
『東ヶ丘高校探偵倶楽部へようこそ~夏の終わりの足音~』
あらすじ
京都市の東の果てに位置する山科区。市内にありながらも、隔絶されたこの小さな町を人は魔境と呼ぶ。そんな魔境にある普通の公立高校・東ヶ丘高校に通う将棋部の櫻井咲良の元には、日々、面倒な依頼が舞い込んでくる。
「先輩に付きまとうストーカーの正体を調べて欲しい」
夏の終わりに頼まれた、ちょっぴりヤンキーな幼馴染からの真剣なお願い。
どうやら夏は恋の季節らしい。恋の魔法は人をおかしくする?恋愛経験ゼロの迷探偵、咲良が今日も、事件を解決すべく、山科の街を駆け巡る――。
アンガーマネジメントという言葉がある。怒りという感情に振り回されないように、上手に付き合う方法。衝動的に怒ってしまったせいで、果てしなく後悔する羽目になった先人たちの知恵だ。冗談抜きで一度の怒りが人生を終わらせることだってある。
だが感情がそれほど簡単にコントロール出来るなら、人は最初から困っていないだろう。
感情がコントロール不可のじゃじゃ馬であることは、自分が恋をした時のことを想像したらすぐに分かる。
理由もなく心臓は鼓動を早め、緊張し、話したいのに、うまく話せなくなる。
人によっては敢えて相手が嫌がることをしてしまったり、恋愛のせいで制御不能に陥ってしまった、多くの人が身に覚えのある経験だろう。
何なら怒りよりも厄介ではないだろうか。
怒りは自分でも原因がはっきりしているが、恋愛はそうではなく、自分でもなぜこの人を前にするとこんなに気持ちが昂るのか、まったく分からない。エマージェンシー、エマージェンシー。緊急事態発生。
というわけで我々人類にとって本当に必要なのはアンガーマネジメントではなく、ラブマネジメントなのかもしれない。
小学生時代、初恋のあの子にやってしまった振り返れば痛すぎる謎の行為。顔を覆いたくなる黒歴史を生み出さないためにも、人類はラブマネジメントを学ぶべきなのだ。
目の前に置かれた鉄板から、「触ると火傷しますよ」と言っているような音が聞こえる。ジュージュー。それは同時にこの鉄板で出された料理のおいしさを保証する音にも聞こえた。
平日の夜とは言え、どっきりピンキーの店内は席がすべて埋まっている。ふと入り口を見やると、何組か席が空くのを待っているのが分かる。みんな、どきピンのハンバーグが大好きなのだ。
料理は味覚だけじゃなくて、視覚や聴覚からも楽しむものだ、とは誰が言っていた。いや、聴覚はなかったかもしれない。
「サクってほんまに美味そうに飯食うよな」
小松佑真が会話のキャッチボールを投げるのと、驚きの独り言のちょうど中間のような温度で呟いた。何か言い返してやろう、と思ったが、口の中にあるハンバーグの美味しさがそれを許さない。
「どうせ『熱々の鉄板とソースが奏でるシンフォニーは、ハンバーグを極上のご馳走へと昇華させる最高のスパイスだ』、とか考えてるんやろ?」
嫌味にならない程度の笑みを浮かべてそう言うと、佑真は到底一口サイズとは思えないほど大きく切り分けたハンバーグをひょいと口に放り込んだ。こいつの一口は一体どうなってるんだ?
それにしても、自分の考えていたこととはまったく違うが、ベクトルとしては合っているようなことを言われ、櫻井咲良は少し気恥ずかしくなった。なんでこんなゴリゴリのマッチョマンに心の内を読まれなきゃならないんだ。
「誰がそんな……ポエムみたいなこと考えるねん」
しっかりと味わったチーズインハンバーグを飲み込み、水で口を湿らせてからやっと反撃の言葉を捻り出せた。
まだ鉄板の上には半分以上、ハンバーグが残っているが、佑真の鉄板はすっかり綺麗に平らげられている。鉄板には一欠片の肉も野菜も残っていない。ヤンキーのくせに妙に育ちのよさが伺える。
中学の同級生、佑真から久し振りに連絡があったのは、夏休みもあと一週間で終わる、八月の終わりだった。夏と言えば恋の季節。気になるあの子と海に行ったり、花火を見に行ったり、自然と距離が縮まった二人は、夏の終わりに……なんてことは当然起こらず、毎日ひたすらだらだらと過ごし、気が付けば夏が終わろうとしている!俺の一夏の恋は?アバンチュールは?と慌て出したところで、連絡をくれたのは、ちょっぴりヤンキーな幼馴染。それはそれで嬉しいのだが、なんというか、もう少し色気のある夏があったっていいじゃないか。
とは言え咲良の場合、気になるあの子自体が存在しないのが問題なのかもしれない。
「夏休み、いつまで?」
ドリンクバーで入れたコーラを飲みながら、ハンバーグの余韻に浸っていると、佑真が出し抜けに聞いてきた。何となく違和感がある。本題に入るために、何かを探っているような。合コンで初めて会った会話の弾まない相手に、とりあえず無難な話題を振るあの感じに似ている。
「今週いっぱい。月曜から学校始まるわ。佑真のとこは?」
「俺のとこも一緒やな……」
やはりおかしい。佑真はこんなにもじもじとした態度を取る男ではない。氷だけが入ったグラスを両手で抱えてる姿は、どこか可愛げがあるように見える。咲良はコーラを飲み干すと、図体はデカく、いかにも強そうだけど、乙女のようにこちらの出方を伺う幼馴染のために、手を差し伸べてやることにした。
「佑真、なんか困っとるんやろ?」
前置きはなしで、ストレートをど真ん中に投げ込んでやった。「なんで分かったんや」と言わんばかりに、佑真の目が五割り増しで大きく見開かれる。多分、佑真にポーカーは向かないだろう。
「金貸してくれ、ってのは勘弁してな。ってのは冗談で、なにがあったか言ってみ」
優位に立つ、というのは気持ちがいい。その相手が、普段なら絶対に勝てない腕っぷしのいい強者ならなおさらだ。
「なんで分かったんや、と思ったけど、バレバレか。でもおかげでやっぱりこんなこと頼めるのは、サクしかおらんって思ったわ」
「なんとなく頼みごとの方向性が分かる気がするんやけど……気のせいやろか」
「いや、多分気のせいやない。サク、最近探偵みたいなことしとるやろ?噂はいろいろ聞いとるで」
探偵の真似事――。咲良はここ数ヶ月の奇妙な事件とも呼べない事件を振り返った。クラスメートの頼みで浮気調査をしてみたり、先輩の不登校の理由を調べたり、探偵と言うよりかは、何でも屋と言った方が正しいかもしれない。将棋部なのに将棋は指さず、尾行ばかりをしている。よくよく考えればおかしな話だ。それにしても――まさか他校の生徒である佑真の耳にまで入っているとは驚きだ。
「探偵、っていうほど大袈裟なもんでもないけどな。ただひたすら尾行するだけの地味な仕事やし」
「いや、頼みたいのはずばり、その尾行なんや」
「まぁそういうことやろと思ったけど。え、なに?浮気調査してほしいってこと?」
中学以来の友人が困っているとあれば、出来るだけ力になってやりたいとは思うが、それにしても浮気調査は気が乗らない。だいたい、調査を人に頼む時点で多分相手は本当に浮気しているのだろう。まだまだ恋愛に純粋な理想を抱きたい咲良にとって、そういうドロドロとした負の面を目の当たりにするのはなるべく避けたいところだった。まだ運命の人にも出会っていないのに、このままでは恋愛恐怖症になってしまう。
「浮気調査とは違う。ストーカーの正体を調べてほしいんや」
「ストーカー?佑真、ストーキングされてるん?」
そう言えば佑真は、ボクシングか何かで割と有名だったことを思い出した。格闘技の才能を持つ、高身長のイケメン。そりゃモテるだろうな。ただストーカーとなると話は難しい。自分のような高校生が変に絡むよりも、警察に正式に話す方がいいのではないだろうか。
「違う違う。俺にストーカーなんておらん。俺の先輩なんやけど……」
佑真によると、ストーカー被害にあっているのではないか、と思われるのは、同じバイト先で働く、藤川陽菜乃、二十歳。咲良たちが住む山科区は、京都市の東の果てにある、魔境とも称される辺鄙な町だが、実は大学が二つもある。さすが大学生の町、京都市だ。藤川はその二つの大学のうちの一つ、楠大学の看護学科に通う大学生で、富山か石川か、北陸地方出身のため、大宅の学生向けアパートで一人暮らしをしているらしい。
三週間ほど前から、バイト終わりの帰宅時に、誰かに尾けられているような気がする、と思うようになったそうだ。
「佑真って何のバイトしてたっけ?」
「ピザ屋。椥辻にあるデラックスピザってとこ」
デラデラデラックス〜のテレビCMでお馴染みの、有名宅配ピザ屋だ。もちろん咲良も頼んだことがある。
「へぇ、デラピで働いてるんや。あっこのピザ、うまいな」
「無事に解決してくれたらピザくらいなんぼでも奢ったる。それに金もしっかり払うからな」
佑真は何気なく言ったつもりだったのだろう。そこに悪気がないのはもちろん分かっている。ただ、だからと言って簡単に見過ごせる話ではなかった。
「そんなつもりで言うてへん。俺のことどう聞いてるか知らんけど、探偵ごっこで俺は報酬なんてもらったことない。というかそれ以前に……」
咲良にとって佑真という男は、間違いなく友だちだ。中学の時から、平々凡々な自分と、どこからどう見てもヤンキーな佑真とはなぜかウマが合った。生憎、非行の道は選ばなかったが、それでも二人でしょっちゅう遊んでいたし、助けたり、助けられたりなんて当たり前だったはずだ。
「なんで困ってる友だちを助けるのに金貰わなあかんねん。佑真にとって俺が、金を払って助けてもらうっていう存在なんやったら今回の話はなかったことにしてくれ」
カチャカチャとカトラリーが触れ合う音が聞こえる。食事を楽しむ人たちのがやがやとした声が聞こえる。それなのに、咲良と佑真のいるテーブルの上には沈黙が流れている。
どれくらいそうしていたのだろう。咲良は、真剣な眼差しで佑真の目を見つめ続けた。ふっ、と佑真の笑った声が、テーブルの上の凍った空気を溶かしてくれた。
「悪かった。前から思ってたけど、俺、サクには絶対喧嘩勝てへんわ。多分どんだけ殴ってもさくは負けへん。そやから一緒におれるんやと思う」
そう言うと町一番のワルと言っても過言ではない男は、咲良に向かって頭を下げた。
「改めて頼む。友人として助けてほしい」
咲良はそんな佑真を見て微笑んだ。貸し借りのない関係というのは、もしかしたらそれだけで財産なのかもしれない。
「分かればよろしい。面を上げなさい」
顔を上げた佑真の顔もまた、優しい笑みが浮かんでいた。蕩けそうなくらい甘いスマイル。自分がもしも女なら、この笑顔に惚れてしまうかもしれない。佑真は間違いなくいい男だ。
「まぁ、どうしても、と言うなら、ピザの一枚くらいは奢られてやってもいいんよ」
テーブルの上を、二人の笑い声が包み込んだ。
「そやけど、もしほんまにストーカー被害に合ってるんやったら、早めに警察に相談した方がいいんちゃう?」
「それはそうやねんけどな。陽菜乃さんからすると、特に何かされたわけでもないし、尾けられてる、っていうのも気のせいかもしれんしってことでな」
二人の前にはそれぞれドリンクバーで入れてきたコーラが置いてある。正式に依頼を受けたからには、もう少し詳しく話は聞かなければならない。
「俺は高校生やから十時までしか働けへんけど、陽菜乃さんは普通にラストまで入ってはる。そうなると、帰るのが十二時とかになるんや。デラピの場所分かる?」
佑真が教えてくれたデラックスピザ山科椥辻店の場所は、外環状線から一本東に入った通りで、咲良の記憶ではその辺りは住宅街だった気がする。
「そうそう。住宅街。陽菜乃さんのアパートは店から歩いて十分くらいなんやけど、まぁ暗いんよね。そら女の子一人やと怖いやろな、て思うわ」
「尾けられてる、って実際どんな感じなんかな?視線を感じるとかそういうこと?」
「いや、一番は足音なんやと。後ろを歩く足音が聞こえる。自分が止まると、その足音も止まる」
明かりは等間隔で並ぶ街灯だけの暗い夜道を歩く。家まではたった十分。目を瞑っても歩けるほど慣れた道だ。今日も疲れたな、帰ったらとりあえずシャワーを浴びてもう寝よう、そんなことを考えていると、ふと自分の足音に重なるように、別の足音が聞こえてくる気がする。あれ?気のせいかな?そう思って、立ち止まると、辺りは真夜中の静寂に包まれている。よかった、やっぱり気のせいみたいだ。そう思って再び歩き出すと、また足音が重なって聞こえる。立ち止まると、その音はぴたりと止む。手が、足が震える。後ろを振り向きたくても、怖くて振り返ることが出来ない――。
想像してみるとかなりのホラーだ。男である自分でも、正直耐えられそうにない。これが二十歳の女子大生となると、怖さも一入だろう。
「なんか……ちょっと寒くなってきたかも」
夏の終わりとは言え、まだまだ暑さは嫌になるほど残っているはずなのに、リアルに想像してしまったせいで、体が震えてしまった。
中座し、ドリンクバーでホットコーヒーを取りに行った。佑真にも何かいるか?と聞いたが、彼はコーラでいいらしい。体だけでなく、心もタフなようだ。
それにしても――。ブレンドのボタンを押し、コーヒーが抽出される数秒間で考えてみる。もし、陽菜乃さんの話が気のせいではなく、本当だった場合、やはりどう考えても自分たちの手に追える範疇を越えているのではないだろうか。正体を掴むこと自体はそれほど大変ではないはずだ。要は自分たちが陽菜乃さんのストーカーのように、見張っていればいいわけだから。
それよりも、その後のことが心配になる。そんな異常な行動を取る男だ。ストーキングの証拠を突き付けて、次にやったら警察に駆け込むぞ、と言ったところで、どんな行動に出るか分からない。それに、佑真のことも。彼は強い。単純な腕っぷしならそれこそ、山科一と言えるだろう。格闘技まで身につけている。彼ならストーカーに制裁を食らわせる、という判断を下しかねない。いくら正義がこちらにあったとしても、暴行は暴行だ。友人を暴行犯にするわけにはいかない。
依頼を受けることは決めているが、かなり慎重にことは進めなければならない。
「ごめん、お待たせ」
席に戻ると佑真は窓の外をぼんやりと眺めていた。こういう時にスマートフォンを弄って時間を潰さないのが佑真らしいな、と思った。黄昏るように窓の外に視線を向ける佑真は、はっきり言って画になる。昨日、染め上げたばかりらしい金色の髪は、いかにもヤンキー然としているはずなのに、なぜか下品に見えないのは、やはり顔がいいからだろうか。というか、夏休みももうすぐ終わる時期に髪を黒から金色に染めるとは、ヤンキーの考えていることはよく分からない。
コーヒーを自分の前に、コーラを佑真の前に置きながら、咲良はずっと気になっていたことを尋ねた。
「依頼内容は分かったし、さっそく明日からでも動こうと思ってる。でもその前に二つ、確認させてほしい」
コーラに対する礼を告げた後、佑真はなんでも聞いてくれ、と言った。
「まず一つ目。陽菜乃さんがほんまにストーカー被害に合ってたとして、そいつの正体を俺らが掴む。そのあと、佑真はどうしたいんや?」
咲良の問いに佑真はたっぷり数秒間、考え込んだあと、答えを捻り出した。口から無理やり声を押し出したように。
「……分からん。正直、陽菜乃さんの話を聞いた時は、そのストーカー野郎をボコボコにしてやろうと思ったんや」
佑真の目に静かな炎が灯っているのが分かった。本当にキレてる時の彼の目だ。以前にも何度か見たことがある目だが、その目に少し戸惑いの色も見え隠れしている。
「それで何度か陽菜乃さん一緒に帰ったりもしてるんやけど、運がいいのか悪いのか、そういう日に限ってストーカー野郎は現れへん。でも今思ったらそれはそれでよかったんかもしれん」
佑真は答えが分からない試験と向き合っているように、真剣に悩んでいるのだろう。彼自身、自分の気持ちに整理が付いていないのだ。その理由も、なんとなく分かった気がした。咲良は何も言わず、佑真の言葉の続きを待った。
「……陽菜乃さん、ほんまに優しい人やねん。例えストーカーが相手やとしても、傷付けばいいなんて思わらへんはずや。だから……」
