
『出向官僚・橘蓮 ── 秋祭りはオセロの調べ』
あらすじ
総務本庁の「ロジックの鬼」ことエリート官僚・橘蓮は、権力闘争に敗れ、過疎化が進む東部地区へ左遷される。
効率化を掲げ、財政の贅肉である「秋祭り」の補助金全額削減を突きつける橘だったが、現場の猛反発に遭う。
さらに、祭りへ異常な情熱を注ぐイタリア人青年マルコの圧倒的な映像美と魂の叫びに触れ、橘の心に宿る官僚としての誇りが覚醒する。
行政のルールを飛び越え、祭りを世界へ配信して民間資金を集める大逆転劇を仕掛ける橘。
祭り当日、アクセス集中によるサーバーダウンの危機が迫るなか、橘は本庁の裏をかく知略で国家の帯域を開放させる。
世界を熱狂させた橘は本庁への復帰を打診される。
【第1章 孤高の官僚、泥の町へ】
特急列車が錆びついたレールを軋ませながら、目的の駅に滑り込んだとき、私は自分の人生の歯車が完全に狂ったことを確信した。
コンクリートのホームに降り立つと、まとわりつくような湿気と、どこか青臭い草の匂いが鼻腔を突く。
東京の本庁庁舎、あの全面ガラス張りの冷徹なオフィスで、分単位のスケジュールと国家予算の数字に囲まれていた日々が、まるで遠い前世の出来事のように思えた。
橘 蓮、五十歳。
つい一週間前まで、私は総務本庁の地域振興局で「ロジックの鬼」と恐れられるエリート官僚だった。
地方自治体への補助金配分を数式の如き冷酷さで査定し、無駄な伝統や非効率な地方事業を容赦なく切り捨ててきた。
それが国家の財政を健全化する唯一の正義だと信じて疑わなかったからだ。
だが、派閥の権力闘争の煽りを受け、私は一夜にしてこの「東部地区」という、地図の片隅に追いやられた過疎の町の地域振興課長へと左遷された。
いわば、自らが切り捨ててきた「数字の敗者」たちの泥の中に、身一つで放り込まれたわけだ。
「……ここが、私の新しい戦場か」
手にした本革のアタッシュケースの重みが、今の自分の境遇を嘲笑うように腕にのしかかる。
駅から歩いて十五分。
昭和の残影をそのまま色濃く残す、ひび割れたアスファルトの道を歩き、私は「東部地域振興課」が入る古い庁舎に到着した。
築四十年は優に超えているであろう鉄筋コンクリートの建物は、外壁のあちこちが剥がれ落ち、うらぶれた空気を漂わせている。
ギィ、と建付けの悪いスチールドアを押し開けると、部屋の空気が一斉に私の方へと向いた。
「あ、あなたが新しい課長の……橘さん、ですか?」
最初に声をかけてきたのは、頼りなさげな薄いフレームの眼鏡をかけた若い職員だった。
小野寺というデジタル推進係の男だ。
その奥では、首に汗拭きタオルを巻いた大柄な男──東部地区の叩き上げ主任である佐藤が、値踏みするような鋭い視線で私を凝視していた。
「今日から着任した橘だ。挨拶は省こう。すぐに業務に入りたい。まず、この地区の財政状況と住民動向に関するすべてのデータを私のデスクに集めてくれ」
私の冷淡な声に、小野寺は一瞬肩をすくめたが、「はい!」と慌てて古いデスクトップパソコンを操作し始めた。
佐藤はフンと鼻で笑うと、椅子の背もたれに深く体重を預け、天井の回らない扇風機を見上げた。
ウェルカムの空気など微塵もない。
だが、私にとっても彼らは「非効率な現場にしがみつく無能な連中」に過ぎなかった。
私は本庁の流儀のまま、この町の息の根を止めている原因を、すべて数字というメスで解剖してやるつもりだった。
窓際の一番奥、埃を被ったデスクに腰を下ろし、私は小野寺がプリントアウトしてきた膨大な住民台帳と、過去五年の財政報告書に目を通し始めた。
予想通り、絶望的な数字が並んでいた。
高齢化率は四十パーセントを超え、主要産業である地元の町工場や商店街は軒並みシャッターを下ろしている。
若者の流出グラフは右肩下がりの一直線で、町の財政は本庁からの地方交付税交付金という名の「生命維持装置」によってかろうじて生かされている状態だった。
その中で、私のプロとしての目が、一つの奇妙な「歪み」を捉えた。
過去五年の、秋の短期滞在者データおよび地域振興費の報告書。
過疎化で観光客など皆無に等しいこの東部地区に、毎年九月の終わりから十月の上旬にかけて、なぜか同一の外国人の名前が、短期滞在用の公営住宅の利用記録に刻まれていた。
『マルコ・ロッシ(Marco Rossi)──国籍:イタリア』
「小野寺」私は画面から目を離さず、低い声で呼びかけた。
「はい、何でしょうか」
「この、マルコ・ロッシという男のデータは何だ。お盆の時期でもない、観光シーズンでもない秋口に、なぜ毎年イタリア人がこの過疎の町に二週間も滞在している。しかも、利用目的の欄が空欄だ。データのバグか、それとも役所の管理怠慢か?」
私の鋭い指摘に、小野寺はあっと声を上げ、隣の佐藤と顔を見合わせた。
佐藤はタバコの箱を弄びながら、ニヤリと不敵な笑みを浮かべて口を開いた。
「おいおい、本庁のエリート課長さんよ。そいつはデータのバグなんかじゃねえよ。今年ももうすぐ、その『青い目の小僧』がミラノから飛行機乗って、この泥臭い町に怒鳴り込んでくる季節だってことさ」
「……どういう意味だ、佐藤」
私が眉をひそめると、佐藤はゆっくりと立ち上がり、私のデスクに両手を突いて顔を近づけてきた。
「そのマルコってのはな、うちの『秋祭り』のためだけに、毎年自費で海外からやってくる、おかしなYOUなんだよ」
「……秋祭り、だと?」
私は思わず、アタッシュケースから取り出したばかりの、一本数万円するドイツ製の万年筆を落としそうになった。
佐藤は私の困惑を大好物のご馳走のように眺めながら、我が物顔でパイプ椅子に踏ん張っている。
「そうだ。そのマルコってイタリア人の小僧、数年前にふらっとこの町に観光に来てな。
たまたま東部地区の秋祭りで神輿(みこし)を担がせたら、完全に脳みそのネジが吹っ飛んじまったらしい。
以来、毎年九月になると、ミラノの仕事を無理やり二週間休んで、この錆びついた町に法被(はっぴ)姿で現れる。
地元のジジイどもより祭りの作法にうるせえ、とんでもねえYOUさ」
「馬鹿馬鹿しい」
私は眼鏡のブリッジを人差し指で押し上げ、鼻で笑った。
「海外からの短期滞在理由が『神輿を担ぐため』だと? そんな理由で公営住宅を破格の身内価格で貸し出しているのか。管理の杜撰さにも程がある。本庁に知られたら、一発で地方交付税の査定に響く案件だぞ」
「あのね、課長」
佐藤は呆れたように肩をすくめ、首のタオルでガシガシと頭を掻いた。
「本庁の偉い人には分かんねえだろうがな、この町にはもう、神輿の『担ぎ手』がいねえんだよ。
