
推しストーカー百合【第19話「第四章「アイドルと恋人」」】
# ep18 バカ
**本稿は原本(個人版)です。カクヨム版は押し倒し→暗転→朝で処理。**
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玄関に立っているミクを見て、春香の涙が止まった。
正確には——止まったのではなく、別の涙に変わった。悔しさの涙から、もっと単純な、もっと剥き出しの感情の涙に。
ミクの髪が乱れていた。メイクが崩れていた。スタッフジャンパーの前が開いていて、紫のドレスが見えていた。足元はスニーカー。息を切らしている。肩で息をしている。目が真っ赤。
走ってきたのだ。春香が泣いていると知って、ヒールを脱いでスニーカーに履き替えて、走ってきたのだ。
「——なんなんやよ、私は。ミクの、何なんやよ——」
春香の声が掠れた。泣きすぎて、もうまともに声が出なかった。
ミクが一歩、玄関に踏み込んだ。靴を脱がなかった。スニーカーのまま上がった。
「バカ」
ミクが言った。
短い言葉だった。震えていた。
「バカ。バカ、バカ——」
ミクの目から涙が溢れた。メイクの残りが涙で流れた。睫毛が濡れて束になった。唇が歪んだ。泣き顔だった。ミクの泣き顔。春香の前でだけ見せる、飾りのない、剥き出しの泣き顔。
「何なんだって——何言っとるの——!!」
岐阜弁だった。完全な岐阜弁だった。仕事の殻も、標準語の膜も、全部剥がれ落ちていた。
「春香以外見るわけないやん——!!」
ミクが春香に飛びついた。文字通り飛びついた。腕が首に巻きついた。ミクの全体重が春香にかかった。梔子と汗の混じった匂いが、至近距離で春香の鼻腔を満たした。
「テレビなんか仕事やって——!! 握手会も仕事やって——!! あの男のこと何とも思ってないって——!!」
ミクの声がくぐもった。春香の肩に顔を埋めている。
「春香だけ——春香だけやよ——私が本当に笑うの——春香の前だけやよ——!!」
春香の腕が、ゆっくりとミクの背中に回った。細い背中。肩甲骨が手のひらに当たった。震えていた。ミクの全身が震えていた。
「握手会のとき——春香が列に並んどるの見えたとき——嬉しくて死にそうになって——でも五秒しか触れんくて——次の人に手を出すとき——春香の温度が消えてくのがわかって——」
「……知っとる。LINEで読んだ」
「知っとるなら——!! なんで——なんで一人で泣いとるの——!!」
ミクが顔を上げた。涙でぐしゃぐしゃの顔。メイクなんか跡形もなかった。目が赤くて、鼻が赤くて、唇が歪んで、睫毛が濡れて——
綺麗だ、と春香は思った。
泣いているミクが、世界で一番綺麗だった。
「——ごめん」
春香の口から、ようやく言葉が出た。
「嫉妬した。テレビの中のミクが、知らん人みたいで。握手会で何百人と同じ時間しかもらえんくて。ミクの匂いに、知らん人の匂いが混じっとって。——私は、ミクの世界のどこにも映っとらんくて」
「映っとる!!」
ミクが春香の顔を両手で挟んだ。小さな手。桃色の爪。泣きながら、ミクは春香の目を真っすぐに見た。
「映っとるよ!! 画面には映ってないだけやよ!! 私の——ここには——」
ミクの手が春香の顔を離して、自分の胸に当たった。心臓の上。ドレスの布越しに、鼓動が伝わるくらい強く。
「ずっと映っとる。春香だけが。ずっと、ずっと——中学のときから——ずっと——!!」
声が途切れた。嗚咽に変わった。ミクがまた春香の胸に飛び込んだ。春香のTシャツを掴んだ。両手で。離さないように。
春香はミクの頭を抱いた。黒い髪に指を通した。汗で少し湿っている。梔子の匂いが、春香の石鹸の匂いと混ざった。
「……ミク」
「うん——うん——」
「ごめん。わかっとった。全部わかっとった。ミクが仕事頑張っとるのも。テレビで笑うのも全部仕事やって。握手会も。わかっとったのに——心が——」
「いい。いいよ。嫉妬してくれて——嬉しい——」
春香が眉を上げた。
