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人類賛歌【創作大賞2026】


    #創作大賞2026 #ホラー小説部門

    あらすじ
    都内の高校で、生徒たちが突然殺し合いを始める異常事件が発生する。唯一の生存者となった宮原玲は、事件の真相を追う中で民族音楽学者・来栖と出会う。調査の結果、事件の背後には人を発狂させる禁断の歌「還歌」の存在が浮かび上がる。その歌は壇ノ浦の戦いの時代から密かに受け継がれ、歴史の裏側で封印され続けてきたものだった。やがて還歌を全国へ拡散した女子高生・亜沙が現れ、日本中、そして世界を暴動の渦へと巻き込んでいく。国会図書館地下に眠る禁書、内閣調査室、宮内庁を巻き込んだ戦いの末、玲は還歌が存在する本当の理由に辿り着く。「人はなぜ歌うのか。」世界を狂わせる一曲を巡る伝奇サスペンス。

    (一)

     東京都立桐谷高等学校。

     学校案内のパンフレットにデカデカと書いてあったキャッチコピーは、育む想像力と満たす行動力。

    全校生徒数は六五〇人弱、男女共学でスポーツの強豪校として有名。特にバレーボールとハンドボールはインターハイの常連で、昨年は女子バレーボール部が全国制覇を果たした。

    だからといって勉学をおろそかにしているかと言えば、そういうわけではない。生徒のどの分野を伸ばしていくか、その辺は生徒の自主性に任せるというスタイルをうたっている。学校の歴史は古く、私、宮原みやはら玲れいが入学したタイミングが創立百周年だった。

    東京のど真ん中に位置する桐谷高等学校、通称キリ高は関東でもなかなかのネームバリューを誇る学校だ。学校の最寄りの駅はJR山手線の田町駅。それよりも地下鉄三田線の芝公園駅の方が校舎に近いので、巣鴨生まれの私はそちらから通っている。

    制服はブレザーでなかなか評判が良い。数ある高校の中からキリ高を受験したのは、制服が可愛かったというのも一つの要因だった。偏差値は六十二、決して悪くはないだろう。

    ちなみに校舎は数年前に建て替えており近代的。他校の友達に羨ましがられるので悪い気はしない。その中でも特に有名なのが体育館だ。都内のスポーツイベント、例えば高体連などの行事にキリ高の体育館が使われる場合が多い。私は文系なのでよくわからないが、最新のトレーニング器具も揃っており、その辺のスポーツジムよりも立派だと噂されている。

    とまあ、この学校に入学できればとても充実した毎日を過ごせる、そう生徒も親も思える信頼ある学校、それが東京都立桐谷高等学校。ちょっとした有名校なのだ。

    ―そんなキリ高でついさっき、たくさんの生徒が殺し合った。

    事件が起きたのは四時間目、初夏というにはまだ肌寒い六月中旬の出来事だった。お昼ご飯まであと二十分ほどだっただろうか。退屈な古文の授業中、廊下より突然騒がしい音が聞こえたのだ。

    廊下の外を走る数人の教師たち、その中の一人が私のクラスに入って来て、授業中だった担任の森山先生に声を掛けると、血相を変えて一緒に飛び出していった。

    「え? 何、何なん?」

    「おい、イベントじゃね?」

    「よっしゃ見に行こうぜ!」

     眠りかけていたクラスが色めきだった、そりゃそうだ、退屈な時間が一転したわけだから。

    「玲、行こうよ私たちも」

     気が付くと、クラスメイトの女子たちも入口に集まっている。

    「え、うん、行こう行こう」

     本音を言えばこのチャンスに机に突っ伏したかった。

    眠るまではいかなくても、目を閉じて少々のまどろみさえ感じられれば大満足だったのだが、みんなの誘いを邪険に扱うわけにもいかない。

    必死に眠気を振り払いながら廊下に出ると、他の教室からも生徒がチャンスとばかりに顔を出している所だった。みんな同じ気持ちなんだなあ、もうすぐランチだし、このまま授業が潰れるなら最高の出来事だ。

     だが実際に起きていた出来事は、私や他の生徒たちの想像を絶するものだった。今思うと、平穏な日常が崩れたのはあの瞬間からで、進路に迷ったり、眠気と戦いながら授業を受けたり、何となく過ごしてきた高校生活はあの瞬間に終わりを告げた。

     三階の音楽室に近づくにつれ聞こえる女子の甲高い叫び声、いつも口うるさい体育教師、嫌われ者の金谷の怒号、何かいつもの日常とは違う雰囲気が三階を包んでいた。

    「何々、どうしたん?」

     私は顔見知りの男子生徒を見つけ声を掛けるが、よくわからないらしく首を振っている。視線を音楽教室へ向けるが、人がごった返しており背伸びをしてもよく見えない。

     何だか思ったよりも大ごとなのかな? 誰かが貧血で倒れたとか、誰かが喧嘩したとか、その程度のイベントを想像していた。

    その時だった。

     目の前の人混みが一斉に動いたのだ。

    男女の叫び声が聞こえ、そして人混みが左右に綺麗に割れていく。

     その真ん中を、一人の女子がゆっくりと歩いて来た。

    全身を真っ赤に染め、足を引きずりながら、右手には…カッターを握っている。ずるずると一歩足を前にやるたびに強烈な臭いが鼻を襲った、女性なら馴染みのある匂いだ。 

    血。

    どんどん近づいてくる女子、その顔を見て、自分の体が一瞬で硬直するのを感じた。

     血だらけでフラフラと歩いてくるのは、親友の水本萌美だったからだ。

    いつもの人懐っこい丸みを帯びた笑顔は消え、虚ろな目線で何かを呟きながらゆっくりと廊下の真ん中を歩いてくる。

     壁に張り付いた生徒たちは恐怖で声を発せなくなっていた。後ろから金谷がいつもの横柄な態度とは違い、萌美を諭すように何やら話しているようだが、その声に反応する事は無く、ずるずると足を引きずりながらまっすぐ進んでいる。

    「萌美、ねえ、大丈夫? どうしたの」

    「宮原! 近づくな!」

     金谷の止める声と呼びかけが重なった。

    すると、ぼんやりと前を向いて歩いていた萌美の視線が、ゆっくりとこちらを向いた。

    「ぅううぁぁぁあああ」

     雄叫び? まるで遠吠えの様な、獣を感じさせる声。少なくとも人間からは今まで聞いた事のない、地の底から響くような声が周りを緊張に陥れた。

    歯が折れそうなほど食いしばり、目を見開くその姿は知っている親友の姿じゃない。

    「ちょっと、萌美‥」

     私は固まってしまった、まったく体が動かない、全身の皮膚がぷつぷつと泡立つ感覚に襲われる。

     目の前でゆっくりとカッターを持った手が振り上げられる、その顔には明確な殺意が浮かんでいた。

    人は死ぬ瞬間に人生が走馬灯のように見える。

    と聞いた事があるが、時間もゆっくりと流れるよう感じるのだろうか? 振り下ろされるカッターの歯が欠けている所までくっきりと見えたのだ。瞬間的に私は諦めた、中学からずっと一緒にいた親友にこれから殺されるんだ。

     不意に―

    萌美の体が横に吹き飛んだ。

    「水本、おい、水本!」

     金谷が飛び掛かっていた。

    その後ろから、担任の森山も一緒になって萌美を押さえつけている。

    「いぃぃぃぁっぁっぁあっぁ」

     立ち尽くす私の目の前で。鮮やかな鮮血が飛び散った。と同時に男のうめき声が聞こえる。振り回したカッターが金谷の手を切り裂いていた。

    「うわっっああああ」

     普段は絶対に見せない金谷の弱々しい姿、それを見た森山が恐怖のあまり抑え込んでいた手を離してしまった。

    体が自由になった萌美は再び立ち上がり、カッターを振り上げ、こちらを見つめる。

    「萌美‥、やめてよ、どうしたの? ねえ!」

     呼びかけに反応しない、そしてもう誰も助けてはくれない、周りは血まみれの同級生の恐怖に支配されていた。

    「ああ、玲‥」

     その時、囁くような声で萌美が言った。

    「うん! そうだよ、どうしたん? 何かされたの?」

     よかった、確かにいつもと同じ声だった。

    「玲‥のね」

    「うん、何?」

     気が付くと涙が流れていた。目の前の萌美にも、そして自分にも。

    ―一瞬だった。

     私は生涯その瞬間を忘れる事はないだろう。

    カッターを喉に当てた萌美は、素早く横に引いた。

    少しの間の後、スローモーションで噴き出す血しぶき、そして後ずさるように開いていた窓まで下がり、そして突然目の前から姿を消した。

    三階の窓から、落ちたのだ。

    視界から消えた瞬間、廊下中の生徒や教師たちの叫び声が響く。

    出血でうずくまる体育教師、窓へと駆け寄る古文教師、私もゆっくりと窓際に近づいた。

    窓の下には、空を見つめる様に両瞼を開いたまま、ありえない方向に曲がる手足を放り投げ、萌美は死んでいた。

    すぐ後ろで叫び声が聞こえる。その声が心から不快だった。

    廊下にはさっき首を切り裂いた萌美の血痕が残っている。そしてその彼女は今、窓の下で死んでいるのだ。あまりにも非現実的な時間の中、叫び声の輪唱に導かれるように、ふらふらと廊下から音楽室の中を覗く。

    そこにはもっと生々しい光景が待っていた。

    血だらけで転がるたくさんの見覚えのある顔、あの子とは帰りの電車が一緒で、何度か話した事があった。あの男子は入学当時一緒のクラスで、少しだけ私に好意を抱いていた筈だ。あの子は、アイツは、あの人は。

    机は倒れ、窓ガラスは割れ、狭い教室内には重なり合うように数十人の制服を着た物体が転がっている。

    「何だよこれ…」

     私の後ろで誰かが言った。本当だ、何だろう、これ。部屋には胃を刺激する強烈な臭いが充満していた。

     見てはいけない、本能が騒いでいるが目を離す事ができない。血だまりの中、人文字でも描いているかのように部屋中に転がる生徒たち。そのどれもが生きていないだろうとすぐにわかる。

    「…何これ」

     思わず声がこぼれたその時、突然教卓の後ろから震える人影が立ち上がった。

    「きゃああ」

     短い叫びが沸き起こる。

    よく見ると、音楽教師の貝塚が呆然と立ち尽くしていた。

    「貝塚先生!」

     森山が駆け寄ると、教卓に突っ伏すように貝塚が倒れ込んだ。

    「先生、無事ですか、何があったんです?」

    「あああ…」

     どうしてこの女だけ生きてるの? どうしてみんな死んでいるんだろう、どうして…萌美は死んじゃったんだろう。ワケがわからない。

    「先生、しっかりしてください」

    「こんな事になるなんて‥」

     貝塚がそう言って泣きだした。

    私は自分でも驚くくらい冷静だった。いや、感覚がマヒしていた。目の前に広がる死体の山、親友の飛び降り、そして我を忘れた教師、あまりにも現実離れした状況に、どんどん頭が冷えていく。後ろでは生徒が泣いている。男も女も。廊下では部屋を覗く事のできない他の教師連中が、生徒に道を開けるよう叫んでいた。もはやどこで誰が叫び声をあげているかなんてわからない。

     ほんの十分前まで、週末に行われる好きな洋服ブランドのサマーセールで何を買うか、少ない小遣いをどう有効利用するか、そんな事を考えながらまどろんでいたのに。

     それからの記憶は曖昧だ。呆然と立ち尽くす私たちの前に警察や救急隊員が現れ、教室へと移動を促された。

     すすり泣く教室内、青い顔をして必死に何かを説明する森山。慌ただしく廊下を走る警察官たち。それをただ茫然とその光景を見ている。

    一時間ほど経った頃、刑事と名乗るオジサンが部屋へやってきて、現状の説明をしてくれた。が、その時は頭に入らなかったので、後日見た週刊誌での描写で当時の事をちゃんと知る事となった。

    音楽の授業中、突然一人の生徒が奇声を発した。そして自分の筆箱の中からボールペンを一本取り出し、隣に座る女子の首元に深く突き刺した。

    その女子生徒の首元から血が噴き出したのキッカケに、次々と生徒たちが奇声を上げながら思いのままに近くの人間へと襲い掛かったのだと、一人助かった音楽教師は警察に供述した。

    らしい。

    まさに殺し合いだったそうだ。男子は椅子を掲げ女子の頭に何度も打ち下ろし、その後ろから他の女生徒が何人もシャープペンやボールペンをその男子生徒に突き刺す。

    授業を受けていた二十三人の生徒の内、死んだのが二十三人、無傷だったのは教卓の後ろに隠れていた教師、貝塚かいづか小百合さゆりのみだった。

    あの状況の中、机の後ろに隠れながらよく鮮明に見ていたな、と思う。貝塚のやつ冷静じゃん、なんて考えてしまうのだ。だけど私は見た、あそこでたしかに殺し合いが行われ、その最後の生き残りの親友が窓から飛び降りたのを。

     一向に自宅に帰れる気配のない中、何となく窓から校舎の外を見ると、何台ものテレビの中継車、マイクを持ったリポーターやカメラマンが正門を陣取っていた。

     そんな異様な光景の中、私は感覚を取り戻そうと必死だった。あまりにも唐突に人の死に触れた。当たり前だがあんなにたくさんの死体を見た事は無い。

    そして萌美はたしかに自分を殺そうとした。今まで見た事も無い顔をして、あの振り上げたカッターで切りつけるつもりだったんだろうか。しかし、確かに彼女は一瞬だったが私の事を認識したはずだ。

    そして、自ら命を絶った。

    そう言えば昨日の夜、あの子と電話したっけ。

    内容は今付き合っている彼氏との事だった。エッチを求められるけど、しちゃってもいいと思う? なんてどうでもいい話だった。

    「うちら十七だしいいんじゃん? 好きなら」

     そう言うと、電話の向こうで何やら不満そうな声が上がった。

    「玲はさ、後悔してないの?」

     萌美は痛いところをついてくる。

    「正直少し。でもさ、初めての相手と結婚なんて昭和じゃあるまいし、ないでしょ」

    「まあ、ね。えーどうしよう」

    「やっちゃってから悩みなよ」

     それもそうかも、そう言って笑ったんだ。気が付くと深夜一時を過ぎていて慌てて電話を切ったのも覚えている。

     死んじゃった。

     もやもやしていた頭がゆっくりとスッキリしていく中、やっと現実を見る事が出来た。

    萌美。

    現実が心臓を鷲掴みにする。不意に涙が流れ出してきた。そして体中を震わせるように、嗚咽がこぼれるまで時間はかからなかったと思う。

    その後、学校は一時閉鎖。次の日から臨時休校となった。

    私は心配する両親を尻目にニュースに釘付けになった。アナウンサーによると警察は何らかの理由で集団ヒステリー現象が起きたと考えているようだ。それって突然あの音楽室内にいた人間たちが発狂したという事?

    じゃあ何故、貝塚はああやって修羅場の中無事でいたのだろうか?

    そういえば彼女はこう言っていた。

    ―こんな事になるなんて‥。

     あの時貝塚が呟いた言葉、あれはどういう意味なのか。何かキッカケがあり、ああやって事件が起きたのだ。何らかの理由が無ければ、萌美が死ぬ筈がない。

     インターネット上では様々な憶測が乱れ飛んでいた。その中には萌美を名指しで批判している記事も見つける。あの場所で暴れていたのは一人だけではないのに。

     例えば黒魔術に嵌っていた。馬鹿らしい、あの子は占いさえも馬鹿にしていた。こんなのもある、イジメの復讐だと。本当にあきれる。

    萌美は愛嬌があり友達が多い子だ。将来は保育士になりたくて、進路は保育科のある大学を希望していた。よくもまあこんなデマを思いつくものだ。きっとキリ高の誰かだろう、くだらない。

     こうやって、世界には適当な情報が流れていくのだ。本質が捻じ曲げられたままそれが真実となり、人の記憶に残っていくのだろう。

     結局、学校は次の日も休校となった。場合によってはしばらく続くかもしれないとお母さんが教えてくれた。そんな事はどうでもいい、血だらけの萌美が頭から離れない。私は少しでもそのイメージを消したくて、スマートフォンを握りしめSNS上のくだらない噂話を一日中ただ眺めていた。

     その中に、一際目立つ記事を見つける。

    ―集団催眠及び洗脳について。

     何やら難しい、翻訳された文章を一人の男が紹介しているのだ。そのSNSのアイコンには見覚えがある。

    来須くるす健けん介すけ。

    たしかどこかの大学教授のはずだ。この男の発信する古い音楽やレトロカルチャー、昭和なんて近いレトロではなく、例えば能は戦国当時の最先端、こんな曲を聞いてみんなで酒を酌み交わしたとか、その能にドラムを合わせてみよう、と自分で制作した曲を発表したり、平安時代まで遡るような下ネタ昔話まで、幅広い情報は面白いものが多く、インターネット上では有名な存在だ。

    そういえば動画配信サイトでも自分のチャンネルを持っていたはずだ。私自身テレビなんかほとんど見なくなっているが、ネット上の番組などは別だ。好きな時に自分の好きな情報を仕入れる事が出来る。

    来須は文章の最後にこう付け加えている。原因は定かではないが、音楽室で起きた事、授業中だった事もあり、音が一種の集団催眠的な何かを引き起こしたのではないか? と書いてあった。

    何だかとても意味深な内容だ。あの学校に通っていて、親友が死んだ。出来事全てが唐突で理由が見当たらない。でも、集団の心が一瞬で変化する何かがもしあったとするならば‥。

    再びカッターを振り上げた萌美の顔が思い浮かぶ。

    私は気が付くと、来須個人のSNSアカウント宛にメールを打ち始めていた。あの出来事を目の前で見た人間として、この興味深い人物と話してみたかったのだ。と言っても返事があるとは思っていなかったが。

    (二)

    「……」

     お湯を捨てる時に気が付いた。ソースの袋が麺の下に入っていたのだ。

    棟月学園音楽大学、かび臭い東洋民族音楽研究室に、カップから食欲をそそる湯気が立ち上る。

     今日の昼めしはカップ焼きそばにすると昨日から決めていた。なんなら午前中の講義中もずっとそればかり考えていたのに。

     なんでこんなに楽しみにしていたのだろう。

    急激に冷める気持ちに襲われつつ、無表情のままホカホカの袋を開け、ソースを麺に流し込み、義務的にかき混ぜる。

     書類まみれのデスクに座り、焼きそばを口にしながらパソコンのメールに目を通した。

     仕事関係のメールが大半、その他には迷惑メール、クレジットカードの引き落とし案内、そしてSNSに届く書き込みと一通ずつちゃんと目を通していく。

     昨日、一通の気になるダイレクトメールが届いた。

     差出人はレイ、というアカウント名で、内容は先日起きた都内の高校での集団ヒステリーに関する内容だった。どうやらその高校の生徒の様で、しかも目の前でその光景を拝んだらしい。

     俺はすぐに返信した。もちろん冷やかしの可能性もある、なので詳しく話を聞きたいから研究室へ来るようにと促してみた。いくら何でも嘘ならばわざわざ来る事はないだろう。

     しかし、このレイは違った。すぐにでも話したいとの事で、スケジュールが空いている今日の十三時から、ようするにあと十分ほどで訪ねて来る事になっている。もしも冷やかしだとしてもこちらは何も困らないし、本当に来るのであれば、それはそれで興味のある話が聞けそうだ。

     集団ヒステリー。

     こういった類の事件は世界的に起きている。主に戦場などの極度の緊張状態などで起こる事があるそうだ。しかしここは平和ボケ大国の日本、しかも高校というガキの学び舎で二十四人が授業中、教室内で何らかの出来事が起きた。ニュースでは生き残った音楽教師に事情を聞いていると発表しているが、進展は今の所なさそうだった。

     と、ここまで興味を持っておいてなんだが、集団ヒステリーや殺人などは専門分野ではない。気になるのはそこが音楽室だったという事だ。その日は合唱の授業だったらしく、男子生徒十三人、女子生徒十人、女教師が一人、合計二十四人が歌っていたのだろう。そして何らかの出来事が起こり、殺し合いが始まった。

     興味をそそらない方がおかしい。もちろん単純に怨恨の線もある。いじめの復讐かもとニュースでは言っていた。可能性は様々だ。

     いやいや、常識人ぶるな来須健介。

    いつからそんな詰まらない考えをするようになった。

    二十四人がヨーイドンで殺し合いだぞ、視線に入る全てのもの皆殺しだ、しかもそれが音楽室で起った。

     白昼に大量の死体、とんでもない光景だった筈だ。

     誰か一人が発狂して暴れたわけじゃない、あの場にいた全員がその瞬間暴徒化していたわけだ。そして音楽室は地獄と化した。一体何故か、集団幻覚を見るようなキノコでもみんなで食べたか? そんなわけがない。一体―

     気が付くと、机の上の電話のランプが光っていた。片手には冷えたカップ焼きそば、俺は慌てて受話器を握る。

    「はい、来須です」

    「お疲れ様です、来客ですが、宮原さんと名乗っていてアポ済みとの事です。あの、高校生の女の子ですけど‥」

    「ああ、大丈夫です、通してください」

     すぐに受話器を置いて、残りのカップ焼きそばを急いで胃の中へと落とし込む。

     本当に来たのだ、冷やかしではなかった。

    という事は事件の関係者で間違いないだろう。熱いお茶で焼きそばを無理やり押し込み、食べ終えたカップをゴミ箱にほうり投げたと同時に、研究室の扉が開いた。

    「あの、すみません、メールした宮原玲です」

     入口から現れたのは、女子高生だった。

     健康的に発育した体、背は高い方だ、百六十後半だろうか。少し茶色に染めた髪、目鼻立ちはハッキリとしている。制服を着ていなければ高校生とは思わない。それにハキハキとした挨拶の口調から気も強そうだ。

    「ああどうも、来須です。すみませんね汚くて、ここに座って」

     俺は来客用のテーブルの上を片しながら言った。

    「はい、すみません」

    「コーヒー飲む?」

    「あ、大丈夫です、持ってますから」

     玲はバッグからペットボトルのお茶を取り出した。

    「じゃあ俺は飲もうかな、ちょっと待って」

     年代物のコーヒーメーカーにドリップした粉を二杯入れながら考えた。その場にいたという事は、報道なんかよりもより鮮明な内容が聞けるはずだ、音楽室で何が起こったのか、何らか掴めるかもしれない。

    「あの、助手の人とかいないんですか?」

     玲は部屋を見渡しながら言った。

    「うん、そうだよ。東洋民族音楽史なんてマイナー分野に興味を持つ人間は少ないからね」

    「でも、先生ってとても有名ですよね? 動画配信見てます」

    「ああ、ありがとう。趣味みたいなもんだから、古いものが好きなんだよ」

     若い女の子に先生と言われるのは悪い気はしない。

    「東洋、て事は、西洋はまた別に教授の先生がいるんですか?」

    「そうだね、まあそっちはメジャーだよ。モーツァルトやらハイドンやら、弦楽の成り立ちとかさ、つまらねえのなんのって。まあこっちも雅楽や和歌だからね、どっこいどっこいか」

     入れたてのコーヒーを片手に、向かいの椅子へと座った。

    「それで、本当に君はあの日現場にいたの?」

     玲は頷いた。

    「詳しく話を聞かせてもらってもいい?」

    「えっと、話をまとめるのが下手なんで、順番に出来事を言っていきますね」

     俺は頷いた、その方が主観も入らずわかりやすい。

    「四時間目だったんです、お昼ご飯前で。古文の授業が大っ嫌いで―」

     目の前の女子高生は気丈に淡々と当時の状況を話しているが、目の周りは真っ赤に荒れている。きっと泣き続けたのだろう。かなりしんどい精神状態なのは間違いなかった。

     しかし―

    正直当事者と話すことができるとは思っていなかった。現場にいて遠目で見ていたくらいの証言を想像していた俺は、彼女が経験した耐え難い衝撃に言葉が出なくなっていた。

     彼女は涙ぐみながらも言葉を続ける。

     そして、教卓の後ろから唯一の生存者、貝塚小百合が現れた時、玲は一瞬襲い掛かって来るのでは? という恐怖を感じたという。しかし実際は呆然とし、他の先生に抱きかかえられ一言二言言葉を発するのが精いっぱいの精神状態だった。

    「その、貝塚先生? 何て言ったか聞こえた?」

    「うん、えっと、こんな事になるなんてって言ったんです」

    「こんな事?」

     彼女は頷いた。

     こんな事。どんな事を言っているのだろうか。

    少なくとも貝塚は何かを知っているからそう口に出したはずだ。俺はもう一つ話の中で気になる部分を掘り下げてみる。

    「君が親友に襲われそうになった時‥ああ、もし辛かったら言わなくていいからね。襲われそうになった時、一瞬判別できたんだよね、君を」

    「はい、私の名前を呼んでくれました」

    「てことは、顔を確かに認識していた」

     水本萌美は目の前で声を掛けて来たのが玲だとわかっていたはずだ。それなのに虚ろな目で躊躇なくカッターを振りかざした。

    「殺されると思いました。今までそんな経験ないから変な話だけど、あの時絶対殺されるって」

    「仲の良い友達に?」

     力強く頷いている。

    「その事は警察には話したかい?」

    「はい、あの後一人ずつ隣の教室で。私は萌美とは仲が良かったから、色々と聞かれたんです。何か悩みは無かったか? とか、喧嘩しなかったか? とか。でも質問しながらも、刑事さんは何だかずっと首をかしげてばかりで」

    「それは何で?」

    「変だなって思って聞いたんです。そしたら言ってました、萌美が全員を殺したわけじゃないから、この質問は意味が無いって。あくまで最後まで生きていたのは彼女で、他の生徒の事も聞かなくてはいけないのに、ってぶつぶつ。何だか意味が分からないって感じで」

     その通りだ。

    たまたま音楽室の外に出たのが水本萌美だったわけで、彼女が他の二十二人を殺したわけではない。だが一人だけ生還して部屋を出たのは間違いない。しかしその後すぐに自ら命を絶つ事になってしまったのだが。

    「もう何だか全然わからなくて。ニュースでもイジメがあったとか嘘ばっかり言ってるし。インターネットもそう、嘘ばっかり。その中で、先生の書き込みを見つけたんです」

    「ああ、集団催眠の」

    「はい、先生が貼っていたリンク先の記事を見て、すごくしっくりきたんです。殺し合ってる現場は見てないけど、あの狭い音楽教室の中で重なり合って死んでいるみんなを見た時、まるで儀式の様だと思ったんです」

     儀式。集団で打楽器や歌を歌い、薬物なども同時に用いる事により一種のトランス状態と化す事がある。古くはアフリカの原住民が用いた精霊を呼び出す方法の一種で、先導者がいかようにも催眠状態の人々を掌握する事ができたらしい。例えば神を降臨させたりもできたそうだ。あくまでトランス状態の精神の中でだが。

    「あの事件の速報が流れた時、最初に感じたんだよ。まるで集団催眠のようだって」

    「自分の学校の事言うのも変だけど、いい学校なんです。ガチガチの進学校でもないし、通いやすいって言うか、過ごしやすいっていうか、とにかくあんな事件が起きるような学校じゃないというか」

    「そうだろうね。というよりも、この日本でそんな事件が起きる事が珍しい。今までに近い出来事が無かったわけじゃないけどね」

     催眠は宗教で信者に用いられる事もあるだろう。医学でもそうだが、カリスマと呼ばれる人間は一種の能力に長けている事が多い。ようは思い込みの力だ。

    「だから、聞いてもらえるなら話してみたくなったんです。先生ならなんとなくわかってくれるような気がして。忙しいのにごめんなさい」

     目の前の女子高生は申し訳なさそうに頭を下げた。普通に生きていて見る事のない光景を、十代の女子が見てしまったのだ。多感な時期だからこそどうにかなってしまいそうなのかもしれない。

    「いや、そんな事ないよ。俺も気になってたんだ、場所は音楽室だろう? 授業中だったはずなんだよその時。報道を見る限り合唱の授業だったみたいだけど」

    「はい、後から思い出したんですけど、たしかに聞こえてました、歌」

    「ん? ああ、窓から?」

     玲は頷いた。

    「一つ聞きたいんだが、生き残った教師、貝塚さん? どんな人かわかるかい?」

    「うーん、目立たないというか、ぱっとしないというか。普通です。陰キャ」

    「陰キャ。暗いって事?」

    「はい、まあ、ですね」

     報道では顔写真は出ていない。当たり前だが現時点では彼女も被害者の一人なのだから。

    「来須先生は、貝塚先生がなんか変な事やったと思います?」

    「ん、まあそうとは言い切れないけど。いや、正直言うとそうじゃないかと思うけどね。ここだけの話にしてくれるか?」

    「はい、どうせしばらく学校も休みだろうし、誰とも話す気分じゃないし」

     そう言えば今日は平日だった。あんな事があれば学校も休校せざるを得ない。

    「生き残っただけではなく無傷だったわけだ。彼女だけ机の後ろに隠れて助かった。でも机の後ろだよ? よく無事だったよな」

    「あ、それ私も思いました」

    「で、さっきの君の話なんだけど、あんな事になるとは、だっけ? 明らかに原因を知ってるよな」

    「じゃあ貝塚が洗脳的な何かをしたとか?」

     一瞬ためらったが、俺は頷いた。あくまで憶測だが、一人だけ無傷なのは説明がつかない。そして彼女の仕事は音楽教師だ。

    「玲さん、玲くんでいいか、俺さ、ちょっと色々と調べてみようと思うんだ、もしも音楽が関わっているのであれば、専門になるからね。そうじゃなければ傍観者に戻るけど、今の所音楽室で合唱の後に事件が起きている、だから調べてみようと思う。君に了解を取るのもなんだけど、いいかな?」

     別に彼女に許可を取る必要はない、のだが、実際目の前にいる宮原玲はショックの中わざわざ訪ねて来てくれて、有用な情報を与えてくれた。この子の許可を取るのが礼儀だと思ったのだ。

    「うん、私もいいですか?」

    「君が?」

    「うん、いいですよね。仇討ちって言うのも変だけど、萌美がどうして死んじゃったのか、ニュースなんかじゃなくて、本当の事知りたいんです」

     我が強いと見た。

    一歩も引かない眼差しをこちらに向けている。

    「いいよ、わかった。けど君はまだ高校生だろう? その辺ちゃんとわきまえてくれるなら。それにあくまで個人の趣味の延長だ。もちろんその中で重要なヒントがつかめたら、しかるべき機関に伝える事にはなると思うけど」

    「もちろん。でもあれですね、先生って見た目よりもカタいっていうか、お父さんみたい」

    「オッサン臭い?」

    「ううん、見た目はそんな事ないけど真面目」

     思わず俺は笑ってしまった。

    「これでも一応、日本に十人もいない東洋音楽史の権威なんだぞ? まあ、競争相手がいないから権威なんだけど」

    「昔の事を調べるんですか? そのアジアの音楽の」

    「そう。現代にいたるまでの成り立ちとかね。面白いんだよこの分野は。不思議な事がたくさん起るんだ。例えばこの日本と中国は文化的に昔から繋がるものが多いだろう? それは当たり前で、遠い昔に向こうから渡って来たものが多いからなんだ。でも、これがアフリカやエジプトになると話が違う。でもね、似たような音階や楽器が存在して、なんならそこに付随する思想や文化も似ている。これはようするに、何らかの形で繋がっているという事だ。じゃあそのアフリカやエジプトはどこと繋がっているか? そうやって人の歴史を辿っていくんだよ、どうだ、つまらないだろう?」

     探求の旅に近いと言ってもいい。

    人はどこから来たのだろう。文化の生まれた場所は、この地球上のどの場所なのだろうか。そしてこの世界は何故か音楽で結ばれている、戦争や災害で失われたロストミュージックも腐るほどあるはずだ。その一つ一つを探っていくと、必ず物事の始めにぶつかる、その始めを追い求めるのが俺のライフワークであり、生き甲斐だ。

    「つまんなくないですよ、面白そう。でもお金にならなさそう」

     この日、この部屋に入って来て初めて玲は笑った。その笑顔はどこか悲しく、地獄を見てしまったひとりの女の子の無理やりな笑顔に感じる。

    俺は改めて、今回起きた異常な事件の真相を知りたくなった。

    (三)

     随分ラフな格好。

     それが来須健介の第一印象だ。

     くたびれたジャケット、袖の伸び切ったセーターに眼鏡、髭なんて伸び放題で研究以外には興味がない。私の抱いていた大学教授のイメージはこうだ。

     しかしさっきまで研究室で一緒だった来須は違った。綺麗に七三に分けられた髪に刈り上げられたサイド部分、ラモーンズとかいう七〇年代のバンドTシャツを着ており、下はビンテージっぽいデニム。ネットでは歳は三十七歳と書いてあったがもう少し若く見える。

     正直会ってくれるという返事をもらった時、こんなに簡単でいいのかなとは感じたが、よくよく考えると私は当事者だ。事件に興味があるならぜひ話しておきたかったのだろう。その来須が事件を調べると言ってくれた時、驚きと共に正直嬉しかった。といっても答えを導き出せるとは思っていない、この気持ちを同じ目線で共有してくれる存在が必要だったのだ。両親は精神状態をとても心配してくれる、けれどあの場所にいた衝撃は絶対に理解できないだろう。

    キリ高で起きたあの事件を警察は解決する事ができるだろうか? あまりにも非現実的な出来事で、誰一人何が起きたのかも理解できないのに。

     だって、突然二十三人も死んだのだから。

     学校に以前から不穏な空気が流れていたとか、ああ、あの人たちならやりかねないな、とか、納得の落とし所がまるでない。もちろん全校生徒が友達なわけじゃないから、色んな可能性はあると思うけど。

     でも、あの場には親友がいた。

    あの時血まみれで現れた生徒は、紛れもなく親友の萌美だ。中学一年生の時クラスが一緒になってからずっと共に過ごしてきた。初カレも知ってるし、お互いの親の不満点なんてどれだけ話し合っただろう。進路だってそうだ、同じくらいの偏差値で、同じタイミングで彼氏ができて、ほぼ同じタイミングで初体験を済ませようとしていた。

     何一つ隠さずに一緒に過ごしてきた。なのに一昨日の彼女を見た時、まるで別人に見えたのは何故だろう。まるで誰かが萌美の体を乗っ取ったかのように見えた。

     考えたって何もわからない、これがこの二日で出した結論だ。

    親友の死を悼んで喪に服し、泣いて暮らすほど私は弱くはない。泣くのは後だ、今は少しでも何が起きたか知る努力をするべきだ。

     高田馬場にある棟月学園音楽大学を出た後、家に一人でいるのが嫌でそのまま二つ隣の駅、新宿へと出かける事にした。

    大学に入るには高校の制服が一番だろうと思って着て来たものの、こうやって平日の昼間にウロウロするとやはり目立つ。補導されるかもしれないが、そんなことはどうでもいい。もうこれ以上、部屋で無力に泣き続けるのは嫌。外に居れば少なくとも人の気配に包まれ、むやみやたらに泣く事は無い。

     萌美とよく通っていたカフェに入り、帰り際に来須から貰った棟月学園音楽大学のパンフレットを眺める。

    そういえば随分と古い校舎だった。

    音楽大学と聞くと、勝手に華やかな感じを想像していたが、棟月学園はそうではなく、見かけた生徒たちもお洒落には無頓着そうな連中ばかりで正直驚いた。

     元々は湘南の方に校舎があったのだが、昭和四十年に高田馬場へと移転。卒業生には見た事のある顔が数人いる。この人はピアニストでテレビのバラエティにもよく出てる人だ。この人は指揮者で、たしか海外の有名なコンクールで最優秀賞を獲った人だったっけ?

     ふと思い出す。

    あれは一か月前くらい、この店で萌美と進路の話で盛り上がった。私は大学進学で、彼女は保育科のある学校を希望していた。

    「子供大変じゃない? しかも最近は親も面倒くさそう」

     いつものように否定から入ると、必ず言い返してくる言葉があった。

    「それでも可愛いんだってば、たくさんの成長を見れるし、最高じゃん」

     子供を産んだ事のない萌美が、得意げに話すのが何だかおかしくて茶化したものだ。

    でも本当は寂しかった。彼女と進路が違うのが寂しかった。ずっとこのまま一緒だと思っていたから、現実を受け入れたくなかったのだ。

    もう同じ時間を気軽に共有できない、まさかそれがこんなに違う形で現実となるとは。もう萌美に会う事はできない。当たり前の日常が一瞬で破壊された理由を知りたい。どうして彼女はあんな目に合ったのか。

    あんなに泣いて落ち着いたと思っていた涙がまた溢れだしてきた。外にいようと溢れる感情は抑えられない。

    口惜しい。

    何に対して? 親友を奪ったあの事件だ。

    あの場所にいた全員の夢も希望も奪ったあの出来事はなぜ起きたのか?

    いや、一人だけ生きてるじゃん。

    教師の貝塚。

    なんであの人だけ生きているんだろう。リアルタイムで見ていたわけではないが、あの惨状の中で、どうやって無傷であんな小さな教卓の裏に隠れていたのか。全然パッとしない、目立たない地味な教師、私は授業の度にぼそぼそと喋る貝塚を見てそう感じていた。ホラー映画だったら最初に殺されちゃうような役どころなのに。何故平気でいられたのだろう。

    その時だった。

    スマートフォンにメッセージアプリの臨時ニュースの通知が届いた。と同時に、店内至るところで同じ着信音が鳴り響く。

    ―三重県の高校で集団暴行、死傷者もいる模様

     画面を見たまま私は固まった。集団暴行、死傷者もいる模様。これって…。

    「おい、マジかよ、これキリ高と一緒の奴じゃね?」

     斜め前に座る、水商売風の男が彼女らしい同席者に言った。

    「こわ、なにこれ、やばくない?」

    「また集団?」

     静かだった店内が色めきだっている。震える指で他のニュースサイトを検索するが、詳しい情報がまだ乗っていなかった。

     テレビだ‥テレビのニュース。

     ふと思い立った。駅前、新宿アルタの街頭ビジョンで流れているかもしれない。私は食べかけのサンドウィッチをゴミ箱へ押し込み、駅前へと走り出した。集団殺人って、全く同じじゃん。

     駅前に近づくと、すでに新宿アルタ前は人でごった返していた。私は何とか音声の聞こえる距離まで移動する。

    「―えします。本日午後十四時半過ぎ、三重県四日市の新城女子高等学校の授業中に集団による暴行事件が起きた模様です。現在現場には―、はい、はい、失礼いたしました、今速報が入りました。音楽の授業中に、複数の生徒が突然暴力的になり、そのまま死傷者が出る騒ぎとなったとの事です。繰り返します、本日午後十四時半過ぎ、三重県四日市市の女子高等学校で、多数の死傷者を出す集団暴行事件が起きた模様です。学校への侵入者は無く―」

     駅前でどよめきの悲鳴が上がる。何人もスマートフォンを街頭テレビへと向けて写真を取っていた。

     なにこれ。一緒だ。

    「すげえ、一昨日の事件と一緒だよ」

    「高校バトルロイヤル選手権?」

    「おう、見た? ニュース。凄くねえ?」

    「何人死んだんだろ」

     様々な声が飛び交っている。その真ん中で私は一人街頭テレビを見上げながら、全身が逆立っていくのを感じた。

     同じ事が起きた。

    しかも遠く離れた三重県で高校生同士が突然殺し合った。一体どうして、何が起こってるわけ。

    「因果関係は不明ですが、非常に酷似してますね先日の事件と。他からの侵入者は今のところ確認できてないようですし。いや、こんな事件は私も経験した事がありませんね」

     白髪禿げ頭のお爺さんがテレビで喋っている。下のテロップには元警視庁なんちゃらと出ていた。

    「専門家の先生も見当がつかない事件という事ですね、たしかに先日の事件の詳細もまだわかっていないわけで‥、新しい情報です。生存者が確認されました、繰り返します、生存者が確認されました。えーっ、情報によりますと、授業を行っていた音楽教師の方の様です。繰り返します―」

     生存者一名、音楽教師。

     一緒だ! 一昨日の何から何までまったく一緒だ。

     携帯の振動に気が付くまでどれくらい経ったのだろうか、スマホを見ると、さっき番号を交換したばかりの来須からだった。

    「もしもし、玲くん?」

    「…あ、はい」

    「来須だけど、ニュース見た」

    「…あ、はい」

    「随分と騒がしいな、今どこ?」

    「新宿のアルタ‥」

     来須の声が遠くに聞こえる。私はビジョンから目を離せずにいた。

    「今からそっちいくから。いい? 迎えに行くから、一緒に着いて来てほしいところがあるんだ」

    「…ええ、はい、え?」

    「とりあえず、その辺にいてくれ、またかける」

     こっちの返事を待たず、電話は切られた。ニュースの方はそれ以上の新しい情報は流れず、画面の中ではああでもないこうでもないと議論が続いている。もう見たくない‥。駆け足で喧騒を離れガードレールに座った。

     頭がぐちゃぐちゃになっている、いや、ぼーっとしてる感じだ。えっと、ニュースだけ聞くと全く同じ出来事が違う場所でも起きた。死ななかったのは音楽教師、生徒は全員死亡、って事だよね。現時点ではそれしかわかってない。

     いや、それで十分だ、だってまったく一緒だもん。

     続報が出ていないかスマホを見ると、メッセージアプリに何件もの連絡が入っている。どれもこれも他校の友達ばかりで内容は同じ。

    ねえ見た? 玲の学校と同じだよね! 的な。

    少しも返事をする気になれない、どこかイベントの様に捉えているんだろう、無駄なワクワク感さえ伝わってくる。

     人が死んだのに、どうしてみんな平気なんだろう。いや、きっとみんな他人ごとなのだ、知らない場所で起きている事はイベントとしか思えない。

     自分だってそうだ、遠く離れた場所の事件も、なんなら近くの学校で起きた事件も、当事者じゃなければこうやって興味本位になっちゃうだろうし。ワクワクだってするかもしれない。

     急激にぼんやりとした頭が冴えてくる。

     同じ出来事がまた起きた。という事は、やはり何らかの原因があるんだ。萌美やあの日死んだみんなに何かの原因があったわけではなく、もっとこう、外部からの影響的な何かがあったとしか思えない。

     何の理由もなく狂ったんじゃないんだ、そう考えると少し勇気が湧いてくる。

     電話が鳴った、来須からだ。

    「もしもし、先生?」

    「おお、着いた、今どこだい? ていうか何だこりゃ、すげえな人が」

    「今、紀伊国屋書店の近くです、東口の」

    「ああ、えっと、じゃあ靖国通りまで出てくれる? ドンキ並びの吉野家の前」

    「あ、はい。じゃあこれから行きますね」

     電話を切ると小走りで歌舞伎町方面へと向かう。途中の人々はほとんどが、何だか楽しそうにさっきの事件の話をしていた。あの現場を見せてやりたい、二度とそんな顔ができないはずだから。

     靖国通りに入ると、喧騒も随分と落ち着いてきた。

    アルタ前の街頭ビジョンは今も人で溢れているんだろうか。私は歌舞伎町入り口前の信号を渡り、ドン・キホーテを左手に新宿三丁目方面へと歩く。途中二人にナンパされた。制服だろうがお構いなしだ、コイツ等が代わりに死ねばいいのに。

     吉野家の前に着くと、やけにうるさい車が一台止まっている。何だか汚い白の軽自動車だった。よく見ると、助手席のドアに棟月学園音楽大学と書いてあった。

    「玲くん、こっちこっち」

     そのダサい車から来須が顔を出した。

    「なんか、すごいですね、ヘヴィメタですか?」

     私は顔をしかめるのを我慢した。

     ドコドコドコドコドコドコ

    ゥゥゥウワァァァァァアアア!