若い奴はみんな東京に出ていって、残ったのは腰の曲がったジジイと、俺みたいなおっさんだけだ。
マルコみたいな、体力だけは無駄にある、神輿の棒に肩をすりむいて喜ぶ変態外国人でも、今の俺たちにゃあ貴重な『労働力』なんだよ」
「変態とは人聞きが悪いな」私は冷淡に言い放ち、再びパソコンの画面に目を戻した。
「そもそも、財政破綻寸前のこの町で、年に一度の祭りにこれほどの予算を割いていること自体がナンセンスだ。
見てみろ、この『地域活性化補助金・東部地区秋祭り枠』。年間、数百万円がドブに捨てられている。今すぐ事業仕分けの対象だ」
その言葉を聞いた瞬間、オフィスの空気がピキリと凍りついた。
さっきまで頼りなくキーボードを叩いていた小野寺の手がピタリと止まり、佐藤の目が、猛獣のように鋭く細められた。
「……仕分け、だと?」
佐藤の声から、さっきまでの軽薄なユーモアが消え、地響きのような重苦しさが戻ってきた。
「おい、東京の課長さんよ。
あんたにとってはただの『数字の無駄』かもしれないがな、この祭りがあるから、町を出ていった若者たちも、年に一度だけは親の顔を見にこの町に帰ってくるんだ。
商店街の敷島のじいさんだって、この日のために一年間、持病の神経痛に耐えて金物屋の暖簾を守ってんだよ。
それを『ドブに捨てる』とは、随分な言い草じゃねえか」
「感情論は結構だ、佐藤主任」
私は一切の妥協を許さない本庁仕込みの冷徹な声で、彼の言葉を遮った。
「私はこの町の財政を『外科手術』しに来た。患者が痛がろうが、腐った肉は切り落とす。それが私の仕事だ」
佐藤は私をしばらく無言で睨みつけていたが、やがて「ケッ」と床に唾を吐き捨てるような仕草をして、オフィスをドカドカと出ていってしまった。
佐藤主任が嵐のように去った後、不快なエアコンの音だけが響くオフィスで、私の腹が情けなく鳴った。そういえば、昼からまともなものを口にしていない。
「あの、課長……もしよかったら、駅前の『味処・だるま』に行きませんか。あそこくらいしか、もう開いてる店ないんで……」
小野寺がおそるおそる差し出してきた生真面目な提案に、私は空腹に負けて頷くしかなかった。
暖簾をくぐると、そこは昭和の残影をそのまま残す居酒屋だった。
油でギトついたメニュー短冊。お世辞にも洗練されているとは言えない空間のカウンターに座ると、恰幅のいい女将が「はい、新入りさん、特製だるま定食!」と、頼んでもいない巨大な皿をドンと目の前に突き出してきた。
「……何だ、この質量は」
私は絶句した。皿の上には、大人の拳ほどもある唐揚げが五個、山盛りのキャベツ、そして漫画のような山盛り白米。本庁時代に愛用していた丸の内の割烹なら、優に三人前はある暴力的ボリュームだ。
「おいおい、東京の課長様がそんな貧弱な箸の持ち方じゃ、東部地区の夜は越せねえぞ!」
背後から、聞き覚えのある不躾な声がした。
振り返ると、さっき怒って出ていったはずの佐藤主任が笑っている。なぜここにいる。
「佐藤主任、私は業務外の馴れ合いを好まない」
「お堅いねえ! いいから食えって。この町の唐揚げはな、敷島のじいさんが作った特製の鉄鍋でガッと揚げてんだ。火力が違うのよ!」
促されるまま、私は意を決して唐揚げを一口かじった。
──悔しいが、美味い。
肉汁が口いっぱいに広がり、本庁での権力闘争で擦り切れていた胃壁に、荒々しいエネルギーが染み渡っていく。
「ふん……大雑把な味付けだが、カロリー効率だけは認めざるを得ないな」
「ヒャハハ! ロジックの鬼が、唐揚げのコスパを語り出したぞ!」
佐藤主任が私の背中をバシバシと叩き、小野寺がコーラを吹きそうになっている。
東京での洗練されたディナーとは程遠い、泥臭くて、やたらと煙い夜。
だが、この脂ぎった唐揚げの熱さこそが、この町を動かす人間たちの「体温」そのものなのだと、私の冷え切った脳細胞が奇妙な錯覚を起こし始めていた──。
残された役所の部屋に戻ると、古いエアコンの不快なブーンという機械音だけが響いていた。
「あの……橘課長……」
小野寺が、おそるおそる声をかけてくる。その顔は完全に引き攣っていた。
「佐藤さん、ああ見えて、祭りの実行委員会のリーダーもやってるんです。ちょっと、言い方が刺激的すぎたというか……」
「構わん。私のロジックに間違いはない。小野寺、お前は明日の朝までに、過去三年間の祭りにおける『経済波及効果』の費用対効果(ROI)を算出しておけ。出ないなら、予算は全額カットだ」
「あっ……わかりました……」
小野寺は、まるで死刑宣告を受けたかのような情けない声を上げ、再び画面に向き直った。
その夜。私は一人、役所の近くにある安ビジネスホテルの狭いベッドに横たわっていた。
窓の外からは、東京のような車の喧騒は一切聞こえず、ただ気が遠くなるような虫の声だけが響いている。
アタッシュケースから取り出した本庁時代の資料を眺めながら、私はフッと自嘲気味に呟いた。
「オセロ、か……」
本庁での権力闘争。昨日まで白だと思っていた味方の役員たちが、一夜にして黒に裏返り、私をこの泥の町へ叩き落とした。
私の人生の盤面は、今、真っ黒な石で埋め尽くされている。
ならば、この過疎の町の非効率な黒い石を、私の完璧なロジックで一枚残らず白へと裏返し、もう一度本庁へ這い上がってやる。
そのためなら、現場の人間たちの反発など、知ったことではなかった。
だが、この時の私はまだ知らなかった。
私の持ち込んだ「冷たい完璧なロジック」という黒い石が、やがてミラノからやってくる一本のネジのぶっ飛んだ金髪のYOUの手によって、想像もつかない形で、鮮やかにひっくり返されることになるのを──。
【第2章:黒い石、白い意志 ── 頑固親父とミラノの風】
翌朝、東部地域振興課のオフィスには、絵に描いたような冷戦状態が構築されていた。
佐藤主任は私の顔を見ようともせず、朝からこれ見よがしに「ふん、ふん、ふーん」と、あからさまに不協和音な鼻歌を歌いながらコピー機を乱暴に扱っている。
一方の小野寺は、私の背後に漂う殺気と佐藤主任の放つ威嚇の板挟みになり、まるでバグったロボットのようにぎこちない動きで、頼まれたデータの入力を進めていた。
「課長……一応、言われた通りの費用対効果(ROI)の試算、出しましたけど……」
小野寺が消え入るような声で差し出してきたタブレットを覗き込む。
予想通り、無残な数字だった。
祭りの経済効果は、本庁の基準から見れば完全に赤字。投資に対するリターンなど、雀の涙ほどもない。