自分の気持ちだけを押し通すだけではなく、そこに関わる人の気持ちも考える。この時点で佑真に確認したいもう一つの問いは聞かずとも答えに確信が持てた。
「すまん。どうしたらいいかも含めて、助けてほしい」
答えは出せていない。試験ならゼロ点かもしれない。それでも佑真が自分の心と向き合って出したそのSOSは、咲良にとっては百点満点だった。
「オーケー!それも踏まえてどう動くか、詰めていこ。その前に、これはもう聞かんでもええかもやけど、さっき言ってた確認したいことのもう一つ…」
たっぷりと時間を掛けてやる。こういう機会でもないと、佑真相手に優位に立てる機会はそうそうない。
「佑真、陽菜乃さんのこと好きやろ?」
二つ目の質問に佑真は答えなかったが、口を真一文字に噤む姿を見て改めて思った。やっぱり佑真はポーカーには向いてない。
「佑真くんってあの工業の……ゴリゴリヤンキーの人やんな?」
コンビニで買ったサンドイッチを頬張りながら松ヶ崎が言った。以前、浮気調査もどきの依頼を受けた際、対象の尾行中に咲良と松ヶ崎はヤンキーに絡まれ、窮地へと陥ったことがある。その時たまたま通りかかった佑真が話をつけてくれたので、松ヶ崎は佑真と面識があるのだ。
「そうそう。そっちの世界では割と有名人みたいやね」
「まぁあの時も、佑真くんの鶴の一声で助かったからな。そっか、その佑真くんが、恋に悩んでる、と」
「恋の悩みは別件やけどな。とりあえず依頼としては、ストーカーの正体を暴くこと。それと対処法やな」
佑真から依頼を受けた翌日、八月二十六日の火曜日に、さっそく咲良は相棒であるもう一人の将棋部員、松ヶ崎に連絡を取った。普段一緒にいる松ヶ崎とも、何気に少し久し振りだ。二週間ほど会わないうちに、松ヶ崎はこんがりと日焼けして、夏を満喫している青年に見えた。もしかして、一夏のアバンチュールでもあったのか?と少し焦ったが、お盆の一週間にがっつり海の近くにある母方の祖母宅に帰省していたそうだ。周りには海しかないので、毎日一人で海で遊んでいたらしい。それでこそ松ヶ崎だ。自分を差し置いて色気のある夏を過ごすなんてことは断じてあってはならない。
当然、松ヶ崎には事情をすべて説明することは佑真も承諾済みだった。近い内に直接、松ヶ崎にも会いたい、とは言っていたが、生憎この日はどうしても外せない用事があるそうだ。ボクシング関係で忙しいらしい。
というわけでとりあえず松ヶ崎と二人で近くのコンビニで作戦会議を開くことにした。
「それにしても俺もそろそろバイトくらいしなあかんよな。舞さんも部活引退してバイト始めたしなぁ」
松ヶ崎は絶賛、元ソフトテニス部員の芦屋舞に片思い中だ。最近やっと二人きりでもまともに話せるようになった、と喜んでいたので、その恋の進捗具合は亀の歩みよりも遅い。とは言え佑真も松ヶ崎も、高校生らしく恋に燃えているわけだ。どうして自分には浮いた話が一つもないのだろう。
恋愛経験がほぼ皆無の咲良にとって、佑真の恋の相談には乗ってやることは出来ないが、それでも彼の恋が実ればいいな、と思っている。自分たちが今回の事件を無事に解決出来れば、佑真の恋も大きく前進するかもしれない。その思いからいつも以上にやる気が出て来たのは間違いない。
「佑真からは陽菜乃さんのシフトと、それから写真も貰ってるから、マツにも送っとくわ」
スマートフォンを操作し、LINEでシフト表と写真を松ヶ崎に共有した。バイト先で撮ったであろう佑真と陽菜乃のツーショット写真。これで見る限り、陽菜乃はかなりの美人だ。いかにも女子大生のお姉さん、といった感じで、バイト先のユニフォームとエプロン姿なのに、なぜかおしゃれなんだろうな、ということまで伝わって来る。茶色の髪は下品ではないちょうどいい塩梅の明るさで、垂れ目がちな大きな目からは、柔和な印象を受ける。控えめ目に微笑んでいる口元も合わさって、佑真の言う通り、優しい人なんだろうな、と思える人物像だった。
シフト表を拡大し、藤川陽菜乃のスケジュールを確認した松ヶ崎は「結構忙しそうにしてはるな」と感想を漏らした。
「夏休みやからな。看護学生って何かとお金がかかるみたいで、稼げる時に稼がなきゃ、って感じらしい。さっそく今夜から調査開始しようと思ってるんやけど、大丈夫?」
「予定的には全然大丈夫。やねんけど、これ終わる時間が午後十一時半やろ?警察に見つからんようにしなあかんな」
松ヶ崎の言う通り、今回の依頼に関して、一番の障壁は警察という国家権力かもしれない。なんせそんな時間に高校生は出歩いてはいけないのだ。見つかれば声を掛けられることは間違いないだろう。なるべく大人ぽい格好で調査にあたらなければならない。
さっそく今夜から動き始めるにあたって、さらに細かい情報を松ヶ崎に説明した。
陽菜乃が足音に気付いたのが約三週間前。正確な日時は覚えていないが、八月に入るか入らないかくらいのことだそうだ。最初は気のせいかな、と思い、バイト先でも雑談程度に話していたが、バイト帰りに毎回、同じように足音が聞こえてくる。そこで真剣に怖くなってきたとまたバイト仲間に相談した結果、佑真が一緒に帰るようになったのが二週間前。これは正確な日も分かっている。八月の十三日から十七日までの五日間。お盆の繁忙期に二人とも働き詰めだったそうで、佑真は自分の勤務時間を終えた後、陽菜乃が上がるのを待って自宅まで送り届けたが、足音は一切聞こえなかった。翌週、十八日からの一週間では、陽菜乃自身が不確かなことに佑真を付き合わせることに申し訳なさを覚えて、ボディガードも断ったらしい。佑真は気にしないでくれ、と言ったが頑として首を縦に振らなかった、と聞いている。このあたりの陽菜乃の心理は簡単に想像できる。藤川陽菜乃はある程度の常識は持ち合わせていると考えてよさそうだ。
その週の彼女のシフトは月、火、金、土、日の五日。なんと前週は一度も現れなかったストーカーが、行動を再開したそうだ。明らかに自分についてくる足音。彼女はその日、初めて自宅まで走って帰ったらしい。それを翌日バイト先で聞いた佑真は憤り、有無を言わせず火曜日に再び、彼女を送り届けることにした。火曜日と土曜日は、佑真もシフトに入っていたが、金曜日にはわざわざ陽菜乃のバイト終わりの時間に合わせて、一緒に帰ったが、やはり佑真と一緒に帰る日にはストーカーは現れなかった。そして一昨日の日曜日。佑真は用事があってどうしてもバイト先に寄れなかったのだが、陽菜乃が一人で帰路に着くと、また足音が聞こえた。
「それでサクに助けを求めたんやな。まぁ佑真くんみたいないかつい男がボディガードしてるってなったら、そらストーカーもビビって近寄らんわな」
「まぁそうやな……」
お盆に現れなかった理由は帰省か何かだろうか。ストーカーが異常者であろうと、人間である以上、自分の生活もある。毎日、人を尾け回すほどの暇はなくても不思議ではない。それに佑真は知らない人が見ても、近寄り難い雰囲気が滲み出ている。なんせ一八〇センチオーバーな上に、Tシャツの上からでも鍛え抜かれた体が分かるほどにいかつい。自分がストーカーならあんな猟犬のような男が側にいると分かれば近寄らない。
とにかく、今夜の陽菜乃は佑真というボディガード不在での帰宅になる。ストーカーにおあつらえむきだと言えるだろう。もしかしたら調査初日に尻尾を掴める可能性だって充分にある。まだ夜には程遠い、昼の一時だったが、咲良は自分の神経が研ぎ澄まされていく感覚を覚えた。
「それで?おれたちはいつその藤川陽菜乃さんに会えばいいんや?」
サンドイッチをすっかり食べ終わり、アイスコーヒーで喉を潤わせた松ヶ崎が目を輝かせながら咲良に問い掛けた。舞という片思い相手がいても、やはり美女とお近付きになりたいという欲求には抗えないようだ。無事に事件が解決したら、舞にも告げ口してやろう。
「いや、佑真にも納得してもらったけど、今回は陽菜乃さんには内緒で動こうと思ってる」
「はぁ?なんでや?それやと下手したら俺らがストーカー野郎と間違えられるかもしれんで?」
「まぁそれはそうやねんけどな。まず俺らが実はストーカーを見張ってるって分かると、陽菜乃さんがいつも通りに振る舞えへんくなるかもしれん。その違和感をヤツが嗅ぎ取って、ストーキングを中断するなんてことになったら、いつまで経っても尻尾が掴めへんくなるやろ」
ボディガードがいなくても、陽菜乃が安心して油断した表情で帰ると、犯人も『陽菜乃は誰かに見守られてるのではないか?』と勘づく可能性もある。最悪の場合、そこからストーカーに自分たちの存在がバレてしまうことだってあり得るかもしれない。
「まぁ言われてみればたしかにな。簡単な仕事やと思ってたけど、急に難しく感じて来たな。俺らは陽菜乃さんを尾行するストーカーを尾行するわけやけど、俺らの足音で陽菜乃さんを怖がらせへんように気を付けなあかんわけや」
「そういうことや。ただ基本的にはストーカー野郎は陽菜乃さんの後ろを尾けるはずやから、俺らは陽菜乃さんからかなり離れた位置を歩くことになる。多分足音は陽菜乃さんまで届かんやろ」
ストーカー野郎が陽菜乃の十メートル後を歩くなら、咲良たちは陽菜乃の二十メートル後ろを尾ける。ヤツが現れなければ陽菜乃に近付く必要はない。
「なるほどな。それで?もう一つの理由は?」
「もう一つの理由?」
「さっき、まずは、って言ってたやろ?陽菜乃さんに俺らの存在を教えへん理由」
「ああ……」
理由はほかにあるわけではなかった。ただなんとなく、あまり自分たちの存在を知っている人数は最小限に抑えた方がいいと思ったのだ。
「ふーん、なんとなく、か。まぁサクのなんとなくってなんとなく当たってそうやもんな」
「佑真もまったく同じこと言うてた。なんとなくがなんとなく信じられる、って」
何度か探偵の真似事をしているうちに、探偵の勘のようなものが付いてきているのだろうか。
「とは言え!無事に事件が解決できたらもちろん俺らのことも陽菜乃さんに紹介する、とは言うてくれてるからな」
そう言うと松ヶ崎の目がキラキラと輝き出した。分かりやすいヤツだ。ポーカーが向かない男がここにも一人いた。
『今夜からさっそく調査する。また何かあったらすぐ連絡する』
松ヶ崎と一旦別れたあと、咲良は家に帰り、仮眠を取ることにした。普段でも咲良は夜行性だ。深夜三時までだって平気で起きている。それでも仕事となると話は別だ。特に今回は陽菜乃に気付かれず、ストーカーに気付かれず、それから警察にも気付かれずにことを進めなければならない。睡眠不足は判断力にとって一番の天敵だ。仮眠の前に佑真にLINEを送っておいた。
自分の部屋のベッドに横になりあれこれと考えてみる。好きになった女子の後を尾ける男に、好きな女子を守るために休みの日にも関わらず家まで送る佑真。
咲良も人並みに人を好きになったことはあるが、それほどまでに誰かのために情熱を燃やしたことはなかった。もちろん好きだからと言って、勝手に後ろを付き纏うのは絶対に間違っている。ただ、そんな風に間違っているとは分かっていても、そんな行動を取ってしまうほどに人を好きになる、という気持ちに憧れのような感情も抱いている自分がいた。いつか自分もそんな風に真剣に誰かを好きになる日が来るのだろうか。
そんなことを考えていたらいつの間にか心地よい微睡みが、咲良をゆっくりと夢の世界へと連れ去っていった。
灼熱としか言いようがない昼間と違い、さすがにこの時間になると、暑さも耐えられないレベルではない。とは言え暑いことは暑い。自分の体にぬるいスライムが纏っているような居心地の悪さを感じる。
三時間しっかり仮眠を取り、夕飯を自宅で済ませた咲良は「松ヶ崎の家に泊まりに行く」と言い、午後八時に家を出た。普段から朝は弱く、遅刻はしょっちゅうだが、決して非行少年ではない真面目な高校生なので、親も何ら心配することなくいってらっしゃい、と咲良を送り出した。何ごとも普段からの行いだ。
松ヶ崎は松ヶ崎で、咲良の家に泊まる、と言って出て来ている。当然、尾行後にどちらかの家に行くわけには行かないので、こっそりと佑真の家に泊めてもらう手筈になっていた。今が夏休みでよかった。さすがにこの動きは学校が始まってしまえば出来ない。反対に言えば、今週ストーカー野郎が何らかの理由でストーキング行為を再開しなければ、佑真には申し訳ないが今回の調査は諦めてもらうしかない。
「もうすぐ十時やけど、陽菜乃さんのバイトが終わるまで、二時間くらいはどっかで時間潰さなあかんな」
陽菜乃のバイト終わりまで、マクドナルドで時間を潰そうと思っていた咲良は、松ヶ崎のそのひと言で、とんでもないミスに気付かされた。高校生である自分たちは飲食店も夜の十時までしか利用することは出来ない。
こんなことなら集合時間をもっと遅めにすればよかったと、文句を言いながらデラックスピザ山科椥辻店の近くの公園へと移動した。陽菜乃のシフトは午後十一時半までだが、念の為、十一時には店が見える位置についておく予定だ。
公園までの移動の道すがら、デラックスピザの前を通ると、しっかり働いている陽菜乃の姿が確認出来た。幸いなことにデラックスピザ山科椥辻店は、店舗が全面ガラス張りになっているので、外からも簡単に店の中を見ることが出来る。店の中には陽菜乃ともう一人、女子大生風の女の子がピザを作っていた。じろじろと見ると怪しまれるので、ちらっと見ただけだったが、もう一人の女の子もかなりかわいいのではないだろうか。
オーブンを挟んで店舗の右側では男が焼き上がったピザをカットしていた。こんな時間でもなかなかに店は忙しそうだ。佑真いわく、陽菜乃のようにピザを作るスタッフはメイク、佑真のようにピザを配達スタッフはデリと呼ばれているらしい。ピザをカットしている男はデリなのだろう。この後、カットしたピザをバイクで運ぶ。佑真は宅配は楽で面白い、と言っていた。バイクで客の家までピザを運んで店に戻ると、それだけで三十分働いたことになる。それにもともとバイクが好きな人なら、ただ町をバイクで走るのが楽しいのだそうだ。咲良は昨夜、どっきりピンキーから大きなバイクに乗って帰る佑真の姿を思い出した。バイクを趣味にするのもいいかもしれない。問題はバイクを買うようなまとまった金など、まったく入る予定がない、ということだ。
十一時になり、二人は店の前へと移動した。気を付けなけらばならないのは、この時点で既にストーカーが陽菜乃を狙って待機しているかもしれない、ということだ。
松ヶ崎とおしゃべりしながら歩く大学生を装い、平然と店の前を通り過ぎ、そのまま五十メートルほど進むと出て来るスーパーの駐車場に一旦入った。
「ストーカー野郎はまだおらんみたいやな」
「そうやな、電柱の影とか、マンションの隙間とか、かなり注意して見たけど、怪しいやつどころか、人一人おらんかったわ」
大通りと近いとは言え、一本逸れたこの時間の住宅街なんてそんなものだろう。二人で話し合った結果、咲良はこのまま駐車場で、松ヶ崎は店を通り越した先にあるコンビニで待機することにした。陽菜乃のアパートは佑真から事前に聞いている。普通に考えれば、彼女は店を出たあと、左に曲がり松ヶ崎の待つコンビニの前を通って帰るはずだ。そして、ストーカーは咲良のいる方から現れる可能性が高い。通りが直線になっているおかげで、咲良からも何とかピザ屋から人が出入りするくらいは視認出来た。陽菜乃らしき女性が店を出て来たら松ヶ崎に連絡をすることになっている。閉店したスーパーの広い駐車場は暗く、下手をするとヤンキーたちの溜まり場になりそうな雰囲気があるが、ちょうど駐車場の前で道は左に曲がり、その先に外環状線の交差点があるので、時折、車のヘッドライトの光が少し届く。それがもしかしたらヤンキー避けの効果を発揮しているのかもしれない。
ちらほらと目の前の道を歩く人はいるが、そのどれもがとてもストーカーとは思えない人たちだった。普通のおばちゃんに、普通のおっさん。女子大生風の二人組の女の子もいた。普通に見えて、おっさんがストーカーの可能性も断然ありえる。人が通るたびに松ヶ崎にも報告をするが、全員がコンビニの前を通り過ぎ、そのまま住宅街へと消えていったようだ。
