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入社してスグ辞める子

    今日は会社の同僚5人で、女子会ランチの日。
    会社近くの美味しいパスタ屋に集まり、「最近あのドラマ見てる?」「推しのライブがさ〜」「もう毎日の夕飯考えるのダルくて」と、日常トークが飛び交っていた。かくいう私は私で、最近始めたヨガの魅力をみんなに猛プッシュ。

    そんな賑やかなお喋りの最中、一人がポツリと口を開いた。
    「そういえば、今年の4月に入社した新卒のA君、退職したらしいよ」
    驚きで、みんなの持つフォークがピタッと止まる。
    「えっ!? 嘘!いつ!? 気づかなかった」
    「実はさ、4月末にはもう辞めてたんだよね」
    別の部署だった私たちは、その事実を今まで知らなかった。

    「えっ、早くない?!」
    「せっかく正社員で入社したのにね~勿体ない」
    「何があったんだろ?合わなかったとか?」
    「いやでも、1ヶ月そこらじゃ、会社のこと分からんくない?」
    不思議だよね、と首を傾げる同僚たちの輪の中、私だけは何も言えず、目を伏せてパスタをフォークでくるくるくるしていた。

    (いやいや、分かるよ。1ヶ月もあれば、)
    心の中で全力でツッコミを入れつつ、パスタを掬う。なんたって私も、新卒で入った会社を1ヶ月でバックれた『同類』なのだ。

    あの会社は…そうだS社って名前だったな。
    残業だってせいぜい2時間程度で、ブラック企業でも何でもない普通の会社だった。なのに私はちっとも耐えられなかった。



    *
    あれは10年以上も前のこと。
    あの頃の私は、大学4年になるにも関わらず内定が一社もとれず焦っていた。就活で150社以上落ちまくり「このままフリーター? 派遣?…無職?」なんて恐怖で、すっかり正常な判断力を失っていた。
    普段なら絶対に近寄らないパチンコ店の求人にすら、『新卒募集』という文字を見ただけで飛びつくほどのパニック状態。 そんななか唯一内定を取れたのがS社だった。
    ぶっちゃけ何の会社なのかもよく分かっていない。とりあえず、「正社員」という肩書きさえ手に入れば、それで良かった。大学まで行かせてくれた親に顔向けできる。


    *
    入社式の朝。
    内定先のビルの前に立った私は、少し感動していた。見上げるようなガラス張りの美しい10階建て。このビルの4階と5階がS社のものだ。
    エントランスを抜けると、最上階まで見渡せる巨大な吹き抜けの底に出た。幾重にも重なるフロアのど真ん中で、巨大なベンジャミンの木が上へ上へと青々とした葉を伸ばしている。まるでオブジェみたい。その巨木の下には、簡易ベンチがいくつか。きっとここで皆が憩うのだろう、いかにも都会のオシャレなオフィスビルという感じだった。
    「ついに社会人になるのかぁ……」


    都会の空気にすっかり放心した私がハッと我に返ったのは、入社式会場に響き渡るマイクの声だった。パイプ椅子には緊張で背筋をピンと伸ばした同期たちがずらりと並び、その無数の視線の先では、壇上の社長がマイクを握りしめて熱弁を振るっていた。
    「ここにいる40名の皆さんは、卵から孵ったばかりのヒヨコです!これから社会人として頑張りましょう!」
    真新しい黒スーツ姿でずらりと並ぶ同期たちが、「ヒヨコ……?」と頭にハテナを浮かべたその瞬間。突然、​前列から​ドサッ、​ドサッと​畳まれた黄色い​布の​束が​回ってきた。​
    なんだろう?
    受け取って膝の上で広げてみると、真っ黄色なトレーナーだった。セサミストリートに出てくる、あの大きな鳥を思い出すようなド派手な黄色。

