した。

     お笑い養成所に入ったのが十八歳、あれから十年の間に随分と差をつけられてしまった。こっちは劇場のオーディションに受からず、小さなイベントスペースで名も知らない芸人崩れの連中と、四、五人の客相手にネタをやっているのに、アイツらワールドレコーズは渋谷の大きな劇場で看板扱い、深夜ながらも三つのテレビレギュラー番組を持っていた。

     最初はライバルだった。これは誰に言っても信じてもらえない。当時、奴ら「ワーレコ」と、オレと前の相方が組んでいた「然りとて」は養成所内でも敵なしで、在学中にもかかわらず、テレビのネタ見せライブや、事務所主催の大きなライブに出演するくらい人気があり、アイドル的人気なワーレコ、実力派の然りとて、と事務所内、テレビ関係者内で評価されていた。

     お笑いは西、とりわけ大阪が本拠地だと思われている中、関東勢の勢いがどんどん増していき、東西バトル大喜利なんてコテコテなお笑いイベントも女子高生で大盛況、関西の若手漫才師とも話芸を競い合ったのだ。

     ワーレコは女子からの黄色い声援のせいで、関西勢には軽く見られていたが、オレたち然りとては、奴らが寝る間も惜しんでネタを作っていたのも知っていたし、恥ずかしがる事なく、漫才の間の取り方などを同期のライバルにアドバイスを求めてきたのだ。

     その心意気に応えるために、死ぬ気で毎晩うちらもネタを作り、新作を毎月ライブで披露していった。じゃないと、三葉と野田に置いていかれる気がしたからだ。

     本当にあの頃は人生が輝いていた。

     いや、燃えていた。毎日がヒリヒリと、魂削って舞台に立って、お笑い人生を満喫していたはずだ。

     当時よく三葉たちと話していたのは、いつか自分たちがMCの番組を持つという夢だった。ライブをやって朝まで語り合い、希望に満ち溢れた時間だった。

     明らかに、すぐ目の前に大きな光が見えていたのだ。

     でも、そんな幸福な時間は長くは続かない。

     相方が精神を病んでしまい、実家の福岡に帰ってしまったのだ。もちろん何度も引き止めた、少し休んでもいいとさえ譲歩した。それなのにアイツは、最後は何も言わず煙のように消えてしまった。

     それまでに決まっていた全てのステージをキャンセルせざるを得なくなってしまい、一気に仕事が無くなっていった。ここで初めてネタを書いていたのも相方、人気があったのも相方だと気がついたのだ。

     何一つ芸のない、ボケ担当だったオレは、これからの芸人人生をどうするべきか迷った。新しい芸を手に入れるか、喋りに磨きをかけて一人漫談スタイルでやっていくか、新しい相方を探すか。

     それとも、芸人を引退するか。

     頭も良くない、手に職もない、高校を卒業してから芸人になるために養成所に入り、ろくにアルバイトもしないまま舞台に立つ事ができてしまった弊害がここに出てきた。

     選択肢がない、何より一度味わったあの舞台での声援を忘れることができない。答えは一つ、なんとか芸人を続けていくことだった。

     その決断をワーレコの二人は喜んでくれた。応援するし、自分たちのライブにもチャンスがあれば呼んでくれると約束もしてくれた。しかし残酷なもので、ピン芸人になった瞬間からあっという間に人気がなくなり、一人漫談スタイルも全くウけず、試行錯誤してキャラをつけたりもしたがそれも全く受け入れられず、ついには劇場に出番を組んでくれることも無くなった。

     あれから五年。同期の二人はテレビで人気が出て、若いファンが多数追っかける状況になっている。オレはというと、未だこの街を離れることができないまま、センター街でティッシュ配りやビラ配り、デリバリーヘルスのチラシを電話ボックスに貼り付ける毎日だ。

     時間に融通のきく仕事を選んで、芸を磨いているのに、全く仕事は入らない。大手お笑い事務所なのでクビになることもないが、給料が振り込まれることもない。

     これまでに何度か街でワーレコの二人を見かけたことがある。その度に隠れるようにその場を離れていたが、一度だけ見つかったことがあった。ファンを引き連れた状態で野田が手を振って駆け寄ってきたのだ。

    ——久しぶり! 元気だった?

    ——うん、ぼちぼちだよ

     手に大量に握ったデリヘルのチラシには触れず、野田は能天気に話を続けようとした時だった。

    ——野田、行くぞ。

     三葉がこっちを見ることなく、野田の手を引いて歩き出したのだ。後ろからついていくファンたちの小声が聞こえてくる。落ちぶれたね、だの可哀想だの、好き勝手言い放って消えていった。

     能天気に話しかけてきた野田にも腹が立ったが、それ以上に無視した三葉が恨めしかった。前はあんなに仲よかったのに、今じゃもう視線にも入らないってことか? 馬鹿にしているとしかおもえない。

     あの日から、どんどんと恨みは募っていった。忘れたくても頭から離れないくらい至るところで見かけるのだ。あの二人の、いや、三葉の笑顔を見るたびに吐き気がする。と同時にどんどん自分が腐っていくのがわかる。ネタも考えなくなり、ライブの誘いも断り、気がつくとただのティッシュ配りに成り下がっていた。

     そして三日前に同級生に飲みの席で愚痴り、次の日には木村という男と東急ハンズ横の喫茶店で会うことになった。

     包み隠さず、恨み辛みをその木村に話す。全く表情を変えず、頷くだけのその男に恐怖を感じ始めた頃、簡潔に提案された。

    ——目立つ場所で大恥かかせますよ。三十万でどうっすか?

     少し迷ったが、すぐに頷いた。三十万なら貯金はあるし、それでアイツのキャリアが終わるなら安い金だった。絶対に名前を出さないことを条件に、木村にお願いすることにしたのだ。携帯番号を交換し、ワクワクしながら連絡を待った。

     そして今日、決行されることを聞いたオレは、唯一の財産である愛車ゼファーにまたがり、早くから渋谷の劇場近くに待機することにした。三葉はどんな醜態を晒すのか、心臓がバクバクと波を打つ。興奮で頬が熱くなるのがわかった。劇場に群がる若い女たちはその姿を見てどう思う? 醜態を見た後でも好きなままでいれるか?

     野田には悪いが、落ちぶれればいい。

     こっちはインスタントカメラを三つ用意している。裸で泣き叫ぶ姿を写真で収め、週刊誌にでも送るつもりだ。ザマアミロ、同期を馬鹿にしたツケだ。

     それから三十分くらい待った頃だろうか、柄の悪そうな二人組が坂の下から登ってくる。そして劇場の方を指差し、何やら相談しているようだ。

     胸が高まる。

     さあ早く出てこい三葉、お前はもう終わりだ。

     あんなに一緒に頑張っていたのに。

     オレを無視した罰だ。

     すると、長髪の男が運転するハイラックスサーフが劇場近くにとまり、二人組の一人が駆け寄っていった。きっとアイツがボスだ、まだ若いのにいい車に乗りやがって。

     長髪は降りてこず、二人組の少年はファンでごった返す劇場前へと歩き出した。

    その時、劇場前がワッとわいた。

    来た!

    ヘラヘラとファンサービスをしながら二人が現れた。ふと、自分たちも昔はそうだったと思い出す。キラキラとした顔で、サインをせがまれた自分が、今や同期を貶めようとしている。

    アイツらがファンに囲まれながら公園通りを下り出した。一体いつやる? もう手を出してもいいんじゃないか? 興奮してエンジンをうまくかけられない。

     少年一人がバンダナを口に巻いた。

     いよいよだ!

     と、同時に野田がその少年に気がついてしまった。なんて間抜けなんだ。早くやらないとタクシーで逃げられるぞ、ふざけんな。

     明らかに表情が変わったワーレコの二人に、ファンがにこやかに喋りかけている。

    早くやれ! 何やってんだ!

     その時だった——

    二人が急に走り出したのだ。

    あまりの唐突な行動にオレは思わず固まってしまった。

    逃げやがった…。

    「待てオラ!」

     背の低い少年が叫ぶ。待つわけないだろう、不良なんてバカばっかりだ。

     慌ててゼファーのアクセルを回した。おそらく東急ハンズの方にいるはずだ。オルガン通りを走り、ハンズ前に停車している最中、わかりやすく叫び声が聞こえてきた。

    「嫌がってるだろう、やめてやれよ」

     声が聞こえる方に走っていくと、なぜか大柄なサラリーマンと金髪の少年が喧嘩を始めている、なんだこの状況は?

    「助けてください、警察呼んでください!」

     野田が血相を変えて騒いでいる。その必死すぎる姿が見苦しすぎる。

     すると——

    後ろから現れた長髪の少年が、野田の顔面にバットの柄を叩きつけたのだ。

    「うるせえんだよ」

     野田が倒れると同時に、周りのファンの悲鳴が鳴り響いた。

     違う! そっちじゃない! 

    三葉の方をやってくれ!

    「本当に警察呼ぶぞお前ら」

     一方ではサラリーマンが金髪少年に詰め寄っている。何が何だかもうわからない。

    「おい、リーマン」

     長髪はためらうことなく、後ろからサラリーマンの膝にフルスイングでバットを叩きつけた。

    前のめりに倒れたサラリーマンは声にならない叫びをあげている。その圧倒的な暴力に、興奮で頬が再び熱くなった時、群衆の中から三葉が飛び出した。

    「また逃げたぞ!」

    「待て!」

     少年二人組が三葉を追いかける。長髪は踵を返し、こちらに歩いてきた。

     やばい、オレを知っているのか?

     しかし隣を通り過ぎ、野田の前で足を止めた。

    「おい、あの馬鹿お前置いて逃げたぞ」

     その言葉に、野田も誰も返事をせず舌を向いたままだった。つい数十分前までチヤホヤされていたのに、あっという間に地獄に落ちた姿に興奮した。

    遠くでサイレンの音が聞こえてくる、

    少年を追いかけると、さっきのハイラックスサーフが出発するところだった。バイクにまたがり、ライトを切った状態で後ろからついていく……。

    ……あれからまだ数十分しか時間は経っていないのに、状況は全く変わってしまった。

    「おい、さっさと乗せろ、行くぞ!」

     怒鳴り声に我に帰る。

     車は井の頭通りを再び走り出した。

    荷台に三葉の死体を乗せて、知らないオヤジまで拉致して、これからどうするんだ?

    しかし殺してしまうとは。バレたら全員人生おしまいだ。

    取り返しのつかない後悔が波のようにオレを飲み込もうとしている、適度な距離を保ちつつ、再びさっきのことを思い出した。

    三葉が吹き飛んだあの瞬間を。

    ……あの後、ハイラックスに着いていくと、奴らは道玄坂入り口の路地裏で、三葉を素っ裸にしていた。地べたに正座するアイツを嘲笑うガキどもを見て、路地入り口に無数に積んであるゴミ用ポリバケツに隠れながら、溢れる笑いを堪えるのに必死だった。

     ザマアミロ、昔の仲間をバカにするからだ。落ちぶれた同期なんてお前にはもう見えないんだろう? これ以上ない恥を書いて、こっち側に来ればいいんだ。

     狂ったように使い捨てカメラで撮影した。蹴られたら一枚、土下座で一枚、泣き叫んだら一枚、全部週刊誌に渡してやる。

     何度か見たくもない奴らの番組を見てしまったことがあった。売り出し中のアイドルと一緒に渋谷で買い物をするという企画で、少しも笑いがないくだらない内容だった。ヘラヘラと媚びる二人の顔を見て、こんなふうになったらお終いだと、誰もいない部屋で一人悪態をついた。

     お前はお笑い芸人じゃない、ただのタレントだ。そんなふうになりたくはないね、こっちはプライドを持ってお笑いを——

    「ああああ助けて!」

     突然、三葉が裸のままでこっちに向かって走ってきた。慌ててカメラを構えようとしたが間に合わず、急いで体をポリバケツに隠そうとした、その時だった。

     …一瞬、三葉と目があった気がしたのだ。

     そしてヤツが路地を出た瞬間——

    パッと消えた。

     まるで手品のように、その空間から一人の男が消え去ったのだ。

     するとすぐに耳をつんざくブレーキ音が聞こえた。

     後ろからバタバタとチンピラたちが走って来る。オレは積んであるゴミ袋に埋もれるように隠れた。

     三人は呆然と立ち尽くし、すぐ先で倒れ込んだ三葉を見つめている。誰もが一ミリも動かない時間が数秒、もしかしたらもっとあったかもしれない。

    「やべえよリクちゃん」

     金髪が長髪に向かって話し始めた。

    「逃げましょう」

     もう一人はもう泣きそうになっている。

     待ってくれ…。こいつら殺しやがった。

    誰がそんなことを頼んだ? 悪臭漂うゴミの中に埋もれながら、目を向いて倒れる三葉を見つめた。

     うっすらと目を開けて、頭の周りには信じられないくらいの血溜まりができている、その近くで運転手が泣きそうになっていた。

     泣きそうなのはこっちだ。これはもしかして、依頼したオレも罪に問われてしまうのか?

     すると、リクと呼ばれた少年が、何やら運転手に話し込んでいる。ゴミ袋が邪魔でうまく聞き取れない。

    「……黙っててやる……ねえぞ? 会社名も…らな」

     震えながら運転手が頷いた。

     それを確認したリクは、109に向かって走り出した。と、同時に金髪とチビが三葉を抱え、路地へと入っていく。

     一体何やってんだ。やばい、ここを離れないとやばい。

     しかしすぐにハイラックスが路地へと入ってきた。

    停車しているおしぼり屋の車に何やら声をかけ、軽トラックは逃げるように出発した。

    間違いない、死体をどっかに移動するんだ、追いかけなきゃ。

    しかしこいつらがいる限りここから出られない。垂れてくる腐臭のする汁が目に入りながらも耐えた。

     ハイラックスの荷台に三葉を乗せながら、逃げる計画を話している。

    馬鹿か、あれだけ派手に動いて顔が割れていないとでも思っているのか?

     改めて木村に頼んだ事を後悔した。あんなチーマー崩れに頼んだところで、後輩連中もバカなのだ、取り返しのつかない状況になってしまった。

     三人は別れ、それぞれが別方向へと逃げ出した。

    ゴミ箱から飛び出し、慌てて道玄坂へと走る。

     逃してたまるか。最後まで見届けないと、証拠も撮影しなければいけない。ちょっと脅してくれと頼んだだけなのに、こんなので人生が終わってたまるか……。

    ……あれからはもう、驚きの連続だった。そのまま逃げるかと思えば女を拾い、松濤で謎の親父を拉致したのだ。全ての行動の理解ができないまま、今こうやって井の頭通りでバイクのエンジンを切って息を顰めている。

     一体どこへ行くんだ? なかなか車は出発しない。

    時間が経つとともに、頭も若干冷静になってきた。よくよく考えれば殺したのはオレじゃない、もしアイツらが逮捕されたとしても、こっちまで捕まることはないかもしれない。お金だって成功したら即払いという約束だ。金銭の受け渡しもない。

    そうだよ。

     この状況は奴らの失敗だ。全く別の結果になっている。そしたら金も払わなくていいし、こんな事頼んでないと白を切れば良い。きっとあの連中は制裁を加えにやってくるだろう、でもこっちには写真がある。

     アイツらを脅せば、絶対的優位になるはずだ。

     チクっちまえ。

     携帯電話を取り出し、数日前に交換した木村に電話をかける事にした。

    「ああ木村さん? この前の…。ええ。それでね、大変な事になっちゃいましたよ…」

    8 健太 23:44

    チクリの電話を入れてから数分、目の前のハイラックスはまだ動かない。暗がりで息を潜めながら、ひたすら奴らの動きを待った。さっき木村に連絡した時、電話の向こうであからさまに苛立っているのがわかった。そうだ、こっちは悪くない、悪いのはしくじったあのガキどもだ。

    しかし今日は人が殴られるのを何回も見た。コレまでの人生であんなに酷い暴力は見た事がなかった。そりゃあ学生時代に喧嘩を見た事だってあるし、自分自身小学生の時に一度だけ人を殴った事があった。と言っても、筆箱を隠されたとかそんなくだらない理由で、あっという間に先生に引き離されたのを覚えている。

    あのリクと呼ばれる少年の暴力は、今までに見たアクション映画やプロレスなんかよりも、迫力があり凄惨で、圧倒的な恐怖を感じた。単純な疑問だが、何であんな酷い事ができるんだろうか。

    圧倒的。

    ふと三葉の事を思い出す。

    アイツも圧倒的だった。五十人ほどいた養成所内で、スター性が当時から突飛していたのだ。まず、一人だけずば抜けて垢抜けていたし、何でこんな俳優みたいな顔のやつがお笑い養成所に来ているのか理解ができなかったほどだ。

    しかしヤツは見た目が良いだけではなく、お笑いにも真摯に向きあっていて、右も左も分からない連中を置き去りにして、講師連中を夢中にさせてゆく。

    今思えばあの時も嫉妬していた。何だこいつ。いきなり恥ずかしげもなくよくあんな事ができんなと、冴えない養成所仲間の間で陰口を叩いていたのを覚えている。

    しかし、ある日の出来事だった。

    養成所での授業の後、帰り道で話しかけてきたのだ。

    「健太くんだよね。三葉です、一緒に駅行かない?」

     にこやかに話しかけてくるその姿に、劣等生なこっちは驚きと共に心底怯えた。

    「誰に憧れて養成所入ったの?」

     そういった他愛もない質問を、向こうからいくつも投げかけられたのは覚えているが、この二つ以外やりとりを覚えていない。しかしなぜかヤツは、学校でも外でも話しかけてくれるのだ。

     三葉と普通に話せるようになった頃、気がつくと相方ができて、講師たちに褒められるようになっていった。前は妬みの対象でしかなかった男が、その頃には親友の存在になったのだ。

    アルバイトだって一緒だった。六本木にあるファミレスの厨房で、夢を語り合いながら皿を洗い、レトルトハンバーグを湯煎していた。朝方バイトが終わると、二人でそのままファーストフード店に行き、それこそ寝る間も惜しんでお笑いを語り合った。

    そう、オレの青春時代は、三葉と過ごしたあの数年だったんだ。

    ……。

    いつの間にか奴らは売れて、オレは一人ぼっちになった。

    そしてさっき、三葉が目の前で轢かれた。

    死んだのだ。

    どうしてこんなことになった?

    いや、分かりきっていることじゃないか、チンピラ連中に頼んだからだ。人前で辱めを受け、そして軽トラに轢かれたのだ。きっとアイツはこれからゴールデンタイムのテレビで司会をしたり、メインストリームへと羽ばたいていっただろう。

    それをぶち壊したのは、間違いなく自分だ。

    気がつくと、足がガタガタと震え出した。とんでもないことをしてしまった、いや、だって死ぬなんて誰が思う? いや、死ななくてもあのまま裸で人前に出されたら? どっちにしろ汚点だ。

    笑顔で接してくる三葉と、あの日デリヘルのチラシを持った元同期を無視した三葉が、同時に頭の中に現れた。

    そして今、あの車の荷台に裸で寝そべっている。

    なぜなら殺されたから。

    その時、車のエンジンがかかった。それでやっと我に返る事ができた。

    しかし出発するわけでもなく、運転席の窓が開き、タバコを挟んだ指が飛び出しただけだった。何やら電話をしているらしく、うっすらと声が聞こえてきた。

    きっと木村だろう、怒鳴られているのか。

    とにかく慌てて何か動くはずだ、証拠を全部撮影しなければならない。じゃないと人生終了なのだ。

    ハイラックスは井の頭通りをUターンして、再び渋谷方面へと走り出す。慌ててバイクのアクセルを吹かそうとした時——

    すれ違う瞬間だった、運転席に座るリクと目があった気がした。

    バレたか? 