    ドコドコドコドコドコドコ

    うるさい‥。

    「違う、ハードコアね。ノイズコア」

    「あ、そうですか」

     しかしうるさい、鶏のような声で叫んでいる。というか道行く人の視線が恥ずかしい。

    「これからちょっと付き合ってほしいんだ、時間大丈夫?」

    「付き合うってどこに?」

     思わず身構えた。基本おっさんは変態ばかりだと思っているからだ。

    「警察。君の学校の先生に会いに行く」

     しかし、返事は意外なものだった。

    「え? それって…」

    「貝塚さんだっけ? 重要参考人として麹町署にいるみたいでね」

    「犯人として疑われてるって事ですか?」

    「わからんけど、無関係ではないと警察も踏んでるんじゃないかな」

     スピーカーからは相変わらずのハードコア? が鳴り響いている。

    「さっきの事件でほぼ確定したようなものだ。集団催眠、もしくは集団洗脳、同じようなものだよ。何かのきっかけで起きてるんだ。しかもそれが音楽に関わっているなら俺の出番じゃないか」

    「たしかに音楽の授業中って言ってました。ていうか話しできるんですか? あ、大学の先生だから警察に知り合いがいるとか?」

    「いや、いないよ。でも大丈夫だろ」

    「は? えっと、大丈夫なんですか?」

    「うん、イケる、だろう。何なら専門家の意見が聞きたいなんて話になるかもしれない。この事件に音楽が関わっているならの話だけどね」

     だろう、じゃないよ。

    その自信は何処から? 不敵な笑みを浮かべる来須の横顔を見ながら、何だか相談する人を間違った気になってきた。しかも音楽の趣味が最悪、絶対に彼氏にしたくないタイプだ。

    「さあ、行くぞ玲くん」

     やっぱり絶対こんな男は嫌だ。しかしさっきまでのもやもやした気分はいつの間にか晴れている。一人じゃないってこんなにも力強いんだ。

    (四)

    「参ったなぁ、力になれると思うんですがね」

     麹町署の受付では今、食い下がる大学教授と受付の婦人警官の押し問答が繰り広げられていた。

    「お引き取り下さい」

    「いやぁ、だからね? 今回の事件、もしかしたら俺の専門分野かもしれないんです。担当の方に伝えるだけ伝えてもらえませんか?」

    「お引き取り下さい」

     能面の様な婦人警官の顔、感情が読み取りづらい警察官が私は苦手だ。上から来る偉そうな態度も気に食わない。だが今回に限っては来須が悪い。会えるわけないじゃん、私だってわかるよ。

    「さっき新しい事件が起きたんでしょう? あれも原因はきっと同じなんですって。いいですか、二度ある事は三度ありますよ、ここで追っ払いでもしたらあなた後で叱られちゃいますよ?」

    あまりにも幼稚に感じたのだろうか、婦人警官が笑いを堪えながらお引き取り下さい、と俯き呟いた。

    「先生、難しそうだから帰ろうよ」

    「ダメだよ玲くん、また同じことが起きるよこのままじゃ。無差別なように見えて一貫性があるんだ。それを警察はわかっているのか聞きたいね」

    「でもさ、会えないんじゃん」

     彼の見た目のせいだろうか、どんどんタメ口が増えてきた。

    「いや、だから粘ってるんじゃないか。いいよ、帰らないよ、会わせてもらうまでは帰らない、決めた!」

    「帰らないって…」

     子供じゃないんだから。

    気が付くと受付の奥から年配と若手の男性警官が二人現れている。これから怒られるんだろうな。

    「いい加減にしなさい、公務執行妨害になりますよ」

     年輩の警官の一言、これがいけなかったようだ。来須に火をつけた。

    「はぁ? 公務ぅ? 執行妨害って、アンタたち何の公務してるわけ? 座ってるだけじゃないのよ。それに受付のアンタも、さっきからお引き取り下さいの一点張り、不愛想にも程がある。他に言葉を知らないの?」

    「あんた本当に逮捕するよ」

     全く動じない年輩が言うと、もう一人の若い警官が腰に手を当てた、やば。

    「まぁまぁ、先生、落ち着いて。お巡りさんもごめんなさい」

    「玲くんは黙ってろ」

    「子供は黙ってなさい」

     来須と警官が同時に言った。

    大人は突然共闘するから嫌いだ、瞬間的にアタマにきた。

    「黙ってろって何? それに子供って言ったけど、アンタたち大人の癖に穏便に事を収められないわけ? それに受付のアンタさあ、女の私から見ても可愛げないんだけど。何なん? 先生は別に悪い事言ってないじゃん、ダメな理由を教えてよ、わかる?」

     アタマに血が上ると弁が経つ。これは小さい頃からの特技といってもいいだろう。男子だろうが先生だろうが引いた事は無い。目の前の大人たちなんて屁でもないのだ。

    「何だその口の利き方は!」

     ジジイ警官が声を荒げた。

    「あ! 市民を恫喝したよ先生、見た? サイテー」

    「サイテー」

     来須がにやにやしながら続く。

    「おい、公務執行妨害で逮捕だ」

    「あ…はい」

     私たちのやり取りを見ていた若い方の警官が、渋々と近づいて来た時―

    「騒がしいね」

     左斜め前の階段から、一人の男が降りて来た。その動きはまるでロボットの様で、一瞬マネキンが喋ったのかと思ったほどだ。

    「すみません、ちょっと」

    「上で聞こえてたんですけど、大学の先生ですか?」

     男は返事をした年配警官を無視し、私たちの前に足を進めた。

    「棟月学園音楽大学、東洋民族音楽史の来須です。あなたは?」

    「ほう…、いや失礼、内閣情報調査室の下条です」

     ないかくじょうほう‥何?

    「‥今回の事件、やっぱり特別な事が起きてるんですね?」

     来須の目が輝きだした。だからこの人何者?

    「身分証を見せていただけますか? それとそちらの子は?」

    「この子は宮原玲くん、あの事件の目撃者です。貝塚さんと同じ学校の」

     来須が身分証を渡しながら言うと、下条と名乗った男が私を見た。感情のない目で上から下まで舐める様に視線を動かす、気分が良くない。おっさんになったら男は全部気持ち悪くなるのだろうか。

    「桐谷の生徒さんか。君は現場を見たのか?」

    「はい」

    「音楽室の中も?」

    「はい、部屋中真っ黒でした」

     あの時は真っ赤に見えた血だったが、記憶の中ではどす黒く部屋を侵食している。

    「そうですか」

     え、それだけ?

    「身分を照合します、少しお待ちを」

     こちらの返事を待たず、少し離れた場所で電話を掛けだした。

     目の前では来須と年配警官、受付の女性警官のにらみ合いが繰り広げられている。その横にいる若い警官と私がその光景を冷たく見守っていた。

    「玲くん、もうすでに大ごとになってるかもな、君の体験した出来事」

     厳しい視線を飛ばしながら、来須が言った。

    「どういう事? ていうか内閣なんとか、って何?」

    「内閣情報調査室だよ、日本の諜報機関」

    「え、それってスパイとか」

    「スパイではないな。この日本での様々な情報を管理及び隠蔽する機関だ」

    「隠蔽‥」

     無かったことにするって事?

    「人聞きが悪いですね、隠蔽なんてしませんよ」

     気が付くと、電話を終わった下条が私の横に立っていた。

    「来須先生、確認取れました。あなたの著書拝見しましたよ、和歌の新解釈。あれは面白かった」

    「ああ、そりゃあどうも」

    「貝塚さんに会わせましょう。しかし、お分かりになるとは思いますが」

    「もちろんです、許可なく他言しません」

    「わかりました、君も来ますか?」

     私に聞いている、もちろんだ。

    「行きます」

    「いいでしょう、彼女も生徒の顔を見ると少しは落ち着くかもしれませんね」

     下条が警官たちに頷くと、しぶしぶ三人は散っていった。

    「では六階へ参りましょう」

     来須と私は頷いた。貝塚はいったい今どんな環境にいるのだろう。

     エレベーターで六階に上がり、黙々と歩くアンドロイドのような男、下条の後ろを二人は着いて行く。無機質な壁、異様なまでに静かな環境、正直想像していたものとは違っていた。

    ―令和三年度 警察官募集

     笑顔の可愛らしい女性が敬礼しているポスターが壁に貼っている。

    「携帯電話を預かります、ここでお待ちを」

     廊下の奥、扉の前で私たちは携帯電話を渡した。下条がそれをすぐ隣の部屋へと持っていき、すぐに戻って来た。

    「来須さん、これは取り調べではありませんが、それに近い状態で話を聞いています。あなたは専門家として貝塚さんに質問してください」

    「わかりました、まあ聞きたい事は限られていますから大丈夫です」

    「宮原さんは彼女の緊張をほぐしてやってほしい」

    「あ、はい、わかりました」

     ほぐすも何も、全然喋った事も無ければ、むしろ音楽の授業は大嫌いだ。

    「では、どうぞ」

     下条がドアを開けると、思ったよりも広い部屋で、真ん中に長テーブルが四台、空間を挟むように対面に二人の男と貝塚が座っていた。

     彼女は私が見ても疲弊しきっている、元々地味で化粧っ気のない顔がより老けて見えた。

    「貝塚さん、こちらは棟月学園音楽大学の来須教授、そして宮原さんです」

     来須が頭を下げた、私は‥やっぱり声を掛けるべきだろう。

    「先生、あの、こんにちは」

     下を向いていた貝塚が頭を上げ、こっちをまじまじと見つめている。

    「あの、宮原です」

    「ああ、宮原さん、どうしてここに?」

     ここで気が付いた。受け答えが妙だ、というよりも何だかぼんやりとしている。

    「えっと、先生と一緒に来ました」

    「こちらの方は?」

     紹介が聞こえなかったのだろうか、来須は改めて頭を下げながら言った、

    「棟月学園音楽大学、東洋民族音楽史の来須と申します。突然すみません」

    「ああ、そうですか」

     貝塚は力なく頭を下げた。

    「ご苦労様です、少し外していただけますか?」

     下条が向かい合わせに座っていた二人に声を掛けると、あからさまに不機嫌な表情を浮かべながら一人、一人と部屋を出ていく。

    「さて。このお二人と話してもらう前に、先に私からあなたにお伝えしなければならない。先ほど、桐谷高等学校と同様の事件が三重県の高校で発生しました」

     ぼんやりとしていた貝塚の目が一気に見開かれた。

    「同じ?」

    「ええ、音楽の授業中に生徒が発狂。多数の死傷者が出ています。人数以外はほぼ同じ状況です」

    「同じ‥」

    「あなたはここに来てからずっと言葉を発していない。私たちは最初に伝えたように、あなたを容疑者として扱っているわけではない。それは留置していない事からご理解いただいているかと思います。しかし、このままずっとあなたが話すのを待つわけにはいかなくなりました」

     下条の口調は変わらない、が、妙な迫力は感じる。

    「音楽の授業中ですか?」

    「はい、先日と同じです」

    「授業内容は‥」

    「合唱コンクールに向けての練習中だったそうです」

     その言葉を聞いた貝塚がまるで漫画のようにわかりやすくニヤけた。

    「先生、大丈夫?」

    「‥じゃあやっぱり私は‥」

     何かをぶつぶつと呟きだした、下条と来須が顔を見合わせている。

    「貝塚さん、来須です、質問をさせてください。先日の件も今日の件も、集団催眠的な何かが関係していると思います。心当たりはありませんか?」

    「知らなかったんです、本当です、知らなかった。だって、信じられませんよね」

    「何が信じられないんですか? 授業中に何をされてたんです? 合唱中に何があったんですか?」

    「知らなかったんです、本当に‥」

    ―パンッッ

     突然、強烈な破裂音が部屋に鳴り響いた。冗談抜きで心臓が止まりそうになった。下条が手を叩いたのだ。

    「さあ、そろそろ落ち着きましょうか。受け入れなさい、そして何かを知っているなら私たちに教えてください」

     有無も言わせぬ言い方だった。もう後はないぞ、そうとも聞こえる。そう言えばこの部屋に入る前、来須が言っていた。

    「内閣調査室が警察にいるって事は、機密、テロ、様々な原因が考えられるけど、普通じゃないよこれは」

     そうだ、この男は警察じゃない、なのに警察署でどうしてここまで偉そうにできるのだろう。そんなに偉いのだろうか?

    「こう見えても音楽大学の教授です。まあ、マイナーな分野ですが、あなたの力になれるならと思ってここに来ました。助けるつもりで来たんです」

     来須の言葉を、ぼんやりと貝塚は聞いている。

    「俺はこう考えています。音、もしくは歌、メロディに関わる事で何らかの集団ヒステリー的な出来事が起きてしまった。あなたはそれに責任を感じている。そうじゃないですか? だとしたらそれはたまたまだ、そんな事がこの世に存在するのかわからないけど、例えば合唱する事で発狂してしまう‥いや、そんな事はないか。とにかく、あなたは不可抗力だったわけですよね」

     音楽で…発狂って事? それはない、B級ホラーじゃん。

    「…責任」

     焦点の合わない貝塚の口が開いた。

    「合唱していたんですね?」

     ゆっくりと肯いた。

    「発狂ではない?」

     また頷く。

    「違う、何だろう、みんなおかしくなってしまったんですよね突然」

     ゆっくりと首を振る。だんだん腹が立ってきた、おどおどはっきりしない、だからこの女が苦手なのだ。

    「何が違うんでしょう、教えてくれませんか?」

    聞く方もさすがにお手上げのようだ。すると貝塚が小さな声で言った。

    「不可抗力じゃない」

    「へ?」

     私は思わず情けない声が出た。下条も体を乗り出している。

    「不可抗力じゃないんです」

    「それってつまり‥」

     来須の言葉も続かない。それってつまり‥

    「何かが起きる気がしていました、いや、期待していた」

     期待していた、あんなふうになる事を?

    (五)

     貝塚小百合は生徒から馬鹿にされていた。

    顔立ちも決して綺麗とは言えず、体型も細身というよりも痩せすぎていて若い頃から女性としてチヤホヤされたことは無かった。それでも比較的裕福な家に生まれ、ピアノに熱中できる環境を用意してくれた親に感謝した。

    小学生の頃より慣れ親しんだピアノで、演奏家としての将来を夢見るようになった小百合は、努力の甲斐もあり音楽大学にストレートで入学する事が出来た。まるで体の一部のような存在となった鍵盤を触らない日は無く、周りが浮かれたキャンパスライフを過ごそうと、ひたすらに指を動かし、雨の日も風の日も、なんなら大地震が起きたあの日も、自分なりの音色を構築していく作業に没頭した。

    しかし、彼女はピアニストになる事は無かった。ただでさえ供給過剰なピアノ人口、それに加えて小百合のコミュニケーション能力の低さが相まって、都内のフィルはもちろん、音楽関係の企業は軒並み全滅。周りの遊んでいた連中は、当たり前のように進路が決まっていく。

    容姿や性格をひっくり返すほどの才能は、小百合には無かったのだ。

    辛うじて受けていた教育実習のおかげで、彼女にはたった一つの道が開かれる。それが音楽教師の道だった。

    負けずに夢を追えばよかったのかもしれない。いや、追うべきだった。そうすればたとえ叶わない夢だったとしても、ここまで屈折した人生を送らずに済んだはずだ。ピアノに没頭したこの二十年弱の中で、他に得たものは一つも無い、彼氏はおろか友達さえも皆無、残ったものは、子供と接するのが苦痛で仕方のない教師という道だけだった。

    奴らは容赦がない。十以上も年上の小百合に向かって尊敬の念は微塵もなく、むしろ馬鹿にして来る。様々な仇名が付けられている事を知っていた。その中でも一番心を掻きむしった仇名が心霊しんれいだ。

    とある生徒が言った。先生って写真に写り込みそうだよねって。お化けほどポップじゃなく、辛気臭く恨めしい存在なのだそうだ。

    存在しない人間とでも言いたいのだろうか、あまりにも馬鹿にした仇名だった。だが、小百合は怒る事も言い返す事もせず、ただ無視をすることに決めた。というよりも、対抗する術を知らなかった。

    生徒の空気は教師にも飛び火する。教師になって五年、気が付くと彼女はプライベートでも教師生活の中でも、誰にも相手をされなくなった。

    彼女は思った。何か悪い事をしたことがあるか? と。

    人を貶める事も裏切る事もしていない、真摯に音楽に向き合い、ピアニストとして生きる道を諦めても腐らず教育者となった。ほんのちょっと人付き合いが下手で、容姿に気を使わないだけなのに。

    この世界に対する愚痴が強烈な恨みに変わり始めた頃、事件の起こる三日前、学校に小百合宛で差出人不明の一通の封筒が届いた。不審に思いつつ念のため中身を確認してみると、そこには短い手紙とA4サイズの紙が入っていた。

    ―おめでとう、あなたはこの歌を多くの人間に歌わせ、自由を与える資格を得ました。歌ってはいけない、聞いてもいけない、自分は耳を塞ぎ、そして奏でるのです。新しい世界に想いを馳せて。

     たったこれだけの文章が書いてある手紙をテーブルに置き、もう一枚の紙に目を通す。

     それは手書きの楽譜だった。

     タイトルも無ければ、作曲者の名前も無い。五線譜の中の音符もシンプルなもので、メロディのみが分かる物だ。

     そして、その下には日本語でこの曲の歌詞であろう文章が記載されている。それは今まで見た事も無い歌詞だった。

     というよりも、古文に近いその内容は、短い三つほどの文章を繰り返しており、意味もさっぱり分からない。

     だが、そのメロディは違った。音階は日本風、というよりもアジアのもの、という表現も合っていないかもしれない。今まで小百合が触れた事のない音楽だった。頭の中で何度もそのメロディを反復すればするほど、不思議と高揚感を覚えるのだ。

     インターネットで歌詞の検索をしても情報は出てこない、この曲がどこの国のもので、いつの時代かさえもわからない、それでいて頭の中からひと時も離れる事は無いメロディが小百合の胸をどんどん高鳴らせていった。

    ―私にはこの曲を多くの人に歌わせる資格がある。

     差出人不明の手書きの楽譜、題名のない歌が恨みしかないこの人生に、ほんの少しだけ光を刺してくれた気がしたのだ。

    すらすらと包み隠さず、彼女はみんなの前でこれまでの自分の人生を話した。まるでいつか発表する日がある事を知っていたように要点がまとめられ、彼女のうだつの上がらない人となりをこの短い時間で理解する事ができた。

    「…それを、あの日歌わせたのですか?」

     俺が言うと、貝塚は頷いた。

    「私には資格があるんです、あの曲を歌わせる資格が」

    「そんなにすぐに歌えるような、簡単な曲なんですか?」

    「はい、とっても。小さい子が最初に音楽の授業で習うようなものです」

     さっきまでぼんやりとしていたのに、今では顔を上げ、微笑みさえ浮かべている。

    「今その曲を口ずさんでもらえることはできますか?」

    「お断りします」

    「そこを何とか、興味がありましてね。もしかしたら曲の特定ができるかもしれません」

     彼女の話だと、その音階はアジアのものかもしれない。そうであれば自分の知識は役に立つだろう。

    「ちょっと待って、おかしくない? その歌でみんなおかしくなっちゃったの?」

     玲が半笑いを浮かべて言った。

    そうだ、重要なのはそこだ。

    「宮原さん、ここにはみんな貴方よりも年上の人間しかいないのよ? 喋り方に気を付けなさい」

    「そんなの関係ないでしょ? 歌でおかしくなるなんて絶対ないけどさ、みんなが死んだのは先生のせいなの?」

     貝塚は少し考え、言葉を続けた。

    「最初はね、何であんな出来事が起きてしまったんだろうって考えたの。ついさっきまでずっと理解できなかった。でもね、今はわかる。きっとあの歌は人間を自由にするのよ。あの日音楽室にいた生徒たちは自由になったじゃない」

    「自由って殺し合う事がですか?」

     たまらず俺は口を挟んだ。

    「はい、そうです。自由。授業が始まってすぐに私はピアノでメロディを聞かせました。最初は戸惑っていた生徒たちも、たった十小節しかない曲のメロディを聞いていくうちに、黒板に私が書いた歌詞を覚えるようになったんです。そして、授業が始まって二十分くらい経った頃、合唱をさせました」

     もはや貝塚におどおどした雰囲気はない。まるで別人のように見える。さっきまで死にそうな表情だった女がここまで変われるものだろうか。

    「ちょっと待ってください、黒板にはそのような文字は記載されていませんでしたが」

     これまで沈黙していた下条が口を開いた。

    「消しました」

    「何故ですか?」

    「あれは私にしか教える資格のない歌だからです」

    「消したという事は、原因はそこにあるとあなたは気が付いたわけですね?」

     貝塚は少し間を置き、頷いた。

    「合図を出した後、急いで耳栓をはめました。うっすらと聞こえてきた声さえも聞こえない様に、他の歌を口ずさみながら一人一人生徒の顔を眺めたんです。そうしたら歌い終わっただろうその後、一人の男子生徒が筆箱からボールペンを取り出し、とくに表情を変えず、ゆっくりと振り上げたその手を、隣に座る女子生徒の首へと突き刺さしました。それが合図です」

     俺はそこからの惨状を想像した。

    しかし理解できない、歌で発狂する? それなら何故この女はおかしくなっていない。耳を塞いだくらいで被害は及ばないのか?

    「スローモーションの中、真っ赤な血しぶきが私の目の前で鮮やかに舞い上がったんです。怒号が飛び交い、聴くに堪えない罵声が至る所で聴こえる中、私は一人一人の生徒の顔を見つめたんです。そのどれもが恍惚な表情で、とても幸せそうでした」

    「ふざけないで! そんなわけないじゃん」

     玲がテーブルを叩く、そうだ、そんなわけがない。

    「喜んで殺し合うわけないでしょ? マジで言ってんの? そんなわけないじゃん。私が見た萌美はそんな顔してなかった」

    「萌美? ‥ああ、水本さんね」

     貝塚は楽しそうに笑いだした。

    「あの子は特に嬉しそうにクラスメイトを虐殺していたわよ、男子生徒にも負けずに。最初にカッターを持ったのは彼女じゃなかったかしら」

    「嘘! 優しい萌美がそんな事するわけない、ていうか、薬かなんか飲ませたんでしょう? みんなから馬鹿にされてたから」

    「宮原さん、あなた可哀そうね」

     貝塚の声のトーンが変わった。

    「きっと毎日抑圧されて生きているのね、わかるわ、先生もずっとそうだった。目に見えない社会の不平等さに嘆き悲しんでいたけど、でもわかったの。その悩みが下らない事なんだって」

    「意味わかんない!」

    「玲くん、落ち着いて。貝塚さん、俺はアジアの音楽の歴史をずっと追い求めて研究しています。人類史上政治的な理由などで発売禁止された曲はたくさんありますが、発狂してしまう音楽なんて聞いたことが無い」

     正確に言うと、そう言われている曲はある事はある。が、それは噂に尾ひれがついただけのまがい物で、たいていは大した曲ではない。

    「それは当たり前でしょう。資格のある人間にしかこの曲は教える事が出来ないのだから」

    「でも、あなたさっき十小節ほどの簡単な曲だと言いましたよね」

    「ええ、でも教えるには資格がいるんです」

     差出人不明の手紙に書いてあったことを鵜呑みにしているという事か? そもそもそこに疑問を持たないくらいの精神状態なのだろうか。

    「じゃあそうとしましょう。で、あなたがそうやって自信を持って答えているのは今日の事件の事ですか?」

    「ええ。同士がいたんですね、嬉しい」

     貝塚は嬉しそうにニヤついた。

    「同士、それはあなた同様に楽譜を受け取った人間が、同じように授業で歌わせたという事ですか?」

    「さあ、それはわかりません。でも、あの歌を教えたのは間違いないと思います。その方は亡くなっていないんでしょう? じゃあ耳を塞いだのね、お利口」

     すると突然、下条が急いで席を立ち、慌てて部屋を出ていった。

    「…貝塚さん、あなたは今回の差出人不明の楽譜を見た時、不審に思わなかったんですか、例えばそうだな、いたずらとか」

    「最初は思いましたよ、でもそれでもいいじゃありませんか」

    「いい、というのは?」

     貝塚はゆっくりと玲に目を向けた。

    「私の人生は孤独でした。何一つ悪いことはしていないのに、この子たちは私をバカにする」

    「アンタが気色悪いからよ!」

     怒り狂う玲をなだめながら続けた。

    「あなたがどういう人生を送ってきたかは先程の話しで大体わかりますが、どうであれあなたの取った行動で二十三人も人が死んだ、しかも子供が。そこはどう思われますか?」

    「それは私の責任ではありません。殺し合ったのは生徒たちですから」

    「本当にそう思われます? 罪悪感はありませんか?」

    「今はもうありません、きっと他にも広がっていくでしょうし」

     …そうか。

    その通りだ。

    貝塚だけではなく、三重でも同じことが起きている。という事は、この話を信じるならば、少なくとも二か所がその歌で発狂したという事だ。他でも起きる可能性はある。

     まるで伝染病みたいじゃないか。

    「貝塚さん、楽譜は今ありますか?」

    「ありませんよ、もう」

    「それって捨てたって事ですか?」

    「はい、頭の中にあります。資格のない人間には見せたくありませんので」

     もはや自分は選ばれた人間だと言わんばかりの口調だ。

    「じゃあ歌詞は?」

    「もちろん覚えています」

    「教えてくれませんか?」

     だめだろう、案の定首を横に振った。

    「それは俺に資格が無いからですか?」

    「ええ、その通りです。先生には楽譜は届いてないんでしょう?」

    「はっきり言いますけど、もし次に同じような事件が起きれば恐らく全国的に、いや、世界的にその歌の事は話題になる。そしてそれはどういう事かわかりますよね?」

    「みんな歌いたがるでしょうね、そしてたくさんの人間が死ぬ、この世界から自由になれます」

     ダメだ。

    何を言っても口を開く事は無いだろう。貝塚小百合はある種の使命感の元、その歌を伝承する事が使命だと思い込んでいる。死んでいくものは俗世から解放されて自由になるとでもいいたいのだろうか。

    「二人ともおかしいよ、そんなことあるわけないじゃん、ねえ」

     玲が言った。否定するべきか、それとも肯定するべきか。

     そんなわけがない、その通りだ。だが、じゃあどうして生徒たちは殺し合ったのか、それも二か所の離れた場所で。説明ができない、そういう薬物が流行っている事も否定はできないが、なぜ音楽の授業中に起ってしまったのか、説明がつかない。

     その時、部屋の扉が勢いよく開き、下条が戻って来た。

    「…三重も同じでした。音楽教師は差出人不明の楽譜を受け取っていた。一昨日の事件の報道を見て、もしやと思い音楽の授業で生徒に歌わせた、そしてこれだ。いったい何人がその楽譜を受け取っているんです?」

     その言葉を聞いた貝塚が、嬉しそうに言った。

    「嬉しいわ、私が先導したんですね」

     この場の全員が思っただろう、すでにこの女は壊れているのだ。

    「それは違う、楽譜をあなたに送った人間がいるんだ。先導した人間がいるとすればそいつだ。いいですか、あなたは利用されただけなんですよ。音楽教師だったあなたに楽譜を‥、そうか、それだ」

     音楽を教える立場にいる人間、全国にいったいどれほどの人数がいるかわからないが、そのほんの一部でも貝塚のように人に教えれば? 信じられないがそこで殺し合いが始まるという事だ。

    「下条さん、教師ですよ、全国の音楽教師。他にも受け取った人間がいる可能性があります」

    「全国」

     下条が唸った。個人で音楽教室を開いている人間もたくさんいるはずだ。細かい部分まで含めとんでもない数になるだろう。

    「ねえ、ちょっと待ってよ、みんな本気? 歌で頭おかしくなるなんてあるわけないじゃん、しっかりしてよ」

     玲の声が遠くで聞こえる。そんなわけない、と言い切れるのだろうか、現に貝塚はそう考えている。

    「お願いです、内容を教えてください。もし他にも受け取っている人間がいたら、これからもっと死ぬんです。人殺しの片棒を担いで嬉しいですか?」

    「私は何の罪になるんですか?」

     貝塚が落ち着いた声で言った。

    「教えてください、私は何の罪で裁かれるんでしょうか。合唱させただけで何の罪が適用されるんですか?」

     この質問に下条も俺も答える事は出来なかった。

    が、玲だけは違った。

    「この人殺し! 罪に決まってんじゃん、あんたは誰からも許されない人殺しよ!」

     眩しいばかりのまっすぐな若さとはこういう事を言うのだろう。だが裁く裁かないが問題ではない。日本中で同じ事が起ころうとしているのだから。

    (六)

    「下条さん、内閣調査室がどうしてこの事件に関わっているんですか?」

     口を開いた来須の表情が硬い。私も何だか頭が重く少し痛む。あまりにも理解できない話が繰り広げられたからだ。萌美をバカにした態度を取っていた貝塚に最初こそ怒りを覚えたが、後半は恐怖さえ覚えた。

     あれが生まれて初めて生で見る気の狂った人間なのだ。今までずっとおどおどとしていた癖に、さっきの彼女は主導権こそ自分にあると言わんばかりにあの部屋を支配していた。

     窓の外に目を向けるとすでに外は暗くなっていて、壁にかかった時計はもうすぐ二十時を指そうとしている。二日前の朝、好きなブランドのセール案内がダイレクトメールで届いている事に気が付き、自分のお小遣いを想像しながら何を買おうかと考えながら登校したのが遠い昔に感じる。親友が何の前触れも無く突然死んでしまってから、三度目の夜を迎えてしまった。そして辿り着いたのは、頭のおかしい音楽教師の妄想としか思えない告白だった。

    「宮原さん、今日の事は他言しないように。SNSなどネット関係も禁止です。ご理解いただけますか?」

     気が付くと下条が目の前に立っている。

    「わかってます。こんなの誰も信じないし、人に話したら馬鹿にされちゃうので」

    「よろしくお願いします。では」

     短い挨拶を済ませ、さっさと二階へと戻っていく後姿を見送り、無言のまま車を止めているコインパーキングまで二人で歩いた。

     おんぼろの真っ白い軽自動車の助手席に乗り、来須がエンジンを掛けると同時にまたあのうるさい音楽が耳を襲ってくる。

     が、さすがに音楽を聴く気分ではなかったのだろう。すぐにラジオへと変えられる。

    送っていくよ、どの辺?」

    「いいんですか?」

     我ながら白々しい、そのつもりだった。

    「もちろん。未成年者を付き合わせたのはこっちだから」

    「じゃあ巣鴨駅の方へお願いします」

     来須は無言で車を発射させた。

     窓の外ではたくさんの人が最寄りの駅に向かって歩いている、ここから飲みに行く人もいればデートに出かける人、まっすぐ家に帰り家族とゆっくり過ごす人もいる。この中の何人が今日起きた出来事、キリ高で起きた出来事の事を考えているだろうか。ニュースの中でよく見かける事件の一つくらいにしか考えていないのかもしれない。いや、普通はそう考えるだろう。自分には関係のない事だと、蚊帳の外から人が死んだ事を知るのだ。でも私は違う。じんわりと二日前から脳みそがマヒしているが、まぎれもなく事件の渦中にいる。そしてついさっき進展もあった。いや、あれは本当に進展があったと言えるのか。

    「先生、さっきの話って本当なのかな」

    「貝塚の話しか?」

    「うん、そう」

     人に歌わせると発狂する曲。そんな都合の良い歌なんてあるわけが無いし、そもそも何故貝塚には何も起きていないのだ? 口に出さないまでも頭の中で何度もメロディと歌詞を反復しているはずだ。耳を塞げば大丈夫なんて、単純すぎないか?

