メインコンテンツへスキップ
見出し画像

20年と40万円かけて、何者かになろうとしていた

    小学生のころ、習字教室に通っていた。 使い続けた習字の筆の、穂先が割れることには気づいていた。どんなに墨汁を含ませても穂先が二つに分かれて、はらいがかっこよく書けない。先生に「もう買い替えなさい」と言われたけれど、私は親に言えなかった。お金に余裕がないことを察していたからだ。

    うやむやにしてその筆を使い続けていたら、しばらくして先生が新しい筆をくれた。「進級祝いだよ」と言って。ありがたかった。そしてその言葉が、先生の優しさだとわかるくらいには、 私も子どもなりに事情を理解していた。

    でも今振り返ると、筆が買えなかったことより、「困っています」と言えなかったことの方が印象に残っている。

    私は長女だった。弟がいた。
    だからなのか、性格なのかはわからない。でも昔から、困っていても大丈夫な顔をするのが得意だった。それは大人になってからも変わらなかった。

    自分の顔は、自分では見ることができない。だから、鏡の前で「大丈夫」な顔を作ってしまえば、自分の心まで大丈夫なのだと自分を騙すのは、案外簡単だった。でも、鏡の中の自分と、実際の自分の感覚は、いつの間にか大きくズレていた。

    長所であったはずの「我慢強さ」は、私を遠くへは連れて行ってくれなかった。我慢はいつしか不調という形で限界を知らせ、私は仕事、家庭、育児に加えて自分の体にも向き合わざるを得なくなった。まるでモグラ叩きのように、一つ解決したと思ったらまた別の場所から不調が顔を出す。そんな日々の始まりだった。

    仕事の限界も。PMSも。お腹の不調も。くせ毛も。

    全部そうだった。これは、「調子がいい状態や扱いやすい状態」を知らないまま40歳近くまで生きてきた私が、見えない自分の心の輪郭を少しずつなぞっていく話である。



    英語という逃げ道、カナダという居場所

    常に自分の正直な気持ちをぐっと飲み込んでいた私が、唯一呼吸がしやすいと感じた期間がある。

    カナダで交換留学し、英語を使っていた期間だ。
    理由は単純で、英語には必ず主語があるからだ。
    日本語は主語を省ける。
    「大丈夫です」「なんでもいいです」「普通はこうでしょ」
    誰が大丈夫なのか。誰がなんでもいいのか。普通ってどこにあるのか。主語がなければ、自分の気持ちをなんとなくぼかせる。私はずっとそうやって生きてきた。

    でも英語は違う。
    I'm good.
    I don't want to do that.
    What do you think?
    Iから始めなければならない。Youの意見も対等に聞ける。それが楽だった。なんて息のしやすい言葉なんだろうと思った。

    学生時代に留学したカナダで、よく言われた言葉がある。
    「It's up to you」(あなた次第)と、「That depends on people」(人によるね)。

    たとえば夕食に行こうとなって「どこにする?」と聞くと、
    “Up to you. I'll eat anything.” 「あなた次第。私はなんでも食べられるから」
    あなたが何をするか、何を考えるか、あなたが決めていい。
    「カナダって代表的な家庭料理ってある?」と聞けば、
    "That really depends on people."
    「それはマジで人によるね」と返ってくる。

    カナダは多文化国家だから、そこに住む人が持つ背景にあるルーツもバラバラだ。
    完璧な正解なんてない。その空気が、好きだった。
    「なんでもいい」じゃなくて「あなた次第」。一見同じに見えるけれど、その手触りは全く違う。「なんでもいい」には主語がない。自分の存在を消して、場に溶け込もうとする言葉だ。

    対して「Up to you」は、私の意志を尊重し、一人の人間として対等に扱ってくれる言葉として私は捉えた。

    私はずっと、場が丸く収まるなら自分を消してとりあえず「はい、わかりました」と言い続けてきた。 けれどカナダでは、逃げ場のないほど真っ直ぐに「あなたはどうしたいの? どう思う?」と問われ続けた。自分を主語にして語ること。そんな当たり前のことが、私にはひどく眩しくて、新鮮だった。

