
22歳フリーターレズビアン、「普通」について考える
先月、兄が恋人にプロポーズをした。
元々結婚を前提にお付き合いをしていたらしいし、同棲もしていたから返事はもちろん「イエス」。来年に結婚式をする予定だという。
両親はもうすぐある両家顔合わせに向けて色々と慌ただしくしている。
プロポーズの報告を受けたとき、両親は喜んだ。
兄はわたしたち三兄妹(兄二人、わたし)の中で恋人や結婚といったものとは無縁な人だった。だからこそ余計に喜んだのだと思う。
その日のうちに祖父母にも報告した。たまたま居合わせた叔母も喜んでいた。みんな、喜んでいた。祝福していた。
「これで安心やね」と叔母が言った。母は頷いた。
無事に結婚式が終われば、兄は新たな家族を持つ。そうしてようやく母は子育ての全てを終えたと言えるのかもしれない。
「次は誰やろなぁ」と言ったのは、祖父だったか、祖母だったか。あるいは両親か。
もう一人の兄にも恋人がいて、結婚も考えているらしい。順当にいけば次は彼だ。わたしではない。わたしには恋人がいるが、わたしたちは結婚ができない。
わたしは女性で、相手も女性だから。
わたしは、レズビアンだから。
レズビアンとは、簡単に言ってしまえば「女性に恋愛感情を持つ女性」のことだ。LGBTQという言葉を一度は耳にしたことがあると思うが、その中の「L」がレズビアンである。
女子校に通っていたわたしはそこで親友に出会い、親友を好きになった。親友が他の誰かと親しげに喋っていると嫉妬したし、ずっとそばにいたいと思った。だが、当時のわたしはそのことを親友に告げることもなく高校を卒業した。
今もまだその子とは交流を続けていて、自分がレズビアンであることは言ったし、恋人ができたことも報告した。でも、昔あなたのことが好きだった、とは言っていない。言う必要もない。その子への恋愛感情はいつの間にかなくなっていたから。
高校生のわたしは自分が本当に女性を好きになれるのか、半信半疑だった。ネットで調べても、それは思春期特有のものだ、とばかり出てくる。
たしかになぁ、と思った。
周りには女子しかいないし、今まで男性の恋人を作ったことがない。そんなときにそばにいた仲の良い親友に対して恋愛感情に似た何かを抱くのは不思議ではない。これはわたしの勘違いかもしれない。そう思って、結局わたしは自分のセクシュアリティを「バイセクシュアル」と仮定した。
バイセクシュアルとは、男性と女性、どちらの性別に対しても恋愛感情を持つことを指す。
たとえ勘違いだったとしても、女性に対して「(恋愛的に)好きだ」と思ったのは事実だったから。
それから数年が経った大学2年生のころ。
当時、劇団四季にどハマりしていたわたしは、観劇記録を残すために作ったツイッターのアカウントで一人の女性と知り合った。同い年の彼女も劇団四季が好きで、最初はごくごく普通の交流から始まった。
それから親しくなり、一緒に観劇に行くようになり、彼女が過去に女性と付き合っていたことを知った。
出会ったときはただの仲の良い趣味友だちだったのに、そうして会って話していくうちにわたしは彼女のことが好きになっていた。
自分があんなにも激しく誰かを好きになれるなんて、知らなかった。
この恋が叶うはずなんてないと思っていたわたしはよくある女子同士のノリで「大好き」と言いまくっていた。女性として好きだったし、一人の人としても好きだった。
そしてある日、わたしは彼女に告白された。
恋は叶ったのである。
驚きだ。本当に驚いた。
まさかわたしを好きになってくれる人がこの世に存在するなんて。
それからの日々は楽しかった。二人でいろんなところに行った。
同じ熱量で劇団四季について語れるのが嬉しかったし、観劇もたくさんした。ザ・王道なデート場所にも行った。将来は一緒に暮らそうね、なんて話していた。
しかし結局、わたしは彼女と別れた。
倦怠期、だったのかもしれない。
