
桃花、屍を還す
あらすじ
母の愛を知らず、人を愛することもできない青年・メイリンの前に、死者の国から逃げ出してきたという亡霊の少女・シャオホアが現れる。生前に一度だけメイリンと出会い、恋に落ちていたシャオホアは再会するなり結婚を迫ってきた。突飛な言動に呆れながらも、真っ直ぐに愛を向けてくる少女をメイリンは次第に拒めなくなっていく。
やがてシャオホアは、自らを生き返らせてほしいと願い出る。しかしそのためには墓を掘り起こすという禁忌を犯さなければならなかった。
亡霊の少女を還すため、メイリンが最後に下した決断とは──。
私の目の前に、鬼のような顔をした男が座っていた。鋭い目で私を見ている。そこは広間のような場所だった。
日の光さえ通さない黒い衣をまとった男は、右手に持った笏を左の手のひらに軽く叩きつけていた。パチン、パチン、と乾いた音が響く。私はそれを黙って聞いていた。
「お久しぶりです」
咳払いをして、私は声を出す。記憶にあるよりずっと若く、張りのある声だった。そこでようやく私は自分の姿が若返っていることに気がついた。体中に刻まれた皺も、垂れ下がった皮膚も、思うように動かない体もない。私は十八の青年へと戻っていたのだ。
「この場所に時間はない。ゆえにその挨拶に返すべき言葉を私は持ち合わせていない」
ようやく男が口を開いた。どこまでも低く、威厳に満ちた声だった。
私は薄く笑った。男の小難しい喋り方は以前と何も変わっていない。
「お元気そうで何よりです」
「貴様はただ口を閉じ、私の裁きを聞き入れれば良いのだ」
「えぇ、もちろん」
私は言われた通りに口を閉じた。
男が今から何を言い渡すのか、私には容易に想像がついた。というより、それはずっと前から決まっていることだった。彼女を救うと決意したあの瞬間から。
「貴様は罪を犯した。違いないな」
私はゆっくりと頷いた。何一つとして違いない。
「ならば良し」
男は笏を口元に添え、深く轟く声で言い放った。
「地獄へ行け。それが貴様への裁きである」
*
長い昼寝から目覚めたような気だるさが体の奥にあった。
目を開けたまましばらく天井を見つめていた。事実、おれは長い昼寝をしていた。重たい体をのっそりと起こす。開け放たれた窓につけられた風鈴が風に揺られて軽やかな音を立てていた。
「あぁ、やっと起きたの」
温度のない声が投げかけられる。
小さな鏡台の前に座り、化粧をする女がいた。長い黒髪は丁寧に結われ、射し込む日の光によって細く白いうなじが美しく輝いていた。女はちらりとおれを見た。性格をそのまま映したかのようにキツく鋭い瞳だった。声と同様そこに温もりはない。
「さっさと準備しな。店が開くよ」
「うん、わかってる」
女の名はリーシャ。おれより二つ年上で、簡単に言えば仕事仲間だった。
寝ている間に汗をかいていたのか、背中はじっとりと湿っていて、首筋からはいくつもの汗が流れた。畳から太ももを剥がす。凝り固まった体をいろんな方向に伸ばして深く息を吐いた。
おれとリーシャは十畳ほどの広さの部屋で暮らしていた。
隣の部屋が仕事場で、下の階に住む女将が二人の親代わりだった。女将は夜になると店を開け、客を呼び込んだ。そしておれたちはやって来た客に股を開いた。それが仕事。望んでそんなことをしているわけではない。おれにも、リーシャにも事情があった。こんな仕事をしてしか生きていけない、そんな事情が。
だが別に珍しいことでもない。
都から少し離れたところにある街、花柳。そこにはさまざまな店が軒を連ね、おんなを振る舞った。
花柳で暮らすおんなたちはそれぞれに厄介を抱えていた。親の借金の肩代わりに売られた者、食いぶちを減らすために売られた者、住んでいた村で迫害されて逃げ込んできた者もいる。そういう人間が最後に行き着くのがここだ。
楽な生活とは決して言えない。客は下を見ればとことん下がいた。そんな奴らはおんなを乱暴に扱い、見た目も不潔でろくに金を持っていなかった。良い客というのもいるにはいるが、限られている。ろくでなしの客の方が多いだろう。
「床屋に行って風呂に入ってくる」
伸びかけの坊主頭を投げながらおれは言った。
リーシャは唇に紅をさしていた。興味なさげに鏡の中で瞬きをする。それが彼女の返事だった。
嫌われるようなことをした覚えはない。しかし己の身を売るという商売をしているとどうしても選ばれる側と選ばれない側に別れてしまう。自分が年下の、しかも男であるおれに負けるのが何よりも腹立たしいのだろう。今は自分の方が売れていても、何がきっかけで覆ってしまうかわからない。隠す気配のない憎しみに、おれはただため息を吐くことしかできなかった。
唯一母が残してくれた形見の羽織を肩にひっかける。黄土色のそれは長い間着ているからずいぶんと古ぼけていた。ところどころにほつれがあり、色も薄くなっていた。しかし裾に刺繍された桃の花だけは鮮やかな色を保っている。夏に着るには少しばかり暑いが、おれはそれをいつも身につけていた。そうしないと落ち着かなかった。
軋む階段を降りて玄関へ向かう。高下駄をつっかけて、扉を開けた。蒸し暑い空気の中に足を踏み出す。日が暮れる前の太陽がじりじりと肌を焼いた。
早く用事を済ませてしまおう。
*
おれが働く店は「牡丹」という名だった。生まれた時からこの店で暮らしている。
娼婦の母親が客の男との間に身籠った子だと女将に教えてもらったのはいつだったか。物心ついた時から父親はいなかった。贔屓にしていた娼婦が妊娠したと知るや否やぱったりと店に来なくなったらしい。おれと母親は捨てられたのだ。
だがそんな父親を恨むことはなかった。花柳に住んでいれば娼婦と客の子どもなど腐るほどいる。その中で父親の姿を見たことがある子どもがどれくらいいるだろう? きっと一人もいないはずだ。それが当たり前だった。だから蒸発した父親に対してはなんの感情も抱かなかった。
「おじちゃーん、いる?」
牡丹から路地をいくつか抜けたところに床屋はあった。
濃紺の暖簾を押し上げ、中に声をかける。外の眩しさと店の中の薄暗さで目眩がした。
「おうよ、いらっしゃい。メイリン」
奥の方からしわがれた声が返ってきた。
床屋の店主は大柄な男だった。白髪は禿げ上がり、顔の至るところに深い皺ができている。初めて彼を目にすれば、その風貌の恐ろしさに身がすくむだろう。
おれは笑顔を浮かべて片手を上げた。
「今日も散髪よろしく。結構伸びてきちゃってさ」
「あぁ、座ってくれ」
店主は短くそう言うと、鏡の前に置かれた木の椅子を引いた。おれがそこに座ったと同時に首周りに布を巻かれる。彼は確かめるようにおれの頭に触れた。中途半端に伸びた髪がザラザラと音を立てる。
「またずいぶん放っておいたんだな」
咎めるような声音に思わず肩をすくめた。
「めんどくさくて」
「もっとちゃんと身なりに気を配れ。人に見られる仕事なんだから」
「そりゃそうだけどさぁ」
ぶつぶつと文句を垂れながら、彼は散髪の準備を始めた。ぬるま湯で泡を泡立て、それをおれの頭に乗せる。じんわりとした温もりに目を細めた。店主はいつものようによく研がれたカミソリを手にした。
それきり会話はなかった。店主は剃ることに集中しなければいけなかったし、おれもそんな彼に話しかけようとは思わなかった。もし彼の手が滑れば(彼に限ってそんなことはありえないが)おれの頭皮が血を噴くのだ。危険は犯せない。
「店の奴らは相変わらずか? リーシャと仲良くやってんのか?」
しばらくして店主は口を開いた。おれはすっきりとした頭を撫でながら「うーん」と気の抜けた声で返事をした。
「仲は良くないね。あの人はずっとあの調子だよ」
「まぁ、あいつはここに来てまだ日が浅いんだ。大目に見てやれ」
「わかってる。でも向こうがあんな態度取ってくるんじゃ仲良くはできないよ」
女将から聞いた話では、リーシャは親の借金の肩代わりとして売り飛ばされたらしい。彼女がこの街に来たのは二年前。ちょうど今のおれと同じ歳だ。
あの人は両親に愛されて育った。見ていればそれがわかる。そんな親から裏切られたのだ。最初のころは貝のように口を閉じていた。なにも信じない、真っ暗な目をして。
「ま、歳の近い者同士もうちょっと打ち解けたいんだけどね」
店主はカミソリについた髪を丁寧に拭い、水で洗い、元あった場所に片づけていた。大きな背中が少し丸まり、ちょこちょこと動き回る。おれはそれを鏡越しに眺めていた。
あとは金を払って帰るだけなのだが、おそらく彼は何か言いたいのだろう。店主の方から話し出すことはとても珍しいことだった。
「もう、寂しくはないか」
店主はおれに背を向けたまま言った。おれは自分の手を見つめた。爪の形をぼんやりと確認する。綺麗に切り揃えられた美しい形の爪だ。
「うん」
短く答えた。
「スイランが死んで、十年か」
店主とおれの母、スイランは古くからの友人だった。彼曰く、おれのことは母の腹の中にいるときから知っているらしい。だからこそ母が死んだとき、彼は誰よりも悲しんだ。
「八歳だったおれもすっかりでかくなったよ」
げっそりと頬のこけた母は布団の中で動かなくなっていた。あのとき、おれはひどく安心したんだ。何かから解放されたような気がした。どうしてそんな感情を持ったのか。幼いときは理解できなかったが、今ならよくわかる。
いや、やめよう。母のことはあまり考えたくない。塞がりかけていた傷がまた開いてしまう。
「時の流れは早いね。おれも取り残されないようにしなくちゃ」
明るい声は驚くほど白々しかった。声を出すために持ち上げた口角が鏡の中で元に戻る。おれは無表情で自分の顔を見つめていた。くすんだ顔色だ。
「メイリン」
店主はゆっくりと振り返った。仏頂面の中に優しい色が浮かんでいた。
おれは、この人のように母の死を悲しみ、母の存在を懐かしむことはできない。この先もずっと。それくらいの確執が母とおれの間にはあった。
「何かあれば俺を頼れ。何があろうと俺はお前の味方だ」
おれは曖昧に笑った。
「ありがとう。おじちゃん」
彼は心からおれを愛してくれている。おれのことを自分の子どものように思ってくれている。それはきちんと伝わっていた。だがおれはそれを受け取ることができなかった。愛を享受することをおれはこの世の何よりも恐れていた。人を愛することも、人に愛されることも、おれにはできない。
「じゃあそろそろ行くよ。またよろしくね」
椅子から立ち上がり、財布を取り出す。代金を渡すと、店主は静かに頷いて釣りを返した。
「気をつけろよ」
ぶっきらぼうな声におれは手を挙げて答えた。濃紺の暖簾を押し、外に出る。彼の視線はまだ背中に貼りついていた。
外に出ると、夏特有の湿ったなまぬるい風が吹いていた。羽織がはためく。左耳につけていた耳飾りがちりちりと細かい音を立てる。そういえば、とそれに触れた。
二年ほど前だったか。花柳に迷い込んだ少女に道案内をしてやったことがあった。そのときにもう片方の耳飾りを少女に渡したのだ。迷子になって泣きじゃくる少女が哀れで、泣き止ませたくて「これをつけていればすぐにお母さんに会えるよ」と。
あの子は元気だろうか。どこかでまた迷子になっていたりして。
能天気な想像に笑みがこぼれた。素直で可愛らしい少女だったから、おれは彼女に自然な好意を抱いていた。もう二度と会うことはないだろうけど。
額に浮かぶ汗を拭い、馴染みの銭湯に入った。下駄を脱ぎ、番台に金を払って暖簾をくぐった。
石鹸のいい香りをまといながら銭湯から出る。坊主頭はすぐに乾くから便利だ。少し湿った手拭いを頭にかけて歩き出す。風呂に入るのにずいぶん時間をかけてしまったらしい。太陽はすでに傾いていた。もうすぐ日が暮れ、夜が訪れる。夜は仕事の時間だ。早く牡丹に帰ろう。
「ねぇ、あなた!」
くるりと牡丹の方に足先を向けたおれは、突然背後から飛んできた声に振り返った。よく通るその声をどこかで聞いたことがあった。
「やっと見つけた」
そこに少女が立っていた。十四、五歳くらいだ。純白の衣を豪華な赤い帯で締め、長い黒髪がまっすぐ腰まで伸びている。肌は日焼けを知らないような白さで、頬は熟れたりんごのように色づいていた。金持ちの娘だと直感した。だが不思議なことに少女の足は何も履いていなかった。
「えっと?」
「お願いがあるの!」
混乱するおれの声を遮り、少女は両手をぎゅっと握りしめた。大きな瞳がキラキラと輝いている。改めて少女の顔を見て、おれは「ん?」と首を傾げた。その顔に見覚えがあったような気がしたし、何より目を引いたのは右耳につけられた耳飾りだった。おれがつけているものと同じだ。
「あたしと結婚してちょうだい!」
耳飾りについて聞こうとした言葉が喉元で詰まり、声にならなかった。
「け、っこん?」
それはあまりにも唐突すぎる告白だった。おうむ返しに聞き返すおれに、少女は勢いよく頷いた。自信満々に。
「だ、誰が、誰と?」
「あたしとあなたがよ! もちろん」
それ以外に何があるの? と言いたげな様子におれは顔を歪めた。十八年生きてきてこんなにも戸惑ったのは初めてだ。何から話すべきなのだろうか。
「急に結婚って言われてもな……」
頭にかけていた手拭いを取り、肩に引っかける。腰に手を当てて俯いた。
「おれは君のことを何も知らないし、」
「じゃあ自己紹介からね! あたしはシャオホア。二年前にここで迷子になって、あなたに助けてもらったの。そのときにこの耳飾りをくれた。覚えてる?」
「あぁ、いや、覚えてる。覚えてるよ。でも」
「あなたに一目惚れしたの。だからここまで来たのよ」
少女──シャオホアはまっすぐな目でおれを見据えた。嘘をついているようには見えない。全てを見透かしてしまいそうな瞳に、おれは思わず目を逸らした。
「あなたを愛してる。心から。だから、結婚してほしいの」
ダメだ。胸を服の上から押さえる。心臓が激しく動いていた。
「できない」
発した声はどこまでも冷え切っていた。そこで初めてシャオホアの視線が揺れた。おれは今にも溢れ出しそうな感情を深呼吸によって抑える。
「悪いけど、おれは人を愛せないんだ」
さっきよりは柔らかい声を意識して出す。こわばった口角を少しだけ上げて微笑んだ。シャオホアは怪訝そうに眉をしかめた。
「どういうこと?」
「これはおれの問題だから、誰かに軽々しくは話せない。君だって人に言いたくないことくらいあるだろう?」
「それは、」
「だから君と結婚はできない。ここまで来てくれたのにごめんね」
シャオホアは薄く口を開けた。おれの返事は彼女に衝撃をもたらしたらしい。溌剌とした目からは光が失われ、握りしめた拳は開かれてだらりと垂れ下がった。唇を震わせて「結婚できない?」と小さな声で問いかけられる。おれはそれ以上何も言わず、頷いた。
「花柳の門まで送ってあげるよ。もうすぐ夜だ。お父さんやお母さんも心配してるはずだよ。それに君はここにいないほうがいい。ここは危険だから」
通りをざっと見渡す。店先の提灯に火が灯り、赤く輝き始めている。しばらくすれば客引きのがらがらとした声が響くだろう。それに返事をするのはおんなを求める欲に塗れた男たちだ。そんなところにシャオホアのような、何も知らない無垢な少女がいてはいけない。すぐに欲望の餌食になってしまう。
「でも、あたし」
シャオホアは俯いた。つま先をきゅっと縮める。長い髪が彼女の顔を覆い、ここからでは表情が見えなくなってしまった。華奢な肩は小刻みに揺れ、鼻を啜る音がした。続けて、ぱたりぱたりと地面に涙が落ちた。
「ちょ、ちょっと」