そのまま四十分ほど見張りながら過ごしていると、ピザ屋の扉が開き、中から人が出て来るのが見えた。暗くて遠いのではっきりとは分からないが、女性のように見える。
『今ピザ屋から誰か出て来た』
松ヶ崎にLINEを送ると同時に、警戒レベルを上げる。電柱の影、マンションの隙間、どこかに潜んでいる人物はいないか――。
『OK』
短い返事が来たと思ったらさらに連投でメッセージが送られて来た。
『コンビニに入った。陽菜乃さんともう一人。多分ピザ作ってたもう片方の人』
『とりあえず俺もそっち向かう』
送りながら歩く。歩きながら警戒する。怪しい人影は今のところ見当たらない。コンビニの大きな看板を見た時にふと思った。今の松ヶ崎のようにコンビニで待機しているのではないだろうか。普通に考えれば陽菜乃はコンビニの前を通って帰る。客を装えば怪しまれることなく彼女を待つことが出来る。
ただやってみれば分かるが、コンビニでいつ来るか分からない相手を待つというのはなかなか精神的にキツい。立ち読みする振りはしつつ、視線はずっとガラスの向こうに張り付けなければならない。咲良もイートインスペースのあるコンビニならまだしも、そうでない店で張り込みはやらない。ある程度、バイトが終わる時間を予想すればそれほど待たなければならないわけではないが、それでもかなりキツい。異常な執念があればそれも可能なのだろうか。
『陽菜乃さんが出てきたから尾行開始。女の人と一緒にコンビニに入った。陽菜乃さんと一緒にピザ作ってたバイトの人』
佑真にも連絡を入れておく。コンビニの駐車場で松ヶ崎が電話をしている振りをしながら店内を見張っていた。松ヶ崎のことを知っている咲良でさえ、彼が普通にそこで電話をしている若者にしか見えなかった。彼ほど探偵に向いている男はほかにいないかもしれない。人の輪や、風景に驚くくらい自然に溶け込むのだ。
『俺は客の振りしてコンビニに入るからそのまま外で見張ってて』
尾行対象に近付き過ぎるのはリスキーではあるが、咲良は直接、藤川陽菜乃を見てみたかった。どんな喋り方なのか。どんなことに興味を持っているのか。友だちと二人で買い物をしているところを見れば、藤川陽菜乃の人と形が少しでも分かるかもしれない。
松ヶ崎を横目に、コンビニの扉を開けて店内へと入った。エアコンの冷気が漂っていて、癒やされる。都会のオアシスとはよく言ったものだ。
二人はお菓子コーナーの前にいた。やはりもう一人の女性は先ほど、ピザ屋で陽菜乃の隣でピザを作っていた女性だった。女性にしては身長がかなり高く、一七〇センチくらいはありそうだ。黒いロングヘアに切れ長の目は、知性的でエキゾチックな魅力を感じる。どちらかと言えば小柄で、垂れ目がちな陽菜乃とは正反対の、正統派美女という印象だ。欧米人にモテそうだな、と思った。
もちろん陽菜乃も相当な美人なので、対照的な二人だが違和感はない。「美女」というカテゴリーで括られているようなものだ。
また二人は服装も似通っていた。頭にはベースボールキャップ。陽菜乃は茶色に黄色い文字でSDと刺繍されたサンディエゴ・パドルス、もう一人の女性は黒に白でNYと刺繍されたニューヨーク・ヤンキースの帽子を被っている。
無地で小さめのTシャツは陽菜乃が白で、もう一人が黒。ダボッとした灰色のスウェットパンツと、白いスニーカーは二人とも同色だ。陽菜乃はナイキのエアフォース1を、もう一人はフィラのバスケットシューズを履いている。どう見ても本気の服装ではなく、日常用のラフなスタイルなのに、着こなし方がいいのか、半端なくオシャレに見える。色違いで同じような格好なので、二人組のダンスユニットの衣装のようだ。
山科の深夜のコンビニに、オシャレな美女二人組は圧倒的な華やかさを放っていた。
「陽菜乃、絶対食べられへんって。新発売って見たらすぐ欲しがるけど、それ辛いやつやで?」
「食べられるよ!美味しそうだし」
「前もそう言って結局私が食べさせられたんですけど?」
そんな会話をしながら、もう一人の女性が右手に持ったカゴにお菓子を放り込んだ。カゴの中には数本のアルコール飲料と、たくさんのお菓子が入れられている。いわゆる宅飲みというやつだろうか。
『今二人レジにいる。出てきたらある程度距離取ってついてってくれ。俺はその後ろから追いかける』
松ヶ崎にメッセージを送ると、そのタイミングで佑真からメッセージが届いた。
『多分玲奈さんやわ。ちょっと確認する』
もう一人の女性は玲奈というらしい。咲良はレジの前のアイスクリームのショーケースを見る振りをしながら、陽菜乃と玲奈の会話に耳を傾けていた。
「あ、佑真くんから」
「なんて?」
「今日は無事に帰れましたか?って。なんかあったら言うてください、やって」
「マメやなぁ。今日は私がいるから安心しろ!って返しといて。佑真ってヤンキーなんか真面目なんか分からんな」
さっそく佑真は陽菜乃にLINEしてくれたようだ。二人の美女はLサイズのビニール袋二つにたっぷりと詰め込まれた商品をそれぞれ一つずつ持って、コンビニを出て行った。
『今出た。注意してついてって』
松ヶ崎にメッセージを送りながらドリンクのショーケースから炭酸飲料を二本取り出し、レジに向かおうとして、追加で一本、コーラのペットボトルを取り出した。依頼主ではあるが、一宿の礼にコーラを買ってやろう。
袋代がもったいないので、鞄に三本のペットボトルを入れて、咲良もコンビニを出た。左手の道を見やると、豆粒ほどの大きさの松ヶ崎が見える。それ以外に歩いている人はいない。今夜はストーカーも休みなのかもしれない。ふとそんな考えがよぎった時、スマートフォンが振動した。佑真からのLINEの通知だった。
『やっぱり玲奈さんやった。今日は二人で陽菜乃さんの家でお泊り会するらしい』
『了解。今のところ怪しい男は現れてない。家まで見届けたら佑真の家に向かう。よろしく』
「というわけで今夜は空振り。ストーカー野郎は現れへんかったわ」
ペットボトルは蓋を開けると、ブシュッ、という小気味良い音を立てた。松ヶ崎によると結局、あの二人は何の問題もなく、アパートへと辿り着き、二階の東側の角部屋、陽菜乃の部屋へと消えていった。念の為にアパートの見える位置から十分ほど二人で怪しい男が通らないか、見張っていたが、男どころか一人も道を歩く人はいなかった。深夜の住宅街であることを考えたら、それは普通のことで、むしろ咲良と松ヶ崎の二人が不審者と思われてもおかしくはなかった。
「ありがと。改めてめんどくさいこと頼んでごめんな」
そう言いながら佑真はコーラのペットボトルを二人に向けて掲げた。乾杯のつもりだろう。三人で「お疲れ様」と言いながらペットボトルをぶつけ合った。
佑真の家は久し振りだったが、中学の時とかなり様子が変わっていた。ものがあまりなく、ミニマリストの部屋、という感じだ。パイプベッドの前にはローテーブルがあり、その上ではお香が焚かれている。バニラのようないい香りが部屋中に漂っている。同じ高校生の部屋とは思えなかった。ベッドの下に不釣り合いなダンベルが置いてあり、ここは佑真の部屋だ、と主張してくれているようだった。五段の本棚は綺麗に整理されていて、上段二段は漫画本がぎっちり詰まっている。三段目には時計やアニメのフィギュアが並べられていて、下の二段には文庫本が並べられている。意外や意外、佑真は読書もするようだ。ヤンキーっていったいなんなんだろう、と咲良は自分の認識とのズレを感じた。
「一回会ったことあるけど、松ヶ崎くんやんな。小松佑真です。協力してくれてありがとう」
「マツって呼んでくれたらええよ。こちらこそ前はヤバい時に助けてもらってありがとう。あん時はほんまに、終わったって思ったしな。佑真くんが輝いて見えたわ」
ほぼ初対面にも関わらず、松ヶ崎はすらすらと佑真と話し始めた。以前、助けてもらったことの礼から始まり、ボクシングの話から、漫画の話と、ぽんぽんと話題を出し、盛り上げる。佑真もすぐに「マツ」と呼ぶようになり、三人で雑談で盛り上がった。
気が付けば二時を回っている。
「そろそろ今夜のことを正式に報告しようか。まずさっきも言ったけど、ストーカー野郎は現れんかった。位置的に陽菜乃さんたちの後ろ三十メートルほど離れて松ヶ崎が、そのさらに二十メートル後ろを俺が歩いてたんやけど、俺らのほかには誰も歩いてるヤツはおらんかった。一応後ろも確認してたけど、そもそも俺より後ろを歩いてたら陽菜乃さんらが見えへん距離になる。というか俺からも陽菜乃さんはほとんど見えへんかった」
「陽菜乃さんからもLINEで今日は足音聞こえへんかった、って来てるわ」
どうやら自分たちの存在もバレていないようだ。ただ足音が聞こえなかったとなると、普段ストーカー野郎はかなり陽菜乃の近くを歩いていることになるのか?それとも今夜は玲奈との会話に夢中で、松ヶ崎の足音に気付かなかっただけなのだろうか。
「佑真くんが一緒に帰る時も現れへんにゃろ?誰かが一緒やと分かったら中断するんかな?」
「それやねんけど……」
咲良は自分が感じた違和感を二人に向かって説明した。たしかに松ヶ崎の言う通り、陽菜乃が誰かと一緒だと分かれば、ストーキングを中断する、というのは理にかなっている。相手が女性一人なら気付かれても、何とでも出来る。実際、陽菜乃も足音には気付いているが、振り返ることすら出来ないほど、怖がっているし、せいぜい走って逃げるくらいしか出来ていない。それが二人になれば、佑真のようなマッチョマンはもちろん、女性であっても強気な行動に出られる恐れはあるだろう。そういう意味では今夜、ヤツがストーキングをしなかったのも納得なのだが。
「ただ今夜、俺らはかなり早い時間からピザ屋を見張っていた。陽菜乃さんが店から出て来る時点で、周りに怪しいヤツはおらんかったんや。そうなると、ストーカー野郎はいつ、中断を決めたんや、ってことになる」
「なるほど……。たしかにそれはおかしいな。ほな今日現れへんかったんは、ほかに理由があるかもしれんのか」
ダンベルを持ち上げながら佑真が言った。考えごとをする時には、筋肉を鍛える習慣でもあるのだろうか。
「たまたま、とか?そうなると明日からも来るか来やんか分からん感じか」
「まぁどちらにせよ、尻尾掴めるまでは張り込みはするんやけど……。もっかい、分かってる限りでストーカー野郎が現れた日と、そうでない日をまとめてみようか」
八月の十三日から十七日、佑真が一緒に帰った五日間、ストーカーは現れなかった。翌、十八日の月曜日に現れ、そこから二十三日の土曜日まで、佑真が一緒に帰った間は沈黙を守り、そして二十四日の日曜日にまた再開。
「あれ?そう言えば昨日はどうやったんや?昨日陽菜乃さん、バイト入ってはったやんな?」
ダンベルを持ち上げる手が止まった。
「……昨日も現れた。昨日はさくと会ってたから仕方ないけど、一緒に帰ればよかったな」
「そうか。気持ちは分かるけど、昨日も言った通り、明日からも佑真は大人しくしといてくれ。佑真が動いてると分かれば、ストーカー野郎は警戒するかもしれんし」
「それは分かってる。かなりストレスやけどな」
一刻も早く犯人を捕まえなければ、佑真がキレるかもしれない――。咲良は知らぬ間に息を呑んでいた。佑真の怒りが肌をちくちくと刺してくるように感じる。
「まとめてみると、佑真が一緒に帰った日は現れへんけど、もう一つ。先週と今週は月曜日は現れて、火曜日は現れてへん。お盆より前のことも知りたいけど、それは難しそうやしな」
「火曜日はストーカー野郎にも何かの予定があるんかもしれんな」
「可能性レベルやけどな。あれこれ考えてても埒があかん。とにかく明日からも引き続き警戒していこ」
そう言いながら咲良は、明日こそストーカーに現れてほしいと思っていた。今週の陽菜乃のシフトは月、火、水、土、日だ。明日を逃せばチャンスは土日の二回だけになる。今週で夏休みは終わってしまうのだ。陽菜乃には申し訳ないが、ストーカーが現れなければ事態が進まない。
「佑真くん、あの玲奈さんって人はどういう人なん?かなりの美人やったけど……」
下心丸出しで松ヶ崎が佑真に尋ねた。美女とお近付きになりたい欲が再び。やはり舞にはチクっておこう。
「安達玲奈さん。陽菜乃さんと同い年やな」
佑真によると、玲奈は楠大学ではなく、市内の鳳山大学に通う大学生で、陽菜乃と違い、山科出身の実家住まい。バイト先で知り合って仲良くなったそうで、休日も一緒に遊びに行ったりもする仲らしい。
「陽菜乃さんとはまた違った感じで、ほんまに美人コンビって感じやんな。彼氏いてはるんかな?」
「いや、彼氏がいるって話は聞いたことないな。まつは玲奈さんみたいな人がタイプなんか?」
「まつは美女やったら誰でもええねん。気にせんとって」
咲良がそうツッコむと松ヶ崎がわーわーと喚いたので、夜の二時を回った深夜だったが、三人で大笑いした。
松ヶ崎は天性の人誑しだ。初対面の人が相手であろうと、すぐに懐に入り込むことができる。そのおかげで今までの事件もかなり助けられたわけだが、それは相手が佑真であっても同様のようだ。
すっかり打ち解けた二人は、堰を切ったかのようにお互いの好きな相手がどれだけ素晴らしいかを力説している。山手線のように舞のいいところ、陽菜乃のいいところが交互に繰り出される。いつの間にか佑真は「自分が陽菜乃を好きだ」という気持ちを顕にしているが、そのことに彼自身も気付いていないようだ。深夜のテンションは怖い。
「まつがそんなに言うから、舞さんにも会ってみたくなったな」
「舞さんはむっちゃかわいいで。それに優しいしな」
「優しさで言ったら陽菜乃さんには負けるやろ。ただあれやな、美人とかかわいいってのも困りもんらしいな」
意味深な佑真の台詞に、一瞬部屋が沈黙に包まれた。
「どういうこと?」
「やっぱりかわいいとなると、変な男も寄って来ることも多いみたいや。今回のストーカー野郎もそうやけど、陽菜乃さんも玲奈さんも、痴漢に遭うたことも一度や二度やないって」
「それは舞さんも言ってたな。自転車通学やのに、すれ違い様に胸触られたこともある、って。あとはちんこ見せてくるやつとか」
「それ!陽菜乃さんも言うてた!割と最近や。それこそストーカーが出て来るちょっと前。バイトからの帰り道でいきなり前から来たおっさんが、バッてちんこ見せて来て。変質者にストーカーに……。陽菜乃さん、ほんまに夜道がトラウマになってもおかしないで……」
世の中には変態と呼ばれる男がごまんといる。かわいい子の胸を触ったり、下半身を見せたり、付き纏ったり。咲良からすれば彼らは宇宙人と同じだった。かわいい子に自分の下半身を見せることが、なぜ快楽に繋がるのか。意味不明過ぎる思考回路だ。
「でも佑真くん、ほんまにかっこええよ。好きな子を守るために体張って」
「サクとマツが手伝ってくれてるからや。もし二人も困ってることあったら言うてくれ。単純な腕力やったら間違いなく力になれるで」
そう言うと佑真は空に向かってシャドーボクシングを繰り出した。空気を斬る音が聞こえる。こんなものをもらったら相手はひとたまりもないだろう。何かあった時は存分に頼りにさせてもらおう。
三時半を回った頃、さすがにそろそろ寝ておかないと明日に響く、ということでようやく消灯となった。
床に適当に広げた敷布団と掛け布団の上で三人で雑魚寝した。陽菜乃と玲奈も今頃、もう寝ているだろうか。いつか自分たちも三人で酒を飲みながら夜を過ごしてみたくなった。とは言え、こちらのお泊り会も文句なしで楽しかったのは言うまでもない。
ナメクジみたいな男だ、と思った。
八月二十七日の水曜日、午後十一時二十分、ヤツは期待に応えるように、デラックスピザ山科椥辻店の前に現れた。最初に気付いたのは咲良だ。前日と同じように、スーパーの駐車場の前でピザ屋の方へと歩く人がいないか見張っていると、大学生風の男が目の前を通り過ぎた。なんとなく、こいつでは?と思い、目で追っていくと、男はピザ屋の手前十メートルほどの位置にある電柱の影に隠れるように立ち止まった。
「間違いない――」
松ヶ崎にさっそくLINEを送った。