    ところが日本に帰ると、いつの間にかまた元に戻ってしまった。帰国後すぐに就職活動が始まったからだ。
    昨日まで目の色も肌の色も髪の色も母国語も異なる人たちに囲まれ「あなたはどうしたい?考えを聞かせて」と問われていたのに、突然、みんなと同じような黒のリクルートスーツに身を包む日々が始まった。
    企業の採用サイトの「求める人材」のページを開けば、事業内容や扱うものが異なれど、大体どのページを開いても「挑戦心がある人」「コミュニケーション能力がある人」「リーダーシップがある人」……。そこには明確な「正解の型」が並んでいた。
    苦しかった。
    「I(私)」を持つことを、どこかに置き忘れたまま、また周囲に合わせて自分を消し、そして社会へ出た。

    けれど、あのとき感じた「自分次第でいい」という解放感だけは、ずっと残っていた。

    それは内面の在り方だけでなく、長年「正解」だと信じ込んで疑わなかった自分の外見――たとえば、頑なに真っ直ぐに伸ばし続けてきた髪に対しても、静かな違和感として積み重なっていった。


    「はい」を言い続けた先にあったもの

    日本で「正解」をなぞる日々に戻りそのまま社会に出た私は、いつの間にか自分の感覚をまた麻痺させていた。
    新卒で入った会社ではもちろん「新卒・部署で一番若いメンバー」として過ごし、転職した先では中途採用が多く、私は年齢を重ねても「若手」のままだった。仕事の断り方を知らない私は、上から何かを頼まれたら「はい、わかりました」と二つ返事で引き受けた。それが正解だと思っていたし、独身の若手会社員とはそういうものだと思い込んでいたからだ。

    育休から復帰したときも「ママでも、時短でも、生産性を上げて復帰前と同じくらい働いてやる」 そんな風に、鼻息荒くしていたのも事実だ。今思えば、どのツラ下げてそんな無茶な目標を掲げていたのかと当時の自分を小一時間問い詰めたい。

    けれど、現実は残酷だった。

    「ママだから」といった理不尽な理由で未経験業務を増やされ、さらに退職者の穴埋めが加わり、新人がやっと入ったと思えば今度は「社歴が割と長いから」と細かなフォローを任され、私のキャパシティはあっけなく限界に達した。

    帰宅後も有給休暇の日も届き続ける連絡に、会社の体制へのイライラ、子どもへの申し訳なさ、焦り、悲しみ。感情がぐちゃぐちゃに混ざり合い、気が狂いそうだった。

    周りからは「いつも落ち着いている」と言われていた。もっと分かりやすく、ボロボロの姿でいればよかったのかもしれない。けれど、私には「大丈夫なふり」の年季が入りすぎていた。何に困り、何ができないのか。主語を持って声を出す気力さえ、もう残っていなかった。

    濁流に飲み込まれ、息ができていなかった。

    復帰して半年ほど経った頃、寝汗がひどくなった。そして全身に発疹が出た。眠れず夜中に起き出して身体中に出たみみず腫れにムヒを塗りたくる私の様子を見てさすがにまずいと思ったのか、夫が「子どもは見てるから病院に行ってきなよ」と言った。

    皮膚科で言われたのは「体がオーバーヒート状態」という言葉だった。複数の役割を完璧にこなそうとして、私のエンジンは焼き付く寸前だったのだ。
    診断としては「ストレス性蕁麻疹」。

    上司にも人事部にも相談して返ってきたのは「業界の慣習が変わらない限り、理想とする両立は無理だろうね」という他人事のような言葉だった。

    復帰して1年が経過した。「辞めます」 そう告げたとき、会社は「1カ月程度休んで、別の部署へ異動してはどうか」と打診してきた。絶句した。
    結局、転職した。皮肉なことにあのときボロボロになりながら身につけた経験は、後に業務委託として仕事を受ける際の武器になった。