泣いている。シャオホアは両手に顔をうずめ、声も出さずに泣き始めてしまった。
結婚の申し出を断られたのがそんなにもショックだったのだろうか。少しだけ胸の中に罪悪感が広がる。しかし、だからといって簡単に「結婚してもいいよ」とは言えない。それとこれとは話が別だ。以前と同じようになんとか泣き止ませながら門まで送るしかない。
シャオホアにバレないようにため息をついた。もうすぐ仕事が始まるのに。少し遅れることを覚悟しないと。
「ほら、行くよ。どれだけ泣いてもおれの考えは変わらない。歩ける?」
「ダメなの、だめ、あたし、だって、あなたのために戻ってきたのに。逃げ出してきたのに」
それは本当に小さな声だった。シャオホアの手を取ろうとしたおれは「え?」と聞き返した。シャオホアが顔を上げる。その目には恐怖が滲んでいた。
「あたし、」
そのとき、凄まじい轟音があった。足元から突き上げるような揺れが体を襲う。咄嗟に地面に伏せた瞬間、木造の家ならば簡単に吹き飛ばしてしまいそうな突風が路地を駆け抜けた。赤提灯がうるさくはためく。耳元で風が獣のように猛る。
きつく閉じていた目を細く開き、何があったのかを確かめようと頭を動かす。そしてそこに存在するものを見て、おれは言葉を失った。
「なんだ、あれ」
巨体があった。真っ白の皮膚はところどころがたるみ、長い尻尾が左右に動く。小ぶりな耳は周りの音を聞き逃すまいといろんな方向に向いていた。ツンと伸びた鼻先、長いヒゲ、黒い目がぎょろりと動いておれを見た。
その姿には見覚えがあった。ここで暮らしていたらよく見かけるものだ。だがそれはあまりにも大きすぎた。
「ねずみ……?」
それが威嚇するように顔を歪めると、全てを噛み砕いてしまいそうな鋭い前歯が剥き出しになった。のっそりと動いて体がおれのほうへ向く。
「あたし、あれに追われてるの!」
シャオホアが切羽詰まった声で叫んだ。
「は、」
「早く逃げなきゃ!」
両手を地面につけ、尻を引きずりながらなんとか立ち上がる。あんな不気味なものが突然現れたというのに周りは全く騒ぎになっていない。だが人々は大地を揺らす衝撃と突風は感じたらしい。路地に顔を出し、不思議そうに近くの人と話している。誰も、そこにいるねずみを見ていない。
「もし、つ、捕まったらどうなるんだ?」
しかし今のおれにそのことを気にかけている余裕はなかった。目の前の謎の生物のことで頭がいっぱいだった。
震える声で問いかけると、シャオホアは小さな声で答えた。
「死者の国に連れて行かれちゃう」
乾いた笑いがこぼれる。死者の国だって? いつものおれなら軽く鼻で笑い飛ばしていただろうが、あんな生き物を目にしてしまったら信じるしかない。シャオホアの言葉は事実だ。
「それは、嫌だね」
両者しばしの睨み合い。先に動いたのはおれだった。
全身を震わせ喝を入れると、シャオホアの手をパッと掴んだ。そしてねずみに背を向けて脱兎のごとく駆け出した。
それがねずみを刺激したらしい。おれが走り出すと同時に甲高い叫びをあげ、その巨体を揺らして突進した。
とにかく無我夢中で走った。シャオホアの様子を確認している暇もない。ちゃんとついて来ているかは握った手だけが頼りだった。妙に冷えた手だった。
路地をいくつも抜け、坂を登り、下り、橋を渡ってとにかく走る。背後ではねずみが迫ってきている音がみるみる近づいてきていた。風を起こし、地面を抉り、おれたちを追う。
おれは大きく口を開けて唸りに近い悲鳴を上げて走り続けた。自分がどこに向かっているのかもよくわかっていなかった。しかし見覚えのある建物を見た瞬間、頭の中で光が弾けた。一か八か、やってみるしかない。
「シャオホア、止まれ!」
薄桃色の牡丹が美しく刺繍された赤い暖簾。それはおれが働く店「牡丹」の目印だった。
おれは叫び、暖簾の前で滑りながら止まった。反動でぶわりとシャオホアの体が宙に投げ出される。それを抱き寄せ、店の中に飛び込んだ。刹那、背中スレスレをねずみが走る気配があった。あの巨体はすぐに止まれなかったらしい。足音が遠ざかっていく。ぎりぎり命は助かったのか。
その瞬間、おれはその場に崩れ落ちた。
「おいおいおまえ、何があったんだい?」
そんなおれに、店の中にいた女将が心底驚いたように近づいてきた。土間に座ったまま息を整えていたおれはゆるく手を振った。今はまだ喋れない。
「ちょっと待ってな。水持ってくるから」
女将は片眉をクイっと上げると呆れたようにため息をつき、奥に引っ込んだ。
残されたおれは唾を何度か飲む。喉の奥は熱く痺れ、視界は白んでいた。しばらく動けそうになかった。
「大丈夫?」
一方でシャオホアはおれの隣にケロッとした様子で立っていた。息も切れていない。汗だくなおれとは対照的にその白い肌には汗の一粒も浮かんでいなかった。涼しげな表情でおれを見下ろしている。繋いでいた手をパッと離した。
「だいじょうぶに、見える?」
深呼吸を繰り返し、酸素を全身に行き渡らせることに集中する。こめかみがズキズキと痛み、心臓が体の中で暴れている。両足は重く、感覚がほとんどなかった。
「さっきのあれは何? なんであんなのに追われてるんだ。どうしてきみは息すら切らしてない? きみは、なんなんだ」
矢継ぎ早のおれの問いかけにシャオホアは瞬きをした。長い髪に指先を巻きつけ、おれから視線を外す。口は浅く引き結ばれ、おれの問いに答えるかどうか悩んでいるようだった。おれは脱力した。
「まぁ、いいや」
もしシャオホアが質問に律儀に答えていたとしても、今のおれに理解できるとは到底思えなかった。そんな脳みその隙間はない。
「ほら、これ飲みな」
戻ってきた女将が茶碗に入った水を差し出した。ありがとう、と受け取り、喉を鳴らして飲み干す。水は冷たく、うっとりとするほど甘かった。生き返るような心地だ。
「で? 何があったんだ?」
「それがおれにもよくわからなくてさ。とりあえずこの子を門まで送ってくるよ。仕事にはちょっと遅れる」
茶碗を返し、よろよろと立ち上がった。シャオホアの肩に手を置き、玄関から出ようと促す。
「この子?」
訝しげな声があった。振り返ると、女将が眉をひそめておれを見ていた。
「この子って、いったい誰のことを言ってるんだい? そこに誰かいるっていうの?」
おれはぽかんと口を開けた。え、と掠れた声が漏れる。シャオホアと女将を見比べる。女将の目の焦点はおれにだけ合っている。彼女の視界にシャオホアはいない。
「まぁ、あんたは昔っからそういうものが見えていたからね……。変なモンは連れ込まないでくれよ、頼むから」
周りの空気が薄くなるような感覚があった。ぴたりとした膜がおれの体を覆う。今までかいていたものとは種類の違う汗が脇の下から噴き出した。
「静かなところに案内して」
シャオホアは抑揚のない声で言った。
「……わかった」
下駄を脱いで玄関に上がる。メイリン、と女将が呼びかける。だがその声に反応はしなかった。頭は今にも爆発してしまいそうなくらい混乱していた。
シャオホアは何も言わずにおれの後を追いかけた。
帳場を横目に通り過ぎ、ぴたりと閉ざされた襖を開けて奥へ続く廊下を進む。冷えた床が足裏に吸いつく。おれが歩くと床板はギシギシと鳴った。シャオホアは一切足音を立てていない。この子には重さがないのだ。
もしかすると、いや、もしかしなくても、シャオホアは人間ではない。
冷たい手、疲れを見せない体。謎のねずみに追われていること。そして人の目に映らない姿。まさか、人ならざる者? 妖怪や亡霊なんてこれっぽっちも信じていないが、これらの事実を見て見ぬふりはできない。だが、なんにせよ彼女自身の口から真実を聞かなければいけなかった。
廊下の突き当たりには引き戸があった。開けると、八畳ばかりの部屋と台所がある。そこを突っ切り、勝手口から庭に出た。それほど広くない裏庭は夕暮れで橙色に染まっていた。
下駄を履くのも面倒で、裸足のまま地面に降りた。土は乾き切っていて水を求めている。おれの母はこの下に埋まっている。十年前におれが埋めた。
「こっち」
庭の片隅には小さな蔵がぽつんと建っていた。軋む扉を開けてシャオホアを中に入れる。蔵の中は気分が悪くなるほど蒸し暑かった。だがシャオホアはどこ吹く風で蔵の中を見渡していた。少しばかり埃っぽいが咳き込むほどではない。扉をわずかに開けたままにして、おれは近くにあった椅子に腰掛けた。足が一本なくなっている椅子だった。
「ここなら滅多に人は来ない。暑さは平気?」
天井を眺めていたシャオホアの目がおれに向く。やはり彼女の額には汗がない。色白の肌もそのままだ。
「えぇ、平気よ。あたしは何も感じないから」
シャオホアはおれと向き合うようにして箱に座った。高いところに取りつけられた小窓から夕焼けが細く注ぎ込まれていた。
「ねぇ、あなたの名前を教えてくれない?」
先に口を開いたのはシャオホアだった。
「メイリンだ」
「メイリン? どうして女性の名前なの?」
一瞬口を閉じ、そのときようやく肩にかけていた手拭いがなくなっていることに気がついた。走っている最中に飛んでいってしまったのだろう。汗の噴き出す頭を撫でた。
「花柳で働くおんなたちは本名とは別に、新たな名前を与えられる。メイリンもその一つだ」
「本当の名前は教えてくれないの?」
「教える気はない。何よりも大切なものだから、簡単に口には出せないんだ」
「そう」
それ以上シャオホアは名前について聞かなかった。代わりに何度かおれの名前を口の中で繰り返した。とても愛おしそうに。それはおれを落ち着かない気持ちにさせた。真正面から向けられる愛に、おれは慣れていないのだ。
「それで、シャオホア。おれが聞きたいのは──」
改めて口を開いたとき、外で夜を知らせる鐘が鳴った。花柳の門が開き、客を招き始める合図でもあった。
「どうしたの?」
突然黙り込んだおれにシャオホアは首を傾げた。
「あぁ、いや」
仕事に遅れてしまえば女将よりリーシャにこってり怒られてしまう。同じ部屋で暮らしている以上、無駄にリーシャの機嫌を損ねたくはなかった。
「もうすぐ仕事が始まるんだ」
「じゃあ行ってきたら? あたし、ここで待ってるわ」
ちょこんと箱に座るシャオホアはなんてことないように言った。彼女の目的はおれに会うことらしいし、今さら逃げ出すなんてこともないだろう。
「わかった。行ってくるよ」
最後にもう一度シャオホアを見て、おれは蔵から出た。あれだけ赤々と燃えていた夕日は姿を隠し、代わりに月があった。それはどこまでも静かに花柳に光を落としていた。
店に戻ると、ちょうど仕事部屋へ上がる階段が軋む音が聞こえた。女将は金を箱の中にしまっている。驚いた。もうリーシャが客を捕まえたのだ。店が開いてからまだ十分も経っていないのに。
「一時間経ったら降りておいで。次はあんたが客引きだよ」
「はーい」
女将の言葉に返事をし、仕事部屋の襖がきちんと閉まったのを確認してから階段を登った。なるべく足音を立てないように慎重に。
襖の向こうから話し声が聞こえた。リーシャのわざとらしい甘ったるい声と、客の調子に乗った笑い声。その声には聞き覚えがあった。リーシャのお得意さんだ。金は弾むが少しばかり粘着質なところがあって気持ち悪い、と彼女が愚痴をこぼしていたのを思い出した。まぁ、仕方がない。そういう客もいると割り切るしかない。金を多めに払ってくれる分まだマシだろう。馬鹿正直にそう言うと、心底軽蔑したような目で見られてしまったことも。
隣の部屋にするりと身を滑り込ませる。リーシャの仕事が終わるまで一時間。もうひと眠りでもするか。あるいはシャオホアに話を聞くか。
穏やかに揺れる風鈴の音を聞きながら窓の桟に腰掛けた。風が頬を撫でる。昼寝から目覚めてからまだ数時間も経っていないのに心も体もすっかり疲れ切っていた。あぁ、眠い。このまま眠れたらどれだけ心地良いだろうか。外のざわめきと、隣から聞こえる唸り声。
(唸り声?)
閉じかけていた目をパチリと開ける。何かがおかしい。
「嫌ッ、なに、やめて!」
唸り声の隙間から聞こえるリーシャの悲鳴。
そういう遊びをしている可能性もある。乱入して彼女の仕事を無茶苦茶にするわけにはいかない。部屋を出ようとした足が止まる。さまざまな可能性が頭の中を駆け巡った。
「誰か、誰か! 助けて!」
「黙れ!」
何かを殴る鈍い音。一瞬リーシャの声が途切れた。
「メイリン!」
ガン、と強く壁が叩かれた。
気づくとおれは部屋を飛び出していた。誰かを呼びに行っている暇はない。
「リーシャ!」
襖を突き破る勢いで開けた。
リーシャは仰向けになり、大柄な男にのしかかられていた。服はほとんど剥かれ、何度か殴られたのか頬が赤く腫れている。涙をいっぱいに溜めた両目がおれを見た。唇が切れていて、鮮血が一筋垂れていた。
「なんだ、お前」
男がゆっくりと上体を起こす。その目がおれに向く直前、腹の底から響く怒号がおれを突き動かした。それはおれから放たれた咆哮だった。男に向かって走り出す。握りしめた右拳を大きく振りかぶった。男が身構える前に、それよりも早く先手を打たなければならない。
思い切り振り下ろした拳が男の顔面に吸い込まれる。手に歯が当たり、皮膚が切れる。それでも力は緩めなかった。男がぐらりとのけぞった瞬間、這い出したリーシャがおれの後ろに回った。羽織をきつく掴まれる。
「逃げろリーシャ!」
「でも、それじゃあアンタが」
「君がここに残るよりはいい!」
さぁ、とリーシャを押す。彼女は小さく頷くとそれ以上何も言わずに部屋を飛び出した。階段を駆け足で降りる音がする。女将を呼ぶ声も。
痛みに呻きながら男が立ち上がった。立ち上がると、男はさらに大きく見えた。それなりに身長のあるおれが見上げなくてはいけないくらいには。
「なんだ、お前」
低い声で男はもう一度言った。真正面からその顔を見て、背筋がゾッとこわばった。男の両目は極限まで見開かれ、血走っていた。だらりと開いた口からは涎が垂れている。肌は干からび、黄土色に染まっていた。明らかに普通ではない。おれが渾身の力で殴ったはずなのに痛みすら覚えていないように見えた。
「こっちのセリフだよ、それは……」
なぜか脳裏にシャオホアの姿が浮かぶ。彼女とこの男は同じ空気をまとっていた。
「俺は、リーシャと一緒になるんだ。こんなところで使い潰されていい存在じゃないんだよ、彼女は。わからねぇのか。あの子は、俺と、ずっといっしょで、俺の、天女なんだ」
「気色悪。なにバカなこと言ってんだ、あんた」
うへぇ、と舌を出して顔を歪めた。
「うるさい!」
男は身を震わせて叫んだ。おれに向かって駆け出してくる。握り拳はおれのなんかよりずっと大きく、あんなので殴られたらひとたまりもない。だが、それでもここをどくわけにはいかなかった。この男を部屋の外に出してはダメだ。足にかじりついてでも止めてやる。
拳が目の前に迫る。全てがゆっくりに見えた。おれはどうしてリーシャを庇っているんだろう。苦々しい目線を向け、冷たい言葉を浴びせてきた彼女を守る理由なんて、あるのか?
そのとき、遠くからねずみの鳴き声がした。
息を呑むのとほとんど同時。天井から何かが落ちてきた。それは床と激しく衝突し、おれの体をいとも容易く吹き飛ばした。襖に背中をぶつけてそのまま後ろへひっくり返る。咳き込みながら体を起こし、砂埃の中蠢くそれを見た。
「なんで、またこいつがっ!」
ねずみだ。あの、巨大な白ねずみだ。まさかこんなにすぐ見つかってしまうなんて。建物の中にいようが関係ないのか。埃が晴れていく。男はどうなった?