    いや、そんなはずはない。それにこっちはフルフェイスだ、顔がわかるわけがない。ライトを消したまま、少し離れてハイラックスの後ろを走り出した。

    お笑い芸人で成功するはずだったのに、今では仲間だった男の死体を追っかけている。数年前、こんな人生を歩むなんて思っても見なかった。

    たられば、を言ってしまえばお終いだが、それでも考えずにはいられない。もしも相方があそこで精神が参らなければ、きっと然りとても、売れていたはずだった。

    今頃は夜中の番組をやっていただろうか? それとも渋谷の劇場で漫才を磨いていただろうか。もしかしたらみんなでゴールデンタイムに進出していたのかもしれない。

    気がつくと涙で視線がぼやけていた。オレの人生は後悔ばかりだ、何も前に進んだ事がない。

    車は再び渋谷へと近づいていく。

    明日の朝を無事に迎えることができるのか。

    三葉が死んだ事がニュースになり、奴ら全員が逮捕、しかし未成年なので顔と名前は出ない。

    …しかしオレはどうだろう。

    首謀者ではないよな? 

    本当にやるとは思わなかったとか言えば罪に問われないか?

    自分の顔が夕方のニュースで全国放送されているのを想像する。

    嫌だ、絶対嫌だ、こんなことで有名になってたまるか。アイツらを強請ってでも、オレが関係ないことにするんだ。じゃないと、刑務所行きじゃないか。

    何一つなし得ないまま、クソみたいな人生が幕を閉じるなんて悲しすぎる。

    その時——

    突然、耳をつんざくクラクションが鳴り響いた。

    後ろからスピードを上げた一台の車がゼファーを追い抜いていく。

    「危ねえんだよ!」

     フルフェイスの中で思い切り悪態をついたのも束の間、その車が目の前を走るハイラックスの隣にベタ付けした。そして同じスピードで走るその車の助手席から、何やら棒のような物が——

    …パイプ?

     勢いをつけてハイラックスの運転席の窓に突き刺さった。

    フルフェイスに何かカケラのようなものが当たった。

     続け様に今度は後部座席の窓から棒のような…いや、金属バットが顔を出した。

     リクたちが大きく黒塗りのハイエースから離れる。それを追うようにぶつかりそうになりながら距離を詰めた。

    「何だよ、何なんだよ!」

     気がつくと、二台のすぐ後ろにつけてしまっていることに気がついた。これじゃあ尾行もクソもない。

    「オラァ、止めろ!」

     ハイエースの後ろのドアが開き、そこから黄色いパーカーを着た少年がハイラックスの後部ドアに鉄パイプ打ち付けた。

    「ヒャハハハ、ザマァ」

     ハイエースの車内から複数の笑い声が聞こえる。オレはこの場所から離れることも忘れ、その一部始終に見入ってしまった。自分の知らない暴力の世界に興奮している。

    「おいこらああ! ビビってんじゃねえよ先輩」

     黄色いパーカーが狂ったように、金属バットで何発も打ち付けている。

     ハイラックスが急ブレーキを踏むと、ハイエースは止まることなく直進する。追うようにリク達が再び発進した。

     やばいやばい。

     このままだと巻き添えを食らってしまうかもしれない、それでもここから離れるわけには行かないのだ。

     しかし今度はリク達がハイエースに寄せていった。

    「止めろ! おいてめえ!」

     後部座席の窓から、渋谷で三葉を追い回していたチビが顔を出した。

     しかしハイエースは嘲笑うかのようにスピードを上げていく。追いかけるハイラックス、よく見ると荷台のシートが剥がれ、真っ裸の三葉が下半身丸出しで見えていた。

     なんて哀れなやつだ。

     ついさっきまでスターの道を駆け上がっていたのに。

     スローモーションで三葉が荷台の上を転がっている。

    黒塗りのハイエースがファイヤー通りを再び代々木公園方面に左折する。ハイラックスも曲がったがすぐに停車した。

    「何だよ…早く追いかけろよ」

     慌ててエンジンを切り、停車したリクたちの様子を確認する。

    すると、車内からチビと、下着姿のオッサンと、そして女が降りてきた。

     その女には見覚えがあった。

    よく109あたりで溜まっている連中だ。とても目立つ集団で、ティッシュを配る際によく見かけていた。確か有名な女子高生で、読者モデルなんかもやってるガキだ。

    血だるまのオッサンがチビに蹴られながら大通りに向かって歩き出した。

    何だよ、何が起きてる?

     するとハイラックスが急発車した。

    きっとさっきの車を追いかけるんだ、逃してたまるか。

    降りた奇妙な三人組を離れた場所から撮影し、急いで追いかけることにした。

     しかし全てが謎だ。三葉の死体を乗せたまま、今こうやって襲われて、何もかもが理解できない。

     オレは慌てて二台を追いかけるが、あっという間にいなくなってしまった。

    やばい、見失うわけには絶対いかない。

     しかし代々木公園周りをぐるぐると回るが、一向に見つける事ができない。ファイヤー通りに戻っても、タワレコ周辺もどこにもいない。

     あんなに目立つ車を見失うわけがないのに…。

     フルフェイスの中で汗が止まらない、ここで見失ってしまったら、終わってしまう。

     しかしその後、十五分ほど渋谷近辺を走り回るが、どこにもいなかった。

     参った。このままだと証拠を撮影できない、言い逃れができないじゃないか。目の前が真っ黒になった、すぐに捕まってしまう…。

     あてもなくNHKの周りを探し回る、地下駐車場も覗くが、どこにもいない。

    パニックになったオレは、呆然とバイクを止めた。

    エンジンを切って耳をすましてみる。

    どこかで揉め事は聞こえないか?

     何も聞こえなかった。完全に見失ってしまったのだ。

     終わった。

     最悪のパターンを想像する。この後、三葉の死体が見つからないことはあるだろうか? それはあるかもしれない。しかし、若手人気漫才師が行方不明という事件は必ず表に出るはずだ。そうなると、警察は必ず奴らにたどり着く、そこから誰が依頼を——

    「おい」

     不意に後ろで声がした。

    「健太だろお前」

     振り向いた瞬間…

    フルフェイス越しに強烈な衝撃が走る。

     ゼファーごと転倒しながら驚愕した。そこにはリクと金髪が立っていた。

    8 陸 23:50

    「…誰に聞いたんスか」

    車を出発しようとした矢先、先輩の木村から電話がかかってきた。

    ——誰にじゃねえ、マジで殺したんか?

    「俺たちじゃねえスよ、おしぼり屋のトラックに轢かれました。そいつは脅したんで大丈夫スよ」

    ——馬鹿かお前、わかんねえだろうそんなこと、現にこうやって見られてんだぞ?

    「誰にスか?」

     三葉が轢かれた時、近くに誰かいたってことか? 周りを確認したが誰もいなかったはずだ。

    ——この話持ってきたやつだよ、お前らの動き知ってるぞ、それにオヤジさらって何やってんだ、そんなこと頼んでねえよな?

     全部バレてる。てことは、ずっと張り付いていたわけだ。

    「陸、絶対バレるんじゃねえぞ?」

    「はあ」

    「多分近くに頼んできたやつがいるはずだから、必ずそいつも拉致っとけ。健太って男で芸人だ」

    「うっス」

     電話を切りながら、思わず舌打ちが出ていた。

     まず、ずっと着けている奴がいる。そいつは依頼者で芸人。

    さっぱり意味がわからないが、そいつを捕まえて色々聞けばいい。

     しかしいつまでも偉そうにしている元リーダーに腹が立つ。今のカバーズの頭は俺だ

    「誰から?」

    「キムくん。なんか全部バレてるよ」

    「なんでよ…」

     固まるマモル、オッサンを挟んで真っ青になったタカヨシが爪を噛んでいた。

    「お前ら、ちと車出すから、後ろ見といてくれ、多分ずっと着けられてる」

     井の頭通りをUターンして、再び渋谷方面へと走り出す。その時、道沿いにエンジンを切った一台のバイクを発見した。

    「いた、あれかもしんねえ。単車見といて」

     確信があった。なぜなら目があったからだ。あからさまに挙動不審な動きで、フルフェイスから覗く瞳が怯え切っていた。

    「ん? あー…あのゼファー?」

    「クソが!」

     タカヨシが意味もなく興奮し始めた。

    こいつは従順だが、なんせビビリだ。だからこそ人一倍凶暴でもある。身長は160センチちょいしかないが、必ず何かしらの武器を携帯しているあたり、自分の非力さを理解している。喧嘩に卑怯とかそんなもんは存在しない、負けたら終りだ。コイツはそれをよく理解している。