    「狂人が発した言葉として片付けるのが一番楽なんだろうが、残念ながら三重の高校でも同じ出来事が起きた。シチュエーションは全く同じで助かったのは教師だけ、差出人不明の封筒が届いたのも一緒。歌の存在そのものは置いといても、無関係ではないよな」

    その通りだ。全く条件は一緒だ。

    「あの部屋に最初に入った時はあんなに無気力だったのに、三重で起きた事件を聞いてからの彼女の変わりようを見たか? あれは異常だった。言っていたように同士がいた事によって、自分のやった事に意味を見出したんだろうな」

    「それって生徒を殺す事?」

    「というよりも、教育者として正しい事をやったと言わんばかりの口ぶりだった。彼女はそんなに学校では馬鹿にされていたのか?」

     馬鹿にされていた、とは少し違う。

    「正直気にもした事ない。多分それはみんなも一緒。いてもいなくても気が付かないっていうか‥」

    「まるで幽霊みたいな?」

     私は頷いた。そう言えばあだ名は心霊だった。

    「日本だけじゃなくアジアの歴史の中で、歌による集団発狂の話しなんて聞いた事がない。もちろん長い年月の中で埋もれた事実もたくさんあるわけだから、一概には否定できないけどね。とにかく調べるにも現時点では材料が少なすぎる」

    「先生はあると思うの?」

    「わからん。が、否定はできないね。あるわけないと思われている事がこれまでの歴史ではたくさん起きてきたわけだから。人間はどうしても自分の生きている時代を基準としてしか考えられない。例えば今の時代こそが過去最高に豊かで、テクノロジーも発達しているとか。どうして言い切れる? 少なくともこの日本の歴史は魏志倭人伝で触れられた文献が一番古い。そこからひも解いてもほんのちょっと前からしか記録は無いんだ。それよりも前の出来事は?」

    「縄文時代とか?」

     歴史には全く興味が無かった。来須の言うように昔の事なんて退屈としか思っていない。

    「あれも予測だ。学者先生たちには悪いがね。地層や発見される土器なんかで語られるが、誰もその時代のものを見たわけじゃあない。何なら明智光秀が何故裏切ったのかもよくわかっていないんだ。たった四百四十年ほど前の事もわかっちゃいない。全部当時の文献などから推測するしか方法は無い。でも、音楽はちょっと違うんだよ。メロディは時を超える。歌い継がれていくからね」

    「でもさ、アレンジもされるでしょ? 時代によって」

    「その通り。昔の歌謡曲が今風になってリバイバルヒットしたりな。でもそれはアレンジの事だ。メロディは変わらない事の方が多い」

     わかるような、わからないような。でも、言われてみると好きなアーティストが出すカバーアルバムを聞いた後、原曲を聞くとメロディは一緒だ。

    「音楽はいわば時代の記録のようなものだ。特に歌詞はその時代を表している。そこから当時の時代背景なんかも空想できるんだよ。例えばこんな歌がある」

     来須は咳ばらいをして、続けた。

    「八雲立つ 出雲八重垣 妻ごみに 八重垣つくる その八重垣を。これはスサノオノミコトが歌ったとされる、日本最古の和歌だ。簡単に言うと、嫁さん貰って新居を構えた際に歌われたらしんだがな。このスサノオ、天界から地上に来たんだぜ? おいちょっと待てってならないか?」

    「神様って事?」

    「まあ、定義にもよる。この国で残っている一番古い歌は神様が歌ったんだ。凄い話だよな、というよりもそんなわけないって事にならないか」

     気が付くと私は夢中で話を聞いていた。高校でこんなに面白い話をしてくれる先生はいない。

    「成り立ちは伝承でしかわからない。この国は神が作ったとされているが、それもはっきりとはわからない。でも、そんなに昔の歌が残っているのに、そこから時代を追って全ての音楽が残っているわけではないんだ。文献ではな」

    「文献では、てことは、ある事はあるって事?」

    「俺はあると思う。例えば地方で歌い継がれているようなものや、何ならものすごく狭いコミュニティ内でしか知られていない物も。実際そういうものはこの国に腐るほどあるんだよ。方言なんかもそうだろう? この狭い日本でいくつあるんだよ土地ごとの言葉が。しかも全く持って聞き取れない地方の言葉もある。ようするに、記録上は残っていない歴史も音楽もたくさんあるんだ」

    「…じゃあ今回の貝塚の言う歌もあるかもって事?」

    「それはまだわからん。だがもしも、歌うと発狂するなんてそんな物騒なものがあるとするならば、何らかの形で表に出ないようにするのが当時の国であり、人間なんじゃないか?」

     隠していたものが表に出る。という事か。

    「まあとにかく一概には否定ができないという事だな。とここまで喋っておいてなんだが、いくらなんでも発狂は飛躍がすぎると俺は思っている」

    「さっき部屋で言ってたでしょう? 全国の音楽教師がって。じゃあこれからまた同じ事が起きるのかな」

    「このままだと起きるだろうな」

     来須の顔が歪んだ。

    「やばいじゃん。早く止めないと」

    「SNSか?」

    「うん、全国の色んな人がその事実を知ればよくない?」

    「ダメだな」

     ハッキリ否定されて少し頭に来た。悪い考えじゃないはずだ。

    「じゃあ他にどんな方法があるの?」

    「玲くんが言うSNSもたしかに拡散率などを考え、現代ではかなり友好的なマーケティングツールではある。だが、デマも腐るほどあるだろう」

     そこは否定ができない。というかデマの方が多い。

    「そして、活用しているのは主に若者だ。まあ、今は都知事もネットで会見を開くほどではあるけどな。それでもダメだ。だってネットにはテレビの映像が無断でアップされたりしているだろう?」

    「うん、まあ」

    「若者はテレビを見なくなったと言うが、正確には違う。面白い番組なんかをCMなしで見てるんだ。あと好きな時間好きなタイミングで見れる事、これも大きい。まあ今は配信サービスなど他のコンテンツもあるけどな。日本の占める年齢層の高さも考えると、まだテレビの方が影響力は強い」

     たしかに、今日のニュースもそうだった。いざという時のネットニュースよりも、新宿アルタの街頭テレビを目指した。

    「じゃあ、テレビで警告するの? あの事件は合唱によるもので、楽譜を受け取った全国の人は直ちに連絡ください、みたいに」

    「それを誰がやるかだな。芸能人だとだめだ、然るべきこの国の政治家あたりに」

     頭の中でその絵を浮かべた。政治家が? あまりにも滑稽すぎる。

    「絶対ないでしょそれ」

    「ないな。無駄に体裁ばっかり取り繕うからな昔の世代は。でももう一件同じことが起きれば? そうも言っていられない。SNSでは間に合わないんだよ。だからさっき下条さんにも提言した」

    「帰る時? 何を話したの」

    「国民に告知しないで次の出来事が起きるのを待つか、至急対処するか、その二択だ」

     告知。しない場合はもしかしたらまた同じことが起きるかもしれない。でも、やるわけない。

    「まあ難しいだろうな、こんな発表できるわけないもんな。でもやらないとまた絶対起きる。貝塚のように生徒に対してコンプレックスを抱く教師は少なくはない。なんなら憎しみを抱いている人間も多いだろう。ガキってのは残酷だから大人の気持ちを踏みにじるんだよ。て君に言う事じゃないけどな」

    「でもそれは馬鹿にされる大人が悪いんじゃん」

     こういう大人の意見というのが嫌いだ。歳が上ってだけで全てをわかっているとでも言わんばかりの。

    「たしかに。馬鹿が多いよ大人は。若い頃の気持ちも忘れてしまうし。でもな、感情的に生きていけるほど世の中は甘くない。若さゆえの無鉄砲さなんて高校卒業すればすぐに通用しなくなる。自分中心で世界は回らなくなるんだよ。玲くんもすぐにわかる、理不尽なんだよこの国は。そしてその中でうまく生きていけない人間は腐るほどいるんだ。貝塚のように生徒にも相手にされない教師もたくさんいるだろう。そしてそれは恨みになる」

    「そういえば貝塚が言ってた。私は何の罪になるんですかって」

    「言ってたな。自分のせいで生徒が殺し合ったのは理解していたんだ、だが、確信が持てず、また自分のせいかもしれないという罪悪感に苛まれていたが、それが確定し、なおかつ自分だけではなく他の教師も同じ行動をとった事により、行動に意味を見出したんだろう。そうだな、彼女の言い方をそのまま使うと救済だ」

     この世界から私が救ったと言っていた。その言葉の意味がいまいちわからない。この世界のどこがいけないのか、少なくとも自分は絶望なんてしていない。

    「勝手だよそんなの。自分がこの世界に馴染めないからって、みんながそうだとは限らないじゃん。少なくても私は楽しいよ」

     自信満々に答えると、来須は車に乗って初めて笑った。

    「だな、決して悪くはないよ。いろいろ言われてるけど俺たちはこの国にいる限り今の所平和だ。だが、そうは思わない人間もたくさんいるって事だ。中には滅びてしまえばいいと思う人間だっているって事だ」

     それはイコール自分も死んでいいって事だろうか。何もかも無になる事を望む、その気持ちを私は一生理解ができないだろう、その時はそう思った。

    (七)

     世の中の景色が変わる瞬間、生まれてこれまでに一度だけ見た事がある。

    二十年前に起きたアメリカ同時多発テロ事件。当時高校生でロックやらパンクやらのレコードを焦っていた頃だ。飛行機がビルに突っ込む映像を生で見た時、ああ、戦争がはじまると思ったものだ。一瞬ではあるが世界の終りの片鱗を垣間見た。

     当時のアメリカ大統領による会見、そして始まる戦争。子供ながらにすごい事が起きていると衝撃を受けた覚えがある。

    そして今日、あの時の衝撃に匹敵する記者会見を見る事になるとは。

     テレビでは多くのフラッシュを浴びながら防衛庁長官が記者会見を開いている。内容はここ数日で起きた二件の集団発狂事件の事だ。そして長官は信じられない事を口にした。

     全国の小中高大学校、並びに音楽教室、その他音楽に携わる人間の元に楽譜が届いた場合、ただちに警視庁の相談窓口に連絡するよう真顔で喋っている。

     マジかよ…。こんなに早いとは。

     昨日の今日だ。俺は帰り際、たしかに下条に言った。止めるならすぐですよ、と。自分の意見が通ったとは思わない、が、彼が上に伝え、上が国に伝え、然るべき人間がゴーサインを出したという事だ。なんて事だ、オカルトがメインストリームを侵食してしまった。

     歌うと、もしくは聞くと発狂する音楽の存在をまだ国は認めていない。あくまで詳しい理由は言わずに、そう言った楽譜を受け取った人間は直ちに連絡しろという内容だ。それだと無駄に憶測を呼んでしまうのでは? と考えたが、よくよく考えるとこれが限界だろう。一体だれが信じるって言うんだ?

     長官は記者の質問にこう返していた。政治的、思想的に危険な内容を秘めたもので、送り主は不明だが、日本中の青少年に非常に悪影響を与えるものだと。

     誰がどんな目的で送ったものなんですか? 悪影響とは表現方法ですか? しかも音楽に携わる人間限定で? どうして防衛庁長官が記者会見を行っているんですか? 矢継ぎ早に質問が飛び交っていて、気丈に答えるテレビの中のオッサンに思わず同情してしまう。

    しかし重要な部分が伏せられているものの、こうやって表に出てしまった以上、大変な騒ぎになるだろう。来須は慌ててパソコンの電源を立ち上げた。

     メールがいつもの三倍は届いている。

    ざっと内容を見ると、自分のSNSのアカウントへとメッセージ通知が主で、なかにはテレビ局からの出演オファーも数件届いていた。内容はほとんどが一緒だ。

     記者会見の本当の理由はなんですか? と。

     言えるわけねえだろう。こっちだってまだニワカには信じられないのに。

     SNSには面白半分、恐怖半分の書き込みで溢れていた。

    ―国総出でドッキリ?

    ―日本テロでも起きんの?

    ―危険思想の音楽のジャンルは何? JPOP?

     想像以上の盛り上がりだ。

    退屈な日常に突如飛び込んできた大きなニュース、しかしこいつらはまだ自覚が無い、自分たちにも被害が及ぶ事を。何も授業を受ける人間だけが危険ではないのだ。

    もしも、楽譜を受け取った人間の中で、さらに大きな形で発表する人間が現れたら? 今はネット社会なのだ。

    「間違いなく多くの人間の耳に入るだろうな…」

     思わず独り言が口からこぼれた。

     防衛庁長官の記者会見後、ワイドショ―はどの局もこの件を扱っている。コメンテーターには何故か音楽評論家などが呼ばれており、独自の見解を述べているが、あまりにも意見が明後日の方向を向いており笑ってしまった。

     ただ共通する意見が一つだけある。そんな話は聞いたことが無い、だ。当たり前だろう、コイツ等馬鹿か? 評論家なんてプレイヤーにさえなれない人間だと俺は常々馬鹿にしていたが、今回ほどあきれた事は無い。音楽を文化として見ていないからそんな薄っぺらな意見が出せるんだよ。

     午後からの講義も質問が飛び交った。できる限り自分の考えを言ったが、本音は言っていない。あると断言するには証拠が無さ過ぎたからだ。

     だが、もはや存在するものだと思っている。貝塚はうっとりとした表情で、自分が先導したと言っていた。合唱の授業の事だろう、そのフォロワーが三重県に現れたのだ。

     一体全国にはどれくらい楽譜はばらまかれているのだろうか、想像するだけで恐ろしい。一番のベストはこの二件で終了する事だが、果たして。

     ふと、授業終わりポケットの中の振動音に気が付いた。質問に集まった生徒を振り切り、液晶を確認する。

     下条だ。

    「はい、来須です」

    「下条です。今よろしいですか?」

    「大丈夫です、ちょうど授業が終わりましたので」

    「ニュースは見られましたか?」

    「ええ、早かったですね。下条さんすごいですね、本当に発表するとは。しかもこんなに早いとは思いませんでした」

     思っていたよりも下条の立場が上だという事だろう。

    「発表を急ぐ必要がありました。先生の言った通り、かなりの数の楽譜が配られています」

     顔が見えないと余計に冷たく聞こえる声、それでも疲弊しきっているのが伝わってくる。

    「誰に配られていたかわかったんですか?」

    「昨日から五十件超、全国で警察に相談が入っています。全国ですよ、私たちが貝塚の話を聞いている頃にはすでに何件もの相談が入っていたようで」

    「という事は、物があると」

    「これからどんどん集まって来るでしょう。それで先生、一度折り入ってお話ししておきたい事があります。本日のご予定は」

     俺は身構えた。内閣調査室っていったら警察の公安よりも秘密主義で、国のあらゆる秘密事項をつかさどる政府の機関だ。そんな連中からの話しなんてロクな事はない。

    「お話というのは」

    「電話ではちょっと。本日何とかお時間作ってもらえませんか?」

    「ああ…わかりました。遅くなるかもですが。で、どこに行けば?」

    「ご足労ですが内閣府本府庁舎まで来ていただきたい」

     ほら、やっぱり。秘密共有保持書あたりに署名でもさせられるんだろうか。

    「それは構いませんが、もしかして口を封じられちゃったりします?」

    「そんな面倒な事をするくらいなら、昨日あの場所に同席させませんよ。会ってもらいたい人間がいるんです」

    「あ、はあ…。わかりました、とりあえずこれから行きますよ」

     電話を切った後、俺はしばらくぼんやりと窓から外を眺めた。

     内閣府本府庁舎は東京メトロ国会議事堂前駅から五分もかからない場所にある。近代的で綺麗なビルだが、どこか無機質な見た目で、出入りする人間も気難しそうなのが多い。いや、これは偏見か。もしくは嫉妬か。こっちは年季の入ったジャケットにデニム、スーツ族の中に混じってビルに入るのもなかなかの勇気が必要だった。

     案の定、入り口で警備員に止められることになった。

    「棟月学園音楽大学、東洋民族音楽史の来須と申します」

     名刺を渡すと、上から下まで舐める様にみられた。まあこれは慣れている、大学の教授には見えないというのは誉め言葉として捉えていた。

     目の前の厳重なゲートと屈強な警備員が三人、後ろから入って来るスーツ姿の人間たちからは好機の視線が飛ばされていた。

    「…はい、はい、わかりました」

     最初に対応してくれた警備員が電話を切り、迎えが来るから待ってくれと言われた。ええ、待ちますとも。ちなみにここに来る前に、玲に電話をしていた。内容はニュースでの発表の事、そして呼び出されたので今日中にもしメールなり電話なりが俺から来なかった場合は、大学に連絡してもらうように頼んだのだ。

     正直ビビってないと言えば嘘になる。そりゃそうだ、一階のマイナー分野の大学教授が内閣調査室に呼び出されているのだ。

    「来須先生、お待たせしました」

     だが、迎えに来たのは女性で、ぱっと見その辺にいるようなOL風の女性だった。

    「ああ、はい、どうも」

     ゲートをくぐるとき、ほんの少し誇らしい気分になった。警備員たちなどが頭を下げたからだ。いいんだよ、気にしてないから。

     エレベーターに乗り込み六階へと向かう。世間話でもと思ったものの、まっすぐに階数のボタンを見つめる姿に無駄話はやめる事にした。

     六階に着くと、どこにでもあるような普通のビルで、少しがっかりした。もっと秘密めいた場所を想像していたからだ。エレベーター脇にある来客室に通された俺は、ソファーに座り周りを見渡した。

     この部屋にカメラはあるのだろうか、あったとしても問題は無いのだが。内閣調査室といえば日本一の情報収集力がある団体だ。別名は総理の目。ようするにあらゆる情報を集め、国のトップに渡す。だがそれだけではない事を知っている。大学の同期で警察官僚の道を進んでいる友人から聞いた情報なのでどこまでが本当かわからないが、日本国の経済や政治にも目を光らせているという。

     まさか自分がこんな場所に来るとは。

    面白おかしく生きて行くために選んだ分野、東洋民族音楽史。

    元々は祖母が九州で琴の一門を開いており、雅楽などに幼い頃より触れていた。その延長なのか、様々な音楽に触れるうちに、歴史に興味を持つようになる。西洋音楽に関してはかなり細かく様々な文献が残る中、アジア、しいては日本の音楽に関する情報があまりにも少なすぎた事が調べ始めたきっかけだった。

     俺はのめり込んだ。少ない情報を手繰りよせ、そして繋げる。それは日本の歴史とは密接で、その辺の歴史学者と同等に日本やアジアの知識は頭に入っている。

     何故、このような時代、こんな状況で、この音楽は生まれたのだろうか?

    それを考えるだけであっという間に時間は過ぎていく。三十七の若さで教授として雇ってもらえることになった時、冷静に思ったものだ。こんなに金にならない分野をよく学校の一分野として開設したものだと。

    こんな機会を与えてもらった、なんておこがましい考えかもしれないが、世の中で一人でも同じように民族音楽史に興味を持ってもらいたい。こんなに奥深く、人類と共に寄り添う学問は無いのだ。音楽とは人が奏でるもので、歴史が奏でる者なのだ。と熱く講義で話したところで、打って響くような生徒はまずいないのだが。だから最近は面白おかしく動画を配信して興味を持ってもらえるよう努力しているつもりだ。

     ドアをノックする音と同時に、入り口のドアが開いた。そこには下条と、かなり年配のにこやかな老人が現れた。

    「あ、どうも昨日はありがとうございました」

     立ち上がり二人に頭を下げた。

    「こちらこそ、今日はご足労いただきまして。来須さん、こちらは宮内庁書しょ陵部りょうぶの尾お見みさんです」

     紹介された老人がにこやかに手を差し出してきた。

    「はじめまして、棟月学園音楽大学、東洋民族音楽史の来須と申します」

    「存じてます。あなたの著書は面白い、若い方ならではの解釈ですな」

    「ああ、恐縮です」

     ‥宮内庁? どんどんと話が大きくなっている気がする。

    「今日こちらにお越しいただいたのは、尾見さんのお話を聞いていただきたく―」

    「すみません、下条さん、ちょっとその前にいいですか?」

     そうだ、確認するんだ。玲が研究室に現れたのは昨日、それからのスピードに自分が付いていけていない。

    「何でしょう」

    「俺は昨日の宮原玲くんに相談されたんです。まあきっかけはSNSで上げた論文を見た彼女がコンタクトを取ってくれて。個人的にも興味があったので話を聞きました、その後すぐに三重であの事件が起きたでしょう? だから宮原君の学校の先生、貝塚小百合を訪ねて麹町署へと向かったんです。音楽が関わるならば何か力になれるかもと思いましてね。で、下条さんにお会いして、貝塚さんと話した。と、それだけの事しかしていません」

    「そしてあなたは私に進言した。早く手を打った方が良いと」

    「いや! そりゃあ言いましたよ。あの時は俺も興奮していたというか、単純にそんな歌があるならば急いで手を打たないとまた同じ事が起きると思って」

    「あなたは、あの場所ですぐにその話を信じたのかな」

     黙っていた尾見が口を開いた。

    「いやぁ、正直言うとわかりませんよ。ていうか、そんな漫画みたいな事が現実に起こるなんて‥」

     いや、待て。だから起こるはずが無いと言い切れるか? 玲にも昨日言ったじゃないか、昔の事はまだ何もわかっていないんだ。存在してもおかしくはないのではないだろうか?

    「どうしましたか?」

    「…いや、無い、とも言いきれないというか、何というか」

     情けない返答しかできない。ある! と言えない自分の頭の固さも気に食わない。

    「来須さんはこう思っているんでしょう。世の中にはわかっていない事も多い、だから存在しないとも言い切れない。こんなところかな?」

    「はい、まあ。というか、隠しているというか」

     これを宮内庁の人間の前で言ったら。殺されるだろうか。

    「日本の歴史において、重要な部分を管理なされているのは宮内庁ですよね、古墳なり文献なり。だから何といいますか、国民が知らない事はたくさんあるんじゃないかと」

     険悪な空気になるかと思われたが、逆だった。尾見はさらに楽しそうに笑いだしたのだ。

    「あなたは面白いね、東洋民族音楽史という分野は楽しいかね」

    「ええ、人生かけても良いくらいには」

    「そうか、下条君、私は構わんよ」

     話を振られた下条が頷き、続けた。

    「来須さん、あなたにはどのみち連絡を取るつもりでした。まさか警察署で会えるとは思いませんでしたがね」

    「は? 俺に? どうしてまた」

    「今回の件です。桐谷高校の事件が起きてすぐに連絡を取るつもりでしたが、色々と手続きがありましてね、あと貝塚氏が思っている以上に口が重かったりと、準備が間に合わなかった」

    「…ちょっと待ってください、桐谷高校の時点でって事は、ある程度の事情をあなた方は知っていたという事ですか?」

     下条は慌てる様子も無く頷いた。

    「いやぁ、いやいや、ちょっと待ってくださいよ? 昨日貝塚と話した際、そういえば歌の話の時にそこまで下条さん驚いてなかったような。知っていたんですか?」

    「知っていたというと語弊はありますがね」

     だめだ、さっぱりわからなくなってきた。

    ただ一つ間違いのない事がある、ついに宮内庁まで出て来た、そして下条は知っていたと言った。

    という事は、歌が存在しているという事で間違いないんじゃないのか?

    (八)

     昨夜、来須からの連絡があったのは午後九時を回った頃だった。

    ―無事帰宅。心配おかけしました。明日研究室に来れる?

     その短い文章から伝わる安堵感と焦燥感に、私は短い返事を返した。

    ―お疲れ様でした、明日行きます!

     日付が変わってもあらゆるメディア、ネットでは防衛庁長官による記者会見の話題でもちきりだ。海外でもこの件は大きく報道されており、その真意について熱く議論が交わされている、らしい。

     昼前に研究室に着くと、まず来須の様子の変化に気が付いた。何やら神妙な顔で、昨日下条と会って何かが起きた事を物語っている。

    「呼び出してすまないね、学校はいつまで休み?」

    「来週の月曜日からは普通に登校、で、昨日はどうだったんですか?」

     今週いっぱいは休校になった事を母親から聞いたのは今日の朝方だった。大勢の父兄が安全面において学校側と揉めているらしく、詰めかける報道陣の目も考慮しての事らしい。

    「その前に最初に伝えておかなければいけないのが、君はしばらくの間色々と身辺調査をされるかもしれない、監視対象だな」

    「え、何で? 事件の現場にいたから?」

    「それもあるが、原因は俺だ。理由は後から話すが、ようは近しい人間という扱いになっているらしい。まだ知り合って一週間も経たないのにな」

    「先生のせいって、何かやらかしたの?」

     昨日あれから下条と何かあったのだろうか、監視対象って言われても、普通の高校生なのに。

    「いや、やらかしてない。まあ首を突っ込んでしまったのは間違いないが、どのみちコンタクトを取って来る予定だったようだしね。向こうの用件はこうだ、今回の原因を調べろと。まあ一応専門家でもあるからね」

    「歌の事?」

     来須は頷いた。

    「すごいじゃん、さすが」

    「茶化すな、俺の他にもこの分野を研究している人間は日本に数人いるが、そのどれもが今回否定的な意見を出しているそうでな、例え危険思想だろうが、楽譜程度で日本の防衛のトップがわざわざ記者会見するのはおかしいって。まあそいつらの言う通りなんだが」

    「じゃあ何で先生?」

    「向こうの言い分曰く、年齢が若い事、著書やSNSの発言から見る柔軟性、そして君と行動したこともかなり大きい」

    「あ、警察」

     あれは半ば強引に連れて行かれただけなんだけど。ただ、結果的に貝塚の話しが聞けたし、あの出来事が起きた理由もわかった。まあ、まだ全部を信じたわけではないが。

    「で、先生は何を調べるの?」

    「まずは楽譜だ。もうすでに現物が下条さんの所属している内閣調査室には多数届いてるそうでな。情報提供も含め全国でどれくらい送られているか調べているらしい」

    「じゃあ…その中で、実際に歌われたのは二件だけなんだ」

     その二件にキリ高も入っている。何で私たちの学校なんだろう。貝塚のせいと言えば簡単だが、それでも納得がいかない。萌美やあの日死んだ生徒は運が悪かったから死んだという事か。

    「昨日の記者会見は意味があった。世間的には謎過ぎる記者会見だが、楽譜を貰った当事者たちはさぞ肝を冷やしたろう、中には事件を見て自分も生徒に歌わせてみようと考えた輩もいるかもしれないが。ああやって国が目を付けていると公表すれば、故意に歌わせることはできないはずだ」

    「…私ね、昨日一日考えてたの。貝塚の話を聞いてすっごいムカついたけど、よく考えてみると、見ず知らずの歌を生徒に歌わせたがった心境って何だろうって。だって手紙にはその歌で人間は発狂するなんて書いてなかったんだよね? なのに授業で歌わせた。その理由は何だろうって」

     自分がもしも生徒に馬鹿にされていたら? 毎日学校へ行き、憎らしい生徒に授業をする気持ちを考えた。それはかなり辛い事のように思える。尊敬されない大人はたくさんいるし、その理由は子供側からすればちゃんとあるのだが、それが分かった上で真面目に聞かない生徒に向かって教える辛さ、毎日が馬鹿らしかったのではないか。そんな中、差出人不明の楽譜と意味深な手紙。

    「興味半分で歌わせたんだと思う。資格があるとかなんとか言ってたでしょう? でもあれは後付けで、ただの興味本位だよ。どんな授業をしようが、何を教えようが、どうせ生徒に認められないんだから。」

    「奇遇だな、俺もそう考えてたよ。本当だぞ? 貝塚と話した感じ、すでにこの事件が起こる前から精神的に限界を迎えていた節がある。玲くんの言う通り人生に意味が見いだせず、どうでもよくなっている部分があって、あの楽譜。手紙だって意味深だもんな、何か起きるかも、という淡い好奇心が起こした悲劇だ。そして同じような人間が三重にもいて、二件目の事件が起こった。そしてまだ起きるかもしれない」

    「え、でも回収は進んでいるんでしょ?」

    「ああ。でも追い込まれた人間ほど想像を上回る事をやってのける。貝塚は事後に理由を見つけたが、ここから先は違う、何かが起きるとわかっていて誰かに歌わせる人間もいるかもしれない」

     一瞬、来須が何を言っているか理解が出来なかった。わかっていて歌わせる、それって…。

    「殺人じゃん」

     来須は頷いた。

    「でも、報道が出てるだろう? 例えば玲くん、今後音楽の授業で聞いた事もない歌を合唱しろって言われたらどうする?」

    「警戒する」

    「君ら高校生ともなるとニュースも耳に入るよな、となるとみんなが警戒するし、何なら先生に問いただすだろう、これって話題の曲なんじゃないかって」

    「うん、絶対すると思う。やだよ、歌うわけない」

    「だよな、知っていて歌うわけがない。世間を騒がせている噂の曲なんじゃないかってな。まあ中には興味本位で歌ってみよう的なやつも現れるかもしれないが、それでも結局歌わない。人間は本質的な部分で恐怖を感じる行動に興味は持つが、実行はしない。もしも本当だったら? の方が勝つからだ。だけど、それがもしまだ判断の付かない子供なら?」

     判断が付かない子供?

    「赤ちゃんって事?」

    「もうちょっと上だ」

    「幼稚園、小学生、の低学年とか‥え」

    「そうだ、もしその子たちが歌ってしまったら?」

     考えたくもない。

    「絶対ない、ないでしょ? そんな酷い人間が先生になるかな? いくらなんでも大人が小さい子供にそこまで酷いことするとは思えない」

    「無いとは言い切れない。信じられないくらい残虐な思想を持つ人間はいる。幼児性愛もまた然り。世の中にはそんな事件がはびこっているじゃないか」

     そうだ。信じられないニュースが毎日のように起こっている。死んでしまうような虐待など、小さい子供に対して何故そんな事ができるのか、一切理解する事はできない。

    「考えたくはないが、その可能性もあるって事だ」

    「そんな奴一人で死ねばいいじゃん、何で子供を巻き沿いにするの?」

     言いながら萌美の事を思い出した。子供に携わる仕事に就くのが夢だった彼女は、理不尽な大人の興味本位の犠牲になったのだ。

    「俺もそう思う、迷惑かけず一人で死んじまえってな。だが残念ながら可能性はゼロじゃない。だから急がないといけないんだよ、誰が送ったのか、目的は何なのか。あとは人を発狂させる歌そのものが存在するのか」

    「先生が一人で調べるの?」

    「いや、もちろん下条さんの機関も動く。情報収集のプロだからね。ただ音に関しては俺の方が知識を持っているかもってだけだ。それで君にも手伝ってほしい事がある」

    「手伝うって何を?」

     ただの女子高生にできる事なんてあるのだろうか。

    「俺のアシスタントについてほしい。もちろんバイト代も出すし、学校が終わってからで構わない。本当はウチの生徒を使ってもいいんだが、極力関係のない人間は巻き込まない方が良さそうだ。君はもうどっぷり漬かってるしな、親友の仇も獲りたいだろう」

     きっと来須は最後の部分を考慮してくれているんだろう、蚊帳の外にしないように。

    「でも、バイトはファミレスくらいしかやった事ないんだけど」

    「難しい事はない、俺がちゃんと指示するし。まあ君が興味を持てないなら無理はしなくていい」

    「やる。ここまで来たら最後までちゃんと知りたいから」

     そうだ、ただ巻き込まれて親友を失くした事件関係者なんてまっぴらごめんだ。ただ漠然と生きていた毎日はもう終わった、ちゃんとこの一連の出来事の終わりを見たい。

    「わかった。じゃあ君さえよければさっそく取り掛かりたい」

    「何をすればいいの?」

    「これからある場所へ出かける。そこで調べものがあるから一緒に来てもらってメモ取ったり資料を分けたり手伝ってほしい」

    「了解、どこ行くの?」

    「国立国会図書館だ」

     政治に一切興味のない私でも、国会議事堂くらいはわかる。駅を降りるとそこは見慣れない光景が広がっていた。新宿や渋谷のように人は溢れていない。歩く人間は何だかとてもお堅い印象を受けた。道端には警察官がぽつりぽつりと立っており、何だか探るような視線を向けられている気がする。

     駅から五分ほど歩いた場所にその国会図書館はあった。無機質なコンクリート打ちっぱなし、例えようのない謎の威圧感に思わず息を飲んだ。とにかくでかい。

    「どうした、ボーっとして」

     来須の呑気な声で我に返る。

    「でっかいね。先生良くここに来るの?」

    「ああ。ここでしか見られない資料もたくさんあるからね。それに一般の人も利用できるんだぜ」

    「え、私でも本借りれるの?」

    「借りれないがコピーはしてもらえる。未成年は親の承諾がいるけどな」

     巣鴨にも図書館はある。あまり利用しないが建物の前を通る事はある。もっと子供も立ち寄れるようなポップな外装だが、ここはまるで美術館のような佇まいだ。

    「先生、お腹空いたんだけど、入る前になんか食べてもいい?」

     いざ戦場へ。の前に、腹ごしらえは必須だ。

    「そう言えばそうだな。玲くん、カフェは好きか?」

    「うん、大好きだけど」

    「上手いコーヒー飲ませてやる、着いてきな」

     そう言うと、来須はさっさと国会図書館の中へと入っていく。え、外じゃないの?

     建物の中は思ったよりもお洒落だ。もっと無機質で殺風景な場所を想像していたが、コンクリート打ちっぱなしで無数に立つ柱が何だかおしゃれな雰囲気を醸し出している。

    「ねえ、先生、カフェは?」

    「二階にある、まあ焦るな」

     来須の歩くままに二階へと上がると、そのカフェはあった。というよりも、学食の様な‥。

    「さあ、何でも腹いっぱい食え。ちゃんと加減して眠くなるなよ」

     そう言いながら千円札を一枚手渡された。なるほど、よく見ると入口に食券販売機が置いてある。いやいや好きな物と言われても‥と思いつつ迷った挙句、ロースカツカレーを頼む事にした。

     外観は完全に学食だったが、中に入ると意外としゃれた作りになっている。私のように私服姿の若者もいて、思ったよりも居心地は悪くない。

    「そういえば君は卒業したらどうするんだ?」

     来須が本日のA定食を食べながら聞いてきた。

    「一応進学の予定」

    「どこ受けるの?」

     第一志望と第二志望の大学を言うと、露骨に顔をしかめた。

    「何だ、随分チャラついた学校へ行くんだな。君はもっとこう、骨太な学校へ進むべきじゃないか? 夢は何だ」

    「別に何もない。大学行ってから考えようかなって」

    「まあそれもありかもな。どのみち大学なんてあまり意味をなさないから過度の期待はやめとけよ。進みたい道が見つかったら進路なんてどれだけ変えてもいい」

     来須の皿を見ると、おかずが異様に減り、ご飯がたくさん残っている。何なら備え付けのサラダには一度も口を付けていない。食べ方があまり上手ではなさそうだ。

    「何だか先生みたいだよ」

    「忘れたのか、先生なんだよ」

    「ねえ、教授って楽しい?」

    「楽しい。ていうか楽。自分の時間がめちゃくちゃ取れるからね。もちろん研究もするが、猛烈に眠いなら寝てもいいんだ。誰にも咎められる事は無いからな」

     意外だった。大学教授ともなると、毎日寝る間も惜しんで研究に没頭しているものだと思っていた。

    「もちろんやる事はやらないといけないが、それでも自由な時間は多い。君も何かの分野の教授になるといい、毎日楽しいぞ」

    「なれるわけないじゃん、私が」

    「どうして」

     心底不思議そうな表情を浮かべている。

    「だって、何の取り柄も無いし」

    「取り柄なんていらん。俺も何もない」

    「じゃあ何で教授になれたの?」

    「好きだったからだ。いまだに研究している気はさらさらなくてね、好きなものを追及してたら教授になった。マニアックだからな俺の分野は。君も考えてみると言い、何か好きなものがあるんじゃないか?」

     好きな物、没頭できるもの、一体何だろう。パッと思い浮かぶのは、ファッションくらいかな。

    「洋服かな。でも、それは専門学校でしょ?」

    「まあそうだな。でもこういう考え方もできる。そのファッションはどこで作られ、その時代背景はどうだったか? とか。カルチャーも探ったりすると、何故そのデザイナーがそういうデザインしたか見えてくる。そういう考え方もある」

     来須はそう言いながら、目の前に残ったサラダをどうするか悩んでいるようだった。

     カルチャーか、考えた事も無かった。物事の側面を調べる事はとても面白い事かもしれない。萌美は夢を持っていた、私はそれにコンプレックスを感じていた。でも、今初めてほんの少しだけど未来を考える楽しみを味わえることができた。さすが大学教授、サラダは食べなくても良い事は言えるみたい。

    (九)

     食事の後はやっぱり眠くなる。

    いや、そんな呑気な事を言っている場合ではない。これからが本番なのだ。

     国会図書館は一部を除き、書物全てバックヤードに管理されており、館内備え付けの検索エンジンで目星をつけたものを都度受付で受け取る事になる。よくある図書館のイメージでこの建物に入ると、大体みんな面食らってしまう。現に隣でキョロキョロと落ち着きなく視線を動かしている玲もそうだ。

     そして貴重な物ほどデジタル化が進んでおり、滅多な事ではこの手で触れる事はできない。存在を信じている書物は多数あるが、図書館内の目録に記載がない以上どうしようもなく、やきもきする事も多かった。

     しかし、今回は違う。

     この建物に入る全ての人間が憧れるバックヤードへと入る事が出来るのだ。こんな夢のような話があるだろうか。これまで掘り下げたくても痕跡を辿る事が困難になる事が多く、その度に半ばあきらめに近い形で決着をつける所が多かった。いや、これは全ての分野においてだろう。仕方のない事だが表に出ては困る文献があってもおかしくない。

     それでも、俺は時代を遡りたかった。それがこんな形で叶う事になろうとは。

     昨日、宮内庁の尾見から国会図書館内の貴重書をまとめた書庫への立ち入りが許された時、思わず変な声が漏れてしまった。

    「我々は不都合な真実を隠しているとよく言われますがそうではない。現存するこの国のシステムを根底から覆す情報が出た場合、どれほどの不利益が襲うか。私たちはこの国を守っているのです」

     物は言いようだ。だが言いたい事はわかる。

    「実際、表世界には出ていない文献はたくさん存在する。その全てが隠し通さなければいけない物ではなく、単純に情報過多になるのを防ぐ意味もあります。来須さん、あなたが足を運ぶ書庫は、管理、または貴重な知識が多く眠っています。そしてその目録の内容を知るのは、宮内庁でも限られた人間だけです」

    「なるほど」

     古くからこの国をつかさどるシンボルの事だろうか。

    「尾見さん、そんな場所に俺を入らせる意図は何ですか? そりゃあ光栄ですが、命を捨てないといけない状況にはなりませんかね?」

     喋りつつ、下条の顔を見た。

    「あなたの言いたい事はこういう事だ、この問題が終わったら自分自身に何かが起きるのではないか? という事ですね。例えば私の所属する内閣調査室が来須さんに対して何らかの警告を出す」

    「殺されるんじゃないかと」

     二人のやり取りを見ていた尾見が笑い出した。

    「ご心配なさらず。私たちはこれでも相手を見て物を言っています。あなたがこの国の脅威になる用であれば話は別ですが、考えも無しに色んな場所で発表されるような方ではないでしょう。ねえ、下条君」

    「ええ、失礼ですがあなたの事はかなり深い部分まで調査済みです。あなたは根っからの探究者だ。掘り下げて掘り下げて、それでも満足しないからこそ情報の価値をわかっている。そんな人間はペラペラと秘密を喋ったりはしないでしょう」

     褒められているようで、脅されている様な気分にもなった。だが当たっている。女性とセックスにいそしむよりも、美味しい料理を堪能するよりも、秘められた謎を調べている時が何より楽しいのだ。

    「来須さん、こちらも隠さずに伝えましょう。あなたとこうやってコンタクトを取り、力を貸してもらう時点であなたは監視対象になる。それも長期間です。あなたが知りえた情報をインターネットや口頭、その他別の形で外に漏らさないとは信じていますが、それでも監視させていただくことになる」

    「それって例えば、常に周りに誰かいるとか、手紙は開けられるとか?」

    「そこは詳しく話せません。まああなたが気づく事はまずないでしょう」

     淡々と喋る下条、よくよく考えると恐ろしい。気が付かないのを良い事に、来須健介という人間の全てを把握されるのだ。これからは迂闊に風俗なんていけなくなる。

    「そこをあなたが理解してくださるのであれば、国会図書館内での権限を最高レベルにしましょう。どうですか、興味ありますか?」

    「興味ありますよ、無いわけないでしょう。でも、知りえた情報を表に出せない、ようは真実を知っても国民に伝える事はできない」

     それはこの仕事に携わっている人間としてどうなのだろうか。新説を唱え、新たなメインストリームになる事こそが、学者としての喜びなのに。

    「そこは相談ですね。世に出してもいいと判断できる情報なのであれば、あなたが発見したという事にすればいい。その辺はギブアンドテイクで行きましょう。あなたの力だけを借りるわけにはいきませんからね」

    「でも、新説を唱えてもその文献はどこから? と突かれますよ」

    「ああ、それは簡単です。そういう時はどこかの地方の旧家から文献が見つかりますから」

     尾見がさらりと言った。なんてこった‥。おかしいと思ったことが何度もある。ある日突然とんでもない情報を秘めた書物が見つかり、歴史の教科書が書き換えられることがある。大化の改新の年号や、鎌倉幕府の成立、ここ二十年でかなり様変わりしたのだ。そういう時は大体、田舎の家の蔵や天井からひょいっと新情報が現れる。

    「ちょっと待ってください、じゃあたまに見つかるあれは‥」

    「全てではありませんけどね。本当に埋もれていたものもあれば、戦後外国に渡ったものもたくさんありますから」

     この尾見の頭の中には一体幾つの新説、いや真実が眠っているのだろうか。

    「来須さん、申し訳ないが決断は今この場でお願いしたい。今回の件は早い段階で片を付けないといけない。国を脅かすテロと同じですから」

     下条の言う通りだった。兵器やウイルスとは形は違うが、人が死ぬことには変わりがない。

    「答えは決まっています。やりますよ、どうぞ監視してください。その代わりとことん調べ上げますから」

     知らないで死ぬ事の方が、俺には残酷な話なのだ。


    「お待ちしておりました。宮原さんも」

     一階の受付に向かうと下条は昨日と同じスーツで二人を出迎えた。

    「こんにちは。私も来ちゃって平気ですか?」

    「もちろん、その前に説明させていただきます」

     非常口の方へと移動しながら、来須が昨日受けた説明と大体同じ内容を玲に話した。

    「監視ってどんな事ですか?」

     当たり前の質問をしている。そりゃあそうだろう。特に若い子にはピンと来ないはずだ。

    「あなたが日常生活を送る上で不都合はありません。周りの人間に気づかれる事もないでしょう。ですがあなたの行動はしばらくこちらも把握しなければならない」

     こうやってちゃんと最初に説明をしてくれるところはフェアだと感じてしまう所だが、実際は違う。すでに監視は始まっているのだから。

    「いいですよ。別に調べられて困る事なんて無いし。私は親友が死ななければいけなかった理由が分かればいいし」

     玲はあっさりとオッケーを出した。この子は若いのにどこか達観した部分がある。それはこの事件が起きてからそうなったのではなく、元々そういう気性の持ち主なのかもしれない。妙に勇ましいのだ。

    「わかりました。恐らく未成年にこのような警告を出したのは戦後初めての事でしょう、とにかく私たちのとってもイレギュラーな出来事が続いている、今は目の前の問題解決を目指しましょう」

     非常口のドアを出て、階段で地下二階まで降りる。すると行き止まりになっており、向かって右側にカードセキュリティ付きのドアを発見した。

    「こちらから先は職員のみが立ち入れる場所となります。準備はよろしいですか?」

    「ええ、さっさと行きましょう」

     俺は平然と答えた、つもりだった。本当は胸の高鳴りを抑える事が出来ない。もうすぐ普段は絶対お目にかかる事の出来ない書物たちと対面できるのだ。

     下条は頷くと、事務的にカードキーを仰々しいカードリーダーへと通し、パスワードを入力した。

    「覚えましたか? これからここを出入りする時に必要なものです」

    「うん、大丈夫です」

     玲は表情を変えずに頷いている。

    「では、行きましょう」

     開錠されたドアが開き、俺たちは先へ進む。

     無機質な壁、この建物ができてから何年が経つのかわからないが、まるで新築のように真っ白で、強い照明も相まってこちらの目が痛くなるくらいだ。

     無言のまままっすぐ突き当りまで歩くと、そこには再び扉があり、その横に小さな警備室が現れた。中にはこれまた無表情な背広姿の男が二人座っている。

    「ご苦労様です」

    「来須健介さんと宮原玲さんだ。鈴木と胡桃沢くるみざわです」

     下条が言うと、二人が頭を下げた。紺のスーツを着た若い男性が鈴木、顔も体の岩のようにごついのが胡桃沢らしい。

    「お二人とも、そこのドアの前に立ってもらえますか? 少しそのままでお願いします」

     言われるがままドアの前に立つと、左斜め上、右斜め上、正面の計三台のカメラが同時に動き出した。

     せわしなく小刻みに動くカメラに何だか居心地が悪く、隣の玲に視線を移すが、平然としている。怖がるかワクワクするか、どちらかの感情は見せてほしいものだ。

    「お待たせしました。では入りましょう」

     セキュリティ的な何かが終わったようで、下条が目の前の扉に立つと、施錠が解ける音が聞こえる。

     胸が高鳴る。一体どんな真実が眠っているのだろうか。頭の中では今回の事件の事があるが、それを調べるにあたり新しい事実を垣間見る事が出来るだろう。長年の謎が解明されるかもしれない。

     この国の音楽のスタート地点。成り立ち。

     それは俺がずっと追い求めてきたものだ。興奮してきた! 目の前のドアがゆっくりと開かれる、足を踏み入れた瞬間、自分は学者としても人間としても、新しい視野の中、生きて行けるようになるのだ。

    「ニヤニヤしてるよ、キモい」

     玲が呆れた表情を浮かべながら、下条の後に続きドアの向こうへと足を踏み入れる。

     おい! 何故興奮しない、玲くん、君はその若さで全国の学者連中が調べたくても見る事の出来なかった情報に触れあえるというのに。

     俺は無言でドアの向こうへと消えた二人に抗議した。このロマンが何故わからん。

    「先生、どうぞ」

     ふと、真後ろから声を掛けられ我に帰る。そこには無表情の胡桃沢が立っていた。間近で見ると、やっぱりとんでもないガタイをしている。身長は高くないが、まるで大きな岩の様だ。

    「ああ…すみませんね。あの二人はロマンが分からんもんだからさっさと入っちゃいましたけどね、俺は興奮しているんですよ。はは、わかってくれますよね?」

    「どうぞ」

     岩男は丁寧にドアを開いてくれた。が、体中からさっさと行っちまえ、という無言の圧力を感じる。

    「はい‥どうも」

     中へと足を踏み入れると、少し離れた場所で呆れ顔の二人が待ち構えていた。

    「先生、何やってんの?」

    「何やってんのって、君、ここはな‥」

    「わかってるって。さっさと行こうよ、ねえ下条さん」

     あまりに無慈悲な言い方。

    興奮で我を忘れる大人の冒険心を粉々にした。それを察してか、下条は少しだけ悲しそうな目で促すその手招きが、妙に優しかった。

    (十)

    新築の様だった壁が一気に汚くなった。ボロボロとまではいわないが、かなり年季が入っていて、埃っぽささえ感じてしまう。

    さっきまで興奮していた来須が、今は悲しそうな顔で一番後ろを歩いている。一体どうしたんだろう、テンション上がったり下がったり忙しいオジサンだ。それからさらに廊下をまっすぐ歩き、突き当りのドアを開くとまた廊下が現れる。まだ着かないの? 