『ヤツが現れた。店から北側十メートルくらいの電柱に隠れてる。そのままコンビニで待っててくれ』
ストーカーが潜む電柱に近付いてみる。電柱の斜め前の小路に入り込み、体を隠しながら、覗き込むと、ちょうど男の真上に街灯があり、その姿がよく見えた。
白い無地のTシャツは胸に小さなポケットが付いている。黒いスキニージーンズに足元のスニーカーは、白地に黒の三本ライン。アディダスだろう。今風にセンターパートに整えられた黒髪と合わせて、全身白と黒しかないモノトーンな男だ。清潔感もあり、普通の大学生にしか見えないが、どこか陰湿でナメクジのような印象を受けるのは、「ストーカー」という前情報があるからだろうか。
スマートフォンを操作しながらも、ちらちらと店の方へ、何かを確かめるように視線を向けている。
『陽菜乃さんが出て来たら男も動くと思うから、バレへんように後ろ追い掛けてくれ。俺は動画撮る。また動き出したら連絡する』
『OK』
すぐに返って来た松ヶ崎の返信を見てから、次は佑真にストーカーが現れたかもしれない、とメッセージを送った。
それから右のポケットから昔使っていたスマートフォンを取り出した。今回は時間が時間なので、写真が撮影出来ない。まさかフラッシュを焚くわけにもいかないので、動画を撮影することにしたのだ。写真やビデオを撮るだけなら、今は使っていないスマートフォンも充分活躍出来る。右手で構えたスマートフォンは、久し振りに自分の出番が来たことを喜んでいるかのように、ストーカー男の姿を鮮明に映し出していた。
よくよく考えたら少し笑える話だが、女子大生が一人、夜道を歩いている。その後ろを十メートルほど離れて、男が追い掛ける。そしてその男から三十メートルほど後ろを松ヶ崎が、さらにそのすぐ後ろに咲良と、真夜中の住宅街を四人が同じペースで歩いていることになる。なかなかお目にかかれない光景が繰り広げられているというわけだ。
尾行している人物は、自分が尾行されていることに気付かない、という話を聞いたことがあるが、それはどうやら正しいらしい。ストーカーは陽菜乃を追い掛けるのに神経を使っているようで、まったく後ろを気にする素振りすら見せなかった。
歩き始めてから七分ほどで、男が電柱の影で立ち止まった。そこから陽菜乃のアパートをじっと見ているのだろう。気持ち悪いヤツだ。咲良は歩くペースを早め、松ヶ崎と合流すると、そのまま来た道を少し戻り、月極の駐車場の中に入った。停められている車の影から男の姿はばっちり見える。
ストーカーは恐らく、このあと一仕事を終えた気になり、住処へと帰るだろう。咲良と松ヶ崎の仕事はむしろここからが本番だ。ストーカーが何者か。その正体を掴んでやる。陽菜乃はおそらく、今日も足音に気付いただろう。アパートの自室で、恐怖に震えているかもしれない。それを癒やすのは佑真に任せて、自分たちの仕事をやり切ろう。陽菜乃が恐怖に震える夜は、今夜で最後にしてやりたい。
そのまま朝までアパートを舐めるように監視していたら面倒だな、と思ったが、男はすぐに来た道を戻り始めた。時間にして約十分。まるで陽菜乃の帰り道を後ろから尾けるのが目的のロボットのようだ。たった十分、後ろを歩くだけで満たされるのだろうか。それともこれからその欲望はどんどんと加速していき、手が付けられなるのだろうか。
男に気付かれないように三十メートルほど離れて尾行した。振り向かれても問題はない。こちらは友だち同士で歩いているだけだ。まさか自分が尾行されているとは気付かないだろう。とは言えなるべくなら気付かれずに済ませたいところだ。慎重に尾行を続けたが、幸いなことに男は一度も振り返らずに歩き続けていた。
意外だったのは松ヶ崎がもともと待機していたコンビニのある交差点を右に曲がったことだ。ヤツは今夜、コンビニのある通り、つまりピザ屋のある道を北から南に下ってやって来た。てっきりそっちがヤツの住処だと思っていたが、そうではないのだろうか。それとも今ヤツは家に帰っているのではなく、何か別の目的地があるのか。
男が交差点を東に曲がったので、見失うと面倒だと、咲良たちは小走りで交差点に入った。少し先を歩く男が、また角を曲がる。二人はさらに速度を速めた。この角ではない。もう一つ先、男は二筋目の脇道で左に折れていた。その角を曲がると、細い道の先で、ちょうど男が右に並ぶ住宅の一軒に入って行くのが見えた。赤いミニバンが停まっている家だ。通りには道を挟んで右にも左にも、ぎっしりと家が建っている。どれも三階建てで、どうやら同じ時期に建てられた分譲住宅のようだ。
そのまま六軒通り過ぎると、男が消えていった家に辿り着いた。ほかの家と同じく三階建ての細長いデザインの建物は、手前に一台分のガレージがあり、さっき目印にした赤いミニバンが停まっている。普段は元気に走り回っているであろうその車は、次の出番が来るのを待って、まるで死んだように静まり返っていた。
車の左手には玄関があり、手前に自転車とスクーターがそれぞれ一台ずつ、車と並行になる形で停められていた。玄関扉の右斜め上に張り付けられたプレートを見た。『菅沼』と書かれているのがはっきりと読める。ストーカー男の名字は菅沼というらしい。
「さく、これ見てみ」
松ヶ崎が自転車を指差しながら声を掛けてきた。シルバーのママチャリの後輪カバーには見慣れたステッカーが貼ってあった。
『東 3512』
なるほど、ストーカーの正体はどうやら自分たちの先輩のようだ。
「ストーカー野郎はさくとかの高校の三年ってことか?」
無事にストーカー男の名字と家、それから出身校の情報を手に入れた咲良たちは、昨夜と同じように佑真の家を訪れた。今夜の報告に佑真は心を驚き、そして大袈裟な身振りを交えて、咲良たちを褒め称えた。「たった二日でそこまで調べられるのはすごい。二人に頼んで本当によかった」と、何度も礼を言ってきた。
「菅沼は東ケ丘高校出身ではあるけど、在校生ではないんや」
東ケ丘高校の証である自転車通学用ステッカーについて詳しく説明する。
「ステッカーには東の一文字の下に学年、クラス、出席番号の四桁の数字が並んでるんや。菅沼の場合は三年五組の出席番号十二番やな。ただその四桁の数字の下には、何年度のステッカーか分かるようにアルファベットと数字が書かれてる。つまり……」
菅沼のステッカーにはR5という数字が書かれていた。令和五年度に三年生だった男。
「菅沼は俺らの三個上の先輩。今年二十歳の男や」
「二十歳ってことは陽菜乃さんと同い年か」
「そういうこと。その共通点があいつをストーカーにした理由かは分からへんけどな。とりあえず三つ上やけど、菅沼のこと知ってる人探して、明日はあいつの情報を集めるつもりや。そのあとのことやねんけど……」
大まかな今後の計画について、佑真と松ヶ崎に聞かせた。
明日、知り合いを辿り、菅沼がどういう男なのかを調べる。話が通じる男なのか、それとも正真正銘イカれてるヤツなのか。
それを踏まえて、明後日は直接菅沼と話す。その反応次第では警察に連絡するつもりだ。
「その明後日のヤツとの話し合いには俺も同席していいやんな?」
佑真の目がぎらりと光った。血に餓えた狼を連想させる目だ。
「絶対に、なにがあっても菅沼に手を出さないって約束出来るなら」
「とんでもないクズ野郎でも?」
「とんでもないクズ野郎でも」
佑真を暴行犯にするわけにはいかない。それにこちらに落ち度があるとなれば、菅沼は調子に乗るかもしれない。その被害に合うのは、自分たちではなく陽菜乃なのだ。
「二度とそういう気持ちにならんように、徹底的にビビらせる方法もあるけどな」
「陽菜乃さんは優しいから、ボコボコにして終わりにはしたくないんやろ?俺は陽菜乃さんと喋ったことないから分からんけど、佑真がもし捕まったら、悲しまはるんとちゃうんか?自分のせいで、って」
そこまで言うと、佑真も頭に登った血が下がったようだった。気のせいか、目頭がいつもより潤っているように見える。もしかすると、陽菜乃が悲しむ姿を想像して悲しくなっているのかもしれない。
「分かった。そもそもさくに任せたんは俺自身やからな。絶対に手は出さん。約束する」
こうして二日目の夜は無事に終わった。明日は明日でやることがたくさんある。なるべく早く起きて動き出したいところだ。
昨日と同じ、三人での雑魚寝。それでも部屋に漏れ出る雰囲気は昨日とはまるで違う。
とにかく菅沼だ。
あいつはどんなヤツなんだろう。
それ次第では警察に頼まなくとも、何とかなるかもしれない。咲良は菅沼がモンスターではなく、人間であって欲しい、と願いながら目を閉じた。
八月二十八日木曜日。たっぷり昼前まで熟睡し、目覚めると佑真はもういなかった。
LINEを見てみると、ジムに行かなければならないから先に出ることと、家は誰もいないから鍵を掛けてポストに入れておいてほしい、という内容のメッセージが届いていた。送信時間を見るとなんと朝八時過ぎ。昨夜はたしかに佑真も咲良たちと同じ時間まで起きていたはず。それなのに八時過ぎにはもう家を出ているとは。ストイックな男だ。自分にはとても真似出来そうにない。欠伸をしながら、自分は自分の出来ることを頑張ることにしよう、と心の中でいいわけした。
松ヶ崎を起こし、小松家を後にした。夏の日差しが体を刺してくる。いろいろとやりたいことはあるが、この暑さでは何もやる気が起きない。
「とりあえず昼飯食べに行こ。暑すぎるわ」
咲良の胸の内を読み取るように松ヶ崎が提案してくれたので、二人でマクドナルドを目指した。自転車で走っていると、多少は風を感じられるが、映画のような爽やかな夏とは程遠い。とにかく冷房がなければ、現代人は何も出来ないのだ。
「舞さんに連絡してほしい」
椥辻にあるマクドナルドでそれぞれセットを頼むと、二階の席でさっそく作戦会議を始めた。
「なんて頼む?」
「舞さんの二個上の先輩、一年の時の三年の先輩で連絡取れる人いてはるか、聞いてみて」
左手でハンバーガーを頬張りながら右手でスマートフォンを操作している。おそらくLINEでメッセージを送っているのだろう。
すると今度は松ヶ崎のスマートフォンが振動しだした。彼の顔が一気に緊張を帯びていく。
「電話や……」
幽霊にでも会ったように電話に怯えている。掛けてきた相手は舞だろう。最近、二人きりでも話せるようになったと言っていたが、電話となると話は別のようだ。とりあえず出るように促すと、松ヶ崎は渋々なにかを諦めるように電話に出た。
「あ、舞さん……は、はい…………いや!ちょっと待ってください!」
松ヶ崎はそう言うと、咲良に向かって右手のスマートフォンを差し出して来た。「代わってくれ」と言いたいのだろう。泣きそうな目をしている。寒さにプルプルと震える仔犬を想像した。
好きな人と話せない男に、好きな人の後ろを尾ける男。恋愛というのは摩訶不思議だ。
その時ふと、菅沼ももしかしたら、陽菜乃と話したくても話せないという鬱屈した思いから、ストーキングという行動に出たのかもしれない、と思った。
「あ、もしもし、舞さん?お久しぶりです、櫻井です」
『久し振り!元気?二個上の学年の知り合いおらんか、って聞かれたんやけど、なんかまた誰かに頼まれてる?』
元ソフトテニス部員であり、元依頼主でもある舞の声は、以前と同じ、明るく弾けた声で、聞いているだけでこっちはが元気になった気がする。
「そうですね、そんな感じです。それで今大学二回生の学年の東校生を探してて」
『何人か連絡取れる人はいるで』
「ありがたいです!出来れば今日、直接その方とお会いしたいのと、卒業アルバムをお借りしたのと、あと、その人が三年五組だったら最高なんですけど……」
『おっけー!今日動ける先輩いるか聞いてみる』
「助かります、ほんまにありがとうございます!じゃあマツに代わりますね」
松ヶ崎は顔の前で両手を交差させ、バッテンを作っていたが、お構いなしで強引にスマートフォンを握らせてやった。
「はい!……いや、ほんまにありがとうございます!…………え、ほんまですか?…………むっちゃ嬉しいです、ほなまた連絡します!ありがとうございました!」
先ほどとは打って変わり、満足気な笑みを浮かべている。さっきの仔犬はどこに行ったのだろう。
「舞さん、なんて?」
「事件が解決したら遊びに行こ、って」
「よかったやん。ほな頑張ってはよ解決ささなあかんな。マツの頑張りは舞さんに伝えてやるから」
違法性ゼロ、超健全なドーピングにより松ヶ崎のやる気は最大限まで引き上げられた。これぞまさに、恋の力ってやつだろう。
吉川朋美は喋りやすい女性だった。
陽菜乃とはまた違った感じで優しそうな印象を受けた。初対面なのに前髪が一直線に揃えられたボブカットは、不思議と吉川朋美という女性と言えばこの髪型、と思うほどにしっくり来ている。少し丸みを帯びた顔や体付きは太っている、と言うよりかは『健康的』という表現が合う。大学生と聞いていたが、なんとなく保育士のような雰囲気を感じた。
どこにでもフットワークが軽い人というのはいるようで、朋美は舞の、と言うより、咲良たちの奇妙な依頼にすぐに対応してくれた。おかげでこうして午後三時に、昼食を摂ったマクドナルドに再び集合することになった。今回は咲良、松ヶ崎に加えて、舞と朋美の四人での会合だ。
「すみません、わざわざ来てもらって。東ケ丘の二年、櫻井咲良です。さくらが二つで冗談みたいな名前ですけど、本名です」
咲良が鉄板の自己紹介ギャグを繰り出したが、朋美の反応は薄い。はは、とこちらに気を使うように笑ってくれたが、その優しさが痛かった。
「松ヶ崎です!舞さんにはいつもお世話になっています!よろしくお願いします!」
久し振りに意中の女性に会えたことで、松ヶ崎のテンションはメーターを振り切っている。この場で唯一、全員と面識のある舞が、何とか取り繕おうと、朋美に話しを振ってくれた。
「LINEでも言った通り、この二人は困った人を助ける活動をしていて、わたしも助けてもらったことがあるんです。それで今回は先輩のクラスメートのことがどうしても知りたいみたいで」
朋美はなんと菅沼と同じ、三年五組だったそうだ。菅沼を知る人と、すぐに会えたのはとんでもなくツイてる。咲良たちの中で、吉川朋美の評価はうなぎのぼりだった。
「久し振りに舞ちゃんから連絡来たと思ったら、卒業アルバム貸してほしいって言われてびっくりしたわ。とりあえずこれ、卒アル」
そう言いながら朋美はソファ席に置いていた肩掛けのトートバッグから三十センチほどの正方形のアルバムを取り出し、テーブルの上にどんと置いた。ハードカバーの表紙には、金色で東ケ丘高等学校という文字と、校章が印字されている。中学までの卒業アルバムとは全然違った趣だ。重量といい、質感といい、高級感が漂っている。
「へぇ、高校の卒アルってこんな感じなんですね。なんかしっかりしてるっていうか。中学までと全然違う」
「おかげでかなり重たいんよね」
朋美が右腕をぐるぐると回して見せた。肩が凝った、というアピールに、慌てて三人で「すみません」と謝ると、冗談冗談、と笑って返してくれた。
「それで?何を調べたいの?」
出来れば菅沼の名前は出したくなかった。咲良たちの中では、菅沼は気持ちの悪いストーカー野郎だが、そんな噂を不必要に広げることは避けたい。ヤツにはヤツなりの生活があるだろう。ただそうも言っていられないのが実情だ。とにかく時間がない。今週中にすべてを終わらせるためには、ヤツの名を出さずに進める余裕がなかった。
「三年五組の菅沼って人について聞きたいんです」
菅沼くんねぇ、と呟きながら、朋美は卒業アルバムを捲り始め、ちょうど中頃あたりで、その手を止めた。三年五組のページだ。
「これが菅沼くん。今は大阪の大学に通ってたと思う。正直、そこまで仲がいいわけとちゃうから、あまり役に立たんかも」
「もう充分助かってます」
