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写真は何を固定するのか。写真の可能性を考える。

    はじめに

    オリジナルの文章は私自身の言葉であるが、私の文章力・構成力の稚拙さから、言いたいことがうまく伝わらない可能性がある。そこで、今回は、オリジナルの文章とともに、AIによる読みやすく手直ししてもらった文章も載せている。若干ニュアンスも異なっているが、英文を翻訳するときも翻訳者の味が出るものだし、AIの味もしょうがないかと思うことにした。

    オリジナル

    カメラ・写真にハマってすぐの頃は、F値低めのボケた写真や、「日の丸構図」やらの構図を意識した写真をたくさんとる。誰しもが通る道。

    もちろん、これらはプロでもあえて撮る類の写真であり、それぞれが完成された一つの技法たり得ることは補足しておく。

    また、その次には、色をいじることをする。精進料理そのものは素敵だが、全ての料理が精進料理のような色をしていては食産業は廃れてしまうだろう。これも誰しもが通る道。もちろん、これも以下略。

    ここまでの写真たち、すなわち、ボケくっきりフォーカス、がっちり構図、色調スパイス。
    これらだけを撮るために写真を撮っていてはもったいない。
    写真とはもっと自由で壮大なもの。それを記したい。

    1
    かのニューカラーの大家、ステファン・ショアは、パンフォーカス(全ての被写体にフォーカスが当たる。何かにフォーカスしてあとの被写体をぼかすのと逆。)を好んだ。彼についてまとめれた本によれば、彼はパンフォーカスに映る全ての被写体の存在感や質感や運動らの関係性を調和させた状態を一枚の写真で切り取っているという。写真は世界を平面に切り取る。平面とは二次元ということ。写真は、奥行きのない世界を作り出す。そのとき、手前にあるものと奥にあるものはその二次元上でお互いを意識せざるを得なくなる。つまり、写真において、手前にあるものと奥にあるものはある意味「等価」なのだ。ある一点から写真を撮り、世界を切り取るとき、手前にベンチ、奥に山があるとすれば、目前にあるベンチと奥の山は写真上では影響を与え合う関係性を獲得するのである。写真において、世界は一つの視点から圧縮される。モノクロとカラーでこの関係性が変化することは自明だろうか。

    2
    また、写真家、石川直樹は五十嵐大介との対談(『五十嵐大介 画集 海獣とタマシイ』に収録。)にて、写真を撮る目的についてこう話す。言葉が追いつけない世界をキャッチするためだと。彼によれば、写真は世界の端的な模写であり、言葉で説明するとこぼれ落ちてしまうものが写真には写るというのである。人間の視覚には盲点があり、錯覚も引き起こす。しかし、写真は性質上、認知・伝聞による誤りがあり得ない。四角の枠に収めれば、その瞬間の人間の視界では見落とされるものも写真の網にかかる。写真は世界を濾し出すことができる。写真なら、後から、過去を違う視点で眺め直すことができるのだ。

    3
    写真の世界のアワードには、かのピュリッツァー賞がある。ピュリッツァー賞はジャーナリズム写真の栄誉だ。このことからわかるとおり、写真はジャーナリズムと密接かつ効果的に結びつく表現形式である。写真は、事実としての世界を切り取り、印象的な瞬間を彫刻のように氷漬けにし、同じ像を多くの人の視界に結ばせることができる。これは哲学者が概念を創出するのに似ている。ジャーナリズムとしての性質を帯びた写真は、目の前の世界に一枚の写真を持って概念を与えるのだ。これは何も戦場に限らない。ハレの日に限らない。ケたる日常の風景や人をあなたが写真に収めれば、その瞬間は一枚の写真の中で時を超える彫刻、概念になる。

    4
    かのポルトガルの詩人ペソアが「真の感動は知性のレヴェルでは真ならざるものとなる。感動が生じるのは知性のレヴェルではない。したがって真の感動はすべて表現されたとき真ならざるものとなるのだ」(一九二七年)と述べて、全ての表現は虚構う(よそおう)ことによって可能となると論じた。写真は確かに世界の模写たり得る。事実を写しとれる。しかし、ペソアの言葉を踏まえれば、真なる何かを表現したいとき、写真にその真なるものをそのまま写す必要はないのである。大いに虚構う(よそおう)ことが写真を撮る者全てに許されている。モアやケアれを多用した森山大道の作品は、被写体の質感が消え失せようとも、あんなにも真に訴えかける力を持つではないか。

