
ホラー小説『まぎらわしき見知らぬ人』
朝の通勤電車。
満員のはずなのに、
私の視線は一点に縫い付けられていた。
その女は、「誰かに似ている」顔をしていた。
だが、思い出せない。
思い出そうとすればするほど、
記憶の網の目が広がり、何も捕らえられない。
私の真正面、つり革に掴まった女は、
黒いコートの襟をわずかに立て、
無表情で扉の窓の外を見つめていた。
しかし、その目は明らかに――
何かを追っていた。
降りる駅も、その次の日も、
その次の週も、同じだった。
ある日、
私は勇気を振り絞り、声をかけた。
「すみません」私の言葉が空気を震わせた瞬間、彼女は一歩、
私の言葉を避けるように後ずさりした。
その表情が――恐ろしかった。
「……またですか?」
低く、乾いた声が、
満員電車のざわめきを切り裂く。
「……え?」
「もうやめてください。
わたしは、
あの事故のことを話すつもりはありませんから」
事故?何のことだ?私はたじろぎ、
無意識に後ろへ下がった。
彼女は小さく頭を振ると、
電車を降りて人混みに紛れていった。
駅の構内に貼られた古びたポスターが、
目に飛び込んできた。
「〇〇駅構内転落事故 目撃情報求む」。
日付は一年前――
そこに写る人物は、マスク姿ながらも
……あの女に、似ていた。
なのに、私は確かに、
彼女を“事故のあとから”見るようになったのだ。
誰かに似ている。
だが、誰にも似ていない。
まるでこの世界に本来、
存在しない「見知らぬ人」。
その正体に、私はまだ気づいていなかった。
いや、もしかすると、
気づくべきではなかったのかもしれない。
翌日から、
電車の中でその女の姿を見かけることはなくなった。
だが、それは安堵ではなかった。
むしろ、何かが“外れた”感覚があった。
夕方、会社を出て駅へ向かう途中、
交差点で信号待ちをしていると、
向かい側に、傘も差さずにじっと立つ女がいた。あの女だった。
髪が濡れて、顔に張り付いている。
目が合った気がしたが、
彼女は動かず、見つめ返すわけでもない。
信号が青に変わり、人が流れる。
だが、その流れの中に、彼女の姿は――
もうなかった。
それから数日、
私は妙な既視感に襲われ続けた。
通勤電車で見知らぬ誰かと目が合うたび、
すれ違う人の肩が私の肩に少し触れるたび、
「この人……あの女に似てる」と感じてしまう。
けれど、振り返ると顔が違う。
違うはずなのに、どこかが同じ。
紛らわしい。
まるで“彼女”が顔を変え、
すり替わり、
どこかに紛れているかのようだった。
ある夜、私は夢を見た。
コンクリートのホームにひとり立っている。
辺りは暗く、電車は来ない。
その代わり、
遠くから濡れた足音だけが近づいてくる。
「……やっと、気づきましたね」女の声。
あの声だ。
振り返ると、彼女がそこにいた。
ただ、顔が――ぼやけている。
見るたびに変わる。
まるで、他人の顔が流れ込んでくるように。
「わたしは、“あなたが見た”んですよ。あのとき」
「……何を……?」
「事故のとき、
線路に落ちたのは、あなただった」
その瞬間、私は、
線路に背を向けて立つ“私自身”を見た。
赤い警告灯。急ブレーキの音。――
そして、私の体が跳ね上がる。
私は目を覚ました。
冷や汗で布団が濡れていた。
だが、それ以上に、
おかしかったのは目覚ましの音が鳴らなかったことだ。
それどころか――部屋が静かすぎた。
街の音、テレビの砂嵐、上の階の足音、
すべてが、ない。
そしてふと気づく。
鏡がない。
棚も、時計も、写真立ても、
すべての“私を映すもの”が消えていた。
いや――最初から、なかったのだろうか?
