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舌がん患者が葉巻を吸う⁈ーー三代続いた『64歳の壁』と舌がんの5年間

    tender_moose794


    病院にはときどき、こちらの教科書を少しだけ書き換えていく患者がいる。

    あの人も、そういう患者だった。

    浅草生まれのカメラマン。

    痩せた指に煙草がよく似合い、どこか昭和の映画に出てきそうな雰囲気があった。

    舌がんで初めて会った時から、少々ややこしかった。

    納得できないことは、そのまま飲み込まない。

    看護師とも揉める。

    受付とも揉める。

    こちらが説明しても、自分なりの理屈で何度でも問い返してくる。

    そのたびに、こちらも対応に追われた。

    正直、しんどかった。

    でも、不思議と嫌いにはならなかった。

    頭のいい人だった。

    ただ文句が多いのではなく、

    自分の人生のことは、自分で納得して決めたい。

    そんな頑固さがあったのだと思う。

    病状説明には、いつも年の離れた恋人が付き添っていた。

    彼女は隣で静かに話を聞いていた。

    最初の手術をした。

    その後、首のリンパ節に転移が見つかり、もう一度手術をした。

    彼には、ずっと気にしている年齢があった。

    親子三代、64歳で亡くなっているという。

    だから63歳頃の彼は、ときどき、

    「どうせ俺も64で死ぬからね」

    と、冗談のように口にした。

    冗談にしては、少し重かった。

    でも、64歳を越えた。

    そして術後5年。

    再発も転移もなく経過した。

    その日の診察で、

    「特に希望がなければ、定期診察は、いったん卒業ですね」

    と伝えた。

    すると彼は、

    「いやあ、あんまり気にしてなかったよ」

    と笑った。

    嘘つけ。

    CTを撮るたび、あれだけ結果を気にしていたではないか。

    さらに彼は、ニヤリとして言った。

    「次に再発したら、もう手術はしないよ」

    そして、

    「その時は葉巻吸うからな」

    いつもの私なら、

    「それはやめときましょう」

    と言うところである。

    でも、その日はなぜか、その葉巻が妙に似合う気がした。吸わせてあげたいと思った。

    ここまで5年間、十分頑張った。

    そんな気持ちも少しあった。

    だから私は、

    「せっかくだから長生きしてくださいよ」

    と言ってから、

    「再発したら、その時くらいは葉巻OKにしましょうか

    と返した。

    彼は声を出して笑った。

    私も笑った。

    5年間。

    手術もした。

    入院もした。

    揉め事も、ずいぶんあった。

    正直、手のかかる患者だった。

    でも今思えば、

    あの人もずっと怖かったのだと思う。

    64歳という年齢。

    再発するかもしれないという不安。

    死ぬかもしれないという現実。

    それを、あの頑固さと冗談で受け止めていたのかもしれない。

    がん治療は、患者さんにとってもしんどい。

    診る側も、ときどき疲れる。

    でも、長く付き合った最後に、

    こんなふうに一緒に笑えることがある。

    医者と患者というだけではなく、

    長い時間を一緒に越えてきた者同士として。

    その日の笑い声と、

    「その時は葉巻吸うからな」

    という言葉は、

    たぶん、これからも忘れないと思う。

     
     
     
    市中病院勤務の口腔外科医。口腔がんをはじめとする病院口腔外科診療、若手医療者の教育、病院マネジメントに携わっています。医療現場で考えたことから、サウナ、旅行、食事、時計、スポーツまで。仕事も遊びも少し斜めから考えて書きます。

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