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【エッセイ】:人生には、「遅すぎる」は案外存在しない

    はじめに

    ある日、Noteの「公開する」ボタンを押す前に、私は少しだけ深呼吸をした。

    書き終えた文章をもう一度読み返す。
    遠近両用眼鏡をかけ直してから、もう一度だけ画面を見る…。

    若い頃には考えもしなかった光景だ。

    50代になって、自分の考えを文章にして発信するようになるとは思っていなかった。ましてや、その先に海外の読者がいる未来など、想像すらしていなかった。

    人生はホント不思議なものだと思う。

    若い頃に思い描いていた人生と、今の人生はまったく違う。でも、それを残念だと思ったことは一度もない。むしろ、年齢を重ねた今の方が世界は少しずつ広がっているように感じている。

    そして最近、若い頃の自分に言いたいことが増えてきた。

    「もっと早くやっておけばよかったな…」

    そんなことが、いくつかあるのだ。


    英語が嫌いだった私が、今になって英語と向き合っている

    学生時代、英語は苦手だった。
    できれば避けて通りたかったし、好きになろうと努力した記憶もない。
    当時は、英語ができなくて困る未来を想像できなかったからだ。

    社会人としてのスタートは航空自衛隊だった。

    今のように誰もが海外とつながる時代ではなかったし、英語が直接必要になる環境でもなかった。だから、英語を勉強しなかったことを後悔しているかと言われれば少し違う。その時代にはその時代の価値観があった。

    ただ、今になって思う。
    「もっと真面目に取り組んでおけばよかったな」…と。

    もちろん、今は翻訳ツールもある。海外のサイトを読むこともそれほど難しいことではない。便利な時代になった。

    でも、便利になったからこそ分かったことがある。

    翻訳できることと、会話ができることは、まったく違う…。

    どこの国の人と仕事をするとしても、基本となるのは英語だ。英語が完璧である必要はない。でも、相手と直接やり取りができるだけで距離感は驚くほど縮まる。これは50代になって実感していることのひとつだ。


    自衛隊には時計がいらない

    自衛隊では、時計はあまり必要ではない。
    もちろん、持っている人はたくさんいる。でも、基地の中にいる限り時計がなくても最低限の生活はできる。必要な時間になれば、号音ラッパが鳴るからだ。朝も昼も夕方も夜も、ラッパが時間を知らせてくれる。

    音楽隊の一日もそれに合わせて進んでいく。始業後、午前は9時半頃から合奏が始まる。午後は13時半頃からまた2〜3時間の合奏がある。その合間にデスクワークをこなす。私の場合、そのひとつが作編曲だった。

    もちろん、毎日合奏ばかりしているわけではない。個人練習の日もあるし、体力錬成の日もある。

    そして、私は体力維持にはずいぶん苦労した。

    音楽をやっている人の中には、運動が得意ではない人も少なくない。私もそうだった。でも、自衛隊員である以上、自衛官であることが最優先だ。だから、一番頑張っていた頃は自転車で通勤(片道10km)し、昼休みや終業後にランニングや水泳もしていた。今思えば、ミニトライアスロンのような生活だった。

    当時は大変だったが、今となっては良い思い出だ。そして、その経験が今の自分の土台になっているし、退職して10年経つ今でも、当時ほどではないが今でも運動を続けている。


    母に心配をかけたくなかった

    私は、もともと自衛隊音楽隊員になるつもりだったわけではない。
    きっかけは、尊敬する同門の先輩が入隊したことだった。そしてもうひとつ大きな理由がある。それは、母に心配をかけたくなかったことだ。

    学生時代、学業優先はもちろんだが、ありがたいことにたくさんの仕事をさせていただいた。学生料金という形ではあったが、一般的なアルバイトよりもはるかに収入の良い仕事だった。もちろん、それだけ責任も伴った。締め切りに追われながら、質を落とさないように必死で取り組んでいた。すると、ありがたいことに次から次へと仕事をいただけるようになっていた。