    「揉め事ならどこかに降ろしてくんない? コレと」

     寧々がオッサンを指差しながら言った。

    「お前だけじゃ危ねえよ、すぐに用事済ませるから待ってろよ、な?」

     バックミラーを見ると、少し離れてライトを消した単車が着いてきている。あれで隠れているつもりなんだろう、丸わかりだ。

    「バレバレだよアイツ、面白すぎんだろ」

     マモルがケタケタと笑い出した。

    「なんスかアイツ、止めてください。やっちゃいますよ」

    「おいタカヨシ」

     俺は頭に血が昇ったが、一旦冷静になるために言葉を切った。

    「…あのな、ここでまた誰かに見られたらどうすんだよ。そう思わねえか? わかるかお前」

     いきりたっていたタカヨシが一瞬で大人しくなった。コイツには前から何度も躾けてきた。

    「わかった?」

    「…はい、すみません…」

     車内はピリついた雰囲気に変わる。寧々が小さくため息をついた。

    「マモル、この話持ってきたやつな、芸人らしいぜ」

    「マジかよ、共食い?」

    「らしいね」

     さっき目があったアイツがその芸人だろう。どういうつもりでこんな依頼を出したかわからないが、おかげで散々な目にあっている。

    「一旦、渋谷の地下駐あたりで攫うか。まとめて処理しようぜ。着けてきている奴もオッサンも後ろの死体も」

    「待ってくれ…」

     ずっと静かだったオッサンがゆっくりと口を開いた。

    「私も殺すのか?」

    「どうする寧々?」

    「オッサン次第かな。お母さんがどうしてるか聞かないとね」

     恐ろしい女だ。そもそも殺すつもりもない。脅しのつもりでわざと話している内容に、一瞬で理解して乗ってくる。

    「寧々ちゃん、僕は本当に知らないんだ。君のお母さんのことは」

    「じゃあ、あの人の代わりにお金もらうよ? みんなの分も含め…陸くんどれくらい欲しい?」

    「そうねえ…」

     ふっかるのもアリだな。

    「一人百万とか?」

    「少ない、三倍でしょ」

     間髪入れずに寧々が言った。いくらなんでもそれは…

    「わかった、それで解放してくれるんだな?」

     オッサンの返事に車内がいろめきだった。一人三百万だ。

    「あんたさあ、やっぱりお母さんと何かあったでしょ?」

    「何もない! 本当だ」

    「おかしいでしょ。そんなお金をいきなり払うなんて。それにこの後警察に駆け込まれたら私たち一発アウトじゃない?」

    「駆け込まない、約束する」

     オッサンは必死だ。

     いや、必死すぎる。

     寧々が言っている意味がわかってきた。

    めちゃくちゃこっちが優位な状況なのだ。

    「もしかして警察に駆け込めない理由とかあんの? ていうか、あんだろ?」

     オッサンの顔が一瞬歪んだ。間違いなく何かがある。

    「寧々の母ちゃん、殺したとか?」

     その一言で、まるで何かに潰されたように歪んだ顔になった。

    「マジで殺したの?」

     寧々は表情を変えずに言った。

     その時だった。

     後ろから激しいクラクションが鳴る。

     同時にハイビームがバックミラーに映し出された。

    「何だぁ、眩しいな」

     俺はスピードを少し落とした。

     そこに合わせるように、真っ黒なワンボックスカーが真横にベタ付けされた。

     助手席には、見覚えのある顔が座っている。

     誰だっけこいつ。

     ニヤけた坊主頭の首には、黄色いバンダナが巻いてあった。

     思い出した、さっき虐めた三人組の一人だ。

    「なんだコイツら!」

     後ろでタカヨシが再び苛つき始める。

     その時だった。

     向こうの助手席から、坊主頭が何かを突き刺してきた。

    「っんだあ?」

     運転席の窓に大きなヒビが入る。

    「リクちゃん、何だコイツら」

    「さっきちっとモメたんだよ」

     アクセルを踏み込みながら、相手の車から一旦離れることにする。

     が、相手は再び距離を詰めてきた。

    「オラァ、止めろ!」

     ワンボックスカーの後ろが開いた、さっき蹴飛ばしたドレッドヘアが鉄パイプを持っている。

     大きな衝撃音と共に、後部座席の窓にヒビが入った。

    「ヒャハハハ、ザマァ」

     窓を閉めていても聞こえるくらいの、調子に乗った笑い声にメキメキと殺意が目覚めた。

    「おいこらああ! ビビってんじゃねえよ先輩」

     ハイラックスの横っ面に何度もバットを打ち付ける姿が、サイドミラーに映し出される。コイツらはこのまま絶対逃さない。

    殺してやる。

    一旦車を止めたが、相手はそのまま走りすぎていく。

    逃げる気満々ってわけね。

    再びアクセルを踏み込み近づく、あっという間にワンボックスカーに詰め寄った。

    「止めろ! おいてめえ!」

     割れた後部座席の窓を下げながら、タカヨシが叫ぶ。

     助手席では坊主頭がにやけながら舌を出した。

    「寧々、タカヨシ、オッサン連れてちとどこかで待機してくんねえ? すぐに終わらせるから」

    「ちょ、ちょっと待ってくださいよ! 何で俺まで降りるんスか、アイツらやっちゃいましょうよ!」

    「うるせえんだよ、言う事聞けテメエ。寧々と一緒にオッサン見張ってろ、いいな?」

     後ろでタカヨシの襟首を掴みながらマモルが言った。

    「…わかりましたよ…」

    「寧々、すまねえがちと待機しといてくれ、すぐに終わらせて電話する」

    「わかった」

     寧々は特に表情を変えずに答えた。

    ワンボックスカーがファイヤー通りを代々木公園方面に左折した。

    「そこ曲がったら止めるぞ、すぐに降りてくれ。タカヨシ、上着をオッサンに貸してやれ」

     タカヨシが何かを言いかけたが、辞めた。

     左折して車を止めると、三人が車から降りていく。

    「寧々、すぐに行く。悪ぃな」

     俺が言うと、返事の代わりに軽く手を上げた。

     再びアクセルを踏み込み、ファイヤー通りを進む。

    すると代々木体育館あたりで目の前に黒塗りワンボックスが見えた。

    「おい、車ぶつけるぞ。次にまた向こうの後部座席が空いたら」

    「おー、いいね。やっちまおう」

     マモルはとにかく度胸が据わっている。むしろこういう状況を楽しむタイプだ。

     車を真横にベタ付けする。よく見ると艶なしマットで全塗装した金のかかった車だ、しかし品がない。それにハイラックスよりも随分と金がかかっているのが癪に障る。

     運転席の窓を開けて、助手席の坊主に呼びかけた。

    「おーハゲ、やってくれたな、殺してやるからな」

    「うるせえんだよ、カッコつけてんじゃねえ。ばーか」

     坊主が言うと同時に、ドレッドヘアが後部座席を開けて現れた。

    再び鉄パイプを握っている。

    「オラァ、何がカバーズだバーカ、クソだせえん——」

     待ってました。

    ドンピシャのタイミングで思い切りハイエースの横っ面にぶつける。

    ひっっ

    一瞬そんな声が聞こえた気がした。

    と同時に、金属が派手に擦れあう音が聞こえた。

    「うおおお、やべえやべえ」

     後ろでマモルが大喜びしている。俺も何だか楽しくなってきた。

     ハイエースの助手席に座る坊主頭が呆然としている、その後ろで、ドレッドヘアが腕を抑えてのたうち回っていた。

     ハイエースが左に寄せながらブレーキを踏んだ。

    ハイラックスはその前方に止めて、後ろを振り向いた。

    「もう一発行くよ」

    「オッケー!」

    今度はバックを踏み込み思い切りハイエースに体当たりした。

     なかなかの衝撃が伝わってくる。これで相手は車を出すことができなくなったはずだ。

     停車した瞬間、マモルが車を飛び出した。

     遅れて車を降りると、坊主頭が転がるようにハイエースから飛び出してきた。

    「ちょ、待ってくれ、やりすぎだろうが」

    「うるせえ殺す」

     血だらけの坊主頭にマモルが容赦なく拳を振り下ろす。俺は後部座席へと近づいた。

     そこには右腕がとんでもない方向に曲がったドレッドへアが震えながら座っていた。運転していたガリガリの男は頭を押さえて呻いている。

    「よー、さっきぶり。お前、髪むしられに戻ってきたの?」

    「ちょ、ちょっ待って、折れてる、折れてるよこれ」

    「知らねー」

     折れている腕を思い切り踏みつけた。

    「痛っっっあああ」

    「うるせー」

     折れている腕を踏みつけながら、ドレッドの束を一本思い切り引っ張ると、思ったよりも簡単にちぎれた。

     癖になる感覚だった。続け様に三本ほど引きちぎると、ドレッドヘアが泣き出した。

    「勘弁して勘弁して…」

     ふと、糞の匂いが漂ってくる。

    「漏らしたの? 臭えよ」

    「すみません、勘弁して」

     痛みで顔がくしゃくしゃになったドレッドヘアは、恥を晒しながら許してくれと泣き叫んでいる。

     マモルの方を見ると、さっきまでのニヤけた表情が見る影もないくらい、坊主頭の顔面が腫れあがっていた。

    「ボッコボコじゃんハゲ」

     俺が笑うと、マモルが殴る手を止めて一緒に笑い出した。

    「おい、お前ら正座しろ。ハゲはガリガリを降ろしてやれ」

     二倍くらいに顔面が腫れあがった坊主頭のケツを蹴った。

    「勘弁してくれ」

    「いいから降ろせ」

     運転席からフラつくガリガリを運び出させて、代々木公園通りの側道、ハイエースとハイラックスの間に三人を正座させた。

    「で、お前らどこのやつ?」

    「……」

     三人ともダンマリを決め込んでいる。

    「シカトすんなよお前ら」

     マモルが一歩前に出ると、坊主頭が慌てて静止した。

    「横浜です…」

    「はぁ? よこはまぁ?」

     横浜、なんの接点もない。揉めた覚えもなかった。

    「で、何で遠路はるばる喧嘩売りにきたわけ?」

    「いや、どんなもんかと思って」

    「何が?」

    「渋谷が…」

     一瞬ピンと来なかったが、すぐに意味がわかった。

    「ああ、カバーズが?」

    「はい。うちらも横浜ではちっとは知ら——」

    「どうでもいいよ田舎もん」

     坊主頭が唇を噛んだ。

    「で、喧嘩売ってきたわけね」

     確かに横浜には大きなチームがある。もしかしたらそこの連中かもしれない。

    「で、お前らはうちとモメる気なのね?」

    「……」

    「上の連中に喧嘩売ってこいって言われたの?」

     坊主頭が頷いた。

    「それで? 俺の車をめちゃくちゃしてこいって?」

    「いや、それは…」

    「なんだよ、言ってみろ。キレねえから」

    「…さっき、馬鹿にされたんで。車ごとやっちまおうって…」

     ドレッドヘアが一段と震えているのがわかった。おそらく言い出しっぺはコイツだろう。

    「お前んところ何人くらいいんの?」

    「チームすか? 三十人くらいです」

    「俺のこと知ってるんだよな?」

     坊主頭は何度も頷いている。

    「なあ、そっちの頭に電話しろ」

    「…え?」

    「え、じゃねえよ、殺すぞ。電話しろ」

     横浜か、今夜は無理だ。明日だな。今日は色々ありすぎる。

    「…もしもし、はい、えっと、ちょっと渋谷で揉めまして。はい…はい…今いるんすよ、目の前に、電話変われって。え…いや、だから…」

     坊主頭の携帯を奪い取った。

    「カバーズだよ渋谷の。なんかお前らんとこのガキに車ぶつけられたんだけどよ。うちと揉めたいんだよな?  ……いや、もう遅えよ。先に手出したのはそっちな」

     イケイケでくるかと思いきや、向こうは予想外にビビっている。

    「コイツらにそっちの居場所聞いて、近々顔出すよ。職場でもどこでも。な? 車の修理代とか色々あるし。じゃ」

     向こうはまだ喋っていたが電話を切った。大体話が読めてきた。

    「ビビってた?」

     マモルも察したようだ。

    「なんかビビり散らかしてたな。なあハゲ?」

     坊主頭が下を向いたまま顔を上げない。

    「何だよ、有名になりたかったのか? うちらに手を出して」

    「いや、その…」

     隣に座るドレッドヘアの折れた腕を蹴り上げた。

    「痛っっっ! すみません! 勘弁してください!」

    「なあハゲ、手ぇ出して横浜逃げて、カバーズの車ベコベコにしたって武勇伝喋りたかったの?」

    「すんません! 調子に乗りました! 勘弁してください」

     これまで黙っていたガリガリが頭を地面に擦り付けた。

    「俺らの負けです、勘弁してください!」

    「遅いよ、アレ持ってきてくれる?」

     口笛吹きながらマモルが車のアタッシュボードを漁り出した。

    「まあいいや、十分痛めつけたしな。お前らの財布、車、あとスニーカーとか全部置いていけよ。弁償な」

    「どうやって帰ればいいんすか」

     ガリガリが言った。もう坊主頭とドレッドヘアーは気力も無くなり下を向いている。

    「知らねえよ馬鹿。ヒッチハイクでもしろ」

     後ろでマモルが電話している。チームの連中を呼び出しているはずだ。

    「車はマジで勘弁してください。まだローンあるんで…」

    「知らねえよ、手ェ出してきたのはお前らね」

    「マジで勘弁してください、親の名義なんです」

    「自分で買えよダセえな」

     ガリガリに蹴りを入れると、後ろに倒れたまま泣き出してしまった。

     すると、続け様に他の連中も一気に泣き出した。恐ろしい光景だ、さっきまでの威勢は何だったんだ。

     シクシクと泣いている三人を眺めていると、五分ほどで後輩連中が八人ほど集まってきた。

    「よし、素っ裸の坊主、眉全剃り」

     マモルが一人一人にバリカンを入れていく。全員に笑われていく中、誰一人として下半身丸出しで反抗しなかった。一秒でも早くこの時間を終わらせたいのだ。

    まさに生き恥だ、全員がツルツルになっていく。

    「オラ、顔上げろ、写真」

     血まみれの顔の中、ポツンと浮かぶ瞳には、痛み、悔しさ、恐怖、そして諦めの色が混ざり合ったドス黒い絶望が写っている。コイツらはこの先、死ぬまでこの屈辱を思い出すだろう。そしてその度に俺たちの事を思い出す。

    「よし、もういいぞ。頑張って横浜帰れ、近々顔出すよ」

    「…車…」

     ガリガリが食い下がった。ここまで侮辱されても、手放したくないのだ。

     知るか。

    「おい、お前ら、この車売り飛ばすから連絡しといて」

     後輩に知り合いの外国人に連絡するように伝える。ハイエースは大人気商品だ、高く売れる。

    「はい、解散。お疲れさーん」

     あっという間にワンボックスカー、黒塗りのハイエースに乗り込んだカバーズ連中が消え、正座した三人を置いたまま、マモルとハイラックスサーフに乗り込もうとした。

     忘れていた…。

    荷台のアイツはどうなった? さっきも派手にぶつけちまった。

     慌ててカバーを外すと、三葉が転がり奥の方で丸まっていた。

    「…かわいそうになってきたな」

     あまりにも無様すぎて、同情してしまう。

    「どうしたん?」

     マモルが後部座席から声をかけてきた。

    「なんでもない」

     カバーを掛け直し、運転席へと戻った。

    「結構持ってんね、金」

     後ろで楽しそうに戦利品を数えている。

    「こっちは運転席の窓、後部座席の…いや、右側全般か。全塗装もしないとだから結構金かかるな。ハイエース売った金も含め、残りは折半でいい?」

    「おっけーよ」

     マモルは金にはそんなに興味がない、有り余る暴力へと欲求を晴らすためにチームにいるような男だ。

    「さて、時間食っちまった。一時間経ってんじゃん!」

     寧々の携帯を鳴らした。

     が、何度かけても出ない。

     後部座席ではマモルがタカヨシに電話しているが、こちらも応答なしだった。

    「逃げたんかな?」

    「裸で? まさか」

     いや、あのオヤジならなりふり構わないような気がする。

    「ちと、オッサンの家の方向に戻るわ」

     神泉駅に向かってアクセルを踏んだ。バックミラー越しに遠ざかる三人組が見える、まだ正座をしたままだった。

    「アイツら、ずっと恨むかな?」

    「そうじゃない? マモルめっちゃ殴ってたじゃん」

    「そうだっけ? いやいやリクちゃんだって——」

    「ちょっと待った」

     車を再び側道へと寄せた。

    「あれ、ゼファーじゃねえ?」

     三十メートル先で単車が一台止まっている。運転手は俯いて全く動かない。

    「ああ、ほんとだ。芸人のやつ?」

    「そう、ラッキー」

     車を静かに降りて、単車の様子を見た。

     全く動かず、まるでマネキンのようだ。

    「どうする?」

    「拉致る」

     ゆっくりと後ろから近づくが、まるで動かない。これ以上ないほど近づくことができた。

    「おい」

     優しく声をかけると、漫画のように驚いてビクっと体が震えた。

    「健太だろお前」

     ヒッ。

     そんな声が聞こえた気がする。

     振り向いた瞬間、思い切り前蹴りをフルフェイスにかました。

     単車ごと派手にぶっ倒れる様は、まるでコントのようだ。

    「お前、ずっと着けてきてたよな? 何の用だよ」

     俺とマモルを見上げる健太は、フルフェイス越しでもわかるくらいに怯えていた。

    9 富田 00:09

     僕は紛れもない弱者だ、だが知恵はある。

     はるか年下の小僧と、奴隷扱いしていた女の娘に脅されているのだ。もしも自分に腕力があったら、こんなチビガキ殴り倒して、娘を弄んでやるのに。と、頭の中で何度もシミュレーションするが、実際暴れたところであっという間に殴り飛ばされるだろう。

    これまでの成功の証、松濤の我が家を二人が面白いように荒らしている。肝心な家主は、物言わず部屋の端で正座をさせられていた。

    「…だめだ、電話に出ねえ。さっきの奴ら何なんだよ」

     タカヨシと呼ばれた男が、乱暴に人の冷蔵庫を開け、中からジュースを取り出した。降ろされた場所から家まで十分、歩いている間もずっと一人でブツブツと呟いており、それを見ていた寧々が分かりやすく馬鹿にした表情を浮かべていた。

    「座ったらどうだい?」

     我ながらわざとらしい猫撫で声を出した。

    作戦開始だ。

    タカヨシは荒々しく、足はスニーカーを履いたままソファに座る。

    「しかしヨォ、いい生活してんな、小説ってそんなに稼げるのかよ」

     低脳が服を歩いているようなチビ猿がのたうち回った。

    「なぁ、オッサン、俺もかけるかな? 作文褒められたことあんだよな、小学校の時」

    「…へへへ」

     できる限りの愛想笑いを浮かべた。

     粗雑に高級ソファーに座ったままタバコを蒸しては、灰を絨毯に落としているこの猿を何とか仲間にできないだろうか?

     さっき車を降ろされた時は、一瞬逃げる方法を考えたものの、下着姿で走ったところですぐに捕まるだろうし、もうこれ以上殴られたくもなかったのですぐに諦めた。寧々の提案でこの家に戻ってくることになった時に、上着を貸してくれたこのタカヨシを、何とか言いくるめることはできないものかと、ずっと思案していたところだ。

     寧々は二階の仕事部屋で母親の痕跡を探していた。時折、上から何かがフローリングに落ちるような音が聞こえてくる。

    「うるせえな、あの女」

    「はは…」

     馬鹿で好戦的だが、自分が助かるとしたらこいつを利用するかしかない。

    「…あの、二人は同級生なのかな?」

    「あ? そうだよ。生意気なんだよあの女。ちょっとチヤホヤされてるからって、感じ悪いんだよな」

    「…正直、失礼な子だと僕も思う」

    「な? だよな!」

     タカヨシの表情がさらに明るくなった。さっきの車でもわかったが、こいつは小物だ。いの一番に荒ぶっているが、中身はきっと同じ種類だ。

    「男性に対する尊敬が全く感じられない。失礼すぎる」

    「そうなんだよ、でも陸さんとかマモルさんにはそんな事ないんだよな」

    「そんな事ないよ、言い方が違うだけで、さっきからみんなに失礼だと思うな」

     わかりやすいおべんちゃらだが、機嫌良さそうにニヤけ出した。

    「そうかな? 俺だけが馬鹿にされてるわけじゃない?」

    「うん。でも、失礼なことには変わらない。君みたいな強い男がどうして言い返さないのかな?」

     自分が突かれたら痛いところを敢えて攻撃する。

    「そりゃあよ、腹が立つけど、直接何か言われたわけじゃねえしなぁ。それに陸さんのお気に入りだし」

    「あの女の態度は本当に悪質だよ。本当に母親とそっくりだ」

    「なあ、オッサン、マジで丸山の母ちゃん殺したの?」

    「殺してない」

    「マジかよー、隠したってバレちゃうぜ? この家に隠してんの? 死体」

     返事をしなかった。さっきから一つの覚悟ができている。道端でボロ雑巾にされて、車に乗せられて、謎のワンボックスカーに襲われている間も、自分の中でとある覚悟ができていた。そして引き入れるなら、こいつしかいない。

    「…お金、欲しくないかい?」

    「金? いや、もらうよもちろん」

    「手伝ってくれたら、大金を渡すよ」

    「は? 何言ってんの?」

     ポカンと本気で理解していない顔をしている。こいつなら引き込める、じゃなければ終わりだ。

    「君だけに払うって言っているんだ。これから死体を隠すんでしょ? 合流したら僕の別荘が箱根になるので、そこに埋めに行くと言えばいい。そして後日、通報しないか」

    「…はぁ? そんなことできるわけねえだろうが! 馬鹿かお前。警察に捕まっちまうだろうがよ」

    「聞いて。まず、僕はあの二人、いや、寧々とあなたも入れて四人に殺されると思うかい?」

    「殺すわけねえだろうが! 脅すだけだよ。冗談じゃねえよ」

     その通りだ。冷静に考えて殺人なんて犯すわけがない。

    「安心したよ。ではこれからどうなるの?」

    「そりゃあ、どこかでガッツリ脅しかけて、金もらって終わりだろ」

    「死体はどうする? 車に乗っているあの死体だよ」

     タカヨシが黙り込んだ。ズバリそこだ、車の中で話を聞いていて、一筋の巧妙を見出した。

     あの荷台に乗せてある謎の死体だ。

     今の問題はこうだ。

     チンピラたちに拉致されている。次に、奴隷にしていた女を殺してしまった。そして、その殺した女の娘に脅されている。大きく分けてこの三つだ。

     まずチンピラ三人。

     まとめて全部殺してしまおう。その為に、このタカヨシを騙すのが成功する絶対条件なのだ。

    問題は殺したまま放置している早苗の死体と、寧々のことだ。母親を殺されたと知れば、さすがに警察に駆け込むはずだ。金をいくら渡すと言ったところで無駄だ。

     このまま、自分が殺人犯として捕まるのは時間の問題だ。残りの人生を刑務所で過ごすなんて絶対避けなければならない。

     要するに…全員殺す必要がある。

    「いくら欲しい? 言ってごらん。お願いを聞いてくれれば、言い値を払うよ」

    「な、何だよいきなり、調子乗ってんのか?」

     怒りを口にしながらも、明らかにパニックに陥っている。

    「言って、いくら欲しい? 君はまだ未成年だよね? お願いを聞いてくれたらいくらでも払う、約束する」

     ガキのいう金額なんてたかが知れている。

    「…お願いって何だよ、まあ…例えばだけど一千万? 欲しい車があるんだよね」

     思ったよりも高い金額だったが、なんてことはない。

    「払うよちゃんと、仕事さえしてくれたら、現金で」

    「マジかよ! …でもよお、陸さんたちに言わないでいきなり…」

    「密告するんだ、警察に」

     タカヨシが固まった。

    「それって、チクれっての?」

    「だって君は悪くない。ただ連れてこられただけでしょ? あの荷台の死体だって君が殺したの?」

    「違ぇよ! 勝手に轢かれたんだって」

    「じゃあ君は悪くない、そうだよね?」

     その言葉に条件反射的に大きく頷いている。

    「いいかい? 彼らは未成年とはいえ、死体を車に乗せて運び、隠蔽しようとしている。これは死体遺棄だ。調べれば間接的に殺してしまったことがすぐにバレる。日本の警察は馬鹿じゃないから。そうなると、必ずあなたも捕まる。わかるかい?」

    「…俺、何もやってねえよ…」

    「だとしてもだ。おそらく少年犯罪から切り替わり、少年院から刑務所に収監されることになるだろう。十年以上は硬いかな、死んだのが有名人だから注目もされる。出てくる頃には周りはみんな社会人だね」

     どんどんとタカヨシが真っ青になっていく。

    「だから、自首するんだ。そして洗いざらい全部話すんだよ。君も捕まるけれど、おそらく少年院、運が良ければその場に居ただけってことで、不起訴も考えられる」

    「不起訴って何?」

    「少年院に行かなくて良いってことだ」

     口から出まかせだ。実際のことなんて知らない、どうせ殺すのだから。

    「君は大金を手に入れる。そして彼らのいない渋谷で遊ぶのもいいけど、いつかは大人にならざるを得ないよね? このタイミングで悪いことから足を洗うのはどうだい?」

    「何言ってんだよお前…、そんなことしたら殺されちまうよ」

    「十年先の事だよ? それに君がどこか別の場所へ行けばもう辿り着けないだろう。そもそもまともに出所できる人間には思えないよ、刑務所内で揉め事を起こすはずだ」

    「でも、陸さんの親は会社やってるぜ? 金持ちだから弁護士雇ってすぐ出てくるんじゃねえの?」

     聞いたことのある雑貨商社の名前を口にした。意外だ、そこの息子があんなに冷酷だとは。

    「無理だよ。そんなことしたら悪評で会社が潰れてしまう。隠蔽するんじゃないかな? 関わりのないように」

     そこらへんは知ったことではない、バカのくせに粘るな。

    「…なあ、本当に俺たち捕まっちまうかな?」

    「うん、間違いなく。明日にでも」

    「くそ、何でこんなことになんだよ…」

     分かりやすくどんどんと現実に絶望していく。チーマーだギャングだと荒ぶっていても、所詮は子供なのだ。徐々に掌握していくゲームのような快感を覚えてきた。

    「どうする? 二つに一つだ。このまま僕をどこかで脅して、少ない金を手に入れて逮捕されるか、最初は心痛むかもしれないが、大金を手に入れて刑務所に行かない選択。決して裏切り者じゃないんだよ? 利用された君が被害者なんだから」

    「……そうかな?」

    「そうだよ!」

     堕ちた。ニヤけそうになるのを必死で我慢する。

    「で…アンタの頼みって何?」

    「一緒に殺さないか? あの娘」

     天井を指差した。

    「…は?」

    「殺すんだよ、あの娘。レイプした後に」

    「お前、何言ってんだよ」

     タカヨシの顔が歪む。今にも泣きそうな顔だった。

    「これからとある場所へ移動する。そこであなたは寧々を襲う。その後は僕が殺すから心配ない。君はその後黙っていればいい。秘密の共有だ」

    「バカかよ、陸さんたちには何て言えばいいんだよ…」

    「帰ったと言えば? 見た感じそこまで親密には見えなかったけど」

    「そりゃあそうだけど…」

    「いいかい? 簡単にまとめるよ。まず、これから行く場所で君は寧々をレイプする。その後あの娘を殺す。そこであの二人に連絡、寧々は帰宅したと伝え、死体を埋めに行く。場所は僕の別荘がある箱根、人気がないので好き勝手できる。その後に君は自首して、あの二人は終わりだ」

    「ちょっと待てよ、丸山の死体は?」

    「とりあえずはその場所に残そう、全てが落ち着いた後、後で処分する」

     タカヨシがバカな頭で何度もシミュレーションしている。こうやって考える時点で、もう決まったようなものだ。

    「成功するかな、本当に」

    「成功する確率が高い、限りなく」

     実際は、こうだ。

     僕は護身用に買ったナイフを持ってこの家を出る。そして箱根の別荘でチンピラ三人を殺してしまうのだ。それしか助かる方法がない。

     絶対に油断して接して来るだろう。あの冷静な長髪さえなんとかできれば、あとはこのチビと金髪だけだ。絶対に油断するタイミングが生まれるはずだ。

    寧々を含む四人を殺し、荷台の死体、早苗、合計六体の死体を隠す場所はある。あの辺一体は僕の土地だ、市有地にゴミを捨てるのはこっちの自由だ。

     一つ問題があるとすれば、丸山親子の死体だけは自分でなんとか処分しなければならない事だ。後日にでも、夜中に運び出すしかない。大変な作業だがやり切る、そしてまた平穏な毎日を取り戻すのだ。