「やはりな。この数字では、本庁の財務課に一秒で叩き斬られる。佐藤主任、これから商店街のトップである敷島金物店の敷島さんのところへ行く。事業仕分けの通告だ。案内してもらえるか」
私がそう告げると、佐藤主任はコピーの手を止め、ゆっくりと振り返った。
その顔には、怒りを通り越して「この憐れな世間知らずに、現実ってやつを教えてやるか」という、意地の悪い笑みが浮かんでいた。
「いいぜ、課長。喜んでお供しようじゃねえか。ただし、あそこのじいさんは俺なんかより百倍頭が固いからな。東京のエリート様の綺麗なロジックが、田舎の鍛冶屋に通用するかどうか、特等席で見物させてもらうわ」
──
東部地区の「敷島金物店」は、シャッターの目立つ商店街の最奥、ひときわ年季の入った木造建築だった。
店内に一歩足を踏入ると、懐かしい鉄の匂いと、油の混じった独特の空気が鼻を突く。
壁には鍬や鎌、そしておよそ現代の金物屋には似つかわしくない、一際立派な和太鼓のバチが飾られていた。
「敷島のじいさん、いるか? 東京から新しい課長様がお見えだぞ」
佐藤がわざとらしい大声で呼びかけると、奥の薄暗い作業場から、おそろしく眼光の鋭い老人が姿を現した。
敷島、七十五歳。
東部地区の商店街を束ねるドンであり、この町の祭りのすべてを取り仕切る総責任者だ。
白髪混じりの頑強な体躯は、長年鉄を叩いてきた職人の凄みを漂わせている。
「役人の顔なんざ、見たくもねえな。用件なら佐藤に伝えてあるはずだ」
敷島は私を一瞥もせず、錆びた鋏を油布で黙々と磨き始めた。
「初めまして、敷島さん。新任の橘です」私は一歩前に出た。
「本日は挨拶ではなく、秋祭りの予算について現実的なお話をしに参りました。
小野寺が算出したデータに基づき、今年の秋祭りの補助金は大幅な削減、場合によっては全面カットの方向で進めざるを得ません。
この町の財政状況を鑑みれば──」
「帰れ」
私の言葉が終わるより早く、敷島の地を傷うような声が響いた。
鋏を置くカツンという音が、静かな店内に冷たく響く。
「数字だのデータだの、本庁の奴らはいつもそれだ。
俺たちがこの祭りを守るために、どれだけの汗を流してきたか、あんたには一ミリも分かっちゃいねえ。
一円の得にもならねえことに命をかける人間が、この世にはいるんだよ。
それが分からねえなら、今すぐ東京へ帰りな」
完璧な拒絶。だが、私もここで引き下がるわけにはいかない。
「環境で予算が動く時代は終わりました。私はこの町の『黒い石』をひっくり返しに来たのです」
不穏な沈黙が流れる中、私の視線は、店内のレジの横にある奇妙な一角に吸い寄せられた。
油の染み込んだ古い木製の棚に、不釣り合いなほど鮮やかでモダンな「絵葉書」が何枚もピンで留められていたのだ。
そこには、イタリア・ミラノの美しいドゥオーモ(大聖堂)のパノラマや、現地のスタイリッシュな街並みが写っていた。
そしてその横には、なぜかクラシックな、使い込まれた海外製の一眼レフカメラが鎮座している。
絵葉書の裏側には、殴り書きのような、しかし妙に勢いのある文字が躍っていた。
──『じいさん、ことしのあきもかならずいく。みこしのぼう、いちばんいいポジションをあけておいてくれよ! マルコ』
「……これは?」私が思わず声を漏らすと、佐藤が待ってましたとばかりにニヤニヤしながら、敷島の肩をポンと叩いた。
「ほらな、言っただろ課長。ミラノの生意気な小僧──マルコからのラブレターだよ。そのカメラも、あいつが『じいさんの仕事中の顔が一番渋い』って言って、勝手に置いていきやがったんだ」
佐藤はさらに声を潜め、私に顔を近づけてクスクスと笑った。
「あいつの祭りへの執念はな、はっきり言って病気レベルだぜ、課長。初めてこの町に来た一昨年の夏なんか、神輿の担ぎ方を基礎から学ぶんだって言って、地元の伝統的な掛け声の音源を二十四時間連続で再生しながら寝やがった。
敷島のじいさんの家に居候して、毎日三分間、YouTubeの過去の祭り動画を零点二五倍速のスローで凝視しちゃあ、『この瞬間の肩の入れ方がビューティフル!』ってノートにびっしりスケッチを書き殴ってんだ。変態だろ?」
「スロー再生、ですか」
私が呆気にとられていると、敷島がフンと鼻を鳴らして油布を動かした。
「変態とは人聞きの悪い。あの小僧、日本の若者ですらやらねえような『足袋の正しい結び方』や『法被の粋な着こなし』を、一週間で完璧にマスターしやがった。
最終的にはな、神輿の重量を分散させるための『木札の当て方』について、長年担いでる俺の理論に『ノー、角度が二度ズレている!』って、イタリア訛りの日本語でガチの口喧嘩を仕換けてきやがったんだ。
鉄を叩く俺に、角度の説教をしやがった男は、後にも先ほどもあの金髪の小僧だけだ」
敷島は佐藤の手を鬱陶しそうに払い除けたが、絵葉書に視線を向けたその瞬間だけは、頑なだった老職人の目が、ほんのわずかに和らいだのを私は見逃さなかった。
【第2章・後半:職人の誇りと、エリートの盲点】
「イタリア人からの、手紙ですか」
私は眼鏡の位置を直しながら、レジ横の絵葉書をあえて冷ややかな目で見つめた。
「趣味の国際交流は結構ですが、それで予算の赤字が相殺されるわけではありません。
敷島さん、あなたがどれだけこの祭りにノスタルジーを感じていようと、冷酷な現実として、この東部地区にはもう神輿を担ぐ体力も、それを支える財政的基盤もないのです」
「……ノスタルジー、だと?」
敷島がゆっくりと顔を上げた。その眼光は、まるで熱せられた鉄のように鈍く、赤い光を放っているように見えた。
「あんた、さっきこの町の『黒い石』をひっくり返すと言ったな。
本庁の人間は、自分たちがいつも正しい『白』で、俺たち地方の人間を、遅れた『黒』だとでも思っているのか」
敷島は、レジの横に置かれていたマルコの古い一眼レフカメラを、大きな、節くれ立った手で愛おしそうに包み込んだ。
「そのマルコって小僧はな、初めてこの店に来たとき、俺の作った鍬や鎌を見て『ビューティフルだ』って涙を流しやがった。
今の日本の若い奴すら見向きもしねえ、古臭い職人の技を、地球の裏側から来た男が本気でリスペクトしてくれたんだよ。
祭りも同じだ。全員で声を合わせ、汗を流し、一円の得にもならねえ神輿を死に物狂いで担ぐ。
あいつは言ったよ。『これこそが、世界中を探してもどこにも残っていない、美しいJAPANのソウルだ』ってな」
敷島はカメラをドスンと机に置くと、私を真っ直ぐに見据えた。
「あんたの言う効率ってやつは、そんな魂まで切り捨てなきゃ成り立たねえのか?