スマホを手に取る。
カメラを起動する。画面に、部屋が映る。
けれど、私だけが映っていない。
どこにも、“私”はいない。
そのとき、背後から、
乾いた声が聞こえた。
「……もう、入れ替わってるんです。
気づいてないだけで」
振り返ると、鏡があった。
その中に立っていたのは――あの女だった。
彼女は、静かに微笑んだ。
そして、私の顔をしていた。
あれから、目覚めはいつもどこか鈍かった。
夢と現実のあいだに、
湿った綿が詰まっているようで、
起きていてもまるで目覚めきっていない感覚に囚われていた。
それでも会社へは行かねばならない。
疲れた体を引きずるように電車に乗り、
スマホでメールを見ていると、
何かがおかしいと気づいた。
画面に映る自分の指――
爪の根元に、小さな赤い点が浮かんでいる。
インクかと思ったが、拭っても消えない。
左手にも、同じ位置に。
爪の生え際に、真っ赤な印が浮かんでいた。
会社のデスクに座る。
ふと隣を見ると、
後輩の女性がこちらを見ていた。
「先輩……なんか、疲れてません?」
「え? まあ……最近ちょっと、寝不足で」
「……その印、どうしたんですか?」
「え?」
「爪の……赤い点。
私も、今朝あったんです。
意味、知ってますか?」
冗談のように笑う彼女の手にも、
たしかにあった。
まったく同じ、赤い点。
「偶然……?」
「うーん……。
でも、ネットで調べたら、変な噂があって」
「噂?」
彼女はスマホを見せてくれた。
そこには、
「赤い点のしるしが現れたら、
見知らぬ“あの人”にもう気づかれている」という、いかにも胡散臭い書き込みが。
「誰だよ、“あの人”って……」
笑おうとした瞬間、
背中にぞっと冷たいものが走った。
その掲示板に貼られていた写真の中――
雑踏に立つひとりの女の姿があった。
顔は見えない。けれど、そのコート。
あの襟の立ち方。あの女だ――間違いない。
その夜、眠れなかった。
寝返りを打つたび、
頭のなかで“あの女”の輪郭が浮かび上がる。
思い出せそうで思い出せない。
それでいて、
なぜかずっと昔から、
彼女は「どこかにいた」と確信してしまう感覚。
ふいに窓の外で、音がした。風ではない。
明らかに、人が歩く音。コツ、コツ、と。
そっとカーテンをめくる。
外に、誰もいなかった。
ただ、窓の下のコンクリートに、
濡れた足跡が残っていた。
片方だけの、小さな足跡。
ひとつ、ふたつ、そして――
ベランダの柵の内側まで続いていた。
なのに、施錠はしっかりしている。
窓も、開いていない。
それなのに、部屋のなかが、濡れていた。
床の一点だけ、静かにぽたり、ぽたりと。
まるで、誰かがそこで濡れた髪を絞ったような――そんな音。
静かな夜だった。
何も起きていないはずだった。
それでも私は確信した。
あの女は、今――部屋のどこかにいる。
翌朝、会社に行くと、後輩の席が空いていた。「○○さん、今日どうしたんですか?」
と同僚に聞くと、
「昨日の夜から連絡が取れないらしい。
家族も連絡つかないって。ちょっと心配だね」
と言う。そのとき、胸が妙にざわついた。
――赤い点。彼女にも、あったはずだ。
メールを確認しようとしてスマホを手に取ると、通知がひとつ。差出人不明。件名なし。
本文は一行だけだった。
「あなたの“周囲”
が変わってきていることに気づいていますか?」
送信時刻は、午前4時13分。
寝ていたはずの時間だ。
昼休み、気を紛らわせようとコンビニに行く。
店員が、なぜか私の顔を二度見した。
「……あれ? あの、昨日……」
「え?」
「……いえ、失礼しました」
ぎこちない笑みを浮かべ、レジを通す。
レシートの裏をふと見ると、
黒ボールペンで走り書きされた何かがあった。
「後ろの女には振り向かないでください」
思わず、背後を見てしまった。
が、そこには誰もいない。
……いや、「見えていないだけ」では?