    「タカヨシさん、君にとってチャンスなはずだ。目の上のたんこぶは消え、大金を手に入れる。そこから先は街を離れてちゃんとした人生を歩むべきだ。死ぬまで今日起きることを口にしない、なぜなら、有名人だからです」

     事実だ。テレビに出ている作家が怪しいなんて、誰も思わない。

    「絶対だな?」

    「うん」

    「金はいつもらえる?」

    「死体を埋めた後、要するに朝に銀行が開いたら」

     タカヨシが分かりやすく生唾を飲んだ。

    「丸山、好きにしていいんだな?」

    「もちろん、好きなだけ」

    「…わかった、やる」

     堕ちた、バカな猿だ。

    「心配しないで、必ず——」

    「何の話?」

     気がつくと、寧々が二階から降りてくるところだった。

    「何でもねえよ」

    「そう? そのオッサンとなんか話してなかった?」

    「何か隠してないか聞いてたんだよ」

     下手な嘘をついたが、寧々は頷き、ソファーの端に座った。

    「お母さんの事知らないなら、お金ちょうだい」

     寧々が金の話をしてきた。そうはいくか、お前も死ね。

    「…本当にお母さんと会いたいのかい?」

    「やっぱり、場所知ってるの?」

     少し間を溜めて頷いた。我ながら演技がうまい、

    「…どこ?」

    「すぐ近くのアパートだよ、そこに住んでる」

    「何でそんな場所にいんの?」

    「君と一緒にいたくないそうだ」

     傷ついたか? と思ったが、特に表情は変わらない。

    「あっそ。連れてって」

    「わかった。では着替えてくるからすぐに向かおう」

     タカヨシに目配せをし、クローゼットへと向かった。

     動きやすいようにTシャツにコートを羽織り、下はジーンズに履き替える。

     気がつくと興奮していた。これからあの高飛車な娘は馬鹿にした男に犯されるのだ。自分が学生時代、何度も想像したシチュエーションだ。

     ざまあみろ、僕を馬鹿にするからだ。

     リビングに戻ると、タカヨシが寧々を後ろから眺めている。コイツも興奮しているのだろう、間抜けが。

    「お待たせした、では行こう」

     ここから一気に形成逆転だ、明日からまた一流作家の生活に戻るために。

    10 寧々 00:32

    そのアパートは富田の家から五分ほど歩いた場所にあった。

    薄暗く、陽あたりの悪さが想像できる。こんな場所にあの見栄っ張りが一人で住むわけがない。

    二階の部屋を漁っている間に、何か起きたことが想像できるくらい二人の態度が変わっていた。タカヨシからは今までに感じたことのない卑猥な視線を感じるし、富田はまるで別人のように自信に満ち溢れている。

    きっと、富田がタカヨシになんらかの勧誘をしたのだ。

    「あの部屋だ、一階の奥」

     その部屋は電気が消えていた。

    「いないんじゃない?」

    「ちょっと様子を見てくるので、タカヨシさんと二人で待っていてくれる?」

    「何で? 一緒に行けば良くない?」

    「会いたがらないかもしれないので」

     富田が気色の悪い卑屈な笑いを浮かべた。

    「会わないって言われても会うけどね」

     言いながら、頭では二階での出来事を思い出す。

     おそらくだが、母親はもう死んでいる。

    殺したのは富田だ。

     二階の仕事部屋に入ってすぐ、机の上に散らばっている四本の小さなカセットテープと、見慣れたテープレコーダーが目に入った。母親がよく持ち歩いていたものだ。

     それを聞けばもう後戻りのできない、そんな気がした。

     部屋の鍵をかけ、テープをレコーダーに入れて再生した。

     ……。

     音声から私の知らない世界が流れてきた。

     吐き気を催す富田の言葉遣いと、実の母親の喘ぎ声。棒読みの台詞のような高圧的な言葉に従う様は、家で偉そうに振る舞うあの女と一致しない。

     耳を塞ぎたくなるはずの音声なのに、夢中で早送りで日付中にテープを聞いていく。行為がどんどんエスカレートしていく中、母親が演技をしていることに気がついた。言葉では言い表せない、白々しさを感じる。実の母親だからなのか、それとも女同士だからなのか。興奮している富田を何処か冷静に笑っているような、そんな喘ぎ声だった。

    要所要所に出てくる金というワードで、何となく関係はわかった。富田は金で母親を囲っていたのだ。あの女は金がない、それは家に届くクレジットカードの催促場で知っていた。

     そして、最後のテープをレコーダーに入れる。

     ガタンと、ドアが開いたような音が聞こえる。

     今まで聞いたことのない男の片言な日本語が聞こえた。そしてその男の息の切れる声の中、時たま母親のため息に似た呼吸が聞こえてくる。数分後、ガチャガチャとベルトを締める音が聞こえ、ドアが開く音が聞こえた。

     これは一体何? 意味がわからない。

     すると、唐突に富田の声が聞こえてきた。

    「風呂に入って清めてこい、そしたらまた客をとってくるんだ」

     一気に意味がわかり、吐きそうになった。

     売春をさせているのだ。それを見て興奮してる?

     実の母が体を売っているという事実、どう受け止めればいい?

     そこからテープは一旦止まり、再び音が流れ出した瞬間だった。

     また知らない男のはぁはぁと気色の悪い音声が聞こえてすぐのことだった。

    ——キャァぁあぁぁぁぁあ!

     鼓膜を突き破るような叫び声に、思わずレコーダーを落としてしまった。

     今までに聞いたことのない母親の声だった。

     慌てて壊れてないか確認するために、止まったテープを再生する。

     騒がしい音と共に、ドアが閉まる音が聞こえた。そしてすぐに富田の声が聞こえてくる。

    ——おい、静かにしろ、おい!

    ——ああぁぁぁぁぁああああああ!!

     狂ったのだろうか?

     そう感じた瞬間、ゆっくりと母親が笑い出した。

    ——笑うな! おい!

    ……けない。

     パンッと乾いた音が聞こえてくる。

    ——情けない。

     その声を、昔よく聞いたことがあった。

     出ていった父親を馬鹿にするときの声だ。

     そこからは母親の独壇場だった。正直ここまでの性悪だとは知らなかった。改めて出ていった父親が間違っていなかったことが証明された。

     その血を受け継いだ私を、一緒に連れていかなかったことも。

     次々と出てくる富田への罵倒、人間性の否定。あんなに喘いでいた女の言葉とは思えない、酷い言葉がどんどんと羅列されていく。

    ——金は渡さないぞ、いいのか?

    ——これわかるわよね? インタビューなんかでよく使われるでしょ? ボイスレコーダー」

    ——それが…なんだ。

     惨めな男、こんな女に手を出したのが間違いだ。

    ——全部ね、録音してるの。

     母親が高らかに笑っている。まるで価値を確信したような大笑いだった。

    ——やめてくれ。

     惨めに謝る富田、ケラケラと笑う母親。一気に立場が逆転した。

     そして、そのうちに富田が泣き出したのだ。つい数分前までの威勢が全くなくなっていた。

    ——申し訳ありません、許してください。

     富田という人間が一気に分かった。というよりも、気持ち悪さの理由がわかった、ずっと無理をしているのだ。

     冴えない人間がつい有名になってしまって、肝心な人間性が追いついていないから、何もかも伴わずに異様だったのだ。

    ——泣いたってダメよ。全部もらうから。

     母親の言葉が、静まり返ったテープの向こうで呟かれる。その場にいなくてもわかる、富田は絶望したのだ。これからずっとタダ働きで貢いでいかなければいけない。しょうもない人生を——

     突然大きな音が耳を突き刺した。

     何かがぶつかる音がして、声にならない声がくぐもって聞こえてくる。

    ——ンンンっンンンンンっンンンン

     恐ろしい声だった。

    初めて聞く、怒り、悲しみ、喜び、どれにも当たらない、異様に響く低音。

    ぺタンパタンと何がぶつかる音…肉がぶつかる音が聞こえてくる。

    ——ンフっンフっンフっンフっ

     次第にその意味がわかってくると、一気に寒気が襲ってくる。

    ——ンフっっっっっっ

     唐突に音が聞こえなくなった。

     富田の激しい息遣いだけが聞こえてくる。

     テープの向こうから、母親の気配が消えた。

     その後は、何かがバタバタと動いているが、もう喋り声は何も聞こえなかった。

     私は耳からイヤホンを取り外した。

     もう間違いない、半分脅しのつもりで言っていたのだが、どこかで確信的な思いがあった。

     母親は殺されたのだ。

     気がつくと冷たい汗で全身がびしょびしょになっていた。全く悲しくはないが、自分の身内が殺された恐怖と、これまでに触れたことのない大人の気色悪さに改めて震えがきた。

     あんな冴えないオッサンなんて、簡単に自分一人でどうとでもなると思っていた。その考えは甘かった、逆上すると人を殺せる人間なのだ。

    ゆっくりと一階に降りることにした。普通にあの男の顔が見れるだろうか?

     その時、二人の話し声が聞こえてきた。

    「ちょっと待てよ、丸山の死体は?」

     思わず声が出そうになるのを堪えた。

    死体?

    「その場所に残しましょう、全てが落ち着いた後——」

     さっきまで震えて黙り込んでいた富田が、自信たっぷりな喋り方をしている。

     迂闊だった、タカヨシも私のことをよく思っていない、仲間に引き込んだのだ。あんなクズの仲間をして、陸たちが許すはずがないのに。

    「丸山、好きにしていいんだな?」

    「ええ、最後は僕が殺します」

    「…わかった、やる」

     犯して殺す気だ。

    急いで携帯電話を取り出し、陸にメールをした。

    ——助けて、タカヨシが裏切った、二人に殺される。

     短いメールだけど、電話をするわけにはいかない。それに、富田から絶対にお金を奪わないと、私はすぐに生活できなくなってしまう。

     陸は来てくれるだろうか? ここから走って逃げても捕まったら終わりだ、隙を見ないと。

    「何の話?」

     自然を装い、階段を降りた。

    「何でもねえよ」

     そう言ったタカヨシの目は泳いでいた。

     明らかに空気が変わった中、聞いた音声のせいもあり、これまで味わったことのない殺意を背中に感じたまま、今、神泉駅近くのアパートに連れて来られている。

    「丸山ぁ、陸さんと付き合ってんの?」

     探るような目線でタカヨシが言った。

    「なんで?」

    「どうなんだよ」

    「そうなるかもね」

     嘘をついた。少しでも今は牽制しておきたかった。喋りながら陸にこの場所のメールを送る。返事はまだ帰ってこない。

    「ねえタカヨシ、やっぱり陸くんっておっかないの?」

    「ああ、怖えよ」

    「まあそうだよね、手下だもんね」

    「ちげえよ! 仲間だ。別にあの人の下にいるわけじゃねえ」

     逃げてしまおうか、でも…。

     ここで逃げてしまえば、真実がわからないような気がした。

     でもこのままだと、レイプされて殺される。

    「いやぁ、お待たせ、会うそうだよ」

     富田が現れた。なぜだか汗だくになっている。

    「…わかった」

     二人に挟まれる状態で、部屋の前に歩いた。

     なんか…とても不愉快な匂いがする。納豆が腐ったような匂いだった。

    「ここ?」

    「そうだよ、開けてごらん、奥にいるから」

     気がつくと、体が震えていた。ドアノブを握ったまま言った。

    「ここにお母さんの死体があるの?」

     富田は返事を返さなかった。

    「聞いちゃったんだよね、テープ。あれってここじゃないの?」

    「うるさい!」

     突然富田が豹変した。と同時に、強い力でドアに打ちつけられる。私は背中を強くうち、息ができなくなった。

    「ほら、中に入れるよ、早く!」

     戸惑うタカヨシが言われるがままアパートのドアを開く。

     ——瞬間。

     とんでもない匂いが鼻を襲った。

    汚物よりももっと強烈な匂いが部屋を充満している。

    「臭え! なんだよこれ!」

    「いいから、ほら、部屋の奥へ!」

     富田が足でドアを閉める。私はタカヨシに押し込まれて転がるように畳の上に転がった。

     そこは、古臭く狭い部屋だった。

     そして畳の上には汁状のものが染み込んでおり、そこからとんでもない匂いが吐き出されていた。

    「何よ。どういうこと?」

    「うるさい、生意気なんだよ君は。お仕置きだ、ねえタカヨシさん?」

     富田がいうと、タカヨシがなんとも言えない表情を浮かべた。

    「ほら、さっさとやりなさい? こんな生意気な女」

    「ねえ、やめて」

     言いながら陸がメールに気がついていることを神様に祈った。

    「悪ぃな、丸山」

     タカヨシの手が伸びてきた。

    と同時に一瞬でTシャツが破られる。逃げようと立ち上がろうとしたが、上から跨られて顔を押さえつけられた。

     馬鹿にしていた男の力にねじ伏せられている、こんなに悔しいことはない。

    「暴れんなよ、気持ち良くなろうぜ」

     口を抑えた手の力が強すぎて、口が切れてしまった。自分の血の味を飲み込みながら、思い切り抵抗する。

    「動くな!」

     タカヨシがもう一方の手で、何度も顔を叩いてくる。

    「痛い! 離してよ!」

     どんなに足掻いても、男と女の力の差は歴然だった。力任せにブラジャーを剥ぎ取られる。

    「いつもバカにしやがってよお、ぶち込んでやるよ」

     涙で霞んだ視線の先で、タカヨシがジーンズを脱いだ。その背後では、富田が自分のモノを激しくシゴいている。

    「やめて…」

     どんなに強がっても、私なんてこんなもんだ。こんなチビにも力では叶わず、どこかで母親が生きていると信じてしまったがために、こんな状況になっている。逃げればよかったのだ、金なんて、どうにかすれば。

     足の間にタカヨシの脚が入ってくる。無理やり広げられた下半身から、パンティがむしり取られた。

    「止めるわけね——」

    「何やってんだ?」

     不意に、聞き覚えのある声が聞こえた。

     と同時に、鼻から血が噴き出した富田が転がってきた。

    「何やってんだ?」

     勃てたまま、タカヨシが振り返った。

    「いや、陸さん、違うんす!」

    「何が違うんだよお前」

     後ろからマモルの声も聞こえてきた。その背後には、怯えた見慣れない男が立っている。

     陸が私の顔を確認する。

    「寧々、殴ったのはこいつか?」

    「うん」

    「いや、だから違っ」

     弁解が終わる前に、陸の靴先が中腰のタカヨシの顔面に突き刺さった。

     一瞬、私の上に倒れてきたが、それをマモルが力任せに引き上げる。

     そこからはもう、一方的な暴力だった。

    殴り飛ばされたタカヨシの上に跨ったマモルが、何発も拳を振り下ろす中、陸が私の上着を渡してくれた。

    「おいオッサン、この匂いなんだよ?」

     陸が富田の顔を踏みつけながら言った。

    「わからない! 知らない!」

     念仏のように繰り返すその声は震えていた。

    「オッサン、そこの襖を開けろ」

     ずっと気になっていた。閉まりっぱなしで、張り替えたばかりの襖。

     口では説明できない何かが、あの中から漂ってくる。

     襲われている間、臭いではなく気配を感じていた。

    「開けろ」

    「勘弁して! 勘弁して!」

     富田が子供のように不気味に駄々をこねている。

    「開けろ」

     蹴りが一発肩口に当たる。

    「勘弁してください!」

    「開けろ」

     土下座する頭に一発。

    「勘弁して」

    「開けろ」

     淡々と富田を蹴り続けた。それでも頑なに開けようとしない。いや、その場所にいる全ての人間が気づいているのだ、あの襖の奥には何かがいると。

    「おら、開けろ」

     陸が富田を無理やり起こして、襖の近くまで引きずっていく。

    「やめろぉぉ! 離せ!」

     頭の中に、瞬間的にさまざまな映像が浮かんだ。幼稚園の頃、みんなで行った大阪旅行。小学生の時、まだ仲の良かった両親からもらった自転車、出て行く父の姿、崩れていく母親の表情、そして…。

    「おら、開けろ!」

     恫喝している陸の顔にも緊張が走る。

    「やめてやめてやめて」

     殴られ続けてもはや抵抗する力がないのに、それでも富田は頑なに嫌がった。

    「手伝ってやるよ」

     陸が富田の手を握り、襖に手をかけさせた。

     どこか現実離れした時間だった。ゆっくりと映像が目の前で動いていく。

     襖が開いた。

     土色の肉塊が、横たわって私のことを見つめていた。

     母親だった。

    11 陸 01:24

     乗車人数が一人増えたので、さっきに奴らから取り上げたハイエースに乗り変えることにした。というよりも、アパートの死体を見て、愛車に死体を乗せ続けるのが嫌になった、あの匂いだけは勘弁だ。

     車を届けにきた後輩が、妙なメンバー構成に興味を持っていたが、血まみれのタカヨシを見て黙り込んだ。カバーズは身内の結束が高い、その身内から手を出されるというのは、それだけの事が起きたということだ。おそらく今頃、仲間たちにこう言っているだろう。

    タカヨシがなんかやらかしたぜ、と。

    車は今、箱根の方へと向かっている。

    運転席には俺、助手席には寧々、後部座席にはマモル、瞳孔が開いたままぼんやりとする富田、そしてさっき拾ったばかりの芸人、健太が乗っている。その背後では顔が腫れあがったタカヨシが両手両足を縛られ、三葉の死体と一緒に転がっていた。

    ハンドルを握りながら、頭の中ではさっきの光景が何度もフラッシュバックされる。

    薄暗いアパート、襖がゆっくりと開き、そこに女が倒れ込んでいる。

    下半身だけ裸で、すらっと伸びる脚が、窓ガラスから差し込む月明かりで照らされていた。そして部屋に入った時から漂っていた糞のような臭いが、襖が開いた瞬間に一気に強みを増す。

    さんざん嫌がり暴れていた富田も、その瞬間に膝をついて崩れた。

    「マジかよ…」

     マモルのタカヨシを殴る手が止まる。

     その物体はまるで、肉の塊のように妙な形になっていて、よく見ると汁のようなものが下に溜まっていた。

    「おい、寧々…」

    死体と見つめ合っているように、寧々は目を見開いていた。声をかけても全く返事をしない。

    当たり前だ、目の前に母親の死体がある。しかも腐っているのだから。

     とんでもないものを見てしまった。

    みんなの手前騒がなかったが、正直胸糞が悪すぎる。

     結局、状態が状態だけに、あのアパートにそのまま置いたまま移動することになったが、映像だけは何度もこうやってフラッシュバックされる。

     寧々は車に乗ってから何も喋らず、ひたすら真っ直ぐ薄暗い道を眺めていた。

    「オッサン、こっちでいいのか?」

    「……駅を越えたら道沿いに山を登ってくれ」

     三葉の死体をどうするか、迷っているところに富田の別荘に埋めるというアイディアを出してきたのは、寧々だった。どうやらタカヨシを取り込み、寧々も殺して母親と一緒に別荘に埋める予定だったようだ。二人がバカだったのは、その計画を寧々に聞かれたことだ。