    ​「それが​皆さんの​研修期間中の​制服に​なります。​今から​始まる​オリエンテーションに向け​、着てみましょう!」
    ​社長に​促される​まま、​40人が​一斉に​スーツの​上から​トレーナーに​袖を​通しはじめる。さっきまでモノクロ写真のように真っ黒だった新入社員の群れが、みるみるうちにド派手な黄色に染まっていった。隣の​男の​子も、​前の​女の​子も、​私も、​みんな​揃って​真っ黄色。
    ​自分の​胸元へ​視線を​落とすと、​小さな​ヒヨコの​アップリケが​一羽。​その​下には​丸っこい​文字で​『PIYO』と​刺繍されていた。​


    *
    翌朝。​
    更衣室に集まった私たちは、「今日からの研修って何するんだろうね」と不安げに囁き合っていた。 昨日のオリエンテーションで顔見知りになったばかりの同期たちが、狭い空間で一斉に、あの真っ黄色のトレーナーへと着替えていく。胸元にはもちろん例のヒヨコだ。

    着替えを終えた真っ黄色の塊は、更衣室を出て静かな廊下を二列でぞろぞろと進んでいく。 目的地は5階の研修室。そこへ向かうには、先輩たちが働く巨大なオフィスフロアを抜けなきゃいけない。
    歩きながら「お昼、会社の近くってコンビニあったっけ?」「近くにカワイイご飯やさん見つけたよ〜」なんてヒソヒソ情報交換しあう私たちの声は、オフィスフロアに足を踏み入れた瞬間にピタリと止まった。

    (うっわ、めっちゃ殺伐…)
    フロアのあちこちで、先輩社員たちがパソコンの画面と睨み合い、前のめりで仕事に没頭していた。
    どのモニターにも付箋が山ほど貼られていて、誰もが忙しそうに眉間にしわを寄せている。聞こえてくるのは、キーボードを叩く音と、気難しげな電話の声、そして呪文にしか聞こえない専門用語だけ。
    こんな目立つ黄色い集団が入場してフロアを行進しようが、気にも留めない。本当に、ちらりとも見ない。

    圧倒的な『仕事』の気迫に当てられて、私たちは自然と息を潜めるしかなかった。ピリピリした大人の世界。私の知っている『大人の世界』なんて学校の職員室くらいだったけれど、まさにあの感覚。生徒が不用意に踏み込めない、あの特有の入りにくさにそっくりだった。


    *
    研修室に入ると、さっそくここから2週間続く座学講習がスタートした。会社の​歴史、​組織図、​市場規模、​競合の​動向。​日経新聞の​切り​抜きを​そのまま​音読されているような退屈さで、あくびを​噛み殺している​うちに、​午前が​終わる。​

    けれど午後、強烈に面白いものが待っていた。自社商品のパッケージについての説明だ。
    これがとにかく面白い!お店で「なんとなくカワイイから」「なんとなく美味しそうだから」と思って手に取っていた、あの『なんとなく』の正体。それが偶然なんかじゃなく、緻密に計算された『タネ』だったことが、手元の資料でぜーんぶ赤裸々に暴かれていた。

    思わず手に取らせるためのパッケージデザイン心理。
    脳にこびりつくキャッチコピーの法則。そして SNSで何気なく見ていたインフルエンサーの投稿1つにすら、ターゲットの購買欲をピンポイントで刺激するためのえげつない戦略が練られていた。

    前方のスクリーンを差しながら、講師が淡々と裏側の解説していく。私は、ノートパソコンでメモを取るのも忘れ、ただただその話に釘付けになった。

    マジか、と鳥肌が立つ。

    私、購買欲を操作されてたの!?!!!
    身に覚えのある買い物を思い返して戦慄しつつも、まるで手品の『タネ』明かしのように次々と裏側の仕掛けが明かされていく講義に、すっかり夢中になってしまった。

