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「月が綺麗ですね」ではない、「親子間のアイラブユー」の訳し方

     「I love you なんて言葉は日本語にはない。月が綺麗ですねとでも訳しておけ。」は夏目漱石の名言だそうだが、母になったわたしは、もっと別の和訳もあっていいのではないかと考えるようになった。
    親子間の「アイラブユー」だ。

     生後一か月の長男を抱いて、はじめて一緒に浴槽に浸かったときのこと。小さな身体がいとおしく、まだ言葉がわかるわけでもないその命に、なにか I love you にあたる言葉をかけたかった。
    「わたしの大事な〇〇ちゃん」。
    そんな言葉を、自然と選んだ気がする。

     I love you の良さは、その表現のまっすぐさにある。
    わたしは、愛する、あなたを。「わたし」を主語にしたこのシンプルで明快な愛情表現が、英語圏では恋人、夫婦、親子といった、あらゆる愛のある人間関係で日常的に使われている。

     それは「愛してる」ほど大げさなものではない。お疲れさま、とか、ごちそうさま、とか。日常にたくさん散らばっている、あたたかい言葉たちの総称のようなものだ。

     「行ってきます」と威勢よくランドセルを背負い、慌ただしく玄関のドアを押し開ける息子に、わたしは「いってらっしゃい。気を付けてね」と声をかける。今のは、どちらも日本版 I love you だよな、と思う。
    こんな日常のささやかな I love you を、ぴったりと訳す言葉が日本語にないことに、わたしは長年、寂しさに似た葛藤を抱えている。

     中学二年の冬、アメリカの田舎町にホームステイをした。
    わたしより一学年下のケイシーと、早朝の凍てつく路地でスクールバスを待っていたときのことだ。バスに乗り込む直前、見送りのお母さんのほうを振り返った彼女は、
    “I love you, mom.”
    と言った。
    まだ英語を覚えたてだったわたしは、はっとした。
    これが、この国の、この家族の「行ってきます」なのか、と。

     「行ってきます」の意味なんて、考えたこともなかった。けれど、そうか。これは愛を伝える言葉だったのだ。
    それをまっすぐに口にする、この言語と文化は、なんて素敵なんだろうと思った。

     「月が綺麗ですね」は、実に奥ゆかしい品性と風情を感じさせる名訳だ。けれどわたしは、息子とのあいだに、もっとまっすぐな愛を伝える言葉を求めている。

     特に、子どもから親への愛情表現の言葉は、日本語には乏しい。「お母さん、愛してる」なんて、死に際に初めて言うか言わないか、というほどの仰々しさがある。
    わたしは願わくば生きているうちに、息子に I love you と言われたい。

     日本人に、愛がないわけじゃない。ただ、どれくらい直接的に表現するか、その度合いが文化によって違う、ということなのだと思う。

     親子の感情をどう言葉にするかは、個人の問題ではなく、社会が用意してきた語彙の問題なのだと思う。

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    東京在住シングルマザー。息子二人との暮らしの中の、「まだ言葉を与えられていない小さな違和感」を記録しておきたい。そんな気持ちで綴る、子ども、自分、そして社会の観察エッセイです。

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