    「おい、芸人、てめえのせいで散々だからよ、穴はお前が掘れよ」

    「はい…わかってます」

     片目が塞がった健太が、へこへこと頷いた。

     この男を道端で発見できたのは幸運だった。少し蹴飛ばしただけで、ペラペラと全てを話してくれたのだ。

     芸人としての同期で、三葉だけが売れているのを妬み、木村に相談したそうだ。

    そんな事で死んでしまうとは、本当に哀れなやつだ。

    こんな雑魚に恨みを買わなければ、これからもっと人気が出たはずなのに。

    「リクちゃん、朝までに帰れるかな? 明日用事あんだよね」

    「女?」

     マモルがニヤけながら頷いた。相変わらずこの男はどんな局面でも慌てない。

    「帰れるっしょ、こいつら次第かな」

     富田と健太が分かりやすく縮こまる。

    「しかしクズだよな、オッサンもこの芸人も。よっぽど俺らの方がマシだぜ。寧々ちゃん大丈夫?」

    「…うん、平気」

     寧々は殴られた頬にコンビニで買ったペットボトルのお茶を当てて冷やしていた。

    「痛むか?」

    「少しね」

     大丈夫なわけがない。そして忘れられるわけがない、あの光景を。

    「大したもんだなオッサン、人殺してその娘まで殺そうなんてよくできるな。そんなに自分を守りたかったのか?」

    「…なんとでも言ってくれ」

    「まあいいや、とにかくさっさと済ませようぜ」

    「……」

     気が焦る。現在最悪な状態なのは間違いない。解決しないといけないのは三葉の死体、それとその事実を知っている後ろの富田と健太の始末。あとタカヨシもだ。

     あのアパートの死体はそのうちに見つかるだろう、その際、この富田が犯人なのは警察ならわかるだろう。という事は、この男が見つかったら俺らの事もチクられて終わり。三葉が死んだことがバレてしまう。冗談じゃない、何もかも無かったことにするしかない。

    「オッサン、別荘はこの山の中か?」

    「強羅」

    「あ? なんだって?」

    「明神ヶ岳近く、強羅にある。とにかく登ってくれ」

     山の名前か。そんなのはどうでもいい。

     道はクネクネと運転しづらくなっていく。山を登り出した瞬間から、側道に雪が積もり始めた。箱根といえば温泉地のイメージだったが、こんな険しい道があるなんて知らなかった。

    バックミラーで後ろの様子を眺める。健太だけがキョロキョロと周りを見渡していて、マモルは外を眺めている。富田はというと、何かをぶつぶつ喋っていた。この男はチビでデブの眼鏡だが、頭の中が俺らなんかとは比にならないくらいヤバい。それにタカヨシがこんな冴えないオヤジに取り込まれたのも意外だった。

    「マモル、タカヨシは?」

    「生きてるよ、今はな」

     耳を澄ますと、後ろから泣き声が聞こえてくる。こいつが手を出した女は寧々だ。この女に好意があるのは知っていただろう、なのに犯そうとしたってことは、俺を舐めているということだ。それに、一度でも裏切るやつはもう信用できない。

    「泣いたって許さねえよ、裏切りもん」

     冷徹なマモルの声が車内に響いた。

    「あの…僕も殺されるんですか?」

     健太が腹の立つ顔で聞いてきたが、無視をした。

    「でもヨォ、キムくんキレてんだろ? リクちゃん大丈夫?」

     健太を捕まえた後、木村に電話をすると上から目線で処理しとけって命令されたのを思い出した。

    「知らねえ、どうでもいいよ。正直やっちまうのもありかなって」

    「その話のるぜ? いい加減うぜえよな」

    「まあその事は帰ってから考えようぜ。それに芸人、三葉殺したのはお前みたいなもんだろ、ちゃんと埋めてやれ。その後は知らねえ」

    「…よかった…分かりました」

     こいつもとんでもないクズだ。世の中にはさまざまなタイプのクズが存在することが改めてわかった。富田にしろ健太にしろ、俺よりも全然大人なのに、何一つ尊敬できるところはない。

    「…そこを曲がってくれ」

     ミラー越しに富田が指を刺している。言われる通り右折して側道を登り始めると、もうどこにも電灯はなく、車のライトのみが頼りだった。

    「突き当たりにある建物が別荘だ」

     しばらく走ってみると、確かに先に建物がある。車のハイビームを当てると、その全貌を確認する事ができた。

     こじんまりとした小さなロッジ風の建物で、このチビデブからは想像のできないセンスのある建物だった。すぐ後ろには真っ黒に茂った林がある。建物の前に停車して、全員を車から下ろした。

    「寒ぃ、おい、早く開けろ」

     富田はゆっくりとドアへと近づき、頑丈そうな扉の鍵を開けた。

     部屋の中に入ると途端に暖かさが体を包んだ。電気を付けると、いかにもな暖炉があり、テーブルがぽつんと置いてあるだけで、派手な装飾などは一切ない。

    「さてと、お前ら並べ」

     椅子に座り、その前に富田、健太、タカヨシが正座で座らせられた。

     ここに来るまで自分達が捕まらない方法を何度も頭の中で組み立ててきた。何度考えても行き着く答えは同じだ。目の前の三人はここで殺す。誰一人も生かしておいたら必ずどこかでバレるだろう。

    「オッサン、金は?」

    「二階の金庫の中だ、少ししか入ってないぞ」

    「いいよ、出してこいよ」

    「…考え直してくれ、無事に家に返してくれたら大金を払う。いくらでも払う! 助けてくれ!」

    「…助けるわけないじゃん」

     ずっと黙っていた寧々が口を開いた。

    「一人で生きていくの、さっさと金出しなよ、ないなら銀行のカードちょうだい」

    「本当に悪かった。殺したくはなかったんだ、君のお母さんが僕を脅すから…。聞いただろう?」

    「馬鹿じゃないの? 今度は私に脅されるの。わかる?」

     なんだかよくわからない会話が続いている。が、寧々の希望は理解した。

    「いいよ別に。払いたくねえなら勝手にしろ、殺して奪ってやる」

    「銀行に入っている金はどうにもならんぞ」

    「お前が暗証番号教えるんだよ」

    「殺すつもりだろ、言うか」

    「そう思うか?」

     こんなやつから聞き出すのは簡単な作業だ。寧々にも渡したいし、こっちも金が必要だ。意地でも奪い取ってやる。

    「まあいいや、おい芸人。この二人殺すの手伝えよ」

    「え、どうしてオレが!」

    「当たり前だろ? 全員埋めるんだからよ」

    「勘弁してください!」

     突然、黙っていたタカヨシが叫び出した。

    「調子乗ってすみませんでした、マジ勘弁してください!」

     後ろ手に縛られたまま、地面に頭を擦り付けている。わざとらしいやつだ。

    「なんでお前裏切った?」

    「こいつが誘ってきたんです!」

    「なんて誘われたんだよ」

     一瞬、タカヨシが言い淀んだ。

    「丸山殺してくれって。そしたら金くれるって」

    「オッサン、本当か?」

    「…他にもある」

     富田は開き直っているようにも見える。そういえばさっきから雰囲気も変わった。

    「警察に密告しろって言ったよ。君ら二人をね。そしたらのってきた」

    「嘘つくなてめえ!」

     タカヨシが体で富田に体当たりする。

    「うるさい! 貴様なんか小物のくせに僕に偉そうにするな」

     富田が豹変して、タカヨシに飛び掛かった。

    「おい、離れろよ」

     マモルが引き離そうとするが、富田が全く離れようとしない。

    「馬鹿にしやがって! オレを誰だと思ってるんだ!」

    「おい、離れろ! 殺すぞオッサン」

    「ガキのくせに調子に乗るな」

    「マモル、どけ」

     横っぱらに思いきり蹴りをぶち込んだ。悶絶する富田を呆然と見つめるタカヨシ、最後の大人の意地か。さっさとこいつらは殺したほうがいいだろう。

    「おい、芸人、外行くぞ」

    「あ、分かりました」

     健太が卑屈な笑顔を向けてくる。こいつも小物だ。

    「寧々、ちょっと外いってくるからよ、待っててくれ」

    「わかった」

     マモルに目配せをして、健太を連れて再び外へ出た。

     皮膚を切り裂くような寒さ、息をするたびに肺の辺りが酷く冷える。車に積んでいたスコップと懐中電灯を持って、林の中へと入っていく。

     木々の中は限りなく続く闇そのものだった。かろうじて別荘の灯りが見えるギリギリまで奥へと進む。横ではぁはぁと健太の息切れが聞こえてきた。俺は足で軟そうな土を確認しながら歩く。

     ふと、目印になりそうな大木を見つけた。その下の土は比較的柔らかくなっている。

    「よし、ここら辺でするか。おい、三人分くらいの穴掘ってくれ。急げよ」

    「分かりました!」

     健太が穴を掘り出した。さっき電話で木村と話した時、この男を処分しろと命令してきやがった。つくづく腹の立つ野郎だ、今夜が無事に終わったら、先輩だろうがなんだろうがやってやる。だが今はとにかく全て処分しなければ、この先はない。

    「ほら、急げよ。お前の友達も埋めるんだぜ?」

    「わかってます!」

     面白いように穴を広げていく健太を見ていると、なんだか虚しくなってきた。一体何をやってるんだ、簡単な仕事をこなして寧々とセックスするはずだったのに。今は真っ暗闇で穴を掘っている。

    「なあ芸人、お前、あの三葉ってやつが死んで嬉しいのか?」

    「…いや、まあ、なんとも言えないっていうか。死ぬとは思わなかったんで」

    「ありゃあ事故だよ。ずっと見てたんだろ?」

    「まあ、はい」

     死ぬとは思わなかった、確かにそうだ。

    冷静になると本当に最悪な一日だ。三葉を追いかけたら死んでしまうし、横浜のガキには車に傷をつけられるし、寧々を抱けるかと思ったら母親の死体を見てしまうし、変態作家と、可愛がっていた後輩の処分をしなければならない。もちろん目の前で穴を掘っているコイツも三葉もだ。

    もううんざりだ。

    「まだそれだと一人分だな。もっと気合い入れて掘れよ芸人」

    「頑張ります!」

     一生懸命自分も入る穴を放り続ける、何歳も大人の背中を見ていると、本当に虚しくなってきた。いつまでも遊んでいる場合じゃない、こんな惨めな大人になる前に、そろそろ将来のことを考えないといけない。

     ザッザッ

     穴を掘る音が闇の中で鳴り響く。さっきまで過ごしていた渋谷の雑踏が猛烈に懐かしかった。

    12 富田 02:11

     陸たちが外に出て十分は経った。

    動かないと本当に殺されてしまう。

     固いフローリングの上に座らされ、体が冷えきってしまった。どうして自分の別荘でこんな目に遭わなければならない。

     小説家になってからチヤホヤされてきたのに、今は足の痛みを堪えながら自分よりも遥かに年下のクズ共から土下座させられているのだ。

     でも、最後に笑うのは間違いなく僕だ。

     椅子に座る寧々のスラっと伸びた脚を見ながら妄想する。

    これからこの女を犯してやる。

    母親を殺した男におもちゃにされてこのガキは死ぬのだ。

    隣を見ると、タカヨシがずっとフローリングを眺めていた。まだ覚悟ができていないのだろうか? 今しかチャンスはないのに。

    さっき揉み合うふりをして、縛られた手の紐を緩ませながら、耳元で囁いた。

    最後のチャンスだ、殺してしまえ、と。

    そしてあのアパートで寧々を刺し殺すつもりで持ってきた、通販で手に入れたバタフライナイフをこっそりとタカヨシのポケットに忍ばせたのだ。

    これは賭けだ。しかしその賭けには絶対に勝てる、こいつらは二人とも完全に油断している。陸がいると難しかったが、ナイフさえあれば小さなタカヨシだって勝てるはずだ。

    「オッサン、何ニヤけてんだ?」

     金髪が睨みつけている。

    「…別に」

    「マジで気持ち悪いなお前。変態は殺しとかないとな、寧々ちゃん」

    「その前に最後に聞きたいことがあるんだけど」

     寧々が喋り出した。

    「それだけ恥かいても、やっぱり死にたくないの?」

    「…どういう意味だ?」

    「だってさ、あんたから見たら子供みたいな連中にビビって、ボコボコに殴られて最後には殺されるんだよ? どうして足掻かないの?」

     本気で聞いているのが顔を見てわかった。心底見下しているのだ。

    「好きでもなんでもなかったけどさ、自分の母親を殺した男がこんな惨めな人間だと、あの人も浮かばれないなって。小説書いてお金稼いで、人の親を殺しておいて最後がこれ? 可哀想な人生」

    「…ガキに何がわかる。どういう人生を過ごしてきたかなんてお前にわかるか? あんな小根の腐った女の一人や二人、僕みたいな価値のある人間は殺したっていいんだよ。偉そうにするな、一人じゃ何もできないくせに!」

     こんな世間を舐め腐ったガキに、培った人生を馬鹿にされてたまるか。それにもうすぐ地獄を見るのはお前の方だ。

    「アンタ自分に価値があると思ってんの? そりゃあ売れる本が書けるんだろうけど、必死こいて稼いだ金に価値があるだけで、見た目が気持ち悪い変態になんて価値あるわけないじゃん。死んで母親に言っといて、お似合いだって」

     寧々が僕の顔面に唾を吐きかけると、金髪が腹を抱えて笑い出した。

    「惨すぎるぜオッサン、死ねてよかったじゃん」

    「…死なないぞ」

    「無理だよ。それともやるか? 縛ってねえだろお前は」

     マモルがゆっくりと目の前に立ちはだかった。これまでの嫌な思い出が一気にプレイバックされる。不良たちのおもちゃにされ、女たちの前で真っ裸にされたこと。サッカーと称して、数人に蹴られながら、サッカーゴールに飛び込んだこと。

     社会に出ても何も変わらず、ずっと周りから馬鹿にされたこと、女たちからは裏で肉団子と呼ばれていたこと。

     毎日毎日、ヘラヘラしながら地獄を耐え抜いて、やっと手に入れた地位と名誉が、こんな金髪バカに奪われてしまう。

     飛びかかろうと立ち上がった。

     つもりだった。しかし実際は膝をついただけで、それ以上体が動かない。

    「なんだよ、来いよ変態。死ぬ前に体張ってみろ」

     張り手が顔面を襲ってきた。僕は思わず丸まってしまった。

    「なんだそりゃ? ほら、顔上げろ」

     髪を無理やり引っ張られ、再び張り手が飛んでくる。叩かれながらもわかる、遊び半分で叩いているのだ、親が子供を教育するように、手加減された張り手が何度も頬を叩く。

     悔しさよりも圧倒的な力の差に体が固まっていく。

    「どう生きればこんなダセエおっさんになるんだよ」

     ニヤけた金髪の顔が目の前に近づいたその時——

     視界が強い衝撃で一瞬真っ暗になった。

     何が起きたんだ…。

     倒れたマモルを見下ろしているのは、タカヨシだった。

    やっと動いた!

     さっき渡したバタフライナイフが、金髪の首に深々と刺さっている。

    「ほらあああ、舐めんなよ! いつも威張りやがって!」

     タカヨシが崩れた顔で笑っている。その顔があまりにも醜悪でゾッとした。

    「きゃああああ」

     遅れて寧々が叫ぶ。

    「おい、何やってんだお前。なんで紐解けてんだ?」

     マモルがゆっくりと立ち上がった。自分が刺されたことに気がついていない。

    「っななななんで動いてんだよ!」

     タカヨシが真っ青な顔でこっちを向いた。

    「早く! 殺せ!」

    「畜生、歳だって一個しか違わねえくせに! 命令ばっかしやがって」

     叫ぶと同時に、金髪に向かって走り出した。

    「なんだよ、そんなふうに思ってたのか? 悲しいだろうが」

    金髪の拳が、駆け寄ったタカヨシの顔面にカウンターでめり込んだ。

    「ッヒン」

     小さな体が綺麗にひっくり返る。

     フローリングに落ちたタカヨシの鼻から血飛沫が飛び散った。

    「緩かったかな、縛り」

     金髪はまたがろうとして、ふらついた。

    「何やってるんだ、立て!」

     もう少しで立場が逆転するのに、ここで諦めてたまるか。

    「マモルくん、大丈夫?」

     寧々が青白い顔で近づいてきた。

    「ん? 何が?」

    「…首、刺さってる」

    「何が? え、何これ」

     自分の首を触ってみてやっとわかったらしい。さっきから信じられない光景を見ている。人はこんなに死なないものなのか。

    「…なんて事してくれてんだ? おい」

     金髪の拳が、再びタカヨシの顔面にめり込んでいく。

    「か、勘弁ひて…」

    「するかよ、ふざけんな」

     一発、二発、三発。

    「ひて、かんひて」

     四発、五発、六発、生まれて初めて聞く音だった。

    肉を叩く音とも違う、物体を叩くには水々しい優しい音だった。

    タカヨシはすぐに動かなくなったが、マモルの手は止まらない。ゴン、ゴンという音から、くちゃくちゃっという音へと変わり、最後には全く音がしなくなった。

     タカヨシの顔面は潰れていた。

     ゆっくりとマモルが立ち上がり、椅子へと向かう。

    だめだ、こいつは死なない。そんな恐怖に苛まれてしまった僕は、チャンスにもかかわらず全く動けなかった。

    「やべえ、どうしよう、これ、抜かない方がいいよね?」

    「うん、そうだと思う。そのまま病院行った方がいいよ」

     聞かれた寧々の顔も、刺された金髪の顔も真っ白だった。ここしかない…。

     こういった輩から隠れて生きてきたけど、今は違う。世間に認められた男なんだ僕は、逃げてたまるか。

    「なんかさあ、すげえ眠くなってきた。これやばくね?」

    「陸くん呼んでくる、病院行こ」

     呼ばせるか、生き残るにはもうこのタイミングしかない!