だったら、そんな上等な白石なんざ、こっちから願い下げだ。
税金なんてもんはな、人間が人間らしく生きていくための誇りを守るために使うもんだろ!」
老職人の咆哮が、狭い店内に、そして私の鼓膜に激しく木霊した。
論理的ではない。完全に感情論だ。本庁の会議室なら、一秒で却下される類の精神論。
それなのに──なぜだろう。
私の口からは、次の反論の言葉がすぐに出てこなかった。
胸の奥の、ずっと昔に凍りつかせていたはずの何かが、彼の言葉によって、ほんのわずかに揺さぶられたような気がしたのだ。
「……本日のところは、これで失礼します。ですが、私の決定は変わりません」
私は逃げるようにそう言い残すと、金物店を後にした。
「おい、課長。待てよ」
後を追ってきた佐藤主任が、自販機で買った缶コーヒーを私に放り投げてきた。冷たい缶を手のひらで受け止めると、驚くほど重く感じられた。
「じいさんの言うことも、一理あるだろ?
あのマルコって小僧がカメラ片手に町を走り回るようになってから、商店街のジジイども、妙に張り切り出しちゃってさ。
あいつに『ワンダフル!』って言われたくて、普段は文句ばかり言ってる奴らが、祭りの準備を死ぬ気でやるんだ。
数字にゃあ表れねえが、あれも立派な『地域活性化』ってやつじゃないんかねえ」
佐藤は缶コーヒーをごくごくと飲み干し、プハッと息を吐いた。
「ま、東京のエリート様には、マルコのぶっ飛んだ情熱も、じいさんの意地も、ただのノイズにしか見えねえんだろうけどな」
私は答えなかった。ただ、ポケットの中で、アタッシュケースの鍵を強く握りしめていた。
役所に戻ると、小野寺が相変わらず怯えた目で私を見ていた。
「課長……あの、過去の祭りの映像データなんですけど。
実は数年前に海外のドメインから『町のホームページで使ってくれ』って、プロ並みの編集がされたデータが送られてきてるんです。
これ、ROIの計算には入れてないんですけど、クオリティが凄くて……」
「……後で私のパソコンに転送しておいてくれ」
私は短く命じ、デスクに深く腰掛けた。
パソコンの画面を開くと、本庁の同期である岩田から、一通の冷淡なメールが届いていた。
『蓮、東部地区の予算削減の件、来週までに正式な報告書を上げてくれ。上層部は、お前がどれだけ迅速に“無駄”を切り捨てられるかで、本庁への復帰の時期を測っている』
やはり、私の進むべき道は一つしかない。この町の古い黒い石を、容赦なく叩き潰すことだ。
だが、目を閉じると、敷島金物店に飾られていたミラノの鮮やかな絵葉書と、そこにあった『じいさん、ことしのあきもかならずいく』という粗削りな文字が、なぜか頭の裏側から離れなかった。
【第3章:冷たい算式、熱い鼓動 ── 画面から溢れる狂気】
本庁からの圧力は、日に日にその冷酷さを増していった。
私のデスクのパソコンには、同期の岩田から毎朝のように「査定の進捗はどうだ」「早く黒い石(無駄)を間引きしろ」という、催促という名の脅迫メールが届く。
本庁にしてみれば、この東部地区の秋祭りなど、予算シートの上で真っ赤に腫れ上がった「ただの贅肉」に過ぎないのだ。
「課長……あの、言われていた海外ドメインからの映像データ、共有サーバーのフォルダに格納しました」
小野寺がおそるおそる、しかしどこか「ニヤリ」としたオタク特有の不敵な笑みを浮かべて報告してきた。
「ああ、あれか」
私はため息混じりにマウスを操作し、指定されたファイルをクリックした。
どうせ、外国人が観光気分で撮った、手ブレの酷いホームビデオの類だろう──。
そう高を括っていた。
だが、暗転した画面から音が溢れ出た瞬間、私の指先がピタリと凍りついた。
ズゥン……!!