    「もうすぐですよ」

     私の表情に読み取った下条が答えてくれた。

     その言葉の通り、廊下は行き止まりとなり、年代物の鉄のドアが目の前に現れる。この先に来須の喜ぶ情報が眠っているのだろう。

    「マスクと手袋をお渡しします。中の本はあまり開きすぎないようお願いしたい、とにかく古いものなので。あと、コピーや写真などは禁止です。この部屋から持ち出せるのはご自身で取られたメモだけにさせていただきます」

     くれぐれも取り扱いには注意、冷たい声でそう言われると無駄に緊張してしまうじゃん。

    「では、入ります」

     ドアを開いた瞬間、ひんやりとした乾いた空気が肌を包んだ。

     目の前には―壮大に広がる―

    あれ?

     一、二、三、四…十台程の年代物の本棚に、みっちりと本が詰まっている。だが、それだけだ。思ったよりも全然少ない。もっとこう、見渡す限りの本の山で埋め尽くされているのかと。

    「うぉぉぉおおおお!」

     しかし来須は違うようだ、後ろで雄叫びを上げている。

     そして、部屋の真ん中に一台のテーブルが置いてあり、そこには一人の老人が座っていた。

    「やあ、いらっしゃいましたか」

     その老人が椅子から立ち上がる。とても小さい、私と同じくらいではないだろうか。マスクをしているが、目元から覗く目はとても‥、こういっては何だがいやらしい目つきだ。気のせいだとは思うけど。

    「尾見さん、こちらは宮原さんです。桐谷高校で事件に遭遇されて、今は来須先生の助手をなさっています」

     下条の紹介に会わせるように頭を下げた。

    「これはこれは。大変な現場に遭遇なされましたね。しかも親友を亡くされてと聞いています、ご愁傷様です」

     尾見と呼ばれた老人は、丁寧に頭を下げてくれた。

    「いえ、私は大丈夫です。来須先生のお手伝いで来ました」

    「宮内庁書陵部の尾見です。こちらの書庫を管理しています。宮原さんも遠慮なくこちらを使っていただいて構いません」

     下条といい尾見といい、私の事を子ども扱いしない。それは嬉しいのだが、二人に生理的な嫌悪感を抱くのは何故だろう。そこはかとなく漂うエリート臭に卑屈になっているのだろうか。所で宮内庁って何?

    「それでこちらにあるのが、この国の秘蔵所ですね?」

     来須が我慢できずに割り込んでくる。こっちはまるで子供の様だ。

    「秘蔵所というようなものではありません、あくまで現時点では世の中に存在していないだけです。時が経てば外に出せる物もたくさんあります」

    「では、ここにこの国の本当の姿が隠されているわけだ、ねえ玲くん」

    「ああ、そうですね」

     だめだ、テンションについていけない。

    「後はほら、あそこに」

     尾見が指さす方に、一台のパソコンが置いておる。

    「あれはインターネットには繋がれておりません。スタンドアロン状態なので情報が外に出る事は無い。あの中にはこの書物の十倍以上の情報が入っていると思っていただいて構いません。保存の効かなかった物やGHQから没収される前に当時の書記官たちがばれないようにメモを取ったものが残されています」

     道理で少ないはずだ。本命はあのパソコンの中なのだ。

    「いやぁ、これはとんでもない量の中で探さないといけませんね」

     言葉とは裏腹に、来須の顔は輝いている。

    「え、ヒントも無いのに探せます? これ」

     しかし私は冷静だった。無制限に時間をさける状況ではないはずだ。

    「楽譜が手に入りました」

     そんな心配を、下条の一言が救ってくれた。しかしこの人は全く感情の起伏がない。何をやっている時が楽しいのだろう。

    「手に入りましたか! 今お持ちですか?」

     来須もその言葉に興奮している。

    「ええ、まずは届いた楽譜に危険性は無いか、X線などにもかけましたが紙そのものには危険性は無い。ごく一般の市販されたコピー用紙です。そして内容に関しても私たちで確認しました。目視だけでは問題は無いようです」

    「メロディは、口ずさみましたか?」

     私の質問に下条は首を振った。

    「貝塚の話し通り、音楽の知識のない私たちでさえ、五線譜が軽く読めれば理解のできる内容です。それだけに危険性を感じ深くは掘り下げていません」

    「なるほど、見せていただけますか?」

    「ええ、そちらに」

     みんながテーブルの前に集まると、下条がスーツの上着胸ポケットから一枚の封筒を取り出し、机の上に広げた。

     その楽譜は手書きだった。

     定規で線を引いたであろう五線譜の上に、オタマジャクシが並んでいる。ト音記号も書いていなければ、全音符も二分音符もない。四分音符のみで形成されている。最初の音は―」

    「玲くん、音符読んじゃだめだ」

     来須の厳しい声で我に返った。無意識で音を拾おうとしていた。

    「これは本当に単純な音階だね、まいったな、これだと無意識に音符を呼んでしまう」

    「何かで隠した方が良さそうですね。それか塗りつぶすか。これはコピーなので用意はどれだけでも可能です」

     下条は言うが、この音階そのものに謎があった場合、それだと困るのではないだろうか。

    「いや、このままで行きましょう」

    「それだと危なくない?」

    「大丈夫、意志を強く持つんだ、口には絶対出さない。いいね?」

     その口調には反抗できない強さがあった。

    「これです、歌詞」

     下条が言うまでもなく、五線譜の下、音符に合わせて歌詞が書いてある。

    ―にんはるさん にんはるさん どさ どさえ あんたきしぇん あんたきしぇん どさ どさえ

     え、これだけ?

    「なんだこりゃ、方言かな」

     来須にもさっぱりの言葉らしい。

    「私の記憶にもその言葉はありませんね」

     一人座っていた尾見も続いた。

    「でもこれって平仮名で書いてあるでしょう? しかもこれがあと四小節続くし。同じ言葉を繰り返すような」

     思わず口にしてしまいそうになり慌てて口をつぐんだ。こんな単純なメロディと歌詞で、人が無差別に殺し合うなんてあるだろうか?

    「うーん、地方に伝わる歌はある程度頭の中に入ってるはずだが、こりゃさっぱりだ」

     来須は口の中で何やら唱えている。頭の中で反復しているのだろうか。

    「この歌詞が何かの突破口になれば。この国の歌ならば、この部屋のどこかにヒントが眠っているといいのですが」

     尾見の言う通りだ。ここになければかなり厳しい状況になる。この前の発表のように外に出してしまえば、下手すると日本中で物好きが口ずさんでしまうだろう。

    「思うんですけどね」

     来須が口を開いた。

    「もしもこの歌が昔から存在した場合、日本国の歴史上、登場したのは今回が初めてではないはずなんですよ。こんな不可思議な事が起きた場合、いつの時代でも話題になるはずだ。なんらかの記録が残っている場合も多い。もしくは外国のものが日本に持ち込まれたか」

    「え、でもこれ日本語じゃん」

    「いや、わかんないよ、元は外国語で、それをただ平仮名にアレンジしただけかもしれない」

     あ、そっか。

    和製英語なんて世の中には腐るほど存在している。

    「ただ、間違いなくこの歌詞が突破口になると思います。そしてこれを全国の音楽人に送った人間は、それを隠そうともしていない」

    「ちょっといいかな? 先にお伝えしておきたい事がある」

     座っていた尾見が再び立ち上がる。

    「この国には皇室の儀式の際に歌われるものがある。それは私たちが管理するのが役目なのだが、表には出ないが存在している音楽もあります。中にはあまりにも不謹慎であったり、政治的な理由で奏でる事を禁止された音楽や歌があるのは事実です。いつの時代でもね」

    「ええ、知っています。そういったものは地方でひそかに歌い継がれていたりもするものです」

    「その通り。そう言ったものまでは把握できていない。まあ、ある程度は管理できているので、かなり秘密裏に隠されたものでもなければ」

    「秘密裏に隠された、存在を示す何かがあるんですね」

     尾見は頷いた。

    「あります、世には出してはいけない歌。それは還歌かんかと呼ばれるもので、国民に災いをもたらすと言われ門外不出扱いとして残っている。詳しく伝えられてはいないが、人が大勢死んでしまうようなものだと伝承されていましてね。まあ、本当にあるとは夢にも思わなかったのですが」

    「還歌‥聞いた事が無い」

     来須は首をひねっている。

    「それは当たり前です。当時の国を治めていた人間が封印したものですから」

    「そこまで分かっているという事は、時代背景などは?」

    「それは定かではありません」

    「門外不出なのに、どこにあるかわからないって事ですか? 何だか間の抜けた話ですねえ」

     尾見は苦笑した。

    しかし還歌ってどんなのだろう、なんで歌っちゃだめだと禁止されたのだろうか。

    「まあ、この歌がそれだとは断定できない。ただそういうものが存在しているというのは最初に伝えておかなければならない。なのであなた方が痕跡を探るにあたって、そういった目線で探した方が近道かもしれません」

    「尾見さん、あなたは今回の騒動に関して心当たりがあると言った。それは、そう言った内容の文献が残っているわけですね」

    「文献ではなく伝承です。過去、遠い昔に人を鼓舞する、というよりも狂乱に陥れる歌が存在したと読み取れる伝説が皇族にはね。それ以上の詳しい情報は一切なし。まるで童話のように、誰も信じてはいませんでした。つい数日前までは」

    「なるほど…とにかく、今はこの歌詞の足跡をこの中から探さないといけませんね」

     来須はそう言うと、小さな書庫を見渡していた。にんはるさん、にんはるさん。人物の事を言ってるのだろうか?


     尾見と下条は席を外し、代わりに警備室であった男が部屋に現れた。監視役といったところだろう。ちなみに岩男の名前は胡桃沢くるみざわ智とも久ひさ、その屈強な見た目からは想像できないキュートな苗字だ。

     テーブルに座る私たちは、これからの予定を話し合っていた。すぐにでも資料を探りたいところだが、これだけの量だと一歩間違えれば訳が分からなくなる。なるべくピンポイントに時代を絞って書物を探す係と、パソコン内のデータで検索をする係、よっぽど核心をつくような内容ではない限り、メモとその資料をすぐに確認できるようにしておく。あとは時間との戦いになるだろう。

     来須が言った事が頭に残っている。

    ―信じられないくらい残虐な思想を持つ人間はいる。

     信じたくはないけど、そんな事がもし起こってしまったら‥。考えるだけで悲しくなる。萌美のように死んでしまったら終わりだ、止められるのなら止めたい。

    「じゃあ、やるか。でも君は十八時までだ」

    「えー大丈夫だよ、まだ遅くまで」

    「ダメだ、まだ子供だからな」

    「ウザい」

     私は来須に毒づいて本棚へ向かった。ふと入り口を見ると、胡桃沢が笑いをこらえているのが見える。意外と中身も可愛いのかもしれない。

    (十一)

    ―にんはるさん にんはるさん どさ どさえ あんたきしぇん あんたきしぇん どさ どさえ

     頭の中でもう何百回と繰り返されている歌詞。内容はわからないとして、大きなヒントになるはず‥

    だった。

     だが、いくら文献を読み漁ろうと、デジタル化されたデータベースの検索を行おうと、小さなきっかけ一つ掴む事のできないまま既に三日が経ってしまった。

     世間では相変わらず正体不明の集団発狂事件で盛り上がっている。ネット上ではテロ説が持ち上がり、その方法と目的について熱い議論が交わされていた。内閣情報調査室並びに警視庁サイバー犯罪対策課は犯人が必ずネット上に痕跡を残すと見ており、人員総動員で監視作業に当たっていると下条は言っていたが果たして。

     実際そこまで簡単にはいかないだろうと俺は思っている。手紙を一通一通、とんでもない数を用意するようなアナログな手を使っている。ネット上に痕跡を残さない為なのか、それとも苦手なのか、理由はまだわからないが、ここ数日犯行声明も何も出していない犯人が、簡単に痕跡を残すようなことはしない気がするのだ。

     現在までに確保することのできた楽譜の数は五十三通、実行されてしまった二通を含めると五十五通の手紙を全国から回収されたことになるが、後一体どれくらい残っているのか見当もつかない。

     一つ手がかりがあるとすれば、その手紙の送り元だ。現在その辺も確認中のはずだ、これがわかるとかなり対象地域を絞って歴史を紐解いていけるだろう。

     この歌は一体どこで生まれ、犯人は何のために学校関係者に送り付けたのか。

     根本的な部分に立ちかえり考えてはみたものの、様々な可能性が浮かび上がり過ぎて断定はできない。愉快犯、テロ、その両側面から見ても、犯人が男なのか女なのか、集団なのか個人なのか、さっぱりわからない。

     そもそも調べ方が間違っているのではないだろうか。

     歌詞を元に調べる。これは与えられたヒントがそれしかない以上頼らざるを得ない。送られた場所は沖縄から北海道まで広範囲に渡っているし、その全てが同じ内容、コピーされたものだ。そして楽譜を元に二件の事件が起きた。死傷者は学生ばかりだ。

     犯人は若者を憎んでいるのだろうか。いや、違う。中には大人の通うような大手音楽スクールもある、断言はできない。

     そしてこの曲は、犯人が作詞作曲したものなのか、これに関しては違うと俺は思っている。頭の中で何度も音符を追うと、独特のメロディで日本のものとも中国のものとも考えられるが、目新しさは感じない。現代音楽の匂いはまるでしないのだ。あくまで個人の見解なので、もちろん断定はできない。ただ発表の方法も見る限り、元々あったものが世に出て来た印象を覚える。

    「おはようございます」

     下条の部下、内調の胡桃沢が書庫へと入って来た。最初こそ不愛想な男だと感じていたが、この三日、風呂は建物内の職員用簡易シャワーを借り、トイレに至ってはすぐ隣に洗面所が隣接されている為、ひと時もこの場所から離れていない俺の為に、弁当や飲み物などを差し入れしてくれている。ちなみに学校の授業は全て休みとなっていた。これは下条たちによる働きによるもので、大学としても国の協力とあれば断ることはできない。それって、給料は出るのだろうか…。

    「おはようございます、胡桃沢さんも大変ですね」

    「いえ、仕事ですから」

     相変わらずこの男は多くは語らない。だが玲は言っていた、なかなか可愛い男だと。どこが? 岩のようにごつごつした顔に、筋肉のパンパンに詰まった短足男。どの角度から見るとこの生物が可愛く見えるのか、時間が出来たら詳しく説明してほしいところだ。

     ちなみに彼女は今日から学校の授業が再開している。ここ三日は朝の八時から夕方一八時まで、長時間にわたって手伝いをしてくれていた。見た目に寄らず忍耐力のある子で、不満一つ口に出さず一生懸命ヒントを探してくれている。

     何か少しでも突破口が見えればいいのだが。

    「先生、下条室長からの伝言です。発送元の地域が絞れました」

     じり貧の状況に一筋の光が見えた、というか、胡桃沢早く言えよ。

    「マジですか、どこですか?」

     俺は思わず大きな声を出してしまった。

    消印はそれぞれがバラバラではあるが、そのどれもが西日本、しかも山口、広島、島根、鳥取、岡山、兵庫と五県から投函されている事が分かったそうだ。まだ見つかっていない楽譜があるとしても、少なくとも五十五通がその地域から全国へと散らばっているのだ。

    「郵便局の防犯カメラには何かヒントがありませんかね」

    「確認済みです。送られた手紙は全てポストからの投函となっているようです。現在街頭カメラのチェックに入っていますが、各都市にあるポスト数を考えると、時間はかかるかと」

     胡桃沢の表情がかすかに動いた。言う通り映像を確認するだけでも一苦労だろう。

    しかし、五県に絞れた今、これはかなり犯人を絞るヒントにはなるはずだ。その一帯の民間信仰も含め、再度調べなおしだ。

    「大きな前進ですよ、調べる範囲も絞れますし。ありがとうございます、早速取り掛かります」

    「先生、学校の方は?」

    「休みましたよ、俺は今遅咲きの麻疹にかかっている事になってます」

    「…ハシカですか」

    「ええ。知ってます? 大人になってかかると地獄なんですよあれ」

     実際、来須は二年前に麻疹にかかった事がある。本来子供の時に経験するものだが、幸か不幸か、これまで感染することなく生きて来たおっさんに、突然襲い掛かったウイルス。三十九度以上の高熱で意識がもうろうとする中、鏡に映る自分の全身の発疹に震え上がった。どこでそのウイルスを貰って来たのか、生徒からなのか、当時通っていたファッションヘルスからなのか、それとも日常生活からなのか、全く見当もつかないまま一週間の自宅待機を経験した事がある。

     突然前触れもなく襲い掛かる得体の知れないウイルス。今回の事件もそうだ、何の前触れもなく、合唱しただけでその人間の人生の幕は閉じられるのだ。本人たちはわけがわからないまま死んでいくのだろう、まるで病気と一緒だ。

    「大丈夫ですよ、この事件の謎を解いたら、俺も一躍時の人ですからね。大学も大目に見てくれるでしょう」

    我ながら楽観的な言葉に、胡桃沢が思わず苦笑した。

    「そうですか、わかりました。宮原さんが学校終わるまでは私でよければ手伝いますので、仰ってください」

    「ありがとうございます、その時はお言葉に甘えます」

     玲の言っている可愛いという意味が少しだけわかった気がする。とりあえず不愛想で威圧的に感じるのはその顔と図体のせいで、本人は至って常識人なのだ。

     目の前の本棚に並べ垂れている書物はどれも色あせ、痛みがかなり激しい。中を見ると文字がかすれているものも多く、前後の内容で解釈せざるを得ないものもある。むやみやたらに一冊ずつ読んでいく時間は無い、当たりを付けなければヘタすると読み終わるまで数カ月はかかってしまうだろう。

     根本に戻ろう。最初は桐谷高校で事件は起きた。自分の境遇に悲観していた音楽教師、貝塚に差出人不明の楽譜が届く。手紙には何が起こるかはかかれていない、それは俺自身もちゃんと確認している。

     だが、貝塚は授業で生徒に歌わせている。何故? そういえば彼女は言っていた。頭の中で奏でれば奏でるほど、気分が高揚していくと。本当だろうか。

     クリアファイルに入った楽譜を手に取り、内容を確認する。意味の分からない単純な歌詞を見ながら、頭の中でメロディを奏でてみた。

    ―にんはるさん にんはるさん どさ どさえ あんたきしぇん あんたきしぇん どさ どさえ

     この短い文章は四小節分にあたり、あとはこれを繰り返すのみ。まったくもって面白みにかける歌だ。まるで坊さんが唱えるお経の様じゃないか。

    ―にんはるさん にんはるさん どさ どさえ あんたきしぇん あんたきしぇん どさ どさえ

     にんはるさん、これは人物だろうか、いや、それはあまりにも浅はかな着地点だ。どさ、これは? 方言の様で日本語の様で、聞き方によっては外国語ともとれる。そもそも平仮名で書いてあるのがいけない。片仮名で書かれれば、また印象も違うのだから。

    ―にんはるさん にんはるさん どさ どさえ あんたきしぇん あんたきしぇん どさ どさえ

     しかしつまらない歌詞とメロディだ。少しもノッてこない。こんなもんよく生徒に歌わせたよな、しかも授業で。歌う方も歌う方だ、こんなクソ曲口ずさむのも苦痛だろうに。

    ―にんはるさん にんはるさん どさ どさえ あんたきしぇん あんたきしぇん どさ どさえ

     捻りも糞もあったもんじゃない、同じ言葉の繰り返し、舐めてんのか? 一体誰がこんなしょうもない歌詞思いついたんだよ。本人に会える事があればぶっ殺してやりたい。

    ―にんはるさん にんはるさん どさ どさえ あんたきしぇん あんたきしぇん どさ どさえ

     舐めやがって。どいつもこいつも。俺はな、大学教授なんだよ、もっと敬いひれ伏せ、キャリア長いだけの年寄り連中なんて死んじまえばいい。そうすれば上のポジションも空くし、よりよい環境で研究ができるのに。いっそ殺してやろうかな。

    ―にんはるさん にんはるさん どさ どさえ あんたきしぇん あん―

    「―さん」

     うるせえ、邪魔すんなア。

    「―すさん」

     うるセエな、殺しチマウゾ。

    「くるすさん」

     ブっ殺スゾテメえ

    「おい! 来須さん!」

     気が付くと、至近距離に胡桃沢の顔があった。

    「うお! どうしたんですか?」

     俺は言いながら、右肘に強烈な痛みを感じた。

    「痛ってえ‥」

    「大丈夫ですか? 私が分かりますか?」

    何を言ってるんだこの人。

    「胡桃沢さんでしょ? どうしたんですか、って、唇から血出てますよ」

     よく見ると右の唇から出血している。

    「先生‥」

    「どうしました? え‥‥え?!」

    「覚えてないですか?」

    「嘘でしょ? 俺ですか?」

     胡桃沢が頷いた。

    「ぶつぶつと喋っていたかと思ったら、突然でした」

     喋ってた? 俺が?

    「何を喋ってましたか?」

    「ほとんど聞こえませんでしたが、おそらく例の歌詞かと」

    「歌詞‥」

     そう言えば歌詞の事を考えていた。そして、同時にメロディも追っていたような気がする。

    「もしかして、歌ってましたか?」

     胡桃沢は少し考え、頭を振った。

    「いや、そうとは見えませんでした。歌っているというよりも、何やら独り言を呟きながらゆっくりとこちらに向かってきたんです。先生、もしかしてあの曲を歌っていたんですか?」

    「まさか。ただ頭の中で歌詞とメロディを同時に考えていただけなんですけど‥口にしたのかもしれない」

     なんて事だ、条件が簡単すぎる。

    その二つの条件がそろえば発動するのか? そういえば妙に腹立たしい気持ちになっていたような気がする。何に対してそう思ったのか、思い出せないが。

    「俺があなたに襲い掛かったんですか?」

    「ええ、その前に机の上のペンを握ろうとしました。視線も含め明らかに様子がおかしかったので、ペンを取る前に接触できたのですが、その際一発殴られました」

    「それは申し訳ない」

     何とも間抜けな謝罪だ。目の前の岩男に自分が喧嘩で勝てるはずが無いのに。

    「大丈夫です、それよりも気分は? 顔が真っ白ですよ」

    「え、マジですか」

     俺はふらつきながら隣の洗面所へと向かい、鏡を見た。

     本当だ、真っ白だ。血の気が全て引いてしまっている様な色で、我ながら不気味すぎる。蛇口をひねり、冷水で何度も顔を洗う、その間頭の中で浮かぶ歌詞を何度も何度も消す作業に追われた。

     簡単すぎる。

    たったこれだけで我を忘れてしまうのか? それだけじゃない、後先考えず暴力性が増幅されるという事だ。後先考えず、というのも妙な話だ、だって覚えていないのだから。

     何故口ずさんだのだろう、貝塚の様に気持ちが高揚したなんて事は無い。ただ頭の中で考えていただけだ。しかし胡桃沢はたしかにぼそぼそと歌っていたと言っていた。

     こんなもん、場所が場所なら殺し合いだ。

     その時、トイレのドアが開き、胡桃沢が現れた。

    「大丈夫ですか?」

    「ああ、はい、何とか。すみません迂闊でした、申し訳ないです」

    「いえ、それよりも気になる事がありまして。さっき、私が先生を止めた時の話です」

     今度は胡桃沢の顔が何だか青くなっている。

    「今思うとですが、ちょっと過剰に、いや必要以上に先生に対して力を入れてしまったような気がするんです。右肘痛みませんか?」

     言われなくてもさっきからなかなかの痛みが肘を襲っている。

    「はい、かなり。でもそれは俺が暴れてからでしょう」

    「そうなんですが…いや、気のせいならいいんです」

    「何ですか、気になるなあ。言ってくださいよ」

    「何となくですよ? 今思うとなんですが…」

     俺は何を言うのかわかったような気がした。だめだ‥これは表に出したら日本、いや、世界中で殺し合いが起こるだろう。聞くだけでもダメなんだ。

    「折ってやろう、って一瞬思ったんです。腕を」

    (一二)

     学校なんて通っている場合じゃない。これが本音だ。再開した学校はいつも通りとはいかず、通学する際に校門で溢れかえるマスコミにインタビューを受けた。

    ―大丈夫? 辛くない?

    ―同級生の悲劇の死に何かコメントくれないかな?

     馬鹿な質問だ。

    悲しいです、辛いです、きっとこう言ってほしいのだろうが、私は天邪鬼だ、こういう時は逆の気持ちを言葉にしてしまう。

    「平気です。悲しんでも友達は戻らないので」

     微妙な表情を浮かべるアナウンサーを後目に、校内へと向かう。ちょっと言い過ぎただろうか? いや、そんな事は無い。それに本当の気持ちでもあるからだ。悲しんだって萌美も他のみんなも戻らないのだから。

     教室はまるでお通夜の様な状況だった。もっと事件の事で騒ぐものだと思ったが、さすがに当事者になるとそんな気持ちもわかないのだろう。それにあの日友達を失くした生徒もいたはずだ。朝のホームルームでは担任が泣いている。そして気をしっかり持って生きて行ってほしいという言葉で締めくくり、授業はスタートした。

     一限目は数学、黒板にはいつも通り、まったく興味の持てない数式が次々と書き込まれていく。この世の全ての事は、数学で証明する事ができる。何かの本で読んだ事があった。たしかに、突き止めていくとそうかもしれない。いや、そうだろうか。このぽっかりと開いた気持ちを埋めるのも数字なのか? これから起るかもしれない第三、第四の集団発狂は数学で解決できるのだろうか。自分が馬鹿だから理解ができないだけかもしれないが、とてもそうだとは思えない。

     一限目が終わり、二限目、三限目と一日が進む。とてつもなく長い時間に感じるのは、来須のいる国会図書館へと気持ちが向かっているからだろう。早く駆けつけて先生の手伝いがしたい。あの場所に何かヒントを解くカギがあるはずなのだ。

     昼休み、他のクラスの生徒と話した時に聞いた話だが、体育教師の金谷が体調不良により学校を休んでいるらしい。どうやら心の問題だそうで、あの日萌美を目の前で死なせたことがかなり堪えたようだ。

     仕方ないよ。

     思わず呟いた。あの状況で一体何ができるだろうか。それに私の事は身を挺して助けてくれたじゃない。いつも厳しくて嫌な奴だったけど、登校して来たらちゃんとお礼を言わなければならない。

     お母さんが作ってくれたお弁当を食べ、机に座り教室を眺めた。最初こそ暗かったクラスの雰囲気が、徐々に元に戻って来ていると、男子連中のくだらない話が耳に入ってくることで気が付く。時計を見ると十三時半、五時限目は後十分で始まる。そのあと六時限目が終わり学校を出るのが十六時半くらいか。

     あと三時間。

     いやいや、やってられるか。

     私は荷物をバッグに詰めて、驚くクラスメイトを残し教室を飛び出した。

     マスコミの集まっている正門は避けて裏門から学校の敷地外へと出る。そしてその足で地下鉄の駅へと走った。まだヒントを見つける事は出来ていないが、必ず突き止めてやるんだ。

     昼の三田線は空いている。国会議事堂前駅までは乗り換え一回の十五分ほど、溜池山王駅から走れば五分もかからない。それでも私は気が焦る。いつもよりも電車の進みが遅く感じる、もうちょっとスピード上げればいいのに。

     目の前には居眠りをする若いサラリーマンが座っている。何やら大事そうに抱えた資料によだれが垂れていた。いつも通りの平和な日常、それが簡単に壊れてしまう事を先日知った。当たり前のように過ごしていた日々が、一瞬で砕かれる。仮にあの歌が日本中に蔓延した場合、一体どうなるのだろうか。

     国会議事堂前駅に着き一気に走る。何か発見はあっただろうか? もしかしたら確信をつくような何かを来須が見つけたかもしれない。いや、それならばメッセージをくれているはずだ。いやいや待て、あの人は意外とずぼらだ、連絡を忘れている可能性だってある。

     国会議事堂の受付に挨拶を済ませ、地下三階へと早歩きする。周りの大人たちは女子高生がこんな時間に何でこんな場所に? という表情を浮かべているが知った事ではない。私は調べないといけないものがあるんだから。

     カードキーを通し、警備員室前まで急ぐと、そこにはいつもいる下条の部下、鈴木があくびをしていた。

    「こんにちは!」

    「うわ、びっくりした。ああ、宮原さん、学校は?」

    「終わりました!」

    「終わったって、まだ昼だよ?」

    「終わったんです! 開けてください」

     私の気迫が伝わったのか、たまらず目の前の電子ドアの鍵が開く音が聞こえた。

    「ありがとう! 鈴木さんご苦労様」

     固まっている鈴木に手を振りながら、廊下を走る。もう周りの目は気にならない。目の前には書庫のドアが見える。やった、戻って来た! 今日こそは絶対ヒントを探し出すんだ。

    「こんにちは! お疲れさ―」

     扉を開けると‥部屋に本が散乱していた。

    本棚の前では汗止め用のキャップをかぶり、慎重に本を降ろしている胡桃沢、通称クルミちゃんが立っており‥、パソコンのモニターに顔を近づけているのは来須だ。

    「え、何これ‥。ちょっと」

    「ああ、宮原さん、学校はどうしたのですか?」

     胡桃沢がやっとこちらに気が付いた。

    「どうしたのですじゃなくて、これ一体どうしたの?」

    「ああ、これは」

    「おお、玲くんやっと来たか。手伝ってくれ」

    「だから何を?」

     何やら二人が興奮しているように見える、もしかして。

    「ヒント見つかったの?」

     すると来須がわかりやすくにやりと微笑んだ。

    「ああ、見つけた。腕を折られかけたけどね」

     いったん落ち着かせるために、大人二人をテーブルに座るよう促した。一体どっちが子供なのかわかったもんじゃない。来須は一から説明をしてくれた。頭の中で歌詞とメロディを繰り消しているうちに、口ずさんでしまった事。そして我を忘れて胡桃沢に襲いかかり、返り討ちにあった所で意識を取り戻した事。そして、これが一番衝撃だったのが、口ずさむ来須の歌を聴いた胡桃沢も我を忘れてしまった事だ。

    「私の場合は恐らく影響が少なかったんでしょう、声もかなり小さかったし、聞こえるか聞こえないかくらいでしたから。でも、やっぱり今になって考えると、先生の腕を折ろうとしていたんです、間違いなく」

     来須の顔が歪んだ。右肘を激しくさすっている。

    「いやぁ…よかった。折られないで」

    「先生が口ずさむのが悪いんじゃん!」

    「いや、まあ、ごもっとも」

    「クルミちゃんはすぐに気が付いたの?」

     仇名に変わったのは二日目、最初に呼んだ時の衝撃を受けた顔は忘れられない。思い出すだけで笑える。最初は嫌がっていたがもう否定するのも疲れたようだ。

    「私はもう何も。でも先生は回復まで時間がかかりましたね」

    「頭が重く吐き気もすごかった。今はだいぶマシです」

    「ちょっと待って、じゃあ頭の中で考えるのもヤバイじゃん」

     どうしよう、歌詞はもう頭の中に刷り込まれてる。

    「いや、大丈夫、一つ分かったのは口に出してはいけないって事なんだ。言霊って言葉があるように、口から出た瞬間に何らかの力が発動する。そしてそれは聞いた人間にも影響する」

     来須は首筋を揉みながら話しを続けた。

    「そして玲くん、この手紙を受け取った教師や講師たちが、全員口ずさんでないと思うかい?」

    「ああ…たしかに」

     その通りだ。歌った人間もいるはずだ。

    「はっきりとはわからないが、自分以外の人間がいて初めて意味を成すのかもしれない」

    「でもさ、手紙を受け取った人間の中で、本当に歌った人っていないのかな、例えば奥さんや旦那さん、子供の前とかでさ。でも事件になってないからいないのか」

    「いや、そこなんだよ。さっき胡桃沢さんに下条さんと警察に確認してもらったんだ。連絡が取れなくなっている音楽関係者がいないのか確認してくれって。玲くんの言う通り、家族の前や恋人の前で面白半分に歌った人間もいないとは限らないからね」

    「今は連絡待ちです。時間はかかるでしょうね」

     二人の表情が硬くなった。そっか、表に出ていないだけで、もう起っているかもしれない。キリ高の時みたいに大勢の前じゃなくてもいいんだ。

    「じゃあ絶対口に出さないようにしないとね。で、話しは戻るんだけど、この部屋の惨状について」

     周りを見渡すと、何やらプリントされたA4用紙が散乱している。昨日まではあんなに綺麗だったのに。

    「二人で話したんだよ。敵対していない二人が一瞬で揉め事を起こしたんだ。だってまだ会って三日四日なんだぞ? お互い憎みようがない。そこでふと思った、意図的にこの歌を使える効率の良い場所があるじゃないかと」

    「で? わかったの?」

     来須という男は妙に焦らすところがある。もったいぶるオッサンは見苦しい。

    「殺し合いの場だよ」

    「殺し合い、殺人させるって事?」

    「少し違うな、軍事利用だ」

    「ぐんじ、何?」

    「軍事利用」

     軍事利用。例えばミサイルと戦車とか? 意味わかんない。

    「よくわかんないんだけど」

    「わかりやすく話すぞ? 例えば胡桃沢軍と宮原軍という二つの軍隊が戦争するとする。宮原軍大将の玲くんは考えた。相手が身内同士で揉めたら、兵力を減らせるのではと。そこで一人の歌人を胡桃沢軍に送り込むんだ」

    「ちょっと、めっちゃ汚くない?」

    「汚い。ずるいなんて言葉では片付けられない。だってそこでは仲間同士が殺し合うんだから。まあこれは想像だけどね。人の生き死にが鮮明に記録されているのはやっぱり戦争だ。玲くんにはまだ話してないが、手紙の消印は山口、広島、鳥取、島根、岡山に絞られている。西日本から送られているわけだ」

     私は地理が苦手だ。地図もアプリだよりで道をさっぱり覚えない。広島と山口どっちが九州寄りだっけ?

    「過去にこの国で起きた戦争を辿っていけば、どこかに登場するかもしれない。特に西日本一帯が怪しいと思わないか?」

    「わかんないけど、そうなのかな」

     いまいちよくわからない、それが今の気持ちだ。さっきの軍事利用の話も本当にあったのか、今はまだわからないが、でも指標ができたのは間違いがない。

    「とにかく今はまず日本で起きた戦争の資料をピックアップして、次に読み込まなければいけない。古文を読めるのは俺だけだからね、二人には戦争にかかわりがある物を集めておいてほしいんだ。雰囲気でも構わない、例えば戦という文字や神という文字、あとはそうだな、二人がこれは関係あるのでは? と思う物は間違っていてもいいから集めておいてほしいんだ」

    「頑張る」

     体中にやる気が漲る。学校では感じる事の出来なかった興奮を感じた。もしかしたら何かを調べる事に喜びを見出すのかもしれない。

    「では続きをやりましょう。宮原さんは右端から見てください、私は左から」

    「オッケー」

     よし、今日中に見つけてやる。それまでは絶対ここから出ない、親に怒られようが来須に怒られようが動いてたまるか。

    (十三)

    「これは‥凄まじいですね」

     気が付くと入口に下条が立っていた。時計に目を向けるとすでに十八時を回っている。

    「やあ下条さん、すみませんこんなになっちゃって」

    「まあ、本が傷まなければ大丈夫ですが」

    「先生! あった!」

     その時、玲が叫んだ。あったのか?

    「どれ? 見せてみ」

     その手からひったくるように一冊の本を受け取った。

    ―壇ノ浦戦記

    「おお…ここに何かヒントがあるかもしれない。どうも鎌倉時代あたりの歴史書はフィクションが多くてな、例えば軍記物語なんてSF要素も入っているんだよ、いや、そっちの内容はすべて頭の中に入っているから今更読む必要はないけどな。他にも―」

    「早く読んでよ、後で聞いてあげるから」

     出会ってから数日、気が付いたのは玲が生粋の姉御肌だという事だ。将来もしかしたらいい教育者になれるかもしれない、嫁にはしたくないが。

    「ちょっと待ってな」

    「来須さん、何かヒントが見つかったんですね?」

     取り残された下条がしびれを切らして言った。

    「説明してあげる、ほら先生は頑張って」

    「ああ、すまんね」

     テーブルに座り、痛みが激しい壇ノ浦戦記を慎重にめくった。

     何故、壇ノ浦の戦いに辿り着いたのか。それは突然の事だった。

    争いに関する書物を三人で集め終わり、目を通し始めて二時間程経った頃だったか。

     パソコンのデータベースでキーワードを入力し、印刷していたプリントの中に気になる記載を見つけたのだ。

     天正八年、西暦だと千五七三年に小谷城の戦いという戦があった。簡単に説明すると、当時破竹の勢いで昇っていた織田信長と、同盟で実の妹の旦那である浅井長政の間で起きたひと悶着である。その戦いの前日までの浅井の日記が、今目の前の無機質なプリント用紙に収められている。最初は浅井の葛藤などを読み解いていたのだが、その中で気になる文章を見つけたのだ。現代の言葉に置き換えると苦しい胸の内が垣間見える。

    ―手を出すべきか。その場合自分は卑怯者の足利義視と同じ悪名を残すだろう。城に現れた女の持ち掛けたあの歌に、自分の運命を掛けるべきか否か。

     そんな感じである。足利義視といえば応仁の乱。お家騒動で国中の命運をかける事になった例の戦争だ。十一年にもわたる戦のせいで室町幕府は後退、新しい時代を迎える事になる。というよりも戦国時代へと突入させた罪は重い。

     その足利義視が何を行ったのか、それは時間を掛けて調べればわかる話だが、問題はそこではない。城に現れた女の持ち掛けたあの歌、ここだ。日記では結局その後その話には触れていない。

     あの歌。

    って、もしかして還歌の事ではないか。

    自分の運命をかける、ようは戦局を有利にする為に、歌を軍事利用するべきか否か、文章から勝手に想像してしまう。

     そこで次に応仁の乱あたりの文献をピックアップし読み込んだ。足利義視側についていた畠山政長という男が残した書物を読み込むと、そこまで苦労する事なく次のキーワードを見つけた。

    ―手を出してはいけなかった。親方様を止めるべきだった。結果京都は地獄と化す、これが平安と呼べるだろうか。取り返しのつかない後悔の念に苛まれる。歴史が物語っていたではないか、まやかしに頼り切った平家はあの海で名運尽きた。やはりあの歌は滅するべきだ。

     出た、あの歌。

    俺の脳みそはフル回転で妄想を繰り返す。応仁の乱は結局長い戦いのせいで当時の秩序がボロボロに崩れ去った。窃盗や強姦、殺しが都に蔓延していた記録は前に読んだ事がある。

     そして群雄割拠の戦国時代へと突入するきっかけとなった悪名高い戦。いつの時代もお家騒動というのはロクな結果を生み出さない。畠山の言うあの歌が還歌だとすれば、所属の東軍が軍事利用したのではないだろうか、ただ、考えていたような結果にはならず、記載しているような地獄を京都一体に呼び込んだ。

     飛躍し過ぎか?