     気がつくと僕は、驚く寧々を突き飛ばし、マモルの首に刺さるナイフに手をかけていた。

    「痛っ、なんだよ変態…」

    「うるさい、さっさと死ね!」

     握り込んだナイフを、思い切り引き抜いた。

     瞬間…。

    目の前を赤が染める。

     まるで噴水のように血が首から噴き出した。

    「きゃああああああ」

     後ろで寧々の声が聞こえた。

    僕は噴水のように噴き出す血に見惚れてしまっていた。まるで虹のように美しい放物線だ、こんな美しい色はこれまでの人生で見たことがなかった。血が壁や床を染めていく。人体にはこんなにも大量な赤が注入されている。

     金髪は微動だにしないまま、首からゆっくりと血を噴き出していた。それはまるで、周りに見せつけているように。何かを伝えようと口をぱくぱくしているが、もう何も聞こえなかった。

     振り返ると寧々は放心していた。その隣ではぺちゃんこに顔が潰れたタカヨシの残骸が転がっている。

     ……やった。

     思わず笑いが込み上げてきた。つい数分前までの状況が一変した。今この場所を制圧しているのは間違いなく、僕だ。

     手には拭き抜いたバタフライナイフが握られている。その手をゆっくりと標的の方へ向けた。

    「お前、さっきなんて言った?」

     ゆっくりと寧々の視線がこっちを向いた。

    「もう一回言ってみろ、なんて言った? 思い出せよ」

     ガタガタと震えている姿に、気がつけば勃起していた。

    「気持ちの悪い変態だと? お前はこれからその変態にレイプされて殺されるんだよ、わかるか?」

    「そ、外に…」

    「アイツらも殺してやる。そうだな、まずはアイツらが先だ。そして最後はお前だ。とことんメチャクチャにして最後は切り刻んでやる」

    「そ、そんなの絶対捕まる」

    「お前らみたいなバイキンを、警察がわざわざ探すわけないだろう。死ぬのは全部ゴミ、最後に早苗を捨てて終わりだ」

     さっきまで人生に絶望していた。心の奥に隠していたトラウマも復活した、それでも今こうやって形勢逆転している。本当に先のことはわからないものだ。

     自分が生まれ変わった気がする、まるで小説に出てくる犯人のような逞しさだ。

    「動いたり大声を出したら刺すぞ? そこにある紐を取れ」

     タカヨシの手から取れた麻紐を指差した。揉み合いに見せかけて、僕が緩めたものだ。寧々は言われた通り、紐を持ってくる。もはや従順なペットだ。

    「手首を合わせて前に出せ」

    「…縛んの?」

    「余計な口を挟むな!」

     思い切り寧々の頰を張った。力の加減がわからず、口元から真っ赤な鮮血が流れ出す。

    「出せ! 何度でも叩いてやるぞ」

     寧々が歯を食いしばりながら両手を差し出した。悔しくて仕方ないのだ、興奮する。

    「馬鹿なガキだ。おい、テーブルの上に前から体を乗せろ」

    「…なんでよ」

    「尻を突き出せ、後ろから犯してやる」

     限界だ、股間が痛いくらいに熱い。窓越しに外を確認すると、遠くにうっすらと光が見える。しばらくアイツらはこっちに来ないはずだ。

    「絶対に嫌、それならもう殺しなよ。お前みたいな化け物とヤるくらいなら自分で死ぬ」

    「どうやって死ぬんだ? 舌でも噛み切るか? あれは苦しいらしいぞ? すぐには死ねないらしいからな。その間に犯してやるよ、クソガキ」

     寧々の顔が絶望に染まっていく。もう誰も助けには来ない。親子共々この僕に屈して死んでいくのだ。

    「さあ、ほら、尻を突き出せ」

     僕はバタフライナイフを寧々に向けた。 

    12 寧々 02:29

     富田が、化け物へと変貌した。

     それくらい自信に満ち溢れた男の手に、マモルの首から引き抜かれたナイフが握られている。

    「言う事聞けないなら、とりあえずどこか切っとくか? こっちは一向に構わないぞ」

     周りを見渡しても、武器になるようなものはなかった。腕力ではこんな弱そうな男でも叶わないだろう、なんとか陸に知らせる方法はないだろうか。

    「ほら、最後だ。自分で尻を突き出すか、無理やり犯されるか。選べ」

     富田が自分の股間を弄りながら言った。ズボンの上からでもわかるくらい膨らんでいる。

     迷うことなく賭けに出ることにした。どちらにしても、こんな男を受け入れるくらいなら死んだ方がマシだ。

     テーブルに置いてあったマモルの携帯電話を握りしめた。

    「それでどうするつもりだ? ん?」

     富田がズボンを脱ぎながら言った。

     画面を確認し、リダイヤルボタンを押してそのまま窓へと向かって投げた。

    「お願い!」

     バリッ

     携帯は窓にあたったが、虚しくヒビが入っただけだった。

    「なんだ、君は窓ガラスを破るつもりだったのか? 残念! どう足掻いてももう無理だ。諦めるんだな」

     薄汚い手が伸びてくる——

     私はその手を弾き、思い切り相手の顔を殴った。

     つもりだった。

    「ほら、もう諦めなさい、ねえ? アナルプレイは経験ないだろう? 味わってごらん、最高だよ」

     あそこ丸出しのデブが手を捻り、テーブルに押し倒す。

    「離して! 離せ! 殺すぞ! 離せ!」

     思い切り足掻いた。が、抵抗虚しく自分のスカートから下着が荒々しく脱がされる。涙が滝のように流れ出した。

    嫌だ、こんな男に犯されるような酷いことなんてしてない! 私はただ——

    「ほら、足広げろ」

    硬くなったモノが、太ももに当たった。嫌だ、いや…

     その時だった。

     窓ガラスが割れる音が鳴り響く。

     と同時に、外の冷気が雪崩のように部屋に入ってきた。

    「なん、何だ? 何が起こった?」

     割れた窓の方を見ると、驚いた顔の芸人がスコップを持ったまま立ち尽くしている。

    「何やってる? 邪魔をするな!」

     抑え込んでいた力が緩んだ。私は思い切り体を捻ってその手をすり抜けた。

    「ちょ、待て!」

    「おい、何だこれ」

     聞き慣れた声に振り向くと、陸が立っていた。

    「陸くん!」

    「やったのはそいつか?」

     下半身丸出しの富田を指差した。

    「マモルくんは、タカヨシが刺した。でも、最後に手を出したのはそいつ」

    「で、また懲りもせずお前を襲ったんだな?」

     安心からか、涙が溢れて返事ができなくなった。

    「とんでもねえことやりやがって。変態、殺してやるよ」

    「うるさい! ささささ刺すぞ!」

     富田が震える手でナイフを陸に向けた。

    「おう刺してみろよ、馬鹿が」

     陸は躊躇なくこっちに向かって歩き出す。

    「うぅぅうぁっぁ」

     うめき声を上げながら富田が向かっていった。

    ナイフを持った手を大きく振り上げて…

    あっという間に真後ろに倒れ込んだ。

    富田が鼻から大量の出血をしている。

    「おい、立て」

     陸が屈んで近寄ったその時だった。

    「やめろおおお!」

     富田が陸の耳を握り、思い切り何かを引っ張った。

    「痛っ! てめえ!」

     右耳から鮮血がこぼれ落ちる。ピアスが引きちぎられたのだ。

     しかし抵抗は一瞬、そこからは一方的だった。

    馬乗りになった陸が、何発も拳を振り下ろす。目の前で倒れている富田の顔面があっという間に真っ赤に染まった。

    「傷になったらどうすんだよ変態。引きちぎりやがって、痛え」

    陸が手から離れたバタフライナイフを拾いながら言った。

    「寧々、怪我は?」

    「大丈夫。ありがと」

     丸出しで倒れ込んでいる富田を見て、殺意が湧いてくる。あと少しであの汚いモノが体に入ってくるところだった。

     陸は血の海の真ん中で死んでいるマモルに手を合わせていた。

    この二人はいつも一緒だった、彼らの仲間意識はとても強い。特にこの二人は小学校からの幼馴染だったはずだ。

    「…電話くれなかったら、気づかんかった」

    「うん、窓ガラス割るふりして投げたの。電話切れなくてよかった」

     あの時、マモルの携帯を取って、リダイヤルですぐに陸へ電話した。そもそも窓ガラスを割るなんてできるわけがない。

    「刺したのは、タカヨシ?」

    「うん、首に」

     彼は首にナイフが刺さっていたのを気づいていなかった。血が噴き出した時、ゆっくりと倒れていく姿は一生忘れることができないだろう。

    「…マモルくん、多分そんなに苦しまなかったよ、わかってなかったもん」

    「そうか、よかった」

     陸はタカヨシの死体を見つめながらゆっくりと喋り出した。

    「なあ寧々、お前の母ちゃんもマモルもタカヨシも、こいつが殺したようなもんだ。そう思わねえか?」

    「…うん」

    「これから俺がやること、死ぬまで秘密にしておいてくれ」

    「わかってる」

     誰もやらないのなら、私がやるつもりだった。

    「おい、芸人! こっちこい」

    「…はい…」

     窓から健太が顔を出した。なんで逃げないんだろう、と思ったが、車に乗せたままの死体を思い出した。

    「オッサン縛ってくれ。後ろ手にな。そしたらさっきの穴に運んでくれ」

    「え、オレ一人でですか?」

    「うるせえな、俺もやるよ」

     陸は血だらけのマモルを抱き上げた。彼の服が一気に血で染まる。

    「寧々はどうする? ここにいてもいいぞ」

    「ううん、ちゃんと最後まで見る」

    「わかった、すぐ戻るから一旦待っててくれ」

     陸はマモルくんを、健太は富田をおんぶして、外へと歩いていく。部屋は静かになり、顔面が潰れたタカヨシと二人きりになった。

     学校では弱いものを虐めるくせに、私たちの前では大人しくなる小心者で、陸やマモルの手下みたいなイメージしかなかったのに、いくらお金を提示されたかわからないけど、人を刺せるなんて思わなかった。

     女々しくて、卑怯者だったこの男も、今ではただの物体となった。

     生きるって何だろう。ふと考える。

    母親が帰ってこなくなって、それだと生活費がないから富田から取り立てようとしただけなのに、母親は死んで、同級生も死んだ。そしてこれから死ぬ人間もいる。

     簡単に人は人を殺せるし、自分を守るためなら何だってする。富田は今の地位を、こっちはこれからの生活を守るためだった。そしてこれから死ぬのはアイツだ。

    「行こうか」

     陸が戻ってきて、潰れたタカヨシを抱き上げた。

    「芸人さんは?」

    「先に車の死体を運んでるよ」

     一緒に表に出ると、引っ掻かれたような寒さが全身を襲ってくる。

    「すぐに終わらせるからよ。渋谷に戻ろうぜ」

    「…巻き込んでごめんね、お金もどうにもならなそうだし」

    「いいよ、金はもう」

     林の中は驚くくらい暗い。生まれて初めて経験する闇だった。陸が照らす懐中電灯の光が、足元だけを照らしている。

     少し歩いた場所に、もう一つの明かりが見えた。

     健太が屈んでいる。

    「芸人、さっさとその死体穴に落とせよ」

    「いやぁ、すみません。何となく」

     名残惜しそうに死体の横で佇んでいる姿を見て、陸がため息をついた。

    「お前が恥かかせろなんて言わなきゃ、こんな事にはなってねえんだよ」

    「…ですね」

     そこには穴が空いていた。その前には富田が下半身丸出しで正座している。

     中にはマモルが横たわっていた。陸がその死体の横に、タカヨシを投げ入れた。

    「さて、じゃあさっさとやるか。オッサン、念のために聞くけどよ、キャッシュカードの暗証番号は?」

    「教えたら助けてくれるのか?」

    「いいや」

     富田が一瞬希望を抱いたのが、見ていて情けなかった。あれだけのことをやっといて、それでも助かりたいのだ。

    「教えるもんか、それにお前らはすぐに捕まるぞ」

    「捕まるのはお前だろ? まあ死ぬから関係ねえか」

    「馬鹿か、あのアパートにはお前らの指紋だってあるんだぞ? 時間の問題だ」

     考えもしなかった。確かにそうだ。

    「確かに。そうだ、別荘で脱いだお前のブリーフでも置いとこうか、そしたら——」

    「聞いてくれ! 助けてくれたら手を打とう、大金を渡す。どうだ? それで手を打たないか?」

     富田が気色悪い笑みを浮かべた。邪悪とはこういう人物を指すのだ。

    「もういいよお前、仲間殺したくせに」

    「僕は何もやってない! アイツらが勝手にやったんだ!」

    「嘘つくな! 全部アンタのせいでしょ!」

    「うるさい! 馬鹿な女の馬鹿な娘が! お前らみたいな——」

     富田がいい終わる前に、陸が顔面を蹴飛ばした。

    「あー、もういい。喋んな。な?」

     蹴り上げるたびに、面白いように女のような叫び声をあげた。その横で震えながら健太が圧倒されている。

    「やめて、やめて!」

    「寧々、もういいな?」

     私は頷いた。こんなおぞましい生き物は二度と見たくない。

    「…ゆ、許して…許して。お金あげるから」

     富田が泣きながら陸の足元に絡みついた。

    「触んな」

     陸が足を振り解き後頭部に向かって振り下ろした。

     その時だった。

     ガンッ

     びっくりするくらいの鈍い音が闇の中に響いた。

     スローモーションのように、陸が前のめりで穴に落ちていく。

     富田も、芸人も、そして私も金縛りにあったように体が固まった。

     目の前にスコップを持った全裸の男が立っている。

     三葉だった。

     13 健太 03:13

     一体何をやっているのだろう。

     自分が掘った穴を見つめながら、ぼんやりと考えていた。

     中には金髪で大柄な、確かマモルという男が寝ている。いや、死んでいるから寝ているという表現は変なのか?

     穴の前には下半身丸出しのオヤジ。聞けばあの作家、富田甚一らしい。

     そして横たわる三葉。真っ裸でスター性など皆無だ。

     リクたちに捕まってから、怒涛の時間が過ぎていった。アパートでは腐った女の死体を見せられ、さっきは凄惨な殺人現場の真ん中で、富田が殴り飛ばされた。

     そしてこれから殺されるそうだ。

     どこか麻痺している部分がある。正直考えないようにしていたことがあった。

     オレは、助かるのか?

     富田甚一が死んだら、生きているのはあのコギャルとリク、そしてオレだけだ。生かすメリットはあるのか? 考えろ、いや、考えたらすぐに答えが出てしまう。

     多分、最後に殺される。

     さっきもそうだが、車で逃げようと何度も考えたが、鍵はリクが持っているし、歩いて一人で逃げたところで、三葉の死体がある。逃げても今度は警察に追われるだけだ、処分しなければいけない。

     でも、そうすることによってこれから殺される。持っているナイフで刺されるのか、それとも殴り殺されるのか、どっちも嫌だ。

    「芸人、さっさとその死体穴に落とせよ」

     気がつくと、後ろに潰れた顔のチンピラを背負っているリクと、コギャルが立っていた。

    「いやぁ、すみません。何となく」

     どうしよう、戦ってみるか? もしかしたら…。いや、無理だ。

     圧倒的な暴力をいくつも見せられた。そのどれもが想像を超えており、自分が立ち入る世界ではない、すぐに殴り飛ばされて終わりだ。

    「お前が恥かかせろなんて言わなきゃ、こんな事にはなってねえんだよ」

    「…ですね」

     リクが穴の前に立った。いよいよ始まる、まずは富田だろう。

     性懲りも無く、命乞いを始めたオヤジを見て、痛いほど気持ちがよくわかった。誰も死にたくなんてない、オレだって助かりたい。でも逃げる場所もない。

    「あのアパートにはお前らの指紋だってあるんだぞ? 時間の問題だ」

     富田が苦し紛れに吐いた言葉に固まった。ちょっと待てよ? 玄関のドアを開けたのはオレじゃなかったか? 中で何か触らなかったっけ?

    「確かに。そうだ、別荘で脱いだお前のブリーフでも置いとこうか、そしたら——」

    「聞いてくれ! 助けてくれたら手を打とう、大金を渡す。どうだ? それで手を打たないか?」

     必死に頭を土に擦る富田、もう無理だって。

     きっと天罰が降ったのだ。オレも、富田も。詳しい事情は知らないが、調子に乗って欲をかいたから、こうやって殺されるのだ。

     富田が顔面を蹴られた。躊躇ない暴力にある種惚れ惚れする。これからああやってなぶり殺されるんだろうな、あの世で笑ってくれよ、三葉——。

     …。

     ……。

     ……?

     いない。

     いるはずの場所に、死体がなかった。

     そんなはずは…。

     突然、視界に肌色の物体が現れた。

     それはスコップを握った…三葉だった。

     ガンッ

     鈍くも甲高い音が鳴り響いた。

     同時に、ゆっくりと穴の中に落ちていくリク。

     オレはただただ呆然とその状況を見つめている。

    「何、どういうこと?」

     コギャルが三葉を見つめている。

     オレも一緒に見つめている。

     …何で?

    「ど、どうだ! この野郎!」

     三葉が穴の中に向かって叫んだ。

    「…お前、大丈夫か?」

    「え、うん、少しふらつくけど平気。それよりもありがとう、健太」

     え?

    ありがとう?

    「君はこいつらの仲間?」

     返事をしない、コギャルがあからさまに警戒している。

    「…あれ、この人、作家の富田甚一じゃない?」

     三葉が気絶している富田を見下ろしている。

    「おい、あんた大丈夫か?」

     上着を激しく揺する、その度に揺れる丸出しの下半身が極めて情けない。ボタンが千切れるくらい揺らしていると、やっと目を開いた。

    「…ん、あれ?」

     富田がゆっくりと立ち上がった。

    「アイツは?」

    「そこです」

     オレは穴を指差した。

    「一体何が起きたんだ?」

    「えっと、いろいろありまして…」

     説明する前に、富田が真っ裸の三葉の存在に気がついた。

    「うわあああああっっ」

    「あ、えっと、落ち着いて——」

     その時、真横からコギャルが飛び出した。

     手にはナイフを握っている。

    「痛っっ」

     富田がナイフを手のひらで受け止める。あっという間に鮮血が噴き出した。

    「死ね! いつまで生き残ってんだよ!」

     甲高い声だが、鬼気迫る声だった。

    「ひゃああああやめてくれ!」

     富田は尻丸出しで林の奥へと走り出す。その後ろをコギャルがものすごい形相で追いかけていく。

     そして…。

     死んだはずの三葉が残された。

    「あ、あの…」

    「今だ! 逃げよう健太」

     ふらつきながら三葉がオレに近寄ってきた。

    「う、うん。あ、車の鍵取らないと」

     穴の中でピクリともしないリクのポケットを探ると、タバコと共にハイエースの鍵が出てきた。

    「よし、行こう健太」

    「う、うん」

     暗闇の中を懐中電灯で照らしながら歩く。隣にいるのは幽霊じゃないよな?

    「あのさ…、大丈夫か?」

    「うん、とりあえずは」

    「ずっと起きてたの?」

    「いや、気がついたら地べたに寝ててさ、寒くてついさっき目が覚めたんだ。起きあがろうとしたんだけど、何やら物騒な声がしてね。すぐに思い出したんだ、さっき渋谷で追いかけてきた奴だって」

     話しながらも不思議な気分だった。何で普通にオレと話せる?

    「渋谷で逃げてる時、助けようとしてくれてたよな? ゴミに隠れて」

     は?

    「見たんだ、逃げる時に隠れてるところ、でもその後の記憶がなくて。気がついたらこんな山の中でさ。山の中だよな? ここ」

     気づいてない、とか?