「は、」
ねずみは両手で男を持っていた。気を失っているのか男は脱力して動かない。咄嗟におれは口を手で覆った。ねずみが男の頭を齧り始めたからだ。骨が強靭な前歯で砕かれていく。ゴリゴリと耳を塞ぎたくなるような音がした。ねずみは目を伏せ、丁寧に、まるで慈しむように男を食っていく。
男の体がみるみるねずみの口の中に吸い込まれていった。不思議なことに血は一滴も出ていない。ついに足先さえも見えなくなった。細かい骨が潰される。カリカリ、コリコリ、と小気味良い音を立てながら。
全てを食べ終えてしまうと、ねずみは鼻先はゆっくりとおれに向けた。重たい体を引きずりながら近づいてくる。次はおれだ。おれが、あの男のようになるのだ。恐怖で動かなくなった両足は役に立たない。ここで死ぬ。死んでしまう。
だが、ねずみは何もしてこなかった。ただ確認するようにおれの羽織の匂いを嗅いだだけだった。桃の花の刺繍に鼻面を当ててすんすんと鳴らす。なんだ? なんで、こんなこと。やがてそいつは煩わしそうに顔を振ると窓の方へ歩き出した。長い尻尾が左右に揺れて、おれへ風を送る。もたつきながら窓枠を乗り越える。凄まじい速さでおれとシャオホアを追いかけていたのが嘘のようだ。最後に一度だけおれの顔を見て、そいつは部屋を去って行った。窓はねずみの体よりもずっと小さいのに、あれはすり抜けてしまった。
取り残されたおれは耐え切れず仰向けに倒れた。頭が真っ白で何も考えられない。やがて複数人が階段を登ってくる足音が聞こえてきた。リーシャが戻ってきたのだ。
「メイリン!」
視界にリーシャの顔が現れた。顔面蒼白で、いつもの気の強さはどこかに行ったらしい。おれがちゃんと生きているのを確認するとぼろぼろと泣き出してしまった。あまりの驚きにおれは咄嗟に言葉が出てこなかった。リーシャが泣いている? ここに売り飛ばされてきたときも、タチの悪い客に当たったときも涙ひとつこぼさなかったリーシャが。
「リーシャ」
思わず起き上がり、慌てて彼女の肩に触れる。汗ばんでいるのか、着ている衣はじっとりと湿っていた。震える体はあまりにも小さい。おれの知っているリーシャは常に背筋を伸ばし、暗い瞳でここにはない何かを睨んでいた。それは自分を裏切った両親かもしれないし、こんなところに落ちてしまった自分自身かもしれない。おれにはわかりっこないけれど。
だからこそ彼女は涙や恐怖とは無縁の人間かと思っていた。そんなはず、ないのに。
リーシャは崩れるようにおれを抱きしめた。背中に回った両手が強くおれの羽織を握りしめる。
「ごめんなさい、ありがとう、ありがとう。助けてくれて」
あたたかい息が胸に当たる。
「いいんだ。おれは大丈夫だから」
彼女が死んでしまう前に助けることができてよかった。そっと抱きしめ返す。動きはぎこちなく、どのくらい力を込めていいのか、両手をどこに置けばいいのかわからない。今まで誰かに抱きしめられることも誰かを抱きしめることもなかったから。
実の母親でさえ、おれをその腕の中に引き寄せることはなかった。
「メイリン、男はどこに行ったんだ」
リーシャの後に入ってきた女将が部屋を見渡しながら言った。駆けつけてくれたらしい近所に住む男たちも警戒するように部屋に入ってきた。みんなリーシャとメイリンを見て安堵の息を吐き、そして揃って女将の言葉に続いた。
何があったんだ? 怪しい男とはすれ違わなかったぞ。
「逃げられたんだ」
口から出てきたのは嘘だった。正直にあのねずみの話をしても信じてもらえないだろうし、男がねずみに食われたなんてもっと馬鹿げている。
「ごめん。なんとか捕まえておこうとしたんだけど、窓から逃げていって」
ねずみがすり抜けていった窓を指差す。男の一人が窓枠に手を置き、下を確認した。当然だが逃げた男はどこにもいない。あるのはいつも通りの花柳の街だ。
「まぁ、仕方ないか。おまえたちは今日はもう休みなさい。店じまいだ。またあいつがやってくるとも限らないからね」
女将が決然とした声で言い切る。それがいい、と男たちも言い、階段を降りて行った。しばらくは俺たちも見張っておくよ、と言い残して。
おれは頷き、リーシャ、と未だおれを抱きしめている彼女に声をかけた。
「もう寝たほうがいい。風呂に入って、怪我の治療して、寝よう」
「……えぇ」
弱々しくリーシャは言った。おれの腕にすがりながらなんとか体を離す。女将はそんなリーシャの背中に触れてから下へ戻っていった。
「おいで」
リーシャの肩を抱えて隣の部屋に戻る。押入れの中を漁り、滅多に使わない救急箱を取り出す。
「メイリン」
か細い声が背中に触れた。振り返ると、部屋の真ん中にぺたんと座り込んだリーシャがおれを見上げていた。
「なに?」
向かい合うようにして座る。近くでリーシャの顔を見ると、殴られたところが赤く腫れていた。切れている部分は早く消毒してやろう。
「アンタも、客に襲われたことある?」
「……あるよ、一回だけね」
脱脂綿に消毒液をつけ、そっとリーシャの頬に触れる。痛みに顔がしかめられ、一瞬会話が途切れた。
「怖くなかった?」
「もちろん怖かった。でも、まぁ、仕方ないことだ。ここで働く以上はね」
「どうやって助かったの?」
「うーん……」
治療の手を止めてしばらく考える。真実を素直に話せばリーシャを怖がらせてしまうかもしれない。だが誤魔化してもバレてしまうだろう。おれは昔から隠し事が下手だと女将に言われていたから。
「幸運だったのは、相手がおれを殺そうとしなかったところかな」
今からちょうど五年前、おれが十三歳のとき。正式に牡丹で働き始めてすぐのころだった。そのころはまだ幼く、男であるおれに客がつくことは滅多になかった。需要がないのだ。かたい男より柔らかい女を抱きたいと思うのが普通だろう。それに、まだ男を喜ばせるだけの技術を持ち合わせてはいなかった。だからそのときはとにかくどんな客でも受け入れる必要があった。
「乱暴されただけで済んだ。殴られ蹴られ、まぁ散々だったけど命までは取られなかった。そういう趣味ではなかったらしい」
「それじゃあ……」
「あぁ。助かった、とは言い難いね」
リーシャのように誰かに助けられたわけではない。ただ暴力に耐え、時が過ぎ去るのを待っただけだ。顔もお構いなく殴ってくるものだから、しばらく店に立てなかった。
「男が店を出てから女将はおれを見て何があったのかを理解した。すごく怒ってたよ。店の商品に何するんだ! って」
結局おれを襲った男が見つかることはなかった。満足したのか、それともまた別の場所で同じようなことを繰り返しているのか。どちらにせよおれ自身、もうそいつの顔を覚えていなかった。だから再び客として来ても気づかないだろう。
「そんなことがあったのにこの仕事を続けてるの?」
哀れむような、呆れるような、そんな目でリーシャはおれを見た。
「この仕事しかおれは知らない。生まれたときからここにいるから」
「生まれたときから?」
「あれ、言ってなかったっけ。おれの母親もここで働いてたんだ。客との間に身籠って生まれたのがおれ」
「初めて聞いた」
思わず笑う。そういえばろくな自己紹介をお互いしていなかった。ここに来たばかりのころのリーシャはおれを拒み、おれもまたそんなリーシャに自分から話しかけることをしなかったからだろう。
「お母さまは今どこに?」
「死んだよ。十年前に」
「……ごめんなさい」
「別に珍しいことじゃない。流行病にかかって、高熱を出して死んだ。それにもうずっと前のことだから」
「それでも、家族を失うのは辛いことでしょう?」
リーシャはおれをまっすぐの瞳で見ていた。あぁ、と嘲笑が漏れる。やはり彼女は愛されていたのだ。家族からちゃんとした愛情を受けて育った。それがおれとリーシャの決定的な違いだ。
「どうだろう」
だから、短く答えた。今までそんなこと感じたこともなかったのに、急におれは自分自身が惨めに思えた。
「母はおれを愛してはいなかったから」
そうだ。あの人はおれを愛していなかった。おれが生まれてからの八年間、あの人が母親らしい愛情をおれに向けたことはなかった。
「どういうこと?」
不思議そうにリーシャがおれの顔を覗き込んでくる。胸の内に広がった黒い感情から目を逸らすようにおれは首を横に振った。
「なんでもない。とにかく、おれは多分死ぬまでここで働くつもりだ。ここを出ても行くあてはないし、これ以外の生き方を知らない。だからどんなに辛いことや大変なことがあっても、殺されさえしなければそれでいい」
生きているならそれでいい。おれを求めてくれる人がいるならそれでいい。それ以上のことをおれは望まない。
「そういう君は?」
「え?」
「女将から聞いたけど、親の借金の肩代わりに売られたんだろ? ある程度金を貯めたらここを出ていくの?」
問いかけられ、リーシャは一瞬呆けた顔になった。まさかそんなことを聞かれるとは思っていなかったのか、あるいは質問に対する答えを持ち合わせていなかったのか。
「私は、」
ふっと彼女の目が遠くを見る。細められ、唇がかすかに動く。言葉を探し求めるように。
「ここを出ていきたい」
やがて発せられた声は強い芯を持っていた。
「そして家に戻って、また両親と家族をやり直すの」
「自分を売り払った親のところに戻るってこと?」
「えぇ。あのとき私を売ったのは何か理由があったかもしれない。苦渋の決断だったかもしれない。母も父も、本当はあんなことしたくなかったはずなの。だからきっとやり直せる。もう二度と、離れ離れにはなりたくない」
リーシャの目はキラキラと輝いていた。そこに嘘偽りはない。本心から彼女はそう思っているのだ。それはおれにとって信じがたいことだった。一度自分を裏切った親の元に帰りたいと望むなんて。また、元通りの家族をやり直せると信じるなんて。
「もし、君の両親が喜んで君を売り払ったのだとしたら? もし、そう告げられたらどうする?」
リーシャはおれを見た。目尻を下げ、柔らかく微笑んだ。
「そんなことを言うはずがない。私は十八年間、あの人たちに愛されてきたんだから」
不思議な気持ちになった。人に愛された人は、人を愛する人はこんな風に笑うのか。
そのときおれは、リーシャの微笑みを初めて見たことに気がついた。笑うと彼女はずっと幼く見えた。
「……そっか。いつか、会えるといいね」
ぽつんとこぼされた声は笑ってしまうほど情けなかった。
軋む階段を降りる。階下に行くと、女将が玄関の掃き掃除をしていた。
「外に出るのかい? やめときな、あんなことがあったのに。またあの男に会ったら危ないだろ」
降りてきたおれを見て、女将は言う。おれはひらりと手を振った。
「裏庭に出るだけだよ。ちょっと蔵の掃除でもしようと思って」
あらかじめ考えていた理由を告げると、女将は納得したような、そうでもないような微妙な表情でおれを見た。しかしそれ以上何かを言うことはなかった。
廊下を歩き、裏庭に出る。太陽は沈んでいたが、遠くの空にまだ橙色の光が滲んでいた。月は高く上がっている。焼けるような暑さの名残が庭に満ちている。下駄を履いて蔵の戸を開けた。
「シャオホア、おれだ」
声をかけながら入ると、出て行ったときと同じ場所にシャオホアは座っていた。退屈そうに足をプラプラとさせている。彼女はおれの姿を見ると花が咲いたように笑った。
「メイリン! お仕事はもう終わったの?」
笑顔の眩しさに一瞬目を細めながら、おれは「いろいろあってね」と言葉を濁す。そのいろいろについてシャオホアに聞きたいことは山ほどあった。だがそれよりもまず、おれは彼女について知らなければいけなかった。
「改めて聞きたいんだけど」
足が一本なくなっている椅子に腰掛ける。
「君は何者なの?」
ある程度の予想はついている。しかしそれはあまりにも荒唐無稽で、自分で考えたことであるはずなのに口にするのが妙に気恥ずかしかった。シャオホアはじっとおれを見ていた。何から話すべきか悩んでいるようだった。やがてその瞳は伏せられ、落ちつかなさそうに自分の髪の毛を触った。
「あたしは、亡霊」
その返事はあまりにも短い。
「死んだ人間よ」
おれの予想は当たっていた。驚きはあまりなかった。以前のおれなら笑い飛ばしただろうが、あのねずみを見てしまったらもう全てを信じるしかない。
シャオホアは静かに言葉を続けた。
「二年前、あなたに会って、あたしはあなたに一目惚れをしたの。あなたと結婚したいと強く思った」
恥ずかしげもなく彼女は言う。
「でも家に帰るとあたしの結婚相手はもう決まっていた。その人はあたしよりも二十は上で、ただ家柄がいいとかそんな理由で選ばれた人だった。もちろん会ったこともないし、名前だって結婚すると決まってから教えられた」
何か優しい言葉をかけてやるべきなのだろうか。大変だったね、とかそんなところを。でもシャオホアの住んでいた世界がおれとはあまりにもかけ離れていて、おれには共感するのも難しくただ黙って頷くことしかできなかった。
「あたしの周りではそれが普通だった。親が決めた人間と結婚して、子どもを、できれば男児を産んで後継ぎを残す。それさえ終われば残りの人生はお屋敷の中で変わり映えのない日々を送るだけ」
「でも不自由はない」
「……えぇ、そうね」
シャオホアは少しの間言葉を止めて、伺うようにおれを見た。
「気を、悪くしてしまうかもしれないけれど」
「構わないよ」
「あたしはそんな生活が嫌でたまらなかった」
贅沢な悩みだ、と思う。目を細めて顎を引く。
金にも食う飯にも困らない。病気にかかれば医者に診せて高価な薬を躊躇せず飲める。少なくともここに住むおれたちのようにやりたくもない仕事をする必要もなければ、男たちからの暴力に怯える必要もない。
だがおれはシャオホアに対して腹を立てたりはしなかった。というか腹が立たなかった。どうしてだろう。一見して不自由のない生活を送れるはずの彼女がもう死んでいるからかもしれない。
「親に決められた結婚相手も、死ぬまでお屋敷の中で生きるのも、全部嫌。想像しただけで耐えられなかった。だってあたしは、あなたが好きだから」
言い切って、シャオホアは弱々しく首を横に振る。
「毎日あなたのことを考えた。あなたの優しさを思い出して、辛いときはあなたから貰った耳飾りに触れた。それだけで心が軽くなった。でもどれだけ望んでもあたしがあなたのそばに行くことも、あなたがあたしのそばに来ることもない。そう思うと絶望した。何をするにも億劫になって、そして、あたしは床に伏せるようになった」
くるくると指先に髪を巻きつける。どうやらそれは彼女の癖らしかった。言いづらそうに言葉は続く。
「やがて何も食べられなくなって、そこからはあっという間だったわ。人が死ぬのってあんなにもあっけないのね。今になってそう思う」
「つまり、君は」
おれは息を吸った。
「君は、おれのせいで死んでしまったんだね?」
シャオホアは弾かれたように顔を上げる。咄嗟に否定しようと唇が震え、しかしぴたりと閉じてしまった。その目は大きく揺れていた。
「いいよ、おれなんかに気を遣わなくて。君はおれと出会ったせいで死んでしまったんだ。あのとき、君が花柳に迷い込んだとき、おれじゃなくて誰か別の人に会っていたら君はきっと今も生きていたはずなんだ」
罪悪感があった。それはちくちくとおれの心臓を突き刺した。見ず知らずの子だ。別におれがこんな思いをする必要はない。それでも後悔が顔を出す。幼い彼女の未来を奪ったのは紛れもなくおれだ。
「でも、それじゃあ意味がないの」
シャオホアは言った。その声は小さく、かすかに震えていた。
「あたしはあなたと出会ったことを後悔してない。あなたと出会わなければよかったなんて今まで一度も思わなかった。それはきっとこれからもそう。あたしはあなたが好き。あなたに繋いでもらった手のぬくもりを覚えてる。耳飾りをくれたときの言葉も、その瞳の優しさも。あなたの全部が好き。あなたのことを考えるだけで胸が熱くなった。こんな気持ちになったのは生まれて初めてだったの。ねぇ、メイリン」
彼女は立ち上がり、おれの前で立ち止まった。手を伸ばす。そのちいさな手はおれの両手を取り、柔らかく持ち上げた。冷たい手だ。だがおれを見る瞳は限りなく優しかった。心が震える。息の吸い方がわからなくなる。そんな目で見つめられたことなんて今まで一度もなかった。
「愛してるわ。心から」
叫んでしまいたかった。彼女の手を振り払い、逃げ出したかった。この目の届かないところまで行って、全て忘れてしまいたい。おれは人の愛し方を知らない。だから彼女の愛に応えることはできない。こういうとき、どんな風にいればいいのかわからない。おれは本当に、何も知らないんだ。
おれは無理やりシャオホアから目を逸らした。手を引っ込める。彼女は困ったように笑って、おれの隣にあった木箱に腰掛けた。
「……どうして君はここにいるの? 死んだ人間が生き返るなんて聞いたことがない」
少しの沈黙の後、おれは声を出した。大丈夫。息が吸える。
「生き返ったわけじゃないの。あたしの肉体は土の下にあるし。今のあたしは魂だけの存在って言った方がわかりやすいかな」
「魂だけの存在」
なんてことないように話すシャオホアの言葉を復唱する。
「ねぇ、根ノ国ってあなたは聞いたことない?」
両手を組み合わせて、シャオホアはおもむろに言った。おれは彼女を見る。それはあまりにも唐突な話題だった。
「根ノ国っていうと、おとぎ話とかに出てくる場所だっけ。死んだ人間の魂がまず集められる場所」
言いながら、ハッと息を呑んだ。この話題は唐突ではなかった。シャオホアは死んでいて、魂だけの存在で、つまり、根ノ国に行ったことがあるのだろう。
シャオホアは言葉を探すように目線を彷徨わせた。
「そう。あたしも、そこにいたの。死んでからしばらくして急に目が覚めたと思ったら全然知らない場所にいた。根ノ国では再び生まれ変わるか、それとも地獄で永遠に苦行を受けるかが生前の善行や悪行によって決まるの」
「……君はどっちだったの?」
聞きたいような聞きたくないような、そんな気分で問いかける。シャオホアはちらりとおれを見ると、いたずらっ子のような可愛らしい笑みを口元に浮かべた。
「さぁ、知らない。だって逃げてきたから」
「逃げてきた?」
「うん。審判が言い渡される前に。だって転生しても地獄に行っても、どっちにしろあなたにはもう会えなくなっちゃう。だから逃げ出した。あなたに永遠に会えなくなるくらいならこんなところにいたくないってね」
「そんなことができるの?」
「できたわ。愛の力かしら」
冗談めかして言うシャオホアにおれは何も言わなかった。行動力があるというか肝が据わっているというか。
「でもそのせいで根ノ国の番人に追われることになっちゃったけど」
困ったように肩をすくめる。おれにはその根ノ国の番人とやらが誰なのかわかるような気がした。
「もしかしてそれってあのねずみ?」
さっきも男を一人食った巨大なねずみ。あの姿を忘れることは一生無理だろう。黒々とした目も、剥き出した歯も、たるんだ白い皮膚の質感も。
そこまで思い出して、おれはぶるっと頭を振った。やめよう。気分が悪くなるだけだ。
「おれとシャオホアが再会したときも突然現れて執拗に追いかけてきたし、ついさっき、客だった男を食ったんだ。狭い窓をすり抜けてどこかへ行ってしまったけど」