     いや、臆するな来須健介、自分以外にこの謎を解ける人間はいないだろう。

    というか、やっている事が歴史学者の様だ。貴重なんて言葉では表せない文献を読む分野の違う若造教授。生業の学者連中はこの光景を見たらそれこそ発狂してしまうだろう。

     まあ、そんな事知ったこっちゃあない。

    何故なら俺こそがこの危機を救える、言わば日本代表だからだ。そう考え自分を鼓舞させながら次のヒントを探る。あの海で名運尽きた、あの海、そう、壇ノ浦だ。千百八十五年まで一気に数百年さかのぼる事になる。

     そして、目の前にある壇ノ浦戦記が開かれた。

    時代の狭間に必ず存在する還歌、その起源を追うにあたり現在より八百年さかのぼったわけだ。よってこの曲が新しく作成されたわけではないというのがほぼ確定された。そりゃそうだ、こんな気色の悪いものを作り出すなんて容易ではない。身をもってその怖さを俺は知っている。

     寿永の乱、俗に言う源平合戦は六年間に渡った。きっかけは毎度おなじみの平家のお家騒動で、そこからライバルの源氏も参戦し、後白河法皇まで首を突っ込んだ有名な戦、そのオーラスを飾ったのが壇ノ浦の戦いだ。

     作者不明の書物では、その六年間の流れと心情がつらつらと描かれている。どうやら関東政権の立役者、源頼朝の家臣の様で、平家に対する恨み言がその大半だった。一字一句見逃すまいとじっくり、そして早々とページをめくっていく。

     部隊はいよいよ壇ノ浦へ。この時点ではもう平家はかなり煮詰まっていたようで、もはや徹底的に平家をぶっ潰す的なやる気が文章にみなぎっていた。しかし、次のページで内容は一変する。

    四方八方から包囲された平家は、禁断の所業を行ったらしい。内容はこうだ。関東政権軍の陣営に、一人の女が現れたそうだ。そしてその女は徐おもむろに聞き覚えのない歌を唄いだした。

    また出た、あの歌だ。

    そこから先は想像がつくだろう、仲間同士が理由もなく殺し合う。しかしそれだけではない、同時刻、様々な場所で陣を敷いていた場所へ、同じように非武装の女が現れては、謎の歌をうたい、同様に殺し合いが始まったそうだ。

    作者はその歌を聞く事は無く、当時は仲間の陣への伝令の為移動中だったようで、難を逃れたらしい。そして同じタイミングで平家は動き、源氏は劣勢へと一気に追い込まれる。

    しかし、絶対的な数の違いには抗えず、最初こそ優勢だった平家側も、形勢逆転された。そこから先は現代まで伝わる歴史通りの展開だ。

    作者はこう語る。生き残った人間たちの話しから、その歌がどこから来たのかを調べる必要がある。平家がどうやってその歌の存在を知り、そのまやかしに頼ろうと決断したのか、酔狂か確信か、知る必要があると。

    下関に引き続き兵を送るべし。

    この言葉でこの日記は閉じられていた。

    「下関、山口か。壇ノ浦は関門海峡当たり。間違いない」

     俺は確信した。下関ならば消印の合った場所に含まれている。筆者不明の壇ノ浦戦記にはそれ以上時代を遡るヒントは無かったが、動く価値はある。

    「わかった?」

     気が付くと、玲の顔がすぐ近くに迫っていた。

    「わかった。山口だ」

    「そこに次のヒントが?」

     下条と胡桃沢も近づいてくる。

    「順を追って説明しますね」

     来須は壇ノ浦に辿り着くまでの経緯と、戦記に描かれたヒントを簡潔に話した。

    「なるほど、そこで途切れたと。しかし下関と言っても当時とは地図も違うし、範囲は広いですよ?」

     胡桃沢の言う通りだ、ここから絞るには一体どうすべきか。むやみやたらに動いてもらちが明かない。

    「なんで? 壇ノ浦行けばいいじゃん」

     玲が呑気な声を出した。

    「範囲が広いんだって。当時は一か所だけの事じゃなく、広範囲を示している場合が多くてな」

    「でも、山口でしょ? 下関で海沿いを動けばいいんじゃん」

     随分軽く言ってくれる。が、その通りだ。戦争の傷跡、歴史の痕跡は実際に舞台になった場所に残る事が多い。そして歌もだ。当時の心情を唄った曲はたくさんあり、土着信仰のようにその地方だけに生きている可能性がある。

    「来須さん、今の話を聞いて一つ繋がる話があります。街頭カメラの調査を進めていましたよね、それで一人の同じ人間が写っている事が分かりました」

    「え?」

     おいおい、早く言えよ!

    「下条さんそれ言うのが最初だから」

     玲が代弁してくれた。

    「申し訳ない、それどころの空気ではなかったので」

    「で、どんな人間でした?」

    「女性です、というよりも‥」

     下条が納得していない表情を浮かべている。

    「女性、どんな?」

     はぁ、と軽いため息をついて、視線を玲に向けた。

    「え? 私じゃないよ、何その目」

    「高校生なんですよ、その子」

     思考が一瞬停止した。高校生‥女子高生?

    「女子高生って事ですか?」

     下条は頷いた。

    「顔を隠すことも無く、制服の校章で学校もわかっています」

    「それ…早く行ってほしいんですけど」

     俺は泣きそうになった。

    「その学校があるのが下関なんです」

    「おお!」

     いつもは無口な胡桃沢が思わず声を挙げた。

    「来須さんが掘り下げた話だと、その歌を伝えた人物は下関から動かなかったか、逃げられなかった、どちらにしてもその土地に残ったのではないですか? そして今、その場所から再度発信が始まった」

     下条の言う通りだ。生まれた場所、もしくは隠された場所は下関ではないだろうか。

    「どちらにしても、その女子高生に会えば解決かもしれませんね」

    「ええ、そうなりますね。山口県警に連絡して保護しますか?」

    「待ってください。明日朝一番に俺が行きます。ダメですか? 難しい年頃なのでだんまり決め込まれたらタマランですよ。未成年だから話を聞くにも親の承諾だっているだろうし。いや、承諾いるかな? うーん‥。歌われでもしたら最悪です」

     下条は一瞬考えこんだが、すぐに頷いた。

    「お願いします。目的とこれからの被害、そして防衛方法、ここが重要です。そして最後は必ず警察に保護させてください。いいですね?」

     俺は頷いた。単純に興味がある、生まれたのは壇ノ浦の戦いより前とみていいだろう、それはいつ? どこで? そして何故女子高生がこんな行動をとったのか、そこが知りたかった。歴史の果てに追いやられた曰くつきの歌。悲しい歴史があるのか、それとも悍ましい傷跡を残し続けたのか。単純に学者として調べてみたい。

    「私も行きます! 同世代だから話しやすいよきっと」

     きた。予想通り玲が手を挙げた。これから残り三人の大人による説得の時間が始まる。いくら何でも未成年を連れ出すわけにはいかないだろうよ。

    (十四)

    「意外と都会なんだ」

     失礼だけど、もっと寂れた街を想像していた。

    「宮原さん、お静かに」

     隣に座る胡桃沢から注意されてしまった。バスは今、街頭カメラに映し出されていた女子高生の通う学校に向かっている。

    「玲くん、楽しんでる場合じゃないからな」

     来須は朝からご機嫌ななめだ。何故かというと、私が下関について行くと言い張り、挙句の果てに連れて行かないなら、自分一人でも謎の女子高生に会いに行くとゴネたからだ。あの時の来須、下条、胡桃沢の面倒くさそうな生き物を見る目と言ったら。本当に一人で勝手に動かれたら困る、という事でみんなが渋々納得するまで二時間を要した。

     両親には学校に行くと伝え、学校には来須が病欠の電話をしてくれた。ちなみに羽田から山口宇部空港までは飛行機、そこからJR下関駅までは空港バス、さらにそこから長府という街まで三十分。この全ての費用は来須から借金をした。私の読みだと、返さなくていいよと言われる気がする。

     下関の駅前は昭和レトロ溢れる街並みだったが、少し離れると海が広がる港町で、東京の巣鴨で育った身としてはとても新鮮な雰囲気に思えた。もしこんな場所で生まれたら、どんな高校生活を送っただろうか。少なくとも今よりは人間らしい生活ができたかもしれない。

     東京に住んでいて不便を感じた事は無いし、衣食住何でもそろっているし、常に情報は最新だ。SNSという友達監視ツールのおかげで、知りたくもない情報がたくさん飛び込んでくる。マイペースな私は人に干渉されるのを苦手とし、様々なSNSのアカウントは持っているが、もっぱら見るのみで自分では画像などアップしない。

     でも、こんな場所に住んでいたのなら、海や山、美味しいものをアップしたくなるかも。そう思える美しい海が広がっている。

    「胡桃沢さん、やっぱりアポイントは取らずに行きますか?」

     来須は何やら資料に目を通しながら言った。

    「ええ、下条室長の考えでもありますが、その女子高生がまともな人間じゃない場合‥」

    「突然目の前で歌われたら、俺たちは終わりですね」

    「そうならないといいのですが」

     そうだ。同じ歳の女の子が今回曰くつきの楽譜をばらまいている。にわかには信じられない、というよりも目的がわからなすぎてピンと来ないのだ。もしも私の身の回りに、人を発狂させる歌が存在するとする。それを無差別に送り付け人が殺し合うか実験する。それを楽しむ? やっぱりピンと来ない。

    「胡桃沢さん、その子が歌わないという保証はありませんよね、明確な意思があって手紙を送っているわけですから。もしですよ、歌いだしたらどうしますか? 俺は殴り飛ばしてでも止めますよ」

    「それはやり過ぎですが、やはり抑え込む必要はありますね。私がやります」

     胡桃沢はプロ、らしい。来須に聞いた話だが、内閣情報調査室というのは場合によっては危険を伴う状況に陥る事もあるそうだ。しかし下条が信頼している男だ、ただ物じゃないよって。どう見てもずんぐりむっくりな可愛いオジサンなのだが。

    「そんな事しないと思うよ。だってさ、それならもうやってない? 手紙なんて送りまくってさ、面倒くさいよ。ただ無差別に殺したいならさっさとやってると思う。理由がある気がするんだよね」

    「理由があったとしても許される事ではない。なんせ人が死に過ぎている。それにさっき下条さんからの伝言を聞いただろう。発表はされないが、被害者は増えたんだ」

     来須の言う通りだ。羽田空港に集まった時に、胡桃沢が悲痛の表情で私たちに教えてくれた。

     青森の中学校に努める音楽教師宅で、変死体が見つかったそうだ。死体は三つ、教師本人、その奥さん、そしてまだ二歳になる女の子。その三体とも遺体の損傷が激しく、最後まで生き残ったのは奥さんだというところまでわかっている。勤務状況も良く、生徒からも好かれ、心を病んでいた様子も無かった。それが突然の無理心中、死後四日が経っていたそうだ。

     似た話がいくつも警察には入っているようで、読み通り楽譜を受け取った教師が家で歌った事で、家族や近所が巻き添えになっているようだ。まだどれだけの被害が出ているかはわからないが、テレビでの勧告後、連絡のない人間は被害にあっていると考えていいらしい。

    「わかってる。でも理由は絶対あるよ。何となくじゃないと思う」

     一体どれくらいの手紙が送られているのだろう。そしてまた追加で楽譜が送られたら‥それだけは止めないと、どこかの誰かが死んでしまう。

    「面倒くさいなガキは」

    「先生だってちょっと前までガキだったでしょ? これだから歳取りたくないんだよね」

    「まぁまぁ、二人共。そろそろ着きますよ」

     私は窓の外を眺めた。これから会う女の子は一体どんな人間なんだろう。そしてその子にとって、あの歌はどんな存在なのだろうか。

     長府は城下町を売りにしており、石畳などが街を格式高く見せている。謎の女子高生の通う学校は、駅から五分ほどの場所にあった。ごくごく普通の女子高で、現在五時間目が始まった所らしい。

    「先生、どうやってその子と会うの? まさか待ち伏せ?」

    「そのまさかだ。相手に気づかれないよう接触するにはそれしかない」

    「職員室にいって先生に話せば? 協力してもらった方がいいんじゃないかな」

    「それはまずいですね、下手すると騒ぎます。私の身分証は一般の方々にはあまり効力がありません。それをやるなら警察官の同行が必要です、そして訪ねていくとなると、向こうは構えます。しかも現時点では罪状が無い以上、下手すると追い返されない」

     もしもその子が学校に居なかったら? もしくはバックレてもう学校にいない場合もある。

    「玲くん、君の押しに負けたから今日は許したが、もしかしたら数日かかるかもしれない。その場合は自分でちゃんと処理してくれ。未成年を連れ出したとなると、俺も胡桃沢さんもただじゃすまない」

    「わかってるよ、その辺は気にしないで」

     このまま帰ってたまるか、最悪友達の家に泊まるパターンで行こう。口裏合わせてくれる友人は腐るほどいる。

    「学校の前だと目立ちますね。そちらに移動しましょう」

     胡桃沢の指さす方に、小さな商店があった。どうやら文房具店のようだが、パンなども売っており、潮風で錆びれてしまったベンチも併設されている。

    「学校の入り口はここだけ?」

    「いや、裏門もありそうだな。二手に分かれましょう」

     来須と私はこのまま正門、胡桃沢はちょうど対角線にある裏門の前のコンビニで待つことになった。

    「じゃあ、もう一度確認しよう」

     私たちは数枚の画像をプリントした用紙に視線を落とした。

     斜め上からと、ほぼ真正面から、後ろ姿のものもあり、この子が大体どんな顔と雰囲気なのかがわかる。スカートも制服も標準で、特にいじっていない。黒髪ロングでぱっと見暗そうな印象を受けるが、顔は飛び切り美人だ。どこか冷たい印象を与える切れ長の目に、鼻筋が通っており、唇は薄い。

    「はぁー、改めてみると大人びた子だな。美人だし。昭和っぽいね」

    「そうですね、か弱そうな印象を受けます」

     男ってのはどうしてこう単純なのだろうか。そりゃあ見た目は儚い雰囲気をまとっているが、女はどうとでも化けられるのだ。

    「二人とも簡単に騙せそう」

    「なんでそうなる。見ろよ、一人じゃ生きていけなそうな体の弱い美人に見えるだろう」

    「見えないから」

    「見た目ですよ? たしかにこの子はあの手紙を送りつけた犯人の可能性が高い。私も容赦はしませんよ。ただ少し儚げだなと感じただけです」

    「はい、わかりました」

     来須も胡桃沢も必死だ。これがまた見苦しい。

    「とにかく、印象的な顔立ちだからすぐにわかると思う。さあ、所定の位置で待機よ」

     私がしっかりしなきゃ、グッと丹田に気合を入れる。

     それから一時間もしないうちに、ぽつぽつと校舎から制服姿の女子の姿が見えた。

    「先生、来たよ」

     来須は商店で購入したご当地アイスクリームを食べている。

    「ああ、逃がさんぞ」

     一緒に購入したポテトチップスを口に運びながら、山口の女子高生チェックを開始した。思ったよりは都会的だ、もっと勝手にイモ臭い雰囲気を想像していたのだが、なかなかどうしてイケている。

     ただ、茶髪率が異様に多いのが残念だ。どれもこれも恐らく自分で染めたであろうブリーチで、パサパサと痛みが激しい。美容院でやってもらうとそんな事にはならないのに。

    「女子高って全国的に乱れてんのかな」

    「なんで?」

    「ほら、だって髪染めてる奴ばっかりだ」

     これがオッサンの意見。今時髪染めるくらい当たり前だ。

    「先生の大学、たしかにパッとしない女の子多いよね」

    「そうか? まあ、彼女たちはそれどころじゃないからな。一流目指して猛勉強だ、見た目なんてこだわってる時間は無い」

    「そのわりには、先生は好き勝手だよね、服装」

    「当たり前だ、生徒じゃなく教授だからな」

     来須は教授だという事をよく口にする。別にそれを鼻にかけているわけではなく、口癖のようなものだろう。

     生徒がぞくぞくと正門に向かって歩いてくる。私たちは立ち上がり目を凝らした。そもそもあの子は何年生なんだろうか、それさえもわからない。

    「お、うーん‥‥あ! いや…違う」

     隣では来須が一人ぶつぶつと喋っている。歳をとると若い子の顔が全部一緒に見える、

    「大丈夫、まだいないから」

    「そうか、ダメだ、一緒に見える」

     ほら、やっぱり。恐らく胡桃沢も同じような状況だろう。

    「大丈夫、黒髪で美人、これだけでもレアだからすぐわかるって」

     しかしこの学校は様々な生徒がいる。スカートが短い子もいれば標準制服の子もいる。科によって生徒の質が違うのかもしれない。バス通学が大半で、さっき乗ってきたバス停の周りは人だかりとなっていた。

    「玲くん、胡桃沢さん大丈夫かな」

    「大丈夫でしょう、だってプロなんだし」

    「内調が女子高生なんてマークするか」

     わかんないじゃん。知らないだけですごいやり手の女子高生スパイがいるかもしれないし。

    「とにかくちゃんと見て、私も見てるから」

    「わかってるって、しかし君は口うるさいな」

     来須はすねた。ここ数日で分かった事がある、大学教授だろうが情報局の人間だろうが、男はいつまで経っても子供だ。女に比べて精神が脆い気がする。そんな事を考えているから彼氏がなかなかできないのだが。

    「あ! 玲くん、あの子は?」

    「どれ?」

     来須の指さす方に、黒髪の中肉中背の女の子が立っている。が、顔がまるで違った。

    「先生、顔見てみ」

    「あ、違う」

    「黒髪、顔、その二つ、いい?」

    「はい‥」

     もしかしたら男社会でも出世できるかも。私は妙な自信がついてきた。

     生徒数は一気に増えた。少しでも目を離すとまぎれて見えなくなってしまう。ここで最初に考えておくべきだった可能性に気が付いてしまった。

    「ヤッバ」

    「何、どうした」

    「部活とかあるじゃん」

    「あ…」

     急いで胡桃沢へと電話する。

    「クルミちゃん、玲です。あのさ、ヤバイ事に気がつい―」

    「いました! 今コンビニで買い物しています。ちょうど電話する所でした、こちらに来れますか?」

    「行く!」

     電話を切ると、来須の手を引っ張った。

    「何、いたのか?」

    「そう、急ごう」

     商店のベンチに座っていた若い女の子と、オジサンが突然手をつないで帰り道の女子高生の間を駆け抜けた。その異様な光景にざわめきが起こる。

     裏門までは意外と距離があり、胡桃沢がいるはずのコンビニへ着くころには二人とも息が切れていた。

    「あれ? クルミちゃんは?」

    「いないな、いるなら目立つからすぐわかる」

     再び胡桃沢の携帯を鳴らす。なかなか電話に出ず、七コール目でようやくつながった。

    「…はい」

    「コンビニ着いたよ、どこ?」

    「コンビニを背に右、一つ目曲がり角右、五十メートルほど先に小さな神社が。そこです」

     唐突に電話が切れる。伝言のようにまとまった端的な内容だった。

    「なんか声出しづらい状況みたい」

    「場所はわかるか?」

    「うん、こっち」

     言う通りコンビニを背に右に進み、一つ目の曲がり角を再び右へ、するとちょっと離れた場所に神社の入り口らしきものが見えた。

    「あそこ! 先生」

    「参道か? あれ。神社だな」

     二人が神社の入り口に差し掛かった時、それは見えた。

     美しい黒髪は風でなびき、スカートから見える足はすらっと長く、そして切れ長の目がこちらを向いている。

    「やべ」

     慌てて来須が脇に下がろうとしたとき、声がした。

    「大丈夫です、隠れなくても」

     女性らしい凛とした高音寄りの声、合唱パートならばソプラノだ。

     よく見ると、胡桃沢も彼女の前で立っていた。

    「先生、だめだ。クルミちゃんバレてる」

    「マジか、プロって言ってたのに」

    「先生の言う通り、女子高生は担当じゃないんだよ」

     ゆっくりと彼女の方へと歩いた。急に心臓が高鳴る、もしもこの子が歌ったら、三人は殺し合うのだろうか。

    「こんにちは」

     とても丁寧なお辞儀に、私も勢い良く頭を下げた。

    「こんにちは!」

     挨拶をしたのはその二人だけで、男二人は固まったままだ。なんて頼りないメンズ共だろうか、ここは誤魔化すしかない。

    「あの…」

    「東京の人ですよね?」

     黒髪女子高生は臆することなく言った。

    「えっと、うーん、はい」

     ダメだ、嘘付けるような状況じゃない。

    「早かったな。やっぱりすごいんですね、歌の事ですか?」

     来須と胡桃沢の表情が一気に厳しくなった。

    「うん、そうです。私は宮原玲、桐谷高校の三年です」

     正攻法で行く、どうせ死ぬなら堂々と行こう。

    「陣内亜紗じんのうちあしゃです。そこの高校の三年生。同級生だね」

     アシャと名乗った子は満面の笑みを浮かべた。

    (十五)

     目の前にいるのは怪物だろうか、ただの女子高生にしか見えない。緊張のあまり俺の喉がグルっと鳴った。

     こじんまりとした神社の境内、静まり返った空気の中、綺麗な黒髪をなびかせながら陣内亜紗と名乗った女は笑っていた。

    「あしゃ、素敵な名前だね、どんな字を書くの?」

    「亜細亜の亜に、いとへんに少ない。うすぎぬってわかる?」

    「あ、うん。わかる。そうなんだ」

    「レイさんは? どんな漢字を書くの?」

    「左が王様、右が元号の令和の令だよ」

     見ているとただの女子高生同士の会話にしか見えない。

    「そうなんだね、三人はどんな組み合わせ?」

     亜紗は言いながら、こちらを見ている。

    「陣内さん、俺は―」

    「来栖先生ですよね、棟月学園音楽大学の。いつも動画見てます、毎回アップされるのが楽しみなんです」

    「ああ、それはどうも‥ありがとう」

    「じゃあそちらは警察官の方ですか?」

     胡桃沢の表情が変わった。

    「いえ、私は内閣情報調査室の胡桃沢です」

     亜紗は一瞬首をかしげたが、すぐにこやかな表情へと戻った。

    「何だか怖そうな組織の名前ですね」

    「挨拶はこの辺で。陣内さん、俺らが何故東京から来たと思ったのかな?」

     目の前の女子高生ペースになりつつある空気を変えるべく、距離を詰めようと敬語を止めてみた。

    「この土地の人じゃないのはすぐにわかります。胡桃沢さんがコンビニにいるのを見かけてそう思ったんです」

    「それでも何故に東京と?」

    「日本の中心は東京でしょう? 捜査機関もそうなのかなって」

     決まりだ。彼女に惚ける気はない。

    「君は色々と察しがいいようだ、じゃあ何故俺たちがここにいるかはわかるよね」

    「ええ、わざわざ私を訪ねて来てくださったんですよね」

     妙に大人っぽいのはその切れ長の目のせいか、百七十は越えていそうな身長のせいか、耳を優しく包むような柔らかい声なのか。

    「その通りだ。理由もわかるかい?」

    「もちろん、歌の事。あれが何なのか、後は私自身を捕まえる事」

    「捕まえる、君はあれが人をおかしくしてしまう事を知っていて、手紙を全国に?」

     質問の返事の代わりに、亜紗は別の話を始めた。

    「来栖先生はアジアの音楽、昔から今にかけての音楽の成り立ちを研究されているんでしょう?」

    「うん、そうだよ」

    「信じますか? 歌で人がおかしくなるなんて」

    「…いや、ずっと半信半疑だったよ。そんな歴史はどこにもないからね。しかし、昨日自分自身が経験してしまった。そこにいる胡桃沢さんに襲い掛かってしまったんだ」

     亜紗は目を見開いた。

    「歌ったんですか?」

    「いや、無意識に少しだけ口ずさんでしまったんだ。気が付くと彼に取り押さえられていた。記憶が無いんだよ」

    「私自身も無意識のうちに、来須先生を取り押さえる際にやり過ぎてしまった。その‥あの時私もおかしくなっていたと思う」

     胡桃沢が言うと、亜紗は呆れた表情のまま笑い出した。

    「とっても危険なのにあの歌、死ななかったんですね。じゃあ次は少し免疫があるかも」

     免疫‥この女を子供と考えてはいけない、自分の中で警戒心が一気に上がった、あまりにも得体が知れない。

    「君は全てを分かった上で、ああやって手紙を出したんだね。一体何通の手紙を全国に送ったんだ?」

    「ちょうど百通。本当はもっと送りたかったけど、百が限界だったんです。手が疲れちゃって。ほら、コピーだと安っぽいし、手書きかなって」

    「送り先はもしかして無差別なのか?」

     亜紗は頷いた。

    「インターネットで検索して、そのままそれで送りました。親切にほとんどの学校のサイトには住所だけじゃなく、電話番号も載ってるから。先生紹介が無いところでは電話して音楽教師の名前を聞いたんです」

    「ずばり、目的はなんだ?」

     聞きたい事が山ほどある。だが一番確認しなければならないのはそこだ。

    「目的‥。一言では説明ができません」

    「君がやっている事はテロと一緒だ。恨みも何もない人間が死んでしまうんだぞ、それはわかってるのか」

     自分が熱くなっているのがわかった。それは目の前で冷や汗一つかかない冷静な女子高生になのか、それとも自分自身が恐怖に苛まれているからなのか。

    「恨み、ね。来須先生、色々と昔の音楽を調べる上で、様々な歴史と触れ合ったと思うんですけど、どうですか?」

    「どうですか、とは?」

    「歴史の裏で埋没してしまった音楽、言葉、文化の裏には、どれだけ人間が苦しんだか、泣いてきたか、そういったものも勿論ご存知ですよね」

    「ああ、わかっているつもりだ」

     亜紗は俺の目を見つめている。よく見ると瞳の色は茶色がかっている。とても綺麗で、透き通った瞳。まるで吸い込まれてしまうような‥。

    「文献の上だけで判断できますか? 文字に起こして論文に書き換え、それで終わりでは? まあそれが先生の仕事か。でも、私たちの紡いできたこの歌の存在は何処にもなかったでしょう?」

     正直に頷いた、歴史上のどこにも記録はない。昨日見つけたヒントだって、正確な内容ではまるでなかった。

    「あの歌はね、私が生まれた頃から身近にあったの。ひっそりと誰にも歌われる事なく隠れて来た。可哀そうでしょう?」

    「亜紗ちゃん、でもそれは危険だからじゃないの?」

     玲がたまらず口を挟んだ。どうやら一人雰囲気には飲み込まれていないようだ。俺も胡桃沢も得体の知れない女子高背の手のひらで転がされている。

    「うん、そうだよ。危険だからひっそりと表舞台から離れていたの。でもね? そんな必要も無いんじゃないかなって、自由にしてあげるべきなんじゃないかって。ちゃんと私のお婆ちゃんにも許可取ったの、先々代ね」

    「待ってくれ、君は一体何者なんだ? その歌を守ってきた一族なのか」

    「守って来たんじゃないよ。管理してきたの。私で二十九代目」

     二十九代‥。

    「管理、歌を?」

    「うん、そうだよ。遠い昔にこの国をまとめた人間に頼まれたんだって」

    「それは‥、ダメだ、聞きたい事が山ほどありすぎる」

     正直に言った。知りたい、あの歌の成り立ちを。

    「私は別に焦っていないし、ゆっくり教えてあげてもいいよ」

    「先生、ここまでです」

     突然、黙っていた胡桃沢が前に出た。

    「陣内亜紗さん、あなたを調査対象として隔離させていただきます。親御さん共々私たちの施設までご同行願います」

    「ちょ、ちょっとクルミちゃん、どうしたの?」

     玲が慌てるのもわかる、俺だって麻痺していた。やはりこの男は内調の人間だった。いつもとは違う有無も言わさぬ迫力をまとっていた。

    「胡桃沢さん、ですよね。逮捕って事ですか?」

    「私たちは警官ではない」

    「だから、家族ごと殺しちゃうの?」

     亜紗の声色は変わらない。殺す‥。

    「決してそうではありません。ですがあなたは危険人物だ。国にとって危険だと判断すれば、手荒な真似も必要になる。いや、あなただけではなく、ご家族も全て」

    「あなたたちはずっとそういうスタンス。臭い物にはふたをする、無かった事にする。それで問題は解決したと安心する。ですよね?」

    「文句は後で聞かせてもらいましょう」

     胡桃沢が亜紗に向かって動いた。

    「待って、胡桃沢さん、ちょ―」

     その時だった。

     小さなハミングが聞こえた気がする。頭の中にあのメロディが思い浮かんだ。

     全身を悪寒が走り回る。俺は慌てて耳を塞いだ。目の前の胡桃沢も同じ格好をしている。

    「ちょっと、どうしたの?」

     まだ耳にした事のない玲が肩口を掴んだ。

    「耳を塞げ! 早く!」

     焦りからか思わず叫んだ。

    「二人とも大丈夫だって、落ち着いて」

     塞いでいる耳の隙間から、玲の声が聞こえる。

    「聞くな! 死ぬぞ、玲くん聞いちゃだめだ」

    「何が、夕焼け小焼け?」

     何言ってんだ、夕焼け小焼け? そんなのが―

     ふと冷静に周りを見渡した。玲は心配そうにこちらを見つめ、亜紗は微笑みながら何かを唄っている。小さく聞こえてくるメロディは―、畜生。

     歌われているのは童謡の夕焼け小焼けだった。

    「何のつもりだ?」

     恐怖で耳を塞ぎ、取り乱した事が死ぬほど恥ずかしかった。

    「ただ歌っただけ、夕日が綺麗だから」

     胡桃沢も耳から手をどかし、亜紗を睨みつけている。

    「無理やりでも連れて行こうとすれば、どうなるかわからないという脅しですか?」

    「さあ。そうするかもしれない」

     畜生、どうすればいい。

    「来栖先生、これからあなたに知りたい事を教えるって言ったら聞いてくれますか?」

    「もちろんだ、そのためにここにいる」

    「ここにいる、内閣ナントカの人も?」

    「もちろん、ねえ胡桃沢さん、無理やり連れて行くなんてしませんよね」

     胡桃沢が馬鹿ではない事を願った、今は無理をしてはいけない。

    「わかりました」

     絞り出すような声だ。もしかしたら下条にすぐ捕まえるか、それ以上の事を命令されていたのかもしれない。

    「玲ちゃんも?」

    「もちろん。ねえ亜紗ちゃん、私の通う桐谷高校が最初に事件が起きた場所なの。死んだ中に私の親友もいた。だからって言うと変だけど、知りたいんだ。あなたがどうしたそんな酷い事したのか」

    「お友達死んじゃったんだ」

     会ってから初めて、亜紗の表情が一瞬だが崩れた。

    「ごめんね玲ちゃん。でもね、私はもう種を蒔いたの、止める事はできないし、そもそも止める気も無い」

     来須は考えた。どれくらいメロディを聞けば発狂してしまうのかわからない。捕まえたとして猿ぐつわか? 無理だ、ハミングでも発生するかもしれない。

    「あなたたちがこうやって来ることは知ってた。カメラに写ってる事も知ってた。私はこの歌を自由にしてあげたい、そして新しい世界が見たいの」

    「自由、いったい何の事だ?」

     亜紗は表情一つ変えずに言った。

    「今とはまるで違う、とっても優しい世界なの。そろそろ間引きが必要な時期だと思って」

    (十六)

     頭からあのメロディが離れない。子供でもすぐ覚えられるようなあの簡単なメロディ、口にしてしまえば我を忘れて周りを攻撃してしまう、あのメロディ。

     夕暮れ差し掛かったバスの中、斜め前に座り玲と何かを話している華奢な女子高生、陣内亜紗はずっと還歌を頭の片隅に隠して生きて来たのだろうか。自分が二十九代目だと言っていた。一体どういう形で継承してきたのか、もうすぐわかる。

     バスは海岸沿いをひた走る。外はすっかり夕暮れで、燃えるようなオレンジ色が水面を彩っていた。世界は何も変わらず動いている、しかしこのバスには紛れもなくその世界をひっくり返す、ある種最強の武器を持った人間が乗っているのだ。

    ―優しい世界

     亜紗の言った言葉を思い出す。それはごく普通の生き方がしたい、そういう事なのか、それとも与えられた武器を使って世間に衝撃を与えたい、そういう事なのか。

     その時、亜紗の華奢な指が降車ボタンを押した。

     俺たち三人は石動という場所で一緒に降りる。

    「家、もうすぐなんで」

     彼女の言葉に返事をしたのは玲だけだった。胡桃沢は神社からずっと難しい顔をしている、というよりもいつ襲い掛かってもおかしくない。

     バス停からすぐ路地へと入る。緩やかな坂を少し上がると、すぐに開けた場所が現れた。そこには数件の家が建っており、どれもごくごく一般な作りだ。正直、二十九代も続く秘密保持者の家だ、立派か、もしくはとんでもなく古い日本家屋を想像していたが、何て事は無い、ただの洋風の家じゃないか。

    「ここ」

     亜紗が足を止めた場所、たしかに表札には陣内と書いてある。

    「どうぞ」

     ドアが開かれた。家族がいるはずだ、俺は身構えた。

    「お婆ちゃんだけだから」

     それを見透かされたかのように、笑いながら亜紗が言った。

    「お婆ちゃん? 他のご家族は?」

    「死んじゃった」

     その言葉に悲壮感は無かった。淡々と事実だけを来訪者に伝えた、それだけの口ぶりだ。

    「どうぞ」

     通されたのはリビング、テレビもあるし、大きめのキッチンもある。ありふれた一般家庭の光景の中、車椅子に座る体中管だらけの老婆の姿があった。

    「お婆ちゃん、お客さん、東京の人たち」

     亜紗の祖母は喋ることなく、三人の顔をただ黙って見つめている。

    「どうぞ、座って、今お茶出すね」

    「あ、私も手伝うよ」

     玲が台所の方へと向かう。

     俺と胡桃沢は、車椅子の老婆の真向かいのソファへと腰掛けた。すぐ近くのテレビではあの事件のニュースを取り扱っている。

     亜紗の家族はこの老婆だけなのか? 死んじゃった、彼女は確かにそう言った。ダメだ、あまりにも色々と予想と違い過ぎる、もはや脳みそが付いていけなくなっていた。

    「…意識が無い」

     一瞬、どこから声がしたのかわからなかった。それが胡桃沢の発した声と気づくには少し時間がかかった。

    「意識ですか?」

    「見てください」

     老婆に視線を移す、目線はテレビを向いたまま、しわくちゃの顔からは表情が読み取れない。というよりも、もはや人間としての感情が欠落しているのではないか。

    「あの、私は来須です、大学で東洋音楽の歴史を教えています。こちらは内閣調査室の胡桃沢さん。亜紗さんとお茶を入れているのは、最初の被害に合った学校で、現場に居合わせた宮原君。今日は話を聞きに来ました」

    「…あ」

     わずかに声を発した気がする。何だかおかしい。

    「非現実的な出来事が起きてまだ数日しか経っていない、おかしいと思われるかもしれませんが、何からお尋ねすればいいのかわかりません。ですが、この状況を止めなければならないのは理解しています」

    「…んっん」

     喋れない、意味が分からないのだろうか?

    「お待たせしました」

     お茶が目の前に現れた。亜紗が一人一人の前に丁寧に置いていき、そして老婆の車椅子の隣に移動した。

    「改めて聞きますけど、カメラに私が写っていたんですか」

    「ああ、カメラだ。町中にあるカメラで特定した」

    「国は私たちの存在はもう覚えてないんですね」

    「それは一体どういう事でしょう」

     胡桃沢が口を開いた。彼はここに来てからより一層表情が冷たくなった。

    「お婆ちゃんはずっともうこうだから、私が話しますね」

     亜紗はお茶に口を付け、ゆっくりと話し始めた。

    「お婆ちゃんは二十七代目なの。私は二十九代目、二十八代目のお母さんは小さい頃に死んじゃった。お父さんも一緒に交通事故で。それ以来二人で生きて来たの。生活はその時の保険金で」

    「俺らがここに来る事はわかっていた口ぶりだったね。それはどうして?」

     一つ一つ確かめたかった。そして何よりも知りたいのは、陣内家の謎だ。この家には音楽の匂いがしない。

    「何から話そうかな…。来須先生が質問してくれた方が喋りやすいんだけど。あ、ちなみに嘘は一切言わないから、今更隠す必要も無いし」

    「わかった、じゃあ一つずつ。まず、君らは一体何者なんだ?」

    「陣内家の事? 簡単に言えば、あの歌を管理してきた家なの。当時の偉い人からの命令で。八百年以上前から」

    「壇ノ浦で平家と源氏が揉めたあたりから?」

    「そう! すごい、よく知ってるね。さすが大学教授。感動した」

    「茶化さないで教えてくれ」

     来須は頭をフル回転させる。嘘はすぐに見破ってやる。

    「その時、源氏が勝ったでしょう? で、平家側が管理していた還歌を管理する事になった」

    「還歌を?」

    「そう。人殺しの歌、聞いた人間を発狂させるあの歌」

    「あれは一体なんだ」

    「わからない、私たちは管理していただけだから」

     わからない? そんな馬鹿な話があるか。

    「私のご先祖さん、源氏の人間が管理するにあたって、陣内家が還歌を受け持つ事になったんだって。門外不出にしろって」

    「意味の分からない物を?」

    「そうだよ。私たちは伝承で親から子へ、そうやってずっと時は流れた。命令した人間たちは死に、時代は流れていつしか忘れられたの。でもね、管理を任された私の先祖は、真面目に一生懸命外へと出ない様に守り通した。バカみたいじゃない?」

    「この歌が何なのか、それは伝承されていないのか」

     そもそも事の発端は何だ、どこで生まれた。

    「そこは曖昧なんだよね。当時この歌を管理していたのは大陸の民って呼ばれてたみたいで、得体の知れない人間たちだったみたいだよ。私が思うに外国人だったんじゃないかな」

    「その得体の知れない人間たちが、この国に持ち込んだ、そういう事か?」

     亜紗は頷いた。

    「あのね、この歌はとても昔から存在していたの。それこそ陣内家が管理するもっと昔から、いつ生まれ、いつこの国に入って来たのか、その辺は定かではないけど、とても昔から存在していた。人が口にしてはならない禁歌」

    「質問を変えよう。その禁歌を君ら陣内家が管理していた、それが何故このタイミングで外に出たんだ?」

    「それは私」

     亜紗はあっさりと言った。

    「何故そんな事を?」

    「ねえ、来須先生、あなただったらこの秘密を外に出したくはならない? 誰からも褒められることも無いし、感謝される事も無い、知ってる者だけがリスクを背負って生きて行かなければならない、バカみたいじゃない?」

    「それは‥、そういう家に生まれたのであれば仕方ない、そうだな、伝統芸能の家、歌舞伎の家だってそうじゃないか」

    「でも、人からは敬われるでしょう?」

    「君は敬ってほしいのか?」

     動機はそれだけか? たったそれだけ?

