
だから僕は道を尋ねる
現在地から直線距離で、約九千七百キロメートル。
スマホの画面の中、グーグルアースで検索したパリ、クールセル駅周辺。かつて僕が自分だけの場所だと思い込んでいた二階のテラスには今、見知らぬ青い花瓶が置かれていた。
どこにでもある、安っぽい陶器の花瓶。
たったそれだけの物体が、僕の記憶を崩していく。
もう、昔住んでいたフランスの家の構造がうまく思い出せない。
パリの記憶は、僕だけの特別なものだと思い込んでいた。でも、見知らぬ青い花瓶を見た瞬間、僕がいないあの街の日常はあっさりと更新されているのだと突きつけられた。
僕は、配送される荷物だった。
親の都合で、環境は強制的に書き換えられる。引っ越し四回、転校五回。
新しい教室の冷たい椅子の硬さに慣れる前に、僕はいつも次の行き先を予感していた。どうせこの景色も、数年後にはただの過去になる。
世界を「自分とは無関係な通過点」として処理すること。その冷めた諦念だけが、僕の身を守る唯一の処世術だった。
中でも強烈だったのは、フランスでの三年間。
パリの中心部から弾き出され、滞在三年目にして辿り着いたのは、生徒の九割以上が黒人の、少し治安の悪い公立校だった。
ジャウェッドは、その環境の中で数少ない白人だった。
色素の薄い金髪と碧眼が、清潔な黒いシャツの襟元で、場違いなほど鮮やかに発光していた。足元は、汚れ一つないアディダス。彼にはディエゴという、生まれた時からの時間を共有する幼馴染がいた。それでも、給食の自由席で僕の隣を占めるのは、いつもジャウェッドだった。僕がフランス語の濁流に溺れて口を噤むと、彼は高い鼻の先が触れそうなほど顔を近づけ、僕が理解できるまで熱心に言葉を砕いてみせた。周囲に充満する、他者の剥き出しの体臭や埃っぽさの中で、彼だけはいつも、無臭に近い静かな空気を纏っていた。その隙のない清潔さが、僕には時折、耐えがたかった。
「Gメール、交換しないか?」
別れる数日前、ジャウェッドは当たり前のように、あるいは祈るようにそう言った。僕はそれを、一秒の迷いもなく断った。
画面の中で、彼にとっての「僕」がゆっくりと風化していく過程を、既読のつかないチャット画面という形で観測する勇気なんてなかった。彼らには帰るべき地元の絆があり、僕はただの通過者に過ぎない。対等になれないのなら、せめて「謎めいた異邦人」として完璧に死にたかった。連絡先を拒むことで、僕は彼よりも高い場所に立ち、孤独を特権として死守した。
彼からメッセージが来ないか怯えながら待つ惨めな思いをするくらいなら、いっそ自分から関係を切り捨てて、『綺麗な過去』のまま凍結してしまいたかったのだ。
フランスでの最後の日。
空は青く、澄んでいた。二人で一・五リットルのコカ・コーラを回し飲みした。
少しラベルの剥がれかけた、重いプラスチックのボトル。中指で底を支え、残りの指で側面を強くホールドする。受け渡すたび、彼の手と僕の手が何度も重なり、指先から伝わる彼の熱が、僕の決意を静かに汚染していく。
キャップを外した呑み口には、彼の生々しい唾液が薄く付着し、午後の強い光を乱反射していた。
そこに、迷わず唇を押し当てる。
喉を焼く強炭酸の痛み。回し飲み特有の、他者の生温かい粘液が直接自分の粘膜に触れる、その不快なまでの甘ったるさ。それが、僕たちが共有した唯一の、そして最後の体温だった。
分かれ道。
再会の手段をすべて自ら踏み潰しておきながら。最後、僕は彼に向けて、最も安っぽく、最も美しい嘘を吐いた。
「またいつか」
彼が背を向け、雑踏の向こう側へと消えていく。その広い背中が見えなくなるまで、僕は一歩も動けなかった。
手元に残されたボトルを見る。半分以上残った液体の質量が、右腕にずっしりとのしかかっている。
最後の一口を、無理やり喉に流し込んだ。気の抜けた弱炭酸が、砂を噛むような感触で喉を撫でた。
僕は残ったコーラごと、街角にある、金属フレームにビニール袋を被せただけの簡易なゴミ箱へと、それを投げ落とした。
がさっ。
プラスチックがビニールを擦る、ひどく乾いた音。