    その頃の私は、就職活動をせずにフリーランスとして生きていこうと考えていた。

    ところが、在学中に母が身体を壊した。

    入退院を繰り返し、手術も受けた。そんな状況で自分の将来について「フリーランスになりたい」と言うことはできなかった。私が言えたのは…

    「もし就職活動がうまくいかなかったら、数年だけフリーランスをやらせてもらえないかな…」

    なんとか声を絞り出した。それが精一杯だった。
    そんな中、自衛隊音楽隊への採用が決まった。もちろん、母は喜んでくれた。

    でも今振り返ると、笑顔の向こう側に少し複雑な表情が見え隠れしていたような気がする。「本当にそれでいいの?」そんな気持ちもあったのかもしれない。

    答えを聞くことは、もうできない。
    でも、ひとつだけ嬉しかったことがある。

    亡くなる数日前、地元に近いホールでのコンサートに来てくれたことだ。実際に私たちの演奏を聴いてもらえた。あの時間は、今でも大切な思い出になっている。


    母から教わったこと

    母とは本当にたくさんの話をした。
    その中でも、今でも忘れられない言葉がある。

    「ありがとうと、ごめんなさいは、声に出して言いなさい」
    そして…
    「人の苦労は、買ってでもしなさい」だ。

    幼い頃は、その意味を深く考えたことはなかった。
    でも、年齢を重ねるほど、その言葉の重みが分かるようになった。

    「ありがとう」も「ごめんなさい」も、思っているだけでは伝わらない。きちんと言葉にして伝えることに意味がある。そして、苦労から逃げないこと。嫌なこと、苦手なことほど、自分を成長させてくれることもある。

    振り返ってみると、私の人生の土台は母が作ってくれたのかもしれない。

    そして今思う。
    あの時、母のために選んだ道も遠回りではなかった。自衛隊での21年間があったからこそ、今の私がいる。人生の選択に無駄なものはひとつもなかったのだ。


    被災地で教わった、人の温かさ

    自衛隊音楽隊在籍中、新潟県中越地震や東日本大震災では災害派遣として現地へ慰問演奏に出向いた。避難所には多くの被災者の方々がいた。私は、どこかで自分たちは励ます側なのだと思っていた。でも、現実は違った。

    どこの避難所でも、皆さんが歓迎してくださった。
    そして、多くの人が笑顔だった。
    時には、被災者の皆さんのために用意された炊き出しをご馳走になることもあった。

    不思議な感覚だった。
    支えるつもりで行ったのに、支えられているのは自分の方だった…。

    立場は違っても、人の温かさは変わらない。
    あの時の笑顔は、今でも忘れられない。
    あの経験があったからこそ、私は人を信じることができる。

    そして今も、あの笑顔を思い出すたびに思う。

    人が人を支えるとは、どちらかが一方的に与えるものではないのだ…と。

    笑顔を向けてもらったあの瞬間、私は確かに何かを受け取っていた。それが何なのかをうまく言葉にすることはまだできていない。でも、あの経験は今も私の中に生きている。


    人生の役割は変わっていく

    自衛隊音楽隊での仕事には、感謝しかない。
    でも、長く続けていくうちに少しずつ考え方も変わっていった。公務員だからこその制限がある。もちろん、それは必要なことだ。でも、音楽というものは目に見えないものを自由に表現するものでもある。その両立の難しさを感じる場面もあった。

    そして2012年3月11日…。

    東日本大震災から1年が経ったその日、テレビでは「あれから1年」という特集が数多く組まれていた。それを見た瞬間、不思議と心が決まった。

    もっと自由に音楽の仕事をしたい。外の世界を知りたい。

    そう思ったのだ…。

    さらに、年齢を重ねるにつれて自分の役割についても考えるようになった。老眼も始まり、演奏技術も若い頃のようにはいかなくなる。現状維持をするだけでも相当な努力が必要になってくる。そして、コンサートマスターを務めていた私は「次の世代に何を残せるだろう」と考えるようになっていた。

    そこで、ひとつの決断をした。

    スポットライトを浴びる側から、スポットライトを当てる側になろう!