    仕事への誠実さだけは、捨てなくてよかったと思っている。
    ただ、組織の中で積み上げ型のキャリアを築く生き方から降りた瞬間だった。

    仕事を変え、業務量をセーブできるようになったのは良かった。けれど、張り詰めていた糸が切れた途端、それまで「忙しさ」の影に隠れていた別の不調が、いよいよ無視できない重さで私にのしかかってきた。

    生理に振り回される不快症状に、子どものイヤイヤ期が重なり正面から対処せざるを得なくなったのだ。


    やり過ごすものと思っていたPMS

    生理前になると別人みたいになった。
    イライラする。食欲が止まらない。眠い。だるい。 普段なら受け流せることが流せない。他人の何気ない言動にイラッとしてしまう。
    生理が始まれば痛み止めが必要なほどの痛み、夜用ナプキンを昼間にこまめに変えなければいけないほどの経血量。

    独身時代はどうにかやり過ごしていた。しかし怒涛の子育てが始まり、子どものイヤイヤ期にも付き合いきれなくて、子どもとぼろぼろ一緒に泣いた日もあった。でも、みんなそうだと思っていた。それがワンオペ育児と重なった。

    対処法はないかと調べたらネットには「ゆっくりお風呂に浸かったり、ハーブティーでも飲んでゆっくりしましょう」と書いてあった。イヤイヤ期の子ども相手にそんな時間がある人がいるなら教えてほしい。

    意を決して婦人科で相談して低用量ピルを飲み始めた。すると初めてわかった。私は毎月かなりしんどいほうだったらしい。

    PMSという診断名もついて、保険適用でピルを出してもらえている。
    母にはお金払って薬飲んでまで止めることないじゃん、怖い、怖い、みんな耐えてんだから、といった小言も言われたが、「みんなが耐えている」は私にとって我慢する理由に全くならなかった。

    その当時、言葉が通じるか通じないか微妙なラインの目の前の小さな子どもと、そして毎日を回すために必要なアクションだった。

    慣れるまでは少し日にちを要したが、慣れてからはだいぶ快適だ。一番大きかったのは、子どもにどうしようもないイライラをぶつけなくて済むようになったことだった。ずっと「これくらい我慢しないと」と思っていたけれど、実際には、他にも選択肢があったのだ。


    状況説明、大事

    低用量ピルを飲んでいる間はかなり快適なのだが、次のシートを飲み始める前に休薬期間4日間を挟まないといけない。その間に若干の不調が出る。

    子どもは私のことを「かか」と呼ぶ。 ある日、私は子どもに言った。
    「かかね、今すごく肩が痛くて、頭も痛くて、かなしいきもちなんだ」

    すると子どもは、心配そうな顔でお気に入りのぬいぐるみを持ってきてくれた。彼なりの考えつく精一杯の気遣いに泣けた。そのとき思った。

    状況説明、大事。

    私はずっと、察してほしいと思っていた。でも説明していなかった。仕事も。体調も。家庭も。まずは説明しないと始まらない。

    疲れたら休んでいいんだよ。困ったら助けを求めていいんだよ。言葉にしていいんだよ。
    そんな当たり前のことを子どもとのやりとりで学んだ瞬間だった。

    意地とかプライドとか捨てて、肩肘張らずに「今の状態」を差し出す。
    そうやって自分を『正解』の形に当てはめるのをやめていくと、長年続けてきた別の『武装』の重さにも、ようやく気づけるようになった。


    20年間、40万円かけて、髪のうねりを消し続けた

    私の外見、特に20年もの間こだわり続けてきた『髪』についても、同じことが言えた。きっかけは、高校1年生のころだった。
    一生懸命アイロンで真っ直ぐ伸ばした前髪が、台風が迫る湿気を含んだ風で、学校に着くころにはワカメみたいに縮んでうねっていた。鏡を見て、絶望した。

    当時はサラサラのストレートヘア全盛期。
    今でもドラッグストアのヘアケアコーナーに行けば
    「うねりをブロック!」「サラツヤストレートをキープ!」
    など、ストレートヘアをキープするアイテムたちとメッセージで溢れかえっている。