「たぶん、そのお客さんもわたしと同じで根ノ国を抜け出してきたのかもね」
「あいつが番人なの?」
シャオホアは腕を組み、重々しく頷いた。
「そうよ。あれの名前はラオシュー。根ノ国の王、イェンモアに仕えるねずみ」
「待って、イェンモアっていうのは?」
「審判を下す者。イェンモアが魂たちを転生させるか地獄に行かせるかを決めるの。とっても大柄な男なんですって」
「へぇ……」
この短い間に色々な情報が飛び出してきた。おれは頭の中を整理しようと目を閉じる。今まで子守唄として聞いてきたおとぎ話の世界が本当に存在して、しかもそこに行ってきたと言う人間の魂となった少女が目の前にいる。夢を見ているような気分だった。だがいくら頬をつねっても目は覚めない。これは現実だ。まごうことなき。
「それでね、メイリン」
もじもじとした、なんだか言いづらそうな声におれは目を開けた。シャオホアは下唇を噛み締め、両手を膝の上に置いていた。ぐっと上半身を乗り出しておれのほうへ体を寄せる。そのただならぬ気迫におれの背筋もいつの間にかまっすぐになっていた。
「あたし、あなたにお願いがあるの」
「……結婚してくれってお願いなら無理だからね」
「そ、それもあるけど、でもそうじゃなくて」
あれは勢いで言ってしまったものっていうか、そもそもほんとはちゃんといい感じの雰囲気で言いたかったし、とかなんとか口の中でモゴモゴとシャオホアは呟く。結婚ではないとすればなんだろう? おれは軽く首を傾けた。
「あのね、あたし、あなたにお墓を掘り起こしてほしいの」
薄く唇が開く。細い息が漏れ、言葉の意味を理解するのに時間がかかった。
「誰が、誰の墓を掘り起こすって?」
「メイリン、あなたが、あたしのお墓を」
ぶわっと全身に鳥肌が立つような感覚があった。墓を掘り返す自分の姿を想像して、慌ててそれを打ち消す。それは想像することすら許されない。シャオホアから発せられた声から距離を取るようにおれは椅子から立ち上がった。
「なにを、バカなことを」
拳を握りしめる。かろうじて出た声は怒りと恐怖で震えていた。それでもシャオホアは言う。
「本気よ。そのお願いをするためにあたしはここにいる」
「君はっ」
振り返る。怒りで燃える目で彼女を見る。
「君は、それがどれだけ重罪か知らないのか!」
「し、知ってるわ、もちろん! 幼いときから言い聞かされてきたもの。お墓を掘り起こすことは禁忌だって。それを行った者はどんな理由があろうとも問答無用で地獄に送られるって」
「じゃあどうしてっ!」
怒りに任せて怒鳴ろうとした瞬間、ぐっと口を閉じた。こちらを見上げるシャオホアの体が小刻みに震えていたからだ。華奢な肩だ。彼女はまだ幼い。まだ、子どもだ。そんな子を怒鳴りつけるなんて。
シャオホアに背を向け、おれは必死に深呼吸を繰り返す。額に滲んだ汗を羽織の袖で拭った。
「言い伝えがある。この国に生きる者なら誰でも知っている言い伝えだ」
しばらくして、息と共に声を吐き出した。瞬間的に沸いた怒りは波のように引き、代わりに現れたのはどこまでも静かな心。だが、それでもまだシャオホアを見ることはできなかった。
「今から数千年も昔、ある一人の男が天ノ都に住まう天女に恋をした」
それは古くから伝わる神話。
男は天女に恋焦がれ、天女もまたそれを受け入れた。しかしある日、天女は死んだ。同じように天女に恋をした別の男に生命の源である美しい羽衣を引き裂かれたのだ。男はそれをひどく悲しんだ。もう二度と天女に会えないのだと思うと食事も喉を通らなくなった。そして、男はある行動に出た。天女に会いたいと思うあまり、彼女が埋葬された墓を掘り起こしたのだ。その行為は天ノ都に住まう者たちに激しい怒りをもたらした。彼らは怒り、男を殺すと、人間たちに宣言した。これより先どのような墓であれ、それを掘り起こした者は我らが引き裂き、地獄へ送る。転生など決して許しはしない、と。
「だからおれたちは墓を掘り返すことを何よりの禁忌だと教え込まれてきた。死者の眠りを妨げることは許されないんだ」
「えぇ、そうね。ねぇ、でもメイリン」
小さな声だった。そっと、こちらを伺うような声音で彼女は言った。
「それはおとぎ話でしょう?」
おれはメイリンを見た。この子はいったい何を言っているんだろう、と心底不思議だった。
「もちろん、そうだ。この話が事実かどうかなんて今のおれたちにはわからない。けど君は、君だって、そのおとぎ話の中に出てくる場所から来たんだろう? 亡霊だなんて、根ノ国だなんて、それこそおとぎ話だ。でも君は確かにここにいる。おれもあのねずみを、ラオシューを見たからこそそれを信じた。そんな君が言うのか? おとぎ話だから信じる必要はないって。だから墓を掘り返してくれって」
「でも、あたし、そんなつもりじゃ」
「おれにはできない。想像するだけで吐き気がする。君はきっと、そんなおとぎ話ごときに怯えるおれに呆れるんだろうが、それだけじゃない」
「……え?」
「おれは、」
言いかけて首を振った。脳裏に蘇るのは母の死に顔だった。真っ白で、骨と皮だけになった顔。その細い体を持ち上げて掘った穴の中に寝かせた。スコップを持ち、その顔に土をかぶせた。見えなくなるまできちんと埋めた。そして、母を埋めた土の上に立つとおれはその瞬間を思い出すようになった。ついこの間まで生きていたのに。ぬくもりがあったのに。死んでいるとはいえ、人の形をしたものに土をかぶせるという行為はあまりにも残酷だった。
「メイリン?」
躊躇いがちにシャオホアが呼びかける。だがおれはその声に背を向けた。蔵の戸に手をかける。
「待って、メイリン」
「また後で来る。今は、ダメだ」
シャオホアを拒絶するように、戸を閉めた。
*
その夜、おれは夢を見た。いや、それは夢というよりおれ自身の記憶だ。夢に限りなく近い記憶。布団にもぐりこみ、その記憶を思い出すのはずいぶん久しぶりのような気がした。
五歳のおれは母の横顔を見つめていた。夜だった。蝋燭の炎がぼんやりと辺りを照らしている。母は俯き、ちくちくと繕い物をしていた。それは母の唯一の形見であり、おれが着ている羽織だった。薄桃色の糸を使い、桃の花を刺繍している。その手際は軽やかで見惚れてしまうほどだ。長い髪が母の横顔を隠し、時折揺れて、睫毛に囲われた瞳が、通った鼻筋が、ちいさな唇が見え隠れする。母は美しい人だった。肌は白く、声は鈴のように軽やかで一度笑うと誰だって心を掴まれてしまう。
「かあさま」
おれは母を呼ぶ。舌足らずに、呼ぶ。
「なぁに」
だが母はおれを見ない。手を止めることはない。どうして母はおれを見てくれないんだろう。その瞳の中におれを映してくれないんだろう。
「かあさま」
どうもおれは父親にそっくりらしい。垂れた目も、顎にあるほくろも、耳の形さえも。だから母はおれを見ない。おれを見ると自分を捨てた男のことを思い出してしまうから。
「どうして私を見捨てたの!」
突然、母は叫んだ。羽織を投げ捨て、おれの肩を掴む。それは華奢な見た目からは想像もできないほど強い力だった。おれの体は簡単に畳の上に転がる。母はおれの上に馬乗りになって涙を落とした。
「私を愛していると言ってくれたのに!」
「かあさま、もう、夜だよ」
「あの言葉は嘘だったの? 私だけって、言ったのに!」
「しずかにしなきゃ」
だがおれの言葉は届かない。いつだってそうだ。おれが何を言っても、泣き叫んでも、母の耳には聞こえないらしい。声をあげて母は泣く。こういうことがよくあった。心の弱い人だったんだろう。彼女はおれの父親に執着し続けていた。贔屓にしていた娼婦を妊娠させたとわかった途端蒸発したようなクズなのに、母はなぜかそいつをずっと愛していた。そばにいるおれではなく、おれを通してその男を見ていた。
母はおれの肩に顔をうずめる。女とはいえ、幼いおれにその体は重かった。涙が衣に染みていくのがわかる。湿った息が耳にかかる。狂ったような泣き声が頭の中に響いて、やがてそれが熱を孕んだ声に変わっていく。母の細い指先がおれの衣の結び目にかかる。ほどかれる。熱い手のひらがおれの薄い腹を撫でる。身がこわばり、息が詰まった。今からするのか。もう、夜も遅いのにな。
「愛してる、愛してるわ」
上擦った声で母は男の名を呼ぶ。心底愛おしそうに呼ぶ。自分が組み敷いたのがまだ五歳の息子であるというのに彼女はその体を求めた。もう二度と会えない愛する男をおれに重ねて、記憶の中の男をなぞる。これで何度目だろうか。数えるのも馬鹿らしくなってやめた。これが普通ではないことくらいおれでもわかった。普通の母親は息子に欲情したりしない。だが母は普通ではなかった。たった一人の息子であるおれを愛さなかったし、時には罵詈雑言を浴びせてきた。お前さえ産まなければあの人を失うことにはならなかったのに、と。けど、おかげでおれは気兼ねなく母を憎むことができた。死んでしまえと叫ぶことだってできた。まさか本当に病気で死ぬとは思ってなかったけれど。
目を開ける。記憶と夢のはざまにいるうちにいつの間にか眠っていたらしい。隣に敷かれた布団の上でリーシャが丸くなって寝ていた。開いた口から涎が垂れていて、ずいぶん間抜けな顔だった。蹴飛ばされた布団を彼女の体にかけてやり、おれは寝返りを打つ。夜はまだ明けていなかった。忌まわしい記憶を思い出してしまったせいか、眠ったという感じがなかった。体は重く、こめかみの奥がにぶく痛む。ため息をついてもう一度目を閉じた。少しでも寝ておかないと。明日は贔屓にしてくれている客が来る日だった。予約とかそういうのをしているわけではなかったが、彼はいつも決まった曜日の決まった時間にやって来ておれを指名した。品があって礼儀正しく、決して無理強いはしない。その上金持ちで顔が整っている。おれのどこが彼の気を引いたのかはわからないが、とにかく普段相手にしているクソのような客と比べると、神様のような人だった。
「メイリンくん」
穏やかにかけられた声におれはハッと物思いから覚めた。
「大丈夫?」
おれの前に座っていた彼は心配そうに首を傾げた。優しい光を宿した瞳がおれを見つめる。おれは慌てて「はい」と言った。
「大丈夫です。すみません、ぼーっとしちゃって」
あんまり眠れてなくて、と続けると彼は手を伸ばしておれの頬に触れた。冷たい手だった。
「くれぐれも無理はしないでね。今日だって、別にしなくてもいいんだ。ただ話をするだけでも僕は楽しいから」
「いえ、そんな! お金も貰ってるんですし、ちゃんと働かないと!」
この人の手はいつも冷たい。夏でも関係なく、ついさっきまで雪の中に手を突っ込んでいたかのような冷たさだった。その冷たさに慣れないうちは気を遣わせてしまった。ごめんね、冷え性なんだ、と。
「あの、シュエさん」
彼の指先が目尻を撫でる。それがなんだか落ち着かなくて咄嗟に名前を呼んでしまった。
「どうしたの?」
「いえ、その、」
母のことを思い出したせいだろうか。今日は全てにそわそわとしてしまう。上の空だ。今は仕事中だというのに。
「なんでもありません、ごめんなさい」
集中しないと。
目を伏せると、シュエさんがふっと微笑む気配がした。頬に添えられた手が下ろされて、おれの手に重なる。
「いいんだ、大丈夫。やっぱり今日は話をするだけにしようか。そっちの方が僕も気が楽だし」
「で、でも」
「君に無理強いはしたくない」
穏やかに、だが意思のこもった声で言われるとおれは何も言えなくなってしまった。小さく頷く。彼には申し訳ないが、確かに今日は身が入らなかっただろう。シュエさんのもう片方の手が伸びておれの腰に回った。優しく抱き寄せられる。厚い胸板に頬を寄せる。ただの客だというのに、彼の腕の中がおれにとって唯一安心できる場所だった。
バレないように長い息を吐く。そのとき、シュエさんの鼻先がおれの首筋に寄せられた。鼻を鳴らす。臭かっただろうかと焦ったが、彼と会う前に風呂は済ませてある。それから汗もかいていないし、臭くはない、と思いたい。
「シュエさん?」
それでも恐る恐る声をかけた。
「あぁ、ごめん、急に」
なんてことないように言いながら、シュエさんは顔を上げた。不思議そうな表情をしている。
「いい香りがして。珍しいね、君が香油をつけてるなんて」
「えっ?」
思わず間の抜けた声が出た。香油? そんなものをつけた覚えはない。何よりおれはそういった匂いのするものは苦手だった。
「おれ、つけてませんよ。香油なんて」
「そうなの?」
シュエさんは驚いたように目を見張った。もう一度おれの匂いを嗅いで、ううんと唸りながらおれを見る。
「でも、やっぱり香りがする」
「石鹸とかではなく?」
「あぁ、香油だ。桃の花かな? 甘くて優しい香りだよ。しかも高級なやつ」
羽織の襟元を寄せて自分でも匂いを嗅いでみる。わからない。するのは石鹸の香りだけだ。リーシャも香りを身にまとう人ではないから、本当に心当たりがなかった。
「安物ならまだしも、高い香油なんて買いませんよ。おれは」
おれが奮発するとしたら食事くらいだ。おれとシュエさんは顔を見合わせて揃って首を傾げる。そのとき、不意にシュエさんが「あっ」と何かを閃いたように声を上げた。
「もしかして、誰か女の子を囲ってるとか?」
彼の口元にニヤッとした笑みが浮かんだ。その言葉が冗談とわかり、おれはわざと呆れたようなため息をついた。
「まさか。そんなことすると思います? このおれが」
「ははっ、思わないかな。君はなんというか、自分以外の人間にそれほど興味がないように見えるから」
シュエさんの指先がおれの耳たぶをいじる。くすぐったさに身を捩りながら、おれは薄く笑った。
シュエさんの言っていることは当たりだ。興味がないというより、興味を持つ必要を感じない。生まれてからずっとおれの世界はこの花柳の街だけで、外の世界、いわゆる普通の人の暮らしを知らない。この街は閉鎖的で、関わる人間だって、おんなをただの物としか見ていない男や欲に塗れた汚い男、男に媚を売ることでしか生きていけないおんなばかりだ。そしてそれはおれも同じ。これから先、おれはこの街で生き続けるのだろう。若さを失ったら、今の女将のようにどこかの店を継いで、救いようのない境遇のおんなを育てて店に男を招くようになるはずだ。それがおれの将来。漠然と決まっている道。あるいは、母のように病に侵されて早死にか。どちらにせよろくな将来とは言えない。だが、おれにはそれ以外を望むことはできない。どう転ぼうが先が決まっているというのなら、何かに期待する必要はないだろう。それがおれが十八年間花柳で暮らし続けて出した結論だった。
「メイリンくん?」
そっと静かに名前を呼ばれる。
「ねぇ、シュエさん」
ふといらずら心が湧いた。冗談を言ってきた彼に冗談で返そうと思った。
「もしおれが本当に女の子を囲ってるとしたら、どんな子だと思いますか?」
甘えるように彼の手のひらに頬を擦り寄せる。シュエさんはしばらく黙ったあと口を開いた。
「当ててみせようか」
「ぜひ」
ちらっと彼を見上げる。切れ長の両目は不思議な色を帯びていた。一瞬、息が止まる。恐ろしいものを目の前にしたときのようになぜか体がすくんだ。こんなこと、彼の前では初めてだった。
「シュエさん、」
「香油から推測すると、やっぱりまずは貴族の娘だと考えるかな」
咄嗟に呼んだ声は彼の声に遮られる。
「そして貴族の娘が花柳にいるのは不自然だから、そうだなぁ、おそらく迷い込んでしまったのかな? そこを君が助けて二人は知り合ったとか」
穏やかに彼は話を続ける。両目はおれを見ている。おれの反応を確かめるようにその視線はおれの顔の上を滑っていく。背中に嫌な汗が噴き出した。
なんだ? どうして。まさか、おれはシュエさんを怖がっているのか?
「もちろん君はその娘を送り返そうとする。当たり前だ。君は見ず知らずの人間に肩入れするような性格ではないし、厄介ごとを抱え込む人でもない」
呼吸をする。大丈夫、何も問題はない。シュエさんの推測は全て当たっている。だがそれは誰だって考えつくことだ。だいたい、おれは別に女の子を囲ってはいない。いや、正確にはシャオホアがいるが、彼女は普通の女の子ではない。あの子はもう死んでいて、おれ以外の人間には見えないのだから。それにもし仮におれが生きた人間の女の子を囲っていたとして、それは悪いことではない。だからシュエさんにバレたとしても、おれが恐れることは何もない。そのはずなのに、なんなんだろう。この違和感は。
「それでも君がその子を囲うとなると……その女の子が何か駄々でもこねたのかな? 帰りたくないとか、あぁもしかして、」
彼は微笑む。目を細め、口角を持ち上げて、誰もが見惚れる笑みを浮かべる。
「その子が君に一目惚れをしたとか? それで、君のそばにいたいと言った。そうするとその子は幼い子なのかもしれないね。大人の女性はあまりそういったわがままは言わない。貴族の女性は特に」
「シュエさん、もう十分です。おれ、冗談のつもりだったんですよ? それなのに、そんな本気で考えるなんて」
「まぁまぁ、続きを聞いてほしいな」
おれの唇にシュエさんは指先を添える。それは静かな圧。黙っていろと、彼は言っている。口を挟むな。
「さて、そうなったとき女の子をいったいどこに匿おうか。自分の部屋? いや、自分一人で使える部屋はここにはない。さすがにリーシャちゃんがいる場所に素性も知らない女の子を突然連れて来るわけにもいかない」
シュエさんの言葉は続いていく。石畳の上を跳ねるように軽やかに。まるでおれとシャオホアの行動を全て見ていたかのように。
「店の一階には女将さんが暮らしているからそこにも置いてはおけない。ならばどこだろう。残すは? 人が寄りつかず、かつ屋根のあるところといえば?」
彼は答えを知っている。だがおれに問いかけた。おれから真実を聞き出そうとしていた。口が勝手に開く。いや、ダメだ。言わないほうがいい。この男は確実に何かを知っている。シャオホアを連れて行こうとしているのかもしれない。言うな。言ってはいけない。彼の指先が唇から離され、おれの顎を軽く持ち上げた。
「裏庭の、蔵」
言葉が口からこぼれ落ちた。何かに導かれるようにして。
おれは慌てて口元を手で覆った。言ってしまった。唾を飲み込む。冷や汗が脇を濡らした。シュエさんを見上げる。
「そうだね。そこしかない」
彼は満足そうに微笑み、ゆっくりと頷いた。
「さて、どうかな? 僕なりに考えてみたけど」
「え、」
「だって君は誰も匿ってないんだろう? 君がそう言ったんじゃないか」
その瞬間、ドッと疲れが体に押し寄せた。長距離を走ったときのように汗をかき、息が浅くなっていた。
「大丈夫? ひどい顔色だ」
俯き、肩で息をするおれを気遣うようにシュエさんは言った。その声色はもういつも通りで、さっきまでのような圧はどこにもない。悪い夢でも見ていたかのような気分だった。
「すみません、えぇ、大丈夫です」
小さく頷く。決して大丈夫ではない。だがそう言うしかない。シュエさんはおれの冗談を真剣に返してくれただけだったのだろう。そうだ、そうに違いない。彼は礼儀正しく真面目な人だから。
深呼吸をして、改めてシュエさんを見上げる。
「あんまり真剣にシュエさんが考えてくれるからびっくりしちゃって。もう、驚かせないでください!」
