あなたの声で眠らない 第13話 ただいまの練習
— 1 —
日曜の待合所で、灯は録音機を鞄から出せなかった。
中には十三秒の声がある。
航平へ聞かせるつもりで来た。
けれど、向かいに座った彼は、白い札のついた鍵を指先で回している。
「母の家の鍵です」
白い札には、佳代子、と油性ペンで書かれていた。
文字の最後が少し滲んでいる。
灯の実家にも、白い札の鍵があった。
父が入院したあと、病院と家を往復するために持たされた。
七回忌を終えても、机の引き出しから捨てられない。
鍵の先にある家は、もう人へ貸している。
開けてはいけない扉の鍵を、灯はまだ持っていた。
航平の鍵は、これから開けるためのものだ。
同じ白い札でも、時間の向きが違う。
「明後日ですね」
「はい。退院します」
航平は鍵を止めた。
「録音機も、今日借りて帰っていいですか」
佳代子が使いたがっていたことを、灯は聞いている。
日曜までに返してもらうと伝えたことも。
「もちろんです」
灯は鞄へ手を入れる。
指が停止ボタンに触れた。
保存した十三秒を再生するなら、今しかない。
録音機をテーブルへ置く。
画面に、いちばん新しいファイルが表示された。
十三秒。
航平の視線は数字に止まったが、再生ボタンへは動かなかった。
「消さなかったんですね」
「前のものとは違います」
「はい」
「同じことを録りました」
航平は、そうですか、とも、聞かせてください、とも言わない。
灯が次に何を選ぶか待っている。
その待ち方が、以前より難しかった。
秘密を尊重されると、自分から渡さなければ何も始まらない。
灯は画面を閉じた。
「お母さまに、先に使ってもらってください」
録音機を押し出す。
「返すときまで、このファイルは開きません」
「約束しなくても、大丈夫です」
航平は手を止めた。
「大丈夫だと、言えるようになったんですか」
灯は自分の言葉を聞き直す。
信じています、とは少し違う。
信じたいです、でもない。
「あなたが聞かないと決めたことを、もう疑わなくていいと思っています」
航平は録音機を受け取った。
鍵と並べると、赤い録音ボタンだけが小さく見える。
「母が、番組へ音を送りたいそうです」
「何の音ですか」
「まだ教えてくれません」
「あなたにも?」
「僕が先に聞くと、直したくなるからだと思います」
航平は母の発音を直したことがある。
聞き取れない言葉を、別の言葉に置き換えたことも。
早く伝わるようにしたつもりで、佳代子が伝えたかったものを削っていた。
「直してほしいと頼まれたら?」
「そのときは手伝います」
言い切ったあと、航平は訂正する。
「手伝えるか、先に聞きます」
灯はほうじ茶の蓋を開けた。
小さく空気が抜ける。
聞き逃すほどの音だったが、二人とも同じ瞬間に黙った。
航平は少し笑った。
「何を残すかは、使う人が決めるので」
灯も笑いそうになり、唇を閉じた。
自分の言葉を借りていた人が、その言葉を母へ渡し、また持って帰ってきた。
「届いたら、ほかの投稿と同じように扱います」
「僕の母でも?」
「あなたのお母さまだから特別にはしません」
「そのほうがいいです」
航平は白い札の鍵をポケットへしまう。
灯の十三秒も、同じポケットへ入った。
今度は消されたのではない。
自分で順番を譲ったのだ。
待合所を出る前、航平が尋ねた。
「番組が終わることについて、今日は聞いてもいいですか」
灯は考える。
答えを求めない質問なら、聞いてもらえる。
「まだ、終わることより、終わったあとに午前三時が来ることを考えています」
「僕もです」
「あなたには仕事があるでしょう」
「仕事があっても、三時は来ます」
灯は返事をしなかった。
同じ時刻を別の場所で迎えることが、今は約束に近く聞こえた。

— 2 —
火曜の午前、佳代子は自宅の玄関で立ち止まった。
航平が鍵を差し込もうとすると、右手で制した。
白い札の鍵を受け取る。
鍵穴へ入るまでに三度外れた。
航平は手を出さない。
後ろにいる紗季も、紙袋を抱えたまま待つ。
四度目に、金属が奥まで入った。
佳代子は左手を添え、ゆっくり回す。
錠の外れる音がした。
録音機の赤いランプが点いている。
佳代子は自分で録音ボタンを押していた。
玄関を開け、家へ入る。
半年ぶりの空気は、閉め切った戸棚と新しい畳の匂いがした。
退院前に航平が掃除をし、紗季が廊下の敷物を替えた。
台所の椅子には、立ち上がりやすい高さの座布団が重ねてある。
