
物語編:座敷の子
1 古い家の座敷
この家には、座敷の子に“言われたことだけはしてはいけない”という古い言い伝えがある。
最初にそれを聞いたのは、引っ越しの前日だった。
不動産屋が雑談のように言っただけで、誰も本気にしなかった。
父の転勤で、私たちは山間の集落にある古い家へ移った。
築七十年。木造。座敷のある家は初めてだった。
家に入った瞬間、座敷の空気だけが異様に冷たかった。
畳は新しいのに、部屋の奥だけが薄暗く、影が沈んでいるように見えた。
母は「古い家だからね」と笑ったが、私はその影が“誰かの形”をしているように思えてならなかった。
2 夜の足音
引っ越して二日目の夜。
廊下を歩く小さな足音で目が覚めた。
家族は全員寝ているはずだ。
足音は座敷の前で止まり、しばらく動かなかった。
私は布団の中で息を潜めた。
三日目の夜。
また足音がした。
今度は座敷の障子が、すっと開く音がした。
廊下を覗くと、座敷の中に小さな影が立っていた。
白い着物。
顔は見えない。
ただ、こちらを見ている気配だけが濃かった。
翌朝、座敷の畳に小さな足跡が残っていた。
裸足の跡。
家族の誰のものでもなかった。
3 “座敷の子”の言い伝え
集落の古老に挨拶へ行ったとき、私は座敷の話をした。
古老は急に表情を曇らせた。
「その家には“座敷の子”が出る。座敷わらしのようなもんだが、少し違う」
「違うって、どういう意味ですか」
古老は声を潜めた。
「あれが言った通りに動いた人間が、あれに近づいていくんだ」
「近づく?」
「従うな。従ったら“入れ替わる”」
私は笑えなかった。
あの影が、何かを言いそうな気がしたからだ。
4 最初の指示
その夜、座敷の前に立つ影を見た。
白い着物の子ども。
今度ははっきりと顔が見えた。
無表情。
だが、目だけが異様に黒かった。
「ここに座って」
小さな声だった。
私は逃げようとしたが、足が動かなかった。
気づけば、座敷の中央に座っていた。
翌朝、家族の様子が少し変わった。
私に話しかける声が、どこか遠い。
まるで私が“薄くなった”みたいだった。
5 二つ目の指示
その夜も、座敷の子は現れた。
「押し入れに入って」
拒否しようとしたが、声が出なかった。
気づけば押し入れの中に座っていた。
暗闇の中で、誰かの呼吸がすぐ横で聞こえた。
翌朝、家族は私の名前を呼ばなかった。
母は「あなた」としか言わず、父は私を見ても一瞬誰かわからないような顔をした。
私は確信した。
座敷の子の言う通りに動くたびに、私は“家の中の私”を失っている。
6 最後の指示
三日目の夜。
座敷の子は押し入れの前に立っていた。
「最後は、ここに入れ替わって」
押し入れの奥を指さした。
暗闇の中に、私と同じ顔をした“何か”が座っていた。
目だけが異様に黒く、笑っていた。
私は逃げようとしたが、足が動かなかった。
座敷の子が近づく。
私の顔を覗き込み、口だけで言った。
「もう半分、こっちに来てるよ」
その瞬間、押し入れの奥の“私”が立ち上がった。
7 座敷に残ったもの
翌朝、家族はいつも通りに私に話しかけた。
「昨日はよく眠れた?」
「学校、遅れるわよ」
私は返事をした。
声は出た。
体も動く。
ただ、鏡を見ると、目の奥が少し黒くなっていた。
座敷の子と同じ色だった。
押し入れの奥には、もう何もいない。
代わりに、座敷の畳に小さな足跡が増えていた。
家の中で、私の足音が一つ増えた気がする。