    その熱は、研修が終わる18時を過ぎても冷めやらない。
    いや、どうやら私だけじゃなかったらしい。あちこちから「さっきのパッケージの話さぁ……」と、熱を帯びたヒソヒソ話が聞こえ始めていた。みんな、今日の話を誰かと語り合いたくて、ウズウズと帰りそびれているみたいだった。

    一番前の席に座っていたサラサラ黒髪の女の子が、後ろを振り返って「ここ、ここっ!」と何やら興奮気味にスマホの画面を掲げているのが見えた。 自然と彼女の元へ人が集まり始める。私も席を立ち、その輪へ近寄って覗き込む。
    「見て、これ!さっき習ったやつそのまま!」
    彼女のスマホに表示されていた自社商品の公式アカウントには、講義で説明された通りの『仕掛け』がバッチリ写っていた。
    「うわ、​本当だ。​じゃ​あ​こっちのフォロワー多い​人の​投稿も、も​しかして​会社の​戦略なのかな?」
    隣の子が、自分のスマホをいじりながら画面に映るインフルエンサーの投稿をトントンとタップして呟く。その無邪気な疑問を遮るように、横から画面を覗き込んできた別の同期から、冷ややかな声が降ってきた。
    ​​「いや、​PRって​書いてないから​違うでしょ。​ステマ規制知らんの?​ え、​何学部​出身?」
    ​​「、、いや、​あの、教育学部…​…​ごめ」​
    気まずい​空気を​かき消すように、​別の​同期が​慌てて身を​乗り出した。
    ​「あ!​あーーの​さっ!​この​商品の​メインカラーが​赤なのにも​絶対理由​ありそうじゃないっ!?​ 明日の​質問タイムで​聞いてみようよ!」​​
    「赤って​言っても​色々​あるじゃん。​他の​赤との​対比とか、​なんで​わざわざこの​カラーコードの​赤を​指定したのかの​方が​気に​なる」

    カラーコードって​なんやねん。​本日『裏側の​世界』を​知ってしまった​興奮に​背中を​押され、​たまらず​その輪の​中に​声を​かけた。
    ​「ねぇねぇ、​カラーコードって​何?」​​
    「ん?​あ~、​あれ。​デザインを​作る​ときに​色を​指定する​#00000みたいな​番号の​ヤツ」
    その​言葉を​きっかけに、​「はいはい!​俺!​大学で​色彩心理学とってた!​仮説だけどさ、例えば…」と​新しい​情報が​飛び交い​始めた。​
    誰かが​仕切るわけでもなく、​それぞれが​持っている​知識を​ポンポンと​放り込み、​話題が​四方​八方​へと​派生していく。​気づけば窓の​外は​すっかり​暗くなっていた。
    ​文化祭前夜みたいな​この​熱気が​楽しくて、​翌日も、​そのまた​翌日も。​連日残って話し込むうち、​私は​すっかり、​あの​黒髪の​女の​子を​中心とした​『居残り組』の​一員に​なっていた。​

    *
    連日ワイワイと残るようになった私たちだったけれど、その楽しい空気が一瞬で消え失せる場所があった。更衣室への通り道になっている、先輩たちのオフィスフロアだ。
    あれは、居残り初日のこと。

    ​「じゃあ、​今日は​この​辺にしよっか」​
    時刻は20時過ぎ。そろそろ帰ろう、お腹へったしと研修室を出た、居残り初日のことだ。

    消灯された暗い廊下を、皆でヒソヒソ声を潜めながら歩く。更衣室へと通るためオフィスの扉を開けた途端、一気に視界が眩しくなった。
    煌々と点く蛍光灯の下、フロアは満席だった。
    壁の時計を思わず二度見したけれど、間違いなく夜の20時過ぎだ。しかし朝みた光景と全く変わらず、たくさんの社員が黙々とパソコンに向かっている。
    ……いや、違う。空気が明らかに殺気立っていた。
    あちこちから響く、エンターキーを乱暴にターンッと叩きつける音。
    誰かの苛立たしげな舌打ち。
    その空気に圧倒されながら、私たちは息を潜めてフロアの通路を歩き出した。 縮こまるようにしてデスクの脇を通り過ぎ、ちらっと様子をうかがうと、おでこに冷えピタを貼った社員と目が合った。親の仇でも見るよう、目が血走っている。
    「ひいっ……!」
    思わず視線を逸らし、慌てて歩幅を速め前の同期の背中に隠れた。