    「感謝はされたいかな、でもそれ以上に思ったの、この歌が外に出たら、世界はどうなるのだろうって。ある家族の犠牲の上で成り立っている平和、だってみんなは知らないんだよ、呑気に生きてるけど」

    「勝手すぎる物の言いようだな、人が死んでもいいのか」

    「勝手なのは国でしょう、任せたっきり後は知らんぷり。そっちの人だって国の仕事をしてるのに知らなかったでしょう?」

     亜紗は胡桃沢を指さした。

    「もしも私たちの存在を国が把握していたら、すぐにでも訪ねて来たよね。なのに来なかった。それは忘れ去られてるから、そうだよね? なんで私たちが抱えて生きて行かなければならないの? この家の人間は土地から出る事も無く、ひたすら伝承を守ってきたの」

    「ねえ、亜紗ちゃん、今までどうしてその歌を先祖代々伝えて来たのかな、誰かが子供に教えないまま死んでしまえば、それで終わりだったんじゃないかな」

    「本当そうだよね、同じ質問をしたことがあるの死んだお母さんに。そしたらね、こういったんだよ? それが決まりだからって。変でしょう? 小さい頃からずっと思ってた、こんな嫌な歌どうして引き継がないといけないのかって。そしたらこんな有様になる前のおばあちゃんが言ったんだ」

     亜紗は隣で目を瞑っている老婆を眺めた。寝ているのか目を瞑っているだけなのか判別がつかない。

    「復讐出来ないじゃないかって。いざという時にこの歌を擦り付けた世間に、国に復讐できないじゃないかって。なるほどねって思った。先祖代々ずっとそう考えていたんだよ玲ちゃん、いつかこの歌を世に出して復讐してやるって。そしてついに私が実行した、それだけの事。あ、でもこれまでに何度か時の権力者にはアプローチしたみたいよ、うまく行かなかったみたいだけどね。そりゃあそうだよ、得体の知れない戯言だって思われたのかも」

    「…で、全国の音楽教師に楽譜を送り付けたって事か。本当に効力があると思っていたのか?」

    「もちろん、ちゃんと伝承を間違えていないか、確認するタイミングがあるの。伝承を受けるのは女性だけ、十歳になるとその歌にまだ力はあるのか、間違えずに覚えているのか、テストがあるの」

     俺は息を飲んだ。テスト、効力があるかどうか確かめるには方法は一つしかないだろう。

    「誰かに聞かせるのか?」

    「そう」

    「誰に?」

     胡桃沢も椅子から体を乗り出した。

    「誰でもいいの。街中で口ずさめばいい。私の時は当時嫌いだった小学校の担任の先生。日曜日、その先生は下関市内にあるバッティングセンターに通っているのを知ってたから、お母さんと待ち伏せして、聞かせた」

    「それで、どうなった」

    「バッティングセンターの中でバットを振り回した。他の人たちには聞かせてなかったから、あっという間に店員さんに押さえつけられてたけど、それでも一人は殺しちゃった、たしか当時遊びに来てた高校生の男の子」

    「善悪はわかるか? 陣内亜紗。それは殺人だぞ」

     口にしながら馬鹿な事を聞いたと思った。わかっている、わかっていながらの行動だ。とっくの昔にその辺は克服しているのだろう。

    「この気持ちは絶対にわからないでしょう? 誰も。両親が死んで、おばあちゃんも体の調子が悪くなって、気が付くと私一人。また同じ事を繰り返すべきなのか、そう考えていた時、おばあちゃんがぼけちゃった。で、吹っ切れたんだよね」

     気が付くと、老婆の目はぐっと開いていた。どこかその目は悲しげで、孫を非難する目で眺めている。

    「もう私の代で終わりにしようって、この世の中に出してあげようって。ね、お婆ちゃん」

    「…ん」

    「だからね、色んな人に手紙を送った。ネットで検索した学校や音楽教室。ちょうど百通。それでも反応なければ、もう一度同じ事するつもりで」

    「でも、事は起きた。しかも二か所で。満足したか?」

     そんなわけがない。長い年月をかけ何世代も繋いだ恨みが、こんなもんで終わるわけがない。

    「先生、わかってる癖に」

    「もう一つ、この歌を歌った貝塚という音楽教師は発狂した中生き残った。何故だ? なぜみんな同様おかしくならない」

    「ニュースで見たよ。多分聞かなかったんじゃないかな。これは意識の問題、ほら、テレビを付けているのに音が耳に入らない時があるでしょう? 爪切ったり携帯みたり。意識がほかの場所にあれば問題ないの。ようは、その歌を意識が捉えるかどうかよ。その先生は目の前で起こっている状況に興奮してたんじゃないかな。もしくは耳を塞いだか、わかんない」

     耳に入ってこない、というのはわかる。研究に熱心なときは、研究室でかけている音楽はまったく耳には入らない。貝塚は確かご丁寧に耳栓を用意していたはずだ。

    「亜紗ちゃん、もうやめよう、お願い、もう嫌だよ」

     玲の悲痛な声が響き渡る。亜紗はその玲の手を強く握り返した。

    「もうね、遅いの。自由にしてあげちゃった。もうすぐ色んな場所で聞く事ができるよ。どんな世界が待っているのか、一緒に楽しまない?」

     化け物だ。全く何も感じちゃいない、心の底から楽しみで仕方のないであろう、満面の笑みを浮かべた。

    「どういう意味だ、言え! 何をした」

     胡桃沢が亜紗の襟首を掴んだ。

    「間引きが始まるの、地球はとても静かな世界になるわ」

    (十七)

     世界が一変してしまう。予告も無く、予兆も無い。カウントダウンでもあれば少しは心構えができるものだが、現実はそう甘くはない。ある日突然、今まで当たり前に見てきた風景はがらりと変わってしまうのだ。それが天変地異の場合もあれば、人災の場合もあるだろう。

     今回のきっかけは後者だ。隣で大人しく座っている陣内亜紗がその人災の元になりうるかもしれない。今、俺たちは当事者を連れて東京へと戻っている。彼女がただ無差別に人を殺したがっているわけではないのは、この数時間で分かった。もしその気ならば、神社で殺し合っていただろう。

     頭がぼけてしまい、一人で生きていけない祖母は現在警察が保護している。その彼女の意識がもしまだまともなら、今回の騒動は起きたのだろうか? いずれは表に出ただろう、だがこのタイミングではなかったかもしれない。

     新幹線は今、大阪を越えたところだ。東京に着いたら、彼女は然るべき場所に隔離されるという事だった。しかしその事は亜紗には話していない。あくまで任意同行という穏便な形での上京。腫物を触るように様子を見ている。

     彼女の、いや陣内家がひた隠しにしてきた還歌、いったいどういう歴史の元生まれたのだろうか。それは偶然なのか、それとも呪いや恨みなどの外的要素が加わり突然生まれたのか。どちらにしても存在はもはや疑う余地も無い。

     知りたい。学者として、人間として、還歌とはいったい何なのか? 隠された全てが俺は知りたい。その欲求がふつふつと湧き上がってくる。

    「来栖先生、ちょっといいですか?」

     亜紗とは隣同士、迎えに座るのは胡桃沢と玲。心を見透かされたように小声で話してきた。

    「何だ?」

    「先生は過去の音楽を調べているでしょう? たくさん埋もれていった曲があると思うの、どうしてこの世から消えたと思う?」

    「ある狭い環境で事情があって保存されているのは置いておいて、やっぱり流行り廃りなんじゃないか? ほとんどが消えていくもんだろう」

    「そうね、でも語り継がれる曲もある。でも還歌は違う。危険な物なのに、忘れられたの。陣内の家に任せて自分たちはさっさと死んで。凄く可哀そうだと思わない?」

    亜紗の目は濡れている。その瞳は子供だと忘れさせる女の魅力を持っていた。

    「そういう捉え方もあるが、それでも表には出してはいけない」

    「そうは思わない。だって本来は私たちの作った歌ではないんだもん。いつかは外に出すべきよ」

    「それが今って事か?」

     亜紗は頷いた。

    「そういえば、君の家系は今までいくつかの歴史の局面で、軍事利用を持ち掛けた記録があるが、それは知ってるよな?」

    「もちろん、使われた事もあるよ? その辺の歴史は先生よりも詳しい。本には残っていない事なんてたくさんあるんだから。どれもうまく行ってないけどね」

    「そうなのか?」

    「そう、表に出るのは初めてではないの。でも毎回うまくいかなかった。でもね、昔と今で圧倒的に違う環境が一つだけあるの。何だと思う?」

     環境‥戦が起こらない事、法治国家としてちゃんと機能している事。あまりにもたくさんありすぎる。

    「わからん、何もかもが違うからな」

    「昔はある地域でその歌が流行ったとしても、鎮圧する事は簡単だったの。事情を知っている人間を殺してしまえばいいんだから」

    「ああ、なるほど、今では無理だなそりゃ」

    「今、もしそんな事が起きたらどうなると思う?」

    「そりゃあ、こうやって国の機関や専門家が動き、君を突き止めただろう。そうやって止めるしかないんじゃないか?」

    「私を殺せば終わり?」

     濡れた瞳が俺を捉えた。恐怖と好奇心で胸が高鳴る。

    「殺しはしないだろう、しかしこのまま元の高校生活に戻れるとは俺は思わん。君がやった事はそれだけ大きな罪だ」

    「私が隔離されたら終わりだと思うの?」

    「何が言いたい、他にも歌を知っている人間がいるという事か?」

    「先生、鈍いんだね。さっきの話に戻るけど、昔と今の最大の違いは? きっと時代の流れがこうなるのを私たち一族は待っていたの。臭いものに蓋ができないような、オープンな世界」

     オープン、世界はオープンなのか? 秘密だらけじゃないか。

    「まだわかんない?」

    「君がさっき言った静かな世界が来るってのか? そりゃあ一体どういう―」

     静かな世界。もうすぐ。環境が整うのを待っていた。世界はオープンだという、日本ではなく世界が。老若男女、全ての人間がこの歌に触れられる方法‥

    あるじゃないか。

    「インターネットか」

    「そう。正解」

     亜紗の笑顔は美しかった。

    「くるみざ―」

     目の前でうたた寝している胡桃沢に声を掛けようとした時、亜紗が俺の手を強く握った。

    「ねえ、先生、聞いてほしいの。私たちは何百年もこの歌に人生を奪われた。何度も世の中に出そうとしたけどうまく行かなかった。でも、これが最大のチャンスなの。ねえ、還歌が世界に流れたら、いったいどうなると思う?」

    「そんなもん全部死んじまう、殺し合うんだぞ、君はそれが見たいのか? だとしたら狂ってる」

    「狂ってない、先生私はまともだよ。ねえ、聞いて。私は新しい世界を見てみたい、優しい人が人間らしく生きて行ける世界。ろくでもない人間を間引きしないと」

    「人が殺し合う世界が? どこが優しいんだよ、それに間引きって…」

     亜紗の顔を見つめる、正直頭がおかしい女には見えない。自分の意志をしっかりと持った、一人の高校生、いや、女だ。

    「世界を振るいにかけるの。馬鹿がたくさん殺し合うわ。そして良識ある人たちは自分からは耳にしない。聞いても平気な人もいるのかも。とにかく人間は二つに分かれる、肌の色も国籍も言葉も関係ない、聞くか、聞かないか、それだけ」

     口を動かそうとした、が、喋れない。いや、喋らない。

    亜紗の考えをもう少し聞いてみたい。俺は知りたい、知りたくて仕方がない。

    「私はずっと小さい頃から考えていたの。いざとなれば自分の手を汚さずに人を殺せる私が真面目に生きているのに、あまりにも世界は不真面目なんじゃないかって。特にこの国がそう。みんな口ばかり。好き勝手ネットで呟いて、責任も無く人を傷つけて、他人を叩いて悦に入ってる。自分だけが幸せならそれでいいと思ってる人ばかりが溢れてる。でもね、その無責任な考えや、偽りの平和はすぐに壊れちゃう。私が壊したいの、そして新しい世界が見たい」

     手を握る亜紗の力が強くなった。殺しを楽しんでいるのではなく、真剣に世界を変えたいのだ。自分しか持たない武器を使って。

    「それは大量殺人をするのと一緒だぞ、いいか亜紗くん、それはただの殺しだ」

    「じゃあ先生が逆の立場なら? 秘めたまま死ぬ事はできる?」

     一生誰にも言わず、誰にも聴かせず、たった一人胸に秘めたまま死んでいく。それはまるで世界の犠牲になるべく生まれた聖者の様だ。俺は‥。

    「ああ、そうする」

    「本当に?」

     口から否定の言葉が出ない。何故だ? 人としてやっちゃいけない事じゃないか、何故否定しない。

    ―にんはるさん にんはるさん

     その時、どこからかあの歌詞が聞こえた気がする。俺は慌てて耳を塞いだ。

    「大丈夫、怖がらないで、先生」

     亜紗の顔がすぐ近くに迫っていた。ほんの数センチ自分の顔を動かせば、唇が触れてしまうほどに。

    ―にんはるさん にんはるさん どさ どさえ

     まただ、どこから聞こえる、耳を塞いでいるのに。

    「大丈夫、怖くないよ」

    ―あんたきしぇん あんたきしぇん どさ どさえ

     思い切り叫ぼうとした、が、声が出ない。いや、自分の意志で出してない? わからない。

    「先生、あなたならわかるはず、私と同じで、好奇心にあふれている。誰も見た事のない世界を一緒に見よう?」

    「ふざけるな、誰が一緒だ」

     胡桃沢さん! 玲くん! うとうとしている二人に視線を飛ばす。呼びかければいいのだ。助けてくれと。何故しない、何故二人に助けを求めない。

    「二人きりで新しい世界を見ましょう」

     亜紗の唇が重なる。それは優しく、心が温かくなるようなキスだった。その瞬間、震えていた体は一気に冷えていった。

    「見せてあげる」

     一言呟き、亜紗はゆっくりと立ち上がる。

    「何をするつもりだ」

     そう口にしながらも、頭の中ではわかっていた。これから彼女が何をするのか、自分は知っている。

    「耳を塞いで」

    「待て、止めろ!」

     その声に胡桃沢と玲が反応した。

    「何、どうしたん」

    「おい、勝手に動くな!」

     二人の声を無視するように、亜紗は車両のちょうど真ん中へと立った。

     彼女が何をするか知っていた。何故止めなかった、あの時彼女を引き留められたのは自分だけなのに。何故だ、何故‥。

    何故?

     平日の夕方、車両に座るほとんどはスーツ姿のサラリーマンだ。缶ビール片手にスマートフォンを眺める者、口を開いて爆睡している者、突然現れた亜紗に好奇な目を向けている者、ざっと見渡すと、十人ほどのサラリーマンが、くつろいでいる。

    「おい、みんな耳を塞げ!」

     俺は大声を出した。ずっと出したかった大声、助けを求めたかったこの声が、やっと口から出たのだ。その声に寝ていたサラリーマンも起きる。車内の視線は一斉にこっちへ向けられた。

     その時。

    ―にんはるさん にんはるさん

    「塞げええええ!」

     耳を塞ぎながら亜紗を見た。

     彼女は気持ちよさそうな顔で口を動かしている。歌っているんだ‥。胡桃沢と玲は? ちゃんと耳を塞いで二人とも何やら口を動かしている。気が付くと自分もそうしていた。他のメロディを口ずさむ、そうすると、わずかに聞こえるあの歌もシャットダウンされる。これは今思いつく唯一の防御方法でもある。

     俺は再び亜紗に視線を移す。

     くたびれた中年サラリーマンが一人立ち上がった。その手には缶ビールを握っている。そして、その手を振り上げた。音のない世界でゆっくりとその手が隣に座っていたサラリーマンの顔面に振り下ろされた。

     グシャ

     そんな音が想像できた。シート越しに血が噴き出したのが見える。それが合図だった。一斉に座っていたサラリーマンが立ち上がり、各々が攻撃を始めた。

    「うるせえんだよテメエさっきから」

    「部長ぁおぉ偉そうなんだよぉぉお」

    「死ねよ死ねよ死ねよ死ねよ」

     数人が同時にぶつかり合い、一人が崩れるように倒れる。目には、割りばしが刺さっていた。

    「先生、行こう」

     気が付くと、亜紗が手を握っている。

    「こっち、逃げよ」

     その手に力が込められた。

    「陣内、動くな!」

     胡桃沢が近づいてくる。その横から一人のサラリーマンが飛び掛かった。

    「なんだてめえ若い女連れやがってぁあ」

     突然の出来事に胡桃沢はもみくちゃになりながら地面に転がった。

    「先生、早く逃げよう!」

     玲が手を伸ばした。

     俺も手を伸ばしかけた時―

    「二人で新しい世界を見よう」

     耳元で透き通った美しい声が響いた。好奇心、新しい世界とはどんなものだろうか。俺はどうしたいんだ。

    「亜紗ちゃん、やめて! 先生、早くこっち!」

     玲が叫んでいる。

    「動くなぁああ!」

     胡桃沢が飛び掛かってきた男を組み伏せている。

    「ぶっ殺すぞいおらぁああ!」

     新たに二人の男が玲の存在に気が付いた。

     早く逃げろ! 早く!

     俺は叫んだ、つもりだった。まただ、声が出ない、いや、出していない。ああ、どうしたいんだ、何が見たい、何を望む来須健介。

    「さあ、行きましょう」

     亜紗が再びキスをした。

    これがとどめだった。

    手を引かれるまま隣の車両へと引っ張られる。視線の先で二人の男に押し潰される玲の姿が見えた。

     新しい世界を見たい。俺が自分の気持ちに正直になる事を決めた瞬間だった。

    (十八)

     息ができない。

     ものすごい力が私の首にかかっていた。絞めているのは禿げ上がったサラリーマンだ。

    「死んじまえよぉヤリマン」

     その顔には満面の笑みが浮かべられている。

     苦しい、こんな禿げ頭に殺されないといけないのか、自分の体の中で唯一動く指を、その男の手首に食い込ませる。

     が、力が緩む事は無く、より一層体重が載せられたような気がする。

     視界に靄がかかった、それが自分の涙だとは気が付かない。苦しさが消え、体の力が急速に抜けていく。

     その時、ふっと、体が軽くなる。

     そして、急速に空気が肺に流れ込んできた。真っ白な世界に色が戻り、目の前に胡桃沢の顔が見えた。

    「宮原さん! しっかり、宮原さん!」

    「ク‥ごほぁあ」

     突然、強烈な吐き気が襲う。喋る事が出来ない、そして首元が焼けるように熱かった。

    「よかった、隣の車両に逃げましょう」

     喉元を抑えながら必死に息を整える、空気が欲しい。体がうまく動かない。

     ゆっくりと視線を動かすと、車内の床には無数の人間が転がっている。そして足元にはさっきまで私の首を絞めていた禿げたサラリーマンが、にやけた表情のまま首を変な方向に向け、死んでいた。

     奥の方ではまだ四人が殴り合っている、そして一人の手には…消火器が抱えられていた。

    「さあ、こっちへ。ゆっくりと後ろへ下がりますよ」

     胡桃沢が言いながら、先に隣の車両へと移るドアを指さした。

    「あぁっぁぁああぁ!?」

     その時、消火器を持った若いサラリーマンがこちらに気が付いた。

    「走れ! 早く!」

     その合図で私はドアに向けて走り出す、が、うまい具合に足を動かせず、よろめきながら必死に前に進んだ。

     突然、轟音と突風が襲った。振り向くと窓ガラスが割れている、目の前で胡桃沢がサラリーマンを投げ飛ばし、そのまま上から喉元を抑え込み、拳が撃ち落された。

     何やら車内放送が流れているが、聞き取れない。凄まじい風が顔を打ち付ける。

     私は隣の車両へと移る扉にたどり着き、ドアを横へと開いた、つもりだった。

     動かない―

     ガラス越しに、ドアを押さえつけている中年男性の必死な顔が見えた。その後ろからはおばさんが鬼の形相で叫んでいる。

     何それ…。開けてよ、助けてくれないの?

     後ろでかすかな叫び声が聞こえた。振り向くと、二人の男が胡桃沢に襲い掛かっていた。

    「―ルミちゃ―」

     必死に呼びかけるが、ほんの一メートルの距離に声が届かない。一人の手には割れたガラスが握られている。危ない、危ない。

    「ク――ちゃ―!」

     その割れたガラスが、胡桃沢の脇腹へと吸い込まれた。一瞬のけぞったように見えたが、すぐに体勢を持ち直し、その男の顔面に肘うちが決まった。そしてそのまま片手で首を抱えていたサラリーマンを投げ飛ばす。

     私が駆け寄ろうとしたその時、強い力で体が後ろへと引っ張られた。これは‥ブレーキだ。轟音が少しづつ収まっていく。同時に体にかかる重みが消えていった。

    「大丈夫?」

     最後の一人を制圧し、腹部を真っ赤に染めながらゆっくりと立ち上がる胡桃沢に駆け寄ると、息は切らしているがその表情は力強く、そして何だか怒っていた。

    「どうして君は隣へ行かないんだ!」

    「ドア、開けてくれなかったんだもん」

     指さす方向へと視線を向け、さらに胡桃沢の表情は変わった。怪我なんて何のその、隣の車両に向かってずかずかと歩いたと思ったら、とんでもない力でドアを蹴り上げた。

    「こちらは政府機関関係者だ! ドアを開けんか!」

     何度も蹴り上げるドアに、勢いよくへこみが出来ている。

    「開けろ! 貴様」

     二度目の怒号にドアが開いた。と、同時に目の前の中年オヤジの襟首を掴み投げ飛ばした。

    「お前ら、子供が助けを求めてるのになんだその行動は!」

    「うるさいわね、何よアンタ!」

     ドアを押さえつけていた後ろで何やら叫んでいたおばさんだ。

    私は一瞬で血が上った。勢いよく走りだし、そのままの勢いでそのふっくらとした頬をはたいた。

    「うるさいのはアンタよ、死んじゃえ!」

     うずくまる姿を見下ろしていると、胡桃沢が頭を撫でてくれた。

    「とにかく無事でよかった。さて‥繰り返します! こちらは政府関係者です。緊急事態が今この新幹線内で起きています。すみやかにご自分の席にお座りください。危険はもうありません、繰り返します、危険はもうありません」

     前の車両から駅員が数人走って来る、そう言えば二人は何処へ行ったんだろう。どうして来須まで一緒に消えてしまったんだろうか。

    新幹線は静岡を越えた辺りだった。

    今は警察車両や救急車、そして報道の車が新幹線を囲んでおり、車内ではちょっとしたパニックが起きていた。

    どうやら私たちの乗っていた車両の窓ガラスが割れた事により、新幹線は緊急停止状態に入ったようで、止まってからの騒動の中、亜紗と来須はうまく逃げ出したらしい。

     先生は、あの子を逃がしたんだろうか。

     あの時、うとうとしたのが悔やまれる。昔から電車に乗ると心地よい揺れのせいなのか、規則正しいガタンゴトンの音のせいなのか、ほぼ百パーセントの確率で寝てしまう。来須の叫び声で目を開けると、すでに亜紗は車両の前の方にいた。

    ―耳を塞げ!

     来須はそう叫んだはずだ、瞬間的に耳を塞ぎ、歌声が聞こえない様に自分でも口ずさんだ。お母さんがよく歌っている三百六十五歩のマーチ、何でこの歌にしたのかわからないが、かなり大きな声で歌った気がする。

     それからは殺されそうになったり、嫌がらせにあったりしたが、震えるほどの恐怖は感じなかった。萌美に殺されそうになった時に、麻痺してしまったのかもしれない。

    「宮原さん、大丈夫でしたか?」

     気が付くと、治療を終えた胡桃沢がいつも通り硬い表情で目の前に立っていた。

    「クルミちゃん! 大丈夫?」

    「ええ、鍛えてますから」

    「助けてくれてありがとう」

     思い切り抱き着いた。彼は何だか意味不明な単語を口走ったような気がする。

    「宮原さん、大変でしたね」

     後ろには下条が立っていた。アンドロイド声を久々聴いた気がする。

    「わざわざ来てくれたんですか?」

    「ええ、仕事ですから」

    「下条さん、クルミちゃんが命を助けてくれたんです、この人いなかったら私も死んでたし、他の乗客も死んでたと思う」

     私は訴えた。彼はとてもすごい事をやってのけたのだ。

    「ありがとうございます」

     さっきは鬼の形相だったが、いつも通りの可愛い胡桃沢に戻っている、よかった。

    「彼は仕事をしたまでです。しかしそうだな…たしかによくやった」

     下条も言葉少なめだが、無事だったことを喜んでいるようだ。ここ数日で大人ならではの回りくどいやり取りを見て来た。素直に言葉が出ないのだ、オジサンたちは。

    「ねえ、下条さん、先生と亜紗ちゃんは見つかったの?」

    「いえ、停車した静岡の沼津近辺で潜伏しているか、すでに移動しているか、現在足取りを追っています。それで胡桃沢にも確認したんですが、陣内亜紗と来須先生のやり取りはあなたも聞いていませんか?」

    「うん、ごめんなさい、寝ちゃってて」

    「何か洗脳されている様なイメージはありませんでしたか?」

     洗脳。そんなイメージはまるでない。というか、来須は人に丸め込まれるようなタイプではないはずだ。どちらかというと、自分の意志で動くような‥。

    「え、ちょっと待って、先生もあっち側にいっちゃったって事?」

    「わかりませんが、一緒に行動しているのは間違いないでしょう」

     不思議な光景だった。耳を塞ぎ自分も歌っていたので現場の音は聞こえなかったが、亜紗が歌う姿はなんだか美しく、来須もその姿に見とれていたような印象を受けた。サラリーマンたちが立ち上がり、殴り合う中二人は手を取り、共に逆の車両へと移動していく、その時、たしかに来須と目が合ったのだ。その視線はまるで‥。

    「…これで、バレちゃうかもね、あの歌の事」

     新幹線から降ろされた乗客は、四方八方至る所で騒いでおり、警官が収めている。その中にはクルミちゃんが投げ飛ばしたオッサンも、私がビンタしたオバサンも含まれている。驚くのが、そのほとんどがどれくらいで動き出すのか? といった内容で、何があって今こんな状況になっているのか、そこの重要視している人は少ない。

     みんな自分の事で精一杯なのだ。今目の前に広がる大人の群れの様には絶対なりたくない。

    「あの車両に乗っていたサラリーマンは全滅です、十人でした。その半分は私が殺したようなものだ」

     胡桃沢がつぶやいた。

    「仕方ないよ、じゃないと私たちが殺されてた。だってクルミちゃんは一人きりだったんだよ?」

     盾になるように前に出た時、本当に逞しく格好良かった。この人にはその事で苦しんでほしくないのだ。

    「ねえ下条さん、罪にならないよね?」

    「恐らく。緊急事態特措法に該当するかと。警官や政府関係者が任務中に命の危険に襲われた場合、正当防衛が適用されます。だが、今回は説明が難しい。しかし‥」

    「しかし、何?」

    「陣内亜紗はこのまま何もしないと思いますか?」

     下条の言う通りだ、そんなわけない。麻痺していた、見た目と同じ年齢という事、そして人懐っこい部分に。みんなの言う通り、亜紗はテロリストと変わらない。

    「絶対次がある。彼女の存在はもうバレたし、躊躇しないと思う」

     その時だった、若い捜査員らしき男が下条へと駆け寄って来た。

    「下条さん、動きました」

    「陣内か?」

     若い捜査員は真っ青な顔をしている。

    「内容は」

    「これです」

     差し出されたのはスマホで、有名動画配信サービスのトップページだった。

    「これがなんだ」

    「よく見てください、これやばいです」

     表示されたページを見つめる。そこには人気動画配信者、チャンネル登録数八百万人のケンタンが新しくアップした動画がページ上段に上がってきていた。

    ―発狂の原因、みんなに教えます! 葬られた歌を独占発表。

    「やば‥。これやばいよ…。ほら、どんどん再生回数伸びてる」

     動画の下の再生回数を示す数字がぐんぐんと上がっている。

    「至急プロバイダーとサイト管理者に連絡、急げ!」

     下条もさすがに青ざめていた。なんでケンタンがあの歌を知っているのか、そこで気が付いた。亜紗は最初からこれが目的だったんじゃないだろうか。証拠を見せるために学校で事件を起こさせたとしたら‥。

    「もう遅いよ、みんな聞いてる‥」

     容易に想像できる。街中で若者がスマホ片手に聞く姿が。

    (十九)

    「はぁい皆さんこんにちは、ケンタンでーす。今日はね、皆さんに取っておきの曲を紹介します。これはね、今巷を騒がしているあの! 集団発狂のきっかけになったのではないかという曲です。何でこれを俺が手に入れたのかというと‥そこは内緒です。ごめんねぇー。実はまだ俺も聞いてないんです、とあるリスナーが歌ったものを送ってもらってます。でもさぁ、これはねえ、アップするか少し悩みました。ネットなんかで噂になってるじゃん、悪魔の歌だってさ。でも、実際そんな事ないと思うんだ、ありえないよね。なので化けの皮をはがすという意味でも! ぜひみんなとね、聞いて行こうとね、思ってまぁす、はい、では早速行きましょう、タイトルは‥、かん‥か? 還歌です! 演歌みたい、ウケる! では行ってみましょう!」

     画面の中でにこやかにケンタンはノートパソコンをいじっている。噂では現役大学生らしく、顔も声も今風で人気のあるケンタン、いつも楽しい動画を生配信してくれるケンタン、彼は知らない、これから自分の身に起る事を。

     私はここでボリュームをゼロにした。

    「自衛隊を動かせ! 威嚇射撃は意味がない、ゴム弾で行け」

     下条が助手席で叫んだ。車は今、海老名を抜け都内へと向かっている。途中の高速道路上でも数台の車が事故を起こしていた。恐らく同乗者があの動画を見たのだろう。

    音を消していても酷い動画だった。曲を紹介したであろうケンタンが、我を忘れる様が克明に映っており、大暴れしながら撮影している部屋を飛び出していった。還歌がフルコーラス流れているのは明確だ。

    「都内はかなり酷いの?」

     私は両親に絶対に動画を見ない事と、ニュースを見る事をメールしながら下条に声を掛けた。

    「最悪の状況ですね、都内だけではない、全国の盛り場で暴動が起きている。なんでこの男は歌を公開したのか」

    「人気の為だよ。この人たちはそれでご飯食べてるんだから、話題のものは何でも手を出すよ」

    「下らん、低俗すぎる」

     隣に座る胡桃沢がつぶやいた。

    「これからどうするの?」

    「私が来須先生と揉めた時、彼は我に返りました。しかし軽く口ずさんだくらいです。こうやってまともに聞いた人間が一体どうなるのかはわかりません」

     萌美の事を思い出した。

    ほんの一瞬、名前を呼んでくれた時だけはまともになった気がするが、その後の事を考えると‥。一度おかしくなった人間がまともになるとは思えない、それとも気絶させれば元に戻るのだろうか?

    「とりあえずは内調本部へと向かいます。緊急対策本部を設置しなければならない。動画の配信は既にストップさせています、だがダウンロードされているでしょう。次の手を考えなければ」

     本当にウイルスの様だ、一瞬で全国、いや、全世界に広がるのではないだろうか。

    「ねえ、下条さん、もしかして世界でも事件が起きてない?」

    「起きています。台湾、中国、韓国です」

     日本と距離も文化も近い国だ。わずか三分ほどの動画、既に閲覧できない動画で一体何人が殺し合ったのだろう。

    「都内に入ります、このまま首都高で行きますか?」

     運転席の若い警官が言った。

    「ああ、困難なら降りる。回転灯を回してくれ」

     警官はパトカーのサイレンを高らかにならす。

    「緊急車両通ります」

     高速道路を走る車がどんどん脇に寄っていく。みんな知っているのだろうか、とんでもない事が起きている事を。

    「宮原さん、ご自宅に送りたいのだが、今はまず内調に戻らなければならない。ご了承ください」

    「うん、大丈夫。自分で帰れます」

    「それはダメだ、危険です。ちゃんとウチの人間が送ります」

     胡桃沢が言った。

    「ありがとう、でも先生は一体どこに行ったんだろ」

     来須だけじゃない、亜紗もだ。新幹線から逃げて、今は一体どこにいるのか。そしてこの状況を見て、何を考えているんだろう。

    「うわ、見てください」

     突然警官が声を挙げた。窓の外、高速の下を見ると、煙が上がっている。あれは三軒茶屋当たりだ。車が走れば走るほど、煙の立ち上る建物が増えて来た。

    「こんなに簡単に蔓延するものか?」

    下条は呟いた。ジェネレーションギャップだ、若者なら理解ができる。誰もが見るサイトの、誰もが知っている動画配信者が新しい作品をアップしたら見るに決まっている。

    その時、高速道路の下で銃声が響いた。私はその音を初めて聞いたが、映画などで聞くものと変わりはない。

    「ねえ、今バンってなったよ?」

    「警官か、それとも民間人か、今はどうしようもない」

     窓を開けると、どこからか悲鳴が聞こえる。誰かが誰かに向かって暴力を振るっている。それがすぐ自分の間近まで迫っている恐怖を感じた。

    「ダメだ、室長、上は動けませんねこれ」

     渋谷へ差し掛かり、高速道路上は大渋滞となっていた。これではサイレンを回そうが車を端に寄せる事ができない。

    「仕方ない、池尻大橋で降りてくれ。そこからは下道で行く。緊急車両だ、多少のスピードは構わない」

    「わかりました」

     車は五分ほど渋滞にはまり、池尻大橋出口から二四六号線へと降りる。ここからは渋谷、六本木を抜けていかなければならない。

    「胡桃沢、行けるか?」

    「はい、大丈夫です」

     危険なんだ、ここからは。と、私ははすぐに凄惨な場面を目にする事になる。

     それは渋谷駅に差し掛かった時の事だった。

    道端で数人の男が、一人の警察官を集団で襲っている。警官の手には銃が握られていた。

    「離れろ! 離れんか!」

     その警官は叫んでいるが、お構いなしに一人の若い男が飛び掛かった。

     警官は‥銃を撃たなかった。埋もれる様に六人の男が一斉に飛び掛かり、倒れ込んだ警官に向かって足を振り下ろした。

    「行くぞ」

     下条が言うと同時に、隣に座っていた胡桃沢も車を飛び出す。

    「動くなお前ら、警告だ、撃つぞ」

     窓を開けると下条が銃を取り出していた。それは胡桃沢も同様だった。

     その声に一人の男が振り向く。と、同時に二人に向かって走り出す。

    危ない、危ない。

     ―ドンッ

     凄まじい音が響き、私は思わず耳を塞いだ。

     一瞬のち顔を上げると、下条の目の前で飛び掛かったはずの男が倒れていた。

     撃ったんだ‥。

     すぐさま他の男たちが走り寄る、ただ一人を除いて。その場から動かない男は飛び掛かる代わりに警官の銃を―こっちに向かって構えてる!

     ―バァン

     再びすさまじい発射音が鳴り響くと同時に、パトカーのフロントガラスが派手に割れた。

    「きゃぁあ」

     自分でこんな女っぽい声が出るとは思ってみなかった。続けざまに外では銃の発射音が響いた。なにこれ、戦争じゃん。

    「大丈夫ですか?!」

     運転席から警官の声が聞こえた。

    「…うん、どうなったの?」

     私の言葉と同時に下条と胡桃沢が車に乗り込んだ。

    「出せ、早く!」

    「二人とも大丈夫? あそこの警官は‥」

    「ダメだ、助からない」

     胡桃沢が苦しそうな声を挙げた。

    「みんな死んじゃったの?」

    「いや、暴漢は全部ゴム弾だ、気絶しているだけだが、警官の方は‥」

     窓から警官の様子を見た。見なければよかった。

     ビクンビクンと、血まみれの警官が体を激しく痙攣させている。

    「まだ生きてるよ、ねえ、助けようよ」

    「もう遅い、首の骨が折られていた。助からない」

     下条が冷たく言い放った。

    「そんなのわかんないじゃん! なんで見捨てるの? ねえ、下条さん!」

    「落ち着いて、もうダメなんだ」

     胡桃沢が窓の外を指さした。そこにはさっきまで海老の様に体が跳ねていた警官が、静かに横たわっている。

    「宮原さん、冷たく聞こえるかもしれないが、警察官も私たちも覚悟はできている。国を守るというのはそういう事だ。今は一刻を争います、ご理解ください」

     下条の言葉に、何故だか涙が溢れてきた。わかってる、どうしようもできない、今はこの状況を少しでも早く収めないといけない事を。それでも心が追い付かない、目の前でリンチによる警官の死を見てしまったのだから。

    「おい、しっかりしろ、行くぞ」

     運転席に座る若い警官も泣いている。口惜しいのか恐ろしいのか判別がつかない。

    「はい、わかりました!」

     アクセルが踏まれる。再びパトカーは永田町へ向かい二四六号線を進み始めた。私は暴漢にやられた警官の横を通るとき、わずかばかりの祈りを捧げた。

    (二十)

     俺はゾンビ映画でも見るような感覚で、ニュースの映像を眺めていた。そこには素人がスマホで撮影した暴行の映像が流れている。報道規制も何もあったもんじゃない、各局が容赦なく凄惨な場面を流している。そして決まってこう言うのだ。

    「国民の皆様、危険が迫っています。戸締りをして家から出ない様に」

     馬鹿みたいだ。

    恐怖を煽るような映像を流し、気を付けろと言う。有事はもはや明確で、ネットではその話でもちきりなのに原因は不明だという。

    「お待たせ、先生」

     亜紗は制服を脱いで、今買ったばかりのファストファッションに身を包んでいる。二人は新幹線から離れ、レンタカーで神奈川のショッピングモールへと辿り着いた。周りにはニュースを知らないであろう、家族連れや恋人同士が買い物を楽しんでいる。

    「ああ…」

     頭はまだ熱に浮かれたような状況で、自分の取った行動を飲み込めてはいなかった。

    国を裏切ったのだろうか?

    そこには正直あまり罪悪感は無い。そもそも他人には興味がなく、行き過ぎた常識や正義には反吐が出るタイプだったから。しかし、玲をあの場所に置いて来てしまった事は悔やまれた。離れ際襲われていた、無事に逃げ出せたのだろうか?