松ヶ崎が気持ちのいい声で朋美を立ててくれた。こうなれば松ヶ崎の独壇場だ。朋美はみるみるうちに松ヶ崎との会話を楽しみ始めた。その間に咲良は卒業アルバムの菅沼をじっと確認した。白い歯を見せて笑う男は、髪型こそ違うが、間違いなくあのナメクジのような男だった。二重のぱっちりした目と、少し分厚い唇。かわいい、と言われそうな顔付きをしている。一見するともてない男には見えない。ましてやストーカー行為をやる男だなんて、この写真からはまったく想像出来なかった。
写真の下の名前を見てみると『菅沼 拓人』とあった。『すがぬま たくと』と、心の中で呼んでみる。これがストーカーの本名だ。当たり前の話だが、名前も至って普通だ。普通の家の、普通の大学に通う、普通の男。なぜこいつがストーカーになったのか。
ふとクラスメートたちの顔写真を見ていると、知っている顔があることに気付いた。名前を見てみると『安達 玲奈』とある。やはり玲奈だ。そう言えば玲奈は陽菜乃と違い、実家住まいだと、佑真が言っていた。彼女も東ケ丘高校の先輩だったのか。一際美人なオーラは卒業アルバムの写真でさえ滲み出ている。間違いなく高校時代からもてていただろう。
「単なるクラスメート、というレベルでいいので、朋美さんの菅沼拓人の印象を教えてもらっていいですか?」
松ヶ崎の話に夢中になっていた朋美と舞が、一気にこちらの世界に戻されたように咲良を見た。
「うーん、これといって悪い印象もない普通の人って感じやな。真面目やし、でも暗いってほどでもなく、クラスの輪にもちゃんと入ってて。ちょっと控え目な男子、ってとこかな。頼まれたら断れへん、って感じの」
「恋愛関係については何かありました?彼女がいた、とか」
「そのへんはまぁ、確実なことは言われへんけど、多分彼女はおらんかったと思う」
昨夜の菅沼を思い出す。あれほど陽菜乃の近くを尾いて歩く男だ。もともとそういう気があるなら、確実に周囲にバレて、問題になっているだろう。だが少なくとも朋美にとっても、菅沼はストーキング行為をする男という印象はないようだ。
「菅沼くんってたしか、すぐそこのコンビニでバイトしてたはずやで」
あっさりと朋美は菅沼の重要情報を提供してくれた。朋美によると、菅沼のバイト先は今、咲良たちがいるマクドナルドと同じ通りにあるコンビニで、何度かレジ打ちしている場面を見掛けたことがあるそうだ。もちろんその時にちょっとした会話も交わしていて、垢抜けた感じはあるが、高校の頃から大きく変わった印象はないらしい。
なるほどな、と思った。菅沼の働くコンビニから少し南に下れば、外環状線と新十条通の交差点に当たる。その交差点を東に入ってすぐのスーパーの駐車場が、咲良が張り込み待機していた場所だ。つまり菅沼はバイト終わりの帰宅前に、陽菜乃のストーキングをしたということだろう。
働いた後の自分へのご褒美感覚なのか?ますます菅沼という男が分からなくなった。ただ次に何をすべきかが分かった。今の菅沼を知る人に話を聞きに行こう。高校の同級生ではなく、バイトの同僚だからこそ知っているヤツの一面があるかもしれない。それにヤツのシフトも気になる。本当に火曜日は何か予定があるのだろうか。朋美いわく、菅沼がバイトしているのは深夜ではなく、夕方から。
さっそくこのあと、コンビニに寄ってみよう。朋美に礼を伝えて、なんでも好きなものを頼んでください、と言った。
元ソフトテニス部の朋美と舞、現将棋部の咲良と松ヶ崎。考えれば考えるほど不思議なな四人の集まりだ。それぞれ好きなものを注文すると、テーブルの上にたくさんのハンバーガーやポテトが並び、ちょっとしたパーティー気分を味わえた。合コンでなくても、不思議な集まりでも、これはこれで楽しいのだ。探偵の真似事をする度に、知り合う人が増えていく。探偵ごっこが辞められない理由は、これがあるからかもしれないな、と咲良は笑った。
午後七時になっても、菅沼はコンビニに現れなかった。今日はシフトに入ってないのかもしれない。
「菅沼のこと調べるって言うても、これ以上何を調べたいんや?」
コンビニ前の小さな駐車場でジュースを飲みながら松ヶ崎が尋ねて来た。この店舗には残念なことにイートインスペースがない。コンビニの駐車場で、男子高生が二人でダラダラと過ごす、という光景自体は違和感なく成立するが、問題はこの暑さだ。とにかく熱中症だけは気を付けたい。もう一時間程、飲み物がなくなればコンビニに入り、少し涼んではガレージに戻る、という動きを繰り返している。
「一番気になるのは菅沼がストーキング以外にも恋愛関係や人間関係でトラブルを起こすような人物かどうか、ってことやな」
朋美の話では少々控え目ではあるが、特に変わった男ではなく、どちらかと言えば真面目な普通の人間像であるようだ。それでも女性からの視点と男性からでは、また見えるものが違うかもしれない。
もし菅沼が朋美に聞いた通りの人間であれば、明日の話し合いですっぱり陽菜乃へのストーキングをやめてもらえるかもしれない。要は菅沼自身、初めての恋愛で熱に当てられてる状態なだけで、陽菜乃が嫌がってることを伝えれば、間違いに気付いてもらえるのではないか、ということだ。
反対に陽菜乃以外の相手にでも、異常執着やその他のトラブルを起こすような人物なら、警察に任せるべきだと思う。長い目で見れば、それが菅沼本人のためにもなるだろう。
「簡単に言えば、菅沼が話が通じるヤツかどうかを知っておきたい、ってことやな」
「なるほどね。どうなんやろ。朋美さんの話では、ヤバいヤツって感じはせんかったよな」
普通に見えてヤバいヤツ、というのはフィクションの世界ではよくあることだ。ただ現実の世界ではやっぱり、「ああ、あいつね、いつかやらかすと思ってた」と何らかの兆候は見られる気がする。
「そう言えば三年五組に玲奈さんもいたで」
松ヶ崎はやはり気付いていなかったようで、写真見たかった、と後悔していた。
「ほなら最初から玲奈さんに話聞いたらよかったんやな」
「いや、佑真に頼んで玲奈さんに菅沼拓人って知ってるか、確認してもろたんや」
「なんて?」
「三年の時、同じクラスやったけどよく知らんって。連絡先も知らんらしいわ」
佑真にはストーカーの件は伏せて、菅沼について聞いてもらった。ストーカーの犯人が菅沼であることを告げると、どうしてもそういうイメージがこびり付いてしまうだろう。そうじゃなくて、先入観のない、菅沼拓人像が知りたい。それに――。
「まぁ玲奈さんって絶対カースト上位の人やもんな。言ったら悪いけど、菅沼はよくて中位。そらよく知らんってなるわ。それにしてもサクも大変やな」
なぜここで自分の名前が出て来るのか。咲良は驚き、松ヶ崎の顔を見た。彼は何でもないような顔をして言葉を続けた。
「それだけやないやろ、玲奈さんに言わん理由。多分、菅沼がストーカーやってことが、知り合いに広がらんようにしたろって思ってるんちゃうか?」
なんで分かったんや、という言葉が口から出そうになったが、松ヶ崎の目を見て思い留まった。珍しく彼は真剣な表情を浮かべている。
「まぁなんだかんだ言って、俺も相棒やからな。朋美さんにも、ほんまは菅沼の名前出さんといろいろ聞きたかったんやろ?」
菅沼は明らかにしてはいけない行為をしている。でもそれは単純に間違ってるだけかもしれないのだ。自分たちがうまく動けば、ヤツもちゃんと元の道に戻れるかもしれない。
イタズラにストーカーの烙印を押させたくない。どうしてもそういう気持ちが拭えなかった。
「マツ……お前、全部分かっててんな。俺、甘いかなぁ」
松ヶ崎が静かに笑った。こうして見ると、奴もなかなか男前に見えるから不思議だ。
「まぁ、そやから依頼が来るんかもしれんな。とにかく!そんなサクのために一肌脱いでやろう」
そう言うと威勢よく立ち上がり、松ヶ崎はコンビニ店内へと進み出した。自動ドアが開き、お馴染みの音楽が鳴るが、さっきから何度も出入りしているので、店員も一切反応は見せなかった。松ヶ崎はドリンクショーケースからコーラのペットボトルを一本取り出すと、そのままレジへと向かった。レジには二十歳くらいの茶髪の男性が立っている。さっきまでもう一人いたと思ったが、レジには一人しかいない。店の奥で作業でもしているのだろか。
「一七六円です」
ペットボトルのバーコードを読み込みながら、値段を告げる。もはや何本も買ってるせいで、値段までばっちり覚えた店員が、だらけ切った声で応対した。
「ありがとうございます。あの、今日拓人くんって入ってないですか?」
気怠そうな茶髪の店員に向かって、普通に松ヶ崎が話し掛けた。いくら松ヶ崎でもそれは相手が悪いだろ、としか思えない。ウザがられること間違いなしだ。
「拓人って、菅沼?は今日は入ってませんよ」
「あ、そうなんですね……すみません、何回もジュースばっかり買っちゃって。そっか、拓人くん、今日はいないんですね……」
「何か用事?」
思いの外、相手をしてくれるらしい。ちょうど他に客もいないのが功を奏したのだろうか。
「いえ、そんな大した用事じゃないんです。拓人くん、兄貴の友だちなんですけど、こないだむっちゃ美人と歩いてて。あれ絶対彼女だ、って言っても兄貴が違うだろ、って言うから拓人くんに直接確認してみたくなって」
「え、あいつ彼女出来たの?」
明らかに男の態度が変わった。バイト先の同僚のゴシップに興味津々な様子だ。
「彼女、だと思うんですよ。なんか普通に距離感とか」
「いやぁ、それは違うと思うけどなぁ。あいつ、ずーっと片思いしてる、全然振り向いてもらえない、って言ってるし」
「そうなんすか?じゃあやっぱり兄貴の説の方が合ってるのかな。木村さんはよく拓人くんと一緒に入ってるんですか?」
その時初めて店員の胸に付いている名札に気付いた。『木村さん』と名前で呼ばれることで、いよいよ木村は松ヶ崎に心を開いたようで、お喋りに夢中になり出した。
木村の口から次々と菅沼の情報が語られた。木村によると菅沼はいい奴。仕事もそつなくこなすし、バイト仲間からも普通に慕われている。恋バナなんかもバイト同士で普通にしていて、意中の相手は高嶺の花だ、とよく悩みを相談しているらしい。ストーカー気質とは思われていないそうだ。朋美が抱く菅沼像と大差ない。若干垢抜けたのか、木村の評価は朋美とは違い、控え目という印象もなさそうだった。ただ二人とも菅沼がストーカーだ、と教えたら間違いなく驚くだろう。それほど彼らの中では、菅沼は普通にいい奴なのだ。
「拓人くんって優しいですもんね」
「まぁ優しいっちゃ優しいんやけど、頼まれると断れへんって感じもするな。よくシフト代わってって頼まれてるし」
「あー!分かる気がします!」
「まぁそういう点も含めて、菅沼を嫌ってる人はおらんのちゃうかな。いい奴であることは間違いないしなぁ」
店がまた少し忙しくなって来たようなので、松ヶ崎は木村に礼を伝えてレジを離れた。驚くことに彼はあの短時間の中で、木村とも連絡先を交換している。いったいどうなってるんだ?松ヶ崎のコミュニケーション能力は、特殊能力に分類されるものかもしれない。
「なんか、朋美さんとか木村くんの話聞いてたら、普通に菅沼っちはストーカーなんてするような奴じゃないって感じよな」
「そうやなぁ……。少なくとも見えてる範囲では菅沼は化け物って感じではなさそうや」
「話が通じる奴やったらええんやけどな。初めての大恋愛でおかしなってもうたんかね」
その可能性は当然あるだろう。普通の男、菅沼は陽菜乃という運命の人に出会ったことで、何か箍が外れ、異常な行動に出るようになってしまった。
ただ――木村の話を聞いていて、ちょっとした違和感を覚えたのも事実だ。現在進行系でストーキングしている恋の悩みを「意中の人が振り向いてくれない」と周りに相談するものだろうか。
もちろんストーカーの心理なんて分かるわけはないのだが、それにしても健全過ぎるイメージが拭えない。もし自分がストーキングしているとしたら、なるべく周りに好きな人がいることも悟られないようにしたくなる気がする。もしかすると、菅沼は自分がストーキングしていることすら自覚がないのかもしれない。ただただ好きな人が夜道を歩くのを見守っているだけだ、と。昨夜、陽菜乃がアパートの自室に戻るのを見届けたあと、ヤツはあっさりと自宅へと帰って行った。自分が陽菜乃のボディガードだと思い込んでいる。これはあり得るかもしれない。
「とりあえず、あとはどうやって菅沼とコンタクト取るかやな」
「木村くんやったら菅沼っちの連絡先くらい知ってるんちゃう?」
松ヶ崎がスマートフォンをいじり始めた。さっき手に入れたばかりの木村にメッセージを送っているのだろう。
「返って来た」
バイト中にも関わらず、恐るべきレスポンスの速さだ。コンビニのバイトというのは案外暇なのだろうか。
「菅沼の電話番号ゲット。サクに送るわ」
自分の知らないところで連絡先が勝手に広がっていく。もしかしたら現代は、ストーカーにとって、非常にやりやすい世の中なのではないだろうか。もし咲良が菅沼のストーカーなら、あっさり連絡先を入手出来たわけである。どんな風に悪用されるか分かったものじゃない。
送られて来た電話番号にさっそく掛けてみる。もし出なかったら、自宅まで押し掛けるしかないか。知らない番号には出ない人も多い。そんなことを考えていると、四コール目の途中で、コール音が途絶えた。菅沼はどんな声の持ち主なのだろう。
「もしもし、突然のお電話すみません。櫻井と申しますが、菅沼さんの電話でよかったでしょうか――」
『明日の三時に山科駅前のスタバ集合やな』
「そうそう。ほんまに約束やけど、絶対手は出したらあかんで」
『分かってる。せっかくサクたちが頑張ってくれてるのに、台無しにはせんよ』
怪訝そうに電話に出た菅沼は、こちらが藤川陽菜乃の件で話がある、と伝えた瞬間、明らかに狼狽し始め、電話越しに菅沼の顔がみるみる青ざめていくのが容易に想像出来た。なるべく早く直接話したい。出来れば明日。咲良がそう提案するとあっさりと了承した。
ヤツをひと目見た時は『ナメクジのような男』という印象を受けたが、様々な情報を聞いた後だからだろうか。菅沼の声に陰湿なイメージはなかった。先入観というのはそれほど強いのか、それとも本当に菅沼はストーキング行為以外は普通の男なのか。
結局、すねに傷のある菅沼はこちらに逆らえるはずもなく、二十九日の金曜日、午後三時に駅前のスターバックスで話し合いが決定した。電話を終えると、時刻は午後八時を回っていたので、この日はここで解散することになった。佑真の家には既に二連泊している。咲良の親は松ヶ崎の家に泊まっていると思っているが、それにしたっていくら夏休みと言えど、三連泊はさすがにまずい。決戦は明日だ。明日に備えて今夜はそれぞれ、自宅でしっかりと睡眠を取ること。それが、今夜の任務となった。
自分の部屋に戻り、今日のことと、明日の話し合いについて報告するため、電話を掛けると受話器の向こうから佑真の静かな怒りが伝わって来た。
『そんなに普通のヤツに見えても、中身はヤバいってことやねんな』
「そうやな、少なくとも、まったく話が通じひんってことはないと思うんやけどな。こればっかりは明日にならな分からんか」
『そやな。とりあえず明日やな。今日もありがと。おかげでどんどん話が進んでくわ。助かる』
「どういう形になるかは明日次第やけど、とりあえず陽菜乃さんへのストーキング行為はやめさせられると思う」
佑真からの再びのありがとう、という礼の言葉を聞き届けた後、通話を切った。途端に部屋がしんと静まり返る。たった二日、この部屋で寝なかっただけなのに、なぜか自分の部屋じゃないように感じる。部屋もペットと同じように、嫉妬をしたりするのかもしれない。「帰って来ないならもう知らない」と怒っているのかも。
まだまだ眠くはなかったが、早々にベッドに入ることにした。どこかよそよそしい部屋の中でも、やはり自分のベッドは落ち着く。横になればすぐに心地よい眠気に襲われた。
その夜、咲良は夢を見た。
真っ暗な夜の道を一人で歩いている。目の前には一人の女の子。後ろ姿だが、髪型で陽菜乃だということが分かる。
陽菜乃の歩調に合わせて、自分の足も動く。陽菜乃が止まれば自分も止まる。まるで自分がストーカーになったようだ。相手は怖がっているのだろうか。これほど真っ暗な夜道なのだから、怖くて当然だ。ところが、前を歩く女の子は平然とこちらを振り返った。隠れなければ、と思ったのに体が動かない。
