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まず愛、そして断捨離

    先日誕生日を迎え、たまたま休みの日だったので丸一日かけて部屋の大掃除をした。この時点でかなり偉い。

    というのも、その前日に私の部屋にエアコンがついたのだ。それまではリビングのエアコン1台を酷使してどうにかその冷気をバケツリレーのようにサーキュレーターで飛ばして部屋を冷やしていたのだが、もう冷気が一番当たる場所とかを意識せずによくなったため、部屋の模様替えを兼ねて掃除をするに至った。
    フランスでは連日猛暑と聞くが、エアコンがあまり普及していないらしい。私の部屋はカンボジアやチュニジアやモロッコのようにフランスから独立したのかもしれない。

    ◇

    最近の私は結構捨てれる。
    とにかく物を捨てるのが苦手なので物を迂闊に増やさないように心がけていたが、最近はかなり捨てる気概がある。
    なぜか発泡スチロールまで完全に残っている電気ストーブが入っていた段ボール箱や、もはや何に使うのかわからなくなったスペアのねじ、2022年のねんきん定期便………バシバシ捨てられる。こんなに捨てやすいものを残しておいてくれてありがとうとさえ思える。捨てたら捨てるほど体重が軽くなっていくような気分にさえなった。
    ところが、前の職場を去るときに貰った餞別についてた小さい付箋、友人がくれためちゃくちゃ要らない知らないキャラのキーホルダー、初めて高い車を買った時の領収書…こいつらを捨てるのはそう簡単なことではない。思い出がこびりついている。
    そんな物たちを捨てる際には、嫌いな食べ物を息を止めて食べるように、私の感性に蓋をするようにしている。息を止め、極力呼吸を浅く、焦点を何にも合わせずに、思考を止める。一瞬のうちにゴミ袋の、さらに見えないところ(紙袋とかがあればその中)に入れる。「そういえばこの時、楽しかったな」「今あの人は元気にしているのかな」等と考えれば考えるほど捨てられなくなるので、感性を遮断してなるべく、見ずに、考えずに捨ていくことがコツなのである。

    ◇

    しかしそれは本当に人間として正しい行いなのだろうか。私が私たりえる感性を無くしてまで捨てることに、ゴミに対する敬意はあるのだろうか。捨てるならばせめて「私」として捨てるのが礼儀のように思える。

    考えてみると物との別れだったり、店が閉店するみたいな内容の感動系物語にめっぽう弱い。本当にすぐ泣く。私はそんな自分の感性を大事にせずに、ゴミを捨てていたのだ。いや、捨てていたのは自分の感性なのかもしれない。とにかくズルのように思えて、やっぱり、捨てるものと全力で向き合うようにした。

    やはりそうなると捨てようとしたが捨てられないものはいくつか残った。年齢を重ねるにつれて、必然的にそういう捨てられないものは増えていく。それが自然なことなんだろうと思った。大切なものがこれからも増えていくなら、今の家では足りなくなる日も近いうちに訪れるだろう。
    なんかいい中古物件でもないかなーと軽い気持ちで不動産サイトを眺めるのはいつだって楽しくてやめられない。どうせならサグラダファミリアみたいな家に住みたくて、サグラダファミリアで検索するも0件ヒットだった。
    まぁそれまでは、古い手紙や年賀状、貰い物などで積み重なったイエスの塔を、ぎゅうぎゅうになってきたクローゼットにしまい込んでおくとしよう。

    窓の外では、古くの知人たちがドローンの光となってこちらを見ているような気がした。

     
     
    めだかはメタリックかつスケルトン(わずかに)

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