地を這うような、重厚な地鳴りがスピーカーから響く。
東部地区の秋祭りの代名詞である「大太鼓」の音だ。だが、それは役所の観光課が記録したような、綺麗に整えられた音ではなかった。
まるで鼓膜から脳の髄までを直接揺さぶるような、生々しい「心臓の鼓動」そのものだった。
画面が切り替わる。超高精細なシネマカメラで捉えられた映像。
スローモーションで映し出されたのは、土砂降りの雨の中、泥水を跳ね上げながら神輿を担ぐ地元の男たちの姿だった。
「……っ!?」
私は思わず、椅子の背もたれから身を乗り出した。
映っているのは、私が「死にかけた過疎の町の老人たち」と切り捨てていた住民たちだった。
商店街の豆腐屋の親父、ガソリンスタンドの生意気な若者、および、あの敷島金物店の頑固ジジイ。
彼らの顔は、泥と汗と雨水でぐちゃぐちゃに濡れそぼっていた。
だが、その瞳の奥には、本庁のどのキャリア官僚からも見たことのない、ギラギラとした「狂気」と「生命力」が宿っていた。
カメラワークが神がかっている。
神輿の激しい揺れと同調しながら、担ぎ手たちの擦りむけた肩、血管の浮き出た太い腕、そして全員の口から吐き出される白い息を、異常なまでの臨場感で切り取っていく。
それは「綺麗な伝統芸能」などではない。生きるか死ぬかの瀬戸際で、己のプライドをかけて神様と、そして仲間とぶつかり合う、生身の人間たちの「剥き出しの咆哮」だった。
映像のカットが激しいビートとともに加速する。
夜になり、数千発の提灯の灯りが光の海となって町を埋め尽くす。その中心を、泥まみれの男たちが黄金の神輿を担いで暴れ回る。
画面から、熱気と、煙草の匂いと、住民たちの「生きている」という強烈な体温が、オフィスの冷たいコンクリートの壁を突き破って溢れ出してくるようだった。
「……これが、マルコの撮った映像、なのか」
私の声が、微かに震えていた。
「そうなんです!」小野寺が待ってましたとばかりにデスクに身を乗り出してきた。
「マルコは本国イタリアでは、新進気鋭のインディーズ映画監督として賞も取ってる映像クリエイターなんです。
あいつ、この町を撮るときだけは『ハリウッドの百億円のCGでも、このジジイたちのガチの表情には勝てない』って言って、機材を自費で持ち込んで、命を削って編集してるんですよ!」
小野寺の眼鏡の奥の目が、興奮でキラキラと輝いている。
画面の最後、カメラは一瞬だけ、神輿の群衆の中で、誰よりも大きな口を開けて「ソリャ! ソリャ!」と叫びながら、肩を血に染めて笑っている金髪の青年──マルコ自身の姿を捉えていた。
その青い目には、大粒の涙が浮かんでいた。
エンドロールに、英語の字幕が静かに浮かび上がる。
『世界が失った、人間が一つになる瞬間。JAPANの東部地区に、まだそれは生きている。』
私は言葉を失い、ただ黒く戻ったモニターを見つめていた。
本庁のロジック、予算の数字、出世レース──それらが、この一分間の映像が放つ圧倒的な「人間の熱量」の前に、あまりにもちっぽけなものに思えて仕方がなかった。
「橘課長」
いつの間にか背後に立っていた佐藤主任が、いつになく真剣な、しかしどこか嬉しそうな声で私の肩を叩いた。
「どうだ、東京のエリートさんよ。俺たちの『黒い石』、ただのゴミに見えるか? それとも……」
【第3章・後半:数字の檻をブチ破れ】
佐藤主任の言葉は、私の耳の奥で心地よい重低音となって響き続けていた。
私はゆっくりと振り返り、佐藤主任の泥臭い顔、および息を呑んで私を見つめている小野寺を真っ直ぐに見据えた。
「ゴミなわけがあるか」
私の口から出たその言葉に、オフィスが一瞬、静まり返った。私は眼鏡を外し、デスクの上にコトリと置いた。
「本庁の財務課の連中は、この映像を見ていない。
ただの『支出項目の数字』としてしか、この町を捉えていないんだ。
数字しか見ない人間を説得するには、感情論では勝てない。
なら、奴らの大好きな『ロジック』で、この熱量を百倍にして殴り返してやるまでだ」
「課長……!」
小野寺の声が弾けた。
佐藤主任の口元が、ニヤリと肉食獣のように歪む。
その時、私のデスクの固定電話が、静寂を破ってけたたましく鳴り響いた。
ディスプレイに表示されたのは、本庁の、岩田先輩の直通番号。私は受話器を耳に当てた。
「蓮か。東部地区の査定報告書の提出期限は明日だ。分かっているな」
受話器の向こうの岩田の声は、エアコンの冷気よりも冷たかった。
「上層部からの伝言だ。今回の秋祭り枠の補助金は『全額削減(ゼロ)』。これが既定路線だ。
色をつけようなどとは考えるな。お前がやるべきことは、地元住民にその決定を冷徹に通告し、ハンコを押させることだけだ。
そうすれば、次の定期人事で本庁に戻してやる」
本庁への復帰。エリートコースへの再合流。
ほんの数日前までの私なら、その言葉に飛びついていただろう。
だが、今の私の脳裏に浮かぶのは、本庁のあの無機質なガラス張りのオフィスではない。
土砂降りの雨の中、肩を血に染めて笑っていたマルコの青い目であり、敷島金物店のレジ横に飾られた、汗の匂いのするミラノからの絵葉書だった。
「岩田先輩」私は低く、しかしこれまでにないほど澄んだ声で答えた。
「東部地区の秋祭りの補助金、全額削減の件……了解いたしました」
「そうか。やはりお前は話が分かるな。では明日の朝までに──」
「ただし」私は先輩の言葉を容赦なく遮った。
「行政からの補助金が出ないということは、我々現場は、本庁の財務規律や『お役所のルール』に縛られる必要も一切なくなる、ということですね?」
「……何だと?」岩田の声が不審げに低くなる。
「役所のサイフに頼らないのであれば、この祭りをどう運営しようが、誰を担ぎ手に呼ぼうが、それは住民主体の完全な『民間事業』です。
総務本庁といえども、民間の自由な経済活動を差し止める法的な権限はどこにもありません。
行政の『黒い石』で挟めないなら、こちらは盤面の外から、すべてを白に裏返させていただきます」
「蓮、お前、何を企んで──」
「報告書は明朝、完璧な形のものを提出します。失礼します」
ツッ、ツッ、と冷たい電子音が響く受話器を置き、私は小野寺の方を向いた。
その目には、本庁時代に「ロジックの鬼」と呼ばれていた頃の、鋭く青い光が戻っていた。
「小野寺。今から明日の朝までに、行政の枠組みから完全に独立した『民間実行委員会』の設立趣意書、および規約のベースを組み上げる。
そして、マルのあの映像を世界へ発信するための、海外決済に対応したドネーション(寄付)システムの構築に入るぞ。
徹夜になるが、ついてこられるか?」
小野寺は、待っていましたとばかりに眼鏡をクイと押し上げ、キーボードの上に両手を構えた。
「課長……僕、このためにデジタル推進係になったんです。サーバーのバイパス、三分で開きます!」
「よし。佐藤主任は今すぐ敷島金物店へ。じいさんに『あんたの言った通り、税金なんざ一円も頼らねえ。
俺たちの誇りを、世界に売りにいくぞ』と伝えてください。
敷島さんを実行委員長に据えた瞬間、この町のすべてのジジイたちの『意志』が繋がります」