    「あれから一体何があったの? それにあの穴の中…」

    「うん…いや、うん。そうなんだ」

     我ながら意味がわからない事を口走った。

    「えっと、そう、助けようとしたんだけど、逆に捕まっちゃってさ。オレも殴られてよく覚えてないんだ」

    「そうか、巻き込んでごめん。でもどうして助けようとしてくれたの?」

     ハイエースに乗り込みながら、三葉が言った。

    「…同期じゃん」

     きっとまともな死に方はしないだろう。それでもいい、切り抜けて普通の生活に戻りたい。

    「健太…」

     三葉の目から涙がポロポロと流れ出した。

    「あのさあ、な、何でアイツらに追いかけられてたの?」

    「わかんないんだ、突然絡まれてさ、訳がわからないまま裸にされて、そして記憶が飛んだんだ」

    「そうか、とりあえずさっさと山を降りよう」

    「待って、富田さんは? あの人のファンなんだけど。それにあのギャルは何なの?」

     説明が非常に面倒くさい。そもそも説明しようがない。

    「降りながらゆっくり話すよ。とりあえず痴情のもつれに巻き込まれた、みたいな?」

    「わかった、少し横になっていい?」

     オレが頷くよりも先に、三葉は目を閉じた。一瞬死んだのかと思ったが、息はちゃんとしている。

     箱根の山を降りながら、徐々に実感してきた。

    なんか助かったよな?

    しかも感謝までされている。しかしなんて日だ、わずか数時間でこれまで経験したことのない時間を過ごしてしまった。

     リクは死んだだろうか? いや、確認していないが呼吸はしていた気がする。それよりもコギャルは富田を殺したのか? 

    …もうどうでもいい。関わりたくない。

    渋谷に帰ったら、心を入れ替えてもう一度芸人を頑張ろうと思う。

    側道に積もる雪を見ながら、自分のこれまでの怠惰を後悔した。

    14 富田 03:20

     痺れるような痛みが手のひらを覆った。

    なんてことをしやがる、作家の手を傷つけるなんて。息が切れそうになりながらも、真っ暗闇を走る。

    「待て!」

     甲高い叫び声が懐中電灯越しに後ろから聞こえてくる。さっきまでの冷静な寧々はどこかへ消えた。今は母親と同じ狂った何かだ。

     林の木の裏で息を整える、殺されてたまるか。

     この数時間何度も殴られた、でも切り抜けたじゃないか。

    偉そうに見下したあのガキたちもあの女も結局死んだ、あとは僕が生き残ればいい。そうだ、家に帰れたら、知り合いを通じてヤクザに話を通してみよう。僕だってそれくらいの繋がりはある。だって富田甚一だぞ? 一流ミステリー作家だ。あのバカ女の腐乱死体だって、人に当たれば隠してくれる人間はいるはずだし、別荘の死体はゆっくりと隠せばいい。

    金ならあるのだ、どうにだってできる。金が全てだ。

    林の中の暗闇はどんどん濃くなっている気がする、足元を気にしながら一生懸命前に進んだ。

     そういえば、あの訳のわからない芸人二人は? そもそも一人は死んでいたんじゃないのか?

    …今は考えても仕方ない、とにかく逃げないと。

    「出てこい変態! 逃げるな!」

     懐中電灯の灯り越しに、寧々の顔が浮かび上がる。さっきまでの無感情な子供ではなく、鬼のような形相の女が立っていた。

    「逃げるな! 出てこい!」

     そこら中の草に向かってナイフを振り回している。やばすぎる、あんな女に興奮していたのか僕は。

     ゆっくりと隠れていた木から離れようとした時だった。

     バキッ

     ホラー映画のようなお決まりな展開が、自分の身に起こるとは思わなかった。

     寧々がこっちを振り向いた。

    「逃げるな変態!」

     ナイフを握った手を振り上げるその姿に恐怖で尻餅をついてしまった。

    「うわぁぁああ!」

     ダメだ、殺される!

     振り向き、転がりながら走る。

     転倒した時に何処かを切ったような気がする。

     股間はすっかり自分の小便で濡れていた。

     逃げなきゃ!

     後ろから寧々の叫び声が聞こえる。

     逃げなきゃ!

     僕は富田甚一だぞ、あの有名作家だ! 逃げなきゃ!

     僕は富——

     一瞬、体がとんでもなく軽くなった。

    まるで空を飛んでいるような…。

     長い浮遊感が体を包みこむ。

    闇の中を、ゆっくりと——

    15 陸 03:22

     目を開いたと同時に、後頭部に鋭い痛みが走る。訳もわからず、立ちあがろうとすると柔らかい感触が手のひらに感じた。

     目をうっすらと開いたマモルだった。

     俺は、確か…富田だ! なぜ自分が穴に落ちているのかわからないまま、泥にまみれながら上に上がる。

     懐中電灯が無くなっている。真っ暗闇の中、必死で目を凝らした。

     寧々も富田も、芸人もいない、一体何が起きてるんだ?

     吐き気が襲ってくる。思わず俺は穴に吐いてしまった。

    「悪ぃな」

     マモルには少し、ほとんどのゲロがタカヨシの潰れた顔にかかっている。

     ん?

     三葉の死体がない。そういえば穴に捨てた覚えもなかった。

     その時、遠くで誰かの声が聞こえた。集中して耳を澄ます。

    ——うわぁぁああ!

     男の叫び声が聞こえた。目を凝らすと、向こうにうっすらと灯りが見える。俺は足元に気をつけながら走った。

    「どこよ! 出てきなさいよ!」

     寧々の声だ、無事のようだ。

    「寧々!」

     振り向いた顔にゾッとした。目をむき出しで、バタフライナイフを振り上げた姿は知っている寧々ではなかった。

    「…ねえ! 富田逃げたの!」

    「落ち着け、寧々」

    「この辺に隠れてるって! 探してよ早く!」

     ダメだ、話せる状態じゃない。

    「わかった。探すよ、落ち着いたら何が起きてるか教えてくれ」

    「逃げちゃうから! 早くして!」

     懐中電灯を光らせる方角へ一緒に歩いた。耳を澄ますがどこからも音はしない。聞こえてくるのは目の前を歩く寧々の激しい息遣いだけだ。

     頭のコブを抑えながら考える。あの時、目の前には富田が座っていて、横には寧々と芸人がいたはずだ。じゃあ誰が俺の頭を叩いた。

     他には誰もいないはずだ。それとも誰かこの辺に住んでいるやつか? そんなわけがない。何より三葉が消えた意味がわからない。

    「出てきなさいよっ!」

     寧々が暗闇に向かって叫んだ時だった。

    「危ねえ! ストップ!」

     反射神経的に叫んだ。

     足元を照らす懐中電灯が、そこにあるはずの地面を照らしていなかった。

    「おい、後ろに来い、そこ崖」

    「ひっ」

     寧々が慌てて後ろに倒れ込んできた。俺はその手から懐中電灯を取り上げる。

    「危ねえ…」

     その闇を光で照らす。

     何も見えなかった。灯りがどこまで飛んでいるかわからないくらい、闇は果てしなく続いている。

    「陸くん、大丈夫?」

     寧々の表情が元に戻っていた。

    「おう、平気か?」

    「うん、すごく頭にきちゃって、殺してやろうって」

    「富田を?」

    「そう」

     もう一度目の前に広がる闇を覗く。そのうち思わず飲み込まれそうな感覚に陥ってくる。

    「とりあえず戻ろう、富田だって懐中電灯持ってねえんだ、動けねえよ」

    「…うん」

     遠くにかすかに見える光と懐中電灯を頼りに、別荘の方へと歩き出した。

    「全然覚えてねえんだけど、俺って殴られたの?」

    「…そう! あのなんだっけ、芸人」

    「健太ってやつ? だって横に——」

    「ううん、死体の方」

    「…は?」

     死体が起き上がって殴るわけがない。

    てことは…。

    「生きてたのか?」

    「わかんない、あの健太って人もびっくりしてた」

    「その後は?」

    「気絶した富田を起こしてた。それを見てこいつだけは殺してやるって思ったの」

    「じゃあ、あの芸人二人は?」

    「ごめん、わかんない」

     舌打ちが出そうになるのを我慢する。あの場所にいなかった、てことは——

     ポケットに手を入れるが、車の鍵がない。

    「急ぐぞ」

     寧々の手を握り、走った。

     思った通りだった、別荘の前に停めた車がない。

    「クソが、マジかよ…」

    「車、盗られたってこと?」

     バカ女過ぎる。どう考えても富田なんて追いかけないで、あの二人を足止めしておくべきだった。ここまで感情的な女だとは思わなかった。

    「どうする? 歩いて降りる?」

    「ちょっと部屋の中漁ってくる。金を少し置いてあるって言ってたろ? 来る途中にコンビニあったからさ、そこでタクシー呼べないか聞いてみるしかねえな」

     別荘に戻ると強烈な血の匂いが充満していた。マモルとタカヨシの鮮血が床の上で固まっていた。俺と寧々は手分けして部屋を一つずつ調べていく。途中、ダサいTシャツがあったので着替えることにした。こんな格好で街に戻ったら一発でアウトだ。

     十分後、再び一階に集まり、お互いの戦利品を見せる。俺は数千円分の小銭と、ストーブ用の灯油が数缶、自転車の鍵っぽいものを発見した。

    「寧々は?」

    「これ」

     手には小さな金庫を持っている。部屋には鍵っぽいものは見当たらなかった。

    「こんな小さいなら壊せそうだな、貸してみ」

     金庫を受け取り、壁に何度も投げ飛ばした。わずか五回ほどで開閉した金庫の中には、十数万円の現金と、コンドームが入っていた。

    「マジで気持ち悪いなああいつ」

    「なんかさあ、色々ごめんね」

     寧々が素直に謝ってきた。遅いんだよ今更、みんな死んじまった。と攻めたところで、何も変わらない。今は二人で下山して、色々考えないといけない。

     その前にやることがある。

    「マモルたちを埋めてくる。十分待って」

    「手伝おうか?」

    「平気」

     正直一人になりたかった。一晩でいろんなものを無くしたような気がする。仲間も居場所も、車も金も何もかも。

    「逃げるしかねえよな、もう」

     穴の下で横たわる仲間の死骸を見ながら、覚悟を決めた。

    もうそれしか方法が思いつかない。

    結局俺は誰も殺してない、むしろ全員あの富田が殺したようなものだ。それでも少年院、運が悪けりゃ刑務所行きだろう。冗談じゃない、二十歳前に終わってたまるか。

    あっという間に穴は埋まった、掘るのは大変、埋めるのは簡単ってやつだ。

    しかしあの変態小説家はこの闇の中、一体どこに逃げたんだ? どちらにしろ捕まるだろうに。

    別荘に戻ると、寧々が上着をどこからか用意してくれていた。

    「降りるまで寒いかなと思って」

    「おう、悪ぃな。ところでここ、燃やそうぜ。血やら指紋やらたくさん残ってるしよ」

    「どうやって?」

    「二階に灯油がたくさんあったんだ」

     見様見真似で建物の周りをぐるっと灯油で囲んだ。お気に入りだった血だらけの上着に火をつけ、ロッジに向かって投げつける。

     ゆっくりと、煙が立ち、数分も待たないうちにオレンジ色の炎が辺りを包む。

     踊るような火を見ながら、なんとなくて手を握り合った。

    でももう興奮はしない、さっき見た狂った顔がちらつくからだ。

     緩やかな坂を降りながらこれからの話をした。

     答えなんて出るはずはないのに。

    エピローグ 2024年 8月9日

      然りとて・健太

    「お疲れ様でした!」

     今日も滞りなく、面白い番組を作り終えた。

     若手漫才師たちが笑顔で駆け寄ってくる。

     簡単なアドバイスをしつつ、スタッフにも挨拶して回った。

    「お疲れ様でした、次はYMMテレビのスタジオです」

    「ちょっと一服してからでいい?」

    「構いませんよ」

     今年一年目の新人女性マネージャーは一生懸命やってくれている。慣れないながらも時間をちゃんと守り、気配りも欠かさない。
     そろそろ年齢的に後進に仕事を譲るべきだろう。自分でも遅咲きながら成功できたことを示し、お笑い界で一定の役割を担えたと思っている。
     レギュラー七本、そのうち月曜から金曜の帯番組があり、ラジオに限ってはもう二十年以上続いている。最近は体力も落ちてきて、妻とも話し合った結果、仕事を半分以下に減らし、余生を楽しむことに決めた。
     結局、本名の三浦健太ではなく、前のコンビ名を冠に掲げたのは、こだわりでもあるし戒めでもある。どうしようもなかった自分を忘れず、人を裏切らず、恥じない芸人を送り出すために。

     喫煙所に行くと、お昼のワイドショーでコメンテータをやっている三葉が煙を燻らせていた。

    「おお! お疲れさま、これからかい?」

    「やあ健太、相変わらず忙しそうだな」

     会うたびに必ず握手をする。いつからそうなったのか。

     そう、あの夜からだ。

    二十年以上前の話なのに、今でも鮮明に思い出すことができる。

     当時のオレは最低だった。卑屈の塊で、お笑いで目が出ない自分を世間のせいにしていた。そして妬みが最高潮まで達して、渋谷にいたカラーギャングのような連中にリンチを依頼したのだ。

     渋谷の人混みで軽くこづくくらいを想像していたのに、蓋を開けてみればメチャクチャな事態に発展してしまった。チンピラからコギャル、なぜか小説家まで巻き込み、あのアパートでのちに話題になる死体を見てしまった。

     今でも思い出すと混乱してしまう。あの日の本質がうまく捉えられないのだ。三葉を嵌めた事、アパートでの一件、そして箱根の山での殺人。大した人間ではなかった自分には、全てを受け止めることは無理だった。

     そんな中、死んだと思っていた三葉が目を覚まし、チンピラのリーダーをスコップで殴るという超展開により、二人は逃げ出すことができたのだ。

     三葉は何度もオレにお礼を言ってきた。奇跡が起きたのだと本気で思ったが、実際は頭を強く打ち、五時間ほど気絶していただけだったのだ。

     帰りの車の中で、いろんな話をした。その中で最も衝撃的だったのが、過去に渋谷で三葉に無視をされた話をすると、それはあいつの優しさだった事がわかったことだ。今は解散しているワーレコの相方、野田に話しかけられた際にピンクチラシを握っていたオレに気づいた三葉は、群がっていたファンにその姿を見られないよう、急いでその場を離れたそうだ。アイツはいつだって応援してくれていた、這い上がってくることを本気で待っていたらしい。

     オレは泣いてしまった。

     感動したからではなく、自分のあまりの情けなさに。妬んでばかりで同時の親友の優しさに気づかなかったのだから。

     結局、三葉との話し合いで、警察には行かず、あの夜のことは全て忘れてしまおうということになった。死体の事もだが、あの時小説家の富田甚一が逃げ出してしまい、現在も行方不明になっている事がでかい。

     コギャルに切り付けられた富田が、下半身丸出しで林の奥に飛び込んだのは今でも忘れられない。今でもあのまま殺され、あの山に埋められていると思っている。

     とにかく、あの晩、三葉を嵌めようとした事は、永遠の闇へ葬られたのだ。

     下山した次の日から、再びお笑いと向き合った。それまでにやっていた一人漫談から、フリップを使った芸に切り替え、一生懸命舞台に立ち続けた。そんな生活を二年も続けるうち、気がつけばテレビにもちょくちょくと顔を出せるようになり、今目の前でタバコを吸っている三葉の力添えもあり、お茶の間に顔が売れるようになったのだ。

    「なあ健太、また飲み行かないか、そろそろ」

    「いいね、確認して連絡するよ。そういえば、野田は元気かい?」

    「ああ、いきなり引退するって言い出したかと思えば、飲食業界だもん。でも美味しいらしいよ、野田の店」

    「へー、名古屋だよな? あいつの地元。今度一緒に行かないか?」

    「行こう! きっと喜ぶよあいつも」

    「じゃあ行くよ、連絡する」

     別れる際ももちろん握手だ。あと四年で還暦とお互いすっかり歳をとってしまったけど、若手を導くタレントでありたいと思う。

     テレビ局の前に移動すると、すでにマネージャーがタクシーの前に待っていた。

    「お待たせ、行こうか」

    「はい、ところで健太さん」

     タクシーに乗り込むと、マネージャーの声が小さくなった。

    「本社に警察が来ているみたいなんです、健太さんに用があるって」

    「警察?」

    「明神ヶ岳の件だそうで」

     みょうじん?

    「箱根の山らしいんですけど」

     心臓が激しく一発鳴った。

    「…箱根?」

    「なんでしょうね、急ぎの用事みたいでYMMテレビの方に来るみたいですよ」

     心臓が体の中で大暴れしているかのように、何発も大きな音でなっている。身体中が一気に冷え出した。

    「健太さん? 大丈夫ですか?」

     タクシーはスムーズに首都高速に乗った、汐留のスタジオまではすぐだ。

    どうすればいい? 

    一体なんの話だ? 

    あの時の話じゃないよな? 