    5
    写真は組み合わせることができる。一枚の写真で足りないなら2枚。2枚で足りないなら10枚。そこに限界はない。プロヴォーグがその実験の賜物か。また、たった2枚の写真が共鳴する様から世界の奥行きを知覚させる川内倫子の作品もある。写真は複数並べることで全体を一挙に提示できる。写真はインクを使えば物質化できる。この物質化された世界の主観的な断片の集積により、写真という媒体によって世界は新たな「全体」として構築し直される。

    6
    写真が撮られると、結果的に偶然性が必然となる。写真は世界に存在するものを使う。生身の人間。その人間がその場にいた運命。その容貌を有していた偶然。工芸品は歴史という偶然。果実は蔓のうねりも表面の斑紋の形も写真を撮るものにはコントロールできない。しかし、それを写真に写すとき、その個性が事実として、世界のありのままの姿として立ち現れる。写真になった被写体の世界は必然として記録される。つまり、写真は撮ってしまえば、全ての偶然は必然として形に残る。

    7
    最後に、見たものの心の状態を変化させることを目的とした写真もある。そこでは純粋な主題のみが追求されることが多い。あるいは客観的に定まる主題なんてものは定義不可能に思えるものもありうる。写真には油絵のような塗り重ねや筆跡はない。絵の具の色の選択もない。そこにあるのは結論のみである。そうしたとき、写真は最も客観的で正当性のあるものである一方で、最も説明の少ない究極の抽象画にもなり得る。その意識の間隙に生まれた写真上の違和感は、ゲルハルト・リヒターの写真に見える絵のように、被写体とは離れた独立のしこりとなる。写真は客観的なものという性質を逆手に取るのである。このとき、写真から生じた違和感は、写真が客観の担保としての性質ゆえに後ろに一歩下がるなら、写真からの一種の無償のプレゼントにも思えるだろう。

    ここに挙げたのは写真の可能性の一部である。
    一つ言えるのは、全ての写真の可能性の原点が、サン・ルウにあるということだ。


    AIによる手直し版

    写真は、もっと自由で壮大なものだ

    カメラや写真にハマったばかりの頃、人はまず「写り」に惹かれる。

    背景を大きくぼかした写真。
    構図をきっちり整えた写真。
    色味を強く調整した写真。

    誰しも一度はそこを通る。

    もちろん、これらは単なる初心者的表現ではない。
    浅い被写界深度も、構図法も、色彩設計も、プロフェッショナルが今なお用いる完成された技法である。

    ただ、写真の可能性はそこだけでは終わらない。

    ボケ。構図。色。
    それらは写真を構成する重要な要素ではある。しかし、それだけを目的に写真を撮っているとしたら、写真という媒体はあまりにも広大すぎる。

    写真とは、本来、世界の見え方そのものを変えてしまう表現だからだ。

    1. 写真は、世界を平面にする

    ニューカラーを代表する写真家、Stephen Shore は、パンフォーカスを好んだことで知られている。

    パンフォーカスとは、画面全体にピントが合った状態のことだ。
    一般的な「主題だけをくっきり写し、背景をぼかす」写真とは逆に、手前から奥までが等しく画面へ存在する。