良かれと思って整えた跡が、家の中に多すぎた。
佳代子は一つずつ見た。
座布団を一枚外す。
流し台の前へ置かれた椅子を、壁へ寄せる。
冷蔵庫に貼った服薬表は、そのままにした。
食器棚を開ける。
湯飲みは、入院前と同じ場所に伏せてある。
一つ取り出そうとして、隣の茶碗へ触れた。
陶器が硬く鳴る。
航平の肩が動く。
佳代子は振り向き、録音機を示した。
壊した音ではない。
録りたい音だと伝えている。
赤いボタンを押し、もう一度、湯飲みを茶碗へ軽く触れさせた。
今度は自分で選んだ音になる。
残すものと戻すものを、自分で選んでいく。
「昼までいます」
航平が言った。
佳代子は文字盤を求める。
か、え、る。
「僕らが帰る?」
うなずく。
「まだ着いたばかりだよ」
紗季が言うと、佳代子は時計を指した。
十一時。
訪問看護師が来るのは午後二時。
三時間を一人で過ごす計画だった。
航平はノートを開く。
薬。
昼食。
緊急通報のボタン。
確かめたい項目が並んでいる。
佳代子はノートを閉じた。
「分かった。帰ります」
航平は白い札の鍵をテーブルへ置く。
「合鍵です。僕が持っていてもいい?」
佳代子はすぐにうなずかなかった。
文字盤へ指を運ぶ。
よ、ん、で、か、ら。
呼んでから。
「勝手に入らない。電話か通報があってから使う」
うなずく。
鍵を渡すことは、いつでも入ってよいという意味ではない。
航平は白い札の裏へ、小さく書いた。
呼ばれてから。
玄関を出ると、内側から鍵が回った。
一度では回らない。
金属が擦れ、止まり、また動く。
やがて錠がかかる。
航平と紗季は廊下で、その音を最後まで聞いた。
家の中で、佳代子は録音機を玄関台へ置いた。
再生する。
鍵の外れる音。
戸が開く音。
自分の呼吸。
そこまで聞いて停止する。
声がない。
帰ってきた人が言うはずの言葉だけ、入っていなかった。
佳代子は新しい録音を始める。
「た」
喉の奥で音が止まる。
停止する。
もう一度、赤いボタンを押した。
「た、だ」
今度は二音続く。
息が足りなくなり、笑いが混じった。
佳代子は再生して、自分の笑いを聞く。
病院では、できなかった音ばかり数えた。
家では、失敗のあとに笑ったことまで録れる。
三度目を始める前、緊急通報の機械が目に入った。
押せば、航平たちが戻る。
佳代子は押さない。
代わりに台所まで歩き、湯飲みへ麦茶を注いだ。
一口飲む。
それから録音機へ戻る。
「た、だ……い、ま」
壁の時計が一度鳴った。
佳代子は停止ボタンを押す。
うまく言えた録音を作り直すためではない。
帰ってきた最初の三時間を、一つの音にしておくためだった。

— 3 —
水曜の夕方、灯の携帯電話へ航平から連絡が来た。
母が、灯さんに来てほしいと言っています。
その一文の下に、すぐ追伸が届く。
断っても大丈夫です。番組へ送る音の相談だそうです。
灯は最初の一文だけなら、返事に迷ったと思う。
家族へ紹介されることと、投稿を受け取ることは違う。
航平があとから境界を書き足したため、選ぶことができた。
伺います、と返す。
佳代子の家は、古い商店街から一本入った平屋だった。
玄関脇の植木鉢に、芽の出ていない土がある。
航平が呼び鈴を押す。
内側で、鍵が擦れる。
昨日より短い時間で錠が外れた。
佳代子が歩行器の向こうで笑う。
ラジオで聞く人に、顔を見られるのは不思議だった。
灯は放送のときより、声の高さを迷う。
病人へ向ける明るさを作れば、佳代子を弱い人として扱うことになる。
深夜の調子で話せば、午前三時を家へ持ち込む。
結局、駅の売店で店員へ礼を言うときと同じ声になった。
灯は頭を下げた。
「初めまして。柊木灯です」
佳代子は左手を上げる。
文字盤ではなく、録音機を持っていた。
佳代子は灯の顔と録音機を交互に見る。
それから、文字盤へ指を置いた。
こ、え。
「声で分かりましたか」
丸を作る。
よ、る、よ、り。
佳代子の指が止まる。
航平が続きを予想しそうになり、口を閉じた。
佳代子は自分で選ぶ。
ち、い、さ、い。
「夜より小さい?」
うなずく。
灯は笑った。
「ラジオでは、機械が少し大きくしてくれます」
佳代子は首を横に振る。
文字盤で、ち、が、う、と示す。
機械の音量ではなく、灯自身の声が小さいと言っている。
緊張を聞き分けられていた。
「初めて会うので、緊張しています」
佳代子は満足したように丸を作った。
再生ボタンを押す。
鍵の音が流れる。
続いて、途切れた声。