    「玲ちゃんの事が気になるの?」

     その気持ちを見透かすように、亜紗は大人っぽい笑顔を浮かべた。

    「気にならないと思うか? 死んだかもしれないんだぞ」

    「仕方ないよ、それも運命だよ」

    「ふざけるな、彼女があそこで死ぬ理由なんてないだろうが、あの子はただの高校生だ、君が殺したようなもんだ」

    「私のせいじゃない」

     本気で言っているのだろうか、亜紗の真意がわからない。

    「先生には色々教えてあげる、知りたいでしょう? この歌の正体」

    「正体、歌がどこから来たのか知らないんじゃないのか?」

    「うん、知らない。でも知る方法はわかってる。先生の協力が必要なの」

    「俺に何ができるってんだよ、ただの大学の先生だぞ」

     ただの、ではない。国を裏切った大学教授だ。

    「先生はカメラの映像だけで私に会いに来たわけじゃない、壇ノ浦の事も知ってたし」

    「それがなんだ」

    「その知識を貸してほしいの。調べなければならない事はわかってる」

    「何故知りたい、こうやって暴動を誘発してるじゃないか。復讐を理由にただ殺戮を楽しんでいるだけじゃないか」

     黒髪の女子高生は、年相応の笑顔を浮かべた。驚くほど屈託なく笑うその顔の裏に、無垢な邪悪が潜んでいるなど、誰が分かるだろうか。

    「私たちの家が何を守って来たのか。これは神様が与えてくれた贈り物なのか、ただの伝染病なのか。どちらにしても何百年も守って来たのに、知ってる事はお婆ちゃん、お母さんの話してくれた口承ばかり。私には知る権利があると思うの。どちらにしても、私の代で最後だと思うし」

    「君は最後にしたいのか?」

    「うん、表に出してしまえばもう隠す必要も無いでしょう?」

     普通の生活に戻れるとでも? 亜紗の真意がわからない。ただ何故自分がここにいるのかというと、好奇心、この一点のみだ。人間社会を破壊するほどの音楽が、歴史の闇に葬り去られ。この時代にまた現れた。知らなかった事を恥ずべき事か、その機密性に脱帽すべきか。どちらにしても知りたい、還歌の全てを。

    「もしも特効薬があったらどうする? 薬というのもおかしいが、予防できるものや歌そのものを無力化する方法があれば? 君が知ったらどうするんだ?」

    「何もしない。先生が行動すればいいよ。それに起源が分かればそれでいい。今の世界は揚げ足取りばかりで優しくない世界だから、これで変わってくれると嬉しいな」

    「この騒動で、どんな人間が死ぬんだ?」

    「頭の悪い人たちと、無能な人たち」

     前半はわかる。聞くなと言われても聞く奴もいれば歌う奴もいるだろう。だが後半は? 無能の意味が分からない。

    「さっき動画をアップしたケンタンって配信者、くだらない動画ばっかり上げててさ。なのにチャンネル登録者が八百万人もいるんだよ? だから一網打尽にしてみたくて。まず学校関係者に送って事件が起きたでしょう? ああ、日本で何か特別な事が起きているって思わせればあとは簡単。あの事件の真相はこの歌だと送り付ければ、後はアップするまで待てばいい。タイミングは最高だったけどね。まあ、さっき新幹線に乗る前にメールはしたけど」

    「指示したのか?」

    「ううん、ケンタンさんがアップしないなら、他の人にも送ってるからその人にアップしてもらうって言ったの。そしたらすぐにアレでしょ? で、こんな状況だもん。今頃は他の配信者も動画アップしてるんじゃない?」

     ショッピングモールのエントランスに常設されているモニターを指さした。気が付くと、周りは人で溢れている。ニュース速報などが飛び交っているのだろう。

    「ねえ先生、みんなどうして平気なのかな。インターネットでは人間同士バカにし合うし、テレビでは嘘ばっかり言って誤魔化しているし。みんなこの国がおかしくなってる事に気が付いてないのかな?」

    「平気じゃないんだよ。税金だってそうだし変な事件も昔に比べて多くなっている。どんどん悪い方向に向かっている事はわかってるんだ。それでも気が付かないフリをして生きている。まだ高校生だからわからんだろうが、見たくないものは見えない様にして生きる、これが大人になるって事だ」

     いつからこんなつまらない事を言うようになった来須健介。しかし事実だ、おかしいと声を挙げる気力も無ければ、抗う気持ちも無い。それが生きるという事だ。研究さえできれば、ある程度は目を瞑って生きていける。

    「ふーん。でも私は世界を変える事が出来るかもしれないよね、この歌で」

    「うぬぼれるな、君の力じゃない」

    「私の力だよ、私が外に出した。そしてこの歌を聞いて意識を保てるのも今のところ私だけ。見えない様に生きて行くのが大人なら、聞こえない様に生きて見なさいよって事。でも無理でしょう? 無視できない様にすればいい。馬鹿と無能がいなくなれば、もしかしたら住みよい世界になるかも。見てみたくない?」

    「興味ないな」

     嘘をついた。目の前の少女の言う事に強い共感を覚えているのは事実だ。生きているうちに新しい世界がもし見れるなら…俺は見てみたい。

    「この歌の生まれた理由、それと新しい世界、二人で見ようよ」

    「なんで俺なんだ?」

     そうだ、どうして選ばれた。

    「先生が音楽を愛しているから。起源を知りたがっていたから。そして、一人じゃ不安だったから。先生なら私の事わかってくれるんじゃないかって」

     亜紗は恥ずかしげもなく言った。自分は求められているのだ。

     その時だった。

     吹き抜けになっている二階から、真っ黒い影が目の前に落ちて来た。

     同時に甲高い叫び声が建物内に響きわたる。

     落ちて来た黒い影は子供だった。

    「ぎゃはははははは」

     見上げると、死体を見下ろしながら馬鹿笑いをしている一人の女子高生が見えた。

     始まった‥

    「ここも危ないかもね、先生、移動しよう?」

    「死ぬのは若い連中か‥」

    「本当は、年寄連中から死んじゃえばいいんだけどね」

    「一つ教えてくれ。この歌が蔓延し、人が死んで、ある程度落ち着いたら君はどうする? もう普通通りの高校生活は送れないぞ」

    「新しい世界になったら、やりたい事があるの」

    「それはなんだ」

     知りたい。この女は悪魔なのか、それとも人間が進化する為に神が送り込んだ使徒なのか。

    「環境保護。人が減れば浄化されるでしょう? そうすれば疲弊した世界に潤いが出る。そうしたら今度はそれを保たなければいけないでしょう? この地球を綺麗にしなくっちゃ」

     エコで守るのではなく、人間を減らす。それこそが究極の環境保護だと俺はずっと考えて来た。ある時、同僚の社会学教授にその話をしたときに言われた言葉がある。

    ―一介の大学教授が考える事ではないと

     その通りだ。何も変わらない事を考えても時間の無駄だ。しかし亜紗にはそれができる。この世界で今の所亜紗しか実現できないだろう。

    「大事な人はいないのか? 恋人や家族、親戚なんかは。置いてきたお婆さんはどうする?」

    「もう死んでるよ。ああなったらどうにもできない」

     虚ろな目で窓の外を見ていた老婆を思い出す。あの頭の中には亜紗と一緒で還歌が秘められているのだろう。そしてあのまま、死んでいくのだ。

    「君は世界を変えたいんだな?」

    「うん、先生と一緒に」

     小さい頃から民謡に触れた。そしてこの国の音楽の起源を知りたくなった。その根底には探求の喜びとは別に、強烈な不満もあったのだ。クラシックからポッポミュージック、ジャズ、ヒップホップ、ロック、世界では音楽は進化と変化を繰り返しながら、人々の暮らしに欠かせないツールとして何百年、何千年と人に寄り添ってきたのに対し、この国はどうだ。独自の音楽は廃れ、外国の真似事。退化を繰り返し、行きつく先は文化としての死、いや、もう死んでいるかもしれない。

     日本ならではの音楽の源流を今一度掘り起こし、そして芽吹かせる。消え去った歴史を掘り起こし、みんなが知るのだ。ああ、この国の音楽はなんと素晴らしいのだろうかと。それがまさかこんな形で叶うとは思わなかった。忌み嫌われ隠されたこの歌には、きっと意味がある。

     俺はそれを知りたい。いや、知るべきだと思った。

    「移動するぞ」

    「どこに行くの?」

     叫び声が館内で響き渡っている。

    「東京に戻る。調べたいんだろう?」

    「うん」

     前回遡る事が出来たのは壇ノ浦までだ。その前を調べるにはあそこしかない。

     亜紗と共に駐車場へと向かう。途中、様々な争いを見る事が出来た。娘に襲われる母親、高校生同士の刺し合い、恋人同士があられもない姿でビルの外へと落下する姿。その横を悠々と亜紗は歩く。誰も彼女に襲い掛かる事は無い。

    「素朴な疑問だが、何故こんなにも怒っているんだコイツらは」

    「うーん、詳しくはわかんない。けど、お婆ちゃんからは欲望を呼び起こしてるって聞いた事があるよ」

    「欲望?」

     亜紗は頷いた。

    「人間は抑制された生活をしているでしょう? 腹の立つ近所の人間とか、理不尽な先生とか。恋人同士もそう、言いたくても言えない事や不満、そんなのが一気に爆発するの。我慢している人間ほど怒りは大きくなるんだって」

    「ちょっと待て、じゃあもし怒りをまだ持ち合わせていない人間がいたとしたら?」

    「そんな人間何処にいるの? 赤ちゃんくらいじゃない」

     言う通りだ、そんな人間は地球上に生まれたての赤ん坊以外はいない。

    「でももしもそんな人がいるとしたら、私は会ってみたいな」

     車の助手席に乗りながら亜紗は言った。俺もそう思う。そんな人間しかいない世界がもしあるとしたら、それはきっと優しい世界なのだろう。

    (二十一)

     私が学校で見た光景は、大した地獄ではなかったんだな。次々と飛び込んでくるニュースを見ながらそう感じていた。

     初めて足を踏み入れた首相官邸、ガラス張りの外観、中はまるで音楽ホールの様な作り、想像の斜め上の内装。そういえば、このロビーはニュースなどで首相が報道陣に向かって手を振る場所だ。

     何故こんな場所にいるか、というよりもなぜ帰れなくなったのか、という説明の方が早い。警察、自衛隊、機動隊、そして下条の所属する内閣調査室、ほぼすべての人間が現在日本中で起きている混乱に右往左往している状態だ。そんな時、一人の女子高生を送迎するためにリソースを割っている場合じゃない。自ら帰ると伝えると胡桃沢に強く反対され、何となくとんでもない場所の一階エントランスのソファに座っていた。

     今、難しい顔をした大人たち、というよりお爺さんたちにより、四階の閣議室にて話し合いが行われている。今後どのように国として対応するか、それを安全な場所で話し合うのだ。

     全然解決する気がしない。

    こうしている間にも人は死んでいる。配信された動画はサイト側が現在削除しているので、これ以上分母が増えないと思っているなら大間違いだ。世の中にはアングラなアップロードサイトはたくさんある。インターネットそのものを止めるしか方法はないだろう。

     そこでふと思った。世界中に張り巡らせた海底に埋まる光ケーブルによって、世界中が繋がっていると聞いた話がある。この場合、日本だけ遮断することはできるのだろうか。

    「宮原さん、ご無事でしたか」

     聞き覚えのある声、振り返ると宮内庁の尾見が立っていた。

    「こんばんわ、はい、下条さんとクルミ‥沢さんが助けてくれました」

     現在下条は会議、胡桃沢は一階で数名の特殊部隊の制服を着た男たちと話をしている。

    「よかった。それで陣内亜紗にはどんな印象を受けたかな」

    「あ、聞いたんですか?」

     尾見は肯定とも否定ともとれる、微妙な首の振り方をした。

    「最初は、普通の女子高生? 綺麗な子だなって思ったくらいで‥」

     綺麗な黒髪を思い出す。

    「でも、話しているうちに、少しずつ違和感というか、やっぱり人とは違うのかなって」

    「ほう、それはどんな?」

     どんな。口にするのはとても難しい。あくまで雰囲気というか、喋り方というか、妙に大人っぽく感じたのだ。というよりも‥。

    「なんだか、平気な感じ? あ、違うかな、怖いものは無い感じ?」

    「じゃあ、後悔している風には思えなかったかな?」

    「少しも思えませんでした」

     そうだ、電車の中で気持ちよさそうに歌う彼女を見た時に、やっぱりおかしいって思ったんだ。

    「尾見さん、彼女は自分たちの事を国が忘れているって言ってたんですけど、本当にそうなんですか?」

    「穿った言い方だがそれは間違いではない。忘れ去られてしまった、という方が正しい」

    「一緒の意味じゃないんですか?」

     この男と話すと何だか言葉遊びに付き合わされているようで、あまり好きではない。

    「戦争があった。君も知ってるね? 太平洋戦争だ。あの際、この東京にも空襲があって、そこで多くの人間が死んだんだ。多くの記録も吹き飛び、残ったものもGHQが自国へと持ち去った。その中でも当時の関係者が死に物狂いで隠して記録していたのが、あの国会図書館の部屋にあるものだ。だが、多くは失われてしまったんだよ」

    「でも‥、忘れちゃダメな事ですよね、これは」

    「君の言う通りだ。国家レベルで管理しなければならない」
    でも伝わってはいなかった。そして、陣内家は爆弾を抱えたまま、唯一の繋がりだった国との繋がりも消えた。

    「亜紗ちゃん‥陣内亜紗は淡々と喋ってましたけど、相当恨んでますよ。おばあさんもいましたけど、完全にぼけちゃってたし」

    「ああ、先ほどウチの人間が迎えに行った。今は警察署にいるよ」

    「お婆ちゃん捕まえて意味あります?」

    「わからんね。ただ、関係者だ。孫の罪は彼女の罪でもある」

     まだこの状況も罪だのなんだと言ってるのか。ちゃんと外の騒動は見たのだろうか。亜紗のやろうとしている事を止めるには、亜紗を殺すしか方法は無いと私のような素人は考える。目の前にいる尾見も、四階で偉そうに会議をしている連中も、同じ結論に辿り着くのではないだろうか。他に手があるとは思えない。

    「では私は失礼するよ、進捗状況を確かめなければならないのでね」

     尾見が上を見ながら言った。

    「あ、はい。あの、最後に一つだけいいですか?」

    「何だね?」

    「彼女を止める方法があるんですか?」

    その質問に尾見の顔はあからさまに曇った。が、すぐに取り繕い、首を縦に振る。

    エレベーターに歩く後姿を見ながら、ずっと心の中に潜んでいる不安が騒ぎ出した。やっぱりないんだ? 手を打つ方法は。

    病気のように特効薬も無ければワクチンもない。一人の女の子の悪意が外に出てどんどんと世間に蔓延しているが、それを止める術はない。鎮圧はしたとしても、次もしもまたあの歌が耳に入る状況になったら? その時は一体どうするつもりなんだろう。

     自分は今、何ができるだろう。このままこの場所に座って、大人たちの決断を待ったままでいいのだろうか? いや、そもそも性分に合わない。こんな場所でぺちゃくちゃ喋っていて答えが見つかるとは思えないのだ。何ができるだろう、萌美の敵を討たなければ、どこにいるかわからない亜紗を、そして歌を止める方法があるはずだ。

     その時、国会図書館が頭をよぎった。

    まだあそこにはヒントが隠されているかもしれない、例えばあの歌を無効化する何かとか。例えば還歌の逆もあるのではないか? 心を落ち着かせる何かが。

     私は靴ひもを結んだ。ここから図書館までは十分もあれば着くだろう。それにこの辺は関係者しかいない、人通りも少ないはずだ。

     エントランスを突っ切って入口の方へ歩くと、胡桃沢のずんぐりむっくりとした体形が見えた。何やら数人の機動隊員に指示を出しているようだ。一声かけようかとも思ったが、垣間見える表情の硬さに躊躇し、そのまま外へ出る事にした。あとでメッセージを送っておけばいい、今はまず移動しよう。

     入り口には二人の警官が立っていて、慌てて声を掛けてきた。

    「外には出ない方がいい、ここにいなさい」

    「あ、ちょっと外の空気が吸いたくて。だめですか?」

    「うーん、胡桃沢課長に確認を取るので少し待ってて」

     胡桃沢が課長だという事を今初めて知った。何だか意外。

    「……あ、お疲れ様です、今ですね、課長と一緒に来た‥はい、はい」

     胡桃沢がもしダメだと言ったら説得しなければ。あの場所に何かあるかもって。古文は読めないけど、その辺はインターネットもある。地下は電波が入らないからちょっとくらい持ち出したって構いはしないだろう。

     その時ふと、オレンジ色の物体が見えた。

    それは空を漂うように、くるくると回りながら落下している。

    何だろう、綺麗な、まるで蛍の様な。

     その空を舞っている物が、ガラス瓶だとわかった時、もう既に地面すれすれまで落ちて来ていた。

    ―バリィン

     ガラスが割れる音と同時に、入口に敷き詰められた芝生が勢い良く燃え始めた。

    「なに、なにこれ」

     パニックに陥りそうになったが、それ以上に入口の警官二人の動揺がすごかった。

    「緊急、緊急! 攻撃を受けた模様。火炎瓶と思われる、繰り返します、火炎瓶が投下されました!」

     火炎瓶、そうだ、オレンジに見えたのは火だ。

     火が回ると同時に、首相官邸の表でいくつもの叫び声が聞こえた。

    ―腐った政治家共に鉄槌を!

    ―日本の腐敗の根源を経て!

     いつの間にか大きな合唱となっている、たった一つだけだった蛍の火が、夜空に無数に浮かび上がった。火炎瓶が無数に飛んで来たのだ。

     私は‥走った。首相官邸内ではなく外へ。後方でガラスの割れる音が続き、そして火はどんどんと芝生を燃やし始めた。

     熱風が頬をかすめる。

    ここにいてはいけない、正門に向かって走った。すると‥そこには数えきれないほどの人間で埋め尽くされていた。

    「下がれぇ! 下がらんか!」

     正門には警官が十名近く常駐していた、しかし、正門の外にいる群衆は、ゆうに百を超えている。

    ―腐った政治家共に鉄槌を!

    ―日本の腐敗の根源を経て!

     腹の底から叫ぶ声に圧倒された。ダメだ、十人じゃここを突破されちゃう。しかし、この群衆は一体何者なんだろう、亜紗の歌を聞いて発狂した人間たちなのだろうか? いや、真ん中に拡声器を持ったリーダがいる、そして統率が取れている。じゃあこれは反乱?

    「それ以上、足を踏み入れるな! こちらは発砲も辞さない!」

    「やってみろよ!」

     警官と某とのやり取りは平行線だ、一瞬で踏み込んでくるだろう。他の警官が無線でやり取りをしている所を見ると、ここにもすぐに応援が来るはずだ。

     こんな事って、外国でしか起きないって思ってた。何が起きても文句言うだけで行動しないのが日本人だと。

    「秘密主義反対! 情報を解放せよ!」

    「官邸を放棄せよ! さもなければ我らは今から踏み込み―」

    その時だった。群衆の後ろから悲鳴が上がった。と同時に一塊だった人間たちが一気に崩れる。凄まじい勢いの水が左右からまき散らされた。

     放水車? 自衛隊だ。

    勇ましい格好の自衛隊員が群衆に向かって放水している。

    「怯むなぁ! 踏み込め!」

    前の方で叫んでいた連中が官邸正門に向かって走り出した。

    どこか出られる場所は無いか? 周りを見渡すと、立派に育った竹が正門横の壁に寄りかかっている。私は考える間もなく、壁に向かって走り出した。

    竹を掴み、壁に足を掛けながら少しずつ昇り始める。外では自衛隊、警官、暴徒が派手にやりやっている。誰も竹を上る女子高生には目もくれない。

    「馬鹿みたい」

    思ったよりも身軽に竹を上る自分のポテンシャルに少し驚く。竹を登り、壁に足を掛け、パンツ丸出しでその壁を乗り越える。道へと着地してそのまま一気に国会図書館へ向かって走り出した。

    その時気が付いた。官邸前だけではない、すでに周りでは群衆対警官の小競り合いが起きている。

    この人たちは、今までずっと不満を胸に社会に溶け込んでいたのだろうか。群衆には若者、中年、老人、そして自分と同じくらいの若い女性も見える。そんな若い女性が、警官に向かって殴りかかっているのだ。

    でも、この人たちは歌を聞いていない、怒っているのだ。

    右手に国会議事堂が見える、私は後ろを振り向かずに走った。背筋には悪寒が走る。知らなかった、大人数の怒りのエネルギーというのは、自分自身の理性もおかしくしてしまう。

    火の手が見える、物を燃やしてどうする? 文句があるのは人間に対してだろう、テロリストも暴動も、解放戦線も一緒だ、ただの馬鹿じゃない。

    どんどんはらわたが煮えくり返る、安全な場所で落ち着き払った尾見にも、大挙して国の中枢に暴動を仕掛けている人々にも、放水車で暴徒を鎮圧している自衛隊にも、そして来須にも、積年の恨みを爆発させた亜紗にもだ。

    「関係ないじゃん! 私たちには」

     気が付くと、道路の真ん中、国会議事堂の裏手で雄叫びを上げていた。

     目の前では数名の暴徒と警官二人がもみくちゃになっている。

    「どいてよ! 馬鹿じゃないの?」

     その真ん中を突っ切った。またがった時に誰かの顔面を蹴り上げたような気がするが、知ったこっちゃない。

    「どいて! どいてよ! ばか! どけ!」

     こんな奴らまとめてどうにかなればいい、私は自分の大事な人だけを助けるために謎を解くんだ。

    「どけ!」

    (二十二)

     首相官邸を出てからまだ十分も経っていない。国会図書館前、私は胡桃沢にメッセージを送った。

    ―クルミちゃん、国会図書館にいます。外は地獄、バカばっかり。怪我しないでね。

     スマホをポケットへ突っ込み、すっかり通いなれた図書館入口へと向かう。人一人いない状況にホっとしつつ、スマホで時間を見ると二十一時を回っていた。国会図書館の閉館時間は十九時、もうみんなとっくに帰ったのかもしれない。

     そんな期待は入口の様を見て打ち砕かれた。

     至る所の窓ガラスが割れており、地面には血痕が付着している。

    「…行くしかないよね」

     口に出して自分で奮い立たせる、どのみちいつかは襲われる。それならばこっちから先手を打ってやる。

     階段を上がると二階のメインエントランスは静まり返っていた。受付には誰もいない、いつもは数名の係員が並んでいるのに。

    ゆっくりと柱に隠れながら周りを見渡すと、室内も破壊されている事に気が付いた。サラリーマンたちが休憩していたソファはひっくり返り、受付は荒らされ放題だ。この環境で一体誰が暴れたというのだろう。

     不意に三階から男性の叫び声が聞こえた。

     その声はまるで苦しみにのたうち回るような声で、一気に張り詰めた空気へと変わった。

     そうだ、生き残りがいるんだ。周りを見渡し武器を探すが、ボールペン、だめ、こんな接近しないと使えないような武器じゃ殺されちゃう。受付のデスクに飛び乗り、普段は絶対に入れないバックヤードへと侵入した。

     はさみ、ペン、ホッチキス、ロクなものがない。当たり前だ、ここは図書館なのだから。じゃあここで暴徒たちは素手で殺し合ったのか? 生き残りはいないのだろうか?

     奥へ進むとドアを発見した。ゆっくり音を立てずに近づくと、扉の向こうで気配を感じる。どっちだ? 開けるべきか、そっとしておくべきか。

     私は開ける事にした。生き残りがいるならば一緒に行動したかったからだ。しかしやはり、予感というのは悪い方にしか進まない。

     中には四体の人間が転がっており、一人の女性だけが動いていた。

    「あの、大丈夫ですか?」

     大丈夫なわけがない、下半身は真っ赤に濡れている。そして呼びかけに振り向いた図書館司書はよく知る顔だった。

     歯を食いしばり過ぎて口元から血が流れている。歳にして五十代くらい、いつも笑顔で迎えてくれるその女性は、左目を欠損していた。

    「んんんんんんんんん」

     必死に立ち上がろうとするが、体がうまく動かないようで、それはまるでリハビリを受けている病人の様だ。

     ドアを閉める前に周りを見渡す。どうやら職員の簡易休憩室の様で、各々のバッグや私物、コートなどがかけてある。武器は無いか? 武器は? 

     足元ではずるずるとゆっくり生き残った女が近づいてくる。その後ろに、見慣れない形のモップの様なものを見つけた。

     あれは‥、たしかニュースで見かける悪者を押さえつける奴だ。なんだっけ、何とかまた、サスマタ!

     なぜこんな場所にあるんだろう、図書館でも暴漢に備えたりしていたのだろうか。あれがあれば飛び掛かって来ても防御できるかもしれない。

     私は足元に近づいている女性を飛び越えた。刺さす股またをよく見ると先に血が付着している。ここで四人はきっと殺し合ったのだろう。そして生き残りがあの人。

     一生懸命こちらに向かって方向転換を図る、足元の女性を見ていると何だかとても哀れに見えた。好きでこんな怪我をしているわけじゃない、そしてもうその出血じゃ助からない。

     楽にしてあげるのが人の道ではないか、いや無理だ。死にゆく人を介抱する事はできるかもしれないが、命を奪う事なんてできっこない。

     手に入れた刺股を、ゆっくりと女の体に当てがい、端っこへと押し込んだ。とんでもない重さだが、ゆっくりと端へと追いやりながら、ドアの場所を確認する。

     ふと思った。彼女たちは何処であの歌を聞いたのだろうか。休憩室で誰かが聞いた? じゃあ外が荒れているのは何故だろう? 人が争うなんて、図書館のイメージからは一番遠い。中で誰かが意図的に聞かせたとか。誰がそんなことするだろう‥。いや、考えてもわからない! 今は地下二階の書庫を目指すしかないのだ。

    気が付くと、刺股で押さえていた女の動きが極端に弱くなっている。少しずつ死に向かっているのだ、もはや時間の問題だろう。

    私は抑えている力を緩め、女が息絶えるまで部屋にいてあげる事にした。

    扉を開けると、やっぱり三階の方から叫び声と共に何かを破壊する音が聞こえる。一体何人が暴れているのだろう。まずは新館の非常口に向かわなければならない。そこから地下二階へ。

    ゆっくりと受付のデスクに上り、入り口側へと降りた。

    「ああああああああ! 見つかてあぁぁあぁ!」

     突然、頭上から大声が聞こえる。三階から身を乗り出すように一人の‥警備員が卑屈な笑いを浮かべていた。

     と同時に、右斜めの第一閲覧室の扉が勢いよく開く。

    「やってんだよガキ、キン、へへへ」

     スーツ姿で血だらけの老人が現れる。両目から血を流しながら嬉しそうに手をバタバタしている。

    逃げなきゃ、相手になんてしていられない。

    頭の中ですっかり通いなれた建物の構造を思い浮かべる、最短であの部屋に行かなきゃ…。

     その時、三階で走る音が聞こえた。

    降りてくる―。

    私は刺股を握り一気に目的地へと走り出した。

    「まっ、まっ、まっ」

     老人がもつれる足で動き出す。追いつかれてたまるか。

     発狂して欲望のまま動いてるコイツらには負けたくない。

     びびるな自分、なんだか体が熱くなってきた。近づいてきたらこの刺股でボコボコにしてやる。

     連絡通路を突っ切ろうと走っていると、後ろから警備員が何かを叫びながら警棒片手に走ってきた。

    階段まではまだ距離がある‥ここで対処するべきだ。

    「うるさい! やってみなさいよ、ほら、やってみろ!」

     連絡通路は吹き抜けだ。やれる事は一つしかない。

    「生意気なんだよガキのくせによお」

     普段、入口でにこやかに対応してくれる警備員だった。

    「うるさい! 早く来なよ」

     私の言葉を待たずに警棒を振り上げ一直線に走って来た。やっぱり馬鹿だ、周りが見えてない。力強く握っていた刺股を勢いよく前に突き出した。

     ガンッ

     刺股のUの字部分に綺麗に挟まった警備員は、それでも直進して来る。あまりの重さに思わず手を離しそうになるが、何とか堪えた。

     負けてたまるか、こっちはまだ十七歳だ。

     誰にも見せる事はできないくらいの大股を開き、刺股に力を籠める。少しずつ、ゆっくりと押し込んでいくと、徐々に警備員の体勢が崩れて来た。

    「なんだあああ」

     警備員が刺股を両手で握り、勢いよく折ろうとした、その時の一瞬を見逃すことは無かった。直進する力が弱まった瞬間、一気に吹き抜け部分へと押し込んだ。

    「ごめんね、おじさん」

     その言葉に、一瞬警備員の動きは止まった。そして押し込まれた力により、体が浮き、そして通路から姿を消した。

     少しのち、ドスッという重い音が響く。

    あの時を思い出す、萌美。

    恐る恐る通路部分から顔を出した。

     頭から落ちたらしく、下半身は痙攣しているが、上半身は不思議な方向に曲がり、動かなくなっていた。

     殺しちゃった。

     思ったよりも抵抗がある。こんな状況だから仕方がないとしても、それでも辛い。

    「じょしこ、じょし、こうこ、ちん、へへ」

     声に振り向くと、目から血を流した老人が遅ればせながら通路に現れた。

     深く呼吸を整える。考える暇なんて今は無い、後悔は後でゆっくりとやろう。

    今は生き残ってあの部屋へ。

    「どっか行けジジイ」

     案の定挑発に乗った老人がまっすぐに走って来る。私はまったく同じ工程を踏み、吹き抜け通路から二階へと叩き落す。さっきよりは苦戦もせず、罪悪感も無い。なんなら通路から顔を出して安否確認もしなかった。何度だってかかってくればいい、いつでも返り討ちにしてやる。負けてたまるか。

     連絡通路を抜け、新館へと辿り着くと、辺りは被害が特にないように見えた。

    だけだった。よく見ると床には血痕が至る場所に散っている。しかし死体は無い、誰の血なのだろうか?

     その血は階段の方へと続いていた。思わず身構える、非常口を降りて、立ち入り禁止区域に入るにはカードキーが必要だ、中は安全のはず。

     そこでふと気が付いた。奥には警備室がある。そこにはいつも常駐で下条の部下、内調職員の鈴木がいた筈だ。もしも彼が発狂しているとしたら‥。書庫は無茶苦茶にされているかもしれない。こちらを見ると間違いなく襲い掛かって来るだろう。

     いや、想像を膨らませたところで何も変わらない。どのみち向かう場所は地下二階だ。何とか対処するしかない。

     階段を上がるとすぐに非常口の入り口がある。ノブを廻すと、鍵の開く音が聞こえた。ゆっくりと扉を開き、中を覗く。

     いつも通りシンとした空気が流れている。壁などには血痕は見当たらない。刺股を構えたまま、ゆっくりと階段を下りていくが人の気配はない、血の匂いもしない。無事に地下二階、殺風景な行き止まりまで来る事ができた。

     カードキーをあてがい、立ち入り禁止区域に着くと、その異変に気が付いた。強烈な血の匂いが充満している。一体誰の血の匂いだろうか?

     わずか二十メートル先には小さなモニターが並ぶ警備室が見える。

     一歩一歩近づく毎に血の匂いがきつくなる。が、物音は全く聞こえない。刺股を握る手に力が入った。飛び掛かってきたらさっきみたいに押さえつけて‥そしてどうしよう。ここには落とす場所は無い、首を押さえつけて窒息させてみようか? わかってる、そんなうまく行くはずが無い。

     覚悟を決めて、警備室を覗いた。

    そこには―

     血だらけで両ひざを付いたまま、土下座のような恰好でスーツ姿の男が倒れていた。見覚えのある上着の色、鈴木だ。できている血だまりを見る限り、もう生きてはいないだろう。

     部屋の備え付けのモニターは全て破壊されており、その全てにべっとりと血痕が付いていた。警備室の壁も大量の血と共に汚れている。

     部屋で暴れて、自らの体を破壊してしまったのか? 鈴木を見下ろすと、両手の拳は血だらけでぐちゃぐちゃになっていた。

     人を殺すわけでもなく、相手のいない状態では発狂すると、自分を破壊してしまうのかもしれない。破壊し続け最後は我が身。一体あの歌はどういう目的でこの世に生まれたのだろう。

     鈴木に頭を下げ、室内の開閉ボタンを押した。目の前の扉がゆっくりと開く、と同時に中から誰かの声が聞こえた。

     予想はしていた。ここに入れる人間は限られているはずだ。尾見も下条も胡桃沢も、まだ首相官邸にいる。という事は、一人しか考えられない。

     私は警備室を飛び出し一気に走った。そして目の前の年代物の扉を開ける。

     予想通り、来須が書斎の前に立っていた。つい数時間前まで一緒に居たのに、なんだかとても久しぶりの再会に思えた。

    「先生! 何やってん―」

     向かいにもう一人立っている。ずっと一緒だったんだ。

    「ああ、玲ちゃん、無事だったんだ」

     亜紗は特に驚きもせず、淡々と言った。

    (二十三)

     人は知識をどれくらい抱えながら死んでいくのか。

    知識を得られぬまま、後悔に襲われながら生涯を閉じたくないのだ。

     歴史の中で戦争などにより消え去ってしまった情報が多い。文献は燃やせばいい、人を殺せば伝承される事も無い。この世に存在しない記録であれば、悔しいがあきらめもつくが、存在するものだったら? できる限りこの目で、この耳で触れてみたい。

     亜紗の言う優しい世界にも興味があるが、何故還歌がこの世に生まれてしまったのか。絶対に意味はある。あのメロディで人が発狂する、これまでの歴史で何らかの痕跡を残しているはずだ。

     亜紗の言った大陸から渡って来たという情報を元に、壇ノ浦の戦いが行われた千百八十五年以前の歴史を紐解いていく。日本の歴史は戦の上に立つ。現在こうやって平凡に生きていけるまで、どれだけの人が戦争で死んだか。

     壇ノ浦戦記を読む限り、還歌の存在をよく把握していなかったと推測される。それならばもっと時代を遡り、どこかの時代の戦争で記録は残っていないだろうか。俺は本棚、そしてデータベースに残るこの国の戦の歴史を紐解いた。

     遣唐使が廃止されたのが八百九十四年、これよりも前の時代にスポットを当てる。奈良時代辺りの主要な戦記を読み漁るが、気になる描写は無い。壇ノ浦戦記に残っている様な、圧倒的な証拠になるものは無いかもしれないが、ヒントとなるような一説はないだろうか?

     そして著者不明のままファイリングされている白村江の戦いを綴った書に辿り着いた。簡単に言うと、隣の国の揉め事に巻き込まれたこの戦、中国の旧唐書という古い書物では、日本の兵士がボロボロにされた様が記載されており、四百隻に及ぶ船が沈められたそうだ。だが、日本側からの書物の存在は知られておらず、目の前のファイルに興奮を覚えながら目を通す。

     そのほとんどが恨み節だった。百済の揉め事で何故家族を失くさなければならない、そう書いてある。どんな人間がどういう思いでこの書を残したかはわからないが、読んだ者の文を締め付けるほどの鬼気迫る文章だった。

     その中で、気になる文章をついに見つける事になる。

     現代の言葉にすると安っぽくはなるが、要するにこういう事だ。白村江に唐の軍隊が上陸した際、ある女の歌によって敵を退けられたと。よって、白村江の外に被害が及ぶ事は無かった。

     歌で女性が軍隊を退ける。

     こんなとんでもない話、還歌を知らなければ何かの比喩だと考えただろう。この時代にはあの歌は存在する。もっと時代を遡るべきだろう。

    「どう、先生?」

     亜紗はデータベースを検索しながら言った。

    「少しずつ近づいている。六百四十五年より前の書物で、データベースにあるファイルは幾つだ」

    「えっと‥二つ」

     二つ?

    そこで気が付いた。大化の改新は中臣鎌足と中大兄皇子が、蘇我氏を滅ぼしたメジャーな事変だ。当時の聖徳太子の血筋を断たせて、自分の従弟を天皇に置く。その時勢を正すべく起こした戦だ。その辺の出来事は日本ではタブー扱いとされており、はっきりとは描かれない。一説には蘇我氏は仏教に熱心だったと聞き、当時独自の神が多数存在していた日本の宗教的価値観を変えようとかなりの無茶をしていた。時代は飛鳥時代、渡来人が多く入ってきた時期、その時にあの歌が伝わったのではないだろうか。

    「亜紗くん、一番古いファイルのタイトルは?」

    「えっと、こっき? くに‥、読めない」

     来須は慌ててパソコンの前に移動する。そしてファイルのタイトルを確認した。

     国記。

     聖徳太子と蘇我馬子が編纂されたとされる書物、六百四十五年に蘇我蝦夷宅が燃やされた際、天皇記と共に焼失されたとされている。この国の成り立ちなどが記載されており、蘇我氏はこの書物が外に出る事ないよう管理していた。

     残っていたのだ‥

    ファイルを開くと七十三ページに及んでいる。全てが残っているかは謎だが、少なくともページ数的には一部ではない。

    「とんでもないぞこれは‥」

    「何なのこれ」

     亜紗は呑気な声を出している。ついさっき、国会図書館に入るや否や歌いだした時、この子にはもはや善悪という概念は存在していないと再確認した。純粋に還歌の事を知りたい子供の様に、その過程においての被害には興味が無いようだ。

    「この国の真実が書かれているかもしれないものだ、燃やされたとされていた」

     ふと考えた。

    物は言いようだ、燃やされたと言えばだれも探さない、諦めるしかない。もうこの世には存在しないとされたものにしがみ付く学者は少ないだろう。

     国記の存在はその後の様々な歴史書の中で触れられている。存在自体が認められているのならば、もう現存していないと嘘をつくしかない。そうか、嘘だったのだ。乙巳の変では燃やされていなかった。

    「プリントアウトしてくれ。そこにヒントが無ければ、もう追う事はできない」

    「うん」

     目の前のプリンターが一枚一枚、印刷された紙を吐き出している。日本が長年にかけて隠してきた書物をこれから読むのだ。そう言えば尾見が言っていた、この国の全てがここにあると。こいつは自分の様な一介の大学教授が読んでいい代物ではない。

     わかっている。わかっているが、止められない。

     どんな歴史の真実が出てこようとも、音楽教授の自分には関係が無い。知りたいのは還歌の事だ。

     プリントを手に取ってから、一枚一枚コピー用紙に目を通していく。そこには教えられている現代の歴史とはずいぶんと違う内容が書かれていた。これは‥外には出せない。今の成り立ちを全否定する内容になっている。これ以上自分が知った所で、どうにもできない内容だ。俺は冷静を保ちながら、音楽並びに還歌に的を絞る事にした。

     一枚一枚とプリントをめくるうちに、それを見つけた。

    ―星の歌。

     西にある神の土地より渡って来た歌。空より堕ちた星がその土地の住民にもたらした英知と共に生命を天に帰す歌。国を耕す知識と共に伝わる―

     伝わる、この国を作った人間たちに? 更にページをめくる。

    ―建国に当たり歪が生じた場合、無に帰すべし。その後、再度神の英知の元、耕すべし。

     無に帰す。帰る、星に帰る。還る。建国、耕す。

     無に還す‥

     子供がパズルで何かを作っていて、気に入らないから壊して一から作り直す。国を一度壊して作り直す。

     リセットだ。

    還歌は文明をリセットさせる。

    「やり直すんだ、一から」

    「どういう事? ねえ、先生教えて」

     俺は息を飲んだ。遠い西の地、それがどこかはわからない。アフリカ、インド、エジプト、少なくとも中国とは国交があったので、そういう書き方はしないだろう。そこに神の土地と呼ばれる場所があり、ある日星が落ちた。文字通り隕石でも落ちたのだろうか? そこで人類は新しい英知を得たとある。英知、優れた技術、文明‥。

     俺はスマホで検索しようとしたが、この部屋にはネット環境が無い事を思い出し、慌てて非常口へと走った。入り口近くで携帯の電波が届くのを確認し、検索する。

     西の土地で非常に発達した文明、そして飛鳥時代よりも昔。パッと思いつくものがある。あくまで伝承レベルだが。

     バビロニア。

     現代のイラク辺りを指す。アッカド人とシュメール人により非常に優れた文明を誇っていた。

     シュメール人、そこで脳みそは一気に回転する。系統不明の人種で、非常に頭脳明晰だったと言われており、その地域一帯にもたらした知識は現代にも通じる。そして‥シュメール人独特の言葉がある。

     シュメール語を解説しているサイトを検索し、ある大学教授の研究サイトを見つけた。

     とてもじゃないが短時間で把握できる文字ではない、ほぼ記号であり、古代エジプトの言葉同様、専門家でもない限り読むことは無理だろう。

     それでも俺はシュメール語解説を読んでいく。

     アンは天、キは地。

    にんはるさん にんはるさん どさ どさえ あんたきしぇん あんたきしぇん どさ どさえ。

    ダメだ、関連性を見つけたいがさっぱりだ。しかし、遥か西の神の地というのは、バビロニアの事ではないだろうか。他に思い当たる場所は無い。こんな事なら外国の歴史も学んでおくべきだった。

    頭を切り替える事にした。国記によれば星の歌はリセットの歌。亜紗のやろうとしている事と全く同じだ。

    もしもだ。この歌が発狂させる事を目的とした曲ではなく、記載のあるように無に帰す為に存在しているのであれば、それはもはや神の所業であり、人間如きが触れる存在ではない。

    日本建国にあたり、渡来人が極東の資源のない島へとたどり着き、一から作っていく。最初どれほどの人間がこの島に流れ着いたかはわからないが、どんどん人間が多くなるにつれ、いさかいが起き、統治され、またいさかいが起き、統治され、それを繰り返していった。その過程においてなのか、それとも最初の人間がそうなのかはわからないが、神の英知を得た人間がこの国へと現れ、知識と歌を授けたのだとしたら。

    いったい何度その歌は国を無にしたのだろう。

    あまりにも壮大すぎる話に、考える事が馬鹿らしくなってくる。還歌を無効化するなどおこがましい。世に出てしまったら、自然に落ち着くまでは待つしかない。

    スマートフォンで自分の動画サイトへとログインし、録画を開始した。伝えなければ、誰に? 誰かにだ。もし自分が死んでも、未来にヒントが残るように。

    「来須健介、棟月学園音楽大学、東洋音楽文化史の教授だ。この動画を誰が見ているかはわからない、もしかしたら誰も見ていないかもしれないが…」


    「先生、戻ろう?」

     気が付くと、亜紗が非常口から顔を出し隣に立っている。扉以外のない地下二階、無機質で殺風景なこの場所のように、世界はもはや一度ゼロになるまで見守るしかないのか。

     亜紗はどうして平然としていられるのだろう。警備員室で絶命している鈴木の死体にも目をくれず、書庫へ向かって歩いている。あの時、鈴木の顔は二人を見て明らかに身構えていた。もうすでに俺たちが逃げだした事を聞いていたのだろう、そして次の瞬間、亜紗は俺に合図を出し躊躇なく歌い出した。それから後はただ自傷行為にふけるのを眺めるしかなかった。

     歌う前に亜紗が合図を出してくれる度に慌てて耳を塞ぎ、大きなハミングを口ずさみながらその場から離れる。

     情けない、完全に翻弄されている。原始的な防御方法、耳を塞ぐ事でしか対処ができない。

     亜紗は言った。良心が持たなくなったらいつでも言って? 歌ってあげるから、と。もしも亜紗を襲ったらどうする? という質問にはただ笑って誤魔化されるばかりだ。実際ここに着くまで一度も襲われたことは無い。何度も暴動を見かけたし、永田町近辺で暴徒にかち合った時も、まるで見えない様に奴らは素通りしていった。

     亜紗にはこの歌の影響はない。彼女はこう言った、赤子の頃からずっと聞かされてきたのだと。陣内家の女性は、そうやって育てられるのだと。宿主みたいなものか? だから襲われない?