    そこから私は、半年に一回のペースで縮毛矯正をかけ続けた。留学中や産後を除き、約20年。ずっと「真っ直ぐな髪でいる方がいい」と信じて疑わずに生活していた。

    しかし会社員を辞めてからスーツを着ることも、人に会うことも、ほぼない日々が続いており、ふと計算してみた。
    1回8千円として、年に2、3回。それを20年。トータルで40万円は優に超えるだろう。

    ただ、生まれ持った髪のうねりを「なかったこと」にするためだけに、私はそれだけの対価を払ってきたのだ。

    いずれ地毛に戻るのに、40万円。
    中古の軽自動車も買えたかもしれないし、ちょっとした海外旅行、または今では絶対買えない自分のためのご褒美ジュエリーなんかにも使えたはずだ。
    なんとも言えない気持ちになった。

    きっと、ちゃんとしている人に見せたかったのだ。

    振り返ると、それは背伸びであり、「武装」のような気持ちだったのかもしれない。

    10代のころ、母に「そんなにアイロンで伸ばさなくても、かわいいのに」と言われたことがある。けれど当時の私は、「ストレートのあなたに何がわかる」と心の中で毒づいていた。それくらい、私は「正解」の姿であることに必死だった。

    でも今は、もう真っ直ぐじゃなくてもいいと思える。くせ毛を活かして素敵にスタイリングしている人をSNSで見かけるようになって、一念発起した。丸2年かけて地道に地毛に戻したのだ。

    その過程は、決して美しいものではなかった。縮毛矯正をやめてから1年くらいすると根本からはうねうねとした地毛が伸び、耳の下からは不自然なストレートが残る。
    朝、鏡を見るたび、その滑稽な姿に「やっぱり矯正をかけたい」と何度も心が揺れた。素の自分、生まれたままの自分を晒すことは、どこか無防備で恐ろしかった。誰に頼まれたわけでもないのに一人で孤独な我慢比べをしているような気分だった。

    けれど、それを乗り越えた今、朝は髪を濡らしてムースを揉み込むだけでいい。雨の日も、風の日も、うねりを怖がらなくていい。それだけで、心はずいぶんと軽い。

    20年と40万円かけて、私は何者かになろうとしていた。

    けれど今は真っ直ぐじゃない自分の髪を、結構気に入っている。子どもを抱っこすると顔や首にちょうど当たるようで、顔をくしゃくしゃにさせながら「くすぐったい、くすぐったい」と鈴を転がすような声で笑っているのを見るのもかわいくてわざと近づけてしまう。

    歳を重ねて得られた、嬉しい変化のひとつだ。

    外側の「武装」を解いていくと、いよいよ最後に残った、自分ではコントロールしきれない内側の不調が顔を出した。


    お腹と、失われつつあったQOL

    治療を開始し、傾向がわかってきた今は笑い話にもできるが、かなり必死な時期があった。

    出産後しばらくは、辛いものも脂っこいものも控えていた。子どもと一緒に食べられなかったからだ。

    子どもが大きくなり、少しずつ一緒に外食もできるようになったら、ラーメンでお腹を下した。焼肉でも下した。ついにコーヒーでも下した。
    原因が特定できるほどに明らかに脂っこいもの、カフェイン、香辛料を摂取した数時間後に調子が悪くなった。

    一番困ったのは公園だった。大人は私ひとり。子どもは夢中で遊んでいる。汗で体が冷えたのか、寒暖差センサーがぶっ壊れ、突然くる腹痛。冷や汗が出る。

    かつては会社で、立場や視点が違う大人たちとすました顔をして淡々と、そして粛々と仕事を納めていたのに、今、目の前のたった一人の子どもの前で「トイレに行かせて。お願い、一緒に来て。」と、半泣きでなりふり構わず懇願している。
    その落差に情けなくなる余裕すらなく、ただ多目的トイレの空きを祈り、子どもの手を握る手に力を込める。
    その瞬間のトイレの空き状況の方が、私の人生を左右していたのだ。

