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ノブレス・オブリージュ in 世田谷

     世田谷に越して半年が経つ。
     進学のために上京して15年以上が経つが、いまだに世田谷という街に関する知識としては、お金持ちがたくさん住んでいるらしいというのと、グルコサミンが育つらしいということくらいしかない。

     この場所に行き着くまで、何度か引っ越しを重ねてきたが、思い返すと風呂無しはもちろん、部屋にねずみが出るボロアパートに住んでいた時期もあった。これまでと比べると、ダントツでグレードの高い居住地である。同棲を機に越してきた低層マンションは、築年数こそなかなかであるが、天井が高く開放感があり、ホテルライクにリノベーションされている。予算をいささかはみ出していたような気もするが、どこか非日常的な空気感に二人して魅了され、あっさりと入居を決めた。家賃を払い続けるのに自分の稼ぎだけでは心許なく、フリーランスで安定しない妻の仕事の具合によっては長く住むことはできないかもしれないが、しばらくはここで世田谷ライフを満喫したい。

     さて、今日は休日であるが、妻は私用で不在、少し降っていたはずの雨もやんでしまった。普段はリモートワークで家にこもりきりなので、休日も一日中家にいると、最近なんとなく妻の視線が痛い。引きこもる言い訳がなくなってしまったが、かといって今から電車に乗ってどこか別の街へ出掛けるほどの気力はなく、久しぶりに外で少し体でも動かすかあと思い立つ。

     ChatGPTに1時間以内のランニングコースをきくと、駒沢公園はどうかと提案された。到着して2周すればちょうどいいし、ちょっと短くしたい気分のときは1周だけにするのもおすすめ、とのことで、それなら1周だけいってみようかしらと、膝の上でくつろいでいた猫を抱き上げる。普段そこまで運動しないくせに、見栄をはって”1時間以内”なんていったのを見透かしてくれて本当に助かる。

     着替えて家を出て、静かな高級住宅街に突入する。
     バズーカを撃ち込んでも傷一つつかなそうな、無口な一軒家がずらりと並んでいる。ツヤツヤボディの外車、海を超えて運ばれてきたであろう、名前もわからない大きな木。手入れされた花壇、道路脇で鮮やかに咲く紫陽花、紫陽花。豪邸の脇に設置されている飛び出し坊やは、赤いアバクロのポロシャツとトミーの短パンを履いていた。

     なんだか自分もお金持ちになったような気分で、爽快に走る。ピンクの三輪車に同色のヘルメットを被った女の子とすれ違うと、すでに公園の入り口にさしかかっていた。園内に入ると、綺麗な身なりの家族連れがわんさか、ほっそい犬をつれたマダムや、サングラスをかけて肩幅の大きなグランパが芝生の上をゆったりと歩き、シャボン玉が浮遊するランニングコースをコンドームみたいな運動着を履いた女が走っていた。"チリリン広場"では自転車の群れがうごめき、”ぶた公園”では、首から下が地面に埋められた豚のオブジェに子どもがまたがって笑っていた。

     人工的につくられた自然にやや違和感を感じながらも、無害であることが約束された多様性は十分に興味深く、珍しい動物や植物を見逃すまいと注意深く観察しながら走っていると、道の真ん中で思いがけないものを発見した。

     犬のうんちである。程よくウェッティで、生まれ落ちてそれほど時間もたっていない、シャウエッセンくらいの大きさのそれが2つ、ランニングコースのど真ん中に並んでいた。犬の散歩をしている人がたくさんいるんだから、もちろんあって然るべきで、実際にあったのだが、そのときはどうもそんなものがこの世界にはあるはずがないと決めつけていたのか、意識の外側から急に現れたうんちに動揺した。少しペースを落として走りながら、うんちの起源に想いを馳せる。そして、この美しい世田谷、駒沢公園の、それも大勢が行き交うランニングコースのど真ん中で、飼い犬のうんちを処理せず放置する輩がいるのだ、という事実に辿り着いたところで、背中に冷たい汗が流れた。世田谷はお前が思ってるほど安全じゃないぞ。少数だが狂人がいる。気を引き締めろ。

     逃げるようにして走る帰り道、よくみると全然ネズミとかゴキブリとかいた。目に入ってても見えてなかっただけでした。まさか犬のうんちに世界を拡げられるとはね。家に帰ると、飼い猫がゲロしてたので丁寧にティッシュで拾って捨てた。ゲロ主は幸せそうに寝息を立てていた。


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