本に逃げる……『舞台のかすみが晴れるころ』、『啓蒙の海賊たち』
最近、本の話ばかりを書いている。日々、あれも書こうこれも書こうと思っているのだが、週末になると「まず、本について書いてから」と思ってしまうのだ。本に逃げているのかもしれない。
今回はまず、『舞台のかすみが晴れるころ』(有松遼一 ちいさいミシマ社)から。新聞を読んでいて、ふと目についた。入試問題に使われた文章をその作者に解いてもらうコーナーだったような気がする。入試問題を作者に解かせるという発想には、なんの興味もないのだが、なぜかこの本のことは気になった。
読んでみた。んーっ、ぼくにとっては可もなく不可もなくという感じだ。十年ほど前から「わざ言語」という言葉が気になっているが、この一冊もどこかでその言葉とつながるような気がする。身体的な経験に裏打ちされた言葉。ある種の肉体的訓練を受けた人たちの(著者は能楽者)共通言語的なものがあるのかもしれない。
ぼくにはわからない一冊なのだろう。とりあえず読了という感じだ。
わからないと言えば、この本もわからない一冊だった。『啓蒙の海賊たち あるいは実在したリバタリアの物語』(デヴィッド・グレーバー著、酒井隆史訳 岩波書店)。
読みながら、日本の学会でこのような議論が受け入れられるのだろうか? という疑問が湧いてくる。さまざまな伝説や噂話、海賊譚、信仰や慣習が渾然一体となり、論を紡いでいくのだが、それで論証としていいの? という気になる。もちろん、ぼくにはそこにあげられている参考文献を追いかけることすらできないのだから、論を云々する資格はない。
あぁ、柳田国男や折口信夫がいるではないか。カルロス・カスタネダや中沢新一も。みんな魅力的な人物である。もちろん、本著もグレーバーの魅力を削ぐものではない。ただ、彼にはこの論を含むもっと大きな全体像を示すプランがあったんだろうな、その全体像を仕上げたかったんだろうなという、彼の早逝に対する無念が伝わってくるばかりだ。
やはり、逃げの読書なのか。何を読んでも、ネガティブな方に傾いていく。
疲れているのか、あるいはただ脳が硬化(老化?)しているのかはわからない。いつも頭に紗幕がかかっているかのようだ。
今は『ノアの方舟』(シュペェルヴィエル著 堀口大学訳)を何度目かの再読中。
巣箱の中の一冊を取り出してきたということは、やはりあんまり調子がいいわけではないのだな。
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