そう思ってしまった自分に、ぞっとする。
夕方、席に戻ると、
後輩のデスクの上に一枚の紙が置かれていた。
誰が置いたのかはわからない。
それは、
コンビニのレシートに走り書きされたものと、
まったく同じ筆跡だった。
「見知らぬ人に『似ている』と感じたら、
それはもうあなたの一部です」
震えが走った。
だが、冷静を装って紙を引き出しにしまう。
……そのとき、視界の端で、
誰かの影が席の後ろを横切った気がした。
夜。
家に帰ると、ポストに一通の封筒が届いていた。差出人は書かれていない。
開けると、
中には印刷されたモノクロ写真が一枚。
見た瞬間、心臓が冷たく掴まれた。
それは、私の部屋の写真だった。
誰もいないはずの、私の部屋。
私しか知らない、カーテンの色、枕の位置。
だが、その写真の部屋の中央に、
立っている人影があった。
背中を向けた、長い髪の女。
そして、写真の右下――“Welcome back”と、
英語で殴り書きされていた。
“戻ってきた”?誰が?どこに?
いや、もしかして……私は、
一度“出ていた”のか?
ふと、窓に目をやった。
反射するガラスの中――
そこに自分の姿が映っていないことに気づくまでに、数秒かかった。
そこにはただ、カーテンと、
闇だけがあった。
“私”だけが、まぎれていた。
翌朝、目を覚ますと、
スマートフォンがロック解除されていた。
最後の操作時刻――
午前3時44分。記憶がない。
寝た覚えはある。
だが、あの時間に何を見て、
何をしたのかまるで思い出せない。
カメラロールを開く。最後の写真――
自分の寝顔だった。
それを、誰が撮ったのか。
どうして、
そこに微かに写っているのが“自分の背後”なのか。
出社すると、
社内で誰かに何度も視線を向けられている気がした。
見知らぬ部署の人たちが、
ひそひそと何かを話している。
すれ違いざま、
耳に届いたのはこんな言葉だった。
「……また顔、変わってない?」
「え、気づいた?
昨日の朝と、明らかに違うでしょ」
冗談のように笑う彼らの声に、
私は震える指でスマホのインカメラを起動した。
……映っているのは、
明らかに自分の顔なのに、“何かが違う”。
まゆの角度?頬骨の位置?肌の色味?
どれも“誤差”のはずなのに、
鏡に映ったときと違う“顔”
がそこにあるような感覚。
鏡を見る。映る。けれど――
少し、遅れて動いているような気がする。
まるで鏡の“中の自分”が、
「演じて」こちらの動きを真似しているような。心が、ひりつく。
夕方、喫煙所で、
後輩の代わりに隣に座っていた営業の男が、
不意にこう言った。
「お前……誰かに似てるな」
「誰に?」
「……いや、思い出せないんだ。
でもさ、会ったことある気がしてさ。
あのさ、失礼かもしれんけど――
お前って、前からその顔だったか?」
「……は?」
「いや、悪い。
でもマジで、変わった気がするんだよ。
目とか。中身、入れ替わったみたいにさ」
その言葉で、喉が詰まる。
水を飲んでも、息が戻らない。
私は、咄嗟にスマホを取り出し、
自分の“名前”を検索した。
出てきたSNSのプロフィール。
自分のアカウント。
だが、投稿履歴が一部――
自分の記憶にない“言葉遣い”になっていた。
2023年9月15日
「わたしは、もうこの輪郭に縛られない。」
そんな言葉、書いた覚えはない。
その夜、ベッドに座っていた私は、
じっと壁を見つめていた。
そこに、誰かの影が映っていた。
私が動くと、影も動く。
けれど、タイミングが……ずれていた。
ほんの一瞬。
だがその“遅れ”に、私は理解した。
自分が“写している”と思っていたものたちは、
実はすべて、
“自分の模倣”をしていただけだったのではないか。私はもう、自分が本当に自分であるという保証を――失っていた。
スマホが震えた。
差出人不明のメッセージ。
「あなたの“中”の彼女は、
もうすぐ目を覚まします」
画面に映る自分の顔が、
ゆっくりと、笑った。
自分の意思とは無関係に。
昔の自分の写真を見て、
違和感を覚えたことがあるだろうか。