明るい声を出して笑う。そうしなければいけない気がした。そうしなければおれは、たぶん、シャオホアの元に駆け出していただろう。ちゃんと彼女がそこにいるかを確認して安心したに違いない。おれは、つい昨日会ったばかりの少女を失いたくないと心の底から思っている。だってあの子は、
(──シャオホアは)
おれに愛を向けてくれた人だから。
*
目覚めたのは早朝だった。壁にかかった時計を見ると、仕事を終えて布団に入ってからまだ三時間程度しか経っていない。昼過ぎまで寝る予定だったからあと八時間は眠れる。寝返りを打ち、目を閉じる。再び眠りにつこうとするが、こういうときに限って眠れないのだ。
「このままじゃまた寝不足だ」
誰に言うでもなく呟く。隣のリーシャが身動きして、何やら寝言を言っていた。それを聞きながらおれは起き上がった。眠れないときは散歩をするに限る。いつものおれならそうしていた。だが今日は違った。リーシャを起こさないように慎重に布団から抜け出し、階段を降りる。女将の部屋の前を通り過ぎ、おれは裏庭に出ていた。
遠くで日が昇っているのが見えた。夜の闇と橙色の朝日の間に紫がかった雲が細くたなびいている。風は吹いていなかった。昼間とは違い、ひんやりとした明け方の空気が裏庭には流れていて、おれは自然と深い呼吸を繰り返していた。下駄をつっかけ、蔵の前で立ち止まる。戸に手をかけた。
「シャオホア」
声をかけながら開ける。シャオホアは起きていた。まだ薄暗い蔵の中、相変わらず同じ場所に腰掛け、その長い髪の毛を触っていた。
「おはよう、メイリン」
シャオホアはおれをちらりと見て、気まずそうに言った。
「……おはよう」
起こしたか? と聞こうとして、そもそも亡霊は眠るのだろうかと考える。どれだけ走っても疲れたそぶりは見せなかったし、今だって寝起きの姿ではない。昨日と同じ、いや、再会したときから何も変わらない様子だった。
「こんな朝早くにどうしたの?」
改めて問いかけられ、一瞬言葉が出てこなかった。確かに、どうしておれはここに来たんだろう。寝つけなかったから? いいや、それなら散歩に行けばいい。シャオホアとは喧嘩のようなものをしてしまったから少しばかり顔を合わせるのは気まずい。それなのに、なぜだろう。
「会いたく、なった」
やがて出てきた声は情けないほど小さかった。
「君に会いたくなったんだ」
おれの返事にシャオホアは驚いたように目を見開く。髪をいじっていた手を止めて、呆然としている。言ってから、なんて恥ずかしいことを言っているのだろうと顔が赤くなる。シャオホアは思い切り目を泳がせたあと、長い髪をぐるぐると自分の顔に巻きつけてしまった。
「シャオホア?」
瞬く間に彼女の顔が見えなくなる。すっぽりと鼻の上まで髪で覆われ、昔話に出てくる妖怪のような見た目になっていた。本人に言えばきっと怒り出してしまうから言わないが。
「あなた、人たらしって言われない?」
「言われたことはないけど……」
「そう。なら余計にタチが悪いわね」
沈黙が広がる。おれは頭を掻いて、シャオホアから少し離れた木箱に座った。埃のかぶったそれはおれの重さに不満を訴えるように軋んだ。
「昨日はごめん」
シャオホアは何も言わない。
「感情的になりすぎた。大きな声も出してしまった。怖がらせたんじゃないかって心配で。本当にごめん」
自分より力のある人間に怒鳴られる怖さをおれはよく知っていた。それなのにおれは。
「気にしないで、メイリン。あたしの方こそごめんなさい。急にあんなこと言われて、怒らないほうがおかしいわ」
シャオホアは優しい声で言った。髪はもう彼女の顔を隠してはいなかった。穏やかな瞳がおれを見ていた。その瞳を前にするとおれは、何も偽ることができなかった。膝の上で両手を組み、俯く。
「……おれの母親は十年前に病気で死んだんだ」
言葉がこぼれる。背が丸くなる。西洋の国では神様に対して自分の罪を告白するらしい。神様なんて信じてはいないが、それでもおれは許しを求めるように己の心の内を晒そうとしていた。
「そのとき、おれも高い熱を出していたからたぶんそれが移ったんだろう。高熱にうなされていたおれがようやく目を開けたとき、あの人はもう死んでいた」
ちょうどおれとリーシャが寝起きしているあの部屋だった。隣を見ると母がいた。しかしその体は記憶にあるよりずっと痩せ細っていた。頬は痩け、目は落ち窪み、肌は白さを通り越し青くなっていた。唇は乾燥してひび割れて、肩に手を置くと骨を触ることができた。とても苦しんだのだろう。その表情は苦悶に満ちていた。
「おれが殺したようなものだ」
シャオホアは否定するように口を開きかけたが、おれの顔を見て何を感じたのか弱々しく首を振った。
「薄情だと思われてしまうだろうけど、あの人が死んだことに対しておれは悲しみとかそういうものを感じなかった。まぁ、いろいろあっておれは彼女を恨んでいたし、憎んでいた。死ね、と面と向かって言ったこともあった。一度だけ怒りに任せて殴ったこともあった」
八歳のとき、母に体を求められた。普段ならいつものことかと流すはずだったのにその日はそれができなかった。唐突に怒りが腹の底から噴き出した。どうしておれはこんな奴のされるがままになっているんだ。抵抗しようと握った拳を振り回すと、それが母の顔に当たった。初めて人を殴ってしまった恐怖に一瞬身が竦み、しかし殴られてもなお息子の体をまさぐるその姿に吐き気がした。幼いおれの拳は痛みはあれど殴られる怖さを母に与えることはなかったらしい。だから、おれは枕元にあった燭台を掴んだ。叫びと共にそれを母の頭にぶつける。血が出た。当たり前だ。母の体がぐらりと動いて畳の上に倒れ込む。殺してしまったと思った。殺してやった。やっと、殺せた。
だが母は生きていた。しばらく店には出られなかったが、それでも生きてはいた。信じられなかった。これで自由になれると思ったのに。
「……あの人の遺体はおれが埋めたんだ。この裏庭に。冬に死んだから埋めるのが大変だったよ。地面はカチコチに凍っていて、土を掘り返すのも一苦労。それでもおれが埋めた」
いっそのことどこかの裏路地にでも捨ててこようかとも思った。だが、そんなことをしたら他の人に迷惑がかかる。だから埋めるしかなかった。冬だというのにおれは滝のように汗を流していた。ようやく人が埋められるくらいの穴を掘り終えたころには着ていた服がずぶ濡れになっていた。
「穴の中に寝かせて、その顔に土をかけた。もう動かないとわかっているのになぜか恐ろしかった。おれは、怖かったんだ。土に埋もれていく人間の姿が」
たとえそれが母の姿をしていようと、リーシャの姿をしていようと、女将の姿をしていようと、おれはきっと恐怖したのだろう。さっきまで生きていたのに。おれの記憶の中では動いて、喋っていたのに。声も、匂いも思い出すことができる。その手にはぬくもりがあった。それなのに今はもう死んでいる。何も言わずただ埋められるのを待っている。
「だから……」
息を吐く。目をきつく閉じた。
「おれは君の墓を掘り起こすことはできない」
組んだ手を額に押しつける。おれは全てを打ち明けた。打ち明けてしまった。
シャオホアの言葉を待つ。彼女はしばらく黙っていた。シャオホアが身動きしなくなると気配というものが完全に消えてしまったようだった。呼吸をしていないから、空気が揺れ動くこともない。おれの息遣いと心臓の鼓動だけが響いていた。額に汗が滲む。おれは耐えきれなくなって顔を上げた。
「シャオホア」
彼女は微笑んでいた。そこには悲しみがあり、諦めがあり、喜びがあった。
「ごめんなさい。そんな辛いことを話させてしまって」
「ちがう、おれは」
辛い? 母の死が? それとも母を自分の手で埋めたことが? どちらもおれにとって辛いことだったんだろうか。だっておれは今まで母の死を悲しんだこともなかった。母がいなくて寂しいと思ったこともなかった。死体を埋めるは大変だったし、死んだ人間を見て恐怖を覚えた。でもそれだけだ。辛いなんて考えたこともなかった。
「君は、愛されていたんだね」
やがておれは薄く笑って言った。苦々しい汁が口の中に広がった気がした。
「おれは母を心の底から嫌っていた。憎んでいた。殺してしまいたいと思うくらい」
それができなかったのはおれが幼かったからだ。まだ母の方が力があった。だから行動に移せなかった。でももし、今生きていたら。考えても仕方のないことだが考えてしまう。今のおれの前にあの人が現れたら、おれは迷いなくあの人を殺すだろう。そこに躊躇いはない。
「ねぇ、メイリン」
静かな声が続く。
「あなたは本当にお母様のことが嫌いだったの?」
シャオホアを見る。彼女の口元にはもう微笑みはなかった。その顔は真剣そのもので、わざとそんなことを言っているのではないとわかった。それでもおれは言葉が出なかった。この子は何を言っているんだろうと本気で思った。
「当たり前だろ」
言い返した声はなぜか震えていた。
「あの日々が終わって、おれはようやく自由になったんだ。君が想像もできないような屈辱をおれは毎日あの人に味わわされた。あの行為がおれにとって日常になることは決してなかった。おれは!」
立ち上がる。座っていた木箱が後ろにひっくり返る。浅く呼吸を繰り返した。昨日のように感情のまま大きな声を出すようなことはしたくなかった。辛うじてその理性がおれの頭の片隅を冷やす。
「おれは、あの人を許せない。これから先、許すことは絶対にない」
母の横顔を思い出す。美しい人だった。まともに生きていけない人間が集められたこの街で、あの人はいつも輝いていた。見惚れるような微笑がいつも唇に浮かべられていて、客に対して愛の言葉を囁いた。でもそれがおれに向けられることはなかった。おれ自身を見てくれることはなかった。
「……おれは」
その場にうずくまる。顔を両手で覆い、声を絞り出した。
「あの人が嫌いだ」
大嫌いだ。
「……メイリン」
ふわりと桃の花の香りに包まれた。シャオホアがおれを優しく抱きしめていた。冷たい手がおれの背中を優しく撫でる。胸元に顔を引き寄せられる。鼓動は聞こえなかった。彼女の体は冷たいはずなのに、なぜかおれはそこにぬくもりを感じた。
「辛いこと、聞いちゃったわね。許してちょうだい」
「君に再会するまでこんな風にあの人のことを思い出すことなんてなかったのに」
責めるように言ってしまってから後悔した。シャオホアは何も悪くない。おれが勝手に母のことを思い出し、嫌な気分になっているだけだ。幼子のようにおれは首を横に振る。シャオホアの背中に手を回し、服を掴む。
「あたしはもう行くわ。根ノ国に戻ろうと思うの」
ハッと目を見開いてシャオホアを見上げる。彼女は困ったように眉を下げていた。するりと腕の中からシャオホアの体が離れる。寒さがおれの体を吹き抜けていく。
「ここにいてもあなたを辛くさせちゃうだけな気がするし、あなたの意思はかたいようだから、あたしがいる意味はもうない」
そうだ。シャオホアに何度お願いされようとも、おれが彼女の墓を掘り起こすことはない。体から力が抜けていく。引き止めたいと思ってしまった。ここにいてほしいと。
「……君は、どうしてそこまで墓を掘り起こすことに執着するんだ?」
おれの問いかけにシャオホアは何かを考えるようなそぶりを見せた。それからちょっとだけ笑う。
「あたし、生き返りたかったの」
目を瞬かせる。生き返りたい? 死んだ人間が生き返ることなんてあり得ない。
「あなたが昨日語ってくれたおとぎ話、あったでしょう? 天女さまと人間の男の話」
「あぁ」
「メイリンはどうして男が天女さまのお墓を掘り返したと思う?」
想像もしていなかった問いかけにおれは一瞬考えた。この問いがどうやったらシャオホアの生き返りたいという願いに繋がるのかもよくわからなかった。
「男は、会いたかったんじゃないかな。天女に」
やがてこぼれたのは、誰だって思いつきそうな平凡な答えだった。ちらりとシャオホアを見上げる。彼女は相変わらず柔らかく笑っていた。
「たとえ死んでいたとしても、男は愛した天女に会いたかったんだ」
ある日唐突に愛する人を失って、男はひどく取り乱したに違いない。何をしていても天女と過ごした日々を思い出し、そばに彼女のいない事実にまた傷つけられる。男はどうしようもなくなって、そうして天女の墓に手をかけた。
「あたしはね、男は天女さまを生き返らせたかったんじゃないかなって思ってるの」
シャオホアは目を伏せる。長い睫毛が静かに上下した。
「棺桶の中から出しさえすれば、何か不思議な力で天女さまが生き返ってくれるんじゃないかって。ただのあたしの妄想だけど」
「でも結局、男がそんな行動をとった理由は明かされなかった。誰も知らない。もしかしたら男自身でさえわからなかったのかもしれない」
あのおとぎ話は男が墓を掘り起こし、それに対して天ノ都の人々が怒り狂うところで終わっている。だから男の行動の意味は明かされなかったし、天女がどうなったのかもわからない。あれが事実ならという話だが。
「だから君は棺桶から出たいんだね」
シャオホアの目がゆっくりとおれを見る。その目に揺らぎはなかった。おれの言葉に彼女は無言で答えた。
「今のあたしは魂だけの存在だから、肉体があればもしかしたらって。そこに飛び込めばまた生き返れるんじゃないかって思って。……でも、もう諦めるわ」
寂しい顔をしてシャオホアは言った。そっと立ち上がり、おれから離れようとする。おれは咄嗟にその手を掴んでいた。小さな手だった。おれの手のひらにすっぽりと包まれてしまうくらい。
「メイリン?」
「ここにいればいい」
握る手に力がこもった。
「地獄なんて行かなくていい。ずっとここにいて、おれと暮らそう。君の願いを叶えてあげることはおれにはできないけど、でも、君は、」
動き出した口は簡単には止まってくれなかった。みっともなく捲し立て、シャオホアを引き止めることに必死だった。
「君は、おれを愛してくれているんだろ?」
だったらここにいることに何の苦痛もないはずだ。
汗が一筋額を伝った。おれの手は小刻みに震えていた。相当な力で握っているはずなのにシャオホアはぴくりとも顔を歪めなかった。
「あたしはあなたに触れたい」
やがてシャオホアは小さな声で言った。
「血の通った手で。こんな冷たい手じゃなくて、ちゃんとした人の手で。だからこの姿であなたのそばにいてもそれは苦しいことなの」
「シャオホア、」
「あたしはあなたを愛してる。そこに嘘はない。でもね、メイリン」
初めてシャオホアの顔が歪んだ。唇を噛み締め、目をきつく閉じ、俯く。長い髪がおれの目の前で揺れる。その隙間から彼女が見えた。涙が溢れるのをおれは見てしまった。やがてシャオホアの顔が持ち上がり、冬の湖面のようなどこまでもかたく凍った瞳がおれを見据えた。
「あたしはあなたのお母様の代わりにはなれないわ」
そのとき、背後で戸が開く音がした。
「メイリンくん」
穏やかな声がした。耳に馴染む低音。おれはゆっくりと振り返った。
「シュエさん」
いつの間にか日が昇っていたのか、彼はその背に朝日を背負っていた。逆光で顔はよく見えない。だがその声とその背丈でおれにはそれが誰なのか簡単にわかってしまった。おれの呼びかけに彼は軽く頷く。
「どうして、ここに?」
シュエさんの目がぐるりと蔵の中を見渡した。そして一点を見て止まる。その視線を追いかけ、おれは息を呑んだ。
「……あたしが、見えてるの?」
シャオホアが呟く。その目は大きく見開かれ、シュエさんを見ていた。そして彼もまた、両目の中にシャオホアの姿を映していた。咄嗟におれは立ち上がり、自分の背中にシャオホアを隠した。
「シャオホアだな」
冷え切った声が彼から発せられる。そこに慈悲など存在しない。初めて聞く声だった。
「まったく、逃亡者を二名も出してしまうなんて」
「どういう、ことですか」
「君はただ彼女を渡してくれればいいだけだよ。お願いだ、手荒な真似はしたくない」
一歩、彼が踏み出す。
「いったい何の話をしているのか、おれにはさっぱりです」
「誤魔化さなくてもいい。僕は全てを知っている」
蔵の中に足を踏み入れた彼は無表情でおれたちを見ていた。
「逃げられるなんて思うなよ」
ちゅう、と足元でねずみが鳴いた。真っ白なねずみが一匹。次の瞬間、轟音と衝撃がおれの体を襲った。握りしめた手からシャオホアの手がいとも簡単に引き剥がされ、気づいたときにはおれは壁に叩きつけられていた。
「メイリン!」
シャオホアの悲鳴が聞こえる。頭を強く打ち、霞んだ視界でそれは見えた。
「シャオホア……!」
巨大なねずみがそこにいた。両手にシャオホアを抱え、巨体がぎちぎちと蔵を圧迫していた。小さな目がおれを見下ろす。
「ま、て」
「助けて!」
手を伸ばす。連れ去られてしまうわけにはいかなかった。だがその手がシャオホアに届くことはなかった。ぐらりと体が傾き、おれはその場に倒れ込む。意識を手放す直前、ねずみが蔵から飛び出すのが見えた。
*
どれくらい気を失っていたのだろうか。何かくすぐったいものが指先に触れる感覚がして、おれは呻いた。邪魔だ、と手を払うがそれはなくならない。次の瞬間、人差し指の先に鋭い痛みが走って無理やり目を開いた。
「痛いっ!」
叫んで乱暴に手を振る。小さな鳴き声を上げてそれは柔らかく地面を転がった。
「ね、ねずみ?」
そこには真っ白なねずみがいた。シャオホアが連れ去られる直前に見たねずみと同じだ。
「シャオホア」
そうだ、シャオホアは。
指先から流れる血を吸いながら立ち上がる。頭を壁に強く打ちつけたのか、後頭部はズキズキと痛み、視界がぐるりと回った。なんとも言えない気持ち悪さに吐き気を覚える。
蔵の中はひどい有様だった。積まれた木箱はいろんなところに散乱し、おれがよく座っていた一本だけ脚のない椅子は無様にひっくり返っている。竜巻が突如として出現し、部屋の中をめちゃくちゃにしてしまったかのようだった。
壁に手をついて深呼吸をする。しばらくすれば目眩と吐き気はどこかへ行き、シャンと背筋を正せるようになった。地面に目をやると、ねずみは相変わらずそこにいておれを見上げていた。
「……なんだよ」
忌々しく呟く。もうねずみは見たくない。特に白いねずみは。
だがそいつはおれの気持ちなんてどこ吹く風で足元にまとわりついてくる。踏み潰そうとしてもちょこまかと逃げ回り、そのくせおれから離れようとはしない。
「なんだ? まさかシャオホアのところに案内してくれるっていうのか?」
冗談めかして吐き出した言葉にねずみは反応した。動くのをやめて後ろ足で立ち上がる。小さな鼻を懸命に動かして何かを探るように辺りを見渡していた。そして黒々とした瞳がおれを射抜く。その瞳は全てを見透かしてしまうような冷たさがあった。気味悪さに一歩後ずさる。ねずみはくるりとおれに背を向けて走り出した。軽やかに揺れる尻尾が目に焼きつく。ねずみは蔵の外に出て立ち止まり、おれを振り返った。
「……シャオホア」
このねずみについて行けばシャオホアに出会えるのだろうか。もしそうだとして、おれは彼女を追いかけるべきなのだろうか。踏み出した足が躊躇うように静かに地面に着地する。別にシャオホアをこのままにしていても問題ないはずだ。あの巨大なねずみはラオシュー、根ノ国の番人で、シャオホアを根ノ国へと連れて行ったのだろう。あの子は自分から根ノ国に戻ると言っていた。ならこのままにしておくのがシャオホアにとってもいいんじゃないか?