    だって二十年以上…。

    「…で、今日のこの後の予定なんですけど、健太さん?」

    遠くでマネージャーの柔らかい声が聞こえた、ような気がした。

    元村陸

     世の中には、悪い事をやっても平然と生きている連中がたくさんいる。はっきり言って、捕まった奴らよりもはるかに多いだろう。知り合いにだってなんらかの不正に手を染めている連中もいるし、後援している政治家にはそれなりの金を渡して優先的にうちのグループに仕事を回してもらっている。

     世の中は持ちつ持たれつで、悪い事という定義は貧乏人が決めているものだと、この地位に上り詰めるまでに気づいたことだ。

     父親の代までの元村は、小さい会社ながらも売上好調で、主に輸入雑貨を扱っていた。それをここまで巨大にしたのは、紛れもなくこの俺だ。

     さっきのテレビ番組のインタビューでも答えたが、渡米した場所があの最王手企業のお膝元だったワシントンなのも大きい。その会社は自宅ガレージから始まった小さなオンライン書店だった。今では知らない人間はいないほどのモンスター企業だが、俺はその企業の大きくなっていく流れを、同じ街で見る事ができた。

     そのやり口を日本風にアレンジし、最初はアメリカからの輸入、その後は逆の発想で日本のものを海外に輸出するスタンスに切り替える。

     今でこそ当たり前なネットでの買い物は、当時は知る人ぞ知る、そんなものだった。

     あの時、大きな時流を感じる事ができたおかげで今の元村グループがある。

     そう、あの夜から逃げ出したおかげだ。

    「あなたの少年時代はこちらで把握しております。おそらくその時期と重なるんじゃないでしょうか」

     目の前に座る中年刑事は、紳士的かつ落ち着いた声で接してくれている。

    あの夜、渋谷に戻ってすぐに家に帰り、父と話した。もちろん全てを話したわけじゃないが、取り合えしのつかない出来事が起きていると理解し、すぐに留学という形で海外に行く事になった。いくつかの候補の中で、唯一のアメリカだったワシントンを選び、そこでやっと真人間になれたのだ。

    「弁護士が来るまではお話しできません」

    「おっしゃる通りです。あくまでこれは私の質問で、あなたが答える必要はない」

     おそらくマモルとタカヨシの死体が見つかったのだ、だからこうやって任意聴取されている。というよりも、逮捕する気なのだろう。

    「あなたが日本を離れたのは一九九七年の三月でしたね。その当時、渋谷ではいくつかの事件が起きました。お分かりになりますか?」

    「……」

    「一つは神泉駅近くのアパートで起きた事件です。当時はエリートOL殺人事件と世間は騒ぎましたね。それともう一つ、作家の富田甚一が行方不明になった事件です」

     脳みその深淵に追いやった、おぞましい記憶が蘇る。

    そうだ、あの夜、あの場所で俺は女の死体を見た。それを殺したのは、あの変態オヤジだ。

    「あの事件近辺でね、あなたはワシントンへ留学している。当時私は渋谷署の少年課にいましてね、あなたたちカバーズの事はずっとマークしていたんですよ。というよりも逮捕の準備を進めていた。しかし立派になられましたねえ」

     言葉は柔らかいが、中年刑事の目線が鋭くなっている。

    「あの年は忘れられない、マークしていた少年たちのうち、三人が消え、有名出版社の編集者、丸山早苗が殺され、同時に担当していた有名作家が消えた。署をあげて捜査しましたよ。その時私たちは別件であなたたちを探していたんです。覚えていますかな? あの夜あなたたちは一人のサラリーマンを殴っています。何やら芸人さんを揶揄っていたとか。かわいそうにあのサラリーマンはあれからずっと杖をついています」

     芸人、サラリーマン、あの夜の忘れていた記憶が湯水のように頭の中に溢れてくる。

    「ちなみにね、妙なところからあなたたちの指紋が出ていたんですよ当時。どこかわかりますか? 殺人現場のアパートと富田の家からなんです」

    「弁護士が来てからにしてください」

    「黙ってきけ」

     中年刑事の態度が変わった。

    「私たちは全部の事件が繋がっているという仮説を立てました。しかしあなたたちが富田と丸山早苗を殺す動機がない、そこでもう一つ、記録のない指紋が二つ出てきた事に目をつけました。その中で富田の家でもアパートでも発見された指紋がありました。後日、その指紋が丸山寧々のものだとわかったんです。もう一つはまあ置いときましょう」

     寧々、綺麗な女だった。今はどこで何をしているのだろうか。

    「しかしね、結局は現場に残っていた証拠で無実のネパール人が逮捕されました。まあ、そんな場所で殺人とは無関係とはいえ女を買ったわけですから、疑われても仕方ないんですが。結局、私たち少年課の意見は蔑ろ、捜査はそこで一旦打ち切られることになりました。同時に街からあなたたちは消えた。中心人物だったあなたと、寺島守が消えたもんだから、あの後あなたのチームは大変だったようですよ? 好き勝手やってきた分、他所から相当やられたみたいでね」

    「……」

    「大丈夫ですか? 顔色悪いですよ? 警察は話題の事件ほど早く解決しないと世間に文句言われますからね。まあ結局、それで勇み足となって、後から叩かれるわけですけど。とにかく、あなたはアメリカ、他の二人は今も行方不明。身内から捜索願が出されているので、今も失踪者扱いです。まあこの二人も一旦置いておきましょう」

    …この刑事の意図が見えない、何が言いたい?

    「明神ヶ岳、と言ってもピンとこないかもしれませんね、要するに箱根の山の中です。そこでね、ハイキングに訪れていた方が発見されたんですよ。最初は人形かと思ったそうです」

     やっぱりあの二人じゃないか。

    「引っかかっていたそうなんです、大木の枝に」

    「…は?」

    「引っかかっていたんですよ」

     何が?

    「雨、風、台風、地震、全ての自然の力に打ち勝ち、何十年に渡り、ひっそりと絡み合った枝に引っかかっていたんですよ、富田が」

    「何をおっしゃっているのか…」

    「私たちもね、静岡県警の報告にびっくりしました。DNA検査の結果、二十七年前に失踪した富田だったんです。当時彼の別荘が近くにありましてね、今は火事で取り壊されたそうですが、そこで何かあったんじゃないかと」

     あの時…アイツは落ちたのだ。

    確かに飲み込まれそうな闇、崖を俺も見た。

    「でね、彼は上着を着ていまして。もちろん検査したそうです。すると、いくつかのDNAが出てきたそうです。まだ説明は必要ですか?」

    「……」

     なんてこった。

     あっちのことかよ。

    「その上着の胸ポケットからね、これが出てきたんです」

     ズキンと耳が痛んだ。目の前に置かれたのは、あの日開けたばかりのピアスだった。

    「あなたのその耳の傷跡、おそらく富田に抵抗されたものじゃないですか? 小説家らしくていいじゃないですか、二十七年越しのダイイングメッセージみたいで」

    「知らない、なんだそれは」

    「おや、喋ってよろしいんですか?」

    「そんなもんは知らない、その富田って男も知らないし、箱根の山なんて知らない」

     目の前がぼやけてきた。あんな昔の、くだらない一夜が今更どうして…。

    「そうですか、それはおかしい。いやね、前に富田の別荘があった近くの雑木林から、白骨死体も出たんですよ、それも二体」

     グラリ、と、目の前の映像が歪んだ。もう全てを知っているんじゃないのか?

    「現在DNA鑑定中ですがね、おそらく寺島と鈴木でしょう。ねえ? 元村さん」

    「……知らん」

    「知らんじゃねえんだよ、富田も鈴木も寺島も、アパートで死んだ丸山早苗も全部お前と丸山寧々がやったんだろうが」

    「違う! 何もやってない!」

     中年刑事が大きくため息をついた。まるでこちらを馬鹿にするように。

    「この男わかるでしょう?」

     目の前に一枚の写真が置かれた。歳を取っていて一瞬わからなかったが、間違いなくアイツだ。

    「然りとて、という漫才コンビを組んでいた三浦健太という男です。今は売れっ子でしてね、テレビで見ない日はない。そんな彼のDNAも上着に残っていたんですよ、当時アパートに残っていたもう一つの指紋も彼のものです。なので先に取り調べたんです、我々は」

     あの日に起きたことがどんどん繋がっていく。あんなしょうもない芸人風情のせいで、元村グループの屋台骨が揺らぎ始めていた。

    「全部話してくれましたよ。小心者なんでしょうな、とにかく、一九九七年の三月十八日から十九日未明にかけて、何が起こったのか大体分かりました」

     ふざけるな…全部俺のせいにしてるってのか、あの男は。

    「主犯は元村さん、あなたで共犯は丸山寧々だ。彼女の母親の恋人だった富田から金をせしめる為にやった犯行で、途中で金で揉めた仲間を殺して、箱根の山に埋めたと。あの芸人はたまたま目撃したため拉致されたと言っていますよ。ずっと犯行の手伝いをさせられたと」

    「違う! 全然違う! 元はと言えばあの男が頼んできたんだ!」

    「何をですか? 聞きましょう」

     中年刑事がニヤリと笑った。

    世の中には、悪い事をやっても平然と生きている連中がたくさんいる。はっきり言って、捕まった奴らよりもはるかに多いだろう。

    捕まる方が間抜けで、その間抜けが俺だ。

     丸山寧々

    「どうして今頃言うのよ、晩御飯の買い物しちゃったじゃない」

    「友達と約束してるの忘れてた! ごめん」

     いつもこうだ。

    社会人一年の娘、菜々は、もうすっかり親離れをしてしまった。小さい頃から甘えん坊で、それは高校を卒業するまで治らなかったのに、働き出してからはすっかり変わってしまった。

    「いいわよ、じゃあお母さん一人で食べとくから」

    「帰ったら食べるから取っといて」

     捨て台詞のように言い放って、バタバタと家を出ていった。朝から寝坊しただの、あれがないこれがないと騒いで、毎日嵐のように去っていく。

     そして一人ぼっちの時間がまた今日も始まった。

     仕事は週に五日、土日がしっかり休める今の言葉で言うならば、ホワイト企業だ。でも休みの日はいつも家でゴロゴロとする日々が続いている。若い頃はあんなにアクティブで、友達もたくさんいた。道を歩けば男性に声をかけられ、読者モデルなんかもやった。

     鏡に映る自分の顔を見て、そんな日々を過ごしていたことが信じられなくなる。目の前で暗い表情を浮かべているのは、すっかりと歳をとった四十六歳の女だ。

    大事な娘も巣立ち、これから何を生きがいにすればいいのか。

    二十二歳でなんとなく妊娠し、一人で産んだ。今風に言うとシングルマザーだ。職場では強い女だと思われている、弱音を吐かず一人でよく育てたと。

     自分では強いつもりはないが、だからといって否定する気にもならない。元々感情的になるような人間ではないし、むしろどこか人生に冷めていた部分があったのだが、あの事件以降、私の心がより深く、闇に潜った。

    要するに弱音の吐き方がわからないのだ。

     あの悪夢のような一夜が明けて、自宅に戻ったのが昼前。

    数時間後、疲れ切って眠っていた私の元に、数人の警官が訪れたのだ。

    ——丸山寧々さんですか? お母さんの件で伺いました。ご同行願えますか?

     逮捕しにきたのだとすぐに気がついた。こんなに早く捕まるのかと。が、実際は違った。

     神妙な顔で刑事が落ち着いて聞きなさいと切り出した。

    母親がどうやら事件に巻き込まれたこと、殺されたこと、そして発見されたアパートのこと、一つ一つ事細かく状況説明をしてくれた上で、丸山家の家族関係など、私自身の事も詳しく聞かれたが、それは形式上のものだった。

     すでに犯人が逮捕されていたのだ。

     殺したのは近くの飲食店で勤務していたネパールの男性だと警察は言う。そんなわけがないことは、一番よく知っている。

    だって殺したのは富田なのだから。

     でも何も言わなかった。バレたら困ることがたくさんあったからだ。結局その男性は十数年の服役後、無罪が確定し出所している。

     私はあの日テープを聴いていた、母が最初に売春した相手が片言の日本語だったことを覚えている、が、その人なのかは定かではない。

     とにかく、あの夜、あの場所で犯されかけて、その後タカヨシと富田は、陸とマモルに殴られた。指紋だって、血痕だって残っているはずなのに。そういった話は一切出ることがなかった。

     死体発見現場、あのアパートのトイレに残されていた、コンドームに付着した精子が決め手となったらしい。

     事件はセンセーショナルに報道された。

     エリートOL殺人事件。

     昼は一流出版社の編集者、夜は渋谷の街角にたち売春するという二面性に食いつき、ワイドショーは好き勝手に有る事無い事を報道した。中には独自で調べたのか、親子仲が悪かったことによる、家族間のいざこざか、と報道までされたのだ。

    あっという間にまともに生きていけなくなった。

    下手に渋谷で目立っていたため、学校内でも渋谷界隈でも噂の対象となり、どこにもいく場所がなくなった私は学校を退学し、渋谷からなるべく離れた場所へと逃げた。

     当時十八歳だった歳を誤魔化し、あんなに馬鹿にしていた夜の仕事に就いた。でもどの場所も同僚とソリが合わず、三ヶ月と経たず店を辞めては、場所を変え再び夜の仕事をする、そんな毎日を二十歳過ぎまで過ごした。

     事件当時、未成年だったことで運よく顔が表に出ることがなかったが、どこから嗅ぎ付けるのか、マスコミは果てしなく追いかけてくる。

     あの女は、自分が死んでからも私に呪いをかけたのだ。心が休まる時間がないまま成人して、精神がどんどん疲弊していった。

     そんな最中、母の事件と同列で報道されていた事件がある。

     富田甚一失踪事件だ。

     母の死体が発見されたのが三月十九日、その前日の十八日未明に、数名の若者の車に拉致されるのを近隣住民が目撃したとの報道が流れた。

     もちろん、私たちのことだ。

     あの日、箱根の山の中で富田を追いかけたのを今でも覚えている。本当に殺してやろうと思ったことも。

     しかし見失った。

     まるで煙のように消えてしまったのだ。結局見つけることができず、それっきりだ。てっきり逃げ切ったものだと思ったが、それ以降あの変態は消えてしまった。

     人気作家の失踪、そして担当編集者があの有名事件の被害者だと言うこともあり、沈静化しつつあった報道が再び加熱。今でもインターネット上では富田犯人説、実の娘犯人説で盛り上がっているそうだ。ちなみに読者モデルだった当時の写真まで公開され、現在も卑猥な内容が多数書き込みされている。

    あの日、陸と何時間もかけて坂を降りた。

    麓のコンビニからタクシーに乗り、箱根の駅から電車で渋谷に戻ったのが朝方だったのを覚えている。彼とはそれっきりだ。

    逃げるように生きて、行き着いた名古屋のスナックで働いていた時、菜々の父親と出会った。そして妊娠を知った日、恐怖で震えた。愛情というものがわからない、そんな自分が妊娠するという恐怖。

    堕ろすことももちろん考えた。というよりもそのつもりだった。しかし、妊娠中に同じ店のボーイだった夫は、あっさりと蒸発。お腹が膨れていく中、仕事にも出れなくなった私は、誰にも支えられず孤独に襲われた。

    ずっと周りに誰かのいた人生から一転、薄暗いアパートの一室で一人お腹が大きくなっていく恐怖が、いつしか生きる希望となった。この子が生まれてくれれば、自分は孤独ではなくなるのだ。

     夜の仕事を辞め、お腹が大きくても大丈夫な仕事を探した。いくつもの会社の面接に落ちる中、一つだけ面倒を見てくれる場所があった。

    それが今勤めている印刷会社だった。

    そこの若い社長夫婦が、境遇に同情してくれて、簡単な作業からスタートさせてもらった。その後子供を産んでからもそこで働き、娘を無事高校まで卒業させることができたのだ。

    進学を希望するならと貯金をしていたが、結局菜々は学生時代からバイトをしていたチェーンの飲食店に就職を決めた。多分、私のことを気遣ってのことだろう。

    今でもたまにあの事件をインターネット上で見かけたりするが、全く的外れな推理がされている、事実は違う、それは私が誰よりも知っている。この事件のことを娘は知らない、生涯知らせるつもりもないし、知る必要はない。

    あの日、あの夜。

    時間にしてたった数時間、でもマモルとタカヨシが死んだ。あの後渋谷も学校も離れたので詳しいことはわからないが、発見されたというニュースが出ていない以上、行方不明扱いになっているのだろう。

    インスタントコーヒーにお湯を入れ、会社から譲ってもらった年代物のソファに座る。休みの時は一人きりで寂しいので、コーヒーを飲みながらぼんやりと一日テレビを見る習慣になっていた。

    朝から騒がしいバラエティ番組が映し出された。

    MCはあの健太だ。今ではすっかり売れっ子芸人となっている。

    あの夜あの場所から逃げ出した芸人二人は、それぞれが成功し普通に冠番組を持っている。テレビで見かけるたびにいつも不思議に感じる。

    どうしてこの二人は警察に話さなかったのか?

    いや、正確なことはわからない。けど、彼らが警察沙汰にならなかった以上、誰にも話していないのだろう。

    何もかもがはっきりしないまま、二十七年前の遠い過去に消えていった。私にとって、あの夜こそが青春の終わった日だったのだ。あの日陸たちに相談しなければ、違う人生が待っていたのだろうか?

    いや、きっとそんなに変わらないだろう。

    母親はあの時点で殺されていたし、もしもあのテープを警察が押収されたら、世間にもっと生々しい事実がばら撒かれていたはずだ。

     今は私が大事に保管している。捨ててもよかったのだが、なんとなく押し入れの中に隠してある。あれは母親の最後の痕跡を示すものだ。あんなおぞましい人間から生まれた私が、娘に同じ思いをさせないための戒めとして、近くに置いている。

    テレビで健太がにこやかに、十時から放送されるニュース番組のメインアナウンサーと中継で挨拶を交わしている。最近はこう言う形式で番組を繋げていくことが多い。

    ——では、明日も笑顔でお会いしましょう。バイバイ!

     健太がにこやかに番組を締めてニュースに切り替わった。今日も誰かの不倫がトップニュースで、そのあとはお決まりの不景気話と、毎日同じ内容が放送されている。

     でもそれでいいのだ。何気ない毎日、平凡に同じような日々が続く中、やっとわかった。それこそが幸せなのだと。

    母親と関係が拗れた時、当時は人の親になんてなれないと思っていた。だが、今では娘のために生きているのだと胸を張って言える。あの娘にこれから先、素敵なパートナーを見つけ、孫が生まれたりするのだろうか? 血のつながった家族がまた増えるのだろうか? 想像するだけでまた生きていける。

    何気ないこの午前中のゆったりした時間が、そう、ぼんやりとテレビを眺めているこのひと時こそが——

    突然、画面に速報が映し出された。

    瞬間、私は息を呑んだ。

     テロップの名前に息を呑む。

    ——元村グループ社長、元村陸容疑者が逮捕。

     話題を変えて、アナウンサーが事件の詳細を話し出した。

    ——今月初め、箱根の山中で、大木の幹に引っかかるように発見された遺体が、二十七年前に失踪したと思われた作家、富田甚一さんだということがわかりました。

    アナウンサーはショッキングな事件だと興奮を隠せないまま原稿を読み上げている。崖から滑落した際、大木の枝に絡まり、そのまま時が過ぎたと喋っている。そんなことがあるのか? とコメンテーターたちや専門家が話している中、頭の中で闇の中の映像がフラッシュバックされる。あの時、私はあの男を殺そうと思っていた。しかし、突然目の前からうっすらと見えていた富田が消えたのだ。

    隠れたのではなく、崖から落ちたのだ。

    そしてその一帯からさらに二体の白骨死体が見つかっているらしい。

     あの夜が大きな足音を立てて近づいてきた。

     画面には、帰国中の陸が逮捕される瞬間の映像へと変わった。彼の顔はテレビやネットでよく見かけていたが、いざ動いている姿を見ると、あの頃の凶暴な陸の面影が一つもなく、年相応の中年となっている。

    ——尚、元村容疑者は同じく二十七年前に発生した、通称、エリートOL殺事件にも関与している模様で、警察は目下当時関わったと思われる関係者への取り調べを開始したとの事です。

    「嘘…なんで」

     忘れたくても忘れられない、憎むべき母親の顔が目の前に現れた、ような気がした。

    逃げられないの…?

    あれからずっと夢見心地だった、どこか自分の人生が第三者の人生のように感じていた。ふわふわと、時間だけが流れていた。

     とめどもなく涙が溢れてくる、数十秒前までの幸せが消えていく。

     その時、携帯電話が着信した。娘の菜々からだった。

    「…はい」

    「お母さん? やっぱり今日仕事終わったらすぐ帰る! 予定無くなっちゃったの」

    「…そう」

    「どうしたの? 泣いてるの?」

    「…ん、いや、大丈…」

     ピンポーン

     玄関のチャイムが鳴った。

    ピンポーン、二回目、ピンポーンピンポーン、鳴り止むことのないチャイム、電話越しの娘の声が遠ざかる。

    「お母さん? チャイム鳴ってない?」

     ピンポーン。

    ピンポーン。

                                           了



     
     
     
    歌謡ロックバンド「フラジール」ボーカル、作詞・作曲家。 昭和歌謡の情緒と90年代J-ROCKの熱量を ルーツに活動する傍ら、小説も執筆。 第43回「横溝ミステリ&ホラー大賞」最終選考に選出。 人間くさい物語に惹かれます。

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