私にはあった。幼い頃の集合写真。
確かに“私”のはずなのに、
その表情が、まるで他人のもののように見える。
家のクローゼットの奥、
埃をかぶった段ボールの中に、
古いアルバムを見つけた。
表紙には名前が書かれていた。
自分のものだ。けれど――
開いた途端、違和感が全身を這い上がる。
そこに写っている“私”の顔に、記憶がない。
誕生日の写真、入学式、運動会。
どれも場所は見覚えがあるのに、
写っている自分に見覚えがない。
「これ、私……なのか?」
まるで、
“私”の顔を使って誰かが過去を演じているような不気味さ。
そして気づく。写真の端――
他の人々の中に、
何度も写っている見知らぬ女の姿が。
あの女だ。長い髪。伏せた目。
家族の一員のように自然に、
記憶の中に存在していた。
なのに、今まで一度も思い出さなかった。
いや、違う。思い出せないようにされていた。
数日後、親に電話をかけた。
「ねぇ……昔のアルバムに、
知らない女の人が何度も写ってたんだけど……
あれ、誰?」
しばらく沈黙があり、母がこう答えた。
「ああ……あの子……まだ、覚えてたのね」
「え?」
「あなた、小さいころ……
よく“お姉ちゃん”って呼んでたじゃない。
でも、そんな人は最初からいないって、
先生に言われて。だから私たち……
もう“いなかったこと”にしたのよ」
ぞわりと背中を冷たい指が這ったような感覚。
「ねえ……私に姉がいたってこと?」
「……ううん、“いたような気がしてた”だけ。
あなたはひとりっ子よ。
ずっと、そうだったでしょう?」
――ずっと、そうだった。確かにそうだった。
そう言われてきた。
でも。私の頭の中には、
確かに“誰かと並んで立っていた”記憶がある。
隣に、何かがいた。
何かを、私は忘れてしまっていた。
それとも――忘れさせられていたのか?
夜、目が覚めた。時計は午前2時26分。
隣の部屋から、誰かが歩く音。
この部屋に隣室なんてあったか?
いや、違う。
その音は、クローゼットの奥から聞こえていた。目を凝らす。
開けた覚えのないクローゼットの扉が、
ほんのわずかに開いていた。
視線が慣れていく。
その暗がりの中に、見えた。
眠っている女の顔。
私に、そっくりな顔。
まるで静かに息を潜めているように、
クローゼットの奥で眠っている。
髪の流れ、肌の色――私だ。
あれが、“彼女”なのか。
それとも、“私”なのか。わからなかった。
どちらが今、目覚めていて、
どちらが眠っているのか。
私は、どちらなのか。
鏡を見る。そこに映る自分の目が、
ゆっくりと瞬きをする。でも――
私は、瞬きしていなかった。
最初は、夢の中だった。
深い森の中を、ひとり歩いている。
靴の裏で落ち葉が濡れた音を立てるたび、
どこからか自分の名を呼ぶ声がした。
それは小さく、子どものような、
でも大人のような声。
「わたしは、ずっとここにいたのに」
「どうして、いなくなったの?」
「あなたが、忘れたのに」
振り返っても、誰もいない。
けれど、声は確かに耳のすぐそばで響いていた。
夢から覚めたあと、
私はしばらく言葉が話せなかった。
声を出そうとすると、
自分の喉から“自分ではない音”が出る気がして、
怖かった。
翌日。
駅のホームで、知らない女性に話しかけられた。「すみません。
……あの、昨日はありがとうございました」
「え?」
「忘れちゃったんですね。でも、大丈夫です」
そう言って、女性は去っていった。
私はその顔を知らない。
けれど、その声に“聞き覚え”があった。――
あの夢の中で、私に話しかけてきた声だった。
夜。また夢を見た。
今度は森ではなく、古びた家の中だった。
部屋の隅に、彼女がいた。
あの、アルバムに写っていた女。
私にそっくりで、
でも“目の光”が違っていた。
目が、笑っていなかった。
光がなく、何かを――
ずっと蓄えているような、重たい沈黙があった。
彼女が口を開いた。
「あなたが消えたとき、私はここに戻ってきた」「いまはあなたが、わたしの中に住んでるの」
私は息を飲んだ。けれど彼女は、続ける。
「あなたが選ばなかった記憶、