    最初の2、3日は「たまたま忙しい時期なのかな」と思っていたけれど、次の日も、その次の日も。夜、更衣室へ向かう道すがらに目にするのは、まったく同じ地獄絵図。
    どうやら、これがこの会社の『普通』らしい。 その事実に気づき始めた頃には、更衣室で交わされるヒソヒソ話も「近くのカワイイご飯屋さん」から「先輩たちのヤバさ」へといつの間にか変わっていた。 同期たちのお喋りを聞くたびに、あの冷えピタを貼った先輩の姿が頭をよぎる。数ヶ月後には、あれが『私』になるのかもしれない。

    こうして、なんともいえない沸々とした息苦しさを感じ始めてた頃。追い討ちをかけるように、研修の内容がだんだんと変わり始めてきた。

    ワクワクできた講義は、最初の方だけだった。やがて研修は、「その仕掛けでいかに購入率を上げるか」「売上をいくら伸ばすか」という、シビアな『数字』の話ばかりになっていく。
    スクリーンに次々と映し出される、グラフや数値…購入率、売上、新規獲得率、効果測定、F2転換うんぬんかんぬん……。 それらは単なるデータではなく、達成できなければ容赦なく評価を下される、逃げ場のない『ノルマ』だった。
    嫌でも理解させられた。あの冷えピタ先輩たちを殺気立たせていたプレッシャーの正体は、これなのだと。

    私たちが夜まで居残り、キャッキャと学んでいることも、結局はあの毎晩通るオフィスの地獄絵図へと続く切符なのか。
    いずれ背負わされる未来の重さに息が詰まり、あんなにはしゃいでいた熱は、スッと冷めてしまった。



    それ以降、学ぶことへのワクワク感は完全に消え失せ、研修はただ時間が過ぎるのを待つだけの苦痛な時間へと変わってしまった。だけど、もっと問題なのは、終業後​だ。​ほらきた​定時の​18時。​

    「ねえ今日の講習むずかしすぎなかった?誰か分かる人いない?」
    「あ、私も教えてほしいー!」
    「Yさん、大学で統計やってたでしょ?助けて〜明日ランチ奢るから」
    『居残り組』の子達が、さっそく机をくっつけて集まり始める。
    その横で「お疲れ様でしたー」と、​荷物を​まとめて​要領よく​帰っていく​数人の​同期。​彼らに続いて、私も今日から帰ろっと心に決め、カバンを手に取り椅子から腰を浮かせた、その時だった。

    ​「うわ、​また​あの​子達定時で​上がってる。​信じらんない」
    隣から聞こえてきたトゲある声に、ビクッと肩が跳ねる。昨日まで一緒にキャッキャと復習していた『居残り組』の子達だ。去っていく同期の背中を氷のように冷ややかな目で見送っている。
    「私ら​こんなに​残って​復習してんのに​ねー」​
    「ね。​あの​子たち、​絶対現場出たら​使い物に​ならないでしょ」
    ​同調を求めるように私の方へとくるっと顔を向けてきた。
    ヒエッ
    顔が引きつる。彼女たちの言葉に、すっかり忘れていた嫌な​記憶が​フラッシュバックした。​

    高校時代の、​吹奏楽部。​
    放課後の練習時間が終わっても、誰一人として帰ろうとしない。「もう一回だけ合わせよう」というパートリーダーの鶴の一声で、全員が残るのが暗黙の了解。自主練に来ない部員に向けられる悪口と、翌日のあからさまな無視。自分がその標的になるのが恐ろしくて、ただひたすら同調して帰れなかった日々。それが​嫌で、​大学では​吹奏楽サークル避けたのに。​