「……嬉しいの?」
ミクが顔を上げた。涙でぐしゃぐしゃの顔で——笑った。泣きながら笑った。
「嬉しいに決まっとるやん。春香が私に嫉妬してくれるの。春香が私を独り占めしたいって思ってくれるの。春香が私のこと好きすぎて狂いそうって——」
「言ってないやろそこまで」
「言った。さっき。電話の前に。一人で叫んどったやろ。壁叩いたやろ」
春香の顔が凍った。
「……聞こえとったの」
「聞こえてない。でもわかる。春香の手——」
ミクが春香の右手を取った。拳を握っていたところ。指の関節が少し赤くなっていた。壁を叩いた跡。
「——痛そう」
ミクが春香の拳に唇を寄せた。赤くなった関節に、そっと唇を当てた。柔らかかった。少し塩味がした。涙の味。
「春香」
「……うん」
「証明したろか?」
春香が眉を寄せた。
「何を」
ミクの目が変わった。涙はまだ残っていた。でもその奥に——春香が見たことのない光が灯っていた。甘くて、熱くて、危険な光。
「私が、春香以外見てないってこと」
ミクの手が春香のTシャツの裾を掴んだ。
押した。
春香の背中がリビングの壁に当たった。軽い衝撃。息が詰まった。ミクの手がTシャツの裾を掴んだまま、春香を壁に押しつけた。百四十七センチのミクが、春香を見上げていた。涙の跡が頬に残っていた。唇が微かに開いていた。
「——ミク?」
「春香は何にもわかってない」
ミクの声が低かった。囁きに近かった。でも、震えてはいなかった。
「私が何百人と握手するとき、右手に何回春香の手の感触を思い出すか。テレビで笑ってるとき、春香が見てるかもって何回思うか。レッスンで踊ってるとき、春香の目を何回想像するか。——全部、春香。全部、ずっと」
ミクが背伸びをした。
唇が、春香の顎に触れた。
「私のぜんぶ——ぜんぶ春香のものなのに——」
唇が顎から首筋に移動した。吐息が首に当たった。鳥肌が立った。春香の手が壁に張りついた。
「——ミク、待っ——」
「待たない」
ミクが春香を押した。壁から離れた。二歩、三歩、後ろに下がった。足がソファに当たった。バランスを崩した。
倒れた。ソファの上に。仰向けに。
ミクが上から覆い被さった。
膝がソファの両脇について、春香を見下ろしていた。黒い髪が垂れて、春香の顔の横に広がった。梔子の匂いが近い。近すぎる。ミクの目が春香の目を覗き込んでいた。涙の跡。赤い目。——でも泣いていなかった。笑ってもいなかった。もっと、もっと切実な顔をしていた。
「春香」
「……うん」
「眼鏡、外して」
ミクの指が春香の眼鏡のフレームに触れた。そっと外した。世界がぼやけた。ミクの顔だけがはっきりしていた。近いから。二十センチも離れていないから。
「——やっぱり」
ミクの声が震えた。
「眼鏡外すと、ずるい。こんなの——こんな顔反則やって——」
「何言って——」
「黙って」
ミクが唇を重ねた。
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【カクヨム版ここで暗転】
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ミクの唇が離れたとき、春香の目に映ったのは——涙と笑顔が混じった、世界で一番近い距離の恋人の顔だった。
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夜が更けた。
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以下、原本(個人版)
最初は柔らかかった。唇を重ねるだけの、確認するようなキス。でもすぐに変わった。ミクの舌が春香の唇をなぞった。春香が息を呑んだ。その隙間にミクの舌が入った。
深いキスだった。泣いた後の塩味がした。涙と唾液が混ざった。ミクの息が荒くなった。春香の息も。
ミクの手がTシャツの裾から中に入った。腹筋に触れた。指先が冷たかった。ミクの指が震えていた。