    彼について論じた本では、ショアの写真は、画面内にあるあらゆる被写体の存在感や質感、それらの関係性を、一枚の中で調和させていると説明されていた。

    写真は、三次元の世界を二次元へ切り取る。

    つまり、奥行きを持って存在していたものたちが、一枚の平面へ圧縮されるのである。

    そのとき、現実では遠く離れていたもの同士が、写真の中では互いを意識せざるを得なくなる。

    たとえば、手前にベンチ、奥に山がある風景。

    現実では両者はまったく異なる距離に存在している。
    しかし写真の上では、それらは同じ平面に並び、一つの関係性を持ち始める。

    ベンチの形が山の輪郭を引き立てることもあれば、山の重量感がベンチの孤独を強調することもある。

    つまり写真とは、「何を撮るか」だけでなく、「何と何を同じ画面へ共存させるか」の芸術でもあるのだ。

    そして、モノクロかカラーかによっても、その関係性の質は変化する。

    写真は、世界を平面化することで、現実には存在しなかった新たな関係を生み出している。

    2. 写真は、人間の認識からこぼれ落ちたものを残す

    写真家の Naoki Ishikawa は、五十嵐大介との対談の中で、「言葉が追いつけない世界をキャッチするために写真を撮る」と語っている。

    人間の認識には限界がある。

    私たちは、自分が重要だと思ったものしか見ない。
    意味づけられたものだけを認識する。
    そして記憶も、時間とともに変化してしまう。

    しかし写真は違う。

    写真は、その瞬間に存在していたものを、機械的に定着させる。

    撮影した時には気づかなかった人物。
    背景に入り込んでいた光。
    偶然写り込んだ標識。

    そうしたものが、後から写真を見返した時に立ち現れてくることがある。

    つまり写真には、人間の意識からこぼれ落ちたものを回収する力がある。

    写真を見るという行為は、単に過去を懐かしむことではない。

    むしろ、自分がその時には見ていなかった世界を、後から発見し直す行為なのである。

    3. 写真は、世界へ意味を与える

    写真は、ジャーナリズムと強く結びついてきた。

    それは偶然ではない。

    一枚の写真は、膨大な現実の中から一瞬を切り取り、「これは見るべき光景なのだ」と提示する力を持っている。

    戦場写真。
    災害写真。
    抗議運動の記録。

    そうした写真は、単なる記録以上のものとして機能する。

    哲学者が言葉によって概念を作るなら、写真家は像によって概念を作る。

    しかし、それは何も特別な場面だけに限らない。

    深夜のコンビニ。
    夕方の住宅街。
    帰宅途中の人影。

    本来なら誰にも意識されず過ぎ去っていく日常も、一度写真として切り取られた瞬間、「見るべきもの」へ変化する。

    写真は、世界へ注意を発生させるのである。

    4. 写真は、真実だけでは成立しない

    ポルトガルの詩人、Fernando Pessoa は、「真の感動は表現された瞬間、すでに真ではなくなる」と述べた。

    写真は現実を写す。

    しかし、だからといって、写真が純粋な真実そのものだとは限らない。

    どこを切り取るのか。
    何を画面へ残すのか。
    どの瞬間を選ぶのか。

    そこには必ず撮影者の選択が介在している。

    つまり写真は、現実を記録しながら、同時に現実を編集している。

    だからこそ、写真には虚構が許される。

    むしろ、ときには不鮮明さやノイズの方が、現実以上のリアリティを生み出すことすらある。

    Daido Moriyama の荒れた画面が強い力を持つのは、そのためだろう。

    彼の写真では、被写体の輪郭すら崩れている。
    それでもなお、そこには都市を生きる感覚が異様な強度で残っている。

    写真とは、単なる事実の複製ではない。

    現実の感触そのものを再構成する表現なのである。

    5. 写真は、複数を並べることで世界を作り直せる

    写真は、一枚だけで完結するとは限らない。

    一枚で足りなければ二枚。
    二枚で足りなければ十枚。

    写真は、組み合わせることができる。

    プロヴォークの実験的な写真群は、その可能性を大きく広げた。

    また、Rinko Kawauchi の作品のように、たった二枚の写真が互いに響き合うことで、世界の奥行きや感情を立ち上げることもある。

    写真は印刷されれば物質になる。

    そして、物質化された複数の断片が並べられたとき、そこには単体の写真では到達できない、新たな「全体」が生まれる。

    写真とは、世界の断片を使って、新たな世界を構築し直すことのできる媒体でもあるのだ。

    6. 写真は、偶然を必然として固定する

    写真は、現実世界を素材として使う。

    そこにいた人物。
    偶然差し込んだ光。
    工芸品の傷。
    果実の模様。
    街の汚れ。

    それらの多くは、撮影者が作り出したものではない。

    しかし、シャッターが切られた瞬間、それらは写真の構成要素になる。

    つまり写真とは、偶然を必然として定着させる表現なのだ。

    本来ならただ通り過ぎて消えていったはずの瞬間が、「この瞬間でなければならなかったもの」として固定される。

    写真家は世界を完全には制御できない。

    しかし同時に、世界そのものを共同制作者へ変えることができる。

    7. 写真は、最も客観的で、最も抽象的な芸術でもある

    写真は、客観的な記録だと思われがちである。

    しかし同時に、写真ほど抽象的になれる表現も少ない。

    写真には、絵画のような筆跡がない。
    彫刻のような物質感もない。

    そこにあるのは、切り取られた「結果」だけである。

    だからこそ写真には、説明できない違和感が生まれる。

    画面の片隅に残った空白。
    わずかにずれた視線。
    意味のわからない構図。

    それらは、被写体とは別の層で独立した存在感を持ち始める。

    Gerhard Richter の作品が示しているのも、そうした写真と抽象性の境界だろう。

    写真は、最も客観的な媒体でありながら、最も曖昧で抽象的な芸術にもなり得る。

    だからこそ、写真には終わりがない。

    ここに挙げたのは、写真の可能性のほんの一部に過ぎない。

    ただ一つ言えるのは、写真とは単に「きれいに撮る」ための技術ではないということだ。

    写真とは、世界をもう一度見直すための方法なのである。

     
     
    タラッサ。 海と本が好きです。 好きな本は、宮沢賢治『注文の多い料理店』の序。

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