    ​目の前では当たり前のように今日の研修の延長戦が始まろうとしている。
    すっかり『居残り組』としてカウントされている私が、今ここで帰ればどうなるか。その後の冷ややかな空気を想像しただけで、あっさりと心は折れた。
    私はそっとカバンから手を離し、ゆっくりと椅子に座り直す。 「私もYさんの話聞きたーい!」 さも勉強熱心なフリをして、ちゃっかり教え合いの輪に加わった。


    *
    2週間続いた座学講習が終わり、季節は4月後半へと差し掛かっていた。
    研修の内容は企画作りの実践とプレゼン練習へと移り、最後にはその成果を見せるプレゼン発表会が待ち受けていた。

    迎えたプレゼン大会当日。研修室の後ろには上層部の偉いっぽい人たちがズラリと腕を組んで並んでおり、なんだか『授業参観』のような空気が漂っていた。
    周りに合わせて居残りしてただけの私の発表は、当然ながら無難なものだった。適当に拍手をもらってペコッと頭を下げて終了。「まあこんなもんだよね」と気にも留めていなかった。

    だが、あの『居残り組』の黒髪の子たちの番になった時のことだ。 彼女たちの発表が終わると、後ろに立つ偉い人たちから「素晴らしい視点だ」とわざわざ称賛の講評が飛んだ。
    (私も一応、毎日一緒に居残ってたんだけどなぁ)
    そんな身勝手な劣等感を抱いている自分に気づき、なんだか余計にモヤモヤしてしまった。


    数日後の​朝。​ いつもの​朝礼の​風景。​
    前に​立った​研修担当の​先輩社員が、​何やら​メモ紙を​取り出し口を​開く。
    ​「これまでの研修態度や​プレゼンの​結果を​踏まえ、​以下の​者を​一人前と​認めます。明日から​​黄色い​トレーナーを​脱いで、​スーツで​勤務してください。」

    ​「おめでとう!」と​いう​言葉と​共に、次々と読み上げられるのは、あの黒髪の女の子をはじめとする『居残り組』の名前だ。1名1名呼ばれるたび、研修室が拍手に包まれる。一応毎日居残っていた私も呼ばれるだろうと、期待して待った……がしかし、中々呼ばれない。
    ついにラスト1人。
    最後に呼ばれたのは、毎日定時で帰っている子だった。確かにプレゼンがズバ抜けて上手かった。

    ​朝礼が​終わり、先輩社員が研修室から出た​直後。私は自分の黄色いトレーナーを見下ろし、そっと周りをうかがった。
    居残り組の中で名前を呼ばれなかったのは、私を含めてほんの数人だけ。 居た堪れない空気の中、​黒髪の​女の​子と​数人の​取り​巻きが、​真っ先に​定時帰宅のあの子の​元へ​駆け寄る姿が​見えた。​
    「おめでとう、仲間だね!」
    「ねぇ、​ランチいつも​どこで​食べてる?​よかったら今日​一緒しない?」​
    ​「データの​出し方、​まじで​上手かったよね!​ も​しかして​学部、​理数系だった?」​
    ​つい​先日まで​「定時帰りの​ヤツは​絶対​使い物に​ならない」と​鼻で笑っていたくせに。​
    ​(……​うわぁ​)​
    陰口が怖くてへばりついていた自分が、一気にアホらしくなった。


    ​*
    4月も最後の週。プレゼン大会を終えた新人研修は、いよいよ現場部署での実習へと移った。
    この頃の私は、もう一切の未練なく18時の定時に帰るようになっていた。
    現場での居心地が最悪だったから、って言うのもある。完全にやる気を失っていた。