    旅先でも、外食でも、常にトイレの場所を真っ先に確認するようになった。
    某錠剤を持ち歩くようになった。

    そんな状況でも病気というほどではないと思っていた。ただ、お腹が弱いだけ。

    でも確実に、私の生活の質(QOL)は音を立てて下がっていた。

    AIにあれこれ症状を相談してから、いよいよ消化器内科にかかることにした。 過敏性腸症候群の疑い、と言われ、ひとまずは薬を飲みながら、自分の体と対話する日々が始まった。


    徐々に世の中が変わってきている。

    更年期。PMS。過敏性腸症候群。HSP。発達特性。

    昔なら「性格の問題」「気の持ちよう」「元々の体質」で片付けられていたことに、今は名前がある。名前がついたことで私は自分のせいにしなくて良くなった。

    我慢するしかない、ではなく、相談していい。ものによっては対処法があるという空気が広がっている。私が助けを求められるようになったのは、そういう時代になってきたから、というのもあると思う。


    ちゃんと不調だった

    無理な仕事を断れる自分。
    PMSの少ない生理期間。
    お腹を気にせず出かけられる休日。
    くせ毛のまま外へ出られる朝。
    全部、昔の私には想像できなかった。

    私の不調は入院や手術が必要な大きな病気ではなかった。でも健康でもなかったとも言える。振り返ると、私はずっと平気なふりが上手だった。でも、ちゃんと不調だった。そして、ちゃんと助けを求めてよかった。

    40歳手前になって、ようやく自分の心の輪郭が、おぼろげに見えてきた。

    習字教室では、常に「お手本」があった。
    じーっと観察して、墨の付け方、筆の動かし方を微調整し、バランスを取って完成させる。何度も何度も書いて、正解に近づける。
    それに集中している時間も好きだったし、それが私の得意な生き方でもあった。

    けれど、私の人生にあると思っていたお手本は、どこにもなかった。
    自分の顔が鏡なしでは自分の目では見えないように、自分の心もどこにあるのか、どんな形をしているのか、実はよくわかっていない。
    だからこそ今、私は自分の「感じる」を研ぎ澄ませる練習をしているところだ。

    不調という痛みや、うねる髪の手触り、依頼を断るときの胸のざわつき。 それら一つひとつを指先でなぞるようにして、ようやく「私」という人間の輪郭が見えてきた気がする。

    お手本通りの線は書けなくても、割れた穂先であっても、私だけの感覚を大事に書いていく。勢い余ったときのかすれも、迷ったときの震えも、一つのエッセンスとして、作品の一部にしてしまえばいい。
    この通りに行けば幸せになれるというルートや、完璧なロールモデルを追いかけ続けるのは、私には合わなかったということを身をもって知ったのだから。

    正直、10代の私が夢見たバリキャリの姿とは程遠い。
    パンツスーツにヒールをコツコツ鳴らし、人混みの中スーツケースをゴロゴロと華麗にさばきながら年がら年中、海外を飛び回っているはずだった。髪の毛は風になびくストレートで。

    ところが今は締め付けのない服を着て、髪をゆるくカールさせたまま、ほとんど家にこもり、時間になれば夕方の保育園へ履きなれたスニーカーで走る毎日。

    「お手本」の習字なら、間違いなく全体を上から朱色の墨汁で直されるほどのはみ出しっぷりだ。

    けれど、いつか私を追い抜き、そして追いつけなくなっていく子どもとの日々を、一瞬も見逃さず、全力で並走するために。今の私には、この「はみ出した」毎日を健やかに過ごすための選択が必要だったのだ。

    自分の体力に合った生活を回せている今は、不思議と満たされている。

    It's up to you.

    正解や完璧なお手本を探すのをやめたら、ずいぶん楽になった。

    私の人生の主語を、もう誰にも渡さない。

    うねりながら、進んでいく。
    その軌跡を、私は結構気に入っている。


     
     
    昭和に生まれ、令和にママになりました。 日常の揺らぎや気づきを、少し引いた目で綴っています。フルリモートで働く中で、大人との雑談が減ってしまって、誰かとゆるくつながれたらと思い、noteを書いています。 私の悩みや気づきが、どこかの誰かの役に立てたら嬉しいです。

    あなたへのおすすめ