「——すごい」
ミクが唇を離して囁いた。
「春香の腹筋、すごい。好き。ここ——好き——」
指が腹筋の溝をなぞった。春香の体が震えた。
「ミク——」
「春香の体、ぜんぶ私のやからね」
ミクがTシャツを押し上げた。腹部が露出した。冷たい空気に触れて鳥肌が立った。ミクが顔を寄せた。腹筋に唇が触れた。温かかった。ミクの呼吸が肌に当たった。
「ここにほくろがある。握手会で見つけた。覚えとる?」
「……覚えとる」
「これ、私だけが知ってる春香のマーク。——誰にも見せんでね」
ミクの唇がほくろの上に触れた。小さなキス。春香の手が無意識にミクの髪を掴んだ。黒い髪が指に絡まった。
「ミク——ちょっと待って——私——」
「待たないって言ったやろ」
ミクが見上げた。目が潤んでいた。でも笑っていた。いたずらな笑顔。甘くて、危険な笑顔。
「春香が嫉妬で泣くくらい好きでいてくれるなら——私は、もっとちゃんと証明しないといけない」
ミクの手がドレスの肩紐に触れた。自分のドレスの。紐を一つずつ下ろした。紫のドレスが肩から滑り落ちた。
春香の呼吸が止まった。
ミクの鎖骨。白い肩。華奢な体。レッスンで鍛えられた、でも女の子の柔らかさを残した体。梔子の香水が、首元と胸元から立ち昇っていた。
「見て。春香だけに見せる。画面の向こうの人には絶対に見せない。——これが証明」
春香の手がミクの肩に触れた。指が震えていた。ミクの肌は温かくて、少し汗ばんでいて、滑らかだった。
「……本当に、いいの」
「いい。ずっと——ずっとしたかった。中学のときから」
「中学て——」
「中学のときから春香に触ってほしかった。春香の手に。この細くて長い指に。——やっとやん。やっとやよ」
ミクが春香のTシャツの裾を掴んだ。「脱いで」と言った。春香は逆らえなかった。逆らう理由がなかった。Tシャツを脱いだ。ミクの視線が春香の体を舐めるように動いた。
「やっぱりすごい——腹筋も、肩も——ここも——」
ミクの指が春香の鎖骨をなぞった。
「春香の体、ぜんぶ好き。ぜんぶ私のもの。——今から、ぜんぶ私の匂いにする」
ミクが春香の上に覆い被さった。唇が首筋に降りた。鎖骨に。胸元に。
春香は天井を見つめた。暗い天井。さっきまで泣きながら見ていた天井。同じ天井が、今は全く違って見えた。
「——ミク」
「うん」
「好き。めちゃくちゃ好き。嫉妬で狂いそうになるくらい好き」
ミクが顔を上げた。涙の跡が残った頬。赤い唇。目が潤んでいた。
「——知っとるよ。ずっと知っとる。春香が私を好きなことくらい——十年前からぜんぶ知っとる♡」
「知らんかったやろ」
「知っとったの♡ 春香だけが気づいてなかっただけ♡」
ミクが笑った。泣きながら。笑いながら。
夜が深くなった。
十一月の冷たい空気が窓の外にあって、部屋の中には梔子と石鹸の匂いだけが充満していた。二つの体温が、ソファの上で一つに溶けた。
嫉妬は消えていなかった。たぶん、これからも消えない。春香がミクを好きである限り、ミクがアイドルである限り、この胸の底の重くて熱い塊は消えないだろう。
でも——
今、ミクの鼓動を聞いている。ミクの匂いしかしない。何百人分の知らない匂いは全部消えて、梔子と汗と石鹸だけが残っている。ミクの手が春香の手を握っている。五秒じゃない。五秒なんかじゃない。ずっと。ずっと。
「——春香」
「うん」
「好き。百回分。二百回分。ローン全部返す♡」
「……一回でいい。一回の本物が」
「一回じゃ足りんもん♡♡♡」
ミクが春香の胸に顔を埋めた。春香の腕がミクの背中に回った。
夜が更けていく。嫉妬の嵐の後の、静かな凪。
二人の匂いが、もう区別がつかないくらいに混ざっていた。
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次話: 第20話「第四章「アイドルと恋人」」
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