
【怪談】5人目
美雪と康平は、周囲から羨ましがられるほど美しい夫婦だった。結婚三年目にして待望の第一子を授かった時、二人の喜びは計り知れなかった。
しかし、生まれてきた子供は期待を大きく裏切るものだった。
どちらの親にも似ていない、ひどく醜い容姿をしていた。美雪の美しい面立ちも、康平の整った顔立ちも、まったく受け継いでいなかった。鼻は潰れ、目は小さく離れ、口元は歪んでいた。
「まあ、成長すれば変わるかもしれないし」
康平はそう言って慰めたが、美雪の心には暗い感情が芽生えていた。
子供が一歳になった夏、家族三人で伊豆の海へ旅行に出かけた。遊覧船に乗った時のことだった。美雪は子供を抱いて船の手すりのそばに立っていた。
青い海が眼下に広がっている。
「この子さえいなければ」
その瞬間、美雪の手から力が抜けた。子供は小さな悲鳴もあげずに、青い海面に消えていった。
「助けて!子供が落ちた!」
美雪の叫び声が船内に響いた。必死の捜索が行われたが、子供の遺体は見つからなかった。事故として処理され、周囲は深く同情した。
それから二年後、美雪は再び妊娠した。
今度生まれてきた子供は、まさに理想的だった。美雪の美しさと康平の端正さを見事に受け継いだ、愛らしい女の子だった。翠と名付けられたその子を、二人は心から愛した。
翠が三歳になったある日、家族で箱根の山へドライブに出かけた。展望台で景色を楽しんでいた時、美雪は翠を抱き上げて眼下の景色を見せてやった。
「きれいでしょう?」
その時だった。翠が小さな声で呟いた。
「今度は落とさないでね」
美雪の血が凍りついた。三歳の子供が、なぜそんなことを知っているのか。
「翠ちゃん?今、何て言ったの?」
「今度は落とさないでって言ったの。ママ、前のときは落としたでしょう?」
美雪の手が震え始めた。康平は何も聞こえていない様子で、カメラで景色を撮影している。
翠が再び口を開いた。
「でも大丈夫。今度はちゃんといい子にしてるから」
「あなた…誰なの?」美雪の声は震えていた。
翠は無邪気に微笑んだ。
「僕だよ、ママ。最初に生まれた僕。こんどは美人に生まれ変われたから、落とされないと思ったんだ」
美雪は翠を抱く手に力を込めた。この美しい子供を失いたくない。けれど、この子の正体を知ってしまった今、愛せるだろうか。
翠が再び口を開いた時、美雪は言葉を失った。
「お前がいい子にしてたら殺さないでいてやるよ。お前で5人目だけどな」
それは、美雪の声だった。翠が美雪の声真似をして、冷たく言い放ったのだ。
「え?」
美雪は混乱した。5人目?何のことだ?
翠は大人びた表情で続けた。
「ママは覚えてないの?僕たちのこと。最初の僕、二番目の美咲ちゃん、三番目の太郎くん、四番目の花音ちゃん。みんなママが落としたんだよ」
美雪の記憶が蘇り始めた。忘れていた、いや、忘れようとしていた記憶が。確かに、何度も妊娠し、何度も…。
「でも今度の僕は賢いの。美人に生まれ変わったから、ママに愛してもらえると思った。でもやっぱりダメなのかな?」
翠の瞳に涙が浮かんだ。それは純粋な子供の涙だった。
美雪は気づいた。自分の手から力が抜け始めていることに。まるで意志とは関係なく、腕の筋肉が緩んでいく。
「ママ、僕はママを恨んでないよ。ただ、愛して欲しかっただけなんだ」
翠の体が美雪の腕から滑り落ちようとしていた。美雪は必死に手に力を込めようとしたが、まるで呪縛にかかったように腕が言うことを聞かない。
「お前で5人目だけどな」
また美雪の声が翠の口から響いた。そして翠は静かに微笑みながら、美雪の腕から離れていった。
「康平!」
美雪の叫び声が山に響いた。しかし振り返った康平には、美雪が一人で手すりにしがみついて泣いている姿しか見えなかった。
「美雪?どうした?翠は?」
「翠って誰?」美雪は茫然と答えた。「私たち、子供なんていないじゃない」
康平は混乱した。さっきまで確かに三人でここにいたのに。翠の存在が記憶から薄れていく。
美雪だけが覚えていた。手の中から消えていく小さな温もりを。そして、また繰り返される運命を。
山風が吹き、美雪の頬を涙が伝った。
今度こそは、と思っていたのに。
了