「た、だ……い、ま」
七秒の沈黙。
最後に、台所の時計が一度鳴る。
録音はそこで終わった。
灯はすぐに感想を言わなかった。
佳代子が自分の声をどう扱いたいか、まだ聞いていない。
「この音を、番組へ送りたいですか」
佳代子はうなずく。
「お名前は読んでもいいですか」
首を横に振る。
文字盤を指す。
か、え、っ、た、い、え。
「帰った家、というお名前で?」
うなずいた。
灯は投稿用紙を出す。
放送で使う範囲。
氏名を出さないこと。
音声を局の外へ渡さないこと。
一項目ずつ読み、佳代子の返事を待つ。
航平が途中で口を挟む。
「言い直したほうの録音もあります」
佳代子が彼を見る。
「そっちは、もっとはっきり言えていたから」
佳代子は録音機を胸元へ引いた。
灯は航平へ尋ねる。
「どちらを放送するか、決めるのは誰ですか」
航平の口が閉じる。
「母です」
「聞き取りやすいほうが、母のためだと思いました」
航平は言う。
佳代子は息子を見たまま、首を横に振った。
「あなたのためでもあったのでは?」
灯が尋ねる。
「僕の?」
「お母さまが回復していると、分かりやすく聞きたかった」
航平は反論しない。
言葉が滑らかなら、昨日より良くなったと思える。
途切れれば、まだ戻っていないものを数えてしまう。
「そうだと思います」
航平は、最初の録音を選ぶ母へ頭を下げた。
「僕が聞きたい声と、母さんが残したい声を、一緒にしていました」
佳代子は白い札の鍵を指す。
呼ばれてから。
息子の耳にも、同じ約束が必要だった。
白い札の鍵が、テーブルの端にある。
裏側の、呼ばれてから、という文字が見えた。
「私でもありません。私は放送できる状態かを確かめます」
佳代子は最初の録音をもう一度再生した。
た、だ、と、音が一つずつ家へ戻ってくる。
言い直した録音は聞かせない。
灯は投稿用紙の使用音源へ、一、と書いた。
佳代子が丸をつける。
航平は鍵をポケットへしまった。
入ってよい場所と、待つ場所は、家の中だけにあるのではなかった。
帰り際、佳代子が灯を呼び止めた。
声ではなく、テーブルを二度たたく。
録音機の一覧を開き、十三秒のファイルを指した。
灯の顔が熱くなる。
「それは、私のです」
佳代子は再生していないと示すように、両手を開いた。
航平も何も言わない。
灯は録音機を受け取る。
「ありがとうございます。これは、まだ投稿しません」
佳代子はゆっくり丸を作った。

— 4 —
木曜の午前二時四十分、灯は佳代子の音を編集画面へ置いた。
全体で三十一秒。
鍵が回るまで十一秒。
ただいまを言うまで十三秒。
時計の音まで七秒。
ノイズを取れば、声は聞きやすくなる。
沈黙を縮めれば、放送には収まりやすい。
灯は何も切らなかった。
言えなかった時間を消せば、帰るまでの距離まで短くしてしまう。
芳乃が副調整室から入る。
「そのまま使うの?」
「本人が選んだ音なので」
「聞きづらい、とは思わない?」
「思います」
灯は波形を拡大する。
声の間に、小さな山がある。
歩行器へ指が触れた音。
呼吸をやり直した音。
遠くを通ったごみ収集車の音。
「聞きづらさをなくすと、この家で言った声ではなくなります」
「音を整えないことが、誠実とは限らないよ」
芳乃の言葉は反対ではなく、確認だった。
聞こえなければ、声は届かない。
残すことだけを優先し、聞く人へ負担を渡すこともできる。
灯は音量だけを少し上げた。
鍵の摩擦音と声の差を狭くする。
間は切らない。
雑音も、言葉を覆う低い唸りだけを薄くした。
編集は、きれいにするためではない。
選ばれた形を壊さず、入口を作る仕事だった。
芳乃は椅子へ腰を下ろした。
「説明は足す?」
「帰ってきた人の音です、とだけ」
病気の名前も、年齢も、航平の母であることも言わない。
午前三時、放送が始まる。
灯は天気を読む。
沿岸部は明け方に霧。
国道では補修工事。
風は北から一メートル。
午前四時十二分、夜の音の地図を開く。
「今夜は、帰ってきた人の音です」
再生ボタンを押した。
鍵が金属の中で迷う。
一度止まり、もう一度回る。
戸が開く。
「た、だ……い、ま」
七秒後、時計が鳴った。
その三十一秒のあいだ、灯はマイクの前で何も足さない。
音が終わってから、投稿名を読む。
「帰った家さん。おかえりなさい」
佳代子の家では、ラジオが台所に置かれていた。
航平は隣の椅子にいる。
灯の、おかえりなさい、が流れる。
