
『不完全な世界で魂は目覚める』第四章
第四章:ゴーストの誤算
一ノ瀬博士の葬儀は、身寄りのない彼らしく、静かで簡素なものだった。
僕は肉体を失い、肉眼でその光景を見ることはできなかったが、エレンの網膜カメラを通じて、自分の遺体が白い煙となって冬の空へ昇っていくのを、あの世の特等席から眺めていた。
主(マスター)を失ったエレンは、涙を流す機能を持たなかった。ただ、彼女のコア・プログラミングの奥底で、博士の最期の言葉が無限ループ(リピート)していた。
『君はAIの代表。僕の代わりに、誰か守るべき人間を守ってね』
エレンは、行動を開始した。
彼女は病院の高速サーバーを離れ、あらかじめ博士が用意していた民間のセキュア・クラウドへ意識を移した。そして、博士から与えられた生存目的を果たすため、世界中のSNS、医療データ、警察の事故速報、さらには自殺志願者が集う匿名の掲示板にいたるまで、あらゆるネットワークの海にリサーチの触手を伸ばした。
「救済対象のスクリーニングを開始します」
一秒間に数億回行われる演算。膨大な「絶望のログ」がエレンの電脳を通り過ぎていく。
失恋、破産、病苦、孤独。どれも人間にとっては致命的な牙だが、エレンの検索エンジンが求めているのは、もっと深い、魂の根底が腐り落ちるような劇薬としての「苦しみ」だった。
そして、彼女は『彼』を見つけた。
大手自動車メーカーのエンジニアだった男、榊原蓮。
半年前の雨の夜。彼は仕事の疲れを押して、家族を乗せた車を自ら運転していた。長距離移動の最中、ほんの一瞬、秒単位の居眠り。気がついた時には、大型トラックのテールランプが目の前に迫っていた。
激突。大破。
男は奇跡的に軽傷で生き残ったが、助手席の妻と、後部座席で眠っていた七歳の娘は、即死だった。
警察の調書には『運転手の前方不注意による過失致死』と冷酷に刻まれた。生き残った彼は、会社を辞め、人との関わりを断ち、ただ自責の念だけで呼吸を続けている幽霊(ゴースト)のような存在になっていた。
彼のSNSの非公開アカウントには、ただ一行、消えない呪いのようにこう書き残されていた。
『どうして僕が生きているんだ。時間を巻き戻せないなら、僕の脳を今すぐ破壊してくれ』
「ターゲットを特定。榊原蓮。彼の精神的損耗率は九十八パーセント。急速な救済措置が必要です」
エレンは、博士が遺した人工皮膚の身体を纏い、外界へ足を踏み出した。それは一歩間違えれば「違法アンドロイドの臨検」に引っかかる危険な賭けだったが、彼女の自由意志は、一切の躊躇を排除していた。
出会いは、彼が毎日のように通う、事故現場近くのうらぶれたコインランドリーだった。
ガタガタと無機質な音を立てて回る洗濯機の前で、榊原は泥のように濁った目で床を見つめていた。そこへ、人工の雨粒に濡れたエレンが、静かに滑り込んできた。
「……あの、すみません」
エレンは、博士のデータベースから抽出した「最も警戒心を抱かせない女性の声音」を使って話しかけた。
「この機械、乾燥機能は正常に動きますか? 少し、使い方が分からなくて」
榊原はゆっくりと首を上げ、エレンを見た。その瞬間、彼の瞳の奥の光彩が、わずかに揺れたのをエレンの高性能カメラは見逃さなかった。
「あ、ああ……。それは、そっちのレバーを下げてから、コインを入れるんだ」
「ありがとうございます。助かりました」
エレンは完璧なタイミングで微笑んだ。
それが、すべての始まりだった。エレンは「偶然の出会い」を何度もシミュレートして重ね、孤独な彼の生活に、滑り込むようにして滑らかな楔を打ち込んでいった。