     書庫へ再び戻ると、彼女が答えを求めて来る。俺は還歌がどこからきて、どこで生まれたのかを説明した。

    「抽象的だね」

    「このファイルの文面通りに取るならな」

    「でも星から生まれた歌なんてロマンチック」

     亜紗はとても喜んでいる。その目的がリセットだという部分を彼女に伝えるべきか。

    「じゃあ、世界中に散らばっているんじゃない? 他にも守り手がいるって事でしょう?」

    「俺にはわからんよ、話が壮大すぎる」

     その通りだ、恐らく日本だけではなく、他の地にもこの歌は広がったはずだ。そして消えていったり、誰かが陣内家のように人知れず守ったりしていたのではないか。

     ん、ちょっと待てよ。

    「先生、じゃあ次やる事はわかったでしょう?」

    「…わからんね」

     おそらくもう世界中で話題になっているだろう。色んなサイトのアップローダーに上がっているはずだ。

    「配信しましょう、これから」

    「ちょっと待て、それは‥」

     わかっていたじゃないか。彼女と行動を共にするという事は、そういう事だ。

    「さっき先生、携帯の電波入ったでしょう? 早くしないと遮断されるかもしれないよ」

    「君が歌うのか?」

    「うん、そう。海外にもこの歌の守り手がいるならば、その人たちもきっと動いてくれるよ」

    「どうしても‥やるのか?」

    「うん。リセットしようよ、世界を」

     リセットを口にした。心臓が張り裂けそうになる。彼女、いや、守り手のDNAに刷り込まれているのか、還歌と共に。

    「この騒動の後に生き残った人間がまた、世界を整えればいいのよ」

     満面の笑みを見て背筋が凍る。

    ダメだ、これから俺は人類の再生に加担するのだ。

     その時、書斎のドアが勢いよく開く。

    そこには玲が立っていた。

    「先生! 何やってん―」

     視線が亜紗へと移動する。

    「ああ、玲ちゃん、無事だったんだ」

     国を浄化しようと目論む亜紗の笑顔は、邪悪そのものだった。

    (二十四)

    「聞いて玲ちゃん、この歌ね、星が人間に教えた歌っぽいよ、すごくない?」

     亜紗が無邪気に笑っている。その向かいには青白い顔をした来須が立っていた。

    「意味わかんない。ていうか、幼稚じゃない? その話」

    「玲ちゃん、ノリ悪いね、冷めるんだけど」

    「ねえ、先生どういう事?」

     来須は一点を見据えたまま動かない。

    「ちょうどよかった、これから還歌を生配信するからさ、見てく?」

    「生配信って、誰に?」

    「世界中」

     生配信、まだこれ以上還歌を広めようとしているのだ。

    「おかしいよ。もう十分じゃない、外見た? 酷い状況だよ。あなたの家が大変だった事はわかってるつもりだけど、もう終わりにしようよ」

    「わかってる? そんなわけない」

     亜紗の表情が変わった。

    「小さい頃から訳の分からない歌を聞かされてさ、一生抱えて生きて行きなさいって言い聞かされて。どうして私がって疑問も抱くことなく、ただひたすら守ってきたんだよ。両親が交通事故で死んだとき、お婆ちゃんなんて言ったと思う? さっさと子供産んで伝承しろって。馬鹿みたい、八百年以上前に命令された事なんていまだに守らないといけない義理なんてないよ」

     何か言い返す言葉を探すが、何も出てこない。彼女のいう事もわかる。でも‥。

    「だからってさ、みんな巻き込む必要なんてないでしょう? 自分の子供に教えなければいいじゃない」

    「ヤだよ、皆に聞かせてあげないと」

    「どうして? 楽しいの?」

    「楽しいよ」

     亜紗は楽しそうに笑っている。

    ダメだ、同じ歳だから色々分かり合えるなんてうがった考え方だった。

    人として立っている場所が違う、彼女に躊躇させる材料を私は持ち合わせていなかった。

    「いつも思ってたの。ニュースで流れる凄惨な事件とか、政治家の汚職とか、アイドルの薬物逮捕とかさ。誰と誰が不倫とか、ネット上で誰かが言い合ったりとか。何でもいいんだけどさ、この人たちは私があの歌を外に出ない様に守っているから、こうやってのんびりと生きていけてるんだなって。幸せも不幸せも全てが私のおかげ、ねえわかる?」

     屈折している。というよりも、異常だ。

    「両親が死んだあと、おばあちゃんはどんどん頭がボケていった。ある日あの歌を口ずさみ始めた、下手すると近所に聞こえるくらい。その時にああ、ついにボケたんだって。ずっと歌を守って来たタガが外れたんだろうね。それ見て決めたの、こんな醜い最期送るくらいなら、楽になっちゃおうって」

    「あのさぁ」

     覚悟を決めた。どのみち亜紗と分かり合えないのであれば、こっちも我慢しない。

    「知らないよそんな事情。そういう家に生まれたんなら運命だと諦めて守り通しなさいよ。さっきさ、人々の幸せがあるのは自分のおかげって言ったよね、違うから。てか、アンタの事なんて誰も知らないし、これからも誰にも知られない」

     頭に血が上ってからが自分の本領発揮だと思っている。弁も経てば頭も冴える。相手はとんでもない武器を持っているが、それ以外では自分と条件は同じ、普通の女子だ。

    「残念、仲良くなれると思ったのに」

    「無理、こっちは親友殺されてるから」

    「馬鹿が一人死んだだけじゃん」

     ぶっ飛ばす、ぐっと持っていた刺股を構えた。

    「やめろ、玲くん」

     これまでぼんやりと黙り込んでいた来須が口を開いた。

    「なんで? おかしいでしょ、一緒に止めよう先生、じゃないとたくさん人が死んじゃうよ」

    「彼女はリセットするんだ、世界を」

    「…何言ってんの?」

     やはり来須もあっち側なのか?

    「ねえ先生、なんで還歌を外に出したいの? 先生が音楽の歴史を研究してるから? こんなの研究でも何でもないじゃない。ただの人殺しだよ。外に出しちゃいけない音楽だってあっても仕方ない、人が不幸に―」

    「そんなものはないんだ」

     私の言葉を遮り、苦しそうな顔で話し始めた。

    「自分でもわからない。単純な探求心から来るものなのか、彼女に同情したのか、その両方だとは思うがね。大学だとか研究だとか、その前におれは一人の人間として真実が知りたい。たとえ人が何人死のうと知りたい。自分が触れた音楽で恐らく一番最古のものだ、彼女と行動しなければ人生にもう二度とチャンスは訪れないだろう。知りたいんだよ玲くん」

    「それで人がたくさん死んでも?」

    「やむを得ない」

     来須は断言した。その口ぶりを聞く限り、何を言ってもわかってもらえないだろう。

    「そんな‥。どうだっていいじゃん昔の歌なんて。どんな歴史があったって今の私たちには関係ない」

     萌美が飛び降りてからどこかで感覚が麻痺していたのかもしれない。親友の敵を討ちたい、来須と知り合ってからはそれに他の人たちも救いたいという気持ちがプラスされた。大学教授、内閣調査室と一緒に行動しているうちにどこかで自分が特別な存在だと勘違いしていたのだ。だが、それは違う。私はただの傍観者で、還歌を背負った亜紗も、覚悟を決めて共に行動しようとしている来須も、その二人を止められる力は持ち合わせていない。私の言葉は二人には届かないのだ。

    「彼女の言う優しい世界とやらを俺は見たい。もちろん君も生き残るんだ」

    「そんなのおかしい、ただの大量虐殺じゃん、先生!」

    「君の話はもう聞かない、これ以上邪魔をするならここに閉じ込めるぞ」

     その口調には強い意志が感じられる。きっと言う通りにするのだろう。

    「ねえ、もういい? さっさとやろうよ」

     亜紗が面倒くさそうに言った。

    「ああ、行こう。玲くんは外が落ち着くまでここにいるんだ。そして新しい世界を見ようじゃないか」

    「どうしても行くの? 二人とも」

     刺股を二人に突き付ける、こんなので止められるわけはないのに。

    「止めとけ。行くぞ」

    「はーい」

     二人が私の方へ歩いていく。止めなきゃ、止めなきゃ、これで止めなきゃ。力を込めて思い切り―

     体が動かなかった。来須が隣を無言ですり抜け、そして亜紗が横切る際にぼそっと言った。

    「残念でした。あとで謝ってくれたら許してあげてもいいよ」

     背後を歩く二人、楽しそうに笑う亜紗の声だけが聞こえた。

    (二十五)

    配信は俺のアカウントで行う事にした。サイト自体はまだ繋がっている、インターネットを日本だけ遮断するにはかなりのハードルがあるのだろう。

     隣ではまるで趣味の配信でもするように亜紗が髪の毛をセットしていた。これから数分後、動画は海外を経由していくだろう。ネットを見る限り既にあらゆるSNSやアップローダーで拡散されていた。

     トップページには次々と暴動の動画がアップされている。タイムズスクエア前、赤の広場、これはガンジス川だろうか、胡宮前、世界中で遠慮なく人が人にその時に出来る最上級の暴力を振るう映像で溢れていた。

     島国のたった一人の動画配信者のせいで、あっという間に世界に散らばっている。そしてこれからオリジナルの音源が世界に流れるのだ。

    「お待たせ、来須先生、いける?」

     亜紗の表情は生き生きとしていた。黒髪で美しい少女はこれから世界をリセットする。自分はその一旦を担うのだ。これでいいんだろうか、音楽を愛した人間のやるべき事なのだろうか。

     いや、これでいいのだ。知りたい、還歌の存在意義を。

     埋もれた歌が外に出て、世界は変わる。その先の新しい未来で、また古い音楽を掘り下げていく。これでいいのだ来須健介。

    「ああ、じゃあ行こうか」

     国会図書館の三階ロビー、受付のテーブルに本を積んで、そこにスマホを立てかけた。こんな雑な準備で、これから世界は混乱を極める。

    「じゃあ、配信スタートしたら耳塞いで? 歌うから」

     俺は頷いた。

     サイトに入り、配信ボタンをタップした。そして耳を塞ぎ亜紗に向かって合図した。

    「こんばんわ皆さん、私は陣内亜紗、山口の高校生三年生です。私の家でずっと管理してきた歌を皆さんにお届けしますね。何百年も陣内家で守り通した、隠し通した歌です。太古の昔から伝わる歌、私だけが知っているなんておかしいでしょう? 共有してください。それではいま世界で話題のあの曲、皆さん、新しい世界でお会いしましょう」

     にこやかに話す彼女は、とても美しかった。長年にわたる秘密から解放される美しさなのだろうか。

     亜紗の表情が変わった。来る! 

     その時、視界の片隅に玲を見つけた。なんで書庫にいない!

    「おい! 耳を塞げ!」

     慌てて耳を塞ぐのを確認した、亜紗を見ると邪魔されたからだろうか、明らかにイラついた顔を一瞬したが、すぐに持ち直す。

     来る、全てが変わる。

    ―にんはるさん にんはるさ

     パンッ

     耳を塞いでいても聞こえるほどの衝撃音が体に響いた。

     目の前に立つ亜紗の顔の真ん中が、無残にえぐれている。

    鼻と口が捻じれて、瞬間、真っ赤な液体が吹き上がる。美しい顔が一瞬で醜悪な肉の塊と化す。

     目を見開いたまま、そのまま膝から倒れた。

     何だこれは‥。

    「確認!」

     声の方を向くと、そこには下条と尾見、そして特殊部隊と思しき防弾ベストを着た三人が立っている。その中の一人は胡桃沢だ。

    「ターゲット確認しろ」

     隊員たちが駆け寄る。

     何だこれは。

     倒れる亜紗に視線を落とす。美しかったその顔の真ん中に、真っ黒な穴が開いている。渦巻のように空いた穴のせいで口は歪み、鼻はどこかに吹き飛んでいた。

     何だこれ…。

    「来栖健介を確保!」

     後ろから胡桃沢が自分を取り押さえるのが分かった。

    「宮原さん、大丈夫か?」

     へたり込んでいる玲に下条が声を掛けている。

     あっけない。あまりにも。

    神の与えたオリジナルの還歌は死に絶えた。長い歴史を刻んできた無に帰す歌は、簡単に消えてしまった、目の前に倒れる女子高生と共に。

    「間に合ってよかった、これからが大変ですねえ」

     ヘラヘラと尾見が笑っている。こんなジジイが生きて、まだ若い亜紗の顔には銃弾が撃ち込まれた。

     何だこれは。これがこの国のやり方か。

    「先生、こちらへ」

     口調は優しいが、胡桃沢は容赦なく俺の体を引きずっている。

     還歌は死んだ。亜紗も死んだ。オリジナルは息絶えた。

     いや、そうじゃない。

    まだあるじゃないか。

    「ひどいじゃん! なんで殺したの? 気絶でも何でも方法あるのに!」

     玲が後ろから胡桃沢に食って掛かった。

     そうだ、君の言う通りだ。圧倒的な暴力で制圧した。

    彼女の話も聞かずに。

    でも大丈夫だ、玲くん。

    「君は優しい世界に何を望む」

     俺の声は我ながら落ち着いている。何だか心地良ささえ感じていた。

    「わかんない、こんなの優しくないよ…」

    「さあ、耳を塞ぎ好きな歌を口ずさめ、そして新しい世界で君は生きるんだ、いいね?」

     伝わるだろうか。

     玲の泣き顔が一瞬にして驚愕の表情へと移行した。よかった、伝わった。

    「おい、胡桃沢! 歌うぞ、止めろ!」

     下条が叫んだ気がするが、もう遅い。

    少し離れたカメラに向かって、歌いだした。

    ―にんはるさん にんはるさん どさ どさえ あんたきしぇん あんたきしぇん どさ どさえ

     ドクンと体が波を売った気がする。血圧が上がった時のように、頭が締め付けられていく。心が騒ぎ、息が出来なくなった。そして目頭が熱くなっている、涙だ。

    ―にんはるさん にんはるさん どさ どさえ あんたきしぇん あんたきしぇん どさ どさえ

     さあ、解放しろ、俺は自由だ。俺は―

    (二十六)

     来須が歌い始めた。私は最後の言葉のおかげで耳を塞ぐ事ができた。抑えていた手を離し胡桃沢も耳を塞いでいる、間に合っただろうか。

     亜紗がさっき歌い始めた時、瞬間的に思い浮かんだ曲は、またもやあの曲だった。どこに行くにもお母さんが口ずさんでいったあの曲。

    ―幸せは、歩いてこない、だから歩いていくんだね、一に一歩、三日で散歩、三歩進んで二歩下がる。人生は―

     口ずさみながら倒れた亜紗に視線を移した。斜め後ろからだったが、撃たれたのは明白だ。後頭部から血が噴き出し、遅れる様に顔面から血が噴き出す。それをスローモーションで見てしまった。

     銃を撃ったのは下条だ。その顔はものすごい形相で、これまでに見ていた冷静な表情の面影はまるでなかった。

    再び還歌が今歌われている、来須によって。

    その下条は今、耳を塞いでいない。いや、私と胡桃沢以外は突然の出来事に対処しきれていなかった。

     来須はまだ歌い続けている。が、その動きからもう正気を保っていないことはわかった。ゆらゆらとまるで舞台の上に立った役者のように、両手を開き気持ちよさそうに歌っていた。

     突然、後ろから耳を塞いだまま胡桃沢が来須へと体当たりをした―

     転がる二人、つられるように両耳から手を離したその時、タンっという音が館内に響き渡る。

     下条が隣にいた特殊部隊員の頭を撃ち抜いた。もう正気ではない。

    「しねしねしねしね」

     続け様に亜紗の近くに立っている特殊部隊員に発砲し、一人が崩れ落ちる。

    「あしなましいなまあしいい」

     私の耳元でぞっとする声が聞こえた。

    そこには尾見が立っていた。いやらしい目つきで私の下半身を見つめている。あんなに好々爺だった男も、化けの皮を離せば欲望まみれなのだ。

    「なんまぁああしい」

    「宮原さん、離れろ!」

     同時に声が響く。胡桃沢が銃を構えていた。

    「くるぁぁぁああああ」

     聞き覚えのある声だった。その後ろから来須が飛び掛かる。そのまま二人は地面に倒れ込んだ。

    「ああぁあぁなんまっしいい」

     目の前にはよだれを垂らす尾見、向こうでは特殊部隊員の死体に銃弾を撃ち込み続ける下条、やるしかない、自分で切り抜けるしかない。

    「気色悪い!」

     死ぬもんか―

    ビクンっと体を動かし、こちらに向かって尾見が走って来た。

     刺股は書庫に置いてきた。頼みはこの身体だけだ。

    「ひひひひひなんまあしい」

     眼前まで迫って来た、こんなジジイに殺されてたまるか。

     握っていた拳を見よう見まねで顔面に突き出そうとした。

     タンッ

     バァンッ

     同時に耳をつんざく音が響く。目の前の尾見の頭が派手に吹き飛ぶ。

    「しねしねしししね」

    「てっえめめめえ」

     下条が撃った、誰を? 瞬間、来須が叫んだ。そして倒れた胡桃沢の銃口はこちらを向いている。

    「クルミちゃん!」

     私が駆け寄ると同時に、来須は下条に向かって走り出した。

     タン、タン、と二発ほど銃声が響いたが、誰にも当たる事は無く、そのまま二人はもつれ合う。

    「クルミちゃん、クルミちゃん、ねえ、大丈夫?」

     目の前で胡桃沢が喉から溢れる血を抑えながら、口をパクパクしている。銃弾があたっている、私を助けてくれたんだ。

    「……て‥」

     何かを伝えようとしている。

    「何、クルミちゃん」

     ゴツゴツに鍛えられた体を思いきり抱き締めた。

    「て、い、て」

    「何、わかんないよ」

     どうしよう、死んでしまう。

    「て‥いき‥て‥生‥きて」

    「うん、大丈夫、ちゃんと生きてるよ」

    「う‥生き‥‥」

     動きが止まった。抱きかかえるその目から、急速に色が失われ、灰色になった。

     死んじゃった。

    いつも助けてくれたのに、死んじゃった。

     体が自分でも驚くくらい熱くなった。許せない、許せない。

    「おぁ? 大学死ね、ばかが、おぁ?」

     声に振り向くと、来須にまたがり下条が上から拳を打ち下ろしていた。

    「おぉああっぁっぁあ」

     下でもがいている、その顔は血で染まっていた。

     ゆっくりと冷たいコンクリートの上に動かなくなった体を横たわらせ、そのポケットから警棒を引き抜いた。瞳の色が灰色になったごつごつの顔を間近で初めて見た。小さな傷が無数にあり、見れば見るほど不細工だ。そしてとても優しく、男らしい。

     ありがとう。

    私は警棒を片手に下条の方へと歩く。一心不乱に拳を振り下ろす下条は、全くこちらに気が付かない。警棒の手触りを確かめ、持ち手の所にぶら下がっている紐に手を通した。

     右斜め後ろに立ち肩を回す。そして息をすぅっと一息ついた。

    「下条さん」

    「あっぁぁあ?」

     白目を剥いて後ろを向き、視線を警棒に移した。

     私は自分の人生史上、最大の力を振り絞って警棒を上から振り下ろす。

     そのまま警棒は下条の右のおでこを破壊しながら右目、鼻まで食い込んだ。

    「お? れ?」

     食い込んだ警棒を再び振り上げて、勢いよく振り下ろす。一発、二発、三発、四発、五発目を振り下ろそうとしたときには、もうどこを叩けばよいのかわからないくらい原形をとどめていなかった。

     下条はまたがったまま絶命していた。

     遅れて全身に震えがくる。歯もガチガチと音を鳴らし、視界がぼやけて来た。

     泣くな、泣いちゃダメ、我慢しなきゃ。

    「すげえな、君は」

     上に乗ったままの死体をどかしながら。来須がゆっくりと立ち上がった。

    「先生‥まとも?」

    「微妙だな。頭には血が上ったままだし‥視界は真っ赤だし」

     それは血だらけだからだ、鼻も曲がってる。

    「彼と揉み合ってる途中に言ったんだ、君が危ないって。すると胡桃沢さんは俺がまだ正気を保っている事に気が付き、玲くんに襲い掛かりそうな尾見を撃った。ところがその音に反応し下条が彼を撃ちやがった。俺は頭に血が上り、あとはこの有様だ」

    「クルミちゃん、私を守って死んじゃった‥」

    ダメだ、我慢なんてできない。一気に涙が溢れてきた。

    「なあ、玲くん、見ただろう? どんなにまともそうな人間でもこの様だ。亜紗くんは優しい世界を求めていた、俺もだ。そして代わりに歌った。意識が遠のき発狂するかと思ったが、こうやって君の存在がわかる。でも感じるんだ、もう俺はまともじゃない」

    「知らないよ! みんな勝手、マジ勝手!」

    「恐らくあの動画は世界中に配信されただろう。あとはそれをどう使うか、人類の好きにすればいい。この歌の起源はわかった。誰が作ったなんてどうだっていい、星をリセットするためのものだからな。生き残った人格者たちがまた世界を構築していくだろう。君もそうなりなさい」

    「知らないよ!」

    「いいか、聞け、君に伝言を残す。俺の動画配信サイトの管理画面に、まだアップされていない動画がある。パスはKURUSU98、必ず見てくれ。そして考えるんだ。君が決めろ。そしてそこのスマホ、まだ配信は続いている。配信を終わらせるんだ。生き残ったのは玲くんだ、終わらせろ」

     喋りながら来須はゆっくりと後ろに下がっていく。

    「先生が言えばいいじゃん!」

    「俺には資格が無い。リセットする側に立ってしまった。ここから先は新しい世界の住人の出番だ。そろそろ限界だからさ、俺は一足先にリタイヤする」

     来須の顔が苦痛に歪む。痛みなのか、それとも正気を保てないという事なのか。

    「ふざけないでよ、先生! みんなでこの状況止めないと、ねえ…」

     そう言いながら覚悟をした。彼の人生はゴールを迎えたのだ、還歌の起源を知ってしまった。知りたい事は知れたのだろうか。

    「じゃあな、君と出会えて楽しかったよ」

     来須は連絡通路に腰掛け、にこやかに後ろへと体を傾けた。

     そして―消えた。

     その時、玲の頭の中に、萌美の最後が思い浮かんだ。彼女もきっとほんの少し残った正気の部分がそうさせたのだ。自らリセットしたのだ。

     国会図書館にふたたび静寂が訪れる。三階ロビーの受付に視線を送ると、一台のスマホが置いてある。

    そうだ、配信をちゃんと終わらせなきゃ。

    「えっと、まだ正気を保っている人はすぐに避難してください。もし変な歌が聞こえてきたら耳を塞いで、そして好きな歌を思い切り口ずさんでください。ちなみに私は―」

    (二十七 )

     世界中でどれくらいの人が死んだのか、それはこれからわかる事だろう。各地で起きた暴動は、その国の警察機構、軍隊、そして国民たちにより一時的に鎮静化しているが、その後も各地で動画がアップされたりして集団発狂による暴動が繰り返されている。

     日本も同様で、自衛隊による鎮圧作戦が今も続いていた。インターネットそのものを一時的に遮断する案も出てはいるが、あらゆる情報がデジタル化している今、もはや難しいだろう。

     国会図書館での騒動から一週間が過ぎた。

    皆が殺し合ったあの場で、私は何度も何度も生配信で、耳を塞ぐ事、音が聞こえない様に好きな歌を口ずさむ事を伝え続けた。来須健介の動画配信チャンネル上には、溢れんばかりのコメントで埋め尽くされている。

     この女子高生は誰なのか?

     天使か悪魔か?

     来須はどこだ?

     話題はこの三つに絞られた。その後、配信を確認し駆けつけた自衛隊により保護された私は、テレビで見た事のある政治家や大人連中に囲まれる中、一連の騒ぎの内容を確認された。学校で起きた事件、来須との出会い、下条、尾見からの接触。国会図書館から下関の陣内亜紗、新幹線での暴動から首相官邸、そして再び国会図書館へ。目まぐるしい日々が続いたが、あの日萌美が飛び降りてから一か月も経っていなかった。

     来須と亜紗は、あの歌の起源にたどり着いたようだが、私には還歌というものが何なのかわからずじまいだ。

    ―星をリセットするため

     そう言っていた。あの歌を聞くと人は殺し合う。自分の底に眠っている欲望や悪意、そう言ったものが湧き出てきて、理性で止めるわけでもなく体が暴れ出す。そう言えばおかしくなった人間はそれぞれ独自の内容で喋りながら襲ってきていた。

     現時点で分かっている事は全て伝えた。

    ―人類があの歌から逃れるには、世界中の人々が再び存在を忘れるしかないだろう、と。

     家に帰ると、そこには両親が待っていた。二人ともケガはなく、心からしかりつけ、そして抱きしめてくれた。どうやら国の機関から状況を聞いているらしく、しばらく軟禁状態が続いた。家の前には常に交代で警察官が立っており、ちょっとした要人気分も味わえている。

     テレビで流れるニュースでは、新たな事実がどんどんと流れていた。日本全国の繁華街ではほとんどの場所で暴動が起き、中には警察署が丸々占拠された地域もある。そして一番驚いたのは、一種のテロ行為だ。流れた動画から音源のみを抜き出し、それを街中や公共機関などで流す。この国にはそんなにも不満を持って生きてきた人間がいたのか? と驚くばかりだ。

     来須がもし生きていたらどうしただろうか。

     彼は亜紗に同調していた部分もあった。だから彼女が殺された後、ああやって自分が代わりに世界に配信したのだろう。じゃあ人が殺し合う未来を見たがっていたのか、と問われると、疑問が残る。

    いい加減な部分はあったが、争いを望むような人物には思えない。ただ純粋に埋もれた歌を発掘する事を楽しんでいただけなのかもしれない。

    どちらにしろ、彼は今人類最大の敵のような扱いを受けている。人間のDNAを破壊し発狂させる歌、クルスアタックという本人が聞いたら喜びそうな名前で呼ばれていた。ハードコアっぽいじゃん、わかんないけど。

    現在、主要のSNSはほとんど使えなくなっており、どのページにアクセスしようとしても遮断されてしまう。巨大掲示板なんかも同様で、完全に国の管理下に置かれていた。メッセージアプリくらいしか暇潰しがなく、動画を見た友達から興味津々なメッセージが多数届いている。その全てに返事をする事が許されていない私は既読するのみで、後はスルーしていた。

    「君はこれから国の管理下に置かれる」

     テレビで見た防衛庁長官と面談した際に言われた。その言い方に傲慢さを感じたが、特に言い返すことはしなかった。きっと何もわかっていない、どれだけ危険な歌が世界にばらまかれているのか、きっとまだわかっていないのだ。

     一人の女子高生を監視している暇があるのならば、どれほどの動画が不正でダウンロードされているのか、それをまずは把握しなければまた日本のどこかで突然発狂暴動が起きてしまう。

     私はさんざん聞かれた。君はその歌を知っているのかと。その質問を受けるたび、ノーと嘘をついた。一つは知っていると答えたら、下手すると捕まってしまうと思ったからだ。狭い部屋に閉じ込められ、一生を不意にする。そんな地獄を想像した。

     もう一つの理由は、来須、胡桃沢と共に調べた日々を胸に留めておきたかったからだ。彼らの功績はきっと誰にも知られない、むしろ悪党としてみんなの記憶に残るだろう。でも私は忘れない、そのために心に秘める事にしていた。

     しかし亜紗の言っていた優しい人間だけが残る世界、それに近づいているのだろうか? と思うくらい、世界では還歌をきっかけに争いが起きている。

     その中には壇ノ浦戦記にも載っていた軍事利用も含まれる。子供にCDプレイヤーを持たせて、相手方の地域にいかせるのだ。そして、動画から抜き出した音源を流し、混乱させる。考える事は万国共通だ。

     ある国では首相の国民団結スピーチの場に、一人の男が現れ音源を流した場面もある。一瞬にして修羅場と化した現場の様子が生放送で世界中に流される事になった。

     何だか馬鹿みたいに騒いでいる連中から先にどんどんと死んでいっている様な気がする。こういう騒動が続いている内は、きっとこれからも世界中で人は死に続けるだろう。

     ふと、スマートフォンに一通のショートメッセージが届いている事に気が付いた。内容を確認すると、自分の連絡帳に登録のない人物からだった。

    ―世界は導かれ始めましたね、貝塚です。お会いできませんか?

     ああ、そう言えばそんな人もいたな。学校を殺戮の場に変えた、還歌を現代で利用した最初の女。てっきり捕まったままかと思っていたが、どうやらもう自由の身の様だ。玲は少し迷いながらも、返事をした。

    ―なんでこの番号知っているんですか?

    ―お昼にお母様に聞いたわ、電話で。

     余計な事を。

    ―会ってどうするんですか?

     返事はすぐに帰って来た。

    ―私たちはもう同士ですから。これからの話しでも。

     少し考え、返事を返す。

    ―わかりました。見張られてるので抜け出すのに時間がかかります。

     貝塚の指定してきた場所は桐谷高校の音楽室だ。今は休校になっている。玲は了承のメッセージを返す。

     動きやすい服装に着替える。パジャマを脱ぐのは何日ぶりだろう、動きやすい服装になった私は、待ち合わせの十九時に合わせ、家から見つからないよう抜け出す方法を考えた。

     学校は静まり返っていた。あれから四週間が経とうとしている。あの日割れた三階の窓ガラスには水色のビニールシートが貼られていた。

     下駄箱の方へと歩いていくと、わかりやすく入口のドアが開いている。校舎に入り暗がりの階段を上がった。何気なく過ごしてきた校舎、さっさと卒業してしまいたかった学校が今は懐かしい。

     三階に上がり、音楽室に入ると、そこには貝塚が教団の前に立っていた。

    「宮原さん、こんばんは」

     何だか生き生きとしている。やつれた顔を想像していただけに正直驚いた。

    「何の用ですか?」

    「メッセージに書いたじゃない、同士の親交を深めようと思って」

    「同士、私たちが? どうして」

    「あなたもあの歌を知っているからよ」

     確かに知っている。目の前の気の狂った女よりも還歌の事は把握しているつもりだ。

    「釈放されたんですか?」

    「いいえ、逃げたの。麹町署で騒動が起きた時全員がパニックに落ちてね。簡単に外に出る事ができた」

     一応教育者の癖にさらりと言った。やっぱりこの女はいけ好かない。

    「来栖先生もあの歌を知ってしまった、そして我慢できずに歌ってしまったんでしょう?」

    「動画見ました? 還歌はあの撃たれた女子高生の一族が守っていたんです」

     亜紗の事を持ち出すと、貝塚があからさまに表情を崩した。

    「あの子は歌に選ばれなかったのよ、だから死んじゃったじゃない。守り手であっても歌い手ではないわ」

    「気に食わないんですか? 陣内亜紗が」

    「別に。本来管理するべき人間の為に隠していただけって事よ、ご苦労様」

     やはりこの女を好きにはなれない。

    「で、先生が新たな守り手ですか?」

    「いいえ、歌い手よ」

     歌い手? この女が?

    「もっとこれからみんなに広めなければいけないわ、世界を変えるために」

    「世界を変えるって、先生が?」

    「私以外にはいないわ」

     ダメだ、我慢できない。

    「無理! 先生には無理だから、ウケる」

     目の前で自信満々にしゃべる音楽教師を指さした。

    「何が面白いのよ、私にはその資格があるのよ」

    「ないよ、ないない」

    「どういう意味?」

    「この歌の起源を知らないでしょう? 何のために存在するのか」

    「そんなの、決まってるじゃない。人類を駆逐するのよ」

     ダメだ。

    「逆よ。アンタみたいな自分の事しか考えられない人間から地球を守るための歌なの。無理だって先生には」

     貝塚の顔が醜悪に歪む。

    「うるさいわね。アンタも同類になったのかと気を使ってあげれば生意気なのよ、邪魔よ邪魔」

     随分な言葉を履いて、尻ポケットから小さなナイフを取り出した。やっぱり幼稚だ、程度が低い。

    「アンタじゃ役不足よ。聴かせてあげようか?」

     ずっと考えていた。いや、迷っていた。

    私は守り手が歌う場面にもいたのだ。目の前にいる偽物の歌い手ではなく、直接現場で触れあって生き残った自分こそが、この歌を紡ぐ人間なのではないかと。

    そして…。

    私は彼女が歌った際にうっすらと聴いたのだ。いや、聴こえてしまった。その直後彼女は撃たれて死んでしまい、修羅場へと化した。

    たしかに還歌を耳にした、しかし何も起きなかった。もしも歌う事に資格があるというのなら、私にもあるのかもしれないと。

    ―にんはるさん にんはるさん どさ どさえ あんたきしぇん あんたきしぇん どさ どさえ

     目の前の貝塚は驚愕の表情を浮かべた後、耳を塞ごうとしたが間に合わず、醜悪な表情から、恍惚の表情へと変わる。

    「たしぃはあえりぃい」

     甲高い声で叫び出した、教室の外へと出てそのままドアを閉める。貝塚が凄まじい表情で窓ガラスに拳を打ち付けた。

    「がいがきききぃ」

     私は…。

     何も起きていない。感情の起伏も、悲しみも怒りも、何もない。胸に残るのは清々しさだけだ。

    「先生、ほら、私を殺さなくていいの?」

     その声は貝塚には聞こえていないようで、今は必死に黒板に顔を打ち付けている。

    「やっぱ先生じゃ主役は無理だよ。萌美にちゃんと謝っておいてね」

     そう言い残し教室を出ながら、萌美の復讐を果たせたことにほっとした。貝塚を殺せば何が変わるというわけではない、が、親友を殺したのは間違いなくアイツだ。

    外へ出ると綺麗な夜空が広がっている。ふと、来須の残した動画を思い出していた。

    星の歌。

     遠く離れた西にある神の土地より、遠い昔に渡って来た歌で生命を天に帰す歌。無に帰すべし。その後、再度神の英知の元、耕すべし。

     耕すべし。

    エンディング

    「来須健介、棟月学園音楽大学、東洋音楽文化史の教授だ。この動画を誰が見ているかはわからない、もしかしたら誰も見ていないかもしれないがここに残す。遺書のようなものだと思ってもらっていい。急いで撮影しているため簡潔な内容とさせていただく。さて、世間をにぎわす還歌とは一体何か? 結局この国の最古の文書をもってしても辿る事ができなかった。だが、その中でもわかる事はあった。記載してある通りの内容を残しておこう。

    遠く離れた西にある神の土地よりたどり着いた歌。空より降り注いだ星がその土地の住民にもたらした英知と共に手に入れた生命を天に帰す歌。各土地の建国に当たり歪が生じた場合、無に帰すべし。その後、再度神の英知の元、耕すべし。以上だ。簡単に言うと、遠い昔、西の国よりこの歌は日本に運ばれてきた。恐らくだが日本建国の頃から存在するのだろう。さて、結局この歌を無効化するものの存在を見つけられなかった。聴いたら最後、その人間は自分の身が亡ぶまで行動する。ではどうすればいいか? 答えは一つだ。聴くな、それだけだ。助かるにはそれしかない。俺はこれから八百年に渡り一族でこの歌を守って来た陣内亜紗と共に世界に配信する。彼女が望む優しい世界とは、浅ましい人間がいない世界の事を指すのだろう。人は殺し合う、そして新しい世界が現れるのだ。俺はその世界にいないだろう、ここまで話しても歌を聴きたい奴は聞けばいい、リセットが上手く行く事を強く望む―以上だ」

     後ろで先生と亜紗の呼ぶ声が聞こえ、動画は途切れた。遠い昔に日本に渡って来た星の歌。何のためにどうやって生まれたのか、その辺はまるでわかっていない。

     いや、わかる必要も無いだろう。

    目的ははっきりとしているからだ。

    リセット。

    世界中の人間を間引きし、また新たな文明を築くためのもの。壮大な話だ。

     一介の女子高生がどうこうできる話でもないが、還歌を知っている者は今のところ私しか存在しない。

     世界中では暴動疲れが起こっていた。というよりも大方の人間たちが殺し合ったのだろう。生き残っている人間は平和を願っているといいのだが。

     学校を後にした私は、そのまま久しぶりに夜の渋谷の街へとやっていた。スクランブル交差点ではまばらの人が信号を待っており、目の前のセンター街には侵入禁止のテープが貼ってある。至る所に警察官ではなく自衛隊員が立っていた。今回、警察は市民に近かった立場もあり、かなりの被害が出たそうだ。街の暴徒の鎮圧は、ほぼほぼ全国各地の自衛隊が行ったらしい。

     信号は青になり、私はスクランブル交差点を渡り切り、渋谷109方面へと歩きながら萌美の事を考えた。我を失った親友の死の謎を追う内に来須と出会い、それからはめまぐるしく様々な大人に触れた。そのほとんどが国の中枢に立つ人間で、一般的に言うとエリートばかりだ。国会図書館の秘密の書庫や首相官邸にだって入る事が出来た。

     だからなんだ。

     結局親友が死んだ理由は、同じ歳の女の子による暴走だったが、その子はその子で押し付けられた大いなる責任を放棄しただけだ。長年この国の大人が放棄してきた責任のつけを払ったのは若い世代で、世界中で天文学的な数字の人々が死んだのだ。

     そして今、生き残った大人の安全を確保するため、生き残ったこの国の偉いさん連中の為に自衛隊が街を監視している。優しい世界ってこういう事? 違うよね、亜紗ちゃん。

    「こんにちは」

     109前、銃を持った自衛隊三名の元へと辿り着いた。

    「高校生かな? 今はあまり外を出歩かないよう様に」

     自衛隊の一人が厳しい顔で答えた。

    「大変ですね、国を守るって」

    「聞こえているのか? 離れなさい」

     言われる通り自衛隊員から離れた。優しい世界とはいったい何だろう。

    暴力のない世界? 違う。

    人を陥れない世界? 違う。

    犯罪の起きない世界? 違う違う、そんな単純な内容ではない。

    「ねえ、自衛隊員の皆さん、優しい世界って何だと思います?」

     私は叫んだ。

    「大人なら知ってるでしょ? 教えてくださーい」

    「いい加減にしないか! 立ち去らないなら逮捕するぞ」

    「下がりなさい!」

     優しい世界、それは何なのか。簡単な事だ。

     できる限り人がいなくなればいい。それだけで優しい世界が訪れる。私は私のできる事をやらなければ。それが亡くなった人々に対する弔いだ。

     大きく息を吸い込んだ。旨く歌えるだろうか。

    どうか優しい世界が訪れますように。

     にんはるさん、にんはるさん

                                 了


     
     
    歌謡ロックバンド「フラジール」ボーカル、作詞・作曲家。 昭和歌謡の情緒と90年代J-ROCKの熱量を ルーツに活動する傍ら、小説も執筆。 第43回「横溝ミステリ&ホラー大賞」最終選考に選出。 人間くさい物語に惹かれます。

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