    現場の部署に出ると、パリッとしたスーツ姿の同期と、黄色いトレーナーのままの私とでは、先輩たちの声のトーンがなんだか違うような気がしたのだ……いや、ただの被害妄想かもしれない。でも、この目立つ黄色い服が「半人前」のレッテルみたいに思えて、肩がどうしてもすくまってしまう。

    入社してもうすぐ1ヶ月。40人いた同期は、33人に減っていた。 ポツポツと退職していく彼らの気持ちが、痛いほど分かった。


    *
    4月最後の日、夕方の終礼でのこと。
    「えー、今週末の土曜日ですが、地域貢献のためのマラソン大会があります」
    前に立った研修担当の先輩社員が、大きなポスターを掲げた。S社の地域貢献の目玉らしく、ゲストとして五輪メダリストのTさんも走るという。

    「朝5時に、動きやすい服装で会社前に集合するように」
    その突然の告知に、研修室が「え、5時?」「予定あるんだけど」とざわつく。しかし先輩は「スタッフが足りないの!」とその騒ぎをピシャリと制した。 「県内ニュースも取材に来る巨大イベントだからね。新人もちゃんと働くように! 」

    当日は晴天だし、観客も多いと思うよ。頑張りなさい!などと発破をかける先輩を、私は恨めしくみつめた。
    ふざけないでほしい。絶対に、何がなんでも行きたくない。晴天のマラソン大会スタッフなんて、焼きごてで肌を焼かれる拷問ではないか。

    黄色いトレーナーの袖をまくり、自分の腕を見る。
    そこにあるのは不健康そうな、なまっ白い肌。日に当たればすぐ赤く腫れ上がる。小中高と、運動会の練習のたび肌の痛さに泣いて帰り、母にベランダのアロエをベタベタ大量に貼られるトラウマが蘇る。せっかく大人になって解放されたと思ったのに。

    終礼が​終わり、​足早に​帰ろうと​する​先輩を、​慌てて​追い​かけた。​
    「あのっ、​すみません、​相談なんですがっ!」​ 振り返った​先輩は、​あからさまに​煩わしそうな​顔を​した。​早く​自分の​デスクに​帰りたい​オーラが​全身から​出ている。​
    「私、​肌が​弱くて……。​その、​参加しないって​いうのは​……」​
    「は​ぁ?」 先輩の​眉間が、​グシャッと​寄った。​
    「いるのよねー、​日焼けしたくないからって​ゴチャゴチャ言う子。​日焼け止塗っとけばいいでしょ」​
    ​「いや、​食パンに​日焼け止め塗っても、​オーブントースターに​入れたら​焼けるじゃないですか…」​
    「は?」
    ​「?」​
    意味が​伝わっていない。​説明を​続けようと​先輩の​顔を​見ると、​彼女の​視線が​私の​顔から、​『黄色い​トレーナー』へと​スライドするのが​見えた。​
    ​「……で?」​
    ​冷たい声。​幻聴が​聞こえる、
    ​優秀な​新人ならともかく​トレーナーのままの​奴の​話なんて​聞く​価値は​ない~
    そう聴こえてくる。被害妄想だけど。
    「すみませんでした」とすごすご​退散した​。


    研修室にもどり壁時計を見ると、定時の18時はとっくに過ぎていた。
    楽しそうに残る同期たちを背に、私は逃げるように更衣室へ向かった。

    悔しさを吐き出せるくらい仲良くなれた同期は、まだ一人もいない。

    ここを辞めたら、なにも残らない。耐えなきゃいけないと頭では分かっている。黄色トレーナー着てると悲しくなるなら、脱げる努力をすればいい。分かっている。分かっているけど…
    マラソン大会のそれが最後のひと押しだった。
    我慢してた何かが、なんだかもう、プツンと切れてしまった。


    更衣室で黄色いトレーナーを脱ぎ、ハンガーにかける。
    もう二度と着ることはない。


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