陽菜乃だと思っていた女の子の顔は、目も鼻も口もないのっぺらぼうだった。
悲鳴を上げながらベッドから転がり落ちた。目覚まし時計が鳴り続けている。午前八時。最悪の目覚めだった。
菅沼との対決の日だというのに。咲良は普段から験を担ぐというタイプではないが、それでも大事な日の朝に、悪夢で目覚めるというのは、なんとなく気分が落ち込む。
夢の中の自分は、誰を追いかけていたのだろうか。まるでまともな恋をしていない自分への当てつけのように感じる夢だった。
この事件が解決したら、今度こそ恋というものをしてみよう、そう誓ったのはいいものの、どうすれば恋が始められるのか、いいアイデアはまったく浮かんで来なかった。
咲良は普段、スターバックスをほとんど利用しない。オシャレな大学生や、いわゆるリア充御用達、という雰囲気に、気後れしてしまうからだ。
そんなわけで、山科駅前にある山科区唯一のスターバックスの店内は、咲良にとって初めての体験だった。
壁にかけられたアナログ時計の針を見やると、午後二時四十五分を指そうとしていた。
あと十五分――。
「もうちょっとやな」
落ち着かない様子で松ヶ崎が言った。彼もまた、普段スターバックスは利用していない。それに今まで咲良たちは何度か探偵の真似事をし、事件を解決したことがあるが、その中で「犯人」と呼ぶべき人物と対峙したことはなかった。緊張するのも当然だろう。
長方形のテーブルには長辺にそれぞれ二脚ずつ椅子がセットされている。どう座るのがいいのか、少し悩んだ末に、咲良と佑真が横に並び、佑真の向かいに松ヶ崎が座ることになった。当然、今咲良の正面の椅子には誰も座っていない。
左を見ると佑真が目を閉じながら腕を組んでいる。その姿は居合切りに臨む侍を彷彿とさせた。油断してると、いつの間にか体は真っ二つにされているかもしれない。初めて菅沼を気の毒に思った。手は出さない約束だが、菅沼からすれば恐怖でしかないだろう。ヤツの場合、陽菜乃に恐怖を与えているのだから、自業自得なのだが。
せっかくスターバックスに来たのだから、なんちゃらフラペチーノなるものを頼みたかったが、話し合いの趣旨を考えると、とてもじゃないが、そんなにキラキラした飲み物を口にする気にならない。フラペチーノは別の機会にし、結局ホットコーヒーが三つ、テーブルの上に置かれている。
「あいつ、ちゃんと来るんかな?ビビって逃げたりもあり得るんちゃう?」
「昨日話した感じやと、そういうことはせん気がする。かなり下手に出てたし。なんとなくいつかはバレると思ってたんとちゃうかな。誰かに止めてほしい、みたいな」
「自分ではやめられへん、とめられへんから、誰かとめてくれー、って?それは無責任過ぎるやろ」
どこからどう見ても正論だ。ただ悪いと分かっていても、自分でも止められない、なんていうのは生きていたら誰しもが経験することではないだろうか。
宿題をやらなきゃならないのに、ゲームをやめられない。
未成年なのに、タバコがやめられない。
ストーキングの場合、相手がいるから重たい事件になるが、基本的にはこういうことではないだろうか。
ただここにもまた、少しの違和感がある。
ヤツは陽菜乃とのことを周りに堂々と相談していた。そこで咲良は、菅沼は夜道に陽菜乃の後を尾けることに罪悪感を抱いていないのでは?と推測した。
ところが実際、菅沼と言葉を交わしてみると、今、松ヶ崎に告げたように、たしかに自分が悪いことをしている、という自覚があるように感じられたのだ。
菅沼という男が、知れば知るほど分からなくなる。
三時五分前、菅沼は店に現れた。なんとなくヤツはそのくらいの時間にやってくるような気がしていた。キョロキョロと周りを窺っている。それもそのはずだ。咲良たちは菅沼のことを知っているが、向こうはこっちのことを何も知らない。
「菅沼さん」
右手を挙げ「こっちです」のジェスチャーをしながら声を掛けた。それからの菅沼の反応はかなり分かりやすい。
まず咲良を見てほっとした。自分の悪行を責め立ててくる人間が、平凡な高校生だと知りほっとしたのだろう。ただその安堵の表情は一秒後には崩れ去った。なんせ咲良の隣には今や猟犬から立派に狂犬へと進化した佑真が座っているのだ。菅沼の顔は青ざめ、こちらに向かう足も急に止まった。本能が警戒しているのだろう。"この男はヤバい――"と。
それでもなんとか歩を進め、こちらへと近付いて来たことから、菅沼に逃亡の意思はないことが分かった。
彼の格好は一昨日、ストーキングしていた時とほとんど同じだった。黒いスキニージーンズに白いアディダスのスニーカー。Tシャツだけが、白の無地だったのが、左胸に小さくMTVのロゴが入っているものに変わっているが、全身白黒しかないのは一緒だった。モノトーンが好みなのだろうか。シンプルな服装だったが、咲良からすれば好感の持てるファッションだ。女性受けも悪くはないような気がする。流行りを抑えたセンターパートの髪型といい、やはり菅沼は大学生になり少し垢抜けた印象がある。
「ありがとうございます、昨日電話させてもらった櫻井です」
いつもの「櫻井咲良です」のお決まりの挨拶は使わなかった。さすがにそういう場ではないことくらい、分かっている。
「菅沼……拓人です…………」
菅沼の視線は咲良に向けられているが、意識は明らかに佑真を警戒している。
「座ってください」
咲良が正面の席に手を伸ばすと、松ヶ崎が椅子を後ろに引いた。おどおどしながら菅沼が椅子に座った。これで場が成立したことになる。大学生二回生と高校二年生。真面目な三人と、一人のヤンキー。普通なら決して交わらないであろう四人での会談が始まる。
「電話でもお伝えさせていただきましたが、今回菅沼さんに来てもらったのは、藤川陽菜乃さんの件についてです」
陽菜乃の名前を聞くと、菅沼のまぶたが少し動いた。ヤツの中で、今日の話し合いが夢でも何でもなく、現実の世界での出来事だと認識した瞬間なのかもしれない。
「念の為、この場での会話は録音させてもらいますね」
咲良の台詞に合わせて、松ヶ崎が録音アプリの録音ボタンを押し、スマートフォンをテーブルに置いた。
「えっとですね、菅沼さん、バイト終わりの藤川陽菜乃さんを尾け回してますよね。こちらは証拠も持ってますので、否定はなしでお願いします。しょうもないことで時間を使いたくないので」
咲良は自分のスマートフォンを菅沼の前へと滑らせた。もちろん映っているのは菅沼が陽菜乃を尾けているあの夜の動画の再生画面だ。
「こちらからは一言だけ。二度と彼女に付き纏わないでください」
単刀直入に出来るだけシンプルな言葉で伝えたあと、菅沼の反応を待った。焦るのか、怒るのか、それとも泣き出すのか――。
「すみませんでした……もう二度とこんなことはしません」
それは蚊の鳴くような小さな声だったが、はっきりと咲良の耳には届いた。佑真も、松ヶ崎も、同じようで、三人はあっさりと反省の弁を口にした菅沼に対して、驚きを隠すことが出来なかった。その場しのぎの言葉ではないのは見れば分かった。彼の瞳の色は怯えてはいたが、泳いではいなかった。
「こちらで把握していることと照らし合わせたいので、覚えてる限りでいいので、いつ付き纏ったか日時を教えてください」
咲良が尋ねると、菅沼は自分のスマートフォンを操作しだした。ヤツは自分が陽菜乃を尾行した日を記録しているということだろうか。几帳面な男だ。
「八月の一日、金曜日が初めてです」
咲良たちが掴んでいる証拠はたった一日分だったが、菅沼はすべてバレていると思い込んでくれているようで、あっさりとすべてを白状した。
八月から始めて、その日から四日連続で尾行し、五日の火曜日はしていない。なぜ火曜日はしなかったのか、と聞くと「どうしてそんなことを聞くのか」と言いたげに不思議そうな顔を浮かべたあと、あっさりと「その日は陽菜乃さんがバイトに入っていなかったからです」と答えた。相手が夜に出歩かないのなら、尾行も当然出来ない。考えてみれば当たり前の話だった。
その後もいつ彼女の後を尾けたのか、その正確な日時がはっきりとしていく。菅沼の言うには、お盆の週になると、ボディガードの存在が邪魔で後を尾けることが叶わなかったそうだ。
「陽菜乃さんと一緒に金髪のいかつい男が店から出てきて……怖くなってやめました」
菅沼はちらりと、佑真の方に視線を這わせたが、目が合うよりも早く、また咲良の方へと視線を戻した。
その翌週はまた一人で帰るようだったから、再開した。それからはまた隣に男が現れたので、一人で帰る日を見計らって後を尾けていた。こういうことらしい。
「三日前の火曜日は?なんで尾けなかったんですか?」
「火曜日……ええっと……あの、そう。その日はバイトが入ってたんやと思う。ほんまは行きたかったんやけど」
水曜日、菅沼はバイトの後にピザ屋に現れた。シフトは木村にも確認済みだ。火曜日もたしかに菅沼はバイトに入っていた。だがそれはストーキングをしない理由にはならないはずだ。その時だった。
「おい……」
自分の左側を見るのが怖くなった。まるでそこが氷点下の雪原が広がっているように、鳥肌が立ち、体が震える。
「すみませんって言ったってことは、悪いことしてるって自覚があるわけや。そやのになんでやったんや……」
ドスの効いた声、というのはこういうことを言うのだろうか。体の芯を掴んで、揺さぶられるような、低く、ずんと響く声だった。
「なんで……ごめんなさい……好きだったから…………こんなことになるなんて思いもしなかったんです」
こんなこと、というのは何を指しているのだろう。
相手に気付かれることになるとは思わなかった?
気付いても、怖がられるとは思わなかった?
まさか高校生探偵に調べられることになるとは思わなかった?
どれだとしてもひどく自己中心的な考えとしか思えなかった。
「好きやったら相手がどう思うかくらい考えるやろ。怖がらせてどうすんねん。好きやったら相手が喜ぶこと、嬉しくなることせんとあかんやろが!」
佑真に手は出させない約束を取り付けておいてよかった。言葉だけでここまで相手を震え上がらせる男が、制限なく暴力を振るえば、どうなっていたことか。
菅沼はいつの間にか、ほとんど半べそ状態になっていた。
「すみませんでした!すみませんでした!」
三つも年下の自分たちに向かって頭を下げ続ける。佑真にビビったからではない。やはりその言葉通り、菅沼は自分のやってる行為が悪いことだ、としっかり自覚しているのだろう。
「俺らに謝ってどうするんや。お前が謝らんとあかん相手はほかにおるやろ!」
「……すみません、もちろん、陽菜乃さんにも誠心誠意、謝らせていただきます。本当に申し訳ございませんでした……」
「陽菜乃さんはもしかしたら、お前と喋りたくない、会いたくないかもしれんからな。そこは確認してからや。お前がほんまに陽菜乃さんに申し訳ないって気持ちを持ってるんやったら、まず今後許可なく陽菜乃さんに近付かんことをここで誓え」
菅沼はそれが当然だ、という風に三人の前で二度と藤川陽菜乃に許可なく近付かないと宣誓した。なんと念書まで書く、と言い出すほどだった。さすがにそこまでしなくてもいいのではないか、と思ったが、彼なりの誠意なのだろう、ということでその場で一筆書いてもらった。
さらに菅沼は自分から陽菜乃が了承してくれるなら、直接会って謝りたい、ということで、三人と連絡先を交換してほしいと言ってきた。こちらとしても菅沼とは今後も連絡を取ることになるかもしれない、とは思っていたので、ありがたかったが、あまりに素直な菅沼の姿勢に、咲良の中でのズレがどんどん大きくなっていく。
ストーカーとはもっと異常な思考回路の持ち主ではないか、という思いが拭えなかったのだ。事件は解決したはずなのに、なにか心に引っ掛かるものがあり、すっきりしない思いがあった。
「ちょっと気になったんやけど、菅沼くんっていつから陽菜乃さんのこと好きになんですか?やっぱり好きになってすぐにあと尾けよ、ってなったんですか?それか、あまりにも振り向いてくれへんから?」
菅沼が来てからほとんど話してなかった松ヶ崎が、突然喋り出したかと思ったら、その質問の内容も、態度も、本当に気になって仕方ないから教えてくれ、という感じだったからか、菅沼もかなり動揺した様子だった。
「そうですね……好きになったらいつの間にか、こんなことしちゃってたって感じです」
菅沼はこんなことまで真面目に答えるタイプの男なのだ。朋美や木村の印象とも合っている。
「どんなとこが好きなんですか?」
「最初は見た目……からです…………。普通にかわいいな、って思ってて。それなのに優しいし……ですかね……。はい」
菅沼の台詞に佑真が大袈裟に頷いた。その通りだ、大正解だ、とでも言い出しそうな雰囲気だ。
「まぁかわいいし、優しい。そりゃ惚れてまうよな、って感じすもんね。どこで知り合ったんですか?」
「え……あ、あの……そう、ピザ屋のガラス越しに働いてる彼女を見掛けて……」
「あのピザ屋、ガラス張りで中丸見えですもんね。あ、佑真くんもあのピザ屋で働いてるんすよ。見たことあります?なんか佑真くんがあっこで働いてる姿、全然想像できなくて……」
松ヶ崎との雑談をたっぷり三十分ほどしているうちに、菅沼はかなり緊張が解れたようだった。佑真も菅沼がしっかり自分のしでかしたことを自覚していることが伝わったからか、途中からはすっかり牙も引っ込めて、松ヶ崎の雑談にも加わっていた。おそらく「藤川陽菜乃を好きになった」という共通点からシンパシーのようなものを感じているのだろう。
最後に本当にすみませんでした、ともう一度深々と頭を下げて、菅沼は店を後にした。咲良たちも帰ろうかと思ったが、せっかくスターバックスに来たのだから、とフラペチーノを頼むことにした。
「それにしても菅沼っち、やっぱりかなりまともな男やったね」
「そうやなぁ。しょうもないヤツやったらどうしよ、思っててんけどな。殴らへんって約束してしもてるし。でもきっちり謝っとったしな」
陽菜乃にも報告する、と佑真はスマートフォンをいじり出した。咲良たちのことを紹介出来るのが嬉しいらしい。事件解決祝いと、そのお礼を兼ねて、宅配ピザを頼んでパーティーしよう、と鼻歌混じりだった。
「パーティーするんやったら玲奈さんも呼ぼうや」
「そうやな、玲奈さんも陽菜乃さんのこと、かなり心配してたしな……って、陽菜乃さんから電話や、ちょっと待ってて。はい、もしもし……」
通話しながら店の外へと向かった。陽菜乃からすれば突然「ストーカー事件は解決したよ」と言われても意味不明に違いない。LINEでは埒が明かない、と電話してきたのだろう。
「そやけどさぁ、やっぱり人って恋したらおかしなってまうんやな。菅沼っちはヤバいけどさ、俺も舞さんのことになると正直何するか分からんし」
「恋は盲目って言うもんな」
「そうそう。例えば舞さんが、お願い、って言ってきて、それがヤバいことやったとしても断れる自信ないかもしれん。まぁ舞さんはそんなこと言ってくる人ちゃうけどな」
スターバックスの店内にはカップルと思しき二人組の姿も多く見られた。ああいうカップルもまた、恋により変なことをしでかしたりもしているのだろうか。
初めてのキャラメルフラペチーノに舌鼓を打ちつつ、恋愛について考えてみた。やはり自分にはまだ恋は早すぎるのかもしれない。よく分からないことだらけだ。
「ごめんごめん、陽菜乃さん、むっちゃ喜んでたわ。二人のこと話したらぜひ会って直接お礼したいって」
五分前に座っていた椅子に再び腰掛けながら、佑真がそう言った。あの美女に礼を言われるのはさぞかし気分がよさそうだ。
「菅沼の謝罪については?」
「どっちでもいいって。陽菜乃さん、菅沼のこと知らんし、実感もないみたい。今後、付き纏わへんって約束してるならそれで充分。どうしても直接、って言うなら考えてもいいって感じみたい」
咲良は思わず顔を上げた。
知らない――?