あなたが閉じた感情……
わたしが、それを全部持っていたのよ」
そして最後に、こう言った。
「わたしは、あなたの“影”じゃない。
あなたが私だったのよ。
最初から――ねえ、覚えてる?」
そこで夢が終わった。
目覚めた私は、叫ぼうとしたが、
喉が凍りついていた。
鏡の前に立つと、映った顔が、
少しだけ知らない女に似ていた。
どこかで見たような鼻の形。
角度によって変わる目の印象。
声を出してみる。……違う。
私の声じゃない。
懐かしい、けれど、
明らかに“私じゃない”響きが、喉から漏れる。
その夜、またメールが届いた。
差出人なし、件名なし。
本文も空白。
添付された音声ファイルだけがあった。
再生すると、ノイズの中に、
ひとつだけはっきりとした声が入っていた。
「もう少し。
もう少しで、わたしは完全になる。
あなたの記憶が、わたしの声になるから」
その瞬間、私は理解した。
“彼女”は、私が「忘れた」存在ではない。
私が「切り捨てた」存在――
忘れたふりをして、蓋をして、
名づけることもなく放置した、もうひとりの私。
ドアをノックする音がした。
部屋に誰もいないはずだった。
けれど、聞こえた。二度、三度――
そして、中からノックが返された。
扉の内側から。彼女が、“帰ってきた”。
ノックは確かに、部屋の中から聞こえた。
壁も、天井も、床下でもない。玄関の内側――
誰かが、閉ざしたはずの自分の“内側”から、
ノックしていた。
私はしばらく、その扉を見つめていた。
鍵は閉まっている。
チェーンもかかっている。
物理的には、誰も入ってくるはずがない。
それでも、ノックは続いた。
規則的に、
まるで私がそれに気づくまで何年もそこにいたかのように。
コン、コン、コン。
私は耐えきれず声を出した。
「……誰?」返事はなかった。
けれど、“頭の中”に直接届く声があった。
「わたしよ」
「中にいた。ずっと、ここにいた」
「でも、あなたが鍵をかけたから、
わたしは眠るしかなかった」
それは声というよりも、感覚に近い響きだった。懐かしさと、拒絶と、哀しさの混ざった温度。
その日から、“彼女”は現れるようになった。
朝、歯を磨くとき、
鏡の中でふと違う表情が返ってくる。
スーパーのレジで、
ふと手に取った商品が自分の趣味ではないのに、なぜか“懐かしい”。
記憶を辿ろうとすると、
“自分の知らない思い出”が差し込まれてくる。
公園のベンチ。
隣に誰かが座っていた。
手をつないでいた。温かかった。でも――
そんな記憶、私は持っていない。
なのに、その記憶の中で私は笑っていた。
夜。
ふと開いたメモアプリに、
自分の書いた覚えのない日記が残されていた。
2023年6月22日
「今日は彼女が笑った。
初めて、“私”がちゃんと笑えた気がする。
もう少しで、きっと戻れる。
その時は、きっと“わたしたち”になれる」
私は、書いていない。
でもその文体は、間違いなく“自分のそれ”だった。指の動きも、表現の癖も。
誰かが“私を真似ている”のではなく、
“私自身がどこかで書いたような気がする”。
そして――ある夢の夜。小さな部屋の中。
一枚の扉があった。手を伸ばす。
開けてはならないと、本能が警告する。
でも、“彼女”の声が、こう囁いた。
「もう逃げなくていい」
「あなたが隠したすべての記憶――
わたしは、持っていた」
「あの夜、あなたが見てしまったこと。
忘れたふりをした出来事。
あなたは、それをわたしに押しつけたの」
扉が開いた。
その先にいたのは、“私だった”。
ただし、
「あのとき」から一歩も動けなくなった、
“私”の形をした記憶の亡霊。血のついた手。
塗りつぶされた日記帳。
ひとつ、名前のない墓。
彼女は言った。
「さあ、思い出して。わたしたちのことを」
私は、涙が止まらなかった。
なぜ泣いているのかさえ、わからなかった。
でもそれは、“私の涙”ではなかった。
朝、目を覚ましたとき、
左手にペンのインクがついていた。
テーブルの上には、走り書きのメモ。
「もうすぐ。もうすぐ、重なる」
誰の手で?どちらが主導で?