    最初は少し寂しかった。でも、その寂しさは長く続かなかった。誰かが輝く姿を見ることには、自分が輝くこととは違う喜びがあったからだ。

    失ったのではない。役割が変わっただけだった。

    その気づきは、思っていたよりもずっと大きな贈り物だった。人は何かを手放す時、同時に何かを受け取っている。それに気づくのに少しだけ時間がかかっただけだ。


    未来は、想像していたよりもずっと広かった

    現在、仕事を通じて親しくさせてもらっているタイの若手作曲家がいる。

    彼には夢がある。「いつか、自分の作品を日本でたくさん演奏してもらいたい」という夢だ。その夢を叶えるために、彼は何年も前から日本語を勉強している。先日初めて会った時には、日常会話はほとんど問題なくできるほどになっていた。

    私は素直に驚いた。

    母国語ではない言葉を習得するのは、簡単なことではない。相当な努力を積み重ねてきたはずだ。

    そんな彼が、ある日こんなことを言った。

    「アメリカにいると、日本語を話す機会がほとんどないんです…。(苦笑)」

    現在、彼は音楽を学ぶためにアメリカへ留学している。
    私は思わず笑ってしまった。当たり前だ。アメリカなのだから。

    でも、彼にとっては切実な悩みだった。せっかく勉強している日本語を口に出す機会がない。日本料理のお店に食事に行った時くらいだそうだ。それだけ日本への思い入れが強いということなのだろう。

    その姿を見ていると、自分も頑張らなければいけないなと思う。
    そして、20代の自分に伝えたい言葉も少し変わってくる。それは、「英語を勉強しておけ」ではない。

    「嫌いだから…苦手だから…という理由だけで、未来の可能性まで閉じてしまうな!」

    そう伝えたい。
    人は未来になって初めて、あの時やっておけばよかったことに気づくのだから。

    だから私は今、翻訳ツールを片手に、彼から届いた英語のメッセージに不器用な返文を一生懸命打ち込んでいる…。


    50代になって、もう一度世界が広がり始めた

    人生の折り返し地点を過ぎたと感じた先日、私はNoteを書き始めた。
    ネット上で発信すること自体は初めてではない。でも、XやFacebookなどのSNSとは少し違った。

    自分の考えをきちんと言葉にして残していく…。そのことには少し緊張した。

    もちろん、多くの人に読んでもらいたい気持ちはある。でもその一方で、別に読まれなくてもいいとも思っている。もしかすると、自分の思いや考えを整理する場所として使っているのかもしれない。そんな気楽さが飽きずに続けられている理由なのだと思う。

    人生は、折り返し地点を過ぎたら下り坂になるものだと思っていた。でも、そうではなかった。むしろ、そこから新しい景色が見え始めた。

    若い頃には出会えなかった人と出会う。
    若い頃には思いつかなかった挑戦を始める。
    若い頃には想像もしなかった未来がやってくる。

    人生は思っている以上に長い。
    世界は思っている以上に近い。

    もし20代の自分にひとつだけ言葉をかけられるなら、こう伝えたい。

    「嫌いなこと、苦手なことから逃げるな!」

    でも、それ以上に伝えたいことがある。
    人生は、一度決めた役割を演じ続けるものではない。

    何度でも変わっていい。
    何度でも挑戦していい。
    50代から文章を書き始めてもいい。
    50代から語学を学び直してもいい。
    50代から世界へ向けて発信してもいい。

    だから、「もう遅い」という言葉を自分自身に向けて使う必要はない。

    私自身が実際その途中にいる。そして、おそらくこれからも途中なのだと思う。だから今日も、遠近両用眼鏡をかけながら新しい世界への扉を少しずつ開いている。

    人生には、「遅すぎる」は案外存在しないのだから…。

     
     
    株式会社ネクサス音楽出版代表取締役。 作編曲家、サクソフォン奏者。元航空自衛隊中部航空音楽隊コンサートマスター(サックス) 身を置いている吹奏楽界隈を中心に、これまでの経験などを踏まえ、語っていきます。

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