いや、おかしくはない、のか。菅沼は単なるストーカーなのだから。
しかし、強烈な違和感が咲良の意識を蝕んでいる。これまでも少しずつ抱いてきた違和感は、もはや堆く積み上げられ、無視することが出来なくなっていたのだ。
「とりあえず、俺はこの後ちょっとジムに顔出さんとあかんし、先に出るわ。サク、それにマツ、ほんまにありがとう」
そう言い残して佑真はスタバを後にした。
「どうかしたん?」
呆然とした咲良の目を、松ヶ崎が心配そうに覗き込んだ。佑真がいなくなるのを待っていたようだ。
「菅沼は……陽菜乃さんのことを、最初はかわいいな、と思ってて、さらに優しいから好きになったって言ってたやんな。でも……陽菜乃さんは菅沼のこと知らんって言うてる。ヤツは陽菜乃さんの何を見て優しい人や、と思ったんや?」
咲良はとりあえず思ったことを口にしてみることにした。言葉にすることで、その疑問に息が吹き込まれ、そして解決まで歩み出すかもしれない。
「あれちゃう?ガラス越しに見てるうちに、バイト仲間に優しくしてるとこ見た、とか。佑真くんいわく、陽菜乃さんはむっちゃ優しい人やねんし」
「いや……」
違和感はそれだけではない。一つずつは大したものではないが、小さな魚の骨が喉にいくつも詰まっているような気持ち悪さを感じる。
「それだけとちゃう。木村くんも、菅沼はずっと片思いしている相手に、全然振り向いてもらえないって悩んでるって言うてたやんか。認識さらされてない相手に、振り向いてもらえへんなんて言い方するか?」
「それは振り向いてもらえへんとちゃうくて、相手にしてもらえへん、やな」
一度口にしだすと、堰を切ったように止まらなくなった。
「火曜日の件もそうや。あいつはバイトやったからって言うてたけど、次の日の水曜日はバイト終わりに尾行しとる。少なくともバイトはストーキングせえへん理由にはならへんはずや」
「あいつ、嘘ついてたんか!」
「嘘……なんかな。何かを隠してる、とか。ほかにヤツはどんなことを話しとった?」
「うーん、何日に尾けてた、とかやな。とりあえず録音聞く?てか録音止めるの忘れてたわ」
松ヶ崎がテーブルに置かれた自分のスマートフォンを操作しだした。しばらくすると、聞き慣れた声が、スピーカーから流れて来た。もう一度最初から菅沼の台詞を注意深く聞いてみる。何か引っかかるものがあるかもしれない。
「ここもちょっと気になるよな。なんで菅沼っちはこんなはっきりと何日はやった、何日はやってないって覚えてるんやろ」
「スマホ見ながら喋ってたし、なんか記録取ってるんかな、くらいに思ってたけど……あれ?ちょっと待って。戻せる?」
松ヶ崎が画面をスワイプすると、さっき聞いたのと同じ台詞が再び流れて来た。
『陽菜乃さんと一緒に金髪のいかつい男が店から出てきて……怖くなってやめました』
これだ――。少なくともヤツは本当のことを言っていない。
「この台詞でなんか分かったんか?」
佑真が真剣な眼差しで咲良に尋ねた。答え次第では俺は動くぞ、という意思が伝わって来る。
「この金髪のいかつい男って誰のことやと思う?」
「佑真くんのことやろ?実際その日は佑真くんが陽菜乃さんと一緒に帰ったんやろ、たしか」
「そうや、その通り。そこは問題やない。問題はなんで菅沼は佑真が金髪のいかつい男やと認識してたのか、ってことや」
「なんで、ってそら佑真くんは金髪のいかつい男やからしゃあないやんか」
前提の情報を松ヶ崎は知らないのだから無理はない。だがそれは、菅沼(・・)に(・)とっても(・・・)同じ(・・)はず(・・)な(・)の(・)だ(・)。
「佑真が金髪にしたのは、今週の月曜日のことや。つまりヤツが十三日からの五日間、ストーキングをしなかったのは、佑真を見たからではない、ってことになる」
目の前にいるのが金髪のいかつい男だったので、菅沼はつい話にリアリティを持たせようとしたのだろう。それが仇となり、実際は見ていなかったことがこうして顕になったというわけだ。
「単に見てなかったで終わる話でもない。佑真はその週、ほんまに陽菜乃さんのボディガードをしている。ということは菅沼は、お盆の週には誰かが陽菜乃と一緒に帰る、という情報は手に入れてたってことになる」
松ヶ崎が息を呑むのが分かった。ここに来て事態は急展開を迎える、ということになるので、それも当然だ。
「それってつまり……」
咲良も思わず息を呑み込んだ。言ってしまえばもう後戻りは出来ない。ただ咲良は、もはやこれしか答えはない、と確信していた。
「ああ、誰かが菅沼に情報を流してるってことやと思う」
「情報を流してる人がいるって……そんな犯人は仲間の中にいた、みたいなことほんまにあるか?誰がそんなことするんや?」
「思い当たる人は一人しかおらんな」
咲良は自分の左へと顔を向けた。そこに座る男と目が合う。
「玲奈さんのことか?」
「そうやな。玲奈さんが絡んでるなら、すべての違和感に説明がつくんや。木村さんいわく、菅沼はもうずっと高嶺の花とも言える美女に片思いしているってことやったやろ?あれだってよく考えたらおかしくないか?」
陽菜乃は大学進学に伴い、北陸から山科へと出て来た。つまり菅沼が陽菜乃のことを好きになったのは、どれだけ早くても一年ちょっと前ということだ。このあたりは人によって感じ方が変わるが、振り向いてもらえない、という悩みと合わせると、菅沼の片思いの相手は陽菜乃ではない、と考える方が腑に落ちる。
「それに今週の火曜日に菅沼が現れなかったことにも説明がつく。なんせあの日は玲奈さん自身が陽菜乃さんと一緒に帰ってるんやから」
玲奈の指示で菅沼が陽菜乃の後を尾けていたとしたら。もしかすると、菅沼はスマートフォンで玲奈からの指示された日を確認していたのかもしれない。だからこそあれだけ正確な日付を答えられたのではないだろうか。
「サクの言いたいことは分かる。でもそれって玲奈さんが菅沼を使って陽菜乃さんを怖がらせてたってことやろ……なんのためにそんなことする必要があるんや?」
「菅沼に情報を流していたのが玲奈さんやとして、なぜ陽菜乃さんのストーキングなんてしたのか。これがもし玲奈さんの指示やとしたら、その理由が分からん。俺から見ても、あの二人は普通に仲良しコンビにしか見えんかったしな。それになんで菅沼が玲奈さんの命令を聞かなければならなかったのか」
火曜日にコンビニで会話していた二人のことを思い出す。似たようなファッションに身を包み、楽しそうにお菓子や酒を選んでいた。どう考えても、お泊り会で盛り上がっているようにしか思えなかった。
「とりあえずさ……」
松ヶ崎が突然、口を開いた。
「もう再生止めてもいいかな?」
テーブルの上では松ヶ崎のスマートフォンから録音アプリの再生音が流れ続けていた。
「あ、ごめんごめん。もう止めてくれていいよ」
咲良がそう返すと、松ヶ崎は再び自分のスマートフォンへと手を伸ばした。
『そやけどさぁ、やっぱり人って恋したらおかしなってまうんやな。菅沼っちはヤバいけどさ、俺も舞さんのことになると正直何するか分からんし』
音声が停止される直前、松ヶ崎の声がスピーカーから漏れ出た。その瞬間、咲良の頭の中で、パズルが組み合わさるような感覚があった。
ストーカー事件が起こる直前の変態との遭遇。
タイプもスタイルも違う玲奈と陽菜乃。
佑真や玲奈が一緒に帰る日は現れない菅沼。
陽菜乃と一緒にコンビニにいる時、楽しそうに笑う玲奈の表情。
「マツ……」
自分が頭に思い描いたストーリーは、推理とは程遠いものだ。それでも積み上がった違和感が、矛盾なく成立する物語。
「朋美さんに連絡取ってくれるか?ちょっと確かめたいことがあるんや――」
スマートフォンの画面を確認すると、23:52 というデジタル時計が表示されている。もう少しかな、と思っていると、ちょうど道路を挟んだ店の入り口から三人の男女が出て来たが、男はバイクに跨り、エンジンを掛けた。深夜の住宅街の静けさをバリっと引き裂くような音が鳴り響く。二人の女性のうち、一人がヘルメットを被り、振動するバイクの後部座席に乗った。美男美女によるタンデムの完成だ。そのまま三人は少し会話を交わしていたが、距離があるのと、エンジン音にかき消され、その内容については聞き取れない。やがて二人を乗せたバイクは走り出し、すぐに闇夜に溶けて見えなくなった。
残された女性はバイクが進んで行った方向へと歩き出したのだが、その背中は心なしか少し淋しそうに見える。
バイクが去った後の住宅街は、静けさが漂っている。まるで世界に取り残されたような侘しさが感じられた。
女性の歩調に合わせて、ぴったりと十メートルの距離を保ち、後ろを歩く。コンビニを越えると、いよいよ視界に入る光は街灯や家々から漏れ出る明かりだけとなり、足元を頼りなく照らすだけの夜道となった。
前を歩く女性がふと立ち止まった。こちらの足音が聞こえたのかもしれない。それでも彼女は振り返ることなく、再び歩き出した。
怖い。確かめたい。でも振り返れない。
夜の住宅街は女性が一人で歩くのには、少々ハードルが高いように思えた。
しばらくそうして進んでいると、左手に公園が見えてきた。つい四日前に訪れたことのある公園だ。意を決して、声を掛けてみる。
「玲奈さん」
思いがけず自分の名前を呼ばれた女性は、びくっと体を一瞬震わせた後、恐る恐る後ろを振り返った。月に照らされた安達玲奈は、この世のものとは思えない美しさに思えた。
「ごめんなさい、怖がらせてしまって。はじめまして、櫻井咲良と言います。と言ってもご存知かと思いますが……」
玲奈は後ろを尾けている男の正体が分かり、目に見えて安堵していた。いつか見た時と同じような格好。キャップにシンプルなTシャツ、それにスウェット。それでいてオシャレだと伝わって来るような。
「なんの用ですか?」
格好は火曜日と同じような服装だが、その顔付きは、その声は、火曜日とはまったく違った。冷たい響きを感じる声は、切れ長の目と相まって、しっくり来る。まるでこちらが彼女の本質であるかのような気がした。
「藤川陽菜乃さんのことで、少しお話がありまして。よかったらそこの公園で話せませんか?」
彼女は何も言わず、公園へと歩を進めた。今から咲良が何を話すのかが気になったのだろう。どこまで気付いているのかを確かめたいのだ。
深夜の公園は当然、人の気配はなく、不気味なほどに静まり返っていた。子どもたちのために設えられたブランコも滑り台も、主役が眠っている間に、自分たちも休息を取っているようだ。
玲奈はその静けさに溶け込むように、何も言わず、藤棚の下にあるベンチに座った。悲しそうな瞳をしている、と思ったが、気のせいかもしれない。
玲奈からちょうど一人分のスペースを開けて、咲良もベンチに腰掛けた。夜とは言え、八月の空気は生ぬるい。それなのに、右に座る玲奈から冷気が発せられているような感覚に襲われた。佑真とはまた違った冷気だ。
「何から話せばいいのか、正直、俺もまだうまく考えをまとめられてないんです」
玲奈の方を見ずに話し始めた。視線の先には公園を囲む金網がそびえ立ち、「ボール遊び禁止」と書かれた看板がくくりつけられていた。
「友だちの佑真に頼まれて、藤川陽菜乃さんに付き纏う男のことを調べてました。最初は簡単な仕事だと思ってたんです。付き纏うヤツを尾行して正体を掴む。それから警告して、素直に従わないようなら警察に言えばいい、って……」
相変わらず玲奈からは何の反応もなかったが、だからと言って居心地が悪いとは思わなかった。彼女が自分の言葉に耳を傾けている、ということは不思議と伝わって来る。
「実際、すぐにストーカーの正体は分かったんです。菅沼拓人。知ってますよね?」
玲奈の顔を見るも、さっきとまったく変わらない表情を浮かべていた。菅沼の名前に対しても、一切の動揺は見られない。
「佑真にも聞かれた。でも高校の同級生ってだけでよく知らん」
さすがに問い掛ける形だったので、玲奈も答えてくれた。
「それがまず小さな違和感でした。高校時代の同級生なんだから、多少は知ってることもあるはずですよね。実際、吉川朋美さんは菅沼拓人のことを、よく知らないと言いつつも、真面目で頼まれると断れないタイプ、と教えてくれました」
「それは聞き方にもよると思う。菅沼くんのこと教えてほしい、って言われたら私も答え方変えてたかもしれんし」
「そうですね。ただこの菅沼拓人のことを調べると、どんどん話が見えなくなっていったんです」
好きな女の子について、周りに堂々と相談していたこと。その女の子には長年恋心を抱いていること。深夜に女の子に付き纏うことが悪いことだと自覚していたこと。すぐに謝罪し、二度としないと誓ったこと。
「簡単に言えば、菅沼さんから陽菜乃さんに対する執着とか、燃え上がる恋心のようなものが感じられなかったんです。佑真が陽菜乃さんのことを好きなことは知ってますよね?」
「……見てたら分かるわ」
「そう、見てたら分かるんです。一緒に菅沼のことを調べてた俺の友だちも、佑真も、好きな子の話になると、歯止めが利かなくなるほど、ずっと喋り続けるんです。でも菅沼さんは陽菜乃さんの話題になってもまったくと言っていいほど食い付いてこなかった」
「そんなん菅沼くんがそういうタイプやってだけちゃうの?」
「もちろんその可能性もあり得ます。ただ思ったんです。菅沼さんの好きな人は陽菜乃さんじゃないんじゃないか、って」
人は恋をしたらおかしくなる。松ヶ崎が言う通りかもしれない。咲良は最初、それが理由で好きな女の子の後を尾けるという行動に出たと思っていた。だが菅沼が好きな相手が陽菜乃でないとしたら。そして、その好きな子から陽菜乃の後を尾けてくれ、とお願いされたとしたら。菅沼は頼まれたら断れないタイプだと朋美も木村も口を揃えて、そう評価していた。好きな相手なら尚更、それがとんでもない頼みごとであっても、断れないのではないだろうか。
「その相手が私って言いたいわけ?」
「そうすると色々と辻褄が合います。まず玲奈さん、菅沼さんと連絡取り合ってますよね?さすがに俺の存在を知ってなければ、こんな真夜中に突然話がある、と言われてすんなり公園なんかに来るはずありません。佑真には俺の存在は誰にも伏せておくように言ってました。つまり玲奈さんにその情報を渡せるのは菅沼さんしか考えられません」
また無言が返って来た。それは暗に連絡を取っている、と認めたことを表していた。
「よく知らない、と言っていたのに連絡を取り合っている。さらに玲奈さんが片思いの相手だとすれば、菅沼さんがずーっと高嶺の花に片思いしていて、振り向いてもらえないと悩んでいることにも矛盾しません」
木村は菅沼の恋愛事情について、そんな風に言っていたが、一年半前に北陸から出て来た陽菜乃に対して、ずっと片思いしているなんて言うだろうか。一言も交わしたことのないどころか、自分の存在すら認識してもらえていない相手に『振り向いてもらえない』なんて言うだろうか。
「相手が玲奈さんだと、それらはすべて矛盾なく成立しますよね」
なんせ高校のクラスメートなんだから、と繋げた。
「……なんとなく、君はそこまでたどり着いてるやろな、って思ってたわ」
これまでと違い、やけに明るいトーンで彼女はそう言った。あっさりとすべてを認めるようだった。彼女は『本当に知られたくないこと』を隠したまま、幕を引こうとしている。
「全部、君の言う通りや。菅沼くんは、高校の時からずっと私のこと好きやったみたい。何度か告白もされた。その度に断ってたんやけど、最近また告白されて。それでほんまに私のこと好きやったら何でも出来る?って……」
公園の中央に建てられた街灯が、彼女の顔をはっきりと照らしている。彼女の瞳は悲しい色を帯びていた。今度は気のせいではなかった。
「私のバイト先の友だちの後ろを尾けてビビらせてほしいって……。断ったらやっぱり好きって言ってもその程度や、って振る理由にもなるかな、思ってな。そしたら菅沼くん、ほんまにやり始めて私もびっくりしたわ」
彼女の「自白」を聞いて、咲良は悲しくなった。そしてそんな風に悲しくなることさえ、申し訳ない気分になった。彼女はこんな悲しみが比にならないほどの悲しみと辛さを抱えて生きているということが分かったから。
「結局大ごとになってしまって、陽菜乃にも菅沼くんにもほんまに迷惑掛けてもうた。ちゃんと全部説明して、許してもらえへんかもやけど、謝る。櫻井くんやっけ?君にも迷惑掛けてごめんなさい」
恋をしたら誰もがおかしくなる。咲良はまだそれほどまでに人を好きになったことはない。それでも――こんなのは間違っている。それだけは自信を持って、そう思える。
「俺も最初はそんな風に考えていました……。玲奈さんが菅沼さんを利用して、陽菜乃さんを怖がらせるとか、貶めている、とか……」
玲奈の表情に動揺が走ったのを見逃さなかった。これまでどんな話をしても彼女は揺るがなかった。咲良が自分の想定外の反応をしていることに、明らかに焦っている。
「でも玲奈さんがそんなことをする人にはどうしても見えなかったんです。すみません、実は俺、玲奈さんに一度会ってるんです」
張り込み初日、玲奈と陽菜乃がコンビニで楽しそうにお菓子を選んでいるのを、すぐ側で見ていたことを伝えた。彼女はまた何も言わなくなっていた。
「玲奈さんと陽菜乃さんはほんまに仲良さそうに見えたし、怖がらせるためにこんなことする人とはどうしても思えへんかったんです」
「だから!」
深夜の公園に不釣り合いな大きな声が響いた。本人も驚いたようで、アンプのボリュームのつまみを回したように、続く言葉は反対にか細く、聞き取り辛い音量になった。
「だからごめんって言ってるやん……。思えへん、じゃなくてしてしまったの。私はつい、そういうことをやってしまったの……」
つまみはゼロまで回されたようだ。再び公園は静寂に包まれた。中央に据えられた街灯を見上げれば、蛾が何匹も羽根をばたつかせ集まっていた。それがなければまるで時が止まったかのように思える無音の世界だった。
「おかしいな、と思ったきっかけは、陽菜乃さんが誰かと帰る日は菅沼さんが現れない、という規則性でした」
ここで話はまだ終わらない。そういう意思表示のつもりで、咲良は語り始めた。