目を閉じる。どうすればいいのか考える。耳の奥でシャオホアの叫び声が響いていた。助けて。彼女はそう言ったのだ。確かに「助けて」と。
「わかってる」
おれがあの子と母親を重ねてしまっていることも。あの子に母の愛を求めてしまっていることも。そしてそれがどれだけあの子を傷つけているのかも。それでも、おれは。
「待ってて、シャオホア」
蔵の外でねずみが鳴く。次に踏み出したとき、その足取りに迷いはなかった。
ねずみは庭の中心でじっとおれを待っていた。近づくと、はらりと身をひるがえして裏口の隙間から外へ出た。それを追って戸を開ける。気絶している間にすっかり夜が明けたらしい。花柳は太陽の光に照らされていた。
ねずみはちらちらとおれがついて来ているか確認しながら歩いていた。その仕草が嫌に人間じみていて不気味だった。だが今のおれにはこのねずみしか頼りにできるものはない。黙って後を追うしかなかった。
どこかを目指し、黙々と歩くおれを見て花柳の人たちは不思議そうに首を傾げていた。たしかに、足元だけを見て厳しい表情で歩く姿は奇妙に映るだろう。声をかけてきた人間もいたが、おれは返事をしなかった。少しでもねずみから目を離せば見失ってしまいそうだったからだ。
「なぁ、お前」
人通りが少なくなってきたころ、おれは口を開いた。もう花柳の端っこまで来ていた。この先には裏門がある。
「もしシャオホアが花柳の外にいるんだったらおれは行けない」
裏門にも正門にも、常に見張りの男が二人立っていた。外からなら自由に入ることができるが、内側からはそう簡単にいかない。花柳の中で働くおんなたちは、働いている店の女将から許可証を書いてもらわなければ外には出られないのだ。それがなければ必ず見張りに止められてしまう。
困ったようなおれの声にねずみは振り返った。しかし足を止めずに裏門に向かって歩き続けた。門が近づいてくる。昼間は閉まっているはずのそれが大きく開かれていることに気づいたのはそのときだった。いつも立っている見張りの姿もない。不意に寒気が肌をのぼり、思わず後ろを振り返ろうとした。だがそれを引き止めるようにねずみが鳴いた。足だけが動き続けていく。何かに操られているかのように。止まらない。止まれない。下駄の底がざらりと砂を踏みしめる。おれは門の外に右足を出していた。
誰も、何も言わない。
恐る恐る左足も揃えて、おれはようやく後ろを見た。相変わらず門は大きく開かれている。その門を外側から見るのは初めてだった。何かの花のようなものがいくつも彫られていた。それが桃の花だとわかったのは、同じ模様が刺繍された羽織を毎日着ているからだった。一瞬その装飾に目を奪われ、それから短く息を呑んだ。さっきまで歩いてきた道に霧が立ち込めていたのだ。それはとても濃い霧で、門の中の様子は全くと言っていいほど見えなかった。冷ややかな風が吹き抜ける。不吉な予感があった。もうここには戻れないのではないかという予感が。
ちゅう、と足元でねずみが鳴く。ちょろちょろと足の周りで動いていたから踏み潰すフリをすると、慌てたように離れていった。
ねずみは花柳の門からどんどん遠ざかっていく。ついにおれも門に背を向け、まとわりつく霧を払うように歩き出した。下だけを見て歩き続けた。ねずみを見失わないように。踏みつけた地面がきちんとそこに存在することを確かめるように。
ふと、頬をかすめる空気の温度が変わったような気がして足元から顔を上げた。気づくと、花柳に戻っていた。
いや、違う。ここは花柳ではない。通りには所狭しと店が並んでいる。しかしそこにぶら下げられた提灯は赤色ではなく、薄い青色の光を宿していた。人の気配はない。だがひそひそと囁き声のようなものがあちこちから聞こえてくる。誰かに見られているという感覚がある。おれの知っている空は果たして黄土色だっただろうか?
慌ててねずみを探した。花柳の外に花柳と似た場所があるなんて思いもしなかった。ここがどこなのか、鳴き声しか返ってこないとしても聞かなくてはいけないと思った。しかしどれだけ目を凝らしてもねずみの姿はどこにもなかった。さっきまで何度もこちらを振り返ってくれていたのに。
「こんにちは。メイリンくん」
背後から耳に馴染む声がした。その声を聞いた瞬間、嫌な予感のようなものが背中を撫で、勢いよく振り返った。
「……シュエ、さん」
そこにはシュエさんが立っていた。穏やかな微笑みをその口元に浮かべ、じっとおれを見ている。無意識のうちに拳を握りしめていた。どうやってかはわからないが、この男がシャオホアを連れ去ったのだ。その場面をおれはこの目で見た。
おれの、隠しもしない敵対心に気づいたのかシュエさんは少し困ったように眉を下げた。一歩踏み出し、おれの背に触れる。その手は相変わらず冷たかった。
「あなたはいったい、なんなんですか」
「簡単に言うならば、ここの番人だ」
「ここの?」
問いかけに彼は短く頷く。そして目を細め、眼前にずらりと並ぶ店を見た。
「君はここがどこだと思う?」
「さぁ、見当もつきません」
「いいや、少し考えたらきっとわかるはずだよ」
わずかにシュエさんは口角を上げた。ふいっとその微笑みから目を逸らし、改めて周りの景色を眺める。おれの背後にはいつくぐったのかも覚えていない大きな門が口を開けていた。大通りに並ぶ店の看板にはまだ炎は灯っていない。どの店もぴたりと戸が閉じられていた。まだ営業時間ではないのだろう。青い提灯が、時折吹く風に揺れていた。細かな違いに目をつぶればそこは花柳によく似ている。唯一大きな違いがあるとすればそれは、大通りの突き当たりにそびえる大きな城だろうか。豪華な赤い瓦屋根が目を引いた。五階建てくらいだろうと予想をする。黒檀のように黒い壁には不吉な予兆のようにいくつものひび割れが見えた。その城の門はやはり閉じられていた。瞬きをする。外見だけ見てもあの城がいったいどういう目的で造られたのかはわからなかった。だから一旦あれのことは忘れることにした。
ここはどこなんだろう。
白いねずみは意思を持っておれをここに連れてきた。あいつはおれが「シャオホアのところに連れていってくれるのか?」と聞くとそれに応えるようにして歩き出した。つまり、ねずみの道案内が間違っていなければここがその「シャオホアがいるところ」なのだろう。ではそこはどこだ? シャオホアはどこへ連れて行かれた?
おれはシュエさんを見上げた。どこまでも冷ややかな目つきで。
この男は、彼女をどこへ連れて行った?
「ここは根ノ国ですね?」
その言葉は確信に満ちていた。シュエさんは笑みを深くする。
「その通り。ここは根ノ国だ。死者の魂が集められる場所」
「じゃあおれは死んだんですか?」
「いや。君はまだ死んでいない。しかし死にかけの状態だ。いつ何時ポックリ逝ってしまうかわからないくらいには死にかけている」
おれは何も言わなかった。どうして死にかけているんだろうと考えて、もしかすると壁に頭を強く打ちつけてしまったせいかもしれないと思った。巨大な白いねずみが現れシャオホアを連れて行ったとき、その衝撃で吹き飛ばされたのを思い出す。意識を失うほどの強さで壁にぶつかったのだ。死にかけていてもおかしくはない。
「それで、あなたは根ノ国の番人なんですね?」
「その通り」
「あなたも死にかけなんですか? それとももう完全に死んでいる?」
「完全に死んでいる。数えるのも嫌になるくらいの昔にね」
その昔を懐かしむようにシュエさんは言葉を区切り、それから歩き出した。おれの背中を軽く押して。
促されるがまま足を動かす。このまま素直について行っていいのか? と頭の片隅で声がした。何が目的かわからない。優しい顔をして、さっきのように突然大きなねずみに変身しておれを食ってしまう可能性だってある。だが、今この場で全てを知っているのはシュエさんだけだった。彼ならシャオホアの居場所も知っているはずだ。ならばついていくしかない。おれにはそれしか選択肢が残されていない。
「シャオホアを連れて行った白いねずみはあなたなんですか?」
長い通りを並んで歩きながらおれは口を開いた。
「そうだよ。ここで僕はラオシューと呼ばれている。根ノ国の王、イェンモアに仕えるねずみだ」
「じゃあおれをここに連れてきたのもあなた?」
シュエさんは少し考えるように黙ってしまった。どう言えばおれにわかってもらえるだろうか、と悩んでいるような沈黙だった。
「難しい質問だ。あくまで僕の本当の姿はあの巨大ねずみにすぎない。小さいねずみたちは僕の魂を乗せている乗り物と言った方がわかりやすいかな。大きな図体では都合が悪いときによく乗せてもらうんだ」
歩くたびに下駄がからんからんと乾いた音を立てる。ぴっちり閉じられた店の戸の隙間からは男のような女のような声で誰かがひそひそ囁いている。おれは歓迎されていないのかもしれない。
「あなたはここで何をしているんですか?」
「ごく稀に、生まれ変わりか地獄に行くかを決める審判から逃げ出す魂がいる。現世に何か強い未練を残しているだとか、あるいは地獄に行くことが決定していてそれが嫌だからだとか。僕はそうして逃げた魂を追いかけ、根ノ国に連れて帰る使命をイェンモアから与えられているんだよ」
おれはしばらく口を閉じていた。シュエさんの言っていることをなんとか理解しようとした。
「シャオホアはここから逃げ出したからあなたに連れ戻されたんですね」
「そういうことだ。死んだのなら審判を受けねばならない」
「逃げ出した魂をそのままにしておくことはできないんですか?」
シャオホアのことを思い出しながらおれは聞く。シャオホアはただ生き返りたいと望んだだけだ。生き返り、おれに触れたいと。それはいけないことなのだろうか。無理やり根ノ国に連れ戻さなければいけないほどのことなのだろうか。
「そうして放っておかれた魂はやがて行き場をなくし、怨念へと姿を変える。宿るべき肉体もなく現世を彷徨うことはとても危険なことなんだ。だから僕がいる。そうしたことを防ぐために」
おれは俯いた。シュエさんの言うことは驚くほど素直に耳に入ってきた。確かに、怨念になったシャオホアは見たくない。それはきっと辛いことだ。
「……おれは、本当にここに来てよかったんでしょうか」
シュエさんの言うことは本当なら、シャオホアを現世へ連れ戻すことは彼女を苦しめることになるだろう。今のおれに彼女の墓を掘り返すことはできない。彼女の宿るべき肉体はどこにもない。あの蔵の中にずっと閉じ込めていたらいつの日かあの子は怨念へと姿を変えてしまう。
「僕が君をここへ連れてきたのはシャオホアを連れ戻させるためじゃない」
「え?」
ある店の前でシュエさんは立ち止まった。薄桃色の牡丹が美しく刺繍された赤い暖簾。よく見慣れた暖簾がその店の戸にかかっていた。
「牡丹……」
そこはおれが働く店だった。花柳にある店と見た目は何も変わらない。青い光を放つ提灯がぼうっと軒先を照らしていた。
「この中に君と話をしたいと言っている人がいる」
「おれと、話?」
思わず聞き返すおれにシュエさんは頷いた。戸に手をかける。
「それは誰なんですか? どうしておれと?」
「本人に聞けばわかる。その人を君はよく知っているはずだよ」
耳障りな音を立てながら彼は戸を横に引いた。促されるまま暖簾をくぐる。店の中は薄暗かった。しばらくそこに立ち、目が慣れるのを待った。
「僕は外にいるよ」
シュエさんはそう言って、戸を閉めた。静寂が肌にぴたりと張りつく。店の中には誰もいなかった。土間から上がり、辺りを見渡す。息をするのさえためらってしまうほど静かだ。二階へ続く階段を見上げる。おれと話をしたいという人は二階にいるのかもしれない。
手すりを撫でながら段差を登る。踏み込むたびに階段はギシギシと脅すように鳴った。部屋の間取りもおれの記憶にある牡丹と何も違いはない。部屋の数は二つ。接客のための仕事部屋と、おれとリーシャが一日の大半を過ごしている部屋だ。おれはまず仕事部屋の襖を開けた。
中には誰もいない。中央に薄っぺらい布団が一式敷かれていて、壁に沿うようにして机と火鉢が置かれている。いつも通りの風景。呼吸を一度する。古びた畳の匂いがした。部屋から出ると、今度はもう一つの部屋の襖に手をかけた。きっとここにおれを待っている人がいる。それがいったい誰なのか、おれはわかるような気がした。もうこの世にはおらず、おれがよく知っている人。あの人しかいない。
襖を開けた。
「……母さま」
そこには一人の女性が座っていた。掠れた声で呼びかける。窓の外へ向けられていた女性の目線がゆっくりとおれに向いた。
「久しぶりね」
母の姿はやはり美しかった。黒髪は艶々と輝き、長い睫毛が穏やかに上下する。ぷっくりと赤く膨れた唇は柔らかく弧を描き、ほとんど完璧な位置に添えられた口元のほくろが彼女の魅力を何倍にもしていた。この美しさに溺れ、金を使い果たした男がどれだけいただろうか。きっと両手では数えられない。足の指を使ったって無理だ。
深く、呼吸をする。
少しだけ体が震えていた。この人とこの部屋で会うときはいつもそうだった。ここでおれは何度も体を求められた。それがどれほど悍ましかったか。唾を飲み込み、拳を握りしめた。
「ラオシューはちゃんとあなたをここに連れてきてくれたのね」
「シュエさんのことをそう呼んでいるの?」
「えぇ。そうよ。もうずっと長い間そう呼んでいるわ」
母は片手で自分のそばをそっと叩いた。座れ、ということなのだろう。だが体はすぐに動かなかった。母の近くに寄ることに対しておれは恐怖している。座ってしまえばいざというとき逃げられなくなってしまう。
そんなおれの心に気づいたのか、母はゆるく首を横に振った。
「母さまからあなたに触れることは決してしないわ。約束する」
「信じられない。信じたくない」
「そう……。ならそのままで構わない。母さまの話を聞いてくれる? あなたはきっと不思議に思ってるはずよ。どうしてここに呼び出されたのか」
母の言うことは正しかった。母がどうして今さらおれと話をしたいと願ったのか、死んだのはもうずいぶん前になるのにどうして未だに根ノ国にいるのか。おれは何一つとしてわからなかった。
「母さまは、あなたに謝りたかったの」
母は静かに目を伏せた。
「あなたに酷いことをたくさんしてきた。あなたを上手く愛せなかった。辛い目に遭わせて、寂しい思いをさせて、本当にごめんなさい」
浅く息を吸い込んだ。まず浮かんだのは怒りだった。強烈な怒り。母を燭台で殴ったときと同じ怒り。
「ふざけるな」
握りしめた拳がぶるぶると震えた。頬がかすかに痙攣する。
「ごめんなさい? そんな言葉で済ませられると本気で思っているのか? おれがどれほどあの日々を辛く思っていたか、どれほど悍ましく思っていたか、何も知らないくせに」
母は何も言わない。それが余計におれの怒りを膨らませた。
「そうやってしおらしく黙っていればおれがいつか許すとでも? いいよ母さま、気にしないで、なんて言うとでも? あんたは母親じゃない。おれにとってあんたは醜い化け物だった。死んでくれたときは清々したよ。あぁこれでようやく解放されたって」
「ごめんなさい。許してとは言わないわ。ただ母さまは、」
「いいや、あんたは心のどこかでは結局おれが許すと思っている。許してくれると思っている。かつておれに股を開かせたように、あのときのように最後にはおれが折れると思っているんだ」
女は何度も首を横に振った。ごめんなさい、と言い続けた。それでもおれの怒りは収まらなかった。何を言われても収まるはずがなかった。
「上手く愛せなかった? 寂しい思いをさせた? どうしてそのことに気づいていながらおれを見なかったんだ。一人の息子として見てくれなかったんだ。おれが父親に似てたから? おれたちを置いていなくなったクソみたいな父親に!」
「やめて、あの人のことをそんな風に言わないで!」
「ほらやっぱり! あんたはおれを上手く愛せなかったんじゃない。愛そうとさえしなかったんだ。あんたが心から愛していたのは自分を捨てたクソ男だけ! おれを慰み者にしたのだっておれがその男に似ていたからだ! 最初からおれを愛する気なんてなかったんだろう!!」
知らず知らずのうちに声は大きくなっていった。口から溢れる言葉は全て、ずっと心に溜めてきたものだった。幼いころから感じていた寂しさや辛さがようやく捌け口を見つけた。何も言い返さない女に向かって怒鳴りつけるのは心地が良かった。弱いものを自分の言いなりにさせるのは心地が良かった。
「謝って何になる? 自分が気持ちよくなりたいだけだろ。謝って、過去を清算して、自分だけが過ちをなかったことにできる。そこにおれの感情はない。どこにも! おれがどう思おうとあんたには関係ないんだ。その謝罪で、おれがどれだけ傷つくか少しでも考えなかったのか!」
この人にとって、おれが産まれてきた意味はあったのだろうか。
鼻の奥がツンと痛くなって、眉間に熱がこもった。目尻が震える。視界がぼやける。奥歯がカチカチと小刻みに音を鳴らした。
「ごめんなさい」
女は深く頭を下げた。手をつき、床に額を押しつけた。丸くなった背中をおれは上から見ている。頬を涙が伝った。
「本当に、ごめんなさい」
その姿をどこかで見たことがあった。こうして深々と頭を下げる母の姿を、おれはどこかで。そのとき、突然頭が割れるように痛み始めた。立っていられなくなり床に座り込む。母がハッとしたように顔を上げた。視界がパチパチと点滅する。意識を保っているのも難しい。母の声がする。おれの名前を心配そうに呼んでいる。だが返事ができなかった。声を出すことすらできない。そしてついに、おれは暗闇の中に落ちていった。
幼い少年は誰もいない大通りを泣きながら歩いていた。おれはその後ろをついて行っていた。声をかけようとしたが声が出ない。少年にもおれの姿は見えていないようだった。
坊主頭の少年。それはおれだ。八歳くらいだろうか。少年とおれが歩いているのは根ノ国だった。同じところをおれもシュエさんに案内されて通っていた。だがおそらく少年にはここがどこなのかまるでわからないのだろう。見慣れた花柳と似ているようで違う場所。いつも賑やかな通りには人っこひとりいない。それがどれほど心細いことか。少年の悲しみがおれの心に滲むように広がっていく。
少年は喉も張り裂けんばかりの勢いで泣いていた。そしてついに立ち止まり、その場にうずくまってしまった。小さな背中がさらに小さく丸まる。少年の横におれも立ち止まり、辺りを見渡した。
これはたぶんおれの記憶だ。幼いころの記憶。だがその記憶をおれは一切覚えていなかった。根ノ国にいるということは幼いおれは死にかけているのだろう。八歳のときといえば流行病にかかって高熱を出したことがあったな。看病をしてくれた女将や医者曰く、生死の堺を彷徨うほどの熱だったらしい。そしてそれは母に移り、彼女を死に至らしめた。一方でおれはなぜか生き残った。一週間熱にうなされ続けたあと何事もなかったかのように起き上がったのだ。自分が熱を出していたことも、そんなに長く寝ていたこともすっかり忘れて。