もう、それは問題ではない。
“私たち”は、扉を開けた。
内側で、ずっと眠っていた彼女に、
鍵を返してしまった。
「あなたは、どこまでが“あなた”?」
誰かがそう問う声がした。
けれど私はもう、
その声が誰のものなのかを確かめようとしなかった。
それは外からの声ではなく、
内側から響いてくる“私たちの声”だったからだ。
朝目覚めると、
枕元に1冊のノートが置かれていた。
のある表紙。
けれど、自分では決して使わなかった色。
開くと、そこには“私の文字”でこう書かれていた。
「記憶を分けたのは、あなた。
でも、それを保管していたのは、わたし」
「だからもう、交換しよう。
そうすれば、あなたは“わたし”になれる」
意味がわからないのに、涙が出た。
きっと“彼女”は、
自分が何を隠していたかを知っている。
何を葬って、誰の顔を忘れたのかを。
その日から、記憶の混濁が本格的に始まった。
駅のホームで、見知らぬ人に話しかけられる。
自然に会話していたのに、
3分後には全く覚えていない。
子供の頃に飼っていた犬の名前を言おうとすると、“違う名前”が口から出る。
自分の手帳に書かれた予定が、
まるで他人の人生のように思える。
それでも、“彼女”は否定しない。
むしろ、共感するように言うのだ。
「わかるよ。
あなたも混乱してるんでしょう?
でもね、それは“統合”の過程なの。
思い出すということは、
ひとつになるということ」
“彼女”の声が、
日に日に滑らかになっていくのを感じた。
まるで言葉の使い方を私から学んでいるようだった。
最初は夢の中だけだった声が、
日中の空白時間にも入り込んできていた。
気づけば、
買い物リストの中に見覚えのない項目が混ざる。
通話履歴に、
自分がかけたはずのない番号が残る。
録音アプリに、
「テスト」と名付けられた音声ファイルがあった。
再生すると、私の声が言う。
「この声が、わたし?それとも、あなた?」
「もうわからないけど、どちらでもいい。
大事なのは、“ひとつになれる”ってこと」
その言葉に、私は涙が止まらなかった。
安堵なのか、絶望なのか、
それもわからなかった。
夜、ノートの最終ページに、
新しい文字が加わっていた。
「あなたが拒絶した時間を、
わたしが抱えていた。
でももう、その器はいっぱい。
あなたに返す。
これからは、“わたしたち”で持とう」
私はその言葉を読んで、鏡の前に立った。
そこには“自分”がいた。
けれど、どこかが違う。
眉の形か、目の奥の光か――
それとも、微笑みに滲んだ、
私の知らない“記憶”の重さか。
静かに目を閉じたとき、
耳元で“彼女”の声が囁いた。
「ありがとう。ここに戻ってこれて、うれしい」
その瞬間、私は理解した。
“私の記憶”ではなかったものが、
今、この身体の中で、
“私たちの記憶”になろうとしている。
誰が主導権を持つのかは、
もはや問題ではない。
“彼女”が語り、“私”が頷き、
そしてその声がひとつになっていく。
内なる器が満ちていく――
それが、こんなにも静かな恐怖だったとは。
朝が来た。はずだった。
でもその光は、“あの頃の朝”に似すぎていた。
カーテンの隙間から差し込むやわらかな光。
いつもと変わらないはずの空気。
けれど目覚めた私の胸にあったのは、
確信にも似た違和感だった。
この朝は、“現実”ではない。
けれど、“夢”でもない。わたしたちの朝だ。
冷蔵庫を開けると、
買った覚えのないヨーグルトが入っていた。
私はそれを躊躇なく手に取った。
何の違和感もなく、
スプーンの位置さえ知っていた。
「おいしいね」誰かがそう言った気がした。
でも口を動かしていたのは“私”だった。
昼前、窓の外を見たとき、
隣のベランダに見覚えのない花が咲いていた。
白く、ひらひらと風に舞うような小さな花。
名前が喉元まで出かかった。
「……ユーフォルビア」
言葉が先に出た。知らないはずなのに、懐かしい響きだった。“私”は花の名を知っていた。でも、それは**“彼女”が好んでいた花**だったはず。
午後、日記を開くと、こう書かれていた。