「おうよ! 待ってました、その言葉!」
佐藤主任は首のタオルをバシィンと鳴らすと、弾かれたようにオフィスを飛び出していった。
窓の外を見上げると、東部地区の夜空には、すでに祭り用の静かな提灯の灯りが、ぽつり、ぽつりと灯り始めていた。
本庁の冷たい算式が作った真っ黒な檻。
その檻の鍵は、今、私たちの手によって内側からブチ破られた。
地球の裏側からやってくる、あの青い目のYOU──
マルコの情熱を導火線にして、この小さな過疎の町が世界を熱狂させるための「大逆転の盤面」が、今、完全に整ったのだ。
【第4章:利他のシンフォニー ── 青い目の担ぎ手が灯した火】
「補助金全額削減だって!? ふざけるな! 本庁のド頭の固い連中め!」
翌朝、東部地域振興課のコンクリートのオフィスに、佐藤主任の地鳴りのような怒号が響き渡った。
築四十年の古い天井から、細かな白い埃がハラハラとデスクへ落ちる。
佐藤主任は本庁の財務課から届いたばかりの冷徹な「予算執行停止通知書」を右手に握りしめ、顔面を真っ赤に染めて激しく震わせていた。あまりの怒りに、手垢で黒ずんだ万年筆がカツンと机の上を転がった。
「この秋祭りはな、ただのどんちゃん騒ぎじゃないんだ!」佐藤主任はデスクをバシィンと手のひらで叩き、私を睨みつけた。
「過疎化が進んで、若者がみんな東京へ出ていっちまったこの町で、年に一度、バラバラになった家族や仲間がもう一度同じ場所に集まって、お年寄りと顔を合わせる……。
この東部地区に残された、最後の一本の『命綱』なんだよ! 財務課の数字しか見ねえエリートどもに、何が分かるってんだ!」
隣のデスクでは、小野寺が壊れそうなほど強くキーボードを握りしめ、悔しさに唇を噛み締めていた。
「橘さん……僕たちのデジタル化の努力は、一体何のためだったんですか。
このまま本庁の言いなりになって、祭りを殺すなんて、僕には耐えられません……」
重苦しい、絶望の澱みがオフィスを支配しようとしていた。
だが、今の私の胸には、彼らと同じ、いや、それ以上の熱いマグマのような炎が渦巻いていた。
私が不敵な笑みを浮かべ、唇を開こうとしたその瞬間──。
「──ノー! 諦めるのは、まだ早いですよ、サトウさん!」
オフィスの重い木製のドアが、勢いよく外側へと弾け飛んだ。
入ってきたのは、日に焼けた顔に、彫りの深い端正な顔立ちをした一人の金髪の青年だった。
藍色の年季の入った法被をラフに肩にかけ、背中にはプロ仕様の巨大なカメラバッグを背負っている。
全身から溢れ出るような生命力と、場違いなほどの爽やかな笑顔。
第1章のデータ、第2章の絵葉書、および第3章の映像の中にいた、あの「マルコ・ロッシ」その人が、現実の肉体を持ってそこに立っていた。
「マルコ……お前、もう日本に来てたのか!」
佐藤主任が、呆気にとられたように声を漏らす。
マルコはまっすぐに私のデスクへと歩み寄ると、カメラバッグを床にドスンと置き、私の目を真っ直ぐに見つめた。その瞳は、画面越しに見たのと同じ、濁りのない、しかし燃えるような青色をしていた。
「橘さん、ですね? 本庁から来た、新しいボス。聞いてください」
マルコは少し拙い、しかし一言一言に魂の乗った日本語で、熱く捲し立てた。
「私は数年前、ミラノの都会で、孤独と仕事のプレッシャーに押しつぶされそうになっていた。
世界は便利で、効率的で、でも……誰も隣の人の名前を知らない。心が完全に死んでいた。
そんな時、この町の秋祭りに出会ったんです」
マルコは自分の胸に強く手を当てた。
「言葉も通じない私に、佐藤さんや、商店街の敷島さんは、おにぎりをくれた。
そして『お前も担げ!』って、重い神輿の下に私の肩を押し入れた。あの瞬間、全身の骨が軋むような重みの中で、全員が『ソリャ! ソリャ!』と一つの呼吸で動いた。
あの時、私の死んでいた心臓が、もう一度激しく動き出したんです。
ここには、今の世界が、そして今の日本人が見捨てようとしている『最高のアイデンティティ(和の精神)』が、まだ生きてる。
これを数字の都合で消すなんて、私は絶対に許さない!」
外国人の口から語られた、あまりにも純粋な、日本の本質への飢餓感。
その言葉は、かつて本庁の机の上で「効率化」という名の冷たい文字の刃を振り回していた私の胸の奥に、再び激しい衝撃となって突き刺さった。
間違っていたのは、やはり私であり、本庁の硬直したシステムの方だ。世界が羨むほどの「本物の価値」が、この泥まみれの過疎の町に、確かに眠っている。
「……マルコ。君の言う通りだ」
私は静かに席を立ち、上着の袖をゆっくりと、しかし力強くまくり上げた。
「佐藤主任、小野寺。本庁の財務課が数字の規律で縛ってくるなら、こちらから、奴らの想像を遥かに超える『圧倒的な新しい価値』を突きつければいい。この祭りを、世界へ開きます」
「世界へ、開く?」佐藤主任が目を丸くする。
「ええ。補助金が出ないなら、行政の財布には一円も頼らない。住民主体の『民間実行委員会』を立ち上げ、資金の受け皿を完全に役所のルールから独立させます。これなら財務課に文句を言われる筋合いは一切ない。そして、マルの力を借りたい」
私は、マルコの広い肩に手を置いた。
「マル、君のその青い目と、君の持つクリエイターの技術で、君が感じた『この祭りの狂気的なまでの美しさと情熱』を、そのまま映像にして世界へブチ込んでくれ。
小野寺と私は、世界中から一瞬で決済できるドネーション(寄付)のプラットフォームを、この数日間で裏から完璧に組み上げる。
これは偶然の奇跡を待つバズじゃない。君の『本気の熱量』を導火線にして、世界のタイムラインを必然的にハックするんだ」
マルコは一瞬、驚いたように目を見開いたが、すぐにニカッと白い歯を見せて笑った。
「……よし、やりましょう、蓮さん! ミラノの仲間たちにも、全員に声をかけます。日本の本物のソウルを、世界に見せつけてやりましょう!」
マルコが差し出してきた右手。
それを握りしめた瞬間、彼のてのひらにある、神輿の棒を何度も何度も担いできたことで出来た、地元の職人と同じ分厚く硬いまめの感触が、私の右腕を熱く熱く震わせた。
【第4章・後半:世界シンクロと赤の浸食】
「小野寺、すぐに臨時のプログラミング環境を立ち上げろ」
私はマルコの手を離し、すぐさま隣 defects(の)デスクへと鋭い視線を向けた。
「はい! すでにメインサーバーのバイパスを確保しています!」
小野寺の顔つきは、さっきまでの絶望が嘘のように、鋭い技術者のそれへと切り替わっていた。彼の指先がキーボードの上で弾け、黒い画面に白いソースコードが滝のように流れ始める。
佐藤主任は熱い足で、東部地区の隅々まで駆け回った。
「頼む、竹さん! あと一回だけ、みんなで神輿を担いでくれ! イタリアからマルも来てんだよ! あいつに、俺たちの本物の底力を見せてやろうじゃねえか!」
腰の曲がった老人は、マルの名前を聞いた瞬間、その濁っていた目の色を変えた。
「……何だ、マルが来てるのか。あいつに不甲斐ねえ姿は見せられねえな。しょうがねえなあ、佐藤。腰を痛めても知らんぞ!」