少年はまだ泣いている。しかしやがて啜り泣くような声に変わり、しゃっくりだけが聞こえてくる。涙を流し尽くしたのだろう。そのとき勢いよく少年の顔が持ち上がった。何かを探すように周囲を見る。
「かあさま?」
鼻の詰まった声で少年は言う。ふらふらと立ち上がり、懸命に母の姿を探していた。
「かあさま、どこ? どこなの?」
おれには何も聞こえないし見えなかった。どうして急に彼が母を探し始めたのかもまったくわからなかった。だがそれからしばらくして、数秒程度だっただろうか、誰かがこちらに向かって走ってきているのが見えた。門がある方からだ。
「かあさま!」
少年が叫ぶ。そこには喜びと安堵が混じっていた。かつておれは母のことをこんな風に呼んだのか。愛された子が愛する親を呼ぶように。
走ってきたのはやはり母だった。少年に駆け寄り、成長途中の体をぎゅうぎゅうに抱きしめる。
「よかった、会えたっ」
母は目をきつく閉じ、ズッと鼻を啜った。涙が滲んだ声だった。
「かあさま、ここはどこなの? どうしてみんないないの?」
抱きしめられたまま少年は問いかける。母はそっと少年から離れると、彼の両手をすくうようにして握った。
「母さまがあなたを元の世界に帰してあげる。だから安心しなさい」
「そんなことできるの?」
「えぇ、だって母さまだもの」
浅い呼吸を繰り返す。瞼が軽く痙攣し、おれは思わず目を閉じていた。
母の、こんなにも優しい声を聞いたことがあっただろうか。おれを息子として扱ってくれた母を、おれは見たことがなかった。母の慈愛に満ち溢れた目線の先にいるのが幼いころの自分だとわかっていても、心臓は絞り上げられるように苦しかった。羨ましかった。おれもあんな風に見てもらいたかった。言葉をかけてもらいたかった。
「さぁ、いらっしゃい。この先は彼が案内してくれるわ」
少年の右手としっかり手を繋ぎ、母は言う。おれはゆっくりと目を開けてそこにいる三人目の人影に息を呑んだ。
「……シュエさん」
口の中で彼の名を呼ぶ。柔らかい微笑を口元に浮かべたシュエさんがそこに立っていた。彼は母と目を合わせ軽く頷くと背を向けて歩き出した。その足取りに迷いはない。おれを母のいる牡丹へと連れて行った後ろ姿と何も変わらなかった。
「この人は、だれ?」
「あなたは何も知らなくていいの。母さまの言う通りにしていたら元の世界に帰れるからね」
シュエさんはちらりとこちらを振り返り、目を細める。しかし何も言わなかった。母はそれきり口を閉じてしまった。唇を真横に引き結び、顔は青ざめているように見える。少年はそんな母を不安そうに見上げると繋いだ手に力をこめた。不意に、おれの右の手のひらに誰かと手を繋いでいる感触が伝わってきた。自分よりも柔らかく、あたたかい手。その手に導かれているときだけおれの心は安心感に包まれる。不安なことは何一つとしてないのだと確信できる。
三人の背中がどんどん遠ざかっていく。おれはそれをぼうっと眺め、しばらくその場に立ち尽くしていた。右手をぎゅっと握り、ぬくもりを離すまいとする。しかしいつまでもこうしてはいられない。三人を追わなければ。幼いおれに何があったのか、母に何があったのか、おれはそれを見届けなくてはならない。
シュエさんが向かっていたのは豪華な赤い瓦屋根が特徴的なあの城だった。城の前には川が流れていて、漆塗りの大きな橋がかかっていた。三人とおれは橋を渡る。それと同時に分厚い木の扉が腹の底を震わせるような音を立てて開いた。少年の足が怯えたようにたたらを踏む。しかし母がしっかりと手を握っていたおかげで転ぶことはなかった。両足に力を込めて少年は歩き続ける。
建物の中は外から見るよりずっと広く感じた。天井は高く、大広間のようにだだっ広い部屋が目の前に広がっていた。壁に沿うようにして階段が設置されている。太い柱、剥き出しの梁。しかしそれ以外に物が何もない。等間隔に置かれた行灯が灯っているだけだった。
「こちらです」
シュエさんは静かな声で少年と母を誘導する。少年はきょろきょろと周りを見渡して、それから身を縮めるように首をすくめた。少しでも自分の存在を消そうとしているかのようだった。母はそんな少年とは対照的に真っ直ぐに背筋を伸ばし、シュエさんの後を追った。
長い階段を登る。一歩踏み出すたびに階段はギシギシと不吉な音を立てた。少年はそれが恐ろしくてたまらなかった。母は何も言わないし、突然現れた謎の男も一言も喋らない。だから少年も口を閉じていた。母の手をぎゅっと握りしめ、自分の足元を見つめていた。階段はとても長い。しかし誰も息一つ切らさず足を動かし続けていた。ここにいるのは魂だけなのだから当然といえば当然だろう。肉体は牡丹のあの部屋で横になっているはずだ。だが、それならばなぜ階段は軋むのだろうか。
今ここが何階なのか、おれは数えるのを途中でやめていた。だが確実に五階以上はあるはずだ。やがて終わりが見えてきた。最上階にやっとついたのだ。階段を登りきると、そこには長い廊下が伸びていた。突き当たりがとても小さく見えるくらい長い。高い位置についた小窓からは何かのしるしのように外の光が入ってきていた。外からこの建物を見たときは中にこんな長い廊下があるなんて思いもしなかった。
「待って、母さま」
不意に少年が言った。先を歩くシュエさんを追いかけようとした母を引き止めるように立ち止まる。
「どうしたの?」
「この先には、行けない。怖い、すごく怖いんだ」
少年の両目は恐怖に見開かれていた。ぶるぶると足が震えている。戻ろう、と母の手を引くが母は首を横に振った。
「戻れないわ。あなたはまだ戻れない。でも安心して。母さまが全てなんとかしてあげるから」
「ダメだよ、絶対良くないことが起こる。そう感じるんだ。ねぇお願い、帰ろう」
少年の声はどこまでも必死だった。どうにかして母を止めようと全身に力を入れている。だがその抵抗も虚しく、母は少年の手を引っ張って歩き始めてしまった。有無を言わさぬ力だった。せめて自分だけでも逃げようと少年は身を捩る。しかし母は、潰れてしまうくらい強く少年の手を握っていた。引きずられるようにして歩く少年の後をおれはついて行く。少年が感じている恐怖をおれ自身も感じていた。胃が絞られるようにキリキリと痛み、舌の根と指先が気味悪く痺れる。気づくと浅い呼吸を繰り返していた。後頭部からうなじにかけて鳥肌が立っている。足がもつれる。止まることは許されない。母は前へ進み続けている。
ついに三人は大きな扉の前で立ち止まった。立派な装飾が施された扉だ。シュエさんは母と目を見合わせ、かすかに頷いた。少年の恐怖はそこでいっぱいいっぱいになる。両足から力が抜けて立っていることさえできなかった。だから母の腕にすがりつき、シュエさんが重そうな扉を開けるのを息を止めて見ていた。
「さぁ、おいで」
母は少年に囁く。扉は完全に開け放たれた。扉の奥には広い部屋があった。正面にはがっしりと重厚そうな机が置かれ、床には不思議な模様が刺繍された分厚い絨毯が敷かれていた。左側には大きなガラス戸がはめられており、バルコニーがある。眺めの良い部屋だった。ずっと遠くに根ノ国の門が見える。その門はぴったりと閉じられていた。
「前へ」
そのとき、正面から太く、低い声が轟いた。少年が肩を跳ねさせて驚き、咄嗟に母の後ろに隠れる。母は青白い顔をさらに青くさせ、唾を飲み込んだ。おれは声の主を見る。机の向こう側に鬼のような顔をした大きな男が座っていた。とにかく恐ろしい形相だった。ぎらりと底光りする両目が鋭く母と少年を見る。男は濃密な黒の衣をまとっていた。ゆっくりとした動きで机の上に置かれていた笏を手に取った。それをもう片方の手のひらに叩きつける。ばちん、と鞭のような音が部屋の中に響き渡った。少年にとってその音は、本当の鞭のように痛みを感じる音だった。背中がひりひりと痛んだような気がした。
母は一歩踏み出した。するりと少年の手を離して。
あれだけきつく握られていたのに、離れるのは一瞬のことだった。少年は呆然と母の背中を見ている。おれは右の手のひらを見下ろした。さっきまで母のぬくもりを感じていた手のひら。しかし今は何もない。冷たい風がひゅるりとぬくもりを奪い去ってしまった。
「かあさま……?」
少年は母を呼ぶ。だが彼女は振り返らなかった。一言も発さず、男の前まで行くと時間をかけて床に膝をついた。両手をつき、額を絨毯に擦りつける。
「どうか、あの子の命だけは奪わないでください」
母は言った。力強い声だった。男は瞬きをする。もう一度笏を鳴らした。
「代わりに、私の命を差し上げます。あの子の代わりに私が死にます。だからどうか、どうかお願いいたします。あの子を殺さないでください」
少年には何が起こっているのか全くわからない。
だがおれにはわかる。わかってしまった。あれだけの高熱を出してどうしておれだけが生き残ったのか。どうして、母が死んだのか。全身から力が抜けるようだった。天井を見る。どこまでも高い天井だ。息を吸って、深く吐いた。それを何度か繰り返し、母を見た。丸まった母の背中を見た。少年はその背中に縋りついていた。
「母さま、やめて、なにしてるの? どうして泣いてるの? 母さま、かあさま」
男は黙っていた。母は顔を上げなかった。どれだけ息子が泣いて叫んで背を叩いても、男が下す裁きをじっと待っていた。
おれは少年の肩に触れた。骨の形がよくわかる肩だった。
「もう行こう」
おれは言う。これ以上何をしても母はここを動かない。母は息子の代わりに死んだのだ。だからおれは元の世界で目を覚ました。だから母はおれの隣で物言わぬ骸となっていた。
「嫌だ、嫌だっ!」
少年はおれの手を振り払った。声が枯れるほど泣き叫んでいる。母の肩を引っ張って、その顔を上げさせようとした。少年は母に自分を見てほしかった。こんなにも泣いているのだから、顔を上げ、おれを振り返り、抱きしめてほしかった。大丈夫だよと囁いてほしかった。おれはそれをずっと望んでいた。この世に生まれ落ちた瞬間からずっと。
涙が頬を伝った。とめどなく涙は溢れた。少年の悲しみがおれの心に乗り移り、おれに涙を流させ続けたのだ。
「……どうして」
意識が浮上する。おれは両目を開き、こちらを心配そうに覗き込む母を見つめ返した。
そこにはもう少年も、大きな男もいなかった。そこは根ノ国にある牡丹の部屋の中だった。
「どうして、あんたはおれの代わりに死んだんだ」
母は短く息を呑んだ。
「思い出したの?」
おれが頷くと、母はおれの前に静かに座った。俯き、言葉を探すように黙ってしまった。
「信じてもらえないかもしれないけれど、母さまは、あなたを愛していたの」
彼女が俯くと、長く美しい黒髪がすだれのように垂れて顔を覆い隠してしまった。その隙間から雪のように白い肌が見え、睫毛に囲われた切れ長の瞳が見え隠れする。
「……あんたが、おれを?」
「えぇ。あなたが高熱を出して苦しんでいるのを見て、思ったの。あなたを死なせたくない。あなたを死なせるくらいだったら私が代わりに死んでしまいたいって。そのときようやく気づいた。あなたを愛していたことに」
視界がぼやける。涙はまだ流れていた。鼻を啜って息を吸うと喉の奥がガラガラと音を立てた。それでも必死に息を吸う。言葉を必死に探す。おれが今何を思っているのか、それをどう伝えればいいのか、考える。考えて考えて、やがておれは体中の力が抜けるくらい深い息を吐いた。
「もっと、早くに気づいてくれていたら」
おれを愛していたことに、もっと早く気づいていてくれたら。生きているうちにおれのことをちゃんと見て、抱きしめ、言葉をかけてくれていたら。
「おれはずっと寂しかったんだ」
本当ならば味方であるはずの親がずっと敵だった。自分を守ってくれるはずの親はおれの体を組み敷き、暴いた。おれに囁かれる言葉は全て、おれとそっくりな、かつて愛した男に向けてだった。それがどれほど辛く苦しかったか。
「一度でいいから誰かに愛されたかった。正しく愛されたかった。おれがおれとしてここにいていいのだと、誰かに──他でもない母さまに言ってほしかった」
母は何も言わなかった。畳にぱたぱたと涙の粒がいくつも落ちる。母は両手で顔を覆った。
「ごめんなさい、ごめん、ごめんね、あぁ、本当に、ごめんなさい」
この人を許すべきなのだろうか。
おれは母を憎んだ。恨んだ。殺してやろうと思ったこともある。燭台を彼女の頭にぶつけたこともある。頭から血を流し、倒れる母の姿を見て思ったのは、やってやったという達成感だけだった。だがそれと同時におれは母を愛していた。子が親へ向ける無条件の愛を持っていた。どれだけ強く憎んでも、どういうわけかその愛だけは捨て去ることができなかった。
「……母さま」
だが、許すことはできない。おれは唐突にそう思った。坊主頭をざらりとひと撫でする。そして確かめるように小さく頷いた。そうだ。おれはこの人を許せない。許すつもりもない。
「あなたのやり方は全てが間違っていた。おれはそう思う。あんな環境にいたせいもあるだろうけど、あなたは正しく人を愛せない人なんだ。おれと同じで」
おれは人の愛し方を知らない。誰かに愛されたことがあると胸を張って言えないから、どのように人を愛せばいいのかわからない。人を正しく愛するとはどういうことなのか。おれにできるのは、そばにいてほしい人の腕を掴んで無理やり引き止めること。そして組み敷いて、強い力で押さえつけることくらいだった。
「でも、あなたは最後におれを愛してくれた。自分の命と引き換えにおれを助けてくれた。それはきっとちゃんとした愛の形なんだと思う。だから、うん。おれも同じようにあの子を愛そうと思う」
母はゆっくりと顔を上げた。泣き腫らした目でおれを見る。たぶんおれも似たような顔をしているだろう。目元を赤くし、まぶたを腫れさせているに違いない。だが、頬を伝った涙はいつの間にか乾いていた。
「あの子はおれを愛してくれた。どこまでもまっすぐな愛だ。おれは彼女の愛に応えなくちゃいけない。どうすればいいのかわからなかったけど、でも、今ならわかる」
おれはシャオホアを根ノ国から連れ戻す。そして墓を掘り返し、彼女を生き返らせるのだ。たとえその行為がどれほど罰当たりなことだとしても。死んだあと、永遠に地獄に囚われることになったとしても。それでも構わない。それがおれにできる唯一のことだから。
「もう行くよ、母さま」
一瞬の躊躇い。だがおれはそっと手を伸ばして母の肩に触れた。ぬくもりは感じなかった。だが母は確かにそこにいた。
「いつになるかわからないけど、また会おう」
母は顔を歪ませ、また泣いた。
「えぇ、えぇ、また、会いましょう。いつまでも待ってるわ」
微笑み、立ち上がる。そしてキッパリと母に背を向けて部屋を出た。母がおれを見ているのはわかった。だがもう振り返ることはない。覚悟は決まった。それならば振り返る必要はどこにもない。
玄関で脱いでいた下駄を引っ掛け、戸を開けて外へ出る。シュエさんが微笑んでそこに立っていた。
「話はできたかい?」
「えぇ。たくさん話せました」
シュエさんはしばらくの間牡丹の二階を見上げていた。そこにまだいるであろう母を見ていた。
「シュエさん。おれをシャオホアの元に連れて行ってください」
おれのはっきりとした声にシュエさんは視線を動かした。おれを真正面から見据える。瞳が動き、おれの赤く腫れた目元と引き結ばれた唇を見る。
「彼女はたぶんイェンモアのところにいる。そしてイェンモアはあの建物の最上階にいる。長い廊下を通った先にある大きな部屋の中に」
「全て思い出し、その上で覚悟を決めたんだね?」
「はい」
シュエさんは困ったように眉を下げ、それからおれに背を向けた。
「あの日と同じように案内してあげよう」
そう言って、彼は城に向かって歩き始めた。おれはその後ろ姿を追いかける。横に並んでしばらく黙っていた。聞きたいことは山ほどあったがどれから聞くべきなのか考える時間が必要だった。
「シュエさんと母は知り合いだったんですか?」
「あぁ。といっても彼女が生きているときのことは何も知らない。知っているのは彼女が死んでからのことだけさ」
「おれをここに連れてきたのは母に頼まれてですか?」
「その通り」
口を開けて、また閉じる。なんとなく、唇を湿した。
「母に頼まれて、あなたは人間の姿でおれのもとを訪れていたんですか? つまり、店でおれを買っていた?」
シュエさんは一瞬目を泳がせた。それから気まずそうに頬をかく。
「それは君のお母さんからの頼みではないよ。私情が半分、それからイェンモアからの命令が半分だ」
おれは黙っていた。話の続きを待つ。彼の横顔が動いておれを見る。しかしそれはすぐに前を向いてしまった。
「まず第一に、根ノ国にまだ生きている人間がきて、何事もなかったように元の世界に戻るということは稀なことなんだ。言っていることはわかるかな? 君のことだよ。君は高熱を出し死にかけ、ここへやってきた。だがそこに君のお母さんが来て、自分の命と引き換えに君を元いた世界に戻したんだ」
「はい。それがここでは稀なことなんですね」
「あぁ。前例がないと言っても過言ではない。だからイェンモアも君のことを気にしていたんだ。一度ここに来た人間はいろいろと見えるようになってしまっている可能性がある。他の人がシャオホアを見ることができなかったのに君だけは見ることができた。君だけは触れることができた。そんな風にね。だから僕は君の監視役として君のそばにいたんだよ」
「……だからってわざわざおれを買う必要ってあったんですか?」
「それは……まぁ、良い客として君に気に入ってもらえれば監視もしやすくなるだろう?」
途端に歯切れの悪くなったシュエさんに鼻を鳴らした。そういうことにしておこう。
気を逸らすように彼は咳払いをした。それで、と言葉を続ける。
「そしてもう一つの私情の方だけど、聞くかい?」
「聞きたいです。もっとあなたのことを知りたい。あなたの思惑通り、あなたのことを好いていましたから」
「メイリンくん……」
「客としてですよ」
「わかってる。もちろんだよ。それで、えぇっと、そう、私情だったね」
ほんの少しだけシュエさんの歩く速さがゆっくりになった。それに合わせておれも歩幅を緩める。城はもうそこまで迫っていた。赤い橋がすぐそばにある。
「僕と君のお母さんはよく似ているんだ」
「似ている?」
「そう。もちろん顔とか性格とかではなく、置かれた環境のようなものが」
橋を渡る。静かなせせらぎと共に川が流れていた。この水はどこへ続いているんだろう。