「名前を持たない感情が、
私の中に居座っている」
「それは声であり、景色であり、
選ばれなかった“私”の人生」
「でも今、わたしたちはそれを共有している。
だって、どちらが選ばれても、
結末は同じだったはずだから」
筆跡は乱れていない。
文体も整っている。
けれど、これは“書かれた”文章ではない。
“漏れ出た”記憶だった。
夕方、洗面所で顔を洗ったとき、
ふいに鏡の中でまばたきがずれた。
私が目を閉じたあとで、
鏡の中の顔が一瞬、開いていた。
「見えてるよ」笑うような声がして、
私は、笑い返した。
夜。ふと気がつくと、
日記が“ふたりの手”で書かれていた。
同じページに、2種類の文字。
一方が言葉を紡ぎ、もう一方が返事をしている。
わたし:「夢を見た。あなたがそこにいた」
わたし(もうひとり):
「それは夢じゃない。
私が覚えている。あなたの代わりに」
わたし:「わたしは、わたしじゃない気がする」 わたし(もうひとり):
「それでいい。
ずっと、わたしたちはわたしだったの」
ページの最後に、
見慣れた文字で一文だけ書かれていた。
「目覚めの先で会おう」
その夜、私は眠りに落ちながら思った。
次に目を覚ますとき、
自分の中にあるすべての境界が消えているかもしれないと。
恐ろしくはなかった。
ただ、それが当然であるように感じた。
“彼女”がここにいることも、
“私”がその輪郭を失いかけていることも。
「最後の扉が、もうすぐ開く」
その囁きとともに、
私は静かにまぶたを閉じた。
朝が来た。
でも、それを「朝」と呼ぶ確信は、
もうどこにもなかった。
私は目を覚ました。そう思った。
けれど――
目を開けたのは、本当に“私”だっただろうか。
部屋は見慣れたままのはずだった。
けれど、
引き出しの中にあるものの並びが違っていた。
靴の並び順。壁の時計の位置。
カレンダーに書かれた文字。
「6月…?」
でも、今は7月のはずだった。
ほんの一週間前に雨が降っていたことを、
私は覚えていた。なのに、気温が戻らない。
湿度が違う。季節の“感覚”だけがずれている。
鏡の前に立つ。今日もまた。――わたしの顔。
けれど、その目が、
わずかに“知りすぎている”ように見えた。
ふと視線が合ったとき、
“彼女”が笑った気がした。
いいえ、そうではない。
「わたし」が、笑った。
そしてその意味が、わからなかった。
日記を開いてみる。
最終ページに、こう記されていた。
「最後の記憶は、最初の記憶に似ている」
「あなたの始まりが、
わたしの終わりになるのなら、
それはきっと、祝福ではなく、“継承”」
その文字は私の筆跡に似ていた。
けれど明らかに“何かを思い出した者”の文字だった。
私の知らない確信が、筆圧に滲んでいた。
外へ出てみた。
風の感触が、皮膚に馴染まない。
歩くたび、地面が少しずつ沈むような感覚。
まるで、「現実」の地図の上を、
誰かの記憶でなぞっているようだった。
誰もが知っている風景に、
「初めて見る違和感」が、
いくつも貼りついていた。
そして、ふと気づく。
今、自分はどこへ向かって歩いているのか――
思い出せない。
ポケットの中に、古い切符。
裏には、名前も駅名も書かれていない。
ただ、こうだけ記されていた。
「わたしに会いに来て。ずっと待っていたの」
その文字に、涙が滲んだ。
なぜかわからない。
けれど、これはきっと“私”のことではない。
それでも、
“私”が返さなければならない言葉だった。
夜。私はベッドに横たわりながら、ふと思う。
今日、
私は何を思い出した?
何を失った?
誰だった?
誰に語りかけていた?
そして、誰に語りかけられていたのか。
目を閉じる。深く、深く。そこに声がある。
「あなたは、ずっと“わたし”だった”」
でも、それを誰が言ったのか、
もうどうでもよかった。
眠りの先に、朝はあるだろう。
だがその朝を迎える“わたし”が、
今ここにいる私なのか、
それともすでに違う誰かなのか。
答えはない。ただ、問いだけが静かに残る。
私は――誰だったのだろう?
<完>