その瞬間、僕の右腕は、驚くほど軽くなった。
積み上げてきた時間が、たった一キログラムのゴミとして片付いたことに、僕は心底、安堵していた。面倒な他者が消え、絶対に傷つかない自分だけの安全な孤独が手に入ったことに、僕はせいせいしていた。
帰国後の中学校。そこは、都内でも帰国子女が多いことで有名な、管理の行き届いた公立校だった。
ワックスで均一に磨き上げられた廊下の輝きは、フランスの石畳に染み付いたアンモニアの匂いを、暴力的なまでの清潔さで塗り潰していった。
ある朝のホームルーム。
ハンカチを忘れた。ただそれだけの事実が、担任の教師の逆鱗に触れた。
「ハンカチ持ってないのか! ふざけるな!」
至近距離で怒鳴り散らす彼の口から細かな飛沫が飛び、僕の頬に付着した。その生ぬるい湿り気を拭い去ることもできず、僕はただ立ち尽くしていた。
たかが布切れ一枚。その均質なルールのために、大人の怒号が教室に響き渡る。ジャウェッドとの本物の熱をゴミ箱に捨ててまで、僕が帰ってきた場所はここだったのか。
あまりの落差。あまりのくだらなさに、喉の奥が熱くなる。一筋の涙が、頬に付着した教師の飛沫を拾って流れ落ちた。
周りの生徒たちが、こちらを見た。
瞳に宿っていたのは同情や軽蔑ですらない。ただ無機質な観察だった。その冷ややかな視線に射抜かれた瞬間、僕は猛烈な羞恥心に襲われた。フランスの空の下で気高く関係を断ち切ったはずの僕が、たかがハンカチ一枚で泣かされている。そのみっともなさを見られたくなかった。
即座に、口角を引き上げた。
涙で濡れた頬の筋肉を、乾いた雑巾を絞るように無理やり引き絞る。
「……あ、すいません。すぐ、用意します」
へらへらと、中身のすっぽ抜けた声を教室の空気に投げ出した。
泣き濡れた目元を置き去りにして、口元だけが歪な弧を描く。自分の涙さえも、その場の空気をやり過ごすための安っぽい潤滑油として切り売りした。怒鳴り声の残響の中で響いたその異様な笑い顔に、周囲の生徒たちがサッと気味悪そうに視線を逸らす気配がした。
本物の繋がりを捨ててまで守りたかったプライドが、こんな安っぽい愛想笑いだったなんて。きっと誰の人生にも、こういう『どうしようもなく自分を嫌いになる瞬間』があるのだろう。でも、僕にとってのそれは、あまりにも救いようがなく、不格好だった。
あの日、顔に貼り付けた歪な笑い顔を剥がすタイミングを見失ったまま、僕は高校二年生になった。
熱も匂いもない教室の隅で、僕は今日も手元の小さな画面の中に逃げ込んでいる。
直線距離で、約九千七百キロメートル。
画面の中のパリのテラスには、何度検索し直しても、やはりあの見知らぬ青い花瓶が置かれたままだ。
僕が何としてでも美しいまま残しておきたかった特別な日々は、新しい住人の日常によって、いとも容易く上書きされていた。
もし今。
もし今、あの画面越しのパリの街角で、ジャウェッドとばったりすれ違ったら、僕はどうするだろうか。
あの日のように、生ぬるいコーラの重さを思い出して彼に抱きつくだろうか。
たぶん、できない。
彼の中の僕がもう消えかかっているかもしれないと思うと、足がすくむ。忘れられているという事実を突きつけられるのが、死ぬほど怖い。
だから僕は、きっと他人のふりをする。
すれ違いざま、フランス語で道を尋ねるのだ。
「駅はどこですか」
彼が足を止め、僕の顔を見る。その瞳の揺らぎを確認してからでないと、僕は「久しぶり」の一言すら言えない。
もし彼が怪訝な顔をしたら、そのまま通行人のふりをして立ち去ればいい。僕は自分が傷つかないための完璧な保険をかけなければ、かつて世界で一番大切だった友人に声をかけることすらできない。
あの日、ゴミ箱にすべてを投げ捨てたから、驚くほど軽くなったはずなのに。
へらへらと笑い続ける僕の空っぽの胸の底には、飲みきれなかった一・五リットルのコーラの重さだけが、今もどろりと沈殿し続けている。
明日も僕は、この重さを抱えたまま、学校へ行く。いつか、あの生ぬるいコーラを飲み干せる日が来るなんて嘘は、もう吐けない。ただ、道を尋ねるふりをしながら、生きていくしかないのだ。