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TOKYO|幼児時代の日記

     父は帰りが早いと、母と一緒に私と百々子を銭湯に連れて行った。私たちが3歳と2歳くらいの頃だ。私は母と女湯に、百々子はまだ小さかったので父と男湯に入ることが多かった。父は子供の面倒を見るのが得意な人だった。
     当時、私たちはリカちゃんのお人形ごっこに夢中で、どこにでもリカちゃんを連れて出かけた。当然、銭湯にも毎回連れて行っていた。その日は私がリカちゃん、百々子は双子の赤ちゃんのミキちゃん、マキちゃんをそれぞれ持って女湯、男湯に入った。
     母と女湯から出ると、百々子がべそをかき、父に宥められている。双子の人形の片方を、誤って男湯の流れの早い排水溝に流してしまったという。父がすぐに気づいて探したが見あたらず、銭湯の番台の人に申し出たものの排水溝の先には無かったようで、あきらめて帰ることになった。道々、百々子がしくしくと泣くので、父は仕方なく、また双子の人形を買ってやると約束した。
     後日、父が双子の赤ちゃん人形を買ってくれたので、我が家のリカちゃんの妹人形は3体になった。1体だけ残っていた古い方の赤ちゃん人形はうっすら汚れてしまっていたが、私と百々子は手持ちの人形の数が増えたことに満足し、
    「うちのリカちゃんの妹は三つ子の赤ちゃんになった!」
    と二人して周囲の大人をつかまえては同じ話を何度も話して、その度に笑われるのを面白がった。しかし、さすがに銭湯に持って行くのはやめるようになった。
     それから10年以上経って、リカちゃんのラインナップに、双子の次に三つ子の赤ちゃんが新たに加わったと知った時には百々子と大爆笑した。

     百々子は重い気管支炎喘息で、夜中に発作を起こして長く入院することがあった。何ヶ月も入院して帰ってこないこともあり、私はいつも遊んでいる相方がいなくてつまらなかった。私たち姉妹は仲が良かったが、百々子が退院して家にいる時には喧嘩もしょっちゅうだった。ある夏の夜、私が百々子に意地悪して喧嘩になり、母に叱られて二人一緒にアパートのドアから外に放り出された。
     しかし、怖がって泣くこともせず、勝手に仲直りしてアパートのドアに寄りかかり、キャッキャとおしゃべりしているので、罰として効き目がないと分かり、母は私たちを外に出すのをやめた。二人でいると私たちは退屈することがなかった。

     百々子が一時退院して家に戻ったと思ったら、すぐに夜中に発作が起き、私も一緒に病院に連れて行かれることが何度かあった。大きな病院の小児科病棟は子どもの入室が禁じられていたため、母は、
    「十子、ちょっとだけ一人で待てるよね。すぐ戻ってくるからね。」
    と急いで言い、私は他に選択肢も無いので、
    「うん。」
    とだけ返事をし、もう消灯されて薄暗くなっているエレベーターホールで、父か母のどちらかが戻ってくるのを待っていた。
     エレベーターのはす向かいに大きな柱時計があって、時計の音を聞きながら窓際の長椅子に座ってじっと外を眺めていると、そこは自分しかいない世界のように思えた。不思議と怖くなることはなかった。
     百々子は入院中、2歳から3歳児であったが、平均よりもずっと小柄で愛嬌があり肝が座っていたので、看護婦さんや年上の子に可愛がられていたという。
    「モモは淋しがって泣いたりしないし、大きな注射器や点滴だって平気なのよ。」
    と母から聞かされ、私は心から百々子は小さいのにすごいと思った。そして、お見舞いのモンチッチがたくさんもらえるのはお利口にしているからだろうと考えた。本当は百々子のお見舞いに頂いたモンチッチが、いくつか重複していただけなのだが、私は流行りのモンチッチを持っていなかったので羨ましく、元気な自分はもらえないと思っていた。
     さすがに私が可哀想になったようで、母は百々子にことわって、お見舞いのモンチッチのうちの1体を私に分けてくれた。私は予想外のことに大喜びし、自分だけのモンチッチにモンチーと名付けて家に一人きりでいる間の相棒にした。この頃から、私は時々おねしょをするようになり、母は心配したが幼稚園の年長になる頃にはいつの間にか治っていた。