伝統の血脈に、マルの情熱が火をつけた。
マルコが寝る間も惜しんで編集した動画が、彼の母国イタリアや、欧米のクリエイターコミュニティのSNSへ投稿された。
『百念続く日本の奇跡の祭り。世界が失った「本当の繋がり」がここにある。どうか力を貸してほしい。僕の愛するもう一つの故郷のために』
その動画は、ネットの奇妙なバグではなく、「日本の文化に人生を救われた一人の外国人のガチの涙と熱量」という、圧倒的なノンフィクションのリアリティを持って、まず海外のタイムラインを爆発的に駆け巡った。
「このYOU、本当に日本を愛してるんだな」
「なんて美しい職人の技だ」
「コスパだけを追う現代社会への最高のアンチテーゼだ」
「橘さん! 画面のバグじゃないですよね!?」
開始三日目の朝、小野寺が興奮のあまり椅子から転げ落ちそうになりながら画面を突き出してきた。
海外の寄付インジケーターのバーが、生き物のようにぐんぐんと右に伸びている。
支援者からの応援コメントが、英語、フランス語、イタリア語、韓国語──ありとあらゆる世界中の言語で画面を埋め尽くし、それが逆輸入の形で日本のメディアの耳にも届いた。
海外の密着ドキュメンタリー番組の特別取材班が町に緊急上陸し、さらには大手新聞の社会部が『一人の外国人が動かした、失われゆく日本のアイデンティティ』という見出しで一面トップを飾った。
「一億円……! 橘さん、世界中からの支援総額が一億円を突破しました!」
小野寺が絶叫し、オフィス中が割れんばかりの歓声に包まれた。
そして、運命の祭り当日。
夕方、東部地区の夜空には、数千発の提灯の温かい灯りが揺らめき、境内の熱気は最高潮に達していた。
敷島さんが魂を込めて蘇らせた黄金の神輿の先頭には、法被を乱暴に肌蹴らせ、泥まみれになりながら「ソリャ! ソリャ!」と、誰よりも大きな声を張り上げて神輿を担ぐマルコの姿があった。その青い目からは、大粒の涙が、汗と一緒に溢れ落ちていた。
佐藤主任や地元の老人たちが、そのマルの肩を支えるように、地鳴りのような掛け声とともに光の海の中を激しく練り歩いていく。
臨時のコントロールルームでは、小野寺が大型モニターの画面を見つめていた。
「橘さん! 配信の同時視聴者数が三十万人を突破しました! アジア圏、特に韓国や、マルの故郷のヨーロッパからのアクセスが爆発しています!」
だが、その歓喜の絶頂の瞬間だった。突然、コントロールルームのアラートがけたたましく鳴り響き、小野寺の顔から一瞬で血の気が引いた。
「警告……! サーバー負荷、九十八パーセント……! パンクします!」
画面の負荷グラフの推移が、安全圏の緑から、危険を示す真っ赤な色へと、一瞬で変色していく。
海外の大手インフルエンサーやメディアが一斉にリンクを拡散したため、システムのマージンを遥かに超えてしまったのだ。
「あと……百二十秒で、システム全体が完全にクラッシュします!」
「何だと!?」
コントロールルームに、凍りつくような緊迫感が走った。
窓の外からは、お腹の底を揺らす太鼓の音と、住民たちの割れんばかりの歓声が響いている。
神輿の先頭で、声を枯らして叫ぶマルの姿が、モニターの向こうでカクつき始めている。
この町の人たちの熱狂を、世界中の人たちの温かい視線を、および、この町に人生を賭けてくれたマルの想いを、絶対に途中で断ち切りたくない。
残り、九十秒。
「小野寺、バックアップの分散サーバーの状況は!」
「もう全部使い切ってます! これ以上は、どこにも逃げ場がありません!」
汗だくになった佐藤主任が、法被姿のまま部屋に飛び込んできた。
「橘! どうなってる、画面が止まりかけてるぞ! 配信が落ちたら、マルや、世界中で応援してくれてる連中に、俺はなんて言えばいいんだよ!」
「まだです、佐藤主任。まだ、私たちの石はひっくり返されていません」
残り、六十秒。
私は静かに立ち上がり、コントロールルームの電話機へと向かった。
次なる、組織の壁をブチ破る最強の一手が、私の頭の中で、美しく、はっきりと形を成していた。
(本庁の財務課……そして、岩田先輩。次はお前たちだ。この世界が熱狂する盤面を、これ以上冷たいルールで汚させてたまるか!)
【第5章:秋祭りはオセロの調べ ── 鏡の裏に灯る光】
残り、六十秒。
コントロールルームの大型モニターの端で、赤い警告灯が容赦なく明滅している。
小野寺のキーボードを叩く指はすでに汗で滑り、画面に表示されたシステム負荷グラフは、危険域の最上部で限界を告げる一本の赤い直線と化していた。
窓の外から響く東部地区の地鳴りのような太鼓の音が、私たちの破滅へのカウントダウンを刻む足音のように聞こえる。
私は静かに歩を進め、コントロールルームの壁に据え付けられた黒い固定電話の受話器を掴み取った。
震える指で、私の脳裏に完全に焼き付いている本庁の、岩田先輩の直通番号を力強く押す。
呼び出し音が一回、二回、三回──。
引き裂かれそうなほどの静寂の後、受話器の向こうでカチリと音がした。
「……岩田先輩……! 橘です! 東部地区、緊急事態です!」
「蓮か。何があった、騒々しいな」
電話の向こうから、いつもと変わらない冷徹で静かな岩田の声が聞こえた。本庁のガラス張りのオフィスは、今も変わらず静寂と数字の規律に守られているのだろう。
「世界中からのアクセス集中で、こちらのサーバーが完全に限界です!
あと四十秒で世界中への配信がクラッシュし、これまでのドネーションもすべてパーになります!
先輩……本庁が管轄する『災害用予備帯域』の第四セクターを、今すぐこの東部地区に、強制開放してもらえませんか! 頼みます!」
「蓮、お前は自分が何を言っているのか分かっているのか」
岩田の声が、一瞬で凍りついたように鋭くなった。
「災害用予備帯域は、国家的な非常事態における避難誘導や、人命救助のインフラ維持のために確保されているものだ。
地方の一過性の祭りの配信のために開放するなど、明らかな職権乱用であり、重いルール違反だ。
一歩間違えれば、お前も、そして承認を出した俺も、懲戒免職だぞ。官僚としての理性を失ったか!」
「失ってなどいません! 免職でも何でも、私は喜んで受けて立つ!」
私は受話器を引きちぎらんばかりに叫んだ。
その声は、隣にいる佐藤主任や小野寺が息を呑むほど、激しい熱量を孕んでいた。
「ですが、先輩! 画面を見てください! 貴方のデスクのモニターでも、今、東部地区の特設サイトが見えているはずだ!
今、この地味な過疎の町の神輿の先頭で、一人のイタリア人の若者が、泥まみれになって、涙を流しながら日本の本質を守るために叫んでいる!
彼の情熱に、世界中の五十万人が今、リアルタイムで胸を熱くして日本を見つめているんだ!」
私は窓の外の、光の海を指差した。受話器の向こうの岩田先輩には見えないはずのその光景が、私の言葉を通じて、確かに伝わっているという確信があった。
「本庁の冷たいルールのせいで、この世界の熱狂を、彼らの生きた魂を、ここで消したくない!
