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夕飯がコンビニの肉まんだったら、「ダメな母だけど仕方ない」?

     日本の食事は、すばらしい。
    一汁三菜と言われる定食には、栄養満点で彩り豊かな小皿がいくつも並んでいる。
    だけど母になって、この素晴らしい食事を提供する側になったとき、それは別の意味を持つことに気づいた。

     東京で暮らしているわたしは、「理解できるのに、なぜか理解できない」ルールに出くわすことがある。
    母としてのわたしのデビュー戦は、発達特性を持った極度の小食の長男との毎日だった。
    教科書通りに作る食事が、受け入れてもらえない。
    一口食べたと思ったら、どこかにふらふらと立ち歩いてしまう。
    「ごはんだよ」「座って食べて」「ほかのものも食べてみて」
    毎日何度も繰り返す言葉が、空気に消えていくようで虚しかった。

     今日もピンポン玉みたいなおにぎり1個しか食べなかった。
    お皿に残って硬くなったお肉と茹で野菜を、わたしは台所で鍋を洗いながら掻き込む。
    「もう、つくれない」と保育園で先生に愚痴をこぼした。
    「スーパーのお惣菜でもいいのよ。」
    優しい言葉だったけれど、わたしには少し違って聞こえた。
    本当はつくるべきだけど、できないなら仕方ない。
    そんな暗黙の常識がそこにあるように感じられたのだ。

     ある日ママ友が、わたしを励まそうと言ってくれた。
    「うちなんて昨日の夕飯、コンビニの肉まん1個だけだったんだよ。恥ずかしくて人に言えないよね」

     わたしには彼女の気持ちも、それがわたしへの心遣いであることもよくわかる。
    でも、いったい何が誰に対して恥ずかしいのだろうか?
    「一汁三菜」みたいなお手本が彼女の頭の中にもあって、肉まんは「つくっていない」「野菜が足りない」「コンビニ食は子供には悪影響」だから逸脱している。
    その共通の暗黙の常識が、この会話の背景にあるのだ。

     アメリカ在住の友人が言っていた。
    彼女の街では、赤ちゃんには瓶詰めのベビーフードを毎食与えるのがスタンダードだという。
    日本人は家で料理をする習慣があるため、賃貸物件で敬遠されることもあるそうだ。
    わたしが「今日もレトルトを食べさせちゃった」と感じる罪悪感は、本当に必要だったのだろうか。

     日本では立って食べることはお行儀が悪いといわれる。
    だからわたしも母として、我が子には「座って食べなさい」と言わなければならない。
    家族で囲む食卓が素敵であることはもちろん疑う余地もない。
    だけどわたしは考える。
    毎食必ず、多動の特性を持つ子どもを座らせることに、精神をすり減らす必要があるだろうか?
    大人も子供も歩きながらサンドウィッチを食べるドイツの日常の食事スタイルが、わたしは気楽で好きだった。

     子どもの寝顔を見ながら、わたしは泣いた。
    何に対して重苦しい義務感を背負っていたのだろうか。
    育児ノイローゼになりかけていた当時のわたしの心を、もっとふわっと軽くする言葉はなかったのだろうか。

     そして思う。
    この暗黙の常識は、誰のために存在しているのだろう。
    その外側にいる人は、この社会をどう感じるのだろう。


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    東京在住シングルマザー。息子二人との暮らしの中の、「まだ言葉を与えられていない小さな違和感」を記録しておきたい。そんな気持ちで綴る、子ども、自分、そして社会の観察エッセイです。

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