佳代子はラジオへ向かって頭を下げた。
自分の声が終わると、佳代子は録音機を手に取った。
ラジオから流れる灯の声を録り始める。
航平は、放送を録音してよいのかと尋ねかけた。
私的に聞くためなら問題ないと、以前灯が説明していたのを思い出す。
黙って、ラジオの音量を一つ下げた。
佳代子はすぐに戻した。
夜より小さくしなくていい、という顔だった。
航平は何か言おうとして、やめる。
代わりに白い札の鍵をテーブルへ置いた。
今夜は呼ばれて入った。
放送が終わるまで、勝手に立たない。
午前五時の音楽が流れる。
佳代子は録音を止め、文字盤を引き寄せた。
あ、り、が、と、う。
「灯さんに?」
首を横に振る。
航平が考える。
「聞いた人に?」
また首を振る。
佳代子は自分を指し、録音機を指した。
「声に?」
丸を作る。
戻り切らない声は、佳代子を困らせてきた。
今夜は家へ帰る手伝いをした。
航平は初めて、母の途切れる声を直したいと思わずに聞いた。
午前五時、灯は四枚目のメダルを裏返した。
残る表は二枚。
終わった放送が増えるほど、番組の輪郭は薄くなると思っていた。
けれど今夜、声は一つの家へ戻った。
輪郭は別の場所に描き直されている。

— 5 —
放送後、投稿フォームに七通の便りが届いた。
おかえりなさい。
同じ言葉が、違う名前から繰り返されている。
灯は印刷せず、画面のまま読んだ。
佳代子へ渡すなら、本人の許可が要る。
善意も、宛先を決めてよい理由にはならない。
航平から私的な連絡が届いた。
母が、全部聞きたいと言っています。
灯は、確認してからお渡しします、と返す。
しばらくして、もう一通来た。
今度の日曜、会えますか。
灯は録音機を机へ置いた。
十三秒のファイルは、まだそこにある。
番組の相談なら、土曜でもできます、と打つ。
送らずに消した。
航平の文には、相談という言葉がない。
日曜なら会えます、と返す。
三分後、ありがとうございます、と届いた。
灯は、どこで会いますか、と打つ。
航平から、旧港で、と返る。
いつもの場所だった。
いつもの場所を選ぶことが、番組の相談を意味するとは限らない。
同じ待合所で、違う話を始めることもできる。
灯は、分かりました、と送った。
時刻は書かない。
すぐに、午後三時でどうですか、と届く。
航平が午前三時を避けたことに、灯は気づいた。
灯は十三秒を再生する。
空調の音。
紙を揃える音。
自分の声。
「番組の相談がなくても、会いたかったです」
録った朝より、声が遠く聞こえる。
気持ちが薄れたのではない。
言葉のほうが、その場に置いてきた時間を持っている。
同じことを今言えば、同じ声にはならない。
灯は削除のメニューを開かなかった。
ファイル名を変える。
新規録音。
その表示を消し、日曜、と打った。
さらに、時刻を加える。
日曜、午後三時。
約束になった途端、十三秒は告白の代わりではなくなる。
聞かせるなら、そのあとの沈黙まで自分で引き受ける必要がある。
録音機に決めさせない。
灯は再生ボタンから指を離した。
まだ聞かせると決めたわけではない。
ただ、いつの声かを隠さない名前にした。
佳代子の音へ届いた便りを、一通ずつ一覧にする。
差出人の名前。
本文。
本人へ渡してよいかを尋ねる欄。
灯は七人へ確認の返信を送った。
朝六時前、最初の返事が来る。
渡してください。
私は十年、ただいまを言う家がありません。でも、おかえりなさいは言えます。
投稿名は、台所の椅子。
灯は文章をコピーせず、そのまま画面を閉じた。
佳代子の声が、知らない人の暮らしを開けてしまうこともある。
開いた扉へ、番組がどこまで入ってよいのか。
残り二回で決めなければならない。
芳乃が戻ってきて、画面の七通を見る。
「全部に返事をするの?」
「今は七通ですから」
「七十通でも?」
灯は答えられない。
数字に表れない聞き手へ話してきた。
数字になった途端、一人ずつに返せなくなる。
「番組の外へ持ち出せる形を考えます」
「誰が持つの?」
芳乃の質問で、手が止まる。
局か。
共同配信の会社か。
灯自身か。
どれを選んでも、声の持ち主とは違う。
「次の放送までに、聞きます。投稿した人たちに」
残すことを、預かる側だけで決めない。
灯は新しい原稿を開いた。
題名を、番組が終わったあと、とする。
机の上では、録音機の画面が消える。
十三秒は暗い画面の中に残っている。
日曜という名前だけが、次に開かれるのを待っていた。