先輩……あなただって、数字を並べ替えるためだけに官僚になったわけじゃないはずだ!
現場の人間たちの、この血の通った誇りを守るために、その絶大な権限を使うべきだ!!」
残り、三十秒。
受話器の向こうで、長い、あまりにも長い沈黙が流れた。
小野寺が「課長、もうダメです……パーセンテージが……」と、絶望の声を漏らす。
諦めかけたその瞬間、電話の向こうから、ガタリと椅子を激しく蹴り上げるような、荒々しい音が響いた。
そして、いつになく熱く、魂の籠もった声が受話器から爆発した。
「──まったく、お前という奴は、どこに行っても組織の厄介者だな、蓮!」
「先輩……」
「実はな、蓮。
お前が東部地区に赴任したあの最初の週に、お前が仕掛けてくるであろう『無茶』を予期して、俺が本庁のルーティンワークのどさくさに紛れて、決裁を通しておいた極秘の書類がある。
『過疎地域における防災訓練及び緊急避難誘導デジタルトライアル実証実験に関する包括決裁書』だ!」
岩田先輩の、書類を激しくめくる音が聞こえる。
その声には、本庁のエリート特有の、明晰かつ不敵な知性が宿っていた。
「今回の世界的なアクセス集中を、正式に決裁済みの『防災訓練におけるインフラ負荷実証実験』として行政上、強制適用する!
これなら、災害用予備帯域を合法的に、正々堂々と開放できる大義名分が成り立つ!
誰にも文句は言わせん。
今、開放の承認キーをお前の端末へ送る。受け取れ!」
残り、二十秒。
「小野寺! 聞こえたか! 本庁の承認プロトコルが来る、今すぐ受け取ってルートを書き換えろ!」
「はいあぁぁっ!!」
小野寺の叫びとともに、彼の指先が神速のブラインドタッチでエンターキーを叩きつけた。
「認証完了……! 災害用帯域、全セクター、強制開放します!!」
【第5章・後半:一億二千万円のファンファーレ】
カチリ。
小野寺が最後の一打を叩きつけた瞬間、コントロールルームの大型モニターの画面が激しく明滅した。
次の瞬間、限界を示す直線となっていた真っ赤な負荷グラフが、嘘のように一気に下降し、安全を示す深い緑色へと滑り落ちていった。
国家の「災害用予備帯域」という広大なデジタル・ハイウェイが、この小さな過疎の町のサーバーに直結されたのだ。
「つながった……! 帯域安定、パケットロスゼロです! 橘さん、やりました!!」
小野寺が叫び、両手を天に突き上げた。
モニターの向こうでは、カクついていたライブ配信の映像が、まるで奇跡のように鮮明な4K超高画質へと蘇っていた。
画面の中のマルコは、途切れることのない世界からの視線を感じ取ったかのように、さらに激しく黄金の神輿の棒に肩を押し入れた。
「ソリャ! ソリャ!」
マルの青い瞳から大粒の汗と涙が飛び散り、提灯の光を浴びて宝石のように輝く。
地元の老人たち、商店街の若者たち、および佐藤主任。全員の呼吸が一つになり、地鳴りのような太鼓の音が、開かれたデジタル・ハイウェイを通じて世界中へと同時に響き渡った。
チャット欄には、一秒間に数百件のスピードで世界中の言語からメッセージが降り注ぐ。
『信じられない美しさだ』
『人間が生きているとはこういうことか』
『JAPAN、君たちは最高の宝物を持っている!』
インジケーターの寄付額が、再び生き物のように跳ね上がっていく。
「一億二千万……一億二千七百万円……! 橘さん、最終支援総額、一億三千万円に達しました!」
小野寺の声はもう涙で震えていた。
行政の補助金、わずか数百万円。
それを本庁の数字の規律で奪われた私たちは、現場の熱量と、一人の外国人の涙と、および官僚としての執念によって、その数十倍の「世界の意志」をひっくり返して見せたのだ。
──
数日後。祭りの狂乱が嘘のように静まり返った秋晴れの朝、東部地域振興課のオフィスには、どこか誇らしげな風が吹き抜けていた。
「課長、これ、敷島のじいさんから預かってきました」
佐藤主任が、照れくさそうに一つの包みを私のデスクに置いた。
中を開けると、あの敷島金物店の古い便箋に、力強い墨文字で『感謝』とだけ書かれた手紙と、地元の職人が丹精込めて作った、ずっしりと重い鉄製のオセロの駒が二つ入っていた。
一つは漆黒、もう一つは抜けるような白。
「じいさん、『あの東京の堅物課長に、オセロの勝負はまだ終わってねえって伝えろ』だそうです」
佐藤主任がニカッと笑う。
「ふん、相変わらず頑固な老人だ」
私は眼鏡を押し上げながら、その鉄の駒をそっとアタッシュケースに収めた。
オフィスのドアが開き、大きな旅行バッグを背負ったマルコが顔を出した。
法被を脱ぎ、いつものカジュアルな私服に戻っているが、その顔は信じられないほど晴れやかだった。
「蓮さん、佐藤さん、小野寺。私、今日ミラノに帰ります」
マルコは私の前に歩み寄ると、あの分厚い、神輿のまめができた右手を出した。
「今回のこと、世界中のニュースになりました。私のミラノのクリエイター仲間も、みんなこの町に恋をしています。
来年の秋は、もっとたくさんの『YOU』を連れて戻ってきます。この町は、もう絶対に死なない」
「ああ、待っているよ、マル。君の青い目が、この町の最高の白石を裏返してくれたんだ」
私がその手を強く握りしめると、マルコはニカッと白い歯を見せて笑い、嵐のように去っていった。
デスクのパソコンを開くと、本庁の岩田先輩から一通のメールが届いていた。
『蓮、今回の“実証実験”の成果報告書、上層部がひっくり返るほどの高評価だ。
地方創生の新しいモデルケースとして、お前の本庁復帰が正式に決定した。
来月の人事で、またこっちのガラス張りの部屋に戻ってこい』
本庁への復帰。かつての私が何よりも渇望していた、白い石で埋め尽くされたエリートコース。
だが、窓の外を見下げると、シャッターの開き始めた商店街で、敷島さんが元気に鍬を磨き、通りかかる住民たちが笑顔で挨拶を交わしている姿が見えた。
私は静かに微笑み、キーボードに手を置いた。
『岩田先輩、包括決裁のご協力、感謝いたします。ですが、本庁復帰の件は辞退させてください。
私はこの泥の町が気に入りました。
ここには、まだ裏返すべき面白い“黒い石”が、たくさん眠っていますから──』
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私の人生の盤面は、今、本庁の出世レースという狭い枠を飛び越え、この東部地区という無限の可能性を持つ盤面の上で、かつてないほど鮮やかな「人間の白」へと、美しく裏返っていた。
(完)
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