「僕には弟がいた。三つ歳の離れた弟だ。可愛い弟だった。だがある日、病にかかった。僕が十歳、あの子が七歳のときだった。幼いあの子は病に勝てるだけの強さはなかった。それに僕たちの家は貧乏だったから、ろくに医者にもかかれなかったし薬も買えなかった。日に日に弱っていく弟を見るのは本当に辛いことだったよ」
橋を渡り切ると城の門がおれたちを歓迎するように開いた。十年前にここに来たときと中の様子は何も変わっていなかった。等間隔に行灯が灯っているだけの大きな広間。人の気配はなく、恐ろしいほどに静まり返っている。シュエさんの穏やかな声が響き、反響する。おれたちはあの日と同じように長い階段を登り始めた。
「赤く色づき、まるまるとした頬は瞬く間に痩せこけ、よく動く大きな瞳は閉じられ、唇は乾き切って細い息しかこぼさない。時たま何かを言ったと思ったら、それは苦しげなうめきに変わってしまう。もうどうすることもできなかった。弟は確実に死に向かっていった」
シュエさんの話を聞きながら、おれは母のことを思い出していた。布団の上で息絶えていた母はかつての美しさを失っていた。シュエさんの弟と同じように。死んだ母の姿はどこまでも惨めだった。
「両親は毎日泣いていた。でも僕は諦められなかったんだ。どうにかして弟を救いたかった。この命を投げ打ってでも、弟を生かしたかった」
おれは顔を上げ、前を歩くシュエさんの背中を見た。彼の言葉が母の言葉と重なった。
「あなたを死なせるくらいだったら私が代わりに死んでしまいたい」
シュエさんがちらりとこちらを振り返る。優しく微笑み小さく頷いた。
「君のお母さんの言葉かな?」
おれは何も言わない。母のことはたぶんシュエさんの方がよく知っているはずだ。
彼は再び前を向くと息を吸った。
「ある日、僕は山の中にいた。弟に栄養のあるものを食べさせたくて食材を探しに行ったんだ。けれど山道は前日の雨でぬかるんでいて、僕は足を滑らせてしまった。その先は運悪く崖で滑り落ち続け、頭をどこかに強くぶつけてしまった。そして気づくとここにいたんだ。山の中の誰にも見つけてもらえないようなところで僕は死んでしまった」
想像する。まだ十歳の彼が泥だらけのまま崖下で死んでいる姿を。そんなもの想像したくなかったのに、それはおれの瞼の裏にくっきりと映る。頭から血を流していたのだろうか。骨は折れていたのだろうか。死んだ後、彼の肉体は野生動物に食い散らかされてしまったのだろうか。誰にも見つけてもらえず、たった一人で彼は。
「僕のすぐ後に弟が根ノ国に来た。彼もまた死んでしまったんだ。それを知ったときの絶望は言葉にできないほどだった。もし僕が山で何か栄養のあるものを取ってきていたらあの子は死ななかったかもしれない」
「それは、違います。あなたにはどうすることもできなかったことのはずです」
「……そうだね。けれどそのときの僕はそう思えなかった。弟は転生を許され、全ての記憶を消して現世に戻っていった。どこかの女の腹の中に宿り、新たな生を得たはずだ。僕はそれを見ていた」
シュエさんはそこで言葉を区切り、深い息を吐いた。過去を思い出すように天井を見上げ、それから咳払いをする。
「本来ならば僕も弟と同じように全てを忘れてまた赤子から人生を始めるはずだった。だがそれは許されなかった。というより、できなかった。僕自身の後悔の念があまりにも強かったからだ」
弟の死を防げたのではないか。自分が死ななければ弟を救えたのではないか。ある程度大人になれば諦めのついたことが、十歳の彼にはできなかった。自分のせいで弟が死んだのだと思い込み、激しく悔やんだ。その後悔は消すことができないほど彼の魂に染み込んでしまっていた。
「だから転生は許されず、地獄に行くこともできず、僕はずっとここにいる。イェンモアの監視の下、彼に仕え続けている。そんなときに君たち親子が来た。君のお母さんは自分の命と引き換えに君を生かした。僕がしたくてもできなかったことをやってみせたんだ。僕の目の前で」
最上階へ辿り着く。先が見えないほど長い廊下の始まりに立つ。隣に並んだシュエさんはおれと目を合わせた。
「こんなことを言うと気持ち悪いと思われてしまうかもしれないけれど、君は僕にとってあのとき救えなかった弟なんだよ」
喉の奥が引き絞られるような感覚があった。止まったはずの涙がまた溢れようとする。だがおれはそれを必死で止めた。今は泣くべきときではない。シュエさんはおれの肩に手を乗せた。
「だからこそ、君には幸せになってほしい。シャオホアと共にここを出て、自由になるんだ。それを止めることは誰にもできない。君に強い意志さえあれば」
おれは深く頷いた。シュエさんの言葉を心に刻み込む。彼は一瞬だけ躊躇うようなそぶりを見せ、おれを抱きしめた。
「愛しているよ、メイリンくん」
シュエさんの背中に両手を回して抱きしめ返す。目を閉じ、深呼吸を繰り返した。
「ありがとう、シュエさん」
ゆっくりと体を離す。シュエさんは目元を拭い、廊下の先を指差した。
「さぁ、行くんだ。あの先にイェンモアとシャオホアがいる。急がなければ彼女は地獄に行ってしまう」
「はい」
「メイリンくん」
シュエさんを見上げる。
「何が追ってきたとしても足を止めてはいけないよ。君はここを出るのだという覚悟を示さなければならない。少しでも足を止めたり、後ろを振り返るようなそぶりを見せたらたちまちに君は飲み込まれてしまう」
「いったい何に飲み込まれてしまうんですか?」
「死だ。死が君を飲み込む」
どこまでも簡潔な言葉だと思った。おれは拳を握りしめ、シュエさんの前に出た。彼に背を向けて歩き出す。最初はゆっくり。やがて速くなる。そしてついに、走った。薄暗い廊下に落ちる外の光がおれの体を照らしては消える。いくつもの光を抜け、やがて黒い扉が見えてきた。おれは上半身をわずかにかがめ、全身に力を込めた。そうしてそのまま重い扉を突き破る。
「シャオホア!」
張り上げた声が部屋の中に響き渡った。
部屋の真ん中でシャオホアはぬかづいていた。その正面にはイェンモアが座っている。根ノ国の王だ。彼はおれがここに来ることをわかっていたかのように眉ひとつ動かさなかった。
「メイリン……?」
シャオホアは弾けるように顔を上げ、おれを見た。両目は大きく見開かれ、どうして、と唇が言葉を形づくる。
「君が言ったんだろ、助けてって」
シャオホアの元に駆け寄り、彼女の体に触れる。シャオホアは大粒の涙を流しながらおれに抱きついた。それを受け止め、改めてイェンモアを見据える。
「おれはシャオホアと共にここを出ていく。そして彼女を生き返らせる」
腕の中でシャオホアが身動きをした。こちらを見る気配があったが、おれはイェンモアから目を逸らさなかった。シュエさんの言う通り、おれは覚悟を示さなければいけない。
「墓を掘り返すということか」
イェンモアが口を開いた。腹の底を震わすような声だった。決して怒鳴っているわけではない。それなのに身がすくむような迫力があった。だがおれは背筋をまっすぐに伸ばしてキッパリと頷いた。
「それがどれほどの罪かをわかっているのか?」
「あぁ。わかっている。たとえ地獄に行くことになったとしても構わない」
それがおれなりの愛し方だった。それがおれの覚悟だった。
「よろしい。それならばその覚悟、私にも示してもらおう」
イェンモアは右手に握っていた笏を左の手のひらに一度叩きつけた。その瞬間、凄まじい轟音がして彼の背後から巨大な白いねずみが現れた。シャオホアが悲鳴をあげ、おれにしがみつく。
「……シュエさん」
ねずみはこちらの様子を伺うようにジリジリとおれたちに迫ってくる。
「逃げてみせよ」
イェンモアは短く言い放つ。おれはシャオホアの手を強く握り、ねずみを睨みつけた。どうやって逃げる? 来た道を引き返すか? だがあの長い階段を走りながら降りられるとは思えない。少しでもこけてしまったら瞬く間に追いつかれてしまうだろう。
素早く周囲を見渡し、おれはバルコニーを見た。あそこから根ノ国の門が見える。
「シャオホア。絶対にはぐれないで」
「ど、どうするの?」
「大丈夫。おれを信じてくれ」
おれとねずみが動いたのはほとんど同時だった。おれはシャオホアの手を握ったまま横へ走る。大きな窓ガラスに向かって体をぶつけ、突き破った。ねずみは甲高く鳴くと、おれの後を追いかけた。
「メイリン、まさか!」
「あぁ、そのまさかだ!」
走り出した勢いのまま、おれはバルコニーの柵を軽やかに飛び越えた。体が宙に投げ出される。シャオホアの手を引き寄せ抱えると、おれたちは真っ逆さまに地面へ吸い寄せられていった。風が、着ていた羽織を激しくはためかせる。シャオホアの長い髪が顔に当たり、必死にしがみつく彼女の悲鳴が耳元で聞こえる。ぐるぐると世界が回っていた。遠くに見える門だけをしっかりと視界の端に残しておく。着地したらあそこに向かって走らなければいけない。
「メイリン! 死んじゃう!」
「君は死んでておれも死にかけだ! だから死なない!」
悲鳴の隙間を縫って声を張り上げる。そう、落下の衝撃で死ぬはずはない。賭けではあったがおれはそのことをほとんど確信していた。もう死んでいるから死ぬことはない。
ぐるりと体が回転する。白いねずみがおれたちを追って飛び降りたのが見えた。巨体がみるみる迫ってくる。地面まであと少し。シャオホアを抱きしめる腕に力を込めた。
着地の仕方は考えていなかった。足から落ちるか、あるいは背中から落ちるか。衝撃を流すには背中からのほうがいい。だが立ち上がって走るまでに時間がかかる。それならば、足で着地しよう。空中で体勢を整え、両足を地面に向けた。膝を少しだけ曲げる。シャオホアを抱えたままおれの両足は地面を踏み締めた。普通ならば感じるはずの痛みや衝撃はどこにもなかった。軽く跳んで着地したような感覚だった。
シャオホアを下ろし、おれたちはまた走り出す。数歩走ったときに背後でどすんっという鈍い音がした。見なくてもわかる。ねずみだ。あいつがすぐそこにいるんだ。
「止まるな、シャオホア!」
「うん!」
振り返ってはいけない。走る足を緩めてもいけない。おれたちはただ前だけ見つめて走り続けなくてはいけない。シャオホアがちゃんとついて来ているか確かめる暇もなかった。繋いだ手だけが頼りだった。
無我夢中で足を動かしながら思う。シャオホアと花柳で再会したときも、こうやって走った。あのときと同じようにおれたちは巨大なねずみに追われて、花柳によく似た街を走っている。あのときは何もわからなかった。シャオホアのことも、ねずみの正体も、どこへ向かうべきなのかも。だが今は違う。今は全てわかっている。目指すべき場所をおれは知っている。
根ノ国の門が見えてきた。ねずみの息遣いがすぐ後ろで聞こえる。足がちぎれるくらいの勢いで走った。言葉にならない叫び声を上げ、おれは、おれたちは門をくぐり抜けた。
目を開ける。後頭部がズキズキと痛み、体全体が鉛のように重たかった。うめきながら身を起こす。そこは牡丹の裏庭にある蔵の中だった。
「なんで……」
思わず声がこぼれていた。さっきまでおれは根ノ国にいたはずだ。シャオホアと一緒にねずみから逃げ、門をくぐった。右手にはシャオホアの手の感触が残っていた。夢とは思えない。たぶんあれは現実に起こったことだ。死にかけたおれの魂が根ノ国に行き、シャオホアと共に帰ってきた。そして蔵の中に残されたおれの肉体に入ったのだ。
「シャオホア」
ならばシャオホアは? あの子はいったいどこにいる?
手をついて立ち上がる。おれにはまだやるべきことが残っていた。彼女の墓を掘り起こさなければいけない。そうしなければ彼女の魂は行く当てもなく彷徨い続けてしまうことになる。ふらつく足でおれは蔵を出た。裏口から牡丹に入り、二階へ続く階段を登る。そうしているうちに頭がはっきりとしてきた。まず何をするべきかが見えてくる。
「メイリン? 早いのね」
部屋の襖を開けると、ちょうど目覚めたらしいリーシャが布団の上で伸びをしているところだった。あくびをしながらおれを見て、ぎょっとしたように目を見開く。
「ちょっと、どうしたのその格好! ボロボロじゃない!」
言われて、おれは自分の体を見下ろした。埃にまみれた蔵の中で転がっていたせいで確かに羽織は汚れていた。その上ねずみに吹っ飛ばされたおかげで顔にいくつか切り傷ができていた。
「いろいろあって」
「いろいろって、絶対そんな言葉で片づけちゃダメでしょ」
訝しそうにこちらを見るリーシャに曖昧に笑いかけながら、おれは部屋の隅にある洋服箪笥を開けた。そこにはおれの服や小物が入っていて、奥の方に手を突っ込むと金がぎっしり詰まった布袋があった。引っ張り出し、中身を大雑把に二つにわける。一つは朱色の元の袋の中に、もう一つは使っていなかった濃紺の袋の中に。
「リーシャ」
おれは朱色の袋をリーシャに渡した。
「なにこれ。お金?」
「おれはここを出ていく。だからそれを君にあげるよ。その金を足しにして家族に会いに行ってくれ」
リーシャは袋を受け取り、呆気に取られたようにおれの顔を袋を見比べた。半分にわけたとはいえ、そこそこの金が入っているはずだ。おれが牡丹で働き始めてからちまちまと貯め続けていた金だった。使う機会のないまま今日まできた。まさか役に立つ日がくるなんて。
「出ていくって、なんでそんな急に。だいたいこんな大金、簡単に受け取れるわけが」
「頼むよ、リーシャ。何も言わず受け取ってくれ。君がまた家族に会えるのならおれはそれで十分だから」
リーシャはゆっくりと口を閉じ、首を横に振った。袋を置き、立ち上がる。そしておれを優しく抱き寄せた。
「ありがとう、メイリン。アンタのことは忘れないよ」
「うん。おれも忘れない。リーシャ」
励ますようにぽんぽんと軽く背中を叩かれる。小さく、あたたかい手だった。
「それじゃあ、またね」
そっと体を離し、おれは言った。
リーシャは寂しそうに微笑んだあと「またね」と晴れやかな声で言った。
階段を降りる。最後にもう一度リーシャを振り返り、手を振った。またいつか会える日がきますように。そしてそのときは、今日何があったのかを話してあげよう。
「女将」
女将は帳場に座っていた。何やら書き物をしていたらしく、持っていた筆を置いて顔を上げる。
「この金でおれにここを出る許可証を書いてください」
帳場の上に濃紺の袋を置いた。がしゃり、と重たい音を立てる。女将はしばらくおれの顔をじっと見ていた。おれの言葉の意味を理解し、それが冗談ではないことに気づく。
「もう、戻ってくることはないんだね?」
「うん。二度とない」
「……ならこの金は返すよ。こんなのがなくたって許可証くらい書ける」
女将は袋を掴むと乱雑におれに投げた。慌ててそれを受け取り、おれは女将を見た。
「でも、」
「でももへちまもない。働き手はまたすぐ見つければいいだけの話だ」
それ以上女将に何を言っても無駄なのだろう。おれは口を閉じ、深く頭を下げた。女将はそんなおれを見て鼻を鳴らすと、紙に向かって筆を走らせ、完成した許可証をおれに押しつけた。
「ほら、持っていきな」
「本当にありがとう」
「せいぜい外の世界で野垂れ死なないことだね」
「はい。お世話になりました」
もう一度頭を下げ、おれは外へ出た。朝の花柳は夜までとは言わないもののそれなりに人のざわめきがあった。根ノ国とは大違いだ。あそこは本当に静かで、人の気配というものがまるでなかった。あるのは審判を待つ魂の気配だけ。朝の光に照らされながら、おれはまっすぐに正門を目指した。どこへ行くかはわかっていた。見張りの人に許可証を見せると閉ざされた門はあっけなく開いた。どこまでも続く外の世界に一瞬だけ足がすくむ。そのとき、不意に風が吹き、ハッとするほど鮮やかな桃のかおりを運んできた。そのかおりを吸い込み、羽織を着直す。導かれるようにしておれは足を踏み出した。
墓地は静まり返っていた。根ノ国と同じ静けさだ。墓参りをしている人間は見渡す限りいない。そのことに安堵しながらおれはシャオホアの墓を探し始めた。
墓は無数にあったから、探し出すのに時間がかかると思ったが、墓地の中に一際大きな墓があった。吸い寄せられるように向かうと墓石にはシャオホアの名が刻まれていた。それを見つけた瞬間、おれはしばらくその場に立ち尽くしていた。シャオホアが死んでいることは本人から聞いていた。だが、実際に彼女が死んでいるのだという事実を見せつけられるとなぜだか上手く息ができなくなった。この土の下に、痩せ細ったシャオホアの遺体があるのだ。おれの母と同じように、冷たくなった体が横たわっているのだ。目眩のようなものがあって、おれは咄嗟に目を閉じた。右の手のひらに、強く握ったあの子の手の感触がある。大丈夫。何も恐れることはない。
「シャオホア、もうすぐ会えるよ」
おれは覚悟を決め、土を掘り返し始めた。瞬く間に指先が黒くなり、額から汗が滲み出てきた。棺桶が見えてくるころには全身がぐっしょりと汗で濡れ、体は火照っていた。袖で汗を拭い、棺桶の蓋に手をかける。おれは渾身の力で蓋を開けた。
中には一人の少女が眠っていた。少女の周りにはぎっしりと桃の花が詰められ、むせかえるほどの濃密なかおりが漂った。
「……シャオホア」
震える声で彼女の名を呼ぶ。少女はその呼び声が聞こえたかのようにパチリと目を開いた。清々しい朝を迎えたような、自然な軽さで上半身を起こす。
「メイリン」
鈴のように美しい声がおれの名前を呼んだ。両目から涙が溢れた。たまらず、彼女の体を強く抱きしめる。あたたかい。確かなぬくもりがあった。
「もう、泣きすぎだよ」
シャオホアの両手が背中に回る。優しく優しく抱きしめ返される。涙は止まらなかった。彼女の肩に顔をうずめ、泣き続ける。どうしてこんなにも涙が出るのか自分にもよくわからなかった。
「ねぇ、メイリン。あたし、あなたの名前が知りたいの。牡丹で働くあなたじゃなく、あなた自身につけられた名前が」
シャオホアの手が深い愛情を持っておれの頭を撫でた。うなじを手のひらで包み、親指の腹で首筋を撫でる。おれは鼻を啜りながら呼吸を整えた。抱擁をほどき、シャオホアを真正面から見つめる。彼女もまた、静かに涙を流していた。
「おれも、きみに知ってもらいたい。おれの名を」
おれは手を伸ばし、シャオホアの頬に触れた。つるりとした丸い頬を優しく包み込む。
「シァミン。おれはシァミンっていうんだ」
もうずっと長く口にしてこなかった名前。夜明けと共に生まれたおれにつけられた名前。この名をシャオホアに知っていてほしかった。彼女の声で呼んでほしかった。
「シァミン。素敵な名前。あなたにぴったりね」
「もっと、呼んで」
「シァミン。ふふっ。シァミン、ありがとう。あたしを助けてくれて。本当にありがとう」
そっと顔が近づき、唇が重なった。彼女のまつ毛で光る涙の粒がよく見える。桃の花の良いかおりが全身を包み込んだ。
「愛してるわ。シァミン」
その声は甘く、おれの心を強く揺さぶる。息を吐き、深く吸い込み、おれは笑った。
「おれもだ、シャオホア。愛してる」
了