     百々子が4歳になり、少し丈夫になって入院しなくなった頃、私は幼稚園生になった。アパートからそう遠くない所に、その時代には珍しく運動に特化した教育をする人気の幼稚園があり、近所の子の多くがとりあえず受験していた。見栄っ張りの父がダメ元で受けさせたところ、近所で私だけが受かってしまった。よく一緒に遊んでいた布団屋さんの同じ年の男の子に「俺も行きたかったのに」とぼやかれた。
     私は活発で陽気な性格だったので、体を動かす遊びの多い園は毎日楽しかった。仲良しも何人かでき、担任の先生も若くて優しく、3年保育の厳しいおばさん先生が担任にならなくてよかったと友達とこっそり話したりした。母も友人ができ、皆で集まってお遊戯会の衣装を作ったりと楽しんでいたようだった。
     当時、よく遊びに行かせてもらった友達の家は大抵が一戸建てで、友達の中にはマンションや社宅に住んでいる子もいたが、6畳2間の風呂無しアパートに住んでいるのは私たちぐらいだった。入園してしばらくすると、負けず嫌いの父が近所に借家を探してきて、私たちは初めて一戸建てに引っ越した。
     アパートのように騒音を気にしなくていいので、私はピアノを習うことになった。父は子どもの頃、ラジオ局の合唱団に入っていたのが自慢で、子どもにも何か音楽を習わせたかったらしい。一戸建てになったので、カラオケ好きな父は自分でステレオにマイクを繋いで歌った。私たちを観客に流行りの歌謡曲を歌い、合いの手を入れさせたりした。酔っ払って帰ってくると、こたつの上で電線マンの音頭を踊って私たちを笑わせた。楽しかったが、しょちゅう飲み過ぎて帰宅するので、母を怒らせて大喧嘩していることがあった。私たちは洋服タンスの影から息を潜めて喧嘩が終わるのを待った。

     私たちが住んでいた町から少し離れた隣町に、譲おじさんの仕事場兼自宅があり、私は2つ上のいとこの笙子ちゃんと遊びたくて、しょちゅう行きたがった。笙子ちゃんはお人形さんみたいに可愛くて面白くて大好きだった。
     母は内職で忙しく、なかなか連れて行ってもらえないので、私は一人でバスで行こうと考えた。母と一緒に何度もバスには乗ったことがあるので自信はある。行かせてくれと言ってきかないため、大人たちは打ち合わせをして、ある日曜日についに決行することになった。令和の今なら、幼稚園児を一人でバスに乗せるなど、危なくてそうそうやらせてもらえないだろうが、昭和はまだ子どもの安全意識に緩い空気だった。
     短い区間の乗車だったがバスの乗降を無事にこなして、迎えに来てくれていた珠代おばさんと会うことができ、笙子ちゃんと存分に遊んだ。
     だが後日、それを羨ましがった百々子が、私も一人で行きたいと言いだした。仕方なく母は百々子にも挑戦させることにし、同じように珠代おばさんと打ち合わせて、予定のバスに乗せた。しかし百々子は座った席で眠り込んでしまい、珠代おばさんが待つバス停を通過した。大人たちは大騒ぎになったが、当の百々子は通過した先の終点で運転手さんに起こされ、そのままそこで折り返す同じバスで目的の停留所まで戻って来た。本人はケロっとしており、その豪胆ぶりはしばらく語り草だったが、母は無事だと分かるまで生きた心地がせず、おじやおばにも平謝りだったという。

     小さな子どもの私たち姉妹は、面白おかしく毎日を過ごしていた。東京の23区内だったが、付近にはまだ空き地もあったので、花や虫を取ってきたり、近所の子たちとかくれんぼをしたりして遊んだ。商店街の中に教会があったので、友達に誘われて日曜学校に行き、お話を最後まで聞いたあとに子どもたちに配られる天使のカードが綺麗で、それが目当てで通った。とにかく面白そうなことを探しては自ら忙しくしている子どもだった。

     一方、大人の母は東京生活の6年間は父のサラリーだけでは生活も苦しいようだった。ジュースはなかなか買えないので、麦茶にお砂糖を入れたり、夏は凍らせて食べさせてくれた。その頃、東京にいる間に母は自分の母親をがんで亡くし、流産も経験して辛いこともたくさんあったはずなのに、子どもの前では明るい母だった。子どもが好きで、遊びに来ている近所の子にも絵本を読んで聞かせ、お話のソノシートをかけて皆でおやつを食べた。我が家には同世代の子どもがいつも遊びに来ていた。
     ところが、である。年長の夏休みに父が、6人兄弟の三男で、父のすぐ上の兄の誠治(せいじ)おじさんと二人で会社をやる事になったので、譲おじさんの会社を辞めて地元のK市に帰ると言い出した。
     私たちの楽しかった子ども時代の終わりの始まりだった。


     
     
    こんにちは。神経難病の後遺症で視力と視野に障害があり、文字を拡大して書いています。亡き父に家族が大いに振り回された思い出話や日々脳内を巡っている考え事を面白がりながら綴ります。

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