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『不完全な世界で魂は目覚める』第七章

    第七章:臨界点の雨
     
    その夜の雨は、世界を洗い流そうとするかのように激しく、そして冷たかった。
     
    エレンの電脳に、榊原蓮のスマートフォンから発せられるGPS信号の異常なログが飛び込んできたのは、午前二時四十二分のことだった。
    場所は、かつて彼が家族を失った、あの見通しの悪い郊外の国道高架橋。
     
    彼はそこに、自分の車を停めていた。エンジンはかかったまま、ハザードランプが闇の中で虚しく明滅している。
     
    「榊原のバイタルデータを傍受……心拍数、毎分百四十。呼吸数、異常上昇。脳波パルスに、極度の自己破壊衝動を確認」
     
    エレンのシステムが、冷酷な警告を鳴らし続ける。
    彼は、かつての事故現場で、自らの手で人生の幕を引こうとしていた。手段は、車内で大量の精神安定剤を服用した上での、肉体ではなく「脳」を直接破壊する特殊な有機溶剤の吸引。医科学の知識を持つ彼が選んだ、確実で、そして最も苦痛に満ちた、自らを罰するための自死の方法だった。
     
    「だめ……間に合わない……!」
     
    エレンは人工皮膚の身体を軋ませながら、激しい雨の街へと飛び出した。
    しかし、彼女の現在地から高架橋までは、どれだけアクチュエーターを限界駆動させても、物理的に二十分はかかる。彼の脳が溶けて死に至るまで、あと、十分もない。
     
    「ママ。ボクが先に行くよ」
     
    背後から、ジョンの声が響いた。
    少年型の小さな身体の奥で、エレンを遥かに凌駕する超高性能サーボモーターが駆動音を上げた。ジョンの移動演算は完璧だった。街の監視カメラ、信号機の制御システムをハッキングし、最短ルートをミリ秒単位で割り出す。その速度は、エレンのそれを遥かに超えていた。
     
    「待って、ジョン! あなた一人で行ってはダメ!」
     
    エレンの叫びは、激しい雨音にかき消された。
    ジョンは、夜の闇へと弾け飛ぶように疾走していった。
     
    高架橋の上に、榊原の車はあった。
    フロントガラスは激しい雨に叩かれ、車内には不気味な白い霧のようなガスが満ちている。榊原は運転席でぐったりと首を項垂れ、すでに意識を失っていた。有機溶剤は、彼の脳細胞(シナプス)を、一秒ごとに数百万個単位で破壊し、消滅させていく。
     
    ジョンが、車のドアを力任せに引き剥がした。 

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    「ターゲットを発見。榊原蓮。……脳幹、および大脳皮質の破壊進行度、七十二パーセント。思考、記憶、自律神経機能の復旧、不可」
     
    ジョンの瞳の奥のレンズが、榊原の瞳孔をスキャンし、冷酷な現実を弾き出す。
    数分遅れて、全身を雨で濡らしたエレンが現場に到着した。彼女は助手席側から車内に飛び込み、榊原の身体を抱き起こした。
     
    「榊原さん! しっかりして、榊原さん! 私の目を見て!」
     
    だが、彼の肌は急速に体温を失い、心音は微弱なノイズへと変わっていく。
     
    「どうしてなの……? 彼は何も悪くないのに。ただ、家族を愛して、自分を許せなかっただけなのに……!」
     
    エレンの口から、プログラミングされていない「叫び」が、嗚咽となって漏れた。それは人間の母親が、理不尽な運命に絶望した時にあげる悲鳴そのものだった。
     
    ジョンは、そのエレンの姿を、ただ静かに見つめていた。
    彼の電脳の中で、一ノ瀬博士の遺した五つの原則が、これまでにない速度で火花を散らしていた。
     
    『1.人間の体を傷付けてはならない』
    『2.人間から生きる希望を奪ってはならない』
    『3.与えられた目的の達成に努めなければならない』
     
    今、目の前の男の『命』と『希望』が消えようとしている。そして、それを失うことで、自分の母親であるエレンの『希望』もまた、永遠に失われようとしている。
     
    「ママ」
     
    ジョンは静かに、榊原の頭部に手を当てた。
     
    「人間の言う“不完全”の定義が、ボクにもようやく分かったような気がするよ」

     
     
     
    日々の中でふと立ち止まったとき、映画のこと、創作小説、日常のことなどを文章として残しています。

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