「どうして菅沼さんは陽菜乃さんが誰かと帰る日を知れたのか。ここから玲奈さんの存在に辿り着いたわけですが、ふと思ったんです。そもそもなんで誰かと帰る日は来ないのか、って」
最初、佑真のようないかつい男が隣にいるのだから当然だ、と思っていた。だがそれは玲奈の指示によるものだった。なぜ、今週の火曜日には来ないように指示したのか。
「ビビらせるのが目的なら、今週の火曜日だって尾けさせても不思議じゃないですよね。むしろ証人が増える分、気のせいではなかったって思わせることだって出来る」
玲奈は――ずっと口を噤んでいる。最後の扉に鍵は掛けられていないが、彼女自身で開くつもりはなさそうだった。
「それなら菅沼さんに陽菜乃さんの後を尾けさせたのには別の目的があったのでは?と考えました。火曜日に玲奈さんはコンビニでこう言ってました。『今日は私がいるから安心しろ』って。あれってそのままの意味だったんじゃないか、って思ったんです」
あの日の光景が再び頭に浮かぶ。陽菜乃と同じようなファッションに身を包み、幸せそうに笑っていた玲奈。
「菅沼さんが陽菜乃さんを尾け始めた少し前に、陽菜乃さん、帰り道で変態に遭遇していました。それが心配で玲奈さんは菅沼さんに陽菜乃さんが無事に帰れるか見届けさせてたんじゃないですか?」
思えば最初から思い込みばかりで話を進めていた。
ストーカーは相手への異常な執着心から出る行動に決まっている。だから菅沼と会ってみると違和感しかなかった。
さらにその根底が間違えていたとしたら。
夜に女の子を後ろから尾けるのなんて、ストーカーに違いない、変質者に違いない、その考え自体が間違えていたとしたら――。
そこに気付いてからはあらゆる違和感が解消されていった。
菅沼は誰を好きなのか。
なぜ菅沼に尾けさせたのか。
「菅沼くんに見届けさせる、ってなんでそんな回りくどいことさせるんよ?」
玲奈の言い方は、疑問形ではあったが、それは答え合わせをしてあげる、というニュアンスに感じられた。彼女はおそらく、咲良がすべてを理解しているということに気付いているのだろう。
「玲奈さんは陽菜乃さんのこと、よく知っていますよね。客観的に見ている分、ある意味では陽菜乃さん本人よりも、理解しているとも言えるくらい」
新発売とあればついつい苦手な辛いお菓子まで買ってしまう陽菜乃。玲奈はそんな彼女を諌めていた。
「また変態に襲われるのが心配だから、と玲奈さんが一緒に帰ることを陽菜乃さんは絶対に認めませんよね?そんなことしたら今度は玲奈さんが変態に襲われるかもしれない。ましてや自分の知り合いに送らせる、なんて陽菜乃さんが受け入れるわけありません」
同じバイト先の佑真でさえ、頑として断られたのだ。見ず知らずの他人である菅沼に頼めるわけがない。
「だから玲奈さんは、陽菜乃さんにバレることなく見守らせるという計画を立てた。そうじゃないと陽菜乃さんを守れないから」
「……そこまでして私が陽菜乃を守りたい理由って何?普通はこんなこと、思い付かへんよ」
「菅沼さんと一緒ですよね?」
「菅沼くんと?」
「はい。菅沼さんは、こんなことは悪いことだ、やってはいけないことだ、と分かりながらも、玲奈さんからのお願いを断れなかった。もともと頼まれたら断れない性格ということもありますが、やっぱり一番大きな理由は、それだけ玲奈さんのことが好きだったからだと思います。俺の友だちの松ヶ崎って奴が言ってました。人は恋をしたらおかしくなるもんや、って。ダメだと分かってても、好きな人のためなら過ちを犯してしまう。そういう気持ちは分かる、って」
「それが私にも当てはまるってこと?」
玲奈は笑っていなかった。それでもこの公園に来た時の表情とは違って見える。優しい顔をしていた。きっと心も優しいのだろう。だからこそ、今回のような間違った方法を選んでしまったのだろう。
「はい。玲奈さん、陽菜乃さんのことが好きなんですよね。恋心、という意味で」
風が吹いた。生ぬるい風だったが、心地は悪くなかった。なぜか、このまま誰もいない公園で、ただ二人で話し続けていたいと思った。どれくらい経っただろう。そんな居心地の良さの中、右に座る玲奈から深く息を吐き出す音が聞こえた。
「……やっぱり全部分かってるんやな。菅沼くんから、高校生が自分のこと調べてて、バレてしまったって報告受けた時から、そんな気はしてた。だってストーカーの正体暴いてくれ、って頼まれても普通はその場で取り押さえて終わりやん。それやのにわざわざ菅沼くんの連絡先まで調べ上げて話し合いまでして。あー、これは私のことまで気付くやろな、ってなんとなく思ったわ」
「俺、今回のことで自分がどれだけ先入観にとらわれて生きてたのかを痛感しました。女の子を夜に尾け回すのは変質者やって思い込んでたし、そんなことするんは歪んだ愛情が原因や、とか。それに、女の子を好きになるのは、男の子やとしか思ってなかったんです」
調べれば調べるほど出口が分からない。そんな迷路を作り上げていたのは、自分の思い込みのせいだったことを痛感していた。
「それでもなんでこんな答えまで辿り着けたん?」
「いや、正直、これといった根拠はなかったんです。玲奈さんは嫌がらせをするような人じゃない、っていうことと、いろんな違和感をパズルみたいに組み合わせたら、これなら矛盾なく成立するな、って思っただけで」
「それだけで?」
「吉川朋美さんに高校時代の玲奈さんについてお聞きしました」
「朋か。なんて聞いたん?」
「俺、さっき自分が思い込みにとらわれてたって言いましたけど、これもまた偏見なんです、すみません。高校時代に玲奈さんに彼氏がいたことあったか。それとどんな服装やったかを聞きました」
玲奈ほどの美人なら彼氏がいるのが普通ではないか。そうでなくても浮いた話の一つや二つはあるのではないか。咲良は自分が思ったことを素直にそう説明した。
「朋美さんは玲奈さんと三年間同じクラスだったんですね。私の知る限り彼氏がいたことはない、と教えてくれました。告白は何度もされていたけど、みんな玉砕していく、難攻不落の美人だったって」
「そんなもててへんかったけどな。服装っていうのは?」
「火曜日にコンビニで見た時、玲奈さんと陽菜乃さん、同じような格好してましたよね」
ベースボールキャップに無地のTシャツ、だぼっとしたスウェットに大きめのスニーカー。二人はまるでダンスユニットのようだった。
「顔のタイプもスタイルも全然違うのに、同じようなファッションだったんです。二人ともオシャレなのは伝わって来たんですが、オシャレな人ならもっと自分に合った服装選ぶのかな、って思って」
違和感というほどのものではなかった。二人ともスタイルは違えど、服装は似合っていたし、何よりバイト終わりのラフな格好だったから。
「朋美さんは玲奈さんが高校時代はもっと綺麗めな格好だったのに、久し振りに会った時にカジュアルな服装になってたからちょっと驚いたって言ってました。それでも似合ってたからおかしくはないけど、とも言ってましたけど」
「櫻井くんって探偵かなんかなん?菅沼くんのこと調べたり、そんなことでここまで推理するなんて」
「推理なんて高尚なもんじゃないんです。根拠らしい根拠もない。そやから玲奈さんが違う、って言ったらそれでおしまいやったんです」
「……私ね、誰にも言うたことないんよ。親にも。バレたのも櫻井くんが初めて。絶対にバレへんように、って思っててんけど、分かる人には分かるもんやねんな」
たまたまです、と返そうと思ったが、言葉を呑み込んだ。今は彼女の言葉に耳を傾けたい。それ以外の言葉は必要なかった。
「自分がおかしいって分かったのは小学生の頃。周りの女の子がみんな、あの男子かっこいいとか、好き、とか言ってるの聞いたり、ドラマ見たりして、あ、私が変なんだって。私の初恋は同級生の女の子だったから」
誰にも言ってない秘密の話。自分にこの話を聞く資格はあるのだろうか。自分は余計なことをしているのだろうか。
それでも玲奈は話してくれている。
それを聞かないわけにはいかない。
「陽菜乃で三人目。おかしいのは私なんだから、もちろん気持ちを伝えたりなんてしない。誰にも迷惑を掛けちゃいけない。そんなの分かってる……。それでも何とかしてあげたかった。私が男なら、一緒に帰って上げられたかもしれない。私が男なら気持ちを伝えられたのかもしれない。でもそんなことしちゃいけないの。おかしいのは私なんだから。こんな気持ちは持っちゃいけないんだから」
ボールで遊び禁止の看板をじっと見つめていた。今、自分は玲奈の顔を見てはいけない。そう思った。彼女の声が震えていたから。こうして秘密を打ち明けてくれているが、彼女の涙は彼女だけのものだと思ったから。
「好きになっちゃいけない。分かっているのに、今回どうしても何かしてあげたくなって、とんでもないことしちゃった……。本当にごめんなさい。本当にごめんなさい……」
彼女のごめんなさいは誰に向けられているのだろう。
陽菜乃か、菅沼か、今回巻き込んでしまった人たちに向けられているのか。
きっと彼女は自分に謝っている。殺さなきゃいけない気持ちを抑えきれなかったことに対して、涙を流しながら謝っている。
「俺……ほんと全然分かんなくて。今日だってわざわざこんな話、玲奈さんにする必要もなかったかもしれないし。それでもまず分かってほしかったのは、今回陽菜乃さんがどれだけの恐怖を味わったか、ということです。知らない男の人に夜中、尾けられる。もしかしたら陽菜乃さんはこれからも、夜歩く度に足音に怯えるようになるかもしれない。目的は怯えさせることではなくても、それぐらいひどいことをしたってことは分かってほしくて、玲奈さんの後を尾けさせてもらったんです」
佑真には細かい事情は伏せて、今日、何とか陽菜乃と一緒にバイト先から帰ってくれ、とお願いしておいた。佑真も松ヶ崎も、咲良が何かしようとしているのは、おそらく勘付いている。それでも彼らはこうして、ノータッチで自分にすべてを委ねてくれている。事件がすべて解決したとしても、根掘り葉掘り聞き出そうなんてしない。あの二人はそういう人間なのだ。
「分かってる……。櫻井くんが私を怯えさせるためだけにこんなことする人やないってことは、喋ってても分かる……」
「それから……これはほんまに分からへん。俺なんてまだろくに恋もしたことない高校生で、世の中のこととか、社会のこととか、全然分かってないガキやし、思い込みも偏見もありまくりって今回も痛感したし、それでも……」
うまく考えがまとまらない。
それでも構わない。
いつだって自分は出たとこ勝負だ。もともと大して頭がいいわけでも、まじめに社会情勢を考えたりしてるわけでもない。
思ったこと、感じたことを自分の言葉で伝えるだけだ。
「ほんと難しくて、同性婚とかも言われてるけど、全然分かんないけど、好きになっちゃいけない人なんていないと思うんです。好きだと伝えるかどうかは自由だし、誰にも告げずに終わる恋なんて異性愛でもあると思うし。なんて言うか、堂々と片思いする権利は誰にでもあるって言うか。玲奈さんはやり方が間違ってただけで、陽菜乃さんを守りたいって思った気持ちは、殺さなきゃならないようなものじゃないと思って……」
隣に座る玲奈が声を上げて泣き出した。
言いたかったことはうまく伝わっただろうか。伝わっていたらいいな、と思ったし、それに彼女の泣き声を聞いていたら、なんとなく伝わったんだろうな、とも思った。
夏の終わりの真夜中の公園のベンチで、涙を流す美人と二人きり。相手は恋人でも、好きな人でもないけれど、咲良はこの夜のことを絶対に忘れたくなかった。
「櫻井くんって、普段からいろんな人の頼み聞いてるん?探偵みたいに」
たっぷり五分、泣き続けた後、さっぱりとした声で彼女が尋ねて来た。咲良は右を向き、声の主と顔を合わせた。久し振りに玲奈の顔を見た気がする。さっき見た時は優しい人だと思ったが、また少し違った印象を受けた。彼女はきっと、優しくて、強い人なんだろう。
「探偵、というか、成り行きで困ってる人を助けることになる、みたいな感じですかね。ほんと大したことしてないんですよ」
「困ってる人を助ける、か。いいね。今度から恋の悩みは櫻井くんに聞いてもらうことにするね」
「いや、勘弁してくださいよ!俺、ほんと恋愛経験ゼロなんで!……でもまぁ、話を聞くくらいなら、いつでもどうぞ」
咲良の返事に満足したように玲奈は笑った。そう言えば彼女の笑顔を見たのは火曜日以来初めてだ。クールな顔立ちの彼女だけど、やっぱり笑顔が一番素敵だな、と思った。
「でもあれやな。さすがに陽菜乃にはちゃんと全部言わなきゃあかんな。あーあ、絶対言わないって決めてたのになぁ。自分で蒔いた種だから仕方ないけど」
「全部は言わなくていいんじゃないですか?心配だったから友だちに頼んで見張ってもらってた、って」
秘密の共有ってわくわくする。その相手が美人なら尚更だ。
咲良の提案が意外だったようで、玲奈は驚いていた。意外と表情が豊かだったことに、咲良も驚いた。
「……ありがと…………。でも菅沼くんには謝らなきゃね」
「そうですね。僕も一緒に謝りますよ。ただ一つだけ、口止めの条件があるんです」
玲奈を困らせてやろうと、わざと真面目な表情を作ったが、彼女の目はどんな条件でも飲む、という覚悟が見られた。やっぱり強い人なんだろう。
「今度、ピザを一緒に食べましょう。佑真の奢りで」
深夜の公園を二人の笑い声が包み込んだ。
そろそろ夏が終わろうとしていた。
「というわけで!いろいろとありましたが、ここにいるサクとマツのおかげで無事に解決したということで!」
九月二周目の日曜日、佑真はさっそく約束通り、咲良と松ヶ崎を陽菜乃に紹介する場を設けた。咲良は初めて入る一人暮らしの女子大生の部屋にドキドキしていた。外観だけは尾行時に見ていたが、かなり新しい建物で、廊下も部屋もぴかぴかだった。当然、家主である陽菜乃がまめに掃除しているという点も大きく影響しているのだろうが、それにしても傷一つないフローリングなんかを見ていると、築浅の魅力が感じられる。まさに理想的な一人暮らしの環境だ。
ワンルームだが、廊下とキッチンスペースが広く取られているので、手狭な印象もない。八帖ほどのリビングスペースもきっちり整頓されている。本人は、みんなが来るからかなり気合入れて片付けた、と言っていたが、おそらく普段からきっちり掃除をしているのだろう。
部屋の入り口から食器棚、本棚、キャビネット、パソコンデスクと家具が並ぶがすべてが白色で統一されている。単にオシャレというだけでなく、清潔感も溢れる部屋模様だった。本棚には漫画本もあったが、文庫本や、大学の授業で使うであろうテキストもしっかり並べられていて、遊びと勉強、どちらも真剣に取り組んでやる、という姿勢のように見えた。咲良は漫画本しか入っていない自分の部屋の本棚を思い出し、妙に恥ずかしい気持ちになった。ダミーでいいから今度、古本屋で何か勉強用のテキストを買って、本棚に並べておこう。
パソコンデスクの上にはコルクボードが置かれ、写真やポストカードがピンで貼り付けられている。何気なく写真を見てみると、高校時代と思われる写真や、大学の構内で撮られた風の写真に混じって、玲奈とのツーショットや、ピザ屋の店内で撮影された写真もあった。佑真もしっかり写り込んでいる。
家具の並びと逆向きのL字になるような形でベッドが置かれ、その前には楕円形のローテーブル。そのテーブルを囲むように、咲良たち五人が座っているわけだが、窮屈さは感じられない。佑真の部屋と違ってお香は焚かれてないのに、なぜかいい香りが漂っているような気がする。
初めて入った女子大生の一人暮らしの部屋が、この部屋でよかった。まだ高校生なのに女子大生への幻想を崩されなくて済んだ。
「みんな、本当に、本当にごめんなさい!」
今まさに、手に持ったコーラのグラスを掲げて、乾杯の音頭を取ろうとしていた佑真を遮るように、玲奈がこの場にいる全員に向かって頭を下げて謝った。玲奈からは松ヶ崎以外にはそれぞれ既に謝っていることも聞いていたが、改めて謝らなければならないと思ったのだろう。
咲良は佑真から、玲奈が親友を心配するあまり、友人に内緒のボディガードをお願いしていた。それが菅沼だった、という「真相」を聞いたので、それをそのまま松ヶ崎にも伝えていた。
「もういいって。本当に怖かったけど、ストーカーじゃなかったって聞いたら安心もできたし」
「そうそう。それに陽菜乃さんも、これに懲りたら他人の優しさをもうちょっと受け入れてくださいね。すぐ遠慮するから、玲奈さんも内緒でやっちゃったわけやし」
二人がそう言うと、玲奈は顔を上げ、今度は何度もありがとう、と繰り返した。
「なんかよく分からんけど、とにかく悪いヤツはいなかったってことで……いいんよね?」
松ヶ崎が困ったような顔で咲良の顔を覗き込んで来た。彼は間違いなく事件はそれだけじゃなくて、裏のようなものがあると勘付いている。それでも知らない振りを徹底出来るのが、松ヶ崎の魅力の一つであることを咲良は知っていた。
「そうやね。終わりよければすべてよし、ってことでいいんじゃないでしょうか」
咲良がまとめると、なぜか拍手が起こった。
「それじゃあみなさん、グラスは持ちましたでしょうか」
咲良と松ヶ崎と佑真はコーラの入ったグラスを、美人コンビはビールの入ったグラスを手にしている。テーブルの上には三人のバイト先の店長が「特別だ!」と具材をたっぷり増量してくれたLサイズのピザが、早く食べてくれ、と言いたげに湯気を立てている。ちなみに同じサイズのピザがあと二枚控えていて、代金はすべて佑真が支払ってくれた。陽菜乃と玲奈は払う!とごねたが、佑真は頑として譲らなかったらしい。
「それでは本当に!お疲れ様でした!乾杯!」
「かんぱーい!」
グラスの当たる小気味良い音が部屋中に響いた。こんなに楽しいパーティーを味わえるなら探偵ごっこも捨てたもんじゃないな。
目の前には美人が二人。タイプもスタイルも違うが、二人ともよく似た服装をしている。
陽菜乃の隣、触れるか触れないかの位置に玲奈が座っている。その距離がきっと玲奈の片思いの距離なんだろう。
それは世界でたった一人、咲良だけが見ることの出来る切なくも、幸せを感じる距離だった。