そこにいることに慣れてしまって、付き合ったばかりのときに抱いていた熱はどこかに消えてしまっていた。本当に彼女がわたしのことを好きなのかがわからなくて、不安になった。でも自分の気持ちを言葉にすることが苦手なわたしは話し合いもできず、別れた。
別れるとき、「私に恋愛は向いていない」「これからは友だちとしてよろしくね」と言われた。
わたしはまだ彼女のことが好きだったけどそう言われてしまったら頷くしかなかった。友だちとして仲良くできるならそれでよかった。
それからしばらくは気まずさもあり連絡を控えていたが、一度だけ彼女を観劇に誘った。友だちとして。
彼女といるのはすごく楽しかった。やっぱりわたしは彼女が好きだった。だから、復縁を願った。結果は「ごめんなさい」。予想はしていた。あまりショックはなかった。むしろ、これですっぱり忘れられると思った。諦められると。
だが、折に触れて思い出す。
この演目を観に行ったな、とか、ここでご飯を食べたな、とか。
その度に苦しくなる。いつかは忘れられるのだろうか? 良い思い出として苦しまずに思い出せる日がくるのだろうか。
初めての恋人だった。初めて誰かをあんなに好きになった。
彼女と付き合えたおかげで、わたしは自分がレズビアンなのだとわかった。わたしは女性が好きだ。これは勘違いでもなんでもない。
わたしは紛れもなくレズビアンである。
兄の婚約を聞き、喜ぶ両親を見ていると申し訳ない気持ちがあることに気がついた。
わたしは母に、父に、自分が産んだ子どもを抱かせることができない。
孫の顔を見せ、安心させることができない。
両親が得られるはずだった一般的な幸せを、わたしは彼らに与えることができない。
二人の思い描く老後に娘とその夫が現れることはない。娘が産んだ可愛い孫が現れることもない。
二人ともそんな未来が待っているなんてこれっぽっちも考えていないはずだ。娘には男性の恋人ができて、男性と結婚するのだと信じて疑っていないはずだ。
一度だけ、会話の流れで同性愛について両親と語る機会があった。そのときのわたしはまだ自分がレズビアンであるという確証が持てていなかった。
母と父は口を揃えて言った。
「そういう人がいることは理解してるけど、受け入れることはできない」
改めて聞くと、なんとまぁ残酷な言葉だろうか。
もし当時のわたしに女性の恋人がいたら、頭が真っ白になっていたに違いない。それは親からの拒絶だった。お前の存在は受け入れられないと面と向かって言われたのだから。
しかし仕方のない部分もある。
両親の世代がそう考えるのは、仕方ない。そういう時代だった。
セクシャルマイノリティについての理解は今よりも乏しく、両親の周りにはそういった人たちはいなかったのだろう。いや、いたはずだ。ただ、堂々とカミングアウトできなかっただけで。
その言葉を聞いたのもあって、わたしは両親にカミングアウトはしないと決めた。関係がギクシャクするのが嫌だった。それならば、異性愛者として振る舞って、娘は望んで結婚しないのだと思ってもらえた方がいい。
本当は、結婚したくてもできないんだけどね。
わたしは「普通」というレールからことごとく外れている。
小さいころはみんなと一緒じゃないと不安で、泣いてしまっていたのに。それなのに、気づいたら就職せずフリーターになっていた。気づいたらレズビアンになっていた。
たまに、異性愛者が羨ましく思うことがある。
もしわたしが男性を好きになれていたら、結婚できていたら、両親を安心させてあげられただろうし、フリーターだったとしても夫の稼ぎをあてにできる(改めて文字にするとなんとも無責任な考え方である)。
しかしわたしはレズビアンだ。
異性を好きになることはない。
だから諦める。
世間一般で言う「普通」を。
「普通」な暮らし、「普通」な考え方。
「普通」な結婚。
将来には不安ばかりだ。正社員になれるかも怪しい。
いつの間にかみんなとは別の場所に立っている。別のレールを歩いている。
わたしは、いったいどこに「普通」を落としてきてしまったのだろうか。