
「私のときは誰も助けてくれなかった」という呪い
「パワハラって言われるけど、こっちからしたらパワハラを受けてるのは私の方ですよ」
向かいに座った彼は貧乏ゆすりをしながら言った。
彼の年齢は50歳前後。とにかく仕事ができるビジネスパーソンだ。仕事だけでなくコミュニケーション能力も優れていて、経営層からの信頼は厚く、若手からも慕われる存在だ。
そんな彼が新入社員を泣くまで詰めたというから驚きだ。しかも聞くところによると、その新入社員は彼と同じ業界、業種を目指して大学から勉強してきた優秀な人らしい。彼ならむしろ可愛がりそうなものだ。
普段温厚な彼が、なぜその新入社員には苛烈に当たるのか。
これは、ひとつの傷の話であり、傷跡の話であり、呪いの話である。
世界から自分の価値を否定された傷
彼の業界は昔ながらの世界で、昔は新人に対して「しごき」と称される様々な理不尽が許容されていたらしい。
彼は自らの新入社員時代を「地獄」と表現した。
パワハラなんて言葉がなかった当時、怒鳴られ殴られるのは当たり前の日々だった。彼は指導の範疇を超えたいじめ、嫌がらせとしか思えない仕打ちを受けていた。(僕からすると完全に暴行、障害、強要、窃盗などの犯罪行為としか思えなかった)
「本当につらくて、毎日死のうと思っていた」と彼は言っていた。「けど頑張るしかなかった。泣いてても誰も助けてくれなかったからね」とも、「今となってはいい経験だったよ」とも言っていた。
今は流石にそんなことはなく、そういう暴力行為は御法度になったらしい。
人が本当の意味で絶望する瞬間とはいつだろう。
暴力に晒され、傷つけられたときではない。本当の絶望とは、その辛さを黙殺されたときに訪れる、と僕は思う。ボロボロになりながら、最後の力を振り絞って「助けて」と発した一言が無視されたとき、人は本当の絶望を味わう。
腫れ物に触れないように離れていく友人。厄介ごとを持ち込まれたと面倒くさがる親、教師、上司。「辛いのはお前だけじゃない」「お前よりも大変な環境で頑張っている人もいる」と辛さを否定する人たち。
この状況は、人を「不当な暴力を受けている自分」から、「世界にとって助ける価値がない自分、助かりたいと思ってはいけない自分」に変えてしまう。つまり、自分の尊厳を信じられなくなるのだ。
泣けば余計に殴られる。何をしても怒鳴られるし、何もしなくても怒鳴られる。助けを求めれば無視される。自分を取り巻く世界に、よってたかって自分の無価値さを徹底して思い知らされる。
「けど、泣いてても誰も助けてくれなかったからね」
そう呟いた彼もまた、絶望の中を生きてきたのだろう。
徹夜で働いているときに一言声をかけて欲しかった。喫煙所で愚痴を聞いて欲しかった。ベッドから体が動かせなくなったとき、誰かに心配して欲しかった。
だけど彼は何もしてもらえなかった。どれだけ苦しいと叫んでも無視され、踏みつけられ、自己責任のお題目のもとで沈黙を強要された。
彼は何をよすがに生き抜いたのだろう。人に対する一縷の希望なのかもしれないし、自分を踏みつけてきた存在への憎悪かもしれない。
いずれにせよ、彼の傷は今も残っている。
最近になって、傷つきやケアが語られ始めた。
傷跡のない大人はいない。傷は適切に治療しないと塞がらず、周囲に新たな傷を撒き散らす呪いになる。 呪いは極めて実体的な問題なのだ。
傷跡から血と呪いが噴き出す
「老害みたいで言いたくないんですけどね、オレの若い頃はこんなもんじゃなかったですよ。根性とかじゃなくて、学ぶ気がないんですよあいつは」
彼の一人称が私からオレに変わった。
彼は泣きじゃくる新人に、過去の自分を見ている。眼の前にいる苦しんでいる人を救いたい。しかし、過去の自分がそれを許さない。
オレのときは誰も助けてくれなかった。こいつは助けてもらえるのか。オレはやっぱり救われる価値のない存在だったのか。こいつは救われる価値があるのか。
もちろん、新入社員からするとそんな過去は知らないし、その地獄を再生産していい理由にはならない。彼も当然そんなことはわかっている。
「いつまで昔のことを引きずっているんだ」「良い大人なんだから過去のけじめくらいつけろ」
年齢を重ねるにつれ、彼はそんな正しさにまた口を塞がれ、立ち尽くしているのかもしれない。
彼のパソコンから通知音がなる。次の打ち合わせが始まるらしい。もう行かないといけない。二人でエレベーターホールに向かう。
「次あいつに泣かれたら、私も負けじと大声で泣いてみようかな」と彼は冗談っぽく笑った。何も言えず僕はエレベーターのボタンを押した。それができなかったから、僕たちは今ここに立っているのだ。
エレベーターの中で、僕は太宰先輩の『斜陽』の一節、「けれども、僕が本当に苦しくて、思わず呻いた時、人々は僕を、苦しい振りを装っていると噂した。どうも、くいちがう」を思い出していた。
流石に太宰先輩を引っ張ってくるのはやり過ぎだな。思わず鼻から息が漏れた。幸